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日露戦争 戦勝のもたらした経済発展の新要因

2014年01月17日 | 歴史を尋ねる

 奉天占領後第三次作戦計画の策定時、参謀総長山県元帥が桂総理大臣に送った書簡を見ると、この時講和を切望する立場にあったのは日本であり、もし賠償金にこだわり講和の時期を逃していれば、戦争による国力の疲弊は甚だしく、戦後の回復は容易でなく経済発展能力も限られたものになっただろうと高橋はいう。その意味で、日本の戦後経済は余裕を残して経済発展に振り向けることができた。戦後の課題は世界の強国ロシアに勝った無形の資産と講和条約でロシアから獲得した有形の資産を今後のためにいかに有効に活用しうるかであった。無形の資産とは、①欧米の強国と対等に伍する自信を国民に与えた。②戦勝によって日本に対する海外の評価・信用が一挙に上がり、巨額の外資を有利に導入することが出来るようになった。③自主的関税改革を理想に近い形で各国の承認を得ることができた。ロシアから得た有形の資産とは、①朝鮮に対する日本の保護国的特権を認める。②旅順口、大連並びにその付近の租借地と関連する一切の利権を日本に譲渡する。③長春旅順口間の鉄道および沿線の一切の権利、特権、財産、炭鉱等を日本に譲渡する。④北緯50度以南の樺太を日本に譲渡する。⑤日本海、オホーツク海、ベーリング海におけるロシア沿岸の漁業権を日本国民に許与する。

 「戦勝によって日本は満州と朝鮮の権益を奪取したが、戦後のわが政府はこの獲物を基礎にして、さらに広範な権益を清朝政府から迫り取り、帝国主義的発展の触手を露骨に伸ばして、爾後のわが国の対外発展に必要な大きな道を開いた。ここに日本経済は、これまでと異なる発展段階に進展した」と、高橋。 この実相を見ていくことにしたい。日露講和条約によってロシアから得た満州の権益について、改めて日清間に協約を結ばねばならない。小村外相が清と外交折衝するに先立ち、政府は満州経営に対する方針を決定し、ほぼこの線で日清協約は締結された。租借地:遼東関東州に総督都督を置き、政事、軍事、経済に関する一切の事務を統括する。大連港を商港とし、外国の領事の駐在を許す。旅順口は軍港とし、一部を開放して商業の用に供する。鉄道:満州鉄道は名義上日清両国の共同事業とし、日本法律の下の会社を組織し、政府の持ち株とし、清国政府の出資はその希望に任せ、一般外国人からも株金を募集する。撫順等の炭鉱は兼営させる。鉄道を延長して中部満州の吉林まで達する。満州鉄道の守備は総督都督に担当させる。事業:鴨緑江両岸の森林の経営は、日本政府の事業とし、その収益を施設経費に支弁する。鉱山採掘、河川通航、陸路運輸その他公共事業は、事業家をして経営せしめる。株式の一部は清国人にも持たせる等々。

 列強は満州での日本の自由を認めようとしなかった。特にアメリカやイギリスは満州をロシアから解放するために、日露戦争を支持し、日本の朝鮮支配を認めたのだから尚更だった。この時、米国の鉄道王ハリマンは訪日し、南満州鉄道の日米共同提案を提案、所有権は半々で、日本は現物出資のみの有利な条件であったが、この件は小村がつぶした経緯は既述済。仮にこの提案を元老井上馨の言う通り受けていたら、20世紀の歴史はまるで変った、アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というスローガンに留まらず、日本をパートナーとして、共同で満州経営を行う形をとったでしょうと岡崎久彦氏の嘆息。だが満州国誕生時、小村の判断がなければ今の満州国がなかったといわれたそうだ。結局小村外交の功罪は、アングロサクソン世界との国際協調に日本の運命を委ねるか、又は日本の自主外交を貫き、独りで日本の勢力圏をアジアに築こうという国家戦略の是非だったと岡崎氏は総括する。


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