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海軍大臣 吉田善吾 軍部大臣現役制

2018年12月04日 | 歴史を尋ねる
 天皇の米内への御信任が厚く、内大臣に「米内内閣をなるべく続けさせたい」とどれほど希望されていようと、武藤軍務局長らは倒閣の手をゆるめなかった。「バスに乗り遅れるな」かれらの口を衝いて出ると、妙に説得力をもった。ヨーロッパの火の手を見て、はじめは半信半疑で、やがては何か確信を植え付けられたように、人が走り、グループが走り、群衆が走った、当時の世相を吉田俊雄はこう描写する。ソ連を対象に、共産主義からの防衛を目的とした三国同盟が、いまでは英米を対象にした色彩を濃くしたものに変貌した。三国同盟が、シンガポール、ジャワへの南進と絡めて論じられた。ドイツから送られてくる情報は、あすにもドイツの対英上陸作戦が始まるように思われた。大島駐独大使は、情報を操作して、ドイツに不利な情報を日本に送らせなかった。その上、ドイツ高官たちの言葉は口移しのように伝えてくるが、その現場にいって、自分の目で確かめた上で報告しようとはしなかった。結果として、大島大使が意図した以上に、ドイツに対する不利な情報は日本には送られなかった。ドイツが上陸用舟艇の整備が出来ないことをふくめてすでに対英上陸作戦の戦機を逃したこと、フランスが崩壊すればイギリスは戦意を失い脱落すると考えていたヒトラーの判断が外れたこと、ドイツ空軍は数でこそイギリス空軍よりも優勢であったが、実際はイギリス空軍に勝てない状況は、日本には伝えられなかった。日本の世論は、陸軍とマスコミのいら立ちにあおられ、一人一殺を合言葉に動き出した極右の不気味な気配を感じながら、それでも早く米内内閣が倒れないと日本はバスに乗り遅れるのではないか、と思った、吉田俊雄はこう記す。

 米内内閣が7月16日、総辞職に追い込まれるまでの間に、アメリカは痛烈なパンチを打ち込んで来た。英米との友好回復を志しながら、その相手からパンチを食うのは皮肉であるが、その点アメリカも、米内内閣の性格を十分見届けていなかった。グルー駐日大使の意見具申などを無視して日本をヒトラーと同列に置き、ヒトラーの意外な成功に刺激されて、感情的な拒絶反応を起した、と吉田。5月1日、ヒトラーが西部戦線で攻撃命令を発し、大戦果を挙げてイギリスを追い返して孤立させると、ルーズベルは5月7日、対日艦隊決戦の演習を終えた太平洋艦隊をハワイに駐留させると発表、日本の南方進出を牽制した。
 6月14日、第三次ビンソン案(海軍拡張案)が成立、つづいて7月11日、両洋艦隊法案が上下両院を通過した。これは、ドイツがフランス艦隊を接収、その勢いでアメリカを攻撃してくるという噂が流れ、米国民も議会もヒステリー状態になった。たまたま議会で第三次ビンソン案を説明していたスターク海軍作戦部長が、予定にもなかった両洋艦隊法案(ドイツにも日本にも勝つことを目的とした天文学的数字の海軍大拡張案)を提案、アッという間に満場一致で可決された。海軍の場合、大海軍主義を唱えて一世を風靡した、マハン提督の思想がアメリカ海軍で信奉されたが、そのころアメリカに留学中であった秋山真之少佐(日本海軍兵術思想の開祖)に受け継がれ、日米海軍は同根であり、同一線上にあった。大統領になる前から無類の海軍好きであったルーズベルトの思考方法と行動様式も、マハン風であり、海軍流であった。ハワイに太平洋艦隊を常駐させて睨みを利かせ、日本の武力南進を牽制しようとしたのも、のちの話になるが、プリンス・オブ・ウェールズとレバルスをシンガポールに進出させて、日本の南進を抑止しようとチャーチルが決断したのも、マハン的であった、と。そして、両洋艦隊法は、昭和21年までの7年間に、主力艦(戦艦)35隻、空母20隻、巡洋艦88隻、駆逐艦378隻、潜水艦180隻、合計701隻。軍用機25,000機を次々に完成させていこうとするもので、日本にとって、月日が経てばたつほど不利になる計算だった。
 対米劣勢を補助艦艇にも押し付けられた日本海軍は、悲憤の涙をのんだロンドン軍縮会議後、心の平衡を失い、統帥権干犯問題などという政治問題に巻き込まれ、かけがえのない海軍の良識を何人も切り捨てるようなつまらない結果を招いた。第一次大戦は化学の戦争、第二次大戦は数学と物理学の戦争であると二つの戦争の性格を捉えた、のちの太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督の客観性と科学性が必要であった。しかし日米海軍の格差は極めて大きかった。ところが、陸軍は奥の手を出し、軍部大臣現役制を盾に取った陸軍大臣の単独辞表提出、後任を陸軍は出さないという強硬手段をとり、米内も内閣を投げ出した。
 
 近衛内閣は7月22日成立した。大命降下から五日もかかったので、それだけ難産だった。九年前、軍事国家建設を担う人たちが満州事変をはじめ、三年前に日華全面戦に突入、更にドイツと手を結び、アメリカ経済圏に入ることによって生存し得ている日本の基本条件を忘れてアメリカを敵に回した。ヨーロッパを侵略席捲し、激しいユダヤ人迫害をするナチと手を組んだのがキメ手になった。それに対するアメリカの膺懲的締め付けが、しだいにエスカレートし、それが日本の弱点を狙って打ち出されるものだけに、日本にとっての危険度は致命的であった。この時、ヨーロッパ戦局を横目に焦りに焦っていた陸軍は、日本の歩むべき道を決めた「情勢の推移に伴う時局処理要綱」をつくり、海軍事務当局とも打ち合わせて成分とし、陸海軍の総意である、これによって政治を、と政府に突きつけるものであった。しかし米内内閣は倒れ第二次近衛内閣に代わった。
 要綱の内容は、インド以東、豪州、ニュージーランド以北の太平洋地域に大東亜共栄圏を確立し、英米圏から脱した自給態勢を打ち立てる。その機会は、いまを外したらほかにない。ドイツがヨーロッパで大戦果を挙げているいまがチャンス、バスに乗り遅れるな思想だった。この共栄圏を手に入れると、思い通り、英米圏から得ていた原材料が代わって得られ、製品が輸出でき、日本の生存が確保できるのか、その共栄圏は、独伊と軍事同盟を結べば、英米ソを敵に回してもうまく建設できるのか、そんな現実的検討は、精神至上、作戦優先、即時南進開始の声にあおられて、消されてしまった。

 吉田海相が辞任したのは15年9月5日だった。原因は過度の心労と疲労だった。三国同盟に反対に代表される海軍良識の最後の砦として時流に抗してきたが、米内海相の時と違って、次官、軍務局長に相談相手がなく、一人で国運を左右する決断をしなければならなかった。当時興亜院の政務部長、鈴木貞一(陸軍)が、石川信吾(海軍)興亜院政務部第一課長に、海軍の三国同盟に対する腹はどうなんだと、打診してきた。大臣にあって確かめましょう、と個人的に吉田海相に会う(9月3日)こととした。彼は三国同盟問題に対する諸方面の動きを開陳し、「もし海軍大臣の腹が三国同盟反対を決めておられるなら、陸軍を向こうに回して大喧嘩をやらねばなりません」 もっとも辛いところを衝かれた吉田は「この際、陸軍と喧嘩するのはつまらないよ」と力がなかった。石川はたたみかける。「それでは三国同盟に同意することになるのですか」「しかし、対米戦争の準備がないからな」 石川は「ここまでくれば、もはや理屈じゃなくて、何をとるかの決心の問題であります。大臣の腹一つと思います」 吉田は「困ったなあ」と呟くと、そのまま頭を抱えて、テーブルにうつぶせになった。石川は、その晩、吉田大臣は苦悩の余り倒れて入院された、と書いている。

 8月27日、近衛内閣は蘭印に特派使節を派遣することを閣議決定した。海軍の考えている平和的、経済的な南方進出の方針にそう、重大使命を帯びた特派使節であったが、その外交交渉方針の内容は、常識を外れていた。そして、特派使節には松岡外相の推す小磯国昭陸軍大将を充てることに内定した。小磯は使節を引き受ける条件として、陸軍二個師団と軍艦を用意してもらいたいという。蘭印が云うことを聞かないときは実力行使して保障占領する。その間中央の指示を待つのは間に合わないから訓令を受けておきたい、と。さすがに東條陸相もあきれた。近衛はあとで吉田に電話をかけて、軍艦を出してもらえないか、と打診があった。吉田は即座に断った。首相ともあろうものが、そんな目的のために軍艦を使おうとしている、軍艦は国土の延長であり、他国に侵入すれば、それだけで戦争を仕掛けたことになる、と。
 結局、小磯は引き受けを渋り、入れ替わりに、商工大臣小林一三を大臣のまま使節として派遣することにした。訓令案を閣議にかけた時、またひと悶着が起きた。蘭印が大東亜共栄圏の一員であるにも関わらず、日本に対して要求に応じないのはまことに不都合千万で、断じて黙過できない、という文言などが並べられていた。吉田は外交は所轄外であるが頑張った。蘭印の油がもっとも欲しいのは海軍だった、が。吉田にしてみれば、海軍部内に目が離せないだけでなく、政府にも目が離せなくなった。
 
 9月4日、吉田は病院で辞表を書いた。吉田の推薦によって、急遽横須賀鎮守府から及川古志郎大将が大臣として着任したのは、翌5日であった。

 

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