世界恐慌後の日本経済躍進時代

2015年11月30日 | 歴史を尋ねる
 昭和6年12月の金輸出再禁止(犬養内閣)から昭和11年2月の二・二六事件の勃発に至る期間は、日本の史上にかってないほど、内外に、重大事件や問題が相次いで起こった、政治経済上の大きな異変時代だった。しかも、この間において、日本経済は驚くべき躍進発展を遂げたと、高橋亀吉は云う。重要点を列記すると、
1、昭和6年9月勃発した満州事変が意外な発展をして、満州国の建国となり、外には国際連盟の脱退、外交の国際的孤立となって、対外関係を極度に悪化させ、内には、軍部ファッショの勢いが大となり、財政、金融、軍事費の増加が著しく、こうした内外情勢にどう対処するかが、朝野の焦眉の課題となった。
2、世界恐慌は昭和8年いっぱい続いたが、これに対処する方法として、各国はブロック経済方式をとった。特に、昭和7年10月のオタワ協定は、英国の露骨なブロック経済採用となり、ブロック外の諸国に対して差別待遇を実施した。当時、世界の各地に広大な植民地を占める英国のこのブロック政策は、領土狭小人口過多の日本、イタリア、ドイツに甚大な影響を与え、これに処する方策が課題となった。(当時高橋は、英国のこの政策を以て、世界戦争を誘発する性格のものだと批判した。この論文が、戦後、高橋をパージした一原因となったようだ) 満州国の問題が、日本国民の当初の反対にも拘わらず、後に「日満ブロック政策」の名において、国民の支持をかち得るに至った根底には、そうした世界のブロック経済化の大勢が大きく作用していた。同時に、独伊のファッショ化の裏にそれがあったことを看過すべきでない、と高橋は云う。ふーむ、経済の国際化が進む中で、経済紛争は直ちに政治紛争に繋がる時代が到来したことを意味しているのだろう。ということは、国際政治の専門家は国際経済の専門家でなければならないということか。なぜなら国際紛争を解決する処方箋を示すことが出来ないから。ともかく現在の国際自由貿易主義はこうした過去の経験から生み出された人間の知恵であることは確かだ。
3、昭和8年以降日本の輸出は世界各地に飛躍的に進出し始めた。その重要な要因の一つは、円為替が二分の一に暴落したことだった。これに対し、英国を中心として、世界の各国は、これをソーシャル・ダンピングと非難し、満州占領に対する国際的非難と政治的孤立と相俟って、日本品の世界進出を露骨に圧迫し始め、遂には日本品の輸入を大規模に制限する非常手段に訴えるに至った。確かに満州問題を中心とする対日感情の悪化も軽視できないが、しかしその中核は純粋の国際経済問題であった、と。政治学者ならば、ここまで断定的に云えないだろう。高橋ならではの、国際社会の見極めであろう。
4、以上内外の政治経済の激変は、朝鮮、台湾などの外地経済にも影響を及ぼし、これにどう対処するかが課題となった。
5、以上の諸問題を踏まえて、金再禁止後の日本経済を如何処置していくか、どういう施策が必要かが、財政・金融・産業・貿易政策の中心課題となった。
 以上が昭和7~10年期の日本経済の課題であった、と高橋。

 高橋亀吉は当時、高橋経済研究所を創設して有力なスタッフを自由に活用して、一個の経済評論家として活動していた。そして重要問題に対して直接タッチする機会も多くなったという。日本を離れ、現地を視察、また会議にも出席した。
イ、昭和8年8月、カナダのパンフ国立公園で第五回太平洋調査会会議に日本委員として出席、議題の中心は満州問題と日貨排斥問題であった。その帰途、ロンドンで日英紡績会議に対し、側面からアドバイスを与える役割を武藤山治氏から依頼されて渡英。
ロ、昭和9年8月、建国早々の満州国財政部に依頼され、同国の幣制改革(銀本位制を円本位制に統一する)その他の経済政策に対する諮問に応じた。これが糸口となって、敗戦時まで満州国経済部の嘱託を続けた。
ハ、昭和10年1~2月、宇垣朝鮮総督の依頼で、朝鮮経済の診断のため各地を視察した。診断の結果、報告の要点は、朝鮮伝来の農業中心政策を改め、工業化政策に転ずべき基本情勢にあるとし、この報告は、当時の総督府伝来の考え方に、一転機を与えたものとして総督から感謝された。
二、昭和10年10~11月、満州国経済部の依頼で、当時幣制改革中の中国経済の診断、及び広東漢口鉄道開通の経済的影響の調査を頼まれ、香港、広東、上海、漢口、青島、天津などを視察した。
ホ、昭和11年8月、北米ヨセミテ国立公園で開催された第六回太平洋調査会会議に日本委員として出席、主として、ソーシャル・ダンピング論について論争した。

 そのほかにも各種依頼内容はあったが、当時日本の外地として経済上重要であった朝鮮、台湾、満州、樺太及び隣邦である支那の実情につき親しく知ることができて、日本の経済問題研究上、益するところが多大であったと高橋。ところで、一介の民間経済評論家が当時、どう評価されていたか。実業界や政府関係においても、経済評論家は、一段も二段も低く評価されていた。大正末年から昭和の初め、高橋に与えられた『街の経済学者』という肩書は、大学の学者よりも一段低い学者という意味を含むものであった。数名のエコノミストが新平価金解禁を主張しても、当初、歯牙にも掛けられなかった。しかし、旧平価金解禁の失敗の実証、金輸出再禁止の実施は、街のエコノミストに対する社会評価を一躍して高くした。高橋経済研究所の基金が容易に集まった、と言うのもその反映に他ならなかった。しかし、政府の各種委員会や政府機関への民間エコノミストの参加は依然敬遠された。こうした環境において、一介の独立エコノミストを、官庁として初めて相談相手としたのは、満州国財政部次長星野直樹氏であった。従来は官立大学教授に頼む習慣であったが、戦後になって高橋が聞いたところによると、大学教授が期待に添わないので、高橋に頼むことになった、と。次は宇垣朝鮮総督で、中央政府が内閣調査局の専門委員として、初めて昭和10年に起用されるに至った。時代の急速な変遷が、実力のある民間エコノミストを起用させることになったということだろう。

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