佐賀の4傑と佐賀の乱

2011年06月25日 | 歴史を尋ねる

 副島種臣、大木喬任(たかとう)、江藤新平、大隈重信は佐賀の4傑と呼ばれているが、副島は大隈より9歳長じ、大木は7歳長じ、江藤は4歳長じていた。この4人は佐賀の吉田松陰というべき枝吉神陽に学び、義祭同盟の同士であった。義祭同盟とは楠公精神の復活、尊崇を唱え、楠公精神の高揚につとめた結社で、同時に神陽は国学を講じた。当時藩校の教える朱子学や葉隠への一辺倒に反抗したもので、更に藩校の改革運動も推進した仲間であった。それでもそれぞれ特色があった。これを渡辺幾治郎著「大隈重信」によると、副島は純学者肌で、四書五経に精通し漢学は大家であった。藩主の内命で京にのぼった時朱子陽明の説を破り、偏狭なる尊王論をしりぞけて諸藩有力者間において先生と畏敬された。大木は資治通鑑に精通し、治乱興亡の理を明らかにし天下の経綸に資する史学に力を注いだ。非常な読書家で同窓の者は知恵者と呼んだ。孤立独行の風があった。江藤は知の大木に対し勇をもって称せられた。史学に天下経綸の道を求めたのは大木、大隈とも同じであるが、彼はナポレオン伝を読み、法律を改めて治国の第一要諦とし、法典の編纂に志したということに深く悟るところがあった。そして維新の基礎を法律の制定に置き、司法制度の確立に傾注した。西洋の法学に基いて、わが国の司法制度の基礎を創始した人であるが、その淵源は商鞅や韓非の刑名学などのあったと渡辺氏は推論する。大隈は深く四書五経を研究することを好まず、却って諸子百家の書を広く渉猟し、好んで経世済民の方策をたずねた。彼は早くから西洋学を志し維新後は立憲政治を唱道したが、その淵源は管子の「政の興る所は民心に順うに在り、政の廃する所は民心に逆らうに在り」と政治の根底を国民の思想動向に置いた。4人とも神陽に学び、史学によって、時勢に適応して藩校の固陋の学風を排し、佐賀一藩を天下とするような偏癖な思想を脱却していた。

 いわゆる征韓派の五参議がいっせいに辞任し、西郷が直ちに故郷鹿児島を目指したとき、陸軍少将桐野利秋をはじめ、近衛士官300余名、羅率(警官)300余名も辞任を申し出た。それは三条、岩倉の下にいる少数参議が西郷の主張する使節派遣を、自己保身のために葬り去ったとする怒りに発していた。それにも二派がある。その一つは政府の専制支配を廃し、一般国民にも参政権を与えねばならないという、後の自由民権論にたつもの。もう一つは不平士族を中心として西郷を擁立し、一挙に政府を倒して士族の復権を図ろうとするものであった。

 参議を辞任した江藤の許に、郷里佐賀から帰郷を促す使者が来た。佐賀の西郷擁立派が政府打倒の反乱計画をたて、江藤に計画の指揮を執ってほしいというものであった。江藤が西郷を強く支持したのは彼の目的は朝鮮ではなく、政府の中枢というべき木戸、大久保に代り、政治の実権を握ることであった。そして佐賀にして立てば、少なくとも西郷と板垣は必ず立って行動をともにしてくれる、政府に残った大木も大隈も副島も、郷党の縁で必ず援助してくれる。江藤はそう信じたが、彼は文官であって軍人ではない、政治的設計図だけが先行した。東京出発の前夜、江藤は大隈邸を訪れ、政府内部の薩長閥一掃のため自分と行動を共にするよう強く要請した。大隈は日本が今やるべきことは、近代化の一層の推進、政治的には国民参与の民主政治への変革をしなければならない、むしろ大隈は江藤の翻意を促した。夜明けとともに江藤は大隈邸を去り、そのまま帰郷の途についた。

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