肥後熊本藩ではあまり受け入れられなかった横井小楠ではあったが、越前福井藩主松平慶永(春嶽)の再三に亙る招聘懇願で熊本藩からやっとの許しで、50歳のとき賓客として招かれた。時は安政五年(1858)、井伊直弼が大老となって、日米修好条約が結ばれた時期である。当時春嶽と橋本左内は将軍継嗣問題(一橋慶喜か徳川慶福か)で、幕府の大変革による全国的統一国家の構想を実践に移そうと活動していた。しかし、将軍継嗣は血統主義を優先する井伊大老の反撃で慶福に決まり、いわゆる安政の大獄で、橋本左内は処刑、春嶽は隠居・謹慎処分。藩内は大揺れだが、小楠は留まるよう懇願される。万延元年(1860)、世界万国の政治を論ずる力量があって初めて日本国を治めることが出来る、日本国を統治する力量があって初めて一藩を治めることが出来るといって、「国是三論」を著した。
一、富国論:①天地の気運に乗じ世界万国の事情に従い、天下の政治を行う。外国を相手に信義を守って貿易をし、利益をあげれば、主君は仁政を施すことが出来る。②藩政府の財源確保のため、産物を海外に売りさばけばよい。③徳川一家の為の政治を廃し、国内政治や教育を一新し、富国強兵の成果をあげ、侮りを受けないようにする。二、強兵論:①航海が開けている今日、日本を守るのは海軍を強くする。日本はイギリスと国勢が似ているので、イギリスに則った海軍力を作る。幕府が制度一新して国威を示せば、諸国の争いを仲裁も出来る。三、士道論:文武が互いに対立せず、文武の教えを政治で実行していけば、風俗は淳厚質実になる。
井伊直弼が暗殺された後、春嶽も処分も解かれ、小楠は江戸に招かれた。ここでアメリカに渡った勝海舟との出会いがあった。小楠は勝にアメリカの事情をずいぶんしつこく聞いたようだ。そのときの勝の有名な感想が氷川清話に出てくる。ところで、幕府政治の事実上の最高責任者となった春嶽に小楠は「国是七条」を建策した。
1、将軍は上洛して朝廷にこれまでの無礼をわびる。2、大名の参勤を止めて述職とする。3、大名の妻を国許に帰す。4、外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する。5、大いに言論の道を開いて天下と共に公共の政を行う。6、海軍をおこし兵威を強くする。7、相対(自由)貿易をやめて官貿易とする。
これにより幕政大改革がスタートしたが、小楠は一橋慶喜とも会談している。慶喜は「非常の人傑に、感服した。至難と思われる事柄を質問したが、渋滞することなく返答があり、私が思っているより数層立ち上った意見だった」と春嶽に話している。また、この頃坂本竜馬が訪ねてきているが、世評と違った小楠の考え方に接し、意気投合して、その後ちょくちょく顔を合わせていたようだ。慶喜が将軍になって、明けて慶応三年正月小楠は福井藩政府に「国是十二条」を提出、春嶽にも回覧された。
1、天下の治乱に関わらず、一国(一藩)の独立を本となせ。2、天朝を尊び、幕府を敬え。3、風俗を正せ。4、賢才を挙げ、不肖を退けよ。5、言路を開き、上下の情を通ぜよ。6、学校をおこせ。7、士民を慈しめ。8、信賞必罰。9、富国。10、強兵。11、列藩に親しめ。12、外国と交われ。
王政復古の大号令直後の慶応三年十二月十八日、新政府から京都熊本藩邸宛に、小楠を登用したいとの通達が届いた。これまた熊本藩は断りの報告書を提出しているが、更に岩倉具視より催促の連絡があり、遂に岩倉を通じて、重ねて小楠登用の召命があった。このとき小楠、60歳であった。着京した小楠は参与を拝命し明治天皇にもたびたび会った。翌明治二年正月、小楠は暗殺されたが、刺客の後ろに公卿の黒幕がいたと云われている。