第二次世界大戦に至るアジアの転回点

2014年03月12日 | 歴史を尋ねる

 日露戦争はアジアにおける各国の関係を一変させた。その原点は日本の領土的野心であり、中国の東北三省であった。日露戦争後、日本が東北三省の権益をひとり占めするに及んで、あれほど米国で支援した日本に対し、米国は日本を非難し始めた。すでに取り上げた東北三省における鉄道問題だった。ポーツマツで日露の講和談判中の1905年8月、米国の鉄道王エドワード・ハリマンが世界一周路線の計画をもって日本を訪れ、日本の首相・桂太郎との間に、満鉄買収の予備協定覚書を10月締結した。ところがポーツマスから帰った外相・小村寿太郎は、東北三省に外国資本が競争する原因をつくると反対、この覚書を一方的に取り消した。しかし、米国は鉄道問題を諦めず、奉天総領事ウィラード・ストレートを通じて、東北三省縦断鉄道を計画した。清朝は東北三省を日露に独占させないためにも、第三国による投資を歓迎した。奉天巡撫・唐紹儀は、ストレートと備忘録を作成し、米国から2千万ドルの投資で銀行を設立し、新法鉄道の敷設を、いったん取り決めていた。この計画を知った日本は南満州鉄道の利益を害する行為は断固たる処置をとると清朝に迫り、計画を棚上げにさせた。このため、米国では対日感情が悪化、日本移民排斥問題が起きている。同時に、中・米・独三国が同盟を結成するとか、日米開戦も近いといった噂も流布された。

 1908年、ストレートの手によって、再び鉄道問題がもち上がった。この時も日本の反対によってつぶされた。さらに翌年米国国務長官フィランダー・ノックスから東北三省鉄道中立化計画が提案された。しかしこれも日本が拒否した。日本はかえってロシアと第二次日露密約(攻守同盟)を結んで、日露による東北三省独占支配に乗り出した。加藤陽子氏の日露戦争の分析によると、日露戦争が始まるまえ、日本と米国は同時に清国との通商条約を改定し申し合せて発表したという。その内容は、日本は東北三省における満州部分の門戸開放をやるというシグナルを発しているという。米国があれほど日本を支援したのは満州の門戸開放だった。こうして日本と米国は日露戦争後ヒビが入った。

 中国から見た対日観も厳しい。「日本が中国を侵略した歴史を、私(蒋介石)は今あらためて語ろう。甲午戦争によって、日本は台湾を割取し、琉球を併呑した。それによって、中国の南部は、完全にその支配を受けるようになった。その後、日本は、大陸に向かって発展することを策した。そのためには、まず旅順、大連を占領しなくてはならない。旅順、大連を奪うためには、朝鮮を占領しなくてはならない。そこで日露戦争以後、大連、旅順を奪った上に、勢いに乗じて朝鮮を併呑したのである。その結果、中国は南から北まで、すべて日本の緊密な包囲を受け、華北の門戸である渤海湾もまた、日本の占領、制覇する所となった。これによって、中国には国防というものが全く存在しなくなった。それどころか、日本はその後も、中国が国防のための建設をすることすら許そうとしなかった。日本は、いつでも中国を脅迫し、滅亡させることが出来るようになった。」