やっときゃよかった攘夷戦

2010年02月05日 | 歴史を尋ねる

 勝海舟が大阪で軍艦操練所頭取であった文久三年(1863)、生麦事件処理をめぐって意見を求められた海舟は、イギリスは賠償金請求と見せかけて内心では開戦口実を探している。その意図が明白な以上、応戦すべきだ。幕府の弊は不決断と姑息にある。戦端を開いても、一敗地にまみれるだろう。それでもいい。必ずや日本が生まれ変わる転機になるだろう。徳川将軍はただちに上京し、それを口実に英艦を大阪湾に回航させる。大阪湾で戦闘して京都の尊攘派に見せ付けるのが肝要だといっている。勝は万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカワシントンに使節団が派遣されたときの艦長(キャプテン)であった。海外の事情も充分承知している。しかしこの時の勝の意見も顧みられず、小笠原老中の独断で償金を支払い、事態はずるずると処理された。

 幕府は早い時期に開戦しているべきだったとする議論は、その後も一種の世論として直参旗本の間にくすぶっていた。文久三年頃には、誰もが薄々は近いうちに江戸最後の日(焼打ち)が来るだろうと予感していた。やけっぱちの攘夷の盛んに唱えられた。青木弥太郎懺悔談によると、黒船が来航したとき、幕府はなんとしてでも一戦を交えておくべきだった。薩摩や長州がしたようにしておけばよかった、もちろん負けただろうが、その負けが大切で、負けていたら戦力差は衆目に明らかになり、余計な虚勢を張らずに、スムーズに政権返上が出来ただろうというボヤキである。幕府は「恐るるに足りない」はずの薩長両藩に長州戦争で破れ、鳥羽伏見で敗れた。開戦のタイミングと場所を選びそこなったツケは回ってきた。官軍はじわじわ江戸に迫ってきた。

 元治元年(1864)蛤御門の変で朝敵になった長州藩に長州征討が発せられ、長州は戦わずして降伏、謝罪恭順。ところが慶応元年(1865)長州藩では高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)ら倒幕派グループがクーデターを起こして藩政の実権を握ると幕府に抵抗する構えを示した。ここに第二次長州征討が始まるが諸藩は大義名分がないとして思うように幕府の指示に従わない。決定的なのは、長州藩は外国軍隊と戦った経験から、軍隊を急速に近代化し、兵士の全員が銃兵化していた。こちらは旧態依然たる鎧武者であった。幕府軍先鋒の井伊・榊原隊も火力の前には手の打ちようもなく、大量の装備(鎧甲や大砲など)を山のように遺棄して逃げ惑う有様。あちこちで散々な敗北を喫した。

 長州戦争は徳川幕府軍の敗北に終わった。慶応二年(1866)12月、慶喜は将軍宣下を受けて徳川家15代将軍の座に就いた。これが孝明天皇の置き土産になった。慶喜はあわただしく戦争を終結させたが、幕府側もただムザムザ手を拱いていたわけではなかった。慶応二年8月、老中板倉勝静は軍制改革を行うことを発表し、長州藩は全兵が銃隊である、幕府軍は敗北続きであるが、銃隊に関する限り五分の戦いである、近々軍政の大改革を実施するとしていた。慶喜はかねて英邁と噂されるだけあって決断は早かった。打ち出したのは、全兵銃手の原則。旗本は身分の高下にかかわらず全員を銃手とする通達を発した。更に、軍事予算調達のため、直参武士全員に俸給を半減する「半知令」を下達した。直参旗本に動揺が広がり、歩兵隊はいったん解雇されたので、江戸は不穏な空気に包まれた。


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