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江戸と明治の農業の違い 1

2013年11月02日 | 歴史を尋ねる

 小作制度そのものは徳川時代からの伝統的制度であったという。明治になって何が変わったか、一つは地租改正に伴う近代的土地所有権の確立であり、もう一つは明治農法(品種の改良、肥料の増投と土地改良など)の普及であった。他は前時代の伝統を引き継いでいた。では江戸の農業の実情はどうであったか。当時の様子が伺えるHP「故郷の史跡 日光市塩野室地区」の中に 次のような解説がある。具体的な内容となっているので参考にしたい。http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/noumin/kaisou.html

 江戸時代前期、武士に階層があったように、この時代には農民にも階層があった。大きく分けて高持百姓(本百姓)と無高百姓(水飲など)に分けられた。また、本百姓に隷属する農民層もあったが、江戸時代に入ると隷属農民層の本百姓化がすすめられたともいっている。この辺の事情はウキペィデアによるとこうだ。

 「百姓を農民と同義とする考え方が日本人の中に浸透し始めたのは江戸時代だった。江戸時代には、(1)田畑と(2)家屋敷地を所持し、(3)年貢と(4)諸役の両方を負担する者を百姓(本百姓)とした(「初期本百姓」)。なお、百姓は戦時においては小荷駄などを運搬する(5)陣夫役を負担する者とされた。しかし、初期・前期の村落内では前代を引き継ぐ階層差が大きく、(1)(2)(3)(4)(5)のどれかを欠く家(小百姓あるいは多様な隷属民)も多数存在していた。江戸幕府をはじめとした領主は、このような本百姓数の維持増加に努め、平和が続いたことによる社会の安定化によって耕地の開発も進んでいった。次第に本百姓の分家や隷属民の「自立」化が進み、17世紀の半ば以降には、村請制村落が確立していき、(1)田畑や(2)家屋敷地を所持する高持百姓が本百姓であると観念されるようになった。江戸初期は本百姓が村内で持つ影響力に依拠しなければ年貢諸役を集めることが難しかったが、中期以降、村請制に依拠できる体制が完成した。一方で江戸時代の中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる(「農民層分解」)。高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ぶようになった。その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長していった。」

 もう一つ面白いHPデータがある。「農民の家計簿」と称して、江戸時代の農家の実情を伝えるものである。http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/kakeibo/nouminkakeibo.html

江戸時代初期のころから幕末のころまでの農家の家計簿、比較的大きな農家は別として、米の取れ高10石前後の農家ではよくてトントン、ほとんど赤字だ。表をよく見てみると、食費の内訳は米よりも麦の方が多いのが分かる。麦ばかりの家計もみられる。衣食住費、生産諸掛費も米を売却してねん出するから、米はほとんど食べることはできない。貯蓄も無理なようで、凶作でなければなんとか食えるが贅沢はできない。より倹約が必要な家計であることが分かるとHPの著者は言っている。

 同じ著者が明治時代の農業を次のように書いている。「地租改正の結果は農民の生活に余裕を与え、農業を発展させることでなく、農民の負担は封建制のままで、かえって土地が農民の手から離れて地主の兼併にゆだねられるという皮肉な結果になりました。封建時代にはきびしい搾取がなされた反面、封建的な農民保護といいますか、あらゆる方法をもって農民の絶対数の確保に努めましたので、地租改正時代のような混乱はまずありませんでした。結局明治初年の諸制限廃除で農民に与えられた自由は土地の売却放棄、無一物になって離村しようと貧窮にあえごうと自由勝手だということで、この解放期に際して地租改正は農村民にとって未曾有の危機ともなりました。」 ちょっと悲観的な見方すぎるが、戦後作られた歴史観にとって、ある普遍的な見方でもあるのだろう、自治体の広報誌に掲載されているのだから。
 
 

 


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