当時のロビー活動を具体的に見てみると、例えば、日本が侵略国家という前提で、日本に対する軍需物資および主要商品に禁輸を主張する要望書を1939年提出したが、それは「アメリカ平和デモクラシー連盟」が提出したもので、連盟は5千万人のアメリカ国民を代表すると称し、アメリカ共産党の影響下にあるマスコミが、それを大々的に報じた。そのため、多くの下院議員が多くのアメリカ国民が対日経済制裁を求めていると誤信するようになった。このロビー活動を理論的に支えたのが、当時アメリカ最大のアジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)だった。IRPは、アジア太平洋沿岸国のYMCA主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共に、キリスト教布教を強化する目的で、1925年汎太平洋YMCA会議開催時に、ハワイホノルルで創設された。ロックフェラー財団の資金援助を受けたIRPは、アメリカ、日本、中国、カナダ、オーストラリアなどに支部を持ち、二年に一度の割合で国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題についてのシンクタンクへと成長した。1933年カナダ・パンフで開かれた第五回太平洋会議に高橋亀吉が、英国の日貨排撃政策に反対する論戦を交わしたことについては、すでに記述してきたが、このIPRをアメリカ共産党は乗っ取った、と江崎道朗氏はいう。エドワード・カーターが1933年事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の外交政策を批判する政治団体へと、IRPはその性格を大きく変えた、と。カーター事務総長は1934年、IPR本部をホノルルからニューヨーク移すと共に、政治問題を積極的に取り上げることを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長ににオーエン・ラティモアを抜擢した。後にマッカーシー上院議員によって「ソ連のスパイ」と非難されたラティモアは、IPRの機関紙で日本の中国政策を「侵略的」と非難する一方、中国共産党に好意的記事を掲載するなど、その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。にも拘わらず、ラティモアを擁護し続けたカーター事務局長は、FBIの機密ファイルによれば、自ら「共産党のシンパだ」と認め、その周りに共産党関係者が集まっていた。このIPRが支那事変以降、ローズベルト民主党政権の対日政策を、対日圧迫政策へと牽引していった。
支那事変勃発から南京陥落へ続く1937年当時、中国情勢に対するアメリカの世論は様子見といったところだった。ところが、1938年1月サンフランシスコでIPR中央理事会が開催され、国際事務局の責任で、支那事変に関する調査を実施することを決定、アメリカ共産党とそのシンパが会議を主導した。この決定を受けて、カーター事務総長が、日本IPRに対して「極東紛争に関する全面的調査」の実施を提案、日本側は日本を裁断するようなものになっては困ると返答をしているが、調査計画の資金はロックフェラー財団の理事会で承認され、7月調査検討会議が開催された。日本からは高柳賢三、オーストラリアからはティンパリー(南京大虐殺30万人の証拠とされる証言記録本を編集した記者)などが参加、事務総長は日中戦争に関する調査ブックレットの発行を決定した。その編集は、エジアティカス(ドイツ共産党員)、陳翰笙(上海でゾルゲと共に対日工作に従事し、機関誌の編集部に所属したコミンテルンのスパイ)、冀朝鼎(経済学者、米国共産党員で帰国して中共の貿易局長を歴任)の三人に委ねた。ブックレットを執筆した一人がハーバート・ノーマンで、英国留学中に共産党の秘密党員になり、IPRから著書も発行しているが、日本が中国大陸で戦争をしているのは、在留邦人保護でも中国の排外ナショナリズムでもなく、日本自体が維新後、専制的な軍国主義国家であったからだと説明、紛争の責任は日本の軍国主義体質にあると決めつけた。対日強硬派のローズベルト大統領らは、このノーマン理論を使って、対日圧迫外交の正統性を訴えることになった。
日本の中国侵略を批判する調査ブックレット集は、アメリカの対日占領政策の骨格を決定することとなった。その理由は、IPRは戦時中、太平洋方面に派遣されたアメリカ陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、啓蒙用反日パンフレットを、軍や政府に大量に供給したから。IPRが政策に協力した宣伝映画は、日本が世界征服を目論んでいるとする田中メモランダムや国家神道、南京大虐殺などを毒々しく紹介、戦後の東京裁判などに繋がった。このように「反ファシズム」「デモクラシー擁護」という大義名分に惑わさエて、スティル元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら政府関係者や、アメリカ陸軍までがアメリカ共産党の工作に巻き込まれていった。それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったということだが、一方で当時のアメリカは、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もあった。FBIがアメリカ共産党をマークするのは1939年の後半になってからであった。
一方、日本の外務省はアメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを、正確に分析していた。若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月、宇垣一成外務大臣に機密報告書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について、①支那事変以降、アメリカの新聞は中国の被害状況をセンセーショナルに報道している、②ローズベルト民主党政権と議会は、世論に極めて敏感で、反日報道を受けた世論によって、どうしても反日的になりがち、③アメリカで最も受けがいいのは、キリスト教徒の蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らはデモクラシーとキリスト教の擁護者とアメリカ国民から思われている、④日本は日独防共条約を結んでいるので、ナチスと同様のファシズム独裁国家と見做されている、⑤中国擁護の宣伝組織は、中国政府系、アメリカ共産党系、宗教・人権団体系の三種類があるが、共産党系が掲げる反ファシズム、デモクラシー擁護が各種団体の指導原理となっている、⑦共産党系の反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている、⑦共産党の真の狙いは、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に軍事的圧力を加えることが出来ないようすることだ。若杉はローズベルトの反日政策の背後にアメリカ共産党がいることを強調し、共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えた。
ローズベルト政権は、1939年7月日米通商条約の廃棄を通告、くず鉄、鉄鋼、石油などの重要物資の供給に致命的な打撃を受ける危機に瀕し、一方蒋介石政権に対しては軍事援助を表明して、反日親中政策を鮮明にしつつあった。1940年7月、発足したばかりの松岡洋右外相に報告書を提出、①反日・中国支援運動はロビー活動が効果を挙げ、新聞・ラジオにより一般民衆に影響を与えている、②この運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンがそそのかした、③その目的は、日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成する、④アメリカ共産党による「トロイの木馬」作戦が成功し、政界・宗教界・新聞界をはじめ、一般知識人にかなり浸透している。つまり、ローズベルト政権の反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的にスターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと訴えた。報告書が届いた翌日、近衛内閣は、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定、翌1941年4月、日ソ中立条約を締結した。対抗してローズベルト政権も、アメリカ共産党が工作によって煽った反日世論を背景に、対日圧迫外交を強化していく。
支那事変勃発から南京陥落へ続く1937年当時、中国情勢に対するアメリカの世論は様子見といったところだった。ところが、1938年1月サンフランシスコでIPR中央理事会が開催され、国際事務局の責任で、支那事変に関する調査を実施することを決定、アメリカ共産党とそのシンパが会議を主導した。この決定を受けて、カーター事務総長が、日本IPRに対して「極東紛争に関する全面的調査」の実施を提案、日本側は日本を裁断するようなものになっては困ると返答をしているが、調査計画の資金はロックフェラー財団の理事会で承認され、7月調査検討会議が開催された。日本からは高柳賢三、オーストラリアからはティンパリー(南京大虐殺30万人の証拠とされる証言記録本を編集した記者)などが参加、事務総長は日中戦争に関する調査ブックレットの発行を決定した。その編集は、エジアティカス(ドイツ共産党員)、陳翰笙(上海でゾルゲと共に対日工作に従事し、機関誌の編集部に所属したコミンテルンのスパイ)、冀朝鼎(経済学者、米国共産党員で帰国して中共の貿易局長を歴任)の三人に委ねた。ブックレットを執筆した一人がハーバート・ノーマンで、英国留学中に共産党の秘密党員になり、IPRから著書も発行しているが、日本が中国大陸で戦争をしているのは、在留邦人保護でも中国の排外ナショナリズムでもなく、日本自体が維新後、専制的な軍国主義国家であったからだと説明、紛争の責任は日本の軍国主義体質にあると決めつけた。対日強硬派のローズベルト大統領らは、このノーマン理論を使って、対日圧迫外交の正統性を訴えることになった。
日本の中国侵略を批判する調査ブックレット集は、アメリカの対日占領政策の骨格を決定することとなった。その理由は、IPRは戦時中、太平洋方面に派遣されたアメリカ陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、啓蒙用反日パンフレットを、軍や政府に大量に供給したから。IPRが政策に協力した宣伝映画は、日本が世界征服を目論んでいるとする田中メモランダムや国家神道、南京大虐殺などを毒々しく紹介、戦後の東京裁判などに繋がった。このように「反ファシズム」「デモクラシー擁護」という大義名分に惑わさエて、スティル元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら政府関係者や、アメリカ陸軍までがアメリカ共産党の工作に巻き込まれていった。それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったということだが、一方で当時のアメリカは、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もあった。FBIがアメリカ共産党をマークするのは1939年の後半になってからであった。
一方、日本の外務省はアメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを、正確に分析していた。若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月、宇垣一成外務大臣に機密報告書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について、①支那事変以降、アメリカの新聞は中国の被害状況をセンセーショナルに報道している、②ローズベルト民主党政権と議会は、世論に極めて敏感で、反日報道を受けた世論によって、どうしても反日的になりがち、③アメリカで最も受けがいいのは、キリスト教徒の蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らはデモクラシーとキリスト教の擁護者とアメリカ国民から思われている、④日本は日独防共条約を結んでいるので、ナチスと同様のファシズム独裁国家と見做されている、⑤中国擁護の宣伝組織は、中国政府系、アメリカ共産党系、宗教・人権団体系の三種類があるが、共産党系が掲げる反ファシズム、デモクラシー擁護が各種団体の指導原理となっている、⑦共産党系の反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている、⑦共産党の真の狙いは、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に軍事的圧力を加えることが出来ないようすることだ。若杉はローズベルトの反日政策の背後にアメリカ共産党がいることを強調し、共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えた。
ローズベルト政権は、1939年7月日米通商条約の廃棄を通告、くず鉄、鉄鋼、石油などの重要物資の供給に致命的な打撃を受ける危機に瀕し、一方蒋介石政権に対しては軍事援助を表明して、反日親中政策を鮮明にしつつあった。1940年7月、発足したばかりの松岡洋右外相に報告書を提出、①反日・中国支援運動はロビー活動が効果を挙げ、新聞・ラジオにより一般民衆に影響を与えている、②この運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンがそそのかした、③その目的は、日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成する、④アメリカ共産党による「トロイの木馬」作戦が成功し、政界・宗教界・新聞界をはじめ、一般知識人にかなり浸透している。つまり、ローズベルト政権の反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的にスターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと訴えた。報告書が届いた翌日、近衛内閣は、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定、翌1941年4月、日ソ中立条約を締結した。対抗してローズベルト政権も、アメリカ共産党が工作によって煽った反日世論を背景に、対日圧迫外交を強化していく。