越後屋物語

2011年11月06日 | 歴史を尋ねる

 江戸に呉服店、京都に仕入店を開業してスタートした三井越後屋は、元禄初頭にかけて商都大阪への進出を果たして、急速に経営規模を拡大していく。その原動力となったのは、三井高利とその息子たちの息のあった活動であるが、特に高利の商売に対する集中と矢継ぎ早の施策は斬新かつエネルギーに満ちていたという。高利の父、高俊はもっぱら連歌や俳諧をたしおなんだが、高利は趣味・道楽にまったく興味を示さず、ひたすら商いの道を邁進した。そして、奉公人を重視し、手代の質を見抜き、身許のはっきりした者を雇用し、経営上の意思の疎通が十分なされることに留意した。江戸店開店時の25か条の注意事項のうちいくつか挙げると、①武家屋敷などへの掛売りの禁止、もし掛売りした場合、手代の小遣いにつける。②商人売りの場合、清算日に清算できない客に得ることを禁止、取引前に客にはっきり伝える。③手代の博奕の禁止。更にまじめに精進した手代には褒美を与えた。近代的な経営感覚が生かされている。

 江戸の繁盛に伴い、仕入の京都店も、西陣織を仲買人を経由しないで直接仕入れる店を新設、織屋と呉服商の現金売買が行なわれた。こうした現金決済の取引を超えて、「先金廻し」という前金で西陣織物の買い付けを行い、次第に織屋を支配下に置く状況を作り出した。こうして三都にまたがる営業基盤を確立、その後の成長の礎を築いた。

 三井越後屋は、創業からほどなく幕府御用達を命じられることとなった。官との結びつきは越後屋の安定経営の基盤となったが、幕末の動乱期においては、大きな決断を迫られた。

 1687年、将軍綱吉の御側衆であった牧野成貞から声がかかり、御納戸呉服御用の役を引き受けることになった。御納戸とは江戸城大奥にあった部屋のひとつで、着替えや化粧の間であった。これが呉服御用達であった。それから程なく、幕府から為替の御用も引き受けることとなった。江戸奉行所より大阪御金蔵銀御為替御用を希望するものは名乗りでよとのお達しに応じたものであった。幕府の大阪御金蔵に集まった銀貨を、60日(その後90日)後に江戸の御金奉行に上納する。これまでは現金を東海道経由で運んでいたが、それを為替によって行なおうというのである。御用の両替商はその間の資金を運用できる。これが多大の利益を生むこととなった。三井の両替店は呉服店より独立し、やがて大きく成長する。1710年、大元方を設立、家制と越後屋の経営を一元化し、組織を強固なものとして、大火や内紛もあったが、江戸後期まで比較的安定していた。

 江戸末期になって争乱の様相を帯びてくる。横浜が開港し、国内織物業に大きな打撃を与えた。絹糸市場は価格が上昇し、越後屋の経営を圧迫していった。更に京都の秩序は失われ、両替商の経営も苦境に陥った。この幕末の混乱期、江戸と大坂の店は佐幕の中心地、京都は勤王の真っ只中、越後屋の立場は微妙であった。しかし両陣営の中枢に通じていたことは、戦いの趨勢を推し量る上で幸いした。勘定奉行・小栗上野介忠順の下で奉公した経験がある三野村利左衛門を抜擢して、幕府から要請のある御用金の減免交渉に当たらせると同時に、薩摩藩家老小松帯刀、西郷隆盛が京の三井家を訪ねて資金調達の密談を行なった。王政復古の大号令が出された12月、新政府は金穀出納所を設け、三井・小野・島田の豪商に御用達を命じた。三井は率先して1000両を献納、鳥羽伏見の戦いが起こり、三井・小野・島田は共同で1万両を献納した。幕末の三井は三野村の手で幕府と接触しながら、一方で総領家は勤王派と緊密に連絡をとり、鳥羽伏見の戦いを契機に官軍の資金面を援助し、明治新政府についた経緯がうかがえる。


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