日本初の民間銀行

2011年11月14日 | 歴史を尋ねる

 明治に入って、江戸は東京に改称、鉄道の敷設や郵便の実施など西洋文明を積極的に取り入れ文明開花が花開いた。幕府の金融関係を一手に請け負っていた三井御用所は、新政府においても「三井御用所」(御為替方御用所)としてその役割を引き受けた。明治政府は金融面で取り組んだのが貨幣制度改革であった。明治4年新貨条例を公布、新貨の鋳造に着手した。新貨の鋳造は同時に旧貨幣の回収をしなくてはならない。貨幣改革を担当していた大蔵省の井上馨や渋沢栄一と親しくしていた三野村利左衛門の働きにより、為替方として肩を並べていた小野・島田両組を出し抜いて、単独で新旧貨幣の交換業務を受け負う。同年、「為換座三井組」を設立し、東京・大阪・京都・横浜・神戸・函館で1両1円とする交換業務を始めた。しかし造幣局の造幣能力も限界に達しており、三井は大蔵省に兌換証券(正貨が支払われることを約した一時的紙幣)の発行を要請、井上・渋沢の了解を取って、為換座三井組の名義で「三井札」が発行された。

 三井組は明治5年現在の日本橋一丁目と兜町に架かる海運橋際に日本初の銀行建築「海運橋三井ハウス」を完成させ、ここに大元方、御用所、為換座を集約させ、銀行設立に向け、情熱を傾ける。大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井・小野両組共同で銀行設立を提案、両組は政府主導による設立を望んでいなかったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、やむなく「三井小野組合バンク」の創設に協力することとなった。明治6年、三井・小野両組合作の「第一国立銀行」が発足、両当主が頭取、三野村が支配人、渋沢はこの銀行を主宰する総監役に就任した。ただ、三井・小野は独自の銀行を欲していたので、銀行業務より各県の出納・為替業務に専念した。明治7年、明治政府は公金預かり高に対する担保をこれまで1/3であったのを、突如全額担保令を発した。これは公金の流用を禁止する措置、これにより小野・島田は耐え切れず倒産。三井は辛うじて危機を乗り切った。それでも三井の三野村はあきらめず、第一国立銀行から手を引き、日本橋駿河町に「為換バンク三井組」を発足させた。明治9年7月、明治政府から認可を得て、日本初の民間銀行「三井銀行」が開業した。前後して三井物産も創設された。