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冷戦下の日本の迷走 「安全保障問題と朝鮮半島の動乱」

2021年08月07日 | 歴史を尋ねる

・昭和25年5月2日、総司令部は憲法記念日のマッカーサー元帥のの日本国民向けメッセージを発表した。日本国民は国家的災難をもたらした神話と伝説に根差した伝統を振り捨て、これに代わる真理と現実に通ずる光明の道を選んだ。日本の憲法は自由アジアの大憲章(マグナカルタ)として歴史に記録されるだろう、と。そのあと、共産主義批判に移り、日本共産党について言明、「憲法の保護の下に結成された日本共産党は、最近では合法の仮面をかなぐり捨て、国際的略奪勢力の手先になり、外国の権力政策、帝国主義的目的および破壊的宣伝を遂行する役割を引受けた。これは共産党がその破壊しようとする国家および法律からこれ以上の恩恵と保護を受ける権利があるかどうかの問題を提起する」と。
・5月3日、宮城前広場に一万二千人をあつめておこなわれた憲法施行三周年記念式典で、吉田首相は「この憲法の理想を実現するためには、民主主義の仮面を装うあらゆる反民主的なものを排除せねばならぬ」と。
・駐日ソ連代表デレビヤンコ中将はマッカーサー元帥に質問状を送った。日本では旧日本海空軍基地の復活と近代化が行われている。これは1947年6月の「降伏後の対日基本政策」に違反すると見られるので、真相を対日理事会に報告してほしい。米軍基地の撤去を要求し、前日の元帥の共産党非合法化のすすめ声明に反発したものであった。
・5月4日、元帥は中将に返書を伝達、在日米軍基地は合法的存在である、批判は受け付けない、攻撃に対応する態勢も取っている、と。ソ連代表部は沈黙した。
・5月7日、英連邦対日講和作業委員会の参加八か国が合意したと報道、対日講和条約の早期締結は極めて望ましい緊急課題である、過酷な条件・懲罰的条件を付けるべきでない、ソ連および中共を参加させる道をひらいておかねばならないが、不可能の場合は、極東委員会の非共産国にインド、インドシナのバオダ政権を加えて単独講和を推進すべき、と。
・5月8日、吉田首相は記者会見を行った。日本と米国との間では、すでに事実上のいわゆる単独講和状態が出来ている。最近は軍事基地の問題がとりあげられるが、議論の多くはソ連の受け売りに過ぎない。いわゆる軍事基地は占領基地で、われわれは占領政策として当然に受け入れねばならない立場にある。基地が問題になるのは講和条約のときだが、われわれはまだなんの申し入れも受けておらず、今日議論すべきことではない。日本としては現在の事実上の講和状態を法的な条約締結に押し進めてゆかねばならない、と。
・5月11日、英米仏三国外相会議が開幕した。外相ベヴィンは、米国が会議前に方針案を届ける約束を守らなかった為、マスコミ、議会、実業界から攻めたてられた、今回長官が情報を与えてくれるかどうか知りたいと異例の挨拶。国務長官アチソンは、以前対日講和にともなう安全保障問題で困難にぶつかっていると報告した、現在もそれ以上は言えない状況である、軍部の主張は、ソ連・中共参加の場合、彼らの反対で安全保障条項を条約にふくませられなくなり、両国不参加の場合はソ連の対日行動を刺激する、というジレンマを抱えている、ゆえに軍当局は対日講和条約は締結できないと言っている。これから述べることは絶対極秘である、国防長官と統合参謀本部議長がマッカーサー元帥との意見調整にために訪日する。二人が帰国してから、国務省と軍部の協議が再開される。方針が未決定である事実は秘匿する必要がある。ソ連がかぎつければ、先手を打って対日講和会議開催を提唱する恐れがある。
・外相会議が正午に昼食となった。その直後、アチソン長官は国務省から急報を受け、愕然となった。ニューヨーク・タイムス紙が統合参謀本部と国務省のそれぞれの対日講和に関する見解を伝え、アチソンは統合参謀本部、トルーマンの承認を得ていない、との記事が掲載された。 統合参謀本部:対日単独講和を結ぶことは、ソ連の侵略を恐れる日本を含むすべての国にとって利益にならない、①ソ連が恐れるのはヨーロッパとアジアでの2正面作戦を強制されるが、講和条約によって日本における米軍と基地を失うことになれば、ソ連は2正面作戦の恐怖から解放される。②ソ連と日本との戦争状態がつづき、ソ連は日本に圧力をかけて他国との協定、条約の締結を妨害できる。 国務省:①日本列島がいざというとき対ソ作戦の基地に使えるからといって、無期限に占領を伸ばすには危険な政策である。②信頼できる協力関係は、講和により日本が再び大規模な独立性を与えることによってのみ可能である。③在日米軍の安全保障のための協定をつくるのは参謀本部の任務であり、統合参謀本部の希望を充たす政治的条件を決めるのが国務省の仕事である。以上の意見の対立は解消せず、トルーマン大統領は外相会議に対日講和問題を持ち出すのは賢明でないと判断した、と。漏洩防止を英国側に要請したのに、すでに米国側が漏らした形になった。
・5月17日、朝日新聞ニューヨーク支局は池田蔵相と元貿易庁長官白州次郎が次の結論を得て帰国する模様だと報道、①対日講和条約の締結は早期には実現しそうにない。 ②日本における中立論は米ソの冷戦状態がつづく現状では単なる理想論に過ぎないと米政府当局は見ている。 ③米ソ関係が近い将来に好転する見込みがない中で、現在日本では全面講和か単独講和かといってこれを政争の具に供するのは、日本が置かれている立場にそぐわない。 ④日本としては経済再建が当面の急務である。この点について、米陸軍省予算として援助を受けている以上、ドッジ政策、シャウプ税制勧告の原則をあくまで堅持する以外に道はない、と。 ふーむ、当時は朝日新聞も、池田蔵相の見解をそのまま報道していたのだ、読者にとってもこの方が理解しやすい。記者の想いはそのあとで十分だ。

・5月18日、トルーマン大統領は定例記者会見を行い、対日講和について語った。①ジョンソン国防長官の訪日は、これまでの他の地域への視察旅行と同じ目的を持つ。 ②講和条約締結の仕事はアチソン国務長官の責任である。 ③対日講和の交渉がそう遠くない時期に開始されることを希望する。  大統領の言明三点のうち最も重視すべきは②で、これは軍とマッカーサー元帥に対するけん制の意味も持っていると、AP通信は解説した。軍部首脳たちは彼らの論理で外交政策に掣肘を加えようとし、連合国最高司令官マッカーサー元帥を味方にして自分たちの主張を通そうとしている。これは民主政治の根幹にふれる問題であり、大統領は外交が国務省の担当であることを確認し、軍部に警告を与えた、と。この政府官邸筋の解説に従えば、大統領言明の②は、③とのあわせて、軍部にかまわずに対日講和を推進せよとの国務省に対する励声だとも理解できる、と児島襄氏。現実に、この日の夜、国務省は対日講和問題担当の国務次官補バタワーズの駐スウェーデン大使転出と、国務長官ダレスの専任および極東委員会米国代表ハミルトンの補佐就任を発表した。しかし日本側は、この裏面事情を知るすべもなく、軍首脳の訪日ニュースと大統領言明との関係の判断に苦しみ、米政府内に分裂が発生したと観測する向きが多かった。
・5月25日、ダレス国務長官顧問は、マッカーサー元帥と対日講和問題を協議するために来月早々に訪日し、また韓国も訪問する」と国務省が発表した。
・ニューヨーク・タイムス紙は社説でダレスの訪日を述べた。対日講和が伸びたのは、 講和参加国:極東委員会構成国13か国による対日講和を企図したが、いまやソ連と中国における傀儡政権を除外する対日講和を進めざるを得なり、ほかの太平洋諸国がどれだけ単独講和に参加するかも疑わしい。  極東におけるソ連の侵略:日本の脅威は朝鮮半島であり、ソ連が北朝鮮を支配している間に朝鮮半島から米軍が引き揚げれば、自由韓国は崩壊し、この短剣はソ連の手に握られる。一方日本は武力行使を正式に放棄し、非武装化も完全なものになっている。米軍の引揚げと同時にソ連に併合されないようにするのが米国の義務である。  ソ連の原爆保有:ソ連が原爆を持ったことは、沖縄の米軍基地や日本本土の航空基地以上のものを意味している。日本を防衛するためには、軍事的にも経済的にも日本本土を一つの基地にしなければならない、しかし米軍による日本の永久占領になってはならない。 ダレス顧問はこのような厳しい現実とにらみ合わせて、対日講和の諸問題を処理することを要求されるのである、と。 ふーむ、ニューヨーク・タイムス紙も当時は随分レベルの高い社説を掲載していたのだ、これこそマスメディア(報道機関)といわれる所以か。
・5月27日、対日理事会ソ連代表デレビアンコ中将が帰国した。夫人および代表部の幹部48人も一緒であった。
・5月30日、宮城前広場で「民主民族戦線東京準備会」主催の人民決起大会が開かれた。全労連、朝鮮人団体協議会、全学連、民主商工全協議会、東京地方労働組合協議会その他の左翼系団体が組織するもので、約200団体、約一万五千人が集まった。集会の趣意は、前年の同月日に東京都公安条例反対運動で死者一名を出した事件を記念するためと称されたが、「共産党の非合法化反対」「平和を護る全人民の要求貫徹」などのスローガンと、参議院選挙の共産党立候補者を支持するという決議案を用意していたことなどから、人民決起大会の性格は明らかだった。総司令部は反米・反政府集会と見定め、政治デモの慣例的措置としてCIC(対敵諜報部)要員を会場に配置した。丸の内署も制・私服警官を配置して警戒に当たらせた。丸の内署の巡査が演説の内容をメモしてると参加者がとがめ、メモを取り上げつるし上げた。それを見てCIC員5人が駆け付け声をかけた。メモ帳を取返し日本人警官に渡すと、二十五、六人に手と体を押しまくられた。丸の内署の制服警官数人が現場に急行、四人の米兵は約200人の群衆に包囲された。警官たちは警棒を振るって群衆を四散させ、4人を救出した。
・本来なら偶発的事故として不問に付されてもよい些事であったが、折から共産主義勢力の脅威が強調され神経をとがらせている時期で、米国側はいきり立った。「これは日本人が戦後初めて公然と米国軍人に襲い掛かった事件である。日本共産党は、まだ若い学生や興奮し易い韓国人を大規模な示威運動に混ぜ合わせるという、新しい戦術を示した」と。総司令部第二(情報)部長ウィロビー少将は声明した。「今回の人民大会は、日本共産党が行った一種の力試しであり、このデモとベルリンのドイツ自由青年同盟のデモは密接な関連があると思う。モスクワはコミンフォルムの野坂批判が告示するように、共産党が日本国内でさらに挑発行為を行い、議会主義を離れて戦闘的になることを望んでいる」と。
・5月31日、総司令部は警視庁に軍事法廷を設置し、非逮捕者8人を十一時間に亙って審理した。軍事裁判なのでだお二審はない。
・6月1日、共産党は書記局声明を発表、①今回の事件は警視庁のスパイとトロッキスト的学生による組織的、計画的徴発である、②軍事裁判の強行は、平和を欲する日本人を処罰し奴隷化することである、③国際独占資本と吉田内閣は、全民主団体を弾圧する口実を探している、④労働者人民大衆は自由のために戦わなければならない、とし、全労働者ならびに学生諸君は、6月3日、8人の愛国者の即時釈放のためゼネストをもって立ち上がれ、と呼びかけた。
・6月2日、警視庁は都条例に基づき、治安確保のために6月5日まで菅内全地域におけるあらゆる集会、デモを禁止し、日比谷公園は3日午前9時から午後9時まで立入禁止とする、と発表。警視総監は記者会見して、皇居前広場と日比谷公園は政治闘争の場にするのはよくないので、集会には一切使用させない。ただし年一回のメーデーについては、その都度考慮する方針である、と。
・6月3日、米軍事法廷で八被告は判決が言い渡された。重労働十年大西(全新聞労組朝日支部員、23歳)、重労働七年片岡(共産党東京都組織部委員、27歳)、秋元(立教大学生、24歳)、吉田(民主青年団中央合唱隊員、20歳)、清水(民主青年団東京都委員長、24歳)、前田(民主青年団中部地区委員長)など。
・6月4日第2回参議院選挙結果:自由党52(+15)緑風会9(-20)、日本社会党36(+18)国民民主党9(-11)、共産党2(-1)労働者農民党2(-3)、無所属19(+11)
・6月6日、マッカーサー元帥は吉田首相宛てに、書記長徳田球一はじめ24人の共産党中央委員のパージ(公職追放)司令を出し、政府は緊急閣議を開き、必要な手続きをとった。マッカーサーは言う、最近に至り日本の政治には新しい不吉な勢力が生まれた。この勢力は、日本の民主主義による進歩を阻害し、この平和で静穏な領土を無秩序と闘争の場にしようとしている。彼らの手段は、過去の日本の軍国主義指導者が日本人民をだましてその将来を誤らしめた方法と、驚くほど似ている、彼らの目的が達成されれば、日本が今次戦争以上の災禍を陥れられることは間違いない、と。共産党幹部に適用されたパージ指令は、軍国主義者追放のためと同じもので、将来に亙って公職につけず、公職者に指示してならず、事務所に立ち入ることも出来ない。
・共産党のショックは大きかった。しかし今回の指令は共産党側の自業自得の面もある、と児島襄氏。共産党は終戦とともに蘇生した時は、占領軍を解放軍とみて協力体制を示したが、東西冷戦の激化に伴って反米親ソ路線を辿り、その傾向はコミンフォルムの叱咤を受けて一段と強化された。占領軍は米軍に他ならない。その環境で反米闘争を展開すれば、反軍国主義、反戦を唱えていれば米国の支持を得られるとの「甘え」が通らぬことは予期される筈である、と。
・6月7日、こんどは共産党機関紙アカハタの幹部17人を追放するマッカーサー元帥指令が発出された。だが共産党が非合法化されたわけでもなくアカハタが発行停止になった訳でもない。


・ワシントンでは国務長官アチソンが発表した。長官顧問ダレスが対日講和問題研究のため東京に向かう(同行するのは国務省北東アジア課長アリ)。朝日新聞中村特派員は、ダレス氏の訪問によって対日講和に対する米国の態度が最終的に決まるものと見られる、と。
・6月9日、国防総省は発表した。ジョンソン国防長官およびブラドレー統合参謀本部議長は二週間の予定で極東視察の途につく。
・ジョンソン・ブラドレー・マッカーサー会談は、かねての軍部の主張の対日講和延期の合意が成立し、講和議論は押しのけられた、と報道は伝えた。ニューヨーク・タイムス紙は、対日講和問題の討議は純粋な軍事的配慮の範囲内にとどまるべきではなく、東京での軍事会談も単なる軍事基地の問題であってはならない、と論評した。
・6月22日、来日した顧問ダレスのスケジュール。10時:マッカーサー元帥会見、11時半:内外記者会見、零時30分:米商業会議所昼食会、2時半:衆議院議長幣原喜重郎会見、3時15分:駐日英代表ガスコンニュ会見、4時:参議院議長佐藤尚武会見、5時:吉田首相会見。政治的講和をめざす国務省側は、ワシントンでの軍部との最終対決のためには、東京で入手すべき世論であった、と児島襄氏。マッカーサー元帥、日本側指導者、各国の在日代表、日本在住の米国人実業家、宗教人、マスコミ人たちを国務省の支持者にすることが出来れば、それは現場世論の獲得だった。
・ダレスは事前に在日基地保持について聞きたいと述べ、マッカーサーは覚書を用意していた。ダレスはマッカーサーに対して、日本の安全保障は日本を犠牲にする米国の利益を目指すより、国際的平和と安全保障の鋳型にはめて決定されるべきだと説明、ダレス覚書をマッカーサーに手交した。日本の安全保障は国連が100%機能する場合、その枠内に組み込むのが得策、日本の国連加盟は条約締結後短期間に可能となり基地の持続も短期にとどまる。マッカーサーは即座に賛成した。しかし、翌日届けられた元帥の説明覚書では、国連による日本安全保障方式には一言も触れず、日本占領の持続と年間三億ドル支出の継続を提唱するような内容だった。
・吉田・ダレス会談は極秘扱いで、予定も発表されていなかった。会談の焦点は日本の講和後の安全保障問題であり、顧問ダレスは、講和後の日本の安全保障手段として「再軍備」、「米軍基地の永久化」の二つが考えられるが意見はどうかと吉田首相に投げかけた。首相は再軍備に反対で、自著「回想十年」で次のように述べている。「再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢である」として、 ①米国の軍備は比類なき富によって築きあげられたもので、敗戦日本が望み得べきことではない。 ②国民思想の実情から、再軍備の背景となる心理的基盤が失われている。 ③理由なき戦争に駆り立てられた国民には敗戦の傷跡が残っていて、その始末もついていない。だからダレスが来日した時、再軍備の要請を断った、と語っている。だがこの日の会談では、吉田首相は再軍備には賛成しなかったが、といって正面から反対することもなく、むしろ顧問ダレスを当惑させた、と。同席したシーボルトによれば、吉田は、日本の安全保障問題の解決は、米国が日本国民の自尊心を保持させることによって可能となる、日本が世界に向かって、自分たちが民主的で非軍国主義的で平和愛好の国家と国民であることを示せば、世界が日本を守ってくれるだろう、という趣旨を語った。シーボルトは日本国憲法の前文の暗誦に等しいとコメントしているが、吉田にとって顧問ダレスがどういう立場で来日しているか承知していないので、吉田書簡に示した具体的なことは言えなかったと当ブログ主は考える。もう少し深読みをすれば、日本国民の自尊心を保持させる方法と語っているので、占領方式でない安全保障方法ならいいのではないか、と語っているように理解できる。ダレスがどう理解したかはわからない。局長シーボルトによれば、顧問ダレスは憲法には触れなかったが、しきりに自分の国を他国に守らせるのは独立を捨てることだ、応分の血と汗を流さねばならぬと説いた。ダレスは首相から明確な回答または言質を得ようとしたが、首相は比喩と堂々巡り型論法で対応し、彼はあきらめた、と。ふーむ、吉田はしたたか、日本外交の真骨頂だ。ダレスの同行した北東アジア課長アリソンによれば、首相は自由世界が日本に何らかの重要な役割を期待するのであれば、占領の過度の長期化によって日本国民の精神と主導権を束縛すべきでない。ダレスがその日本が自由世界においてはたす役割とはどんなものだと考えているかと質問したが、首相は応えなかった。そして首相は、講和後の安全保障問題は適切な協定を結ぶことによって解決が出来るだろうが、自分としては今のところ関与出来ない、と述べた。ふーむ、占領下にある日本の首相として言葉として、最大限の言葉だろう。それとなく日米安保を匂わせているように思われるが、僭越で日本の立場からとても切り出せないと言う雰囲気が、言葉の端々から感じられる。そこのところを米国側がどう受け取ったか。総司令部外交局長シーボルトの日誌には、吉田首相は返答にも会話にもひどく内気な様子を見せた、と。


・6月23日、朝日新聞は「日本の願い」と題する社説を掲載した。問題は講和の内容である、周到を欠く講和は再び日本を戦火に巻き込め兼ねない、と指摘、非武装中立を保障してくれる全面講和が望ましい、それが日本にとって良き講和である、一方の陣営に組み入れられて武力紛争に巻き込まれかねない単独講和は悪しき講和だ、と。ふーむ、これまで見て来た極東情勢・東西冷戦を考えれば、この社説は表面的な言葉に酔っているように聞こえる、しかし当時の日本の識者はこの考えが多数派だった。
・顧問ダレスは日本における世論を確かめるべく、精力的に各方面の代表者たちとの会話を重ねた。民主党幹事長は、日本の野党が全面講和論で統一されているという新聞報道は誇張である、民主党に関する限り、必要ならソ連抜きでも対日講和が推進されるべきと考えている、と。しかし再軍備と米軍基地永続の質問に対しては曖昧な回答だった。米人実業家五人は、日本製品の品質が向上しなければ輸出伸長は期待できない、日本のレイヨン産業は希望が持てる、日本を早く復興させようと思えば、一日でも早く占領を終了させるべきだ、と。
・6月24日、ダレスは労組代表(国鉄労組、電産労組、全日労、総同盟)と会談した。労組側は ①ドッジプランは労働者を犠牲にする資本家再建策である。 ②講和は全面、単独の抽象論より、日本の自主権回復後の条件が問題である、米国の安全保障のために日本を前進基地にすることには反対である。 ③日本経済の復興のためには移民とマーシャルプランのような援助政策が必要である。 ④昨年のマッカーサー書簡、公務員法改正のお陰で本来の労働組合活動が出来なくなった。 ⑤日本の安全保障については積極的にやって欲しい、と。 ダレスは、①日本が中共を含めてどの国と貿易することも可能、②移民だけで直ちに日本の経済が良くなるとは思えない。移民がその利益を本国に持ち帰れなければ効果はない、③講和問題が抽象論が無意味であるとの意見には同感だ。国民生活水準の向上と安全保障に役立つ講和が必要、④ソ連と米国の国力がかけ離れている今日、武力的問題が発生する可能性は大きくない、⑤日本の労働者は、日本一国の利益のためだけではなく、国際的協力の立場から講和問題を考えてほしい。 アリソン課長は四人の代表の発言を記録している。詳細は省略するが、再軍備が望ましいと答えた人一人、対日講和は米国の利益だけになる惧れがある、日本の国会は押し付けられた憲法によるものである、社会党は憲法改正を国会に提議しようとしたが総司令部に阻止された、現在の国際情勢下では全面講和の基礎は見当たらない、ソ連抜きの講和が推進されるべきだ、共産主義勢力に対しては民主的対抗手段を採るべきだ、と。課長アリソンは、日本労働界は分裂状態にあるようだ、まとまった勢力とはみなされない、と感想を記述している。
・さらにダレスは社会党書記長浅沼稲次郎と対面した。浅沼は全面講和、非武装中立、民主勢力による新政治体制の確立を説明、ダレスは、自分は講和問題について理想主義的な立場をとっているが、理想と現実をどう調整するかが大きな問題だ、講和会議に至るまでに日本の自主性を回復して貰いたい、そして講和のためには超党派体制が必要である旨を力説した。自分は米国の野党の一員であるが政府の要請で外交の重要問題を扱うために来日した。これは米国の超党派努力のあらわれであり、日本にも同様のことを希望したい、と。浅沼は首を振って、自由党は超党派外交を呼びかけている。しかし、単独講和をいう自民党側が全面講和を求めるわれわれに超党派外交を言ってくるのは、理解に苦しむところである、と。ダレスはあと、最高裁長官とカナダ、中華民国代表と会見。

・朝鮮半島は1945年まで日本領だったので、韓国軍の下士官、兵のほとんどは元日本兵だった。将校も米軍政下の軍事英語学校出身者が中核になっていたが、その百十人も日本陸軍士官学校12人、日本特別学徒志願兵72人、日本特別志願兵6人、満州軍官学校出身18名、中国軍出身2名という構成だった。北朝鮮軍の方は、将兵のほとんどはソ連軍または中国軍に所属していた朝鮮人兵であり、朝鮮語を話せぬ者も少なくなかった。韓国軍を準日本陸軍とすれば、北朝鮮軍は外人部隊ともいえた。その北朝鮮軍主力十一万一千人が38度線の五方向から一斉に韓国内に攻撃前進してきた。完璧な奇襲で、韓国・日本・米国ではいずれも状況の把握と対応が遅れた。
・6月25日日曜日:午前4時20分、韓国陸軍参謀総長が異変の第一報を受けた。二時間前まで深夜パーティで痛飲していたので、夫人がゆすり起こしたが、頻発する国境衝突だとしてまた眠り込んだ。午前5時40分、情報局長は陸軍本部に駆け付けたが他の幹部はいない。午前6時、参謀総長に電話し、幹部の呼集と全軍非常警戒を下命した。米軍事顧問団本部に戦報が届いたが恒例の国共紛争事件として、了解の一語で反応しただけだった。午前7時、甕津半島と開城が孤立し、陥落は時間の問題と見込まれた。陸軍本部に参謀総長が出勤し、全陸軍に非常動員令を下達した。国防部長、外務部長が事態を承知したのはこの時刻であった。米大使館も北朝鮮南進の報告を受けた。KBS(韓国放送)も北朝鮮攻撃を報道した。午前10時、大統領李承晩は秘書から北朝鮮南侵の報告を相次いで受けた。米大使は可能か限りの情報を国務長官あてに送ると共に、マッカーサー元帥にも転電した。
・午前十一時平壌放送が傍受され、「売国奴李承晩の傀儡政府軍は38度線北部の地域に攻撃を開始した。わが国境警備隊は勇敢に奮戦し、その攻撃を海州地区において停止された。情報を検討した結果、朝鮮民主主義人民共和国は、わが人民軍に対し、決定的な反攻を開始して敵の武装軍を敗走させるよう命令した」と金日成の声明を伝えた。
・午後10時40分、米国務省に連絡を受けた国務相メンバーが集まった。次官補ラスクは国務長官アチソンに電話し、大統領トルーマンへの連絡と国連安全保障理事会の緊急招集を要求すべきと進言、長官は事態はそこ迄のものかと質問すると、次官補は①米国が平和の威信を保つことによって、米国の威信が保たれる、②夜が明ければアジア危機が報道される、その際に米国が行動していることを明示する必要がある。長官は同意した。
・午後11時30分、アチソン長官は大統領の承認を国務省に告げ、国連担当次官補は国連事務総長リーに米政府の意向を伝えた。事務総長リーは北朝鮮の行為は明白な国連憲章違反だ、自分が安保理召集のイニシアティブをとってもよい、と述べた。
・午前3時5分、国連安保理の構成国(英、仏、ソ、中華民国、キューバ、エクアドル、エジプト、インド、ノルウェー、ユーゴ)駐在の米大使館に通電、①米国は朝鮮半島の動乱に関して国連安保理の招集を提議する。②各国政府に対して、それぞれの国連代表が即時に対応するよう要請せよ。
・午後6時、局長シーボルトは国務省に電話し、次官補ラスクと会話した。次官補は、国連に対し緊急措置を取る、安保理を招集する、この際マッカーサーを激励して、韓国に武器を遅らせるようしてくれ、と。
・局長と顧問ダレスがマッカーサー元帥に会うと、元帥は楽観的に述べた。自分は韓国軍を信頼している。最初のショックが去れば、韓国軍は発奮して敢闘し、戦線を維持するだろう。武器弾薬の援助は手配する。戦闘機の護衛付き輸送船で送る、と。何も恐れることはない、戦争をする必要はない、と元帥は付言した。が、ダレスは強調した「アジア人を押さえるには大鉄槌が必要だ。それはわれわれが対日戦で体験ずみだ」
・官房長官岡崎勝男が記者会見した。今日の交戦は全く予期していなかった、これをきっかけに第三次大戦になるようなことはあるまい、日本への影響は分からぬが、少なくとも対韓貿易に支障を来すかもしれない、国内の治安には万全を期す、と。


冷戦下の日本の迷走 「講和主務者ダレスの登場と吉田書簡」

2021年07月30日 | 歴史を尋ねる

・昭和24年11月2日、英政府筋(英外相ベヴィン:オフレコ)談話、英国は対日講和条約の起草にソ連が参加することに賛成であり、中共政府承認のあかつきには同政府の参加を支持する。ソ連および中共政府が米英の対日講和条約案に賛成しない場合、または対日講和の引延しを図る場合は、英国は両者の参加なしで対日講和を推進する用意がある、と。
・英信頼すべき外交筋:英外相はソ連が外相方式に固執するなら対日単独講和も辞さぬ決意を固めた、と。英国マスコミの関心は、講和条約そのものより、対日講和が全面講和より単独講和の道を歩んでいると受け止め、その点に関心を集中している、と。
・11月8日、朝日新聞社説は、講和会議の早期開催は一大朗報である、しかしわれわれは関係国全部による単一講和を強く要望したい。各党も代表者が声明を発表した。纏めると、丸腰の日本は単独講和では外国の侵略と戦争の脅威にさらされるという。侵略と戦争の元凶だと指弾された日本が、逆に侵略と戦争におびえる環境を強制されそうだと、単独講和の不安を口にする。しかし日本が単独講和を拒否できるかといえば、不可能である。講和が成立するまでは日本は戦争状態の延長である占領下におかれている。講和条約の締結も占領の一部である以上、連合国側の意向に反抗することは出来ない。そして、講和成立➾独立➾自由貿易による生活向上という未来図を期待する一般国民にとって相次ぐ講和報道は朗報以外の何ものでもない。単独講和といっても、東側陣営より多数国の西側陣営とのものであれば復興と繁栄の機会は十分与えられる。東京商工会議所には11月はじめ以来外国からの商談申込みが急増し、業者の講和成立後の渡航申請が倍増し、貿易業の開店も倍増し、一気に講和景気が叫ばれはじめた。
・11月11日、国務省極東局長バタワースから対日講和条約草案第二次案が総司令部外交局長シーボルトに送られてきた。至急マッカーサー元帥の論評を得たい、と。第一次草案と比べて最も違和感を覚えたのは、第二次案では日本の領土から択捉島、国後島、歯舞諸島、色丹島の北方領土が削除されていた。注記に、米国が日本帰属を提案するかどうかの決定は下されていない、米国は本件を持ち出さないが、日本が領有を主張すればわれわれは同情的な態度を示すことを考えている、と。しかし北方四島について、国務省政治問題法律副顧問スノーが、「これら諸島は戦前は疑いもなく日本の一部であり、ヤルタ協定でいう千島列島の一部でない限り日本に保有されるべき」と歴史的、政治的根拠を明示している。シーボルトは元帥の執務室に出頭して、第二次案の三カ条について修正または削除を勧告する国務省宛ての元帥電文を見たあと、局長電文は北方領土の日本帰属と竹島の日本帰属を追加して国務省に送った。このシーボルト案が受け容れられ講和条約に規定されていたら、現在も続く領土問題が発生することもなかった。
・11月30日、中共軍が重慶市に入った。蒋介石機が出発するのと入れ違いで、蒋介石、間一発の脱出だった。
・12月5日、国務長官アチソンが関係諸国に通告した。「国民党政府と中共政府という二つの政権が互いにそれぞれ有効な支配地域をもって中国本土で活動を続けるならば、米国は依然国民党政府を承認するという現在の立場を維持する」 問題は国民党政府が台湾に移って抗戦を主張する場合、台湾に国民党政権が樹立されるのが適切かどうかが問題となる。台湾は現に国民党政府の支配下にあるが、法的には対日講和が成立までまだ日本の領土だという解釈もある。
・12月7日、蒋介石は台湾遷都を決定し、行政院長に今日一日で政府の移転準備を済ませ台湾に急行するよう指示した。
・12月16日、中華人民共和国主席毛沢東はソ連を訪問した。毛沢東は声明を発表、「この三十年間、ソ連人民と政府は中国人民の解放のために手を差し伸べてくれた。われわれはソ連が中国人民に示してくれた友情を決して忘れない。今や全世界の平和を確立するための主要な課題は、両国間の善隣関係を進め、すでに結ばれている友好を一層固めて、戦争商売人と戦うことである」 
・12月22日、国務省が要請した対日講和条約の安全保障条項に関する軍の考えを、統合参謀本部議長ブラドレー大将は国防長官ジョンソンに覚書を提出した。対日講和にはソ連および事実上の中国政府が条約調印国として参加すべき、参加できないとすれば、対日講和は時期尚早であるとの見解である、と。
・12月24日、長官アチソンは二人の将軍に告げた。対日講和条約に安全保障条項を含ませるのは不可欠、①日本の侵略再発の防止、②ソ連共産主義者の日本侵略の防止、という二つの目的を持つ。だが完全に非武装化した現在の日本が、将来再び侵略的脅威国になるには、ソ連の軍事力と連結した時だけである。だから、対日講和における安全保障問題の焦点は、ソ連共産主義に対する日本の防衛になる。
 安全保障策:日本の安全を中立で保障する構想は、現在の東西緊張下では幻想にとどまる。①西側陣営が日本の中立を守っても、ソ連は最終的に日本を侵略的脅威国に育てるための国内侵入戦術を行使し続けるであろう。②日本を防衛する国連軍は、まだ存在しない。③現在の情勢では、自衛の為の日本再軍備は国際的に受け入れられない。従って、日本の安全保障策として考えられる唯一つ  琉球、小笠原諸島を含む日本領土における米軍の駐留と基地の保有だけである。以上を英大使あてに書簡として用意した。長官は書簡の中で、英国に事情説明するのは、英連邦諸国、国際世論、日本国民の誤解と反発を避けるためだと強調した。二人の将軍はあっさり同意した。
・12月27日、オーストラリア、セイロン、パキスタン、インド、ニュージーランドの米大公使宛てに電報、「米国は正論会議に対日講和条約草案を提示できなくなった。当該草案の完成時期は未定」 対日講和延期の通告であった。

・昭和25年1月3日、UP通信東京支局の報道として、マッカーサー元帥がワシントンへ献策した内容の記事、①米国にとって最重要事は、共産主義勢力の拡大阻止、②アジアでの共産主義打倒のための強硬姿勢は、欧州でこの脅威と闘うのと同様に重要、③台湾は戦略的に重要な島、非共産主義勢力によって保持されねばならない、④もし台湾が中共の手におちれば、アラスカから日本を経てフィリピンに至る極東の防衛線に突きつけられた短剣になる。 この元帥の意見は目新しいものではない。しかし元帥は、大統領、陸軍省に任命された存在、この発言は越権行為であり、文民統制を乱す行為である、と。
・1月5日、トルーマン大統領は新年の記者会見で、台湾問題だけを取り上げ、声明を朗読すると退場してしまった。①米国は台湾あるいは中国領土の如何なる地域に対しても侵略的意図を有していない、②米国は台湾に軍事基地を設置する希望もなく、武装兵力で現状に干渉する意図を持たない、③米国は、中国の内紛に介入する道を歩まず、台湾の国民政府軍に対して軍事援助または勧告を与えるつもりはない、と。
・1月10日、国務長官アチソンが上院外交委員会秘密会で極東政策について証言し、①太平洋における米国の安全保障ラインは台湾の東方におかれ、日本、沖縄、フィリピンを連ねる線である。この防衛戦は台湾を含まなくとも鉄壁である。②米政府は、台湾にたいして軍事援助または軍事援助または軍事的勧告を与えることに反対。③民主化された日本の影響力は、全極東地域に再び確立されなければならない。④米政府は、ソ連が参加または不参加の場合の対日講和条約締結の可能性について検討中であり、将来の日米関係の性質についても研究中である。⑤中共政府の承認問題は、中共が国際法を守り米国の市民と権益を保護するかどうかにかかっている。アチソン長官の証言は日本の強化と台湾の切り捨てを表示したものだという消息筋の論評を、UP通信が伝えた。  児島襄氏は触れていないが、金日成はこの証言から韓国へのアメリカの関りは低いとみて、大韓民国への侵入、半島統一の道をひた走った。
・1月12日、国務長官アチソンは全米記者クラブで演説、「米国の極東政策」。 ①アジアの民衆は外国の帝国主義と搾取の終結を要求している。共産主義の脅威は、単に軍事的手段だけでは防衛出来ない。米国は技術的経済的援助を与える。 ②国民党政府が一孤島に逃れるに至った理由は、極度の窮乏に甘んじ得る中国民衆の忍耐にも、遂に限度がきた。中共はこの事実を利用して政権を握ったにすぎず、自分で勝利の道をひらいたのではない。 ③米国内の中国問題に関する混乱は、主にアジアで発生している革命の本質を理解しなかったことに由来する。アジアで戦後七つの新国家を誕生させた革命は、外国帝国主義と日常生活の悲惨と困窮に対する反抗にほかならず、それは民主主義の発生要因でもある。米国は新国家群を助けてその政府を強化し、共産主義の侵入を撃退すべきと考えている。 ④ソ連の武器である共産主義哲学は、古いロシア帝国主義に新たな技巧を付け加えたに過ぎない。 ⑤米国は、米国、太平洋、日本の安全保障の利益から、日本の防衛を引受けねばならない。米国は日本の防衛を放棄し、弱める意図は全くない。日本を守るためには、恒久的な対日管理か、その他の方法がとられねばならないが、いかなる取り決めが行われようとも、日本防衛方針そのものは保持されねばならない。 ⑥日本国民は三つの問題に直面している。安全保障はすでに述べた。政治面ではマッカーサー元帥が非常な成功をおさめ、日本は非軍事的体制に基礎を置く政治的組織を確立しつつある。経済面では、政治面ほどの成功は出来ていないが、その主因は日本の貿易が復興していないことにある。この問題は、条約による処理などで、日本の貿易上のより自由または完全自由を認めれば解決する。 ふーん、日本の復興は日米の二人三脚で進められていたんだ。
・1月14日、北京事件が発生した。北京の米総領事館は中共当局に占領され、総領事ほか米国人職員が建物から追い出された。じつは1月6日、中共政府は外交関係がない米、仏、オランダ三国の総領事に対して接収する旨通告していた。国務省の短い発表以外に背景事情を知らない一般国民にとって北京事件は、瀋陽総領事追放に続く中共側の敵対行為としか思えない。米政界は沸き返った。UP通信による外交筋の見解として、①米国の中共承認は無期限に引き延ばされた、②対日講和会議の参加国を決める手続き上の問題解決も不可能になった、③極東情勢は緊迫化し、対日講和は早すぎる、米国の安全のために日本占領を継続すべきだという軍の主張に勢いを与えた。
・日本では国会開幕が近づいたが、政党がごたついた。社会党:左右両派の対立が激化し、党大会も互いに非難し批判し攻撃し合うばかりで議事が進まなかった。 共産党:昨年6月の中央委員会で、政治局員野坂参三が国会活動報告を行い、吉田内閣を倒せばわれわれが政権を取る、広汎な大衆組織による人民政府である。占領下にあってこのような政府が出来るかという疑問に対して、ポツダム宣言は日本国民の自由に表明された意志に従い平和的傾向を有し責任ある政府が出来たら占領は撤退すると明記、大衆の圧倒的支持があればわれわれは政府をつくることが出来るし、連合国の承認を得ることもできる。現に中国の場合、最近のニュースでは英、仏、ソさらに米国も新政府を認めざるを得ないようになっている、このことは日本にも当てはまる、と。すると6カ月以上たった1月6日、コミンフォルム機関紙は、以上の発言をとらえて痛烈な野坂批判を発表した。日本共産党指導者野坂はブルジョア的態度を取っており、帝国主義者の召使である。彼は占領下で人民民主主義政権の樹立が可能だと述べているが、その理論は日本人民を誤らせるものである。日本の人民の指導者は、日本の独立は帝国主義者との結合の排除、すなわち民主主義と社会主義の道をとることによってのみ達成されることを悟るべきだ、と。
 その翌日、ソ連共産党機関紙「プラウダ」も同調して主張した。「野坂ほか日本共産党中央委員数人は反マルクス的、反社会主義的、反人民的理論を宣伝した  野坂は米占領軍に奉仕した点、また日本人民をあざむいた点で非難されるべきである」と。1月17日、中国共産党が野坂批判に参加した。野坂の誤りは単純なものではなく、偶然的失敗でもない、日本共産党はその歴史上決定的な局面に直面している、われわれは同志的立場から、日本共産党がコミュンフォルムの批判を受け入れ、野坂の誤りを正す勇気を示すことを切望する、と。

・社会党と共産党の内部紛争はあっさりケリがついた。社会党は左派と右派に分裂、右派は委員長片山哲、書記長水谷長三郎、左派は書記長鈴木茂三郎。 共産党は拡大中央委員会を開き、野坂参三の自己批判を受け入れ、①中央委員会はコミンフォルム機関紙の論評の積極的意義を是認する、②中央委員会は野坂政治局員の自己批判を認め、その理論に原則的誤りがあったことを確認する、③国際プロレタリアートとの提携を強化する、と。コミンフォルム、ソ連、中国の批判に対する屈服であり、共産党は国際共産主義陣営の一員であることを明確にした。
・1月28日衆議院本会議、施政方針演説に対する最後の質問に与党民自党政調会長星野二郎が演壇に立った。①講和の遅延:講和の遅れはソ連が四国外相会議方式を固執するからで、対日平和は手続論から一歩も漸進しない。野坂君が全面講和を主張するならば、それはソ連に向かってするのが良い。 ②全面講和か単独講和か:一、二か国を後回しし、大多数の国々と早期講和をして占領状態から脱却する。これを単独講和と独断し、それを主張するものを売国奴呼ばわりする人がいる。だが、いまや連合国の大多数に日本の独立の回復、国際社会復帰のための講和締結を歓迎する機運が高まっている。国民も今年こそはと、講和を期待し喜んでいる。大多数の国民の要望に応えるのが売国か、ある一国のために国民の心を裏切ることが売国的か、国民の判断にまかせたい。 ③領土:ヤルタ協定は「千島列島はソヴィエト連邦に引渡す」といっている。千島列島とは何処を指すのか。国際的かつ歴史的に認められているように、千島列島は択捉水道によって南北に分かれ、同水道の西側の南千島四島、択捉、国後、歯舞、色丹は日本の固有の領土である。野坂君はこの日本領土を放棄せよというのか。 ④安全保障:東西対立の情勢に鑑み、対日講和に参加しない国が出た場合、日本に原子爆弾が飛んでくるとまことしやかにいう人がいる。しかし、対日戦参加国はすべて終戦文書に調印している。わが国の安全は、新憲法に徹し国連参加によって保障されるものと信じる。 ⑤講和の受け入れ態勢:アメリカの対日援助に難癖をつけ、せっかくの外資導入に反対する者がいるが、日本の復興を妨害し暴力革命を醸成しようとする底意を感じる。その国籍はいずれにありや、疑わざるを得ない。コミュンフォルムの批判に屈従し、中共機関紙の批判に叩頭する人々こそ植民地的奴隷根性であり、かかる人々が愛国を唱えようと、国民は決して信じない。
・吉田の答弁、日本国民がひたすら念願するのは、一日も早く講和が成立して日本が独立を回復し、世界の文明国の一員として活動できることである。いま侵略主義を標榜しているのは共産主義者であり、ファッショ、全体主義を唱えるのは共産党である。愛国の名に隠れて売国奴などという野坂君の心情が分からない。民自党と内閣は国民の念願に応え、早期講和に邁進する。これに反対するのは共産党諸君である。国民の名において、甚だこれを悲しむものであります、と。
・2月1日、ワシントンで、ソ連大使バニューシキンが国務長官アチソンに覚書を手交した。第二次大戦中に関東軍は国際法違反の細菌戦を準備した、その責任者(天皇、軍医中将石井四郎ほか2名、関東軍参謀長笠原幸雄中将)を戦争犯罪人として裁く特別国際軍事法廷を開設すべき、と。日本の戦犯裁判のうち、A級につては前年の2月国際検察局の閉鎖が発表され、B,C級は八か月後の10月裁判の終了が宣言され、いずれも閉幕している。ソ連の狙いは宣伝だ、一つは日本人捕虜を帰国させないのは不当だという国際的批判に対しての理由付け、もう一つは米国の反対を見込んで、反米宣伝に利用する、とUP通信。
・2月14日、モスクワ放送は、中ソ友好同盟条約が締結された旨を報道し、二つの付属文書(長春鉄道・旅順・大連協定、借款協定)を含めて全文を発表した。日本国民は仰天した。条約第一条で仮想敵は軍備を放棄した日本とその同盟国にしていた。さらに満州の幹線鉄道と軍港を対日講和成立後あるいは1952年末まで保有するという。第二条では共同で対日講和条約の締結を獲得する、と。しかしこの条約は別の見方があった。そもそもこの条約の締結を持ちかけたのはソ連側であった。1945年8月、国民党政府と中ソ友好同盟条約を結んだ。そこで中共政府に対してさらに有利な条約締結を迫った。ニューヨークタイムス紙特派員ザルツバーガーは西欧筋、東欧筋の情報を総合して真相を暴露した。 中ソ友好同盟条約はソ連外交の失敗の記録である、ソ連は共産主義社会の盟主という立場と核兵器を含む軍事力とで中国を実質的属領にしようとした、しかし人と大地しか持たない中共政府は、却ってそれを武器にして、ソ連の要求を経済面に絞り込み、主権と領土を守り抜いた。また、UP通信は、条約正文は交渉が難航したことを示している、中共側はソ連に満州、新疆、モンゴルに対する野心を放棄させ、2年後の満州を返還させる約束を取り付けた、と。
・2月22日、衆議院外務委員会で首相は答弁した。中ソ友好同盟条約は全面講和にどのような影響を及ぼすと思うかとの質問に、全面講和が良いに決まっている。同時に全面でなければ講和しない、いつまでも日本を戦争状態に置く方がいいと考える人もめったにいないはずである。従って、事実上の講和であろうが、二か国、三か国の間の講和であろうが、いかなる国といえども平和関係に入り国交を回復しようという国があるならば、これと同意すべきであるとおもう、と。だから、そもそも全面講和を論ずるのはおかしな話であり、学者、有識者が云うことなどは当世の杞憂といわざるを得ぬ、当時の言論界をにぎわした全面、単独の議論を意識した答弁でもあったのだろう。

・3月24日、大統領トルーマンは、陸軍次官ヴォーリスが辞意を表明している旨を発表した。次官ヴォーリスが軍部の対日講和尚早論の代表者であり、その主張が国務省の早期講和論と対立し、対日講和が難航していた。三日後、パタワース極東局長は、国務次官補としてアチソン長官の日本問題専任官に任命された。同氏は国務長官とマッカーサー元帥との間の連絡を担当することになり、近く訪日して元帥と意見交換を行う、と。
・3月30日、トルーマンは対日講和を超党派外交で実現させるべく、共和党との交渉を指示した。
・アチソンは共和党長老に接触し、対日講和には国連憲章起草も手掛けた外交のベテラン、ダレス全議員を推薦。
・前議員ダレスは承知し、声明を発表、国務長官顧問に就任、4月7日、国務次官から国務省の見解をヒアリング、「対日講和の焦点は、安全保障にあると理解する」と。米国は日本を守る義務はない、しかし、日本の再度の攻撃から米国自身とアジアを守り、日本を共産主義勢力から防衛する義務は、米国が担わなければならぬ。まずは日本の安全保障体制を確立し、その上にたって講和条約を締結すべき。 日本の中立化:そんな約束はソ連にはなんの意味もない。 在日米軍基地の保持:英国に米軍基地があるのと同じく、日本の安全に取って有効である。ただし、英国と同様に、日本人の方から米国に基地の設置を要請させるべき。 太平洋同盟:その有用性には疑問である。 国務省が支持するのは在日米軍基地、それも最小限の基地の保持だけだが、顧問ダレスは的確に他の三案を排除して見せた。
・顧問ダレスは強調した。日本の安全保障の主役は米国である。その政策の実行にためには、まず上院の承認が先決であり、日本および連合国の同意に優先する。だから条項は日本に対する保護よりも日本からの攻撃に対する防衛条項を第一位におくべき。武力行使は自動的にならぬように。日本の戦争放棄憲法を日本防衛の背景要素として活用すべき。講和条約には、日本に対する監視と保護の規定を設けて、直接的には日米安全保障協定を結べばよい、と。
・同じく4月7日、総司令部外交局参事官ヒューストンが吉田首相主催の夕食会に招かれた。吉田は中国情勢について、中国は決してクレムリンの奴隷にはなるまい、中国人の知性、賢明さ、政治的狡猾さはロシア人を上回っている、と。さらに選挙の争点は何かと質問すると、吉田は、国民は講和と安全保障問題に最大の関心を抱いている。①日本は戦争放棄憲法を放棄すべきでない。非武装こそ日本の安全保障手段である。 ②占領下の日本は、連合国最高司令官が必要とする軍事基地その他の施設の設置に反対する権利を持っていない。 ③非武装日本は講和後も米国の保護に依存せざるを得ない。
・4月20日、この日発売のリーダース・ダイジェスト誌にマッカーサー元帥インタビュー記事が掲載された。元帥はその中で、日本は東洋のスイスになるべきである、日本は講和後再武装をしてはならない、民主主義は日本に定着した、日本は現に民主国家である、第三次世界大戦の可能性はゼロに近い、との見解を明らかにした。
・マッカーサー元帥の発言は野党を勢いづかせた。スイス並みの永世中立国になるには、その地位に対する世界の承認と支持が不可欠である。対日講和も全関係国が参加して中立日本に合意することが必要であり、元帥の言明は、野党側の全面講和論をバックアップするものと解釈できる。4月26日、共産党を除く野党各派は「野党外交対策協議会」を開き、「平和、永世中立、全面講和」をスローガンにする平和運動の展開を決議するとともに共同声明を発表した。
・4月30日、蔵相池田勇人がワシントンの陸軍省を訪ね、顧問ドッジと会談した。蔵相は25日以来訪米中だが、その目的はドッジ・ラインの日本経済の現状に合わせた修正、輸出振興、国際通貨基金への加入その他日本の復興促進のための課題について、米国側と折衝するためであるといわれた。ただニューヨーク・タイムス紙だけが、池田蔵相は別の使命ももっている、と一面トップで報道した。「講和問題に関し日本では深刻な意見の相違があり、政争の道具になっている」 日本政府の対日講和に関する率直な意見を伝え、米国の了解と支援と講和促進を求めて選挙戦を有利にするのがもう一つの狙いだ、と。
・この日蔵相は議題を対日講和に絞り込んだ。政府および与党・自民党はすべての関係国との速やかな講和を望んでいる。日本国民の大多数も、どんな形にせよ、講和の一日も早い成立を歓迎している。来るべき参議院選挙において、講和問題に対する立場を明確にして国民に訴えられるかどうか、勝敗のカギになると認識している。在日米軍基地の存続は、いつまでも仮定のままであれば、野党側に基地反対を口実にして反政府運動を強化させる。池田はその述べると、吉田首相の親書を手交した。その要点は、①日本政府は最も早期の対日講和条約の締結を欲している。 ②講和条約はその条項の履行の保障その他の理由で在日米軍基地の存続を必要とするものと見られる。もし米政府が条約正文に基地存続条項を挿入することに躊躇するのであれば、日本政府は自発的に提案する道を見出すよう努力する。 ③日本政府は講和後の米軍基地の存続と日本国憲法との関係を研究した結果、米軍基地の存続のための条約締結は憲法上可能、基地存続が日本からの自発的な要請にもとづくものであっても、憲法には違反しない、米軍基地存続の条項が講和条約に規定されても、別の協約が結ばれても、憲法上の問題ない。
・「衝撃的感銘を受けた」とのちに顧問ドッジは回顧する。軍部側の意向に沿った提言であり、あえて日本の主人マッカーサー元帥の意に反する決心を示したともいえる。また、吉田書簡の背景には、日本の安全に対する首相および日本政府の深刻な危機感があるものと推測したが、同時にこの書簡は米国の対日講和方針にも新展開をもたらすかもしれぬ、と感得した。
・顧問ドッジは会談記録を国務省に報告した。 「これが日本政府の本音だ」会談記録を読んだ国務次官ウェッブは叫び、国務次官補パタワースもうなづき、二人は対日講和主務者の国務長官顧問ダレスに急送した。「これは、われわれが初めて知った日本政府の講和に関する公式見解である。最重要視するに値する」


冷戦下の日本の迷走 「経済九原則改革と下山事件、三鷹事件、松川事件」

2021年07月23日 | 歴史を尋ねる

・昭和24年6月10日、東神奈川車掌区の「人民電車」は総司令部からの中止命令で単発ストの印象を受けたが、政府はそうは見なかった。その態様は、国鉄労組本部の指令によるものではなく職場闘争の形を取り、かつその地域の民間労組、友好団体を巻き込んだ。共産党が主張する「地域人民闘争」そのものであり、さらに国鉄が拘束される公共企業体労働関係法を無視し、「人民電車」に象徴されるように国鉄の人民管理を叫んで「権力闘争」の性格を明示している、と。今回のストは占領政策違反であり、経済九原則違反であると総司令部経済科学局労働課長エイミスが声明すれば、政府は、共産党側がその「革命戦術」を露呈したものと見做して、対策を急ぐことにした。
・6月15日、台湾で新幣制が施行された。金塊80万両と米国の貿易援助資金一千万ドルを準備金として、台湾元「二億元」を発行した。レートは従来の政府元四万元に対して一台湾元、または一ドル=五台湾元とされた。これで中国には中共の人民元、政府元、台湾元の三つの通貨が存在、このうち台湾元が最も強い。蒋介石は台湾を本国の経済危機の負担から解放し、自分の反共体制を世界にアピールしたと、米大使館参事官クラークは解説した。
・東京軍政部長ホリングスヘッド大佐は、「日本の経済復興が非合法の政治的労働争議のために不可能になるならば、労働運動そのものに責任がある。不穏闘争をこととする少数分子がいかに日本の労働運動に害を与えるかについて、大多数の無関心な組合員は認識を新たにすべき」と声明。民自党幹事長広川弘禅は、「共産党は八、九月に暴力革命を企てており、これらについては慎重に処置を講ずる」と談話を発表、「党としては反共国民運動を起す考えだ」と。
・6月16日、政府は治安関係閣僚会議を開き、申し合わせを行った。〈情勢判断〉今回の国電ストは単なる労働争議ではなく、「政治闘争」である。今後もこの種のストの続発が予想され、放置すれば夏から秋にかけて大きな社会的混乱が起こる恐れがある。〈対策〉司法処分に頼るのでは不十分である。政治闘争を事前に食い止める実力行使も辞さぬ予防的措置が、取られねばならない、と。 次いで全国検事長検事正会同が開かれた。法務総裁:民主主義の名の下に民主政治の破壊を目的とする非民主主義勢力の悪質非合法な活動に対しては、法令の命ずるところに従って断固たる措置を取り、混乱を未然に防止して貰いたい。検事総長:本年下半期に於いては政権闘争を目的とする広汎な労働攻勢が展開され、防衛闘争に名を借りて争議関係者以外の勢力を糾合し、暴力の手段に出るであろう。毅然たる態度で不法行為の検挙と鎮圧に努められたい、と。 国家地方警察本部長官も全国警察隊長会議を招集して、非民主的警察官の排除、暴力に対する徹底的弾圧、国内治安の第一線に立つ警察官としての心構えの徹底、を訓示。以上から、共産党は秋期革命を計画している、未然に防止する、というのである、と児島襄氏は纏める。
・英紙マンチェスター・ガーディアンは、米国は日本を反共陣営内に保持するために軍事占領の継続方針を固めていると報道。
・6月20日、対日理事会ソ連代表部が95000人の日本人引揚を実施すると、マッカーサー元帥に通告、日本側の問い合わせに、全部軍人の捕虜であるとソ連代表部。
・6月27日、引揚再開の第一船が舞鶴に入港、甲板に群集した引揚者たちは、突然一斉に国際青年の歌を合唱し始めた。出迎えた人々は日の丸をふる手を止め、万歳の叫び声を呑み込んで、呆然と歌う引揚者を見上げた。
・6月30日、政府は閣議で164000人の官庁、公共企業体の人員整理を、最大規模の国鉄(95000人)から実施することを決め、声明を発表した。「経済九原則に則り、財政上の均衡を確立し、国民負担の軽減を図るため、各省行政機構を大幅に簡素化したが、今回いよいよ行政整理を断行せんとするものである」「この行政整理による退職者に対しては、産業の振興、建設事業の拡充等により極力これを国家再建のため必要な他の職場に吸収せしめる所存であり、その他失業対策および社会保障制度等については万般の準備を着々と進めている」と。
・早くも福島県平市で騒擾事件(平事件)が発生、朝日新聞は社説で、事件は純然たる暴動、些細な問題をとらえての暴発は、きっかけをとらえる計画があったことを推察させる、事件はすこぶる重大な問題を底にひそめていると見ざるを得ない、と。
・7月4日、米国独立記念日、宮城前で米軍のパレードが行われたが、マッカーサー元帥の激励声明が今年は日本国民向けとなり、共産主義運動を批判した上で、幸いに日本国民の多数は共産主義の宣伝に動揺していない、日本国民こそ、共産主義の東進を食止め南進を阻止する有力な防壁である、米国民は、米国民主主義の不変の理念が日本国民によって前進させられることを確信してよい、と。
・仙台高等検察庁は平事件に騒擾罪を適用、国鉄は人員整理の第一次分30700人の実施を開始した。
・7月5日、国鉄総裁下山定則が行方不明になった。増田官房長官によれば、第一報は午後二時ころ、治安対策閣僚会議中に新聞社から届いた。警視総監田中栄一が捜査指令を発した。午後5時すぎ、総裁運転手大西正雄からカー・ラジオで総裁の行方不明のニュースを聞いて、仰天して警視庁に電話した、と。
・7月6日午前零時25分頃、常磐線線路上寸断された轢死体を発見、所持品から総裁と判明した。総裁の遺体を解剖した東大法医学部教授古畑種基は、遺体に生活反応がない旨を発表した。警察は2日前に首相官邸に「吉田首相および閣僚、田中警視総監、下山国鉄総裁、加賀山副総裁を暗殺する  引揚者血盟団」という脅迫状が届いていたことを明らかにした。事件が共産党側によるものだとの観察が広まっただけに、政府はじめ人員整理を実施する側に有利に作用する効果を生んだ。
・7月10日、蒋介石はフィリピンを訪問して、大統領キリノ提唱の太平洋反共同盟を探ったが、大統領からは先ず韓国を含む三国同盟を結んで、その後他の国々に参加を求めようとする提案に変わった。米国側の反応は冷淡で、米国務長官アチソンは、太平洋防衛条約の締結は時期尚早との見解を述べた。
・極東委員会でソ連代表の駐米大使バニューシキンが、日本では政府労働者のストライキを禁止する諸法規が実施されているが、これは労働組合、進歩的分子の抑圧を目的としたものである。日本政府は経済安定を名分にして、警察の勝手な干渉制度を設け、大規模な弾圧措置を労働組合、進歩的分子に加えている。極東委員会が以上の米国の対日政策を直ちに中止させることを、要求する、と。
・議長である米国代表マコイがソ連代表の発言を公開し、七千語に及ぶ反論を行った。ソ連代表は再び米国の対日政策を攻撃し、マッカーサー元帥は反駁声明を発表した。ソ連と共産主義者は日本赤化のための暴力の輸出に失敗した、バニューシキン発言は口惜しまぎれの雑言だ、と。
・7月15日、午後9時24分、東京中央線三鷹駅構内の車庫内の7両連結の無人電車が突然暴走、死者6人、重軽傷者20余人を数える大事故となった、三鷹事件であった。
・吉田首相は声明を発表、現在の社会不安は主として共産主義者の策動による、虚偽とテロが彼らの運動方法である、人心の不安と動揺をあおり大衆に駆り立てる暴力行為に出るのが彼らの常套手段、国民諸君が常に落着いておられることを切に希望する、と。
・朝日新聞は首相声明に論評、これによって政府は初めて共産党を社会不安の扇動者と断定したわけで、今後の反共対策、治安対策、失業対策の具体化が注目される、と。
・南京が中共軍に占領されていらい、米大使館は機能を失った。米大使スチュアートの帰国問題、脱出問題は紆余曲折の上8月2日、大使機は沖縄に着いた。
・日本では平均2000人を乗せて舞鶴港に入港した。相変わらず赤い引揚者のトラブルも運んできた。
・8月5日、韓国大統領李承晩が蒋介石に連絡してきた。38度線を北朝鮮軍約4千人が越境して銃撃戦が発生した。会談予定地は首都ソウルから南部の鎮海に変更したい、と。


・この日、米国務省が「中国白書」(対中華民国関係白書)を発表した。大統領トルーマンは、事実のすべてを明らかにして討議することが必要、それが米国の対中国政策の立案に不可欠であり、米国の伝統的な米中親善関係の発展にも役立つ、と強調した。
・白書は、1943年いらい中国駐在の米外交官が、蒋介石政府が政治改革を断行して国民の信頼を回復しなければ中国は中共に支配される、と繰り返し報告していた事実を明らかにした。また、1946年にマーシャル特使が、中共との内戦に踏み切れば政府軍は敗北し中国は経済危機に陥ると警告したのに、蒋介石政府は野心的作戦を発動して失敗した。これまで12年間の米国の対蒋介石政府援助は35億ドルにのぼるが、うち21億ドルは対日戦終了後に供与された。だが、度重なる警告や勧告も受け入れず、巨額の援助を無駄にした。それが悲境の原因であり、それを蒋介石政府側も自認している、と。付属のアチソン書簡は、内戦の結果については、蒋介石総統以下の政府首脳部に全責任があり、中華民国政府は敗けたのではなく自壊したのである、と。
・米上院外交委員長ヴァンデンバーク(共和党)は、中国政府が悲劇的な誤りを犯したと結論しているが、米国はソ連に不必要な対日参戦を求めた、実行不可能な国共調停を図った、などの今日の中国情勢をもたらす誤りを犯した、と。
・白書は言い訳の書だという論評が批判派の見方に共通する。では米国は蒋介石政権と中共政権に対してどのような政策・姿勢を取るのか、どっちを支持するのか疑問が涌くが、国務長官アチソンは中共承認を考えていないと言いながら「反共」(蒋介石支援)と「現実」(中共承認)のいずれの方向を辿るのか、はっきりしない。前述のヴァンデンバークは「白書は過去の失敗を告白した。米国は極東政策樹立のために新しく出直さねばならない」と。
・前第八軍司令官アイケルバーガー中将だけが、明確に新政策の指針を提言した。ソ連が中国に共産主義を拡大できた理由は三つ、①米国は満州の日本軍を敵に降伏させた。日本軍という障壁が除去されたため、米国の国民党援助にもかかわらず、北からの思想的侵略にさらされた。②国民党政府は八年間日本と戦った。中共との戦いに直面した時、政府は戦争倦怠症にむしばまれた。③中共は、共産主義を生活改善主義にすり替えて国民に宣伝した。生活水準が低い中国では、それを高めると言えばどんなことでも歓迎された。しかし、中国における事態は過去のものになった。今後の米国の新極東政策の中心は日本におかれねばならない。日本こそが全極東問題のカギである。対日講和条約が締結されたのち、もし米国が日本の自衛力を保障してやることが出来れば、極東における力関係は逆の方向に傾くであろう、と。日本での論調は、中将のように白書と日本との関連には想いは及んでいなかった、と児島襄氏。
・蒋介石は、白書は自分の非を隠す不誠実な文書であり、中国民の士気に大打撃をあたえ、中共承認を暗示して中国の崩壊をうながす文書だと断定した。
・8月10日、衆議院考査委員会は審議中の平事件、三鷹事件その他最近の労組関係の事件について中間報告をまとめた。(共産党退場、社会党反対) これらの事件はことごとく共産党の指導によるあらかじめ計画されたもので、①闘争の方式は共産党、目的は人民政府の樹立、手段は多数の威力による言動であり、暴力革命の前触れたる感が深い、②これらの事件の責任は吉田内閣にはない、③警察の人員装備ははなはだしく不足で、これら事件の場合治安を維持するのに欠けるところが大、と。
・8月17日午前3時9分、青森発奥羽線まわりの東北本線上野行き列車が、金谷川、松川間のカーブに差し掛かった時、突然機関車が転覆し、荷物車2両、郵便車1両、客車1両が脱線した。機関士、機関助士2人が死亡、車掌1人、荷扱手2人、郵便係員2人、乗客4人が負傷した。松川事件である。レールの継目板が外され、レールを枕木に固定する犬釘27本が抜き取られ、計画的犯行であることは明瞭だった。また前日、東芝松川工場で今夜三鷹事件以上の事件が起きるとの楊言が聞かれ、事故前に現場で不審な数人の人影も視認された。官房長官増田甲子七は声明を発表、「三鷹事件をはじめその他の各種事件と思想的底流は同じである」と。大惨事につながりかねない計画的犯行である事情に基づき、暴力革命をめざす共産党の犯罪だと断定しているにひとしい。
・折から全米水上選手権大会がロサンゼルスで開かれ、古橋、橋爪が1500メートル自由形でともに世界新記録をだし、8月18日の各紙の一面トップで報道された。


・8月20日、米国務省が極東委員会に日本の国際社会復帰を提案した旨の報道が載った。本来ならば講和条約後のものと思われていた日本の外交関係の復活が、その前に実質的に認められるというのであった。しかし、米国側の判断は希望的観測に過ぎなかった。日本に占領軍が駐留し講和条約が締結されない限り、日本には連合国が承認し占領軍当局が監督する以外の対外関係は認められない、というのが委員会の見解であることを極東委員会筋は語った。途端に米国側は後退した。
・9月2日、日本の降伏調印四周年記念日である。戦艦「ミズーリ」司令官スミス少将はコロンブスが初めて米大陸を発見した地点から、東京マッカーサー元帥に祝電を送った。とかく不仲も海軍、しかもミズーリからの電報、元帥は感激して返電した。「順境と逆境とを問わず、貴官のメッセージほど私を感動させたものはない」
・元帥は恒例の記念声明を発表した。日本は見事に民主化した。政治的には、三権分立と地方自治の強化により、自由で責任ある代表政治の慣行が確立された。社会的に、日本国民は個人の自由と個人の尊厳という憲法によって与えられた衣服をよく着こなしている。経済的には、日本はまだ生存のための経済から健康なための経済への転換期にある。しかし、均衡予算、集中の排除その他により、企業における個人的活動の自由が確保された。以上の成果を基礎にして、日本国民は再び世界家族の一員として自立するという大目標を目指して前進を続けている。この大目標の前進を阻む障害は、一部を残し大半が克服された。日本国民が降伏の義務を完全に忠実に果たし、正式に平和が回復されてはじめて与えられる自由と尊厳と機会とをすでにかち得たことに対し、私は繰り返し心からの賛辞を呈する、と。
・元帥声明には講和なる熟語は見当たらない。日本では、早期講和の否定の含意と解釈したが、米国では早期講和の予告と受取り、支持した。
・9月13日、ワシントンで米英外相会議が開かれた。議題は対日講和と中共政権承認の二つ。国務長官アチソンは、対日講和条約の難問は手続き問題である、米、英、仏、ソ外相会議で条約を起草することになれば紛糾が予想され、対日戦参加国からの反発も予想される。唯一の解決策は、英国および英連邦諸国と事前に協議して、条約の重要事項について合意して置いてから起草に取り掛かることである。早期対日講和の準備を進めよう、というのであった。英外相ベヴィンは、問題はソ連と中国である、ソ連は中共政権を承認して対日講和会議に中国代表として参加させようとし、条約案起草のための外相会議では条件闘争を試み、講和会議に全対日参戦国の出席を要求するだろう、と。アチソンの質問にベヴィンは、ソ連としてはアジアに紛争を起すチャンスを逃すはずがなく、米国と違い対日関係ですべてを失ってもよいからだ、と。アチソン長官は、ソ連が賛成する対日講和条約に同意させられるのは望まぬ、といえば、ベヴィン外相も、英国も同じだ、と応え、英連邦諸国会議を来年一月までに召集する、米国は対日講和条約案を作成して英国側に通知することで合意した。ふーむ、その後日本では全面講和か単独講和か一大政治論争がおこったが、すでにこの時期、英米は全面講和の難しさを先取りして準備を進めていたので。
・次いで中共政権承認問題について、国務長官アチソンは、中共政権の早期承認によって利益を得るものは、誰もいない。北大西洋条約諸国が承認問題について一致した政策を見出すことを希望すると述べると、英外相ベヴィンは、承認ウィ急いでいないが英国は中国に重大な利益を持っている、それは香港だ、このまま行けば1997年まで、あと48年間英国は香港を活用できる。香港問題について中国の友好的政府と交渉することも考えられるが、今は出来ない。しかし香港のドアはカギがかかっていない。しかし中共軍が攻撃して来れば英国は戦い、国連の問題にする、と。従って承認問題は政策不一致で会議が終了した。

・9月15日、約四カ月前に来日したコロンビア大学教授シャウプの勧告書全文が総司令部から発表された。勧告内容は意外なものであった。 法人に寛大な措置、直接税中心、取引高税廃止、世界にない新事業税、減税より安定促進、資本育成に重点、地方自治を強化、と当時の新聞は報道している。税制は憲法の変革と違って、即座に税金という形で国民生活に及ぶ。政府は本年度300億円、来年度1000億円の減税を公約しているが、教授の勧告によれば、減税幅は本年度50億円、来年度200億円にとどまる。だが、「シャウプ税制使節団の勧告は、われわれの期待した以上の朗報である」と吉田首相が声明すれば、池田蔵相も「シャウプ勧告によると本年度1000億円、来年度1100億円の所得税軽減になり、公約は実現できる」と。
・蔵相の計算は現実を公約に合わせようとする政治的算術であったが、問題は地方自治強化のための地方税の増額であった。政府は勧告を現実に適合させる骨抜きの必要を感じて総司令部と折衝を重ねたが、マッカーサー元帥の書簡は指令並みの強制力を持つ。翌日首相は全体として取り入れて実施すると、元帥に応えた。
・9月21日、北平(北京)では、延び延びになっていた政治協商会議が45団体636人に代表を集めて開催され、毛沢東は「中華人民共和国の成立を宣言する」と声明した。「中国人が非文明人とみなされた時代はすぎた。われわれは高度な文化を有する民族として世界に登場しようとしている、 われわれは反動派を震え上がらせ、中国人民の不屈の努力によって必ずわれわれの目的に到達するであろう」と。
・9月23日、トルーマン大統領は「過去数週間以内にソ連領内で原子力の爆発が起こった証拠を持っている」 
・8月29日、中央アジアでソ連原爆実験、高さ約百メートルの鉄塔上に原爆を装置して炸裂させた。トルーマンのいう爆発はこれを指している。
・「われわれは、これで米国と同等の地位に立った。過去7年間の不安から解放された」「ソ連の偉大さが立証された。帝国主義陣営は、ソ連によってその野望を阻止されることになった」
・10月1日、中華人民共和国が正式に発足、首相 周恩来、主席 毛沢東、人民解放軍総司令 朱徳
・10月2日、ソ連が中共政権を承認した。
・吉田首相はUP通信の取材を受け「私は対日講和条約が一日も早く結ばれることを希望する。しかしそれが来年中に出来て米軍に撤退されるのでは、日本は無防備、混乱状態に置かれるだろう」と応えた。
・10月15日、中共軍が広東に無血入城をした。広東陥落。広東は国民党発祥の地で、中共との内戦における国民党抗戦の軸点だった。中共側が満州、華北、華中を支配すれば、国民党側は華南、西南、西北、台湾を確保して対峙する時期が続いたが、その場合の国民党側の根拠地が広東であった。国民党側の抗戦体制は蒋介石と総統代理李宗仁を二本柱にしていたが、両者が離れていても、広東が二人を結ぶ結点であった。国民党政府の業務は重慶で開始されたと発表されたが、抗戦要件は失われていた。

・11月2日、国務省および陸軍省の対日講和の主務者会議が開かれた。会議は、マッカーサー元帥の使者パブコク大佐から、元帥の対日講和についての意見を聴取するためだった。 ①対日講和の時期と手続き:遅れ過ぎている。最重要課題は直ちに対日講和条約を締結することである。手続きは英国および英連邦諸国の合意を得るのが先決。ソ連に対しては参加を勧誘すべき、だが参加をさせるためにいかなる米国の要求も犠牲にすべきではない。 ②日本の安全保障:憲法で武装権を放棄している日本に対して、講和条約でその立場を放棄させるのは対日改造計画に疑念を抱かせる。日本の中立をソ連に保障させることは現在では不可能、ゆえに強国による中立保障は現実的解決策とはなり得ず、将来の世界情勢の中で長期的課題とみなすべき。現実的な日本安全保障システムは、米軍駐留以外にない。ソ連に対して日本侵略は米国との全面戦争になることを明示すべき。 ③日本の安全はゆるがせにできない。講和後の在日米軍基地にかんする協定を日米平等の立場で締結し、講和条約と同時に発効させるべき。基地の場所は戦略的優位の観点から選定して米軍が守備し、必要資材は日本側に提供させても維持費は米軍側が自弁すべき。 ④日本の防衛軍創設:反対。 ⑤ 日本の国内治安:小銃、機銃などを持つ警察軍と沿岸警備軍を認める。一般警察は日本の自由裁量にゆだねる。 ⑤日本の産業制限:講和条約には日本の平和経済の発展を阻害しないよう、再軍備につながらない産業の制限を規定すべきでない。外貨獲得の手段としての海運、造船も制限すべきでない。ただし、軍備に転換が容易な民間航空機、航空機生産は認めない。 ⑥講和後の対日監視:米軍基地が各地に存在する日本では、非武装違反は容易に判明する。特別の監視機構は不要。 ⑦日本民主化:占領による日本改革は日本国民に支持され、定着している。講和条約に日本民主化に関する条項を設ける必要はない。 ⑧台湾:台湾をいかなる手段を尽くしても共産主義者の手から守ることが、米国にとっても日本にとっても重要である。 最後に大佐は「元帥はワシントンに反抗する立場はとられません。日本の安全保障は統合参謀本部と国務省の決定事項であることをわきまえておられます」と応えて、会議は終了した。ふーむ、4年半の滞在となったマッカーサー元帥の見識は、大筋ではそのまま現在に続いている。日本人を深く知る日本認識は見事である。日本の迷走しそうな戦後はある意味、マッカーサーの見識に支えられたともいえそう。


冷戦下の日本の迷走  「自由主義・自立経済への転換策」

2021年07月16日 | 歴史を尋ねる

 「世界中で日本ほど人間が自由と安全と安定を享受している国はない。多くの近隣諸国のどこよりも、はるかに大きな平和と平穏の中に生活している」「自分はこれまで米政府に対して、日本国民は外国貿易の機会を与えられるならば、完全な自立経済を確立できる意志と勤勉に恵まれていると繰り返し報告してきた」「諸君はいまやその機会を与えられたのだ」 これは昭和24年マッカーサー元帥年頭の辞である。すでに既述済みで、その後日本経済への吉田政権の取り組みなどを見て来た。さらに周辺国の状況も詳細に見て来た。本当にこの元帥の年頭の言葉は時代のその時を見事に捉えている。しかし日本も占領軍と日本だけでこの時代をくぐり抜けたのではなかった。東アジアの激動の中で、戦後復興に取り組んでいた。今回は東アジアの変動(特に共産主義運動の波及)を受けながら、日本はどう自らの道を歩んだのか追跡していきたい。タイトルは「日本の迷走」としたが、児島襄氏の「講和条約」の中で、昭和24年1月から昭和25年10月までの時代相のヘッディングを参考にした。

 米国の共産主義イデオロギー対応への変遷
      (ジョージ・ケナンの論説を中心に:立教大学教授佐々木卓也氏の論説を参考とした)
・ケナンは1904年ミルウォーキーで生れた。東アジアでは日本とロシアの戦端が開かれたばかりだった。1926年当時の国務省はエスタブリッシュメントの出身者からなる排他的なエリート組織であったが、ロジャーズ法の恩恵で国務省にはいった。1928年ロシア語教育を受けるためにロシア帝国から独立したエストニアに派遣され、その後ベルリン大学でソ連に関する専門教育を受けた。1920年代のアメリカ政府はソ連の共産主義イデオロギーを警戒し、主要国の中で唯一対ソ不承認政策を堅持、ケナンもソ連体制に対する強い不信感を共有し、この方針に賛成であった。フランクリン・ルーズベルト大統領は国務省の消極論を押し切って、1933年ソ連の外交承認に踏み切った。翌年開設されたばかりのモスクワ大使館に赴任したケナンは、当初対ソ関係に悲観的でなかったが、間もなく大規模な粛清が始まり、友好的な雰囲気は消散した。ケナンはソ連が「不可避的な武力衝突の理論」に基づき「巨大な軍備計画」を進めていると指摘し、その軍事的・イデオロギー的脅威を改めて警告した。
・ケナンは独ソ戦の開始をベルリンで迎えた。独ソ戦が始まると、アメリカはソ連との政治的・軍事的提携関係に安易に入るべきでないと主張した。その背景には、ドイツと不可侵条約を結んだソ連が、ドイツがポーランドに侵攻した2週間後にポーランドを背後から襲って、その東部を占領したばかりか、フィンランドを攻撃、さらにバルト三国を併合、ルーマニアに領土を割譲させた。だが、ルーズベルトは独ソ戦が第二次ヨーロッパ大戦の戦略的文脈を根本から変えたと判断して、ケナンらの意見を退け、とくに条件を付けることなくソ連に武器貸与法を適用し、大規模な経済・軍事援助に乗りだした。ソ連は1942年連合国共同宣言に調印し、大西洋憲章の目標と原則を確認した。ルーズベルト大統領はスターリン首相と二度首脳会談をおこない、枢軸国に対する軍事戦略、戦後国際秩序の協議を進め、とくに国際連合、世界銀行、国際通貨基金の設立でソ連の協力を求めた。
・ケナンはルーズベルトの対ソ協調路線、戦後構想に一貫して批判的であった。米ソが同時にドイツと戦っているのは偶然の一致であり、アメリカの対ソ援助がモスクワの政治目的を是認すると受け止められてはならないと考えた。1944年三度目のモスクワ勤務に就いたが、その直後に起きたワルシャワ蜂起に対するソ連の冷酷な措置は衝撃的であった。1945年ヤルタ会談に出席する親友のボーレンに、米ソによるドイツ・ヨーロッパの分割を提案し、ソ連の膨張を阻止するよう説いた。ケナンは、大戦が終わった後も対ソ協調路線を維持し、ソ連の脅威を理解しないトルーマン政権にいら立ちを強めた。1946年スターリンはソヴィエト最高会議で、資本主義体制と社会主義体制の両立はあり得ず、資本主義諸国間の戦争は不可避であると述べ、ソ連はその危険に備えて軍備を整えることを宣言した。国務相はソ連が世界銀行と国際通貨基金に参加しない方針を明らかにしたことを含めて、ソ連外交の分析をケナンに求めた。
・ケナンの回答は長文電報であった。ソ連は西側に比べ、はるかに力の弱い国である。アメリカが十分な力を持ち、それを用いる用意を見せれば、その力を実際に行使する必要はない、と。このケナン電直後に、チャーチル前英首相がトルーマン大統領が見守る中で、ミズリー州で鉄のカーテン演説を行い、ソ連の東ヨーロッパ支配を激しく非難した。長文電報もワシントンで大きな反響を呼び、ケナンは本国に呼び戻され、国務省内に新設された政策企画室の室長に抜擢された。ケナンは論文で、ソ連の膨張に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込めを提議し、アメリカが対ソ政策推進で緊張を課すことで、穏健で慎重な態度を取らなければならないよう圧力をかけ、ゆくゆくはソヴィエト権力の崩壊かまたは穏和化の出口を求めねばならないよう促進させる力を持っている、と指摘した。併せて封じ込めで最終的に問われているのはアメリカ自身であり、アメリカが世界に範を垂れる国家になり得るか否かであると結論付けていた。

・昭和22年3月21日、陸軍次官ドレイパーが総司令部を訪ね、マッカーサー元帥と会談した。国務省政策企画部長ケナンも同席したが、部長はもっぱら聞き役をつとめた。真っ先に「日本再武装」問題を取り上げた、という。ここではそのやり取りを省いて国務長官マーシャル宛のケナン報告書を取り上げる。「講和にそなえる体制づくりのために日本になにを施策しておくべきか」がケナンの訪日研究テーマであった。ケナン報告書は、講和までの対日政策の焦点を経済問題においた。経済復興達成のためには日本の対外貿易再開が必須であるが、その促進措置として①円ドル為替レートの確立、②日本人貿易代表の海外渡航の許可、③外国の貿易使節団の東京駐在、④回転資金の確立、⑤貿易手続きの簡素化、⑥貿易に関する総司令部と日本政府の二重機構の廃止、⑦日本貿易業界に対する個人投資の奨励。さらに賠償政策の見直し。以上がメインだが、内容は部長ケナンの持説、太平洋戦略の中の対日講和を基本として、マッカーサー元帥や第八軍司令官アイケルバーガー中将の意見を取り入れる形になっているが、今後の対日政策の基本を次のように明示している。 日本に対する処罰の時代は終わり、アジアの防波堤にする時代に入った。 日本の対外防衛は沖縄米軍、対内防衛は経済復興でまかなう。 講和前に日本を準独立国化させ、政治、経済、文化の自由化を達成させる、と。

冷戦下の東アジア情勢
・昭和23年2月16日:北朝鮮の平壌放送局は突然、北朝鮮人民委員会委員長金日成の声を電波に乗せた。金委員長は、北朝鮮に「人民共和国」と「人民軍」が設立されると宣言し、共和国憲法の採決、国旗制定、平壌を首都にすると発表した。「ソ連は北朝鮮に傀儡政権を樹立して協定を踏みにじった。ソ連は最初は秘密裡に、現在では公然と国連を無視する挙に出た」と南朝鮮の米軍スポークスマンが声明すれば、半島の単一独立国家を目指す国連朝鮮委員会議長メノンは沈痛な表情で「いまや朝鮮は明確に二つに分かれるだろう。北と南にで別々に政府を樹立するのは、朝鮮人にとって最も不幸なことである」
・2月18日、トルーマン大統領は中国援助のために5億7千万ドルの支出を議会に要請、下院外交委員会でマーシャル国務長官とジャッド議員との質疑:問 米国の援助がなければ中国の国民政府は崩壊の危険があるのか。 答 可能性はある。少なくとも揚子江以北は完全に共産党が支配するだろう。 問 その場合、朝鮮の米国の地位は保てるのか。 答 ノー。 問 その場合、米勢力が日本から撤退することになるのか。 答 われわれは真に重大な局面に立つことになるであろう。 長官は中国に対する長期的な全面援助は不可能である旨も述べ、中国の末期的症状に北朝鮮の独立が加わった影響が日本に波及する懸念を表明した。
・2月21日、日本の国会では片山首相の総辞職を受けて後継首班の指名選挙が行われた。衆議院投票総数421、芦田均216、吉田茂180、片山哲8、徳田球一3、無効14。参議院では過半数を取る候補者が出ず、結局、憲法第67条によって衆議院の議決である芦田首相が誕生した。
・昭和23年8月15日:マッカーサー元帥は大韓民国独立式典に出席するため、ソウルに飛んだ。この日の式典は朝鮮半島分断の記念日ともみなし得る。「国民的喜びの日を迎えて、北朝鮮の現状はわれわれの喜びをくもらせる」と大統領李承晩が挨拶。
・この日、日本にとっては敗戦三周年記念日である。後年のような戦没者追悼行事も集会もなく、宮城前広場に集まった数千人の群衆は、公務員法改正反対、芦田内閣打倒などを叫ぶ「生活権防衛反ファッショ人民大会」に参加する労働者たちであった。
・10月7日:芦田内閣は昭和電工事件に対する道義的責任のために総辞職した。
・10月14日:衆議院本会議での首班指名選挙、投票総数399、吉田茂185、片山哲1、白票213。白票は民主、社会、国民協同党のほとんどだった。吉田首相の組閣は難航した。挙国一致連立内閣が総司令部の希望であったが、各党はこぞって背を向けた。総司令部も相変わらず吉田首相には好感を示さない様子だった。16日吉田首相は総司令部民政局に挨拶に出かけたが、ホイットニー局長は多忙を理由に面会を拒否した。
・10月19日:第二次吉田内閣は、民自党単独政権で、閣僚ポストもすべてを充当できず、首相が外相、法務総裁、蔵相泉山三六が経済安定本部長官を兼任してのスタートであった。
・12月18日:総司令部が特別発表を行った。国務省および陸軍省がマッカーサー元帥に対して、九原則に基づいて経済安定計画を立案することを日本政府に指令する指示をした。元帥はワシントンに返電した。「本政策は日本の緊縮財政と耐乏政策を基本にしている。現に窮乏生活を送る日本国民の士気を低下させ、爆発的反応を招きかねない。だが全力を尽くす」と付記した。

・昭和24年1月1日:総統蒋介石は新年記念式典で、「政府は和平を念願する。しかし和平を求めるのはわれわれが弱いからではない。戦うに十分な力量を有するからだ。現在でもなお中共の力はわれわれの力に及ばない」 駐中国・米大使スチュアートは瞠目した。米国は中国各地に大使館をはじめ総領事館、領事館を配置し、さらに陸海空軍、海兵隊の武官も情報収集に当たっているので政治、経済、軍事の実情を把握している。その軍事情報によれば、中国政府軍は華北に63万人、華中に30万人の計93万人。しかも政府軍の戦意の乏しさ、綱紀の弛緩、指導力の低下は良く知られている。一方共産軍の兵力は300万以上と推算される上に、軍指導者の戦術能力の高さ、民衆の支持、政府軍からの奪取による装備の向上も周知されていた。
・副総裁李宗仁の秘書甘介侯が米大使館を訪問、スチュアート大使に助言を求めた。ソ連が国共和平の仲介に立つかどうか探れという指令でソ連大使ロシチンに会った。ロシチンは渋面をあらわにし、ソ連は過去2回にわたり蒋介石政府から煮え湯を飲まされた。この2回の体験で中国は米国側につくと判断し、スターリンは中国問題に介入しない決心を固めた。また甘秘書が入手した情報では、国共和平について、蒋介石の呼びかけは米国の時間稼ぎ謀略を背景にしている。ゆえに中国共産党は武力でその企図を打破すべきであり、そのあとで必要なら連合政権を考えればよい、という考え方が大勢だ。これらの状況と情報に対面して、李副総裁は思い悩んでいる、と。大使は、蒋介石総統は結局は中国民衆を捨てて、手兵をひきいて台湾に脱出する意向だ、と判断、「深く同情するが、ワシントンの助言は期待しないでいただきたい」と応えた。
・1月13日:米大使スチュアートは中国外交部長を訪ね、中国側の国共和平調停の依頼に対する米政府の拒否回答を伝えた。
・1月14日:中共放送は、共産党主席毛沢東の声明を電波に乗せた。「中国人民解放軍は、遠からず国民党反動政府の残存軍事力を壊滅するに足る力と自信を持っている。中共は八つの条件を基礎に和平会談の開催を願うものである。この条件の下で建設される和平のみが、真の人民の民主的和平なのである」 内容は蒋介石などの戦争犯罪人の処罰をあげていた。無条件降伏の呼び掛けであった。蒋介石は怒った。内戦の継続である。
・1月22日:北平(北京)が中共側の手におちた。
・1月23日:日本で第24回総選挙が行われた。選挙結果は、民自党264、民主党69、社会党48、共産党35、国民協同党14、労働者農民党7、社会革新党5、ほか24。民自党が予想以上の大勝であり、戦後初めて絶対多数党が出現した。社会、民主両党はその退勢を著わし、大物の落選が相次いだ。でも、総司令部の支持を背にする中間勢力がなぜ選挙ではじき出されたか、その理由についての明確な解説は、どの新聞紙上にも見当たらなかった。総司令部経済科学局長マーカット少将は声明を発表した。「日本は歴史の転換点に直面している。この時に当たり、日本国民は今回の総選挙で日本の自立復興のため敢然と立上る決意を示した」どんな政治も生活の向上も、経済の安定がなくては実現できない。日本の場合、経済復興は生産の増大による輸出増加にかかっているのだから、政府も国民も一致協力して増産に努めねばならない。少将は、国家の団結のために最も有害なのはイデオロギー戦だと述べ、「日本は今や安眠をむさぼる状態にはない。感情的経済理論や政治闘争にふけるときでもない」 ふーむ、歴史を後から振り返ると、このマーカット少将の指摘は当時の的を突いている。幸いなことに、当時の吉田内閣と官僚、一部学者たちは、マーカットの指摘以上の政策を推進したことは、既述済である。しかし当時多くの経済学者たちはイデオロギーを前提にした社会主義(マルクス)経済システムに傾倒していた。
・2月16日、第三次吉田内閣が成立した。民自党269人に民主党連立派43人を加えて312人の保守提携内閣が誕生した。組閣第一声、①政府は均衡財政の堅持、行政機構の刷新、綱紀の粛正を断行、②政府は国民とともに経済九原則を実行する、③無責任な言動をほしいままにして破壊的な意図のもとに行動する者に対しては、祖国の安寧と国民の幸福を擁護するため、断固としてこれを排撃する。
・3月7日、総司令部経済顧問のデトロイト銀行頭取ドッジは記者会見し、今後の日本経済の指針を発表した。①通貨改革は現在は行わない。②単一為替レートの速やかな設定が望ましい。③インフレ対策はすべて政府の予算に関連しなければならない。インフレは増産と国内消費の節約がなければ収束しない。④米国の対日援助は米勤労者の税金で賄われている。補足説明として、日本経済は両足を地につけておらず竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、もう一方の足は国内の補助金制度だ、と。米国側が提唱した均衡経済と緊縮財政の強調であった。
・3月18日:北大西洋条約の締結が発表された。加盟国は米、英、仏、カナダ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ。これは集団防衛条約であり、発動対象はアルジェリアを含む、西ドイツまたはオーストリアにおける占領軍、北回帰線以北の北大西洋における領域。この条約の目的はソ連の各個撃破戦略に対する西欧諸国の団結を強化することにあると米国務長官アチソン。この条約が中国政府の与えたのは不安感と危機感だけであった。駐米大使顧維鈞は、「ソ連をアジアに向かわせることになった、用意した軍事力のはけ口を極東に求めざるを得ない、中共は思いもかけぬ大支援を受けることになった」と。中共放送も声明した。「米帝国主義者は条約によって新たな世界大戦を起そうとしている。ソ連は成長しつつある世界の平和愛好勢力の団結の中心である。同時に、中国に対するソ連の友情は戦争における貴重かつ重要な要素である」と。
・その頃日本では吉田内閣が苦境に陥っていた。民自党の主要公約は、公共事業の拡大と減税であった。総司令部は内示した約7千億円の均衡予算に手を加えることを認めない。このままでは新会計年度にモラトリアムを余儀なくされる形勢となった。蔵相池田勇人は連日総司令部を訪れ、経済顧問ドッジと交渉を重ねた。ドッジは耐乏予算を主張して政府の景気刺激予算案をはねつけて譲らない。吉田首相はマッカーサー元帥を訪問した。総司令部の耐乏予算案を実行すれば一億ドルを提供するという。そこで政府は交渉を打ち切り取りあえず暫定予算を組むとともに総司令部案の本予算を組むとともにシャウプ税制調査使節団との折衝に望みを繋ぐことにした。
・4月2日、北平で中国政府の和平代表が中共側代表と和平交渉を始め、和平は南京政府代表が中共側の八条件を完全に履行する以外にはあり得ないと中共側は主張、交渉は打ち切られた。
・4月17日、李総統代理の公邸に米、英、仏、オーストラリア大使が参集した。中共側の要求する八条件24項目を朗読したあと、「自分は平和のために努力してきた。だが、この要求を受けては、もはや中共側との和平解決は出来なくなった」 政府閣僚の中には、かっての同盟国、友好国から見捨てられた、この環境では中共側に抵抗しても成功の見込みはない、従って受諾すべきだという者もいる。この苦境に際して私は何をすべきか、皆さんの考えと勧告を頂きたい、と。英大使は、極秘文書の内容を教示してくれたことに感謝すると共に過去数カ月間の代理の忍耐と努力に敬意を表明する、しかし英政府としては対中国不干渉を定めた1945年モスクワ宣言を遵守する立場にある。従って、個人としては李総統代理に同情はおしまないが、英政府に出来ることは何もない。他の三人の大使も同様だと合唱した。中国人の問題は中国人自身によって解決されるべきだ、米大使スチュアートは李総統代理を激励した。李総統代理は心から落胆した様子で、「この問題は中国問題だ。だが、中共主席毛沢東はそうは考えていない。彼は、新世界戦争の場合はソ連側に立つと明言している」 四人の大使は反応しなかった。翌朝李は蒋介石に電報をうち、国民党、政府、国民の全てが中共側の和平条件に反対している。南京に帰って総統に復職してほしい、そうでなければ中共と戦うので自分に全権を与えてほしい、と。19日、中共側の八条件24項目の「国内和平協定」案を拒否することを決定した。
・4月20日、毛沢東主席並びに朱徳人民解放軍総司令は全軍に進撃を命令した。21日、中共軍は揚子江渡河作戦を発動、中共軍は和平交渉を利用して四カ月間渡河準備を進めてきた。政府軍はその間を空費した。
・4月23日:日本の単一為替レートが一ドル=360円にきまり、4月25日から実施される、と。これまで輸出入品は、「貿易資金特別会計」(円勘定)により輸出品を割高に買上げ、輸入品は割安に払下げられ、その差額は米国からの援助物資を払い下げた収入と日銀からの借入金で賄われた。当然赤字勘定になり前年末の累損欠損は三千七百億円に達した。インフレ助長の一因ともみなされ、経済九原則に基ずく障害と判定され、今回の決定に至った。この360円レートが日本に有効だったことは、この年のポンド切下げ、補給金の減廃によるコスト上昇などの悪条件を切り抜けて輸出実績が前年より倍増したことや、その後20年以上も変更されなかった事情によっても立証される、と児島襄氏はコメントする。
・4月24日、南京(国民政府側の首都)陥落。ニュースは国際的に衝撃を与えた。マッカーサー元帥はこれまで中国の戦況について沈黙していたが、今回は反応した。「米極東軍司令官として、必要があれば中国からの米国人引揚を援助する」 中共が中国沿岸地帯を占領すれば、経済自立と復興のために自由中国との通商関係を維持していかねばならぬ日本に多大の困難を与える。中共のこれ以上の進撃が阻止されなければ、日本は最終的にはソ連圏にはいることを余儀なくされる。近く強力な共産党の「第五列」(攪乱工作員)が、南朝鮮ばかりでなく日本でも動き出すだろう。そして、元帥は日本防衛を促進する措置を考慮している、とワシントン・スター紙に語った。さらに米軍事筋は「蒋介石が見出せる唯一の生存の地は台湾であるが、これは皮肉な運命だ。日本と戦ってきた彼が、日本植民地の準日本人に助けを求めることになるからだ」と。
 ニューヨークタイムズ紙は論述する「レーニンは、共産主義はアジアを回ってヨーロッパを征服するといったが、ソ連が中共を物心両面で支援するのも、この原則に則ったものである。中共軍の南京攻略は、明らかに北大西洋条約に対するソ連の回答である。西欧の敗退であり、米国の対アジア政策の大失敗を意味する」と。南京の米大使スチュアートは大使館の現状に安堵した。中共放送は主席毛沢東および人民解放軍総司令朱徳による安民布告を発表し、その中に全人民並びに外国居留民の生命財産を保障する旨が明言された。その布告を裏書きするように、大使館付近の秩序は維持され、大使館員にも建物にも危難がおよぶ気配はなかった。ところが25日、スチュアートの安心感は吹き飛んだ。中共軍武装兵士が大使館公邸にやってきて、大使の寝室に乱入してきた。人民の物は人民に返すべきだと言いながら各部屋を物色しながら手ぶらで引き揚げた。帰り際大使を外に出すなといって、交通を遮断した。明白な外交特権の侵害だった。
・4月29日、国際オリンピック委員会総会が日本とドイツの1952年ヘルシンキ五輪大会復帰を承認した。
・5月10日、コロンビア大学教授シャウプを団長とする税制調査使節団が来日した。前日、総司令部経済科学局内国歳入課長モスは、日本国民の税負担は実質所得の低下と課税の不公正のために所得の24%にも達し、その税負担能力は限界にきている。使節団の調査が成功し、その成果が実行に移されれば、日本国民の税負担はあらゆる経済分野で平均される、と述べた。
・5月11日、首相吉田茂は外国特派員クラブで演説、・日本の共産勢力の拡大について 中共が大陸に進出したからといって、日本の共産党勢力が増大するとは思わない。中国の共産主義者がまず中国人であるように、日本の共産主義者も第一に日本人、第二に共産主義者である。天皇の地方巡幸のさいには、共産主義者も他の日本人と同様に歓呼をおくった。今回の総選挙で共産党が成功したのは、社会党に失望した一部の人々が共産党に投票したに過ぎない。 ・経済復興政策について ドッジ政策は日本人にとって口に苦い薬だ。ドッジ政策の推進のためにも、私はシャウプ使節団に希望を抱いている。法人税や所得税がいつまでも高ければ、外資導入の促進は困難になる。 ・対日講和について 講和条約の可能性は世界情勢の成行次第にかかっている。日本は軍備を持ちえないから、講和条約が調印された後も米占領軍が日本に残ることを希望する。さらに、わが党が超保守的政党であるという非難は当たらない。現に自分も数人の党員も、戦時中に平和を主張して逮捕された経験を持つ。民自党の政策は日本をいつまでも米国の援助にすがる貧乏国にせず、公平な立場と正当な手段・能力による自活を目指すものである。以上の政策がどこが超保守的あるいは反動的であるのか、確かに自分たちは社会党と対立し共産党は嫌いだが、その意味ではわれわれはライト(右)である。しかし、同時にわれわれの立場はライト(正しい)でもある、と。
・5月12日、ドイツではベルリン封鎖が解除された。日本では、日本経済自立に資するため、さきに中間賠償に指定された工場施設の今後の取立を中止するよう、米政府がマッカーサー元帥に命令した旨発表された。
・5月21日、タス通信が、取調中の一部を除き、総計95000名の捕虜の全部を送還する、と。ソ連からの邦人引揚げは前年末から中断され、被抑留者の健康が心配されながら、32隻の引揚船が待機を続けていた。
・6月10日、国電ストが発生した。東神奈川車掌区は国鉄の人民管理を叫び、午後6時過ぎ、京浜東北線赤羽行、横浜線八王子行の二本の人民電車を走らせた。前面に人民電車 東神奈川車掌区管理と書いたビラを貼り、赤旗を掲げ、支援労組のインターナショナルの合唱に送られ、各駅で警察隊と小競り合いをくり返しながら進んだ。ストは長続きしなかった。この日総司令部から中止勧告、翌朝に中止命令、午後には平常運転に戻った。当時、難航して成立した定員法は官公庁、公共企業体の人員整理に伴い、単一組織として最も大量の約9万人の整理が予想される国鉄労組の反発は必至と見込まれていた。

 


今も残滓が残る東アジアの冷戦

2021年07月03日 | 歴史を尋ねる

 日本が講和条約を結ぶにあたって、当時の東アジア情勢を詳細に見て来た。脇道に逸れた勢いで、当時としては手に入らない情報だったが、旧ソ連史料から東アジアの冷戦の裏側を下斗米伸夫氏が「アジア冷戦史」として纏めているので、ソ連ないしスターリンの戦後のアジア戦略を見ておきたい。
 ソ連崩壊後に現れた新史料からは、日本軍が真珠湾を攻撃した第二次大戦の第二幕を迎えた41年12月末、ソ連はすでに勝利を予測し、戦後秩序を構築することに着手した。翌42年1月、共産党政治局は欧州・アジアなどの戦後の国家体制に関する外交資料を準備する委員会を設置、アジア構想に関しては、ロゾフスキー次官が中心となった。この作業をもとに、44年1月、外務人民委員部のマイスキー次官がスターリンやモロトフに提示した戦後構想で、アジアについては、ソ連の参戦なき日本軍国主義の解体と、民主的・進歩的・民族的かつソ連に友好な中国をつくることが課題として挙げた。対日関係では、南サハリンを返還させ、ソ連を太平洋から隔てている千島列島を引き渡すべきことを主張した。44年12月半ば、米国のハリマン駐ソ大使が届けたルーズベルト大統領からの参戦要請に、スターリンはポーツマス条約で日本領になった南サハリン、それに千島列島とを代償として求め、ソ連の対日参戦が決まった。45年2月のヤルタ会談でこれが確認され、戦後の東アジアの国際的枠組みもまた作られた。
 この当時、ソ連の対外観、戦後政治観の基本は、英米と協調しつつ荒廃した国内経済再建に専念し、対外的には社会主義を求めないという穏健なものだった。ソ連には戦争の深い傷跡が残り、戦後復興が高い優先順位だった。英米と協調しつつ30年から50年間はソ連の平和を確保して戦後復興に努める、イデオロギーの対立は退いて、地政学が優先された。東アジア秩序の基調となったヤルタ協定には、①モンゴル人民共和国の現状維持、②日露戦争によって失った権利回復、具体的にはサハリン南部の回復、大連と旅順への権利、東清鉄道・南満州鉄道の合弁運営、③千島列島のソ連への引き渡し、であった。

 45年8月に開始されたスターリンの東アジアでの戦争では、日本軍国主義の敗北と中華民国との同盟の形成・維持、同年2月のヤルタ会談で英米と約束された地政学的な地歩の確保が主目的となった。ソ連が対日戦の勝利を祝ったのは日本が降伏文書を調印した9月2日であった。ソ連は30年代の一国社会主義から解き放され、いまや世界に巨大な影響力を持つ超大国となった。スターリンにとって戦後国際秩序は好都合なものであった。実際45年の秋、新しいソ連地図が届けられたとき、モロトフ外相に、「われわれが何を得たか見てみよう。西側は問題ない。東側国境に目を転じよう。クルリ諸島はいまや我々のもの、サハリンも完全にわがもの、何といいことか。旅順はわれわれのもの、大連もわれわれのもの、東清鉄道もわれわれ、中国、モンゴルは問題ない」と。モロトフはスターリンのコメントを回想して、ソ連外相の役割は可能な限り国境線を外に拡大することにある、と考えた。当時スターリンの指示で占領した千島列島を直接視察したミコヤンは30年後、如何に彼が遠くを見ていたか、当時はわからなかった、と。事実オホーツク海などの地域は、30年後にはソ連原子力潜水艦が遊弋する核抑止力の中心になった。
 45年後半、中国と敗戦国日本の位置を巡って、米国とソ連の対立が強まった。ソ連は最大の利益を得るという立場から、アジアへのコミット政策を強めた。12月のモスクワでの外相会議では、米国が日本占領での主導的地位を求めたのに対し、スターリンは日本占領に関する諮問機関である対日理事会を認めさせた。また、バーンズ国務長官とモロトフ外相との交渉で、日本占領における米国の優先的地位を承認する代わりに、ソ連はルーマニア、ブルガリアでの優先的地位を承認させた。この時米国のトルーマン大統領の不満を掻き立て、モスクワでは親英米派の勢力が減退し、その代表格であったリトヴィノフ次官やジューコフ将軍の失脚につながった。このことが彼らと接触があったモスクワ大使館のG・ケナンによって46年2月の長文電報が伝えられ、対ソ封じ込めへの警告をもたらすことになった。ソ連でもモロトフが部下の駐米大使を通じて、46年9月には、米国が世界支配への努力を試みているとして対米不信を表明した電文を本国に送付させた。 
 1945年の時点で、ソ連にとっては、中国であれ、朝鮮半島であれ、社会主義化は外交課題でなかったかに思われた。しかしシナリオはこうは動かなかった、と下斗米伸夫氏は記述する。中国国民党政権はことのほか脆弱であった。内戦が46年半ばに勃発、やがて中国共産党が国民党を凌駕していくことになる。48年にかけて毛沢東率いる中国共産党が台頭、やがて49年までに蒋介石の国民党率いる中華民国政府は台湾に後退。こうした中、米国が日本政策を見直し、日本復興を対ソ戦略の中で位置づけた、これらを案出したのは米国きってのソ連専門家ケナンで、日本を訪問したのは48年2月だった。ふーむ、そうだったのか。すでに児島襄著「講和条約」の中で、G・ケナンの言説は既述した。ケナンとしてはダイナミックな戦後世界秩序作りの中での提言だったのだ。
 ぎくしゃくした英米ソ関係であったが、地政学的争点はまだ妥協の余地があった。だが米ソ間に緊張が走ったのは核をめぐる問題であった。この主戦場となったのは日本など東アジアであった、と下斗米伸夫氏。スターリンは、広島・長崎の報に接した時、米国がこれを実践にしたことに衝撃を受けた。ソ連指導部は日本での投下を契機として対外・安全保障政策を再検討した。大戦中日本にいた大使館員イワノフは、赤軍参謀本部から直ちに原爆の効果の調査を命じられた。9月22日、在日大使マリクはスターリンをはじめ5人の最高幹部に報告書を提出、原爆とその破壊がもたらした結果に日本の民衆は衝撃を受けた、天皇の詔勅や日本政府の公式声明は、それが日本降伏の原因の一つであると言っている、この恐るべき兵器と戦う代りに無条件降伏したことを正当化している、と。ソ連は対抗して核開発に全力で取り組むしかなかった。1945年時点で、ソ連にはウランが国内には殆ど発見・利用されなかった。このため、ソ連は国内、中央アジアでのウラン鉱探査と並んで、占領地域での核分裂物資の探査に躍起となり、ブルガリア・チェコスロバキアなど国外でのウラン利用を決めていた。当時の探査は、コンゴやマダガスカルにまで向かった。ロシアの原子力エネルギー省が出した「ソ連の核計画」によると1950年までの産出ウランの三分の二は東欧産であった。「ロシア外務省200年史」もまた、戦後ソ連による東欧政策の厳格さは原子力政策にものづくものであったことを明らかにしている、という。ドイツ東部にウラン鉱が豊富であったという軍事的要因がドイツを分割させたとも。47年になってソ連にもウラン鉱が発見されたが、米国に覚られないよう、ブルガリアなどに関与を続けた。
 しかしソ連軍が進出した旧満州と北朝鮮にも核関連物質の所在が知られていた。実際、2600万トンのウランを含む砂岩を北朝鮮から搬送した。モスクワの極東研究所の朝鮮専門家によれば、ここからソ連は15,000トンのウランを抽出していたという(この専門家との下斗米伸夫氏のインタビュー)。東シベリアやウラルは核開発の拠点になり、閉鎖都市が作られた。これらの結果、ソ連は49年8月末の核実験に成功した。10月に生まれた中華人民共和国も核開発をめざした。しかしこの過程で中国は50年代後半、大躍進政策で核実験を強行した結果、2000万~3000万人の餓死者を出したと推定されている。また北朝鮮が90年代に核開発を行い餓死者が急増した。東アジアでは核開発のキャッチアップを巡って、その負の側面が歴史上繰り返されたのではないか、下斗米伸夫氏は推測する。冷戦はこうして、アジアでは特異な現れ方をすることになった、と。

 ヤルタ体制発足当時、スターリンがアジアのパートナーに選んだのは蒋介石の国民党率いる中華民国であった。45年8月14日、中ソ友好同盟条約が締結された。(条約の内容:ソ連は中華民国の中央政府たる国民政府に対してのみ軍需物資等の援助を行ない、満州が軍事行動地帯でなくなれば直ちに東北問題を解決すべくソ連は撤退し、中華民国国民政府により行政権が完全に回復されるものと規定された。さらに付属協定では旅順港と大連港の租借権をソ連に与え、旧南満州鉄道と旧満州国有鉄道である中国長春鉄路を共同管理するとした。また、中華民国は国民投票によるモンゴルの独立を認める代わりにソ連は内蒙古や新疆の分離や中国共産党を支持しないとした。この条約によりソ連は中国共産党軍に全面的な支援を与えることが制限され、中国共産党は正当な組織と見做さない根拠とされた。中国共産党軍は満州地区での中国共産党軍もしくは八路軍の呼称が使用できず、林彪総司令率いる中国共産党軍は東北人民自治軍や東満人民自衛軍の名称を使用し、後に東北民主連軍と称して反中華民国政府活動を行った) しかし、蒋介石率いる国民党政権は意外な脆さを露呈し、権力統合や国家建設を進めることが難しくなった。毛沢東率いる中国共産党の勢力が中国東北部を中心に各地で伸長し始め、国民党との内戦に突入したからだった。なかでもソ連占領軍がいた中国東北部では、高崗など共産党東北局指導下の地方政府が出来、林彪のもと、軍事組織も強化された。この状況はスターリンにとってジレンマであった。蒋介石政権との関係を悪化させることは、ヤルタ協定で約した諸権利を反故にしかねなかったから。
ソ連共産党と中国共産党との関係は複雑だった。43年5月、英米との同盟関係を強化し戦争を追行する目的で国際的共産党組織コミンテルンは解散したが、毛沢東はこの年に中国共産党主席に就任した。カリスマ的な毛沢東の影響が強かった中国共産党の独自路線をいっそう強めることとなった。ソ連指導部から見れば、毛沢東はソ連留学生グループや中国東北部の共産党などとは異なって、モスクワとの繋がりが直接なかった。もう一つ、ソ連が占領した旧満州、東北部の地元共産党との関係が深まった。中国革命を担ったのは、延安の毛沢東ではなく、東北部の党員たち(林彪、高崗)であると主張するソ連の論客もいた。45年8月時点でスターリンは、中国共産党が国民党と和解することを勧めたが、その通りにはならなかった。中国の内戦は48年東北部から北西部や中国全体への拡大した。毛沢東は朝鮮戦争時に金日成への指導として高崗を利用したが、戦争が終わる54年2月、高崗らの東北部共産党組織は、毛の意向を受けた周恩来らによって粛清された。
 東アジア国際政治の構図を決める、いっそう重要な中ソ間の決定は、49年7月、劉少奇を中心とする中国共産党代表団の秘密裏の訪ソ時になされた。それは、米ソ関係など戦略的問題はソ連共産党が担当するものの、アジアでの共産党への指導、解放運動のかじ取りは中国に任せるという決定だった。同時に、これはヤルタ協定に従って、アジアでも英米との協調を機軸に日本やインドをも視野に入れた政策の枠組みが崩れ、ソ連がアジア冷戦を中ソ同盟を機軸に戦うことを意味した、と下斗米伸夫氏。ソ連の北朝鮮専門家は、49年秋の人民中国の建国と共に、モスクワの指導部内で、極東の安全保障の確保は中国に任せるという一種の義務分担が確立した、と述べている。一方で中国が担当するのはベトナムで、ソ連が責任を持つのは朝鮮半島だという見解もあった。  49年11月、北京で世界労連アジア・オセアニア会議が開かれ、中国共産党が率いる北京こそ、アジアの革命・労働運動の中心となることを宣言した。劉少奇は「毛沢東の武装闘争の道こそが半植民地・植民地での解放闘争の中心となる」とも述べた。このように東アジアの冷戦期、共産党は政治権力の正統性をモスクワから中国に依拠することになった。しかしやがて中ソ対立が深刻化すると、各国共産党で内部闘争が勃発する。結局は中国かソ連か、あるいは独自路線かの三つ巴の闘争がアジアの社会主義運動を巻き込む。自主路線をとる北朝鮮、北ベトナムあるいは日本共産党が、60年代後半以降、反中国の傾向が著しくなるのは、それまで中国共産党との関係が深かったからであった。
 49年10月1日、中華人民共和国は建国された。翌2日、ソ連は国家承認し外交関係を開いた。同時に国連での中国代表兼問題を提起し、12月以降は国連での活動をボイコットし始めた。49年12月毛沢東の公式訪ソにより新たな展開を見た。中ソ同盟条約改定問題で、中ソ友好条約、その基礎にあるヤルタ会談での合意に矛盾するとして、スターリンは改定に当初消極的だった。だが中国側とスターリンとの間には、新疆、大連・旅順港、東清鉄道といったヤルタ協定での争点に加え、香港や台湾の開放を巡っても意見の相違が表面化した。とりわけ中共は香港、台湾の即時解放をめざす海空軍創設への援助を願った。だがスターリン自身は台湾解放を急ぐことで、米国と衝突し、第三次世界大戦に発展することを何よりも恐れた。しかし、中国国内でも周恩来らが強く新条約を主張し、毛沢東も立場を変えた。その周恩来らがモスクワに到着すると、スターリンも新条約締結に傾いたと最新のロシア史料は語っている。条約が同盟の対象としたのは、日本軍国主義、および日本と同盟している国とあったが、明らかに米国を対象にしていた。こうして強硬で、反米的な性格をいっそう強調した中ソ友好同盟相互援助条約が締結された。50年3月、それまでユーゴスラビア問題を担当してきた教条主義的な哲学教授ユージンが中国共産党への代表兼大使となって、ほぼ八年に亙って毛沢東の著作の援助だけでなく、中国政治にも多大の影響を与えた。
 経済モデルも、中国は軍事化したソ連の計画経済モデルを積極的に受け入れた。1949年の中共の国庫に占める軍事支出は60%以上であった。当時中国はソ連の航空機や軍事物資を積極的に導入、その後の朝鮮戦争もあって、国防費の比重は50年が44%。51年が52%、52年が28%であった。その後20%強の軍事費で推移した。この時代が中ソ蜜月時代だった。

 この新しい同盟関係は、日本に対する政策転換となって現れた。1949年12月29日、ソ連政府紙「イズベスチア」は関東軍の生物化学兵器開発に関する軍事法廷の長大な記事を掲載した。これらは東アジアでの戦略的な見直しの始まりだった。とくにこの変化は日本共産党に対する政策転換となって現れた。コミンフォルム機関紙による、米軍下での平和革命が可能であるかのような主張をのさから指導部がしているのはマルクス・レーニン主義に反すると批判した評論家論文を掲載した。ソ連共産党国際部内で準備され、スターリン、モロトフが加筆したといわれる。この批判の結果、日本共産党は分裂していく。執筆者は45年から金日成を直接担当した日本・朝鮮の専門家ワシリー・コヴァジェンコだと下斗米伸夫氏は推定する。当時彼はこの問題で宮本顕治らの派閥とも接触していた。50年3月政治局決定で日本共産党内の問題をも担当した。その後ソ連共産党国際部で日本課長となったが、日本共産党が中国よりになる責任を取らされて更迭された。

 21世紀にもなって冷戦の問題が深刻な形で残っている地域は、唯一朝鮮半島であろう、それも北側の国家、朝鮮民主主義人民共和国を巡る問題に収斂した観がある、と下斗米伸夫氏はいう。うーむ、現在の北朝鮮問題を冷戦の問題としてとらえる捉え方は、むしろ新鮮で、当然すぎるかもしれない。その北朝鮮とはいかなる国家か、金日成が1930年代いらい抗日革命闘争を率いることで形成された「チェチェ(主体)の国」であるという説は、98年に改正された北朝鮮憲法の前文に描かれている。しかしこれは北朝鮮側が喧伝したものであって、政治神話に過ぎなかった。とくに旧ソ連や中国の史料が出てきたことでその形成過程が明らかにされつつある。
 1945年8月、対日参戦目的で朝鮮半島に入ったソ連赤軍(第二五軍)の占領中、その強い指導の下で作られた国家であった。この第二五軍が主体となってソ連が作った「傀儡国家」であると、北朝鮮を特徴づけたのは現代ロシアの歴史家、アンドレイ・ラニコフであった。北朝鮮形成においてソ連の果たした役割、その介入の度合いは、東欧の衛星国家以上であった、実際はソ連側が、分断国家の在り方を含め、憲法、軍隊から指導者の選択迄決めていた、と。しかし第二五軍には占領準備はほとんどなく、最初は朝鮮語の通訳にもこと欠く有様だった。実際には12人ほどのソ連軍人であった朝鮮人が当たった。占領行政はむしろ地政学的な関与の仕方であった。ソ連崩壊後に現れた史料からは、スターリンは当時、北朝鮮は社会主義どころか、東欧型の人民民主主義国になる可能性すらはるか先の課題と考えていたことが分かる。スターリンはこの地域への戦略的な関心はあまりなく、中国東北部、ソ連極東への回廊として、地政学的利得をめざしたに過ぎなかった、と。最新版の「ロシア外務省200年史」の著者も指摘する。ソ連軍は48年末までに引き揚げたが、同盟国としてソ連軍基地を置いたりすることも考えなかった。しかしもう一つの目的は、北朝鮮の資源確保であった。50年代には2600万トンのウランを含む砂岩を輸送した。にもかかわらずソ連から見れば北朝鮮との同盟は当初から論外だった。47年まで「臨時民主政府」形成に米ソは努力していたが、10月に米国が提案した国連監視下における統一議会選挙をソ連が拒否し、米国の影響下で48年8月に大韓民国が出来た。スターリンも北側で、朝鮮民主主義人民共和国の建国に転じ、9月建国に向けて、憲法・選挙などの決定を行った。この指令に従って、治安機関、軍機構から憲法や司法・立法・行政制度、政党といった政治制度の形成を主体的に担ったのは、ソ連軍内の共産党員の政治将校たちだった。
 国家機構もソ連のコピーであった。事実上の分断国家としての北朝鮮国家を設置することをスターリンが最終決断したのは48年4月24日だった。モスクワ郊外のスターリンの別荘で憲法制定や独立への段取りも決められたことがシトゥイコフ大使の日記から判明している。ちなみにこの会議には北朝鮮指導者は誰も参加しておらず、ソ連が一方的に決めたことが分かる。この憲法により、共和国は形式的には南側を含み、南側は解放されない領土となった。統一は北側の体制を南に拡大するしかなくなった。この4月の会議通り、8月には南北全土で朝鮮最高人民会議選挙が行われるが、南の人士も政府や党のリストに含めた。9月2日第一回会議開催、8日憲法を採択、9日人民共和国創設が宣言された。国名の朝鮮民主主義人民共和国というのも、ロシア語からの直訳であった。また南北労働党の統一は49年7月1日であったが、その筋書きは実際には一年以上も前にモスクワで決まっていた。
 占領政治でもっとも重要なのは占領者の方針だが、次に重要なのはそれを通訳して実行する通訳の権力だった、と下斗米伸夫氏はいう。当初は第二五軍で宣伝を担当するソ連系朝鮮人による支配が強まった。ソ連軍の将校、兵士としてやって来た朝鮮人の中に金日成(本名・金成柱)もいた。その後も教師、通訳、コンサルタントとして派遣するため、ソ連共産党政治局は、中央アジアで高等教育を有する朝鮮族の再教育をはじめ、北朝鮮内の「ソ連派」は政治局の三分の一、中央委員の四分の一を占め、強力は政治グループになった。しかしソ連派は権力と密着しても社会との接点がない者は所詮借り物でしかなかった。多くは金日成らによって粛清された。その指導者金日成もまた、当初はスターリンの指名で指導者になった。46年3月、ソ連政治局に承認を求めたリストによると金日成は重要だが必ずしもトップとは言えない国防相に擬せられていた。ちなみに、満州ゲリラであった彼らが八八旅団に編入された後、金が満州、朝鮮で戦ったという記録はない。日本の敗北直後も、ハバロフスク郊外にいた金日成は朝鮮に戻ることよりも、ソ連軍の軍務につき、将軍になることを希望していたと、彼と親交のあったソ連軍将校コヴィジャンコは回想しているという。確かに、金正日にユーラというロシア名を与えていた。

 49年10月の中華人民共和国の成立と50年2月の中ソ同盟の成立がアジアの政治状況を変えた。パワー・シェアリングの枠組みが出来た。世界政治の原則的課題はソ連と相談することを条件に、スターリンはアジアの個別の問題は中国に委ねることを決めた。これは49年7月、劉少奇・スターリン会談で大筋合意したと下斗米伸夫氏。アジアのことを熟知しなかったスターリンは思いもかけなかった中国革命の成功に酔い、毛沢東にアジアでの中国共産党の主導的役割を任せた。49年4月の北大西洋条約機構(NATO)の成立に屈辱感を持っていたスターリンだったが、50年2月に中ソ同盟が成立したことで世界観を修正した。同盟の真の標的は米国だった。同時に70歳を超える老独裁者の判断力も衰えていた。50年1月、国連安保理での中国代表権問題で人民共和国を支持したソ連は、この承認を求めて安保理活動をボイコットした。これによって、米軍が朝鮮戦争が始まる6月、国連軍の旗印を掲げる結果をもたらした。国連よりも中ソ同盟を重視したことはソ連には日本と米国との単独講和、そして安保条約締結など大きなマイナスをもたらすことになった、と下斗米伸夫氏。


北朝鮮の経済の行き詰まり

2021年06月25日 | 歴史を尋ねる

 朝鮮戦争の実態に及んだので、その後の北朝鮮経済の行方についても、知っておきたい。参考にするのは、今村弘子著「北朝鮮 虚構の経済」と木村光彦著「日本統治下の朝鮮」、三浦洋子千葉経済大学教授論文「朝鮮半島の人口転換とその変動要因の分析」、文浩一ジェトロアジア経済研究所論文「朝鮮半島の都市、人口と都市」そして睡夢庵「日本と朝鮮の人口推移と身分制度」等。

 1945年12月、米英ソ中による五カ年の信託統治の後に南北統一政府を発足させるというモスクワ協定が締結されたが、その後の米ソの角逐から、この協定は実行されなかった。南部では米軍の軍政が敷かれ、北部ではソ連軍民政部の指導のもと、金日成を委員長とする北朝鮮臨時人民委員会が結成された。朝鮮半島の分断によって、南北ともに均衡のとれた経済発展が阻害された。朝鮮半島北部には鉱物資源が豊富で、朝鮮総督府時代に製鉄所など重工業の設備が多く建設されていた。反対に農業や軽工業は南部で盛んで、「南農北工」「南軽北重」と呼ばれていた。半島全体の工業総生産額のうち北部は60%、中でも採掘業(78%)、化学工業(82%)であり、発電量は92%を北部が占めていた。反対に水田の75%は南部に位置し、紡績や食品工業など軽工業は南部に集中していた。

 朝鮮併合(1910年)当時、朝鮮の総人口は1323万人(朝鮮総督府調査)、1944年は2592万人(北朝鮮959万人、韓国1633万人:朝鮮総督府国勢調査資料より文浩一氏調べ)、35年間でほぼ2倍に増えている。人口増加の主な理由は自然増加であった。疫病が大流行した1918~19年の死亡率を除くと、出生率の増加と死亡率の低下は明白だった。当時の朝鮮総督府の施策は農村振興であり、その結果としての食料不足の解消だった。朝鮮米増殖計画によって米を日本へ輸出し、その代価で低廉な満州産の粟や外米を購入し、飢饉の頻発によって大量の餓死者が出ていた李朝時代に比べれば、農民たちの食生活は量的には改善されていった。当時作成された「食料需給表」によれば1927年の一人一日の供給熱量は2700キロカロリー、90%がでんぷん質食糧で占められていた。ちなみに日本の同年の供給熱量は2300キロカロリーであった。さらに公衆衛生の改善と医療制度の確立、コレラ、天然痘、ペストなどの伝染病予防やハンセン氏病患者の収容などで、死亡率低下に大きく貢献した、と三浦氏は解説する。一方、日本や満州へ向けて朝鮮人の流出も多く、1910~45年までに327万人の移動があったと言われている。さらに半島北部の工業化が進み、南部から北部への移動も1935年以降活発化した、と。
 日本統治下、朝鮮経済は大きな変化をとげた。その変化は、20世紀前半の世界で異例なほどであった、と木村光彦氏はいう。内容は、いわゆる非農化、農業主体から非農業主体の経済への急速な移行であった。(1910年の総督府統計では、朝鮮の全戸口の80%を農業戸口が占めた。日本では1870年代初期の農林業人口比は70%程度であり、朝鮮経済が明治初期の日本以上に、農業に依存していた。北朝鮮の農業は一年一作の畑作を主とし、焼畑(火田)・休閑地も多かった。これに対して南朝鮮では一年二作が普通で、表作は米、裏作は麦などが盛んに行われた。北朝鮮で最大の栽培面積を占めたのは粟で、東部では大麦に稗(ひえ)、大豆、西部では米、大豆の栽培が多かった。南朝鮮では米作が最多で、大麦作と大豆作がこれに次いだ。しかし米作の生産性は低かった。灌漑設備が少なく、田の大半は天水田、またはそれに近い状態の田が多くを占めた。肥料は農家の自給自足だった。畑作では無肥の場合も少なくなかった。)
 (朝鮮にはもともと地主ー小作制が広がり、1910年代、農家数の七割が自作兼小作農と純小作農。耕地面積の半分が小作地であった。田に限ると小作地は七割に近い。朝鮮人地主の多くは、農業に無関心な不在地主だった。一方、併合前から、日本人が農業経営に進出していた。耕地を買収し、小作人を使って特に米作経営を行った。なかには、数百から数千町歩の田を所有する個人や会社も存在した。1908年に設立された国策会社、東拓はこの種の最も大規模な会社であった。こうした個人や会社は率先して優良品種を採用、目的は小作料として徴収した米を日本向けに販売することだった。優良品種の普及は朝鮮人所有田でも起こった。急速なコメ増産の背景は、貨幣経済の進展があった。日本からの工業製品の流入、租税その他公費負担、販売肥料の購入などは、農村住民に貨幣獲得への強い誘因となった。米は重要な換金作物になった。1920年、総督府は「産米増殖計画」をスタートさせ、朝鮮内の米需要の増加に備えるとともに、農家経済の向上と日本の食料問題の解決に資することであった。内容は、土地改良(灌漑改善、地目変換、開田)と農事改良によって、米の大幅増産を期した。また畑作ではジャガイモ、トウモロコシ、陸地綿、養蚕を推奨、貴重な食糧作物と換金作物を伸長させた。)  以上、朝鮮経済が大きな変化をとげる移行過程で、農業自体の変化を追った。総督府の政策と貨幣経済の進展が、農法の改良、作付転換を引き起こした。農業生産は全体として、継続的に増大した。

工業化の端緒は、原料の単純加工を行う中小工場の勃興だった。加えて1910年代には早くも、近代工業とくに製鉄業が興った。(三菱合資会社は併合直後、北朝鮮南西部兼二浦の鉄山を買収、無煙炭鉱の買収も続け、兼二浦製鉄所の建設工事を1914年開始、1918年溶鉱炉二基の火入れ式を行った。1919年には平炉と圧延設備を加え、銑鋼一貫生産体制を整えた。鋼材生産の目的は、海軍艦艇用の厚板と大型形鋼を三菱造船所に供給することであった。1934年製鉄大合同の結果日本製鉄が成立し、兼二浦製鉄所は日本製鉄に移管された。北朝鮮東部では1910年半ばから、利原鉄山の開発が行われ、八幡製鉄所に原料鉱を供給した。さらに東アジアでも最大級の鉄山といわれた茂山鉄山も開発され、1939年、日本製鉄が清津製鉄所の建設を開始した) 1920年代から30年代には、民間企業によって、電源開発を基礎に巨大化学コンビナートが建設された。(併合後、総督府は水力電源の調査を積極的に進めた。その大部分は北朝鮮の鴨緑江・豆満江の本・支流に存在した。1926年、野口遵が資本金2000万円で朝鮮水力発電株式会社を設立し、大規模な電源開発を行った。第一発電所は1929年に漸く完成、同様の方式によって電源開発を行い、野口の最終目的は、豊富・安価な電力を利用して北朝鮮で化学肥料会社を建設することであった。1927年朝鮮窒素肥料株式会社を設立、北朝鮮東部の興南で化学肥料会社を建設、工場はアンモニア合成、電解、硫安製造、工作、触媒の各工場からなった。硫安製造能力は日本内の工場を上回った。野口はつづいて同地区に化学工場を建設、苛性ソーダ、塩安、カーバイト、石灰窒素などを大量に製造した。野口の事業は興南に止まらない。1932年北朝鮮北東部に石炭乾留工場を建設、付近の褐炭を利用して、タールから揮発油、水性ガスからはメタノールとホルマリンを製造、ホルマリンは火薬やべークラウトの原料だった。さらには石炭液化事業も始め、石炭を原料とする液体燃料開発の事業化で、液化油製造能力は年間五万トンに達した。)
 併合から1935年までに、石炭生産は8万トンから200万トンに激増、鉄鉱石生産は14万トンから23万トンに増大した。さらに、黒鉛、重晶石、タングステンなどの各種の鉱物採掘が進んだ。ほかに、アンンチモン、雲母といった希少鉱物の鉱区が開かれ、1930年代にはマグネサイト鉱の採掘も始まった。埋蔵量数億トンの高品質鉱で、世界有数といわれた。
 工場総数は1912ー39年間、およそ300から6500に増加した。とりわけ朝鮮人工場の増加率が高く、1932年には日本人工場の数を上回った。朝鮮人工場の大半は従業員50人未満の零細工場だったが、比較的規模の大きい工場も現れ、1939年には従業員200人以上の工場が15工場にのぼった。
 比較経済史の観点から見ると、工業化の進展は欧米の植民地にはない特異なものであった。とくに本国にも存在しない巨大水力発電所やそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本の朝鮮統治と欧米の植民地統治の違いを際立たせる。とりわけ強調すべきは、産業発展に非統治者の朝鮮人が広く関与したことであった。総督府の政策と日本からの資金・技術・知識の注入は、大きな役割を果たした。しかし同時に、朝鮮人の側に、外部刺激に対する前向きな反応、自発的な模倣・学習、さらには創造性・企業家精神が明瞭に見られた。驚異的な発展は、統治側・非統治側の双方の力が結集して起こった、と木村光彦氏は指摘する。 木村氏の実証研究の目玉はここにあると思うが、当時の朝鮮で、統治・非統治の意識がどの程度日常的になっていたのか、李朝朝鮮時代からの人々は、社会の価値観の変化に圧倒されていたのではないか。あれほど圧倒的な力を持っていた両班階級が少なくとも表面に現れなくなった。李朝の王族も、併合後、日本の皇室に続く地位を得ていた。統治・非統治の意識は日常生活上は薄かったのではないか。欧米型の植民地という考え方があれば、日本人もここまで半島に投資しなかった。人類皆兄弟、天皇の下に皆平等の精神は日本人だけだなく、台湾人や朝鮮半島の庶民にはある程度受け入れられたのではないか、と筆者はひそかに考えている。

 この辺で、タイトルのテーマとかけ離れたので、もとにもどしたい。北朝鮮が朝鮮総督府の下でどの程度の経済的レベルに達したのか、それがどの程度引き継がれ、その上でどうして現在の経済的苦境に陥っているのか、何とか解くほぐしたい。
 1937年の支那事変勃発以降、帝国日本は戦時体制、さらには総力戦体制に入っていく。政府にとって、産業各部門の生産性向上、とくに軍事工業の拡張が至上命題となり、あらゆる政策が動員され、経済は統制強化であった。これは朝鮮でも同様で、総督府の行政も戦時体制に転換した。総督府の機構は1935年以降、さらに拡張され、1942年人員は総数10万人を超えた。日本人が5.7万人、朝鮮人が4.6万人、朝鮮人の増加率が高かった。
 まずは食糧増産計画だった。増産実現のため総督府は、農民の組織化、精神力の鼓舞を図った。内地の大政翼賛会と連携する国民総力朝鮮連盟が結成され、農山村生産報国運動に発展させる役割を担った。また、朝鮮における本格的な米穀統制、すなわち価格統制と出荷・集荷統制を開始した。1939年総督府は小作料統制令を制定、地主は小作料の変更が出来なくなった。また地主から小作米(地主取得分)の供出が命じられ、土地所有権に帰属する財産と収益の自由な処分権を大部分、総督府に譲る形となった。
 1937年、重要産業統制法が施行された。これによって、朝鮮商工業に対する統制が本格化した。以後、取引、価格、資金融通、賃金などの統制法が次々と出され、市場経済から統制経済への転換が進展した。統制強化とともに、帝国経済は経済計画が導入された。朝鮮では、1943年末に発足した総督府鉱工局が鉄鋼、軽金属、化学製品などの重要物資の生産・配分を統括し、主要鉱山・工場に四半期別、月別に生産目標を割り当てた。鉱工局は半島の軍需省といわれた。1930年以降、総督府は自らまたは鉱山会社や大学を督励して積極的に鉱物探索を行った。日米開戦後は、軍需に応じて新資源の探索が一層広範囲に進められ、北朝鮮では多種の希少鉱物の存在が判明した。コバルト、ジルコンなど他地域で得難いものもあった。戦時末期、とくに急要として採掘されたのは、鉛、モリブデン、蛍石、黒鉛、カリ長石、小藤石、電気石、リチウム、コロンブ石、モナザイトであった。モナザイトの主成分はリン、セリウム、トリウムの化合物で、そのほかにウランなど各種元素の化合物を含んでいる。陸軍は1940年に原爆製造の意義を認識し、翌年理化学研究所に委託、仁科芳雄博士はウラン原鉱として、朝鮮のモナザイトに注目した。北朝鮮はまた、フェルグソン石、リン灰ウラン石、銅ウラン雲母など、天然ウランを多量に含む鉱石を産する。陸軍はフェルグソン石の採掘を行い、原爆製造に必要なウラン235の半量(あとの半量は福島県)を得る計画であった。しかし陸軍の原爆製造計画は技術的な問題から打ち切りとなった。
 1930年代末から、製鉄、冶金、軽金属、化学、繊維など多くの軍事関連分野で、生産拡張が行われた。朝鮮の各企業、とくに野口系企業や三井、三菱、住友といった日本の主要財閥が投資を積極化した。海軍のロケット燃料を製造する秘密工場も、新たに設置された。戦争末期には、日本の有名企業が軍の指示を受け、続々と朝鮮に工場を建設した。軍事工業化は、豊富な鉱物・電力資源、労働力を基礎に、広範囲かつ急速に進行した。北朝鮮では、近代兵器工業の核たる特殊鋼・軽合金の生産、ロケット燃料やウラン鉱の開発まで行われた。これらの事実は21世紀の今日まで殆ど知られていないが、対米戦争の中で、朝鮮がいかなる役割を担ったかを語っている、と木村光彦氏。朝鮮では米軍は空襲しなかった、そのために工場建設が急速に行われ、その工場群が敗戦時まで無傷であった、と。
 帝国日本は、長期戦に備え、朝鮮における戦争経済の構築を図り、本国から自立した軍事・非軍事(繊維、雑貨、食料品など)工業の建設を企図した。政府は戦時末期、内地の設備や技術工の朝鮮移転を推進する計画を立て、一部を実行に移した。他方、鮮満一如が謳われたように、朝鮮と満州の経済的結びつきが強まった。朝鮮の諸工場は満州から燃料と工業原料を大量に購入する一方、半製品・完成品(化学製品や機械類)を販売した。水豊ダムの電力の半分は満州に送電された。華北との経済関係も同時に強まった。華北からの礬土頁岩の輸入で、朝鮮のアルミニウム生産を支えた。こうして朝鮮・満州の自立的工業の建設は、完全には達成されなかったが、帝国崩壊時までに大きく前進した。

 帝国日本は朝鮮に膨大な開発成果を残した。電力、鉄道、港湾などのインフラ、鉱工業の生産設備から農業の進歩に及んだ。そしてインフラ、鉱物資源、工業設備の多くは北朝鮮に存在した。北朝鮮の発電能力は1945年、南朝鮮の6倍、一人当たりでは内地すら上回った。鉄道総延長も北朝鮮が南朝鮮を上回った。大半の重要鉱物は北朝鮮でのみ生産された。全電力の90%は北朝鮮で消費された。そのうち化学工業が80%を占めた。南が北より多かった部門は、紡績工業、機械器具工業、食料品工業だった。しかし北朝鮮は重化学工業で南朝鮮を完全に圧倒していた。
 農業はその生産能力を的確に示すことは難しい。北朝鮮の米の生産は生産増加率が高かったが、南朝鮮の30~40%ぐらいであった。しかし食料作物全体(米、麦、雑穀、豆、イモ)を取ると、北の生産能力は南の半分を上回った。北の雑穀とジャガイモ生産が相対的に大きかった。1942-44年、北朝鮮の食糧生産は、全量が住民の消費に充当されれば、飢餓が生じる水準ではない。帝国日本が崩壊した後、北朝鮮には、住民に生存を保障する食料生産能力が残された、と木村氏は分析する。

 では、朝鮮総督府の治世下からいわゆる解放された北朝鮮は、どうなったのか、ここでも木村光彦氏の研究を参考にしたい。 ソ連軍政下の北朝鮮で採られたのは、戦時期に帝国日本が追及した統制政策だった。ソ連軍政当局は1946年8月、主要な旧日本企業をすべて国有化した。中小商工業者には、当初営業を許可した。土地改革は、小作農民の共感を得るため、進歩的民主主義社会の物質的土台であると宣伝、政府による土地取り上げを連想させる社会主義という言葉は、意図的に避けられた。当時の北朝鮮の内部文書にはっきり書かれていると木村氏はいう。農地の売買・貸与が禁止されただけでなく、作物の選択や収穫物の販売に厳しい制限が課された。ソ連軍政の目標は経済全般の統制強化、全資産の国有化であり、土地改革はその重要かつ大きな一歩であった。国家樹立後、金日成政権はこの政策の継承・発展を図った。朝鮮戦争後には、農業および中小商工業の集団化を推進し、経済の全部門を国家の支配下に置いた。
 ソ連軍政とそれに続く金日成政権の経済建設の柱は、帝国日本が残した軍事工業の活用と発展だった。ソ連占領軍は一時工業設備を解体し持ち去ったことのあったが、規模は限定的であった。その後は抑留日本人技術者を使役し、産業の復興を図った。(野口系の企業には内地人技術者が217名もいたが、その中の一人、宗像英二は朝鮮石灰工業への配属転換を命ぜられて渡鮮、アルミニウム原料のアルミナ抽出技術の開発に取り組み、京城帝国大学で化学技術の講義を行った。北朝鮮を占領したソ連軍は内地人技術者の帰国を認めず、工場の稼働に彼らを使役した。宗像も興南肥料工場の技術指導者となり、生産回復に協力した。その後1946年末に海路、北朝鮮を脱出、日本に帰還した。帰国後、宗像は旭化成取締役に就任し、人絹工業の復興に尽力、1962年日本原子力研究所理事を務めた。) 金日成はソ連軍と共に北朝鮮に入ると、日本が残した諸工場を精力的に視察、いち早く平壌兵器製造所に注目し、その拡充を企てた。国家成立後、金日成政権は軍備拡充に多大な努力を傾け、1949年には、元山造船所で初の海上警備艦を建造している。警備艇の鉄板を製造したのは黄海製鉄所(旧日本製鉄兼二浦製鉄所)であった。1949年3月、金日成はソ連を訪問、朝ソ経済文化協力協定を結んだ。これには秘密協定が付属し、ソ連は北朝鮮への大量の兵器の供給に同意、TNT火薬工場、地下兵器工場の建設にも、支援を約束した。金日成は他方で鉱物、とくに鉛・亜鉛の増産を命じた。国産兵器の原料として必須であったばかりでなく、対ソ輸出品としても重要だった。ソ連は兵器、資本財、技術指導を無償で提供したのではなかった、その対価を要求した。金日成政権はその支払いのために、鉛・亜鉛の対ソ輸出を増やさなければならなかった。同様に、モナザイト、コロンブ石も大量に輸出された。ソ連は北朝鮮産のウラン鉱を原爆製造に利用した、とロシア政治専門家の下斗米伸夫著「アジア冷戦史」は語っている。
 金日成は核開発に強い関心を抱いた。それは彼の軍事優先主義、対南赤化統一政策の下では当然で、ウラン鉱開発と重化学工業という帝国日本の遺産によって、この事業が十分に実現可能と映った。朝鮮戦争後、金日成はソ連との間で、核研究協力に関する合意文書に調印し、何人かの研究者をモスクワ郊外の核研究所に派遣した。また、1957年ごろ、戦前日本で学んだ物理学者が、東京大学に原子力研究の共同開発を申し入れた(公安調査月報による)。これらの情報は、金日成が1950年代後半、すでに核開発を構想していたことを裏付ける、と木村氏はいう。そして木村光彦氏はこう結論付ける。「戦後北朝鮮は帝国日本から、巨大な産業遺産と共に、戦時体制(全体主義)と統制経済を継承し、これを社会主義または共産主義の名のもとに、国家運営の基礎とした。政権は軍事攻撃による南への体制拡張に失敗した後も、テロや政治工作を通じて対南攻勢を継続する。政権の継承者、金正日は先軍政治を掲げ、いっそうの軍事強化とくに核ミサイル開発に邁進した。この間、日本統治期の産業遺産とくに大規模発電所、化学コンビナート、製鉄所は北の経済の根幹であり続けた。しかし軍事に偏重した非生産的投資と統制に伴う非効率は、経済を長期停滞に陥れた。加えて政権は、各部門に無秩序な増産命令を乱発する一方、自らは奢侈的および権力を誇示する消費をくり返し、その結果、経済の計画化は名ばかりとなり、市場経済抑圧の下で、住民の間では生活維持のため、自給自足への退行が生じた」 木村光彦氏の分析は一々最もであるが、さらに軍人上がりの金日成にとって、北朝鮮には帝国日本の軍事産業が沢山残っていることに目がくらみ、北朝鮮を軍事強国にしようと野望が沸き上がったのではないか、軍国主義日本の負の遺産も引き継いだ、ともいえる。

 「北朝鮮経済はなぜ破綻したのか」 今村弘子氏は中国での北朝鮮研究から得たものから、その著書「北朝鮮「虚構の経済」」を著わしている。その第一章がこのテーマである。   かって「自立的民族経済」を標榜していたこの国の経済は、なぜ破綻したのか。そこには社会主義国が共通に抱える問題とともに、北朝鮮独自の問題があった。北朝鮮は建国直後の時期を除いて、社会主義国でありながら計画経済が機能しない「計画なき計画経済」国家であり、また「自立的民族経済」といいながらその実態は援助の上に成り立つ「被援助大国」であり、対外経済関係ではボーダレスには程遠いボーダフルな経済国家だった、と今村氏はいう。社会主義を名乗っている以上、北朝鮮も長期経済計画を策定し、それにしたがって経済を運営してきた。しかし計画自体が野心的すぎ、整合性もなかった。中国、ソ連からの援助の減少や、軍事費の負担の増大という外部要因も重なり、長期計画そのものに意味がなくなった。また、北朝鮮経済の特異性としては、南北朝鮮の軍事的緊張と軍事費の経済への圧迫であった。1969年以降、大規模な米韓合同軍事演習が定期的に行われてきたが、北朝鮮はその期間中、民間も含めて非常態勢を敷いていた。韓国も米韓合同軍事演習の狙いについて、北朝鮮に脅威を与えることだと語っている。金日成はホーネッカー書記長に、われわれはその都度対抗措置を取らねばならない、攻撃に備えるため、多数の予備役兵を正規軍に補充しなければならない、これによって毎年一カ月半の労働シフトを取っていると、説明していた。フーン、ソビエトロシアが対アメリカ冷戦対策で経済の破綻に追い込まれた経緯と相似する。こうした国際環境の中で北朝鮮は国防費に膨大な予算を割かざるを得なかった。北朝鮮経済が逼迫した90年代半ば以降も、軍事予算の減少額は少ない。生産活動を犠牲にして、国防を優先させている。米軍備管理軍縮局の推計ではGDPに占める割合は95年で29%、99年で19%。こうした軍事優先の政策が北朝鮮経済の発展を阻害した。さらに援助に依存した経済構造は、経済成長の持続が発表されていた70~80年代も、結局改善されることがなかった。このためソ連の崩壊によって援助が激減した、中国が改革開放政策以降、政策の変更によって援助が減少させたことから、朝鮮の経済困窮度は一層深刻になった、と今村氏はいう。

 今村氏は解放直後の北朝鮮の経済状況も触れている。 1946年8月、日本国、日本人および親日企業家が所有していた企業や鉱山、鉄道、銀行、商業施設など1034の重要施設が無償で没収され、国有化された。工業分野の大部分を所有していた日系企業が接収されたことにより、46年末には国有企業など社会主義経済形態の占める割合は、工業総生産額の72%に達した。一年余りで生産財を国有化する社会主義経済化が急速に進められた。47年と48年には各々一ヵ年計画が立てられ、増産突撃運動が行われた。工業総生産は47年には前年比54%増、48年には64%増となり、食料生産も増産され、経済回復の足取りは早かった、と当時の北朝鮮公式報道を示している。さらに49~50年には二か年計画が行われ、食糧生産は300万トン、工業生産は1944年の96%の水準(出所:朝鮮中央年鑑)まで回復した。木村氏が分析した朝鮮総督府の達成した経済状況が一先ずうまく引き継がれているのが分かる。
 ところが金日成は南北統一を武力で実現しようとした。1953年7月漸く停戦を迎えたが、この戦争の被害は甚大だった。朝鮮人の死者だけで南北あわせて150万人とも400万人ともいわれ、南北離散家族も1000万といわれる。3年に亙る戦争の間に北朝鮮の8700の工場が破壊され工業生産は戦争前の64%の水準まで減少した。直後の経済的損失は4億ドルで49年のGNPの6倍に達した。朝鮮戦争の結果、南北は軍事的緊張の下で国造りを再開、南北の経済建設に深刻な重荷を負わせることになった。とくに北朝鮮にとって、軍事力の強化という至上命題は、その経済を歪ませた。
 朝鮮戦争が終わった直後の53年8月、党中央委員会総会で「重工業の優先的な発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させる」という方針が採択された。これに対し人民生活が苦しいのに重工業に偏っているという反対意見は、教条主義、修正主義として切り捨てられ、反対派は一掃された、という。この辺が金日成政権の限界なのだろう。まず武力統一戦争を引き起こしたことが金日成の誤りで、その後の南北朝鮮の軍事的緊張が続いたのは朝鮮戦争の結果であり、さらに軍事力強化の道を選んで、重工業の優先的な発展を方針とした。軍事力強化の悪循環である。朝鮮総督府時代に北朝鮮地区に開発した重工業の遺産が、結果的に軍事力強化の後押しをしたと言えるのではないか。アメリカを敵に回したら、当時国際的交易の分野に進出することは無理だろう。朝鮮総督府が切り開いた北朝鮮地区の鉱工業遺産は、軍事力強化の道にしか使われず、北朝鮮の人々の経済発展に貢献しなかった。北朝鮮も韓国も朝鮮総督府の残した遺産の上に、歴史は積み上げられるのは誰も変えようがない。両国とも李朝朝鮮からの物的遺産(例えば経済的遺産)を引き継いでいないことでも、そのことが云える。
 もう一つ重要なことで触れられなかったことは、北朝鮮に人口問題である。朝鮮戦争勃発時の北朝鮮の人口は国連の推計値で972万人、戦争終了時、北朝鮮中央統計局によれば849万人、差引120万人の減少である。その後人口は1970年には1500万人、1980年代末には2000万人に到達した。90年代後半からは、経済難・食糧難により人口増加率が急減し、2000年の人口は2218万人といわれている。朝鮮総督府時代の北朝鮮地区は、人口1000万人弱で食糧の自給がやっとだったと木村氏のデータは伝えている。この人口問題に北朝鮮政権がどう対処したのか、80年代に「全国土の棚田化」によって樹木の乱伐が行われ、山林の保水力が減退していたため、ちょっとした大雨でも、すぐに洪水や鉄砲水が起る有様で、90年代後半に北朝鮮を襲った大水害や干ばつなどの自然災害で、耕地の半分以上が被災、北朝鮮は国際社会に食料援助を求めるに至った、という。ここで要請されているのは治世力であって、軍事力、共産主義ではない。朝鮮総督府時代と比較してみると、その違いがどこから出てくるのか、自ずと分かる。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


朝鮮戦争と権力闘争

2021年06月14日 | 歴史を尋ねる

徐大粛著「金日成」の原書が出版されたのは1988年、ソビエト連邦が崩壊する前で、ソ連秘密文書が公開がされる前だったが、朝鮮戦争についても基本線はしっかり押さえられていると言っているのは、文庫本「金日成」の解説蘭を担当する和田春樹氏だ。朝鮮戦争の経緯については、ソ連秘密文書で公開された事実も加味した、ふくろうの本「図説 朝鮮戦争」田中恒夫氏の著作に依ることとし、全体の流れは、徐大粛氏に語って貰う。

 徐氏はいう。1948年、北朝鮮に正式な単独の政権が樹立されると、党派間の合従連衡が目立ち始め、どの党派も新たな状況の展開に対して、体制を整えそれぞれの主張を始めた。もっとも世帯が大きかったのは国内派であったが、国内派は38度線の北での表舞台の活動と南での地下活動とを共に抱えていたため、その力が分散された。中国大陸から戻って来た延安派は、ソ連占領軍により武装解除されていた。ソ連派はソ連当局により支えられて、金日成のパルチザン派と協力関係にあったが、もともとは異なった集団だった。金日成は政府を樹立してから2年とたたぬうちに自ら創建した軍隊を用いて南への武力攻撃の挙に出た。朝鮮戦争に関しての研究では多くは国際的要因に原因を求めているが、国内的要因を検討することも重要、金日成の何よりの目的は、軍事的手段を用いてでも分断された国土を統一することにあったから。しかし金日成の企ては、結局は国連および他の多くの国々を巻き込む国際紛争へと発展した。祖国解放戦争のつもりであったものが、金日成の手に負えない一大戦争となってしまった。中国人民義勇軍が登場すると、戦争の遂行自体が金日成ン手を離れ、休戦協定もアメリカ軍と中国軍との合意によってもたらされた。
 金日成にとってさらに深刻であったのは、不首尾に終わった戦争の結末の端を発した、指導者としての地位を揺るがす権力闘争だった。戦争のさなかも休戦後も、各党派は金日成に揺さぶりをかけたが、金日成はこうした挑戦に対抗するばかりか、逆に逆手にとって、敵対する党派を潰し自分の権力をいっそう強固なものにした。まず国内派が攻撃した。そしてソ連で非スターリン化の動きが始まると、延安派およびソ連派の一部が金日成の追い落としを図った。しかし金日成はこれらの挑戦をすべて容赦なく退けた、と徐氏は解説する。なかでもソ連派からの批判は由々しき事態だった。ソ連派は党、軍、政府、党の機関紙、幹部養成学校等の主要ポストを握っていた。ソ連派の許カイは朝鮮労働党の副委員長であった。ソ連軍は撤退しており、朝鮮戦争が始まっても北を支援しに戻ってこなかったため、結局ソ連派の力は大きく後退した。延安派で党および政府の要職に就いていた者も、1958年に中国軍が撤退する頃までには、その地位を追われた。10年以上の年月がかかったが、パルチザン派を除くすべての党派は跡形もなく消し去った。1961年9月、朝鮮労働党第四回党大会を開催し、残ったのは金日成に無条件に忠誠を誓う者のみであった。こうして金日成はパルチザン派の同志を要職に登用し、自らの抗日武装闘争を朝鮮の唯一正しい革命の伝統であるとして、この伝統を継承する新しい共産主義的人間作りを始めた、と。

 ここからは、ソ連秘密文書で公開された事実も加味した田中恒夫氏の朝鮮戦争の解説である。 1948年10月ソ連軍撤退、その際大量の軍需品や装備を北朝鮮に譲渡した。この時朝鮮人民軍は約6万の兵力を有していたが、その後もソ連からの借款によって小銃、野砲、戦車、航空機、弾薬などの装備の充実を図った。 一方48年末に米軍が撤退し、韓国軍が38度線の警備を引き継ぐと、南北両軍は直接対峙することになり、49年には両軍の間で国境紛争(三八線衝突事件)が頻繁に起こるようになった。これらの事件は、米や食料の略奪のための侵入、砲撃、攻撃、高地の争奪戦などであるが、北朝鮮軍にとっては韓国軍の戦力の探索という目的もあった。戦いは優越した武器を投入した北朝鮮側が優勢で、訓練の練度も北の方が上であった。当時韓国軍はゲリラ討伐に手を焼いており、国境紛争に没頭する余力はなかった。韓国軍は北朝鮮軍が出てこなければこちらから積極的に仕掛けることはしないとの方針で対処するようになった。フーム、こんなところにも、北朝鮮からの侵略の誘惑を起させていたのだ、今の尖閣諸島の状況も酷似している。日本はしたたかに対処しているが、誘惑だけは起こさせている。
 国力、軍事力が優位に展開しつつある情勢を背景に、48年12月頃、ソ連軍事顧問団と金日成一派のごく少数による北朝鮮指導部内で武力南侵が密かに合議された。翌49年3月、モスクワを訪れた金日成は、スターリンに南侵を打診したが、スターリンは時期尚早であり、韓国から先制攻撃があった場合のみ反撃を認めるとして金日成の申出を拒否した。その後8月、金日成は平壌駐在の大使を通じて南侵を提議したが、これもスターリンは拒否、北朝鮮による挑発行為を容認しているとして大使を叱責した。田中氏はコメントしていないが、米国が出て来た時、第三次世界大戦に発展する可能性をスターリンは恐れたのだろう、米国は核兵器を保持しているから。 このソ連の姿勢が変化するのは1950年に入ってからだった。1月17日、金日成は大使に熱っぽく南侵の承認を訴えた。その旨を知らされたスターリンは、1月30日付電報で、スターリンはこの件について金日成を支援する用意が出来ていることを伝えよ、シトゥイコフ大使に伝えた。金日成はこれを南侵の事実上の承認と受け取った。

 なぜ一転して承認したのか。スターリンは5月14日付毛沢東宛ての電報で、国際情勢の変化を挙げている。①ソ連による核実験の成功(49年8月)、②社会主義中国の誕生(49年10月)、③アチソン演説(50年1月)、④中ソ友好同盟相互援助条約の締結(50年2月)、⑤在韓米軍の撤退(49年6月)。 米国による核独占は崩れ、在韓米軍も撤退、東アジアの防衛ラインから韓国を除いた(アチソン演説)という事実と、米国は国共内戦で台湾の国民政府を助けなかったが、朝鮮でも同じではないかという読みであった、と田中恒夫氏。スターリンは米国が介入しないことが大前提であり、後は中共がこれを承認するかという問題が残り、これを南侵承認の条件に付けた。スターリンは平壌にいる軍事顧問団首脳に代わって、独ソ戦を戦い抜いた中将、少将に交代させた。
 3月11日、金日成はワシリエフ中将や3人の軍事顧問団首脳と会談し、南侵の決意を示すとともに、計画作成をソ連軍事顧問団に依頼、金日成自身は3月末から4月にかけてモスクワを訪れ、スターリンから最終承認を得ると共に、スターリンの示した中共の同意を得るため、金日成と朴憲永は5月13日に北京を訪れ、中共の同意を取り付けた。また南侵計画は顧問団によって作成され、朝鮮語にも翻訳された。6月10日、北朝鮮軍は秘密軍事作戦会議を開いて、機動演習の名目で38度線に展開する命令を下達、12日から各部隊は陸続と南下を始めた。

 この頃韓国では、5月30日の第二回総選挙で李承晩の支持勢力は大敗し、その政権維持も危ぶまれる状況となった。また軍はこの年の4月と6月に高級幹部の人事異動があり、すべての師団長が交代した。また6月中旬の部隊改編によって編成は混乱しており、未だ新任地に到着していない部隊もあった。韓国軍は北朝鮮による不穏な動きについてある程度把握していた。だが政府や軍全体に切迫した危機感はなかった。
 1950年6月25日北朝鮮は38度線全域に亘って一斉射撃を開始、十数万の大軍が怒涛の南侵を開始した。この時韓国軍は38度線南側に四個師団と一個連隊、後方に四個師団を配置していたが、各部隊は装備の三分の一を整備中で、ほとんどの部隊の兵士は休暇・外出中で、38度線沿いには大隊級の部隊が就いているだけだった。ソウルの軍中枢部も同様だった。急いでソウル防衛を指示したが、28日午前零時北朝鮮軍戦車が爆破しなかった鉄道橋を渡り始めソウルに突進、ソウルでは漢江大橋の爆破を命じ、韓国軍主力の撤退やソウル市民の避難については考慮されてなかった。韓江北岸に取り残された将兵の多くは苦労して韓江を渡り、投降した者は北朝鮮軍に編入された。また大半のソウル市民は北岸に取り残された。やがて北朝鮮による苛酷な統治が始まった。
 こうして首都ソウルはわずか三日で陥落した。韓国軍の戦力は半減した。ところがソウルを占領した北朝鮮軍は、漢江を渡河して南侵を続けるという当然の行動を採らず、なぜか三日間もソウルに停止したままだった。兪成哲(北朝鮮軍作戦局長)は「我々の南侵計画は三日以内にソウル占領で終わることになっていた。我々は首都ソウルを占領しさえすれば、全土が手に入るものと錯覚していた」「ソウルを占領すれば南の全域に潜伏している20万の南労党員が蜂起して、南の政権を転覆するという朴憲永の大言壮語を頭から信じ切っていた」と。 (人民蜂起は何故起きなかったか:韓国のゲリラ活動は、1946年10月の大邱暴動の鎮圧を逃れた左翼同調者が野山に集まり、野山隊として活動するようになった。その後各地で起こった暴動を韓国軍や警察が鎮圧すると、逃走者は山岳地帯に集まり、南労党はこれを組織化していった。1949年、南北朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党となると、これらを朝鮮人民遊撃隊として再編し、韓国でのゲリラ闘争を統制していった。その責任者は朴憲永などの旧南労党の幹部であった。だが党ゲリラはその活動に統一性、計画性がなく、各個に蜂起して韓国軍の討伐に遭い、勢力を減退させていた。一方北朝鮮は1948年10月から幾度となく遊撃隊を南に送り込んだが、その都度韓国軍の討伐に遭った。北朝鮮が南侵にあたって遊撃隊の擾乱と蜂起を期待したが、壊滅状態でその力はなかった)

 北朝鮮軍の侵攻に対して、国連安全保障理事会は25日、これを侵略行為と規定し、速やかな撤兵を要求し、加盟国による決議の実行を決議した。しかし北鮮軍はこの決議を無視して攻撃を続けた。トルーマン大統領は、マッカーサー元帥からの韓国軍崩壊の危機、李承晩大統領の救援要請、北朝鮮軍の攻勢は計画的な全面侵攻であるとの在韓国国連朝鮮委員団による報告などを考慮して、27日、極東海・空軍に対して北鮮軍への海空からの攻撃を指令した。 米極東海軍は、第七艦隊の一部を台湾海峡に派遣すると共に、主力で朝鮮海域に出動、海上封鎖、艦砲射撃、海上輸送、掃海に任じるとともに、空母艦載機による航空作戦を行った。 米極東空軍は朝鮮上空に進出して航空作戦を開始、瞬く間に38度線以南の制空権を獲得、B-29爆撃機で平壌飛行場を爆撃、35機の北朝鮮軍機を破壊した。 6月27日国連安全保障理事会は「北朝鮮の侵攻を撃退するため加盟国は韓国が必要とする軍事援助をあたえる」という決議を採択、米国が行った海空軍の投入を追認した。しかし米軍は地上軍の投入には躊躇した。ソ連の介入の恐れもあったが、崩壊しつつある韓国軍の戦力と戦意が問題だった。そこで29日、マッカーサー元帥は、飛行機で東京を発ち、水原飛行場から漢江南岸のソウルを視察、その結果地上軍投入の必要性をワシントンに打電、これを受けてトルーマン大統領は30日、米地上軍の投入を発表した。(マッカーサー元帥は視察が終わった後、傍らにいた韓国軍軍曹に「いつまで漢江が守れるのか」と尋ねた。その軍曹は不動の姿勢で「閣下、私は兵隊です。中隊長が守れと命ずれば、死ぬまでこの丘を守ります。中隊長が下がれと命ずれば、さがります」と答えた。その返答を聞いて、マッカーサーは満足そうにその軍曹に握手を求めたという。この軍曹の名前はわかっていないという)

 7月7日、国連安全保障理事会は国連軍の創設を決議し、その司令官を米大統領に委ねた。トルーマン大統領はマッカーサー元帥を国連軍司令官に推薦し、10日正式に任命された。史上初めて国連軍が誕生した。問題は韓国軍と国連軍の関係だった。李承晩大統領は臨時措置として韓国軍の指揮権を国連軍司令官に委譲した。戦況は北朝鮮軍の釜山占領が早いか、それとも国連軍の増援が早いか、まさに時間との戦いになった。この点、米軍が日本に駐留していることが大きな意味を持った。米軍は日本に駐留している部隊を韓国に派遣し、その後米本国から逐次韓国に投入した。こうして日本には北日本の第七師団しか残らないことになったため、マッカーサーは日本の治安維持のため7月7日、日本政府に警察予備隊創設の書簡を送った。また、補給面でも、国連軍も韓国政府も軍需支援体制の確立を急いだが、このため先ず在日在庫品を輸送することによって当面の需要を満たし、不足分は米本土と日本で生産して輸送することにした。一方、北朝鮮軍にとっては、南下するにつれて補給線は延び、兵力の消耗も増加し、補給や補充が追い付かなくなっていった。時間との戦いは、補給と補充のスピードの戦いでもあった。
 国連軍の地上部隊は第八軍司令官のウォーカー中将が率いた。(前の司令官はアイケルバーガー中将で憲法9条下の日本の安全保障面をいつも心配してくれていたが、その後任がウォーカー中将で、日本から今度は朝鮮半島に渡って来たのだ。)北朝鮮軍が洛東江にせまりつつあった頃、第八軍の西側面にはわずかな兵力が配置されているだけだった。ところが七月末まで行方の分からなかった北朝鮮軍第六師団が突如晋州正面に進出し、一気に釜山を突こうとする姿勢を示した。これは第八軍ばかりでなく東京の国連軍司令部、さらにはワシントンをも驚愕させた。この危機に際してウォーカー中将は全部隊に洛東江陣地への後退を命じ、所定の陣地を占領した。これが後に釜山橋頭堡あるいはウォーカー・ラインと呼ばれる陣地線であった。ウォーカー中将は「韓国から撤退はしない。韓国にダンケルクはない」「1インチでも奪われれば、多くの戦友を失うことになる。我々は最後まで戦う」と決意を述べた。Stand or die とマスコミにセンセーショナルに報じられた。国連軍は背水の陣に追い詰められた。この戦いが一カ月半もつづくことになった。

 仁川上陸作戦は、マッカーサー元帥の強い意思のもとに行われた作戦であるが、上陸作戦自体が目的ではなかった。元帥は地上軍を韓国に投入した時から、北朝鮮軍を韓国南部のどこかで阻止し、新たな部隊を北朝鮮軍の背後に上陸させてスレッジ(鉄床)を作り上げ、第八軍はハンマーとなって反撃に転じ、鉄床の上に北朝鮮軍を叩き潰すという構想を抱いて、国連軍参謀長アーモンド少将に上陸地点の検討を命じた。釜山橋頭堡の攻防がたけなわの8月12日、第一海兵師団の来援の報せを受けると仁川上陸の腹を決めた。仁川を上陸地点にすることは抵抗が多かった。仁川の干満の差は10m内外に達し、海岸は干潟で上陸用舟艇が到達するのは不利、従って大潮の満潮時に制限されるが、時間的にも制約される。だがマッカーサー元帥は皆が実行不可能と挙げた点は、それだけ奇襲効果が大きいとして自説を譲らなかった。作戦命令を下達、9月15日を上陸作戦日としてスレッジ・ハンマー作戦は動き出した。
 上陸そのものは順調に進み、ソウルへの進撃、奪還を目指した。北朝鮮軍の執拗な反撃に遭いながらも、28日になってソウルの敵兵掃討を終えた。第一海兵師団に続いて上陸したのは第七師団で、主な任務は南方からソウル地域への北朝鮮軍の増援の阻止並びに水原付近の要衝を確保しスレッジを拵え、洛東江戦線から反撃してくる第八軍と提携して北朝鮮軍を撃滅することだった。北朝鮮軍は国連軍が仁川に上陸したことを知らず、陣地を死守することを命じ続けた。しかし攻勢転移6日目になって、第八軍は各所で突破するに至った。9月22日、ウォーカー中将は総攻撃の好機と判断し全軍に突進を命じた。金日成は、25日に全軍に防勢転移の命令を下したが、そのとき既に北朝鮮軍の組織は崩壊しており、やがて各部隊ごとに壊乱して敗走を続け、九千人余りの兵士が捕虜になった。だが国連軍は北朝鮮軍を袋のネズミにしたにも拘らず、その主力部隊を完全に補足することは出来なかった。洛東江戦線にいた北朝鮮軍約10万人のうち、国連軍の包囲を逃れて北へ逃れた兵力は二万五千から三万五千人と推定された。約6万の兵士は霧散していた。(北朝鮮軍は撤退にあたって反共人士の粛清、有能な人材の北送、施設の破壊など多くの傷跡を残した。北朝鮮占領下で粛清されたソウル市民は9500人と推定され、二万から三万人が北に連行されたという。それらの人達は政治家、大学教授、医師、文人、技術者などすべての分野を含み、大物政治家もいた。)

 国連軍が38度線を越えるべきか否かという問題が浮上してきた。北朝鮮軍撃退後の行動について米国内でも意見の相違があり、国務省でも国連軍の共同行動によって朝鮮の統一を図るべきだという極東局の意見と38度線で停止して政治的解決を図るべきという政策企画室の意見が分かれた。マッカーサー元帥は北朝鮮軍も撃滅が第一で、そのためには38度線突破も止むを得ないという考え方で、この考えに引きずられる形で国務省の統合参謀本部も北進論に傾いた。統合参謀本部は、9月27日、「国連軍の軍事目的は北朝鮮軍の撃滅にある。このため38度線以北への進撃を許可する。ただし、ソ連や中共の介入の事実も意図もない場合に限る」「北朝鮮への進撃計画を立案せよ。ただし実行は大統領の命令による」 9月21日、ソ連のビシンスキーが38度線での停戦を呼びかけ、25日には中共がインド大使を通じて「米国が38度線を突破することを見過ごすことは出来ない」と警告した。一方、韓国の立場は複雑だった。李承晩大統領は、北が南侵して来た以上、もはや38度線は存在しないと表明し、この際、国連軍の北進によって統一の悲願を達成しようとしていた。9月29日韓国軍は38度線に達しようとしていた。李承晩大統領は参謀総長に韓国軍の38度線突破を命じた。しかし韓国軍は国連軍司令官の指揮下にあり米第八軍司令官の作戦統制を受けている。参謀長は熟慮の上、止むを得ず38度線を突破したという形を作った。結果的には米国が突破を決定していたので、独断突破は問題にならなかった。しかし国連軍は決議によって北進を開始したという政治的姿勢を示したかった。国連安保理では、38度線突破提案がソ連の拒否権によってその都度葬られ、米国は総会に提議した。「朝鮮の統一、独立、民主的な政府樹立のために、国連の後援下に選挙の実施を含む、あらゆる合法的措置を取る」ことを柱とする決議案を、賛成47、反対5、棄権7、不参加1で可決した。マッカーサー元帥は、10月9日、北朝鮮軍に降伏を勧告したが反応はなかった。これによってマッカーサーは第八軍に北進を下命した。国連軍は東海岸最大の良港で戦略上の要衝だった元山、北朝鮮の中心平壌を攻略し鴨緑江へと追撃が急展開で行われた。しかし10月25日、国連軍は運命の日を迎えた。

 元々中共は、朝鮮戦争は朝鮮の内戦であると考えていた。だが、6月27日に米国が海空軍の投入を決め、第七艦隊を台湾海峡に派遣すると、これに米国の侵略意図を感じ、朝鮮、台湾、ベトナムの三方向からの脅威を現実のものと認識し始めた。共産党指導部は予定していた台湾解放作戦を延期し、7月13日に東北辺防軍を創設して東北地方の防備を強化し、状況に応じては朝鮮に出兵することを決めた。また、ベトナムのホーチミンへ軍事支援を行ってフランス軍を撃退し、ベトナム国境を安定化させ、朝鮮に専念する態勢を整えた。さらにマッカーサーが7月29日に台湾を訪れたことに反発し、朝鮮に介入することに決めた。この頃、東北辺防軍は、米軍の包囲殲滅を構想し、短期間に勝利を収めるものと思っていた。ところが仁川上陸作戦が始まると、米軍の近代作戦の様相に驚き、短期決戦は不可能と判断し、短切な反撃を反復しつつ全般として持久を図るという作戦方針に変更した。10月1日、金日成から救援要請、10月7日国連が北進を議決、9日周恩来がモスクワに飛んで中共軍の参戦を告げ、同時にソ連空軍の出勤を要請した。ソ連は難色を示し、毛沢東は軍の派遣を見合わせるよう彭徳懐に指示した。しかし万一米国が朝鮮を支配することになれば重大な脅威になると感じ、10月13日、政治局拡大会議はソ連空軍の掩護がなくても参戦することを最終的に決めた。さらに金日成の使者が来た時、北朝鮮軍の指揮権を奪うことに成功した。10月19日、中共軍は鴨緑江を渡って北朝鮮に入った。かくして米中は朝鮮で直接ぶつかることになった。
 中共軍の介入を認めたマッカーサー元帥は、中共軍の進出と補給を阻止するため、鴨緑江に架かる橋の爆破を企図したが、ワシントンはこれを認めなかった。だがマッカーサーの強い抗議によって11月6日爆撃が許可されると、8日爆撃が開始され、この時初めてミグ対セイバーというジェット機同士の空中戦が起った。元帥は更に満州の爆撃を要求したが、ワシントンはこれには断固拒絶した。中共軍の攻撃要領は、国連軍陣地の翼や間隙から潜入し、側背と正面から攻撃しつつ同時に退路を遮断するのを常とした。国連軍は火力によってこれを粉砕しようとしたが、雲霞の如く溢れる人海の波に吞み込まれて陣地は逐次に崩壊し、第八軍は各部隊に後退を命じた。平壌防衛に中共軍は平壌を包囲し、第八軍主力を撃滅しようと企図した。ここに至って、マッカーサーは、38度線への総退却を決断した。
 その頃ワシントンは、中共軍の介入は制限された目的のもので、38度線で停止するのではないかという希望を抱き、休戦を考慮するようになった。一方マッカーサー元帥は、新たな戦争に対応するには政治的決定が必要であり、海空軍をもって中共全土を攻撃することを要請し、さらには台湾軍の朝鮮派遣についても要請した。だがワシントンはこれを拒否、ワシントンと東京の間に激しい応酬が続いた。一方北京では、軍事作戦の成果に自信を深め、作戦構想を大きく転換しようとしていた。前線の彭徳懐からは補給の限界と部隊の疲労による整備の必要を訴えたが、毛沢東は好機を逃すなと38度線を越えて南進することを強く要請した。国連軍は中朝軍の兵力を約44万、その他満州に待機している者65万、中国本土から満州に移動中のもの約25万と見積もった。これに対して国連軍は戦闘戦力は24万と劣勢であり、制海空権を掌握していることだけが救いであった。中朝軍は正月攻勢を開始した。12月23日、ウォーカー中将は車両事故で殉職し、後任にリッジウェイ中将が就いた。リッジウェイは1月3日、ソウルからの撤退を決心、

 1951年1月13日、西欧諸国は国連に於いて朝鮮における即時停戦を提議した。これは休戦間に朝鮮問題の解決策を探求し、朝鮮から外国軍隊を撤退し、台湾問題と中国の国連代表権問題の討議機関を設定するというもので、米国にとって屈辱的な敗北に他ならなかった。だが米国はこれに賛成票を投じた。ところが軍事的優勢を確信した中共は17日回答を出したが、休戦には同意するものの、中共の国連加盟を即時認めるという内容で、米国の認められるものではなかった。ところが戦線では、偵察の結果、中共軍の戦力は著しく低下して防勢に移っていることが明らかになった。この軍事情勢の変化は国連にも敏感に反映し、総会は中共を侵略者と規定した。そして米国は再び戦う決意を固め、国連軍の作戦目的も、侵略者を韓国から撃退するという当初の目的に戻った。
 国連軍の創設以来、マッカーサーと米政府との間に考えの相違があった。トルーマンは38度線を回復した以上、国連軍はその使命を果たした。これ以上の北進は泥沼に陥る危険性が大きく得策でない。また、中共本土の爆撃、原爆使用、国府軍の参戦も、西側諸国の離反、ソ連の反発、第三次大戦の誘発などの恐れもあり、失うものの方が大きい。こうして国務省は、休戦を呼びかける大統領声明を起案した。ところが3月24日、ワシントンとの事前協議もなしに、国連が国連軍に課している制限事項を撤廃すれば、中共を軍事的に崩壊させ得るという声明を発表した。ここに至ってトルーマンはマッカーサーを解任する決意を固めた。マッカーサーは、彼の北進計画に基づき、38度線の北側への進出を命じる作戦を発令した。その直後の4月11日、マッカーサー元帥は解任された。後任にはリッジウェイ中将が任命され、第八軍司令官にはバンフリート中将が任ぜられた。
 中朝軍の五月攻勢による国連軍の損害は3万5千人、これに対して中朝軍の死傷者は約8万5千人、中朝軍の5月攻勢の参加兵力30万人のうち三分の一近くが死傷者・捕虜になっていた。その突撃兵力はほぼ全滅したという計算になる。ともかく中朝軍の人的損失は莫大で、中共に衝撃を与えた。もはや軍事的勝利によって戦争目的を達成することは不可能であり、その軍事的勝利の希望も失われた。頼みのソ連は米国との全面的対決を恐れて交渉のテーブルに着くよう勧めてきた。こうしてソ連代表マリクが安全保障理事会で停戦提案を行い、中共も人民日報を通じてこれに同意した。
 国連側は交渉は一カ月もあれば妥協すると予想したが、会談は難航を重ねその後2年近くもつづき、その交渉の行方に応じて作戦も展開された。

 1,953年1月、米国に新大統領アイゼンハワーが就任した。ところが3月、ソ連のスターリンが急死した。スターリンは共産側最高の戦争指導者であり、戦争を継続し、米国に打撃を与えるよう督促していた形跡がある。そのスターリンが死去すると、共産側の軟化が現れ、4月26日休戦交渉は再開された。金日成は彭徳懐とソ連大使の三者で会談した。金日成はソウルを占領したあと停戦しようと述べたが、彭徳懐は反論し、ソ連政府が彭徳懐の意見に従えとたしなめ、ケリがついた。李承晩は休戦になれば今後韓国の安全保障はどうするか悩み、米国の反応も否定的だった。李承晩は最後の抵抗として、捕虜収容所から2万5千人の反共捕虜を釈放した。米国は怒り、困惑した。米国は特使を派遣して18日間の協議の末、米韓安全保障条約の締結、韓国軍20個師団増設、戦後復興の援助を与え、休戦の約束をした。1,953年7月27日、板門店で休戦協定が締結された。こうして戦闘行動は停止したものの、その後の政治会談は決裂し、休戦は南北の分断、対立を固定化し、継続するという異常な事態の始まりであった。
 朝鮮戦争をここまで詳しく見てくると、当事者がまわりを引き込んでのっぴきならない戦争に至るケースは、明治の時代、日本が嫌というほど経験したことであった。日清戦争然り、日露戦争然り。ジョージ・ケナンは回顧録の中で「われわれは、日本がこの半島に於いて大陸の勢力を封じ込めるために長い間担って来た負担を、自ら肩代わりする事態に直面することになった」と述べている。極東の歴史的背景を理解できる人がいたことは大変喜ばしいことであるが、アメリカの政治家でここの部分を理解できる人はいるのかな、日本のためでなく、アメリカの国のために。

 


金日成と北朝鮮の政治体制

2021年06月09日 | 歴史を尋ねる

 北朝鮮の政治体制成立を調べるのは難しい。一方では独立運動に貢献した偉大な革命家金日成、といい、一方では金日生は朝鮮独立運動に関係を持たないソ連の傀儡だという評価もあるが、徐大粛(ハワイ大学教授)はその著書「金日成」で、金日成がどのような現実に直面してどう課題を自らに課してどのような政治体制を作り上げたかのかということ自体を知るために既述したという。歴史的事実を淡々と述べているこの著書によって、朝鮮総統府から解放された北朝鮮の成り立ちをこの項では整理したい。
 ソ連軍の主力は8月、東海岸の雄基および清津に上陸し、8月26日平壌に入城した。金日成の帰国に関しては、金日成自身は自分の部隊もソ連軍と共同作戦を展開し、潰走する日本軍を駆逐しつつ祖国の地を踏んだと語っている。しかし、金日成が帰国したのは9月19日、日本軍降伏後かなりの日数がたってから元山港に上陸した。朝鮮に戻って一カ月の間、金日成は曺晩植をはじめとする朝鮮国内で抵抗運動を続けていた指導者のもとを訪れたが、誰もさしたる印象を受けた様子ではなかった。解放後南北を問わず朝鮮全土に雨後の筍の如く生れた多くの委員会、政党、疑似政府組織のどれをとっても、金日成を指導者に加えるものはなかった。共産主義者の中でも、金日成はまったく物の数に入っていなかった。これは、金日成には朝鮮国内での共産主義運動に参加した経歴が全くなかったからだった。従ってソ連軍当局にしても、金日成を朝鮮の民族的英雄として人々に披露するには困難を伴った。(金日成のそもそもの名前は成柱だった。満州で生れた中国人による抗日パルチザン部隊の中で朝鮮人を主力とする部隊に身を置き、その間に名前を金成柱から金日成にかえたと、徐大粛はその説を採用している。当時の金日成神話を利用して帰国時に変えたという有力な説も一方である) 金日成がかの満州の華々しき抗日闘争の指揮官であったことを信じる者は少ない。一つは金日成が当時33歳の若さだったため。民衆の多くは本物の金日成はずっと年を取っている筈だと考え、眼前の金日成をまがい物と見做した噂は南で広まった。金日成の政治的未来はまったく予断を許さなかった。

 ソ連軍当局は、東ヨーロッパと全く同じ方法で北朝鮮をソ連型社会に変えようとしていた。占領軍司令官は有能な信望の厚いチスチャコフ大将、民政部門は名うての行政官ロマネシコ少将、ひときわ重要な役割を果たしたのがイグナチェフ大佐だった。イグナチェフは、数多くの朝鮮人指導者と接触しつつ、金日成を操って権力の座に据えた。占領軍自体は1948年には帰国して一部残留部隊を残したが、1948年12月26日には完全撤退を果たした。しかし、イグナチェフ大佐は帰国しなかったばかりか、1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国の樹立が宣言され、10月にソ連大使館が開設されると、顧問としてソ連大使館にとどまった。レベチェフの回想によると、北朝鮮にソ連型社会へのレールを敷いた中心人物はイグナチェフにほかならず、金日成を最高権力の座へ祭り上げたのもイグナチェフとロマネンコの二人であった、と徐大粛は強調する。
 スターリンが朝鮮占領軍の司令官を決めたのは1945年6月、チスチャコフ司令官の主たる関心は日本軍の駆逐にあって、占領後の北朝鮮を如何なる社会にするかは第二の問題だった。日本軍の駆逐にソ連軍は朝鮮人の助けを一切必要とせず、北朝鮮をソ連型社会にすることに関しても、ただ看板となる朝鮮人が必要なだけだった。またモスクワにも、朝鮮国内の共産主義運動の地下組織とつながりのある朝鮮人はいなかった。国内で革命運動に従事し民衆に名の通っていた共産主義者は、ソ連による占領統治が始まっても、ソ連軍当局に対して積極的に協力を申し出ることはなかった。ソ連軍は日本軍への作戦行動を準備していた沿海州で、とりあえず一人の朝鮮人(金日成)を選んでいた。ひとたび金日生に決めるや、金日成を押し立てて宣伝に努めた。曺晩植を別にすると、民族主義者にしろ共産主義者にしろ、名の知れた指導者たちはすべて38度線の南にいて、米軍政庁とのつばぜり合いに手一杯であった。
 ソ連軍は1945年8月26日、平壌に入るや、「朝鮮人民よ、朝鮮は自由の国になった、あなたたちは自由と独立を求めたが、今はすべてのものがあなたたちのものになった。朝鮮人民自身が自己の幸福を創造するものにならねばならない。ソ連司令部はあらゆる援助をするであろう」という内容の布告を発表した。9月7日のマッカーサー司令官の布告と比べると著しい対照をなしているが、実際には両者の違いはそれほどなかった。米軍当局のそうした布告にも拘らず、国外にいた革命家の大半は南に戻った。また、南に行く難民も後を絶たなかった。

 平壌では、解放直後地元の活動家たちによっていち早く朝鮮建国準備委員会の平南支部が組織されていて、ソ連軍が入城してくると、同支部の代表がソ連軍を歓迎するために平壌駅に出向いている。その日のうちに、建準支部は15名の平安南道人民政治委員会の委員のリストを、ロマネンコおよびイグナチェフに提出した。それに対してソ連側は、そのリストに15名の共産主義者を加え、委員の人数を二倍にする様命じた。この平安南道人民政治委員会が、実質上平安南道の日常の行政にあたる最初の組織となった。そして、これに類似した組織が人民委員会という名称で、北朝鮮の五道全域に組織された。
 10月8日、北朝鮮五道人民委員会の連合会議が開催されたが、会議は一日で閉会とされ、四つの分科会議で提案された議事項目の検討をつづけることとし、この会議の結果は11月19日に発表された。それは民族主義者の曺晩植を長とする、10局からなる五道行政局であった。金日成はこの会議には出席しておらず、どの局の長にも選出されなかった。しかし、信託統治の是非をめぐる論争が全国に沸き上がり、連合が崩れてしまった。イグナチェフは曺晩植委員長をはじめ行政局の委員たちに対し、連合国が提案した五年間の信託統治に賛成するよう説得したが果たせなかった。結局、共産主義者は賛成し、民族主義者は拒否し、五道行政局は二つの陣営に分裂してしまった。こうした事態は南朝鮮も同様で、共産主義者以外は、ほとんどの指導者が信託統治そのものを認めようとしなかった。米軍当局は朝鮮民衆の即刻独立の願望に折れ、信託統治案を早々とあきらめた。
 北朝鮮の民族主義者たちは、東ヨーロッパ諸国の場合と違って、ソ連軍当局に対して正面から立ち向かおうとはしなかった。決意に欠けていただけでなく、いつでも南に活動を移すという選択の道が残されていた。また、曺晩植がソ連軍当局の説得に応じないとみると、結局逮捕されて拘禁生活を強いられ、朝鮮戦争の勃発前後に処刑された。

 五道行政局が解体すると、ソ連軍当局は1946年2月8日、北朝鮮臨時人民委員会を組織し、金日成を委員長に据えた。金日成を委員長とするこの臨時人民委員会は矢継ぎ早に六つの民主的改革に着手した。先ず土地改革を布告して、農地の50%以上を再配分し、労働法を公布して8時間労働をスタートさせ、その他重要産業の国有化、農業現物税の導入、男女平等法、新選挙法等を次々と制定した。一連の改革は、六か月もかからずに完了した。占領軍当局は民衆に広く協力を呼びかけ、各種団体、組織から人材を登用した。しかし、人目につくだけの地位と権限を持った地位との間には明確な一線を引いて、ソ連国内から引き連れてきた朝鮮人を優遇し、大きい権限を持った地位につけ、一連の社会主義化政策の遂行に当たらせた。金日成自身は行政の経験がなく、有能な人材が欠くなかで、ソ連軍と共に本国に帰国した朝鮮系ソ連人を登用し、不足分を補った。解放後に本国に戻ったソ連生まれの朝鮮人の正確な数は不明だが、彼等は解放後のおよそ10年間に亘って、北朝鮮の政局に極めて重要な役割を果たした。
 1948年2月、金日成はソ連軍当局の支援の下で朝鮮人民軍を創設した。この軍の創設で、北朝鮮社会のソヴィエト社会化への過程は確固たるものになった。朝鮮人民軍の編成には特にパルチザン出身者が中心的役割を果たした。ソ連軍当局は他の朝鮮人武装集団が金日成に対抗し得る事態にならぬよ取り計らった。当時対抗し得る唯一の集団は中国延安で活動していたおよそ2000名と推定された朝鮮義勇軍であったが、祖国の地に足を踏み入れる時、占領軍当局の命令を盾に、武装解除に成功した。そして金日成の率いるパルチザン派は、朝鮮人民軍を始め、保安・警察組織を総て牛耳った。

 しかしながら、金日成は朝鮮にある共産党の党組織はどうすることも出来なかった。朝鮮共産党は1925年4月の結党以来、日帝の弾圧の網をかいくぐって戦ってきた歴史に金日成は無縁だった。朝鮮共産党は解放されると直ちに朴憲永を中心に再建され、南北を問わず各地にその支部が組織された。北部朝鮮分局を組織する使命を帯びて平壌に派遣されたのは玄俊赫であった。玄俊赫は平安南道出身で、国内の活動家たちには名の知れた経歴の持ち主だった。南朝鮮では朝鮮共産党が民族主義者や米軍当局との手を取り合って活動していたことに倣って、北に派遣されるや曺晩植およびその他の民族主愚者と共に活動することにした。ところが玄俊赫は、1945年9月28日、ロマネンコの会談を終えての帰り道で暗殺され、北部朝鮮における党組織の指導は、金日成に引き継がれた。しかし金日成はソウルに再建された朝鮮共産党からは独立した別(分局)組織をつくろうとした。この協議は、北部朝鮮五道人民委員会に続いて開催された責任者大会で、行われた。
 1945年10月12日、北朝鮮駐屯ソ連軍司令官名で五項目の声明が発表された。・反日民主団体の結成およびその活動を許可する。 ・朝鮮民衆に職業同盟およびその他保険会社、文化啓蒙協会などの非政治的団体を組織する権利を与える。 ・教会における宗教活動を許可する、その場合綱領、会則、責任者と会員名簿を地方自治機関および軍司令部に報告する。 ・軍事組織の武装を解除し各人民委員会独自の保安隊を組織することを許可する、等々だった。こうして平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が組織されたことが正式に発表された。分局の責任者に選ばれたのは金鎔範で、金鎔範が玄俊赫の跡を継いで北部朝鮮における朝鮮共産党の指導的地位についた。分局はソウルに本部を置く朝鮮共産党の支部として組織され、党中央委員会から承認を受けた。また、11月15日には分局の第二次拡大執行委員会が開かれ、北朝鮮の全ての政治団体およびそれに類する団体が共同戦線を構築することが決められた。金日成が分局の責任秘書に選出されたのは第三次拡大執行委員会においてであった。金日成は分局を支配下に収めるや、ただちに分局をソウルの朝鮮共産党から分離しようとして強い抵抗を受けた。結局、1946年6月22日に開催された第七次拡大執行委員会で分局の名称を北朝鮮共産党と変え、ソウルの朝鮮共産党からの独立を宣言した。金日成はイグナチェフの指図に忠実に従い、一方イグナチェフは、分局の拡大執行委員会には常に顔をだし、あらゆる議論に加わった。
 翌月の第八次拡大執行委員会では、中国から帰国してきた共産主義者たちが主力となって結成した朝鮮新民党と北朝鮮共産党とを合体させて、北朝鮮労働党をつくるよう命じられた。この合体はイグナチェフの画策で、東ドイツでは社会統一党、ポーランドではポーランド統一労働者党、そして朝鮮では朝鮮労働党といったように、複数の政党を無理やり合同させて大衆政党をつくるやり方は、ソ連の占領政策に著しく共通した政策であった。ロマネンコとイグナチェフは、北朝鮮にソ連型社会を作り出すために、金日成を巧みに操縦した、当の金日成はソ連軍当局の手足となって、言われるがままを忠実に実行した、と著者の徐大粛は解き明かす。こうしてソ連占領軍当局は、民衆の抵抗がないことを十二分に利用して、短期間のうちに朝鮮をソ連型社会に移行させるという難題を解決した。こうして軍政による直接統治を行うことなく、北朝鮮社会のソヴィエト化を成功した、と。

 今日の北朝鮮では、朝鮮労働党は金日成主席の英明なる指導のもとに、1945年10月10日に創建されたものとされ、毎年10月10日が朝鮮労働党創建記念日として祝われている。しかし実際には、朝鮮労働党はソ連占領軍当局の指示により、1946年8月28日~30日まで開かれた創立大会において、朝鮮新民党と北朝鮮共産党とが合体して初めて作られた。結党当時は北朝鮮労働党と呼ばれていた。南部朝鮮でもそれと軌を一にして、朝鮮共産党、南朝鮮新民党そして朝鮮人民党が同じ様に合体し、11月23~24日の二日間結党大会を開催して南朝鮮労働党を結成した。南北の労働党が正式に合体したのは、南北労働党連合中央委員会が開かれた1949年6月30日だった。両党の合同といっても、北労党が南労党を吸収したのが実際のところだった。
 ここでは北朝鮮労働党の創立大会の詳細について、徐大粛氏の著書から見てみたい。創立大会は1946年8月28日に平壌で開催され、366,339名の党員を代表する801名の代表が出席した。初日は金日成が司会し、大会運営の各委員を選出した。続いて六項目の議事日程を採択、スターリン大元帥を大会名誉議長に選び、創立大会の名でスターリンに宛てた公開書簡が読み上げられた。その中身は、朝鮮を解放したスターリン元帥およびソ連赤軍に感謝し、今後とも独立した統一朝鮮の樹立に向けて支持を求めるものであった。続いて各団体の代表による祝辞が読み上げられた。
 第二日目は金鎔範が司会し、まず801名の詳細な報告が行われた。代表は中等教育を終えた30歳代の青年が半分を占め、職業は半分が事務職を占めた。国内で闘争経歴を持つ人数と国外で闘争歴を持つ人数とはほぼ拮抗し、逮捕・拘禁された持ち主とそうでないものとでは、後者が多かった。主要は議事は北朝鮮共産党責任秘書の金日成と朝鮮新民党中央本部委員長金科奉による基調報告であった。金日成は金九および李承晩を含む南の民族主義者に対する激しい非難、米軍軍政下におかれた南部朝鮮の状況分析だった。さらに労働党を結成する理由を説明し、その目的は勤労大衆の権利を代表し擁護する国家を建設するために、勤労大衆の民主的力を結集することにあると述べた。金科奏もまた、金日成同様、両党の合同に反対した新民党内の一部の党員を非難し、新民党の高い教育を受けたインテリ革命家が共産党員を批判するのは当たらないと演説した。その後15名の代表が二人の演説を巡って討論し、金日成が締めくくりの意見陳述を行なった。その後、勤労大衆のための単一政党をつくること、その名を北朝鮮労働党とする決議が採択され、新民党の指導者から党綱領草案が提案され、採択された。
 第三日目は党規約の採択、機関紙「労働新聞」の発行が採択され、最後の中央委員会の委員の選出だった。金日成はあらかじめ準備した43名のリストを提出、一人づつ紹介されて評決に掛けられた。そして43名全員が満場一致で承認された。大会は朝鮮に民衆に向けた公開書簡を発表して、幕を閉じた。

 両党の合同は、互いに協力しあい力を増幅し合うことを期待してであったが、実際には由々しき対立と相互不信のうちに行われた。金日成は大衆に支えられた党を作ろうと無差別に党員を狩り集めた。金日成が責任秘書の地位に就いた時点は党員数は4,530名であった。ところが創立大会時、新党の党員は366,339名、そのうち新民党はわずか6万名であった。また、党規約によると、党幹部を選出するのは中央委員会の任務であった。選出された43名の中央委員は四つのグループに分類できた。国内派 13名、延安派 12名、ソ連派 6名、不明 8名、金日成のパルチザン派 4名であった。8月31日に開かれた党中央委員会全員会議では、党委員長に延安派の金科奏が選ばれた。副委員長には金日成と国内派の朱寧河が選ばれた。
 1948年3月27日から四日間、北朝鮮労働党第二回大会だ開催された。金日成はこの大会での演説で、初めて自分が遭遇している困難と、本国に戻ってからこれまでの自分の政治指導に対する党内の敵対行為を詳細に取り上げて批判した。初日は前回同様、スターリンが再び名誉議長に選ばれ、スターリンの業績を称えるメッセージが採択された。二日目は、金日成が党中央委員会の活動報告を行った。初めて国際情勢に触れ、両極化された世界の二つの陣営の戦いとその国内状況への影響を分析した。続いて民主的諸改革に着手した党の活動を称賛し、一方アメリカ軍による占領下の南の情勢を分析、さらに改めねばならない党の欠点を指摘した。この演説の中で、国内派の指導者は北部朝鮮分局を作るときソウル中央への忠誠を誓って非協力的であったとして、玄俊赫の後を継いだ呉淇燮(金日成より9歳年長、1923年より共産主義運動に加わり、モスクワの東方勤労者共産大学に学んだ数少ない朝鮮人の一人、1932年8月に共産主義青年組織をつくる活動をしたことで逮捕、投獄された)をはじめ次々に国内派の指導者を槍玉にあげた。金日成に続いてソ連派が演壇に立ち、同様に国内派の指導者を集中的に攻撃した。延安派はこの内部抗争にだんまりを決め込んだ。呉淇燮は自分の発言の順番が回ってくると、まず自分の犯した誤りを認め、ソウル中央を支持したことを認めた。しかし自分は日帝下での闘争で労働者の利益の擁護に全力を挙げたこと、労働局の局長として国家の財産を犠牲にしてまで労働者の利益を守ろうとする労働協約は受け付けなかったこと、などを反論した。各委員の討論の最後に金日成が締め括りの演説を行い、再度呉淇燮をはじめとする国内派の指導者を批判した。こうして金日成は初めて政敵と正面から対決した。側近をなしていたパルチザン派は一切発言せず、もっぱらソ連派が国内派を激しく攻撃する役割を演じた
 金日成の最大の武器はソ連占領軍の後支えとソ連派からの支持であった。両者とも朝鮮社会に根を下ろした集団ではなかった。国内派にしてみれば、ソウルの党に代わって何の面識もない金日成およびソ連派の政治指導を支持する理由は何もなかった。国内派は金日成とイグナチェフ大佐に強く反発した。これまで北朝鮮に存在し活動していた朝鮮共産党およびその青年組織を解体して、別組織を作ってそれを支持するよう強要してきたからだった。金日成とソ連派は、自分たちの組織は、進歩的かつレーニン主義により近いものだと主張した。
 金日成にはもう一つの武器があった。それは日帝時代に日帝に協力した経歴を持つすべての人間を排斥することであった。国内にとどまって活動をつづけた国内派の多くは、厳しい弾圧を受けて最終的には日帝に屈服した過去を持つ、脛に傷のある人々であった。日帝下の朝鮮において共産主義運動をつづけることは、全く容易ならざることであった。だが、海外で活動した者たちには理解できないことであった。国内派の多くの活動家は、解放前に共産主義運動に復帰しないという一礼を取られて釈放された者たちだった。金日成はこの武器を、北朝鮮の政治のあらゆる局面で思うがままに用いた、と徐大粛はいう。ふーむ、韓国の反日も、ルーツはここからかもしれない。北に負けないように南も、と。しかし金日成にしてもどこまで反日だったのか、国内にいなかったのだから、体験もしていないので不明だ。むしろロマネンコとイグナチェフに日本の影響を徹底的に排除するよう言われ、国内派と戦うのに便利だったからかもしれない。
 党大会の最後に中央委員会の委員の推薦リストが、金日成から発表された。選出された67名の中央委員の内訳は、30名が再選で37名が新人だった。金日成のパルチザン派からは4名が新たに選ばれ、ソ連派は8名増えた。しかし中央委員会の多数派は依然として国内派だった。呉淇燮も再選された。

 1948年8月、つづいて9月に南北朝鮮は二つの分断政権の樹立が宣言されたが、長い闘争歴を持った共産主義運動の多くの古参たちは既に南から北へ逃れていた。そして彼らは北の政府の中で重要なポストを与えられた。朝鮮共産党代表であった朴憲永は、第一次内閣に於いて副首相兼外相に任命された。南朝鮮労働党委員長の許憲は、最高人民会議初代議長に選出された。しかしこの二人をはじめとして北の政府に登用された者もいはいたが、実際には南朝鮮労働党系の多くは朝鮮共産主義運動の中枢を担ったかっての面影はなくなり、単なる南からの難民扱いをされた。
 北に労働党政権の樹立が宣言される前の1948年8月、北と南の労働党の指導者が、南北労働党連合中央委員会を組織し、金日成が委員長を務め、両者は対等の関係と言いながら、北労党の金日成とソ連派が主人で、南労党の幹部は客人だった。
 1948年9月24日、党中央委員会が開かれ、党の活動を統括するための組織委員会が新たに作られ、金日成が新たに委員長に選ばれた。そして1949年3月から4月にかけて金日成はモスクワを公式訪問し、共和国政府樹立に至るまでの尽力に感謝の意を表して帰国すると、党の委員長の席を手に入れるべく行動を開始した。1949年6月30日、南北労働党連合中央委員会が開かれた。党大会を開催せず、中央委員会の顔ぶれが一新された。この委員会で朝鮮労働党という正式名称が採択され、金日成が委員長、朴憲永が第一副委員長、許カイ(ソ連派)が第二副委員長、そのほか書記、政治委員会委員が選ばれた。こうして両党が合体してみると、金日成の地位を脅かせかねない力学の存在がはっきりした。第一に、南の指導者が大挙して北に移って来た、第二に、屋台骨であったソ連占領軍が1948年12月に北朝鮮から撤退した、ソ連派もソ連軍と一緒に帰国するものもいた。しかし、金日成は新たに樹立された共和国政府の行政権を握った。内閣の首相であり、同時に朝鮮労働党の委員長も兼ねた。またイグナチェフ大佐は、ソ連軍撤退後も大使の顧問として平壌に残り、共和国政府の行く手び関わる重要な指示を変わらず金日成に与えた。従って、1949年の時点、北朝鮮はプロレタリアートの祖国たるソ連の圧倒的な影響下におかれ、衛星国家の一つを金日成は切り盛りした。


朝鮮総督府の統治権移譲から大韓民国成立まで

2021年06月04日 | 歴史を尋ねる

 1945年8月15日、玉音放送に先立ち、朝鮮総督府は政務総監の遠藤柳作が治安維持のために朝鮮人への行政権の移譲を決め、朝鮮独立運動家の呂運亨に接触を図っていた。そのため、玉音放送を聞いた呂運亨はその日のうちに朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、組織的な独立準備を進めた。9月2日に日本政府が降伏文書に調印したのを受け、呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を9月6日に宣言した。だが、建準は独立の方針を巡って民族主義者と共産主義者が対立して混乱した上、当時中国で活動していた大韓民国臨時政府関係者も自らが朝鮮の正当な政府と自負していたから朝鮮人民共和国への協力を拒否した。結局、米国およびソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対して一切の政府承認を行わず、早くも、9月7日、「米国太平洋陸軍最高司令官マッカーサー布告」で、米軍は北緯38度線以南の朝鮮の地域を占領し、同地域の住民に対し軍政を樹立すると宣言した。さらに布告は、発せられた命令に対し迅速に服従し、占領軍に対する敵対行為や治安を攪乱する行為をした者は厳罰に処す、と規定され、米軍は日本人と同様に朝鮮人を敵国人として処遇した。

 8月15日に玉音放送によって日本の降伏が朝鮮全土にも伝えられ、朝鮮が日本の統治下から離脱することを意味していた。これ以降、朝鮮では日本統治からの離脱を朝鮮解放ないし朝鮮光復と認識して、建国後は南北朝鮮の双方とも8月15日を祝日にしているが、歴史的事実はそう単純ではなかった。
  8月8日、ソ連は対日宣戦布告を行い、中国東北部、朝鮮半島北部へ破竹の勢いで進撃を開始した。これを受けて米国は国務・陸・海軍三省調整委員会を開き、ソ連軍による朝鮮半島全域の占領を阻止するために、在朝鮮日本軍の武装解除の分担のために軍事境界線として北緯38度線をソ連に提案、ソ連が受諾して米ソ両国による朝鮮半島の解放・分断占領が決定した。 8月12日、沖縄に進駐していた米第二十四軍団が、朝鮮占領軍と指名され、18日ホッジ中将が司令官として任命され、マッカーサー元帥はホッジ中将に南朝鮮占領の最高責任者として白紙委任を与えた。 8月30日、南朝鮮占領を控えた第二十四軍団はソウルの日本第17方面軍司令官、鎮海警備府司令官との間で無線通信を開始、9月8日まで総交信数80通に達した。この交信は降伏後の治安維持と日本軍の武装解除を主な目的とした。ただ、この交信によって、ホッジ中将は占領直前の朝鮮の政治軍事状況を具体的に認識することになった。 9月2日、日本国の降伏文書調印日であったが、同時に朝鮮半島では日本軍は北緯38度線以北ではソ連軍に降伏、以南では米軍に降伏した。同日、ホッジ中将は「南鮮民衆各位に告ぐ」というビラを米軍機から散布し、近日中に連合軍を代表して上陸することを知らせた。 米軍上陸前の9月6日、建準の発議で朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。 翌日の9月7日、既述したマッカーサー布告が発せられ軍政が樹立した。 9月8日、沖縄を出発した米軍は仁川に上陸、占領を開始した。 9日、ホッジ中将は「南朝鮮進駐米軍司令官の声明」を発表、調印した降伏条件を履行するため、現行政府の機構を通じて施行するとし、まず朝鮮総督府を利用することを明らかにした。

 朝鮮半島の統治権移譲は、アメリカ軍のホッジス大将、キンケード中将、日本軍の阿部信行大将、上月良夫中将らとの間で行われた。朝鮮総督阿部信行大将は、8月15日、朝鮮の統治権を朝鮮人に移譲すると発表していたが、米国とソ連は朝鮮人による統治を認めなかった。9月9日、朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名した。 米軍は、9月9日、ソウルの朝鮮総督府から降伏を受けると総督府の統治機構を接収し、9月11日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を新設して南朝鮮の直接統治を担うようになった。しかし、米軍政庁は現地の事情に疎く、朝鮮を効果的に統治する経験も能力もなかったから、朝鮮総督府に従事していた日本人や親日派の朝鮮人をそのまま登用し、実質的には朝鮮総督府の統治機構を継承した。
 占領政策に関する文書作成担当だったボートンは、その回想録の中で「朝鮮半島の将来という複雑な問題の解決策を提案するのは、国務相にはあまりにも情報が不足し、準備体制も不十分であった。日本の植民地となった1910年以降、朝鮮半島に関する公式情報はすべて日本経由で、駐在するアメリカ領事館員は日本の役人しか接触できない状況で、知識は更に限定されていた。領事館員は日本語は堪能だったが、朝鮮語は全くできなかった」と。 米軍政の政治顧問ベニングホフは、韓国民主党(韓民党)は数百人の高学歴の保守主義者で構成され、重慶在住の大韓民国臨時政府メンバーの帰国を支持しており、最大の政治集団であると、韓民党系や警察機構からの情報をホッジ中将や国務省に伝達していた。
 10月5日、アーノルド軍政長官は、行政顧問として11名を任命した。その半数の6名は金性洙、宋鎮禹などの韓民党系人物で、キリスト教徒として呂運亨、曺晩植らが含まれたが、曺晩植は不参加、呂運亨は直ぐに辞任した。米軍政は、少数の旧政治勢力(旧親日派・保守勢力)と反共主義者(親米派)に依存し、占領統治を行う選択をした。また、ホッジ中将は韓民党系の人物から朝鮮人民共和国は共産主義者と民族反逆者によって作られた、と伝えられた。 10月10日、アーノルド軍政長官は、朝鮮人民共和国問題に関する米軍政長官の声明を発表した。この声明で、北緯38度以南の朝鮮には現在唯一の政府があるだけである。この政府はマッカーサー元帥ぼ布告、ホッジ中将の政令、アーノルド少将の行政令によって政党に樹立されたものである。自称朝鮮人民共和国、自称朝鮮人民共和国内閣は権威と勢力と実態がない。このような傀儡劇の背後には操縦する詐欺漢がいる、この人物たちが自由に蹂躙することがないようにする時が来た」と非難し、その存在を否定した。

 12月、ソ連のモスクワで開催された三国外相会議(米、英、ソ)で、朝鮮を米英ソ中4か国の信託統治下で最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が「ソ連、信託統治を主張、 アメリカは即時独立を主張」と誤報したことで、信託統治に反対する大韓民国臨時政府系の右派(民族主義派)と信託統治に賛成する呂運亨ら左派(社会主義派)との対立が激化した。 1946年1月7日、李承晩が信託統治の反対声明書を発表、その直後、朝鮮信託統治案を具体化する米ソ共同委員会がソウルで開催され、信託統治下で設置する臨時政府を樹立するための協議対象に信託統治に反対する政党や社会団体を参加させるべきでないとするソ連側と、参加させるべきとするアメリカ側との意見が対立し、5月8日、無期限休会となった。事態を打開しようと中道左派・中道右派による左右合作運動が行われた。 
・信託統治及び政府樹立を巡る当時の南朝鮮における政治勢力の立場

  • 李承晩系(右派、韓国民主党、以下「韓民党」)・・・信託統治反対、南朝鮮のみの単独政府樹立
  • 金九系(右派、大韓民国臨時政府系)・・・信託統治反対、南北統一政府樹立
  • 左翼系(朝鮮共産党・民主主義民族戦線など)・・・信託統治賛成、南北統一政府樹立
  • 中間派(呂運亨、金奎植など)・・・信託統治問題については意見を保留、左右合作による南北統一政府樹立

 膠着状態となる中で、民主議院副議長の金奎植(中道右派)と朝鮮人民党(中道左派)党首の呂運亨は左右両派の穏健な勢力が共同(左右合作)して米ソ共同委員会の再開を促進すべきとして、左右合作運動を推し進めようとしていた。この動きに米軍政庁は、左右合作運動によって米ソ共同委員会の再開を促すと共に、極右や極左勢力を孤立させ、中道派を中心とした親米的政権樹立が可能との希望から、この運動を積極的に支援することになった。軍政庁のホッジ司令官の政治顧問であったレオナード・パッチ中尉の側面的支援によって合作運動が推し進められ、数回に及ぶ左右両陣営の政治指導者からなる会議で意見交換を行い、1946年10月7日、「左右合作7原則」が合意され、左右合作委員会が発足した。この「左右合作七原則」は、朝鮮共産党や韓民党など左右両派の主張を折衷させたものであるが、大地主や資本家を支持基盤としている韓民党は土地の無償分配に反対、朝鮮共産党は七原則は曖昧な中間路線であると指摘し、反対姿勢を採った。そのため韓民党や共産党は運動自体に消極的姿勢を採るようになったため、左右合作運動は次第に停滞するようになった。そして1947年3月がトルーマン・ドクトリンが発表され、米国が対ソ政策を転換したうえに、合作運動推進者で中道左派勢力の実力者であった呂運亨が同年7月に暗殺、米軍政庁も左右合作推進から単独政府樹立へと方針転換したため、運動は完全に瓦解した。

 一方、米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取締りを強め、1946年5月8日、南朝鮮警察が朝鮮共産党本部ビルを捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚、これを機にアメリカ軍政は共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出た。朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党を指導して右派との抗争を行わせた。46年10月1日、大邱府で南労党の扇動を受けた南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起し多数の犠牲者を出した。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取締りが苛烈になり、極右団体の西北青年会による白色テロも公然と行われた。
 信託統治問題を巡って1947年5月から第二次米ソ共同委員会が開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国は委員会での問題解決を断念し、朝鮮独立問題を国際連合に移管した。米国は「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施するとともに、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程し、賛成43票、反対9票、棄権6票で可決された。これを受けてUNTCOKは1948年1月に朝鮮入りし、南朝鮮で李承晩や金九など有力政治指導者との会談や総選挙実施の可能性調査などを行った。UNTCOKは1948年2月26日、国連小総会で賛成31、反対2票、棄権11票で可決された。
 国連の議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独で総選挙が実施されることが決定したが、それは新政府の統治が南朝鮮のみに限定され、朝鮮の南北分断が固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮の即時独立を主張する反信託派も、南朝鮮単独政府の樹立を認める李承晩(韓国民主党)派と南北統一樹立にこだわる金九(大韓民国臨時政府)派に分かれ、政治的対立から南朝鮮は騒乱状態となりストライキや主要人物の暗殺が相次いだ。
 アメリカ軍政・韓国民主党の単独政府樹立強行の動きに対して、1948年3月12日、独立運動家の金九、金奎植、趙素昂らが南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表し、同じく南部単独選挙に反対する北朝鮮人民委員会と協調する動きを見せた。また、4月3日には単独政権の樹立を認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件が起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊・警察・西北青年会などを送り込んで反対住民の鎮圧を図った。その際、鎮圧部隊による島民虐殺が多発したため、少なくない島民が日本に密航し、在日韓国人となった。

 タイトルのテーマからは外れるが、当時の南朝鮮のあまり語られない事実も、ウィキペディアにより、整理して置きたい。済州島の辿った歴史は、なかなか厳しい。日本との関りもあるので、参考にしたい。
 歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ密航し、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人 いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。木村光彦氏によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている

 本来のテーマに戻って、1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者を出しながらも、南朝鮮では制憲国会を構成するための総選挙が実施された。制憲国会では李承晩が議長に選出し、7月17日に制憲憲法を制定したほか、大統領選挙で李承晩を初代大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。8月15日に李承晩大統領が大韓民国政府の樹立を宣言、実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国の独立とアメリカ軍政が廃止された。ただし、合衆国政府による韓国の独立承認は遅れ、合衆国議会で可決されたのは1949年1月だった。

 大韓民国成立時の歴史記述について、民主化運動の闘士であった現代史研究の第一人者である徐仲錫(ソ ジュンソク)氏の記述を引用しよう。
 「1948年5月1日、満21歳以上ならば性別などに拘らず誰でも投票権を行使できる普通戦況が韓国史上初めて実施された。普通選挙の実施は外部から与えられたプレゼントではなかった。急進的共産主義者は別としても三・一運動以後、上海の大韓民国臨時政府をはじめとする独立運動団体は普通選挙による共和制政府の樹立を主張していたし、解放後も全ての政党社会団体が普通選挙の実施を当然のものと考えていた。1947年には南朝鮮過渡立法議院でも普通選挙法案をすでに通過させていた。(選挙は南朝鮮労働党の激烈な破壊工作にも拘らず、登録有権者93%という高い投票率だった。これにより198名の国会議員が選出され、5月31日、制憲国会開院式が開かれ、8月15日には大韓民国政府が樹立された:古田博司氏の記述) 5月末から活動に入った制憲国会は国号を大韓民国に定めた。議員の多数は内閣責任制を主張したが、李承晩の強引な主張で大統領中心制が採択された。憲法の既定の中の経済条項は、主要資源と重要産業の国有国営を規定するなど解放直後に支配的となっていた社会主義的平等思想が影を落としていた。国会は大統領に73歳の李承晩、副大統領に李始栄(79歳)、国務総理に李範奭、大法院長に金炳魯が任命された。8月15日、政府樹立が公布された。大韓民国憲法は朝鮮半島全体を国土として明記し、政府は自身だけが正統で相手は傀儡だと主張、12月に公布された国家保安法は、その点を明確にした。国家保安法は思想と良心、学問の自由を制限し、反共こそが国是とされ、民主主義や民族より上位の最高徳目とされた。」
 「政府樹立当初は、反共国家を建設するのは容易でなかった。一般の人々は、この時期ではまだ反共より民族や統一をはるかに重視し、反共闘士にそれほど良い感情を抱いていなかった。とりわけ李承晩の反共国家づくりで一番大きい障害要因となったのは親日派処断の要求であった。植民地時代の末期には、軍国主義者によって、防共運動が大々的に広まったが、親日警察、親日官公吏は防共運動に関与していた。解放後、米軍政が親米体制をつくるにも彼らが動員され、李承晩大統領も彼等を自身の政治的基盤とした。しかし、民族の精気を取り戻すには悪質親日派は必ず処罰しなければならないという世論が高揚した。制憲国会議員は何よりも優先して反民族行為処罰法の制定を急ぎ、1949年1月から始まる反民族行為特別調査委員会の活動によって李光洙、崔南善などが捕らえられた。しかし、2月に親日警察が逮捕されるに及ぶと、李承晩大統領は反民特委を無力化させる行動に出た。混乱を防ぐためには親日警察の技術が必要だというのだった」 以上の記述より、2点が明確にされた。日本の朝鮮併合は不法だと言っているが、解放時、朝鮮王室(李朝朝鮮)は顧みられることはなかった。さらに、国家の行政ノウハウは簡単には作れない。米軍政も李承晩政権も朝鮮総督府時代の行政システムを簡単には捨て去れなかった。また、解放後の共産主義者の活動は、日本以上の影響力があった、むしろ北と手を携える勢いだった。米軍政の力で押しとどめた、と言えそうである。


問題は思想に非ず、行動にあり

2021年05月27日 | 歴史を尋ねる

 「共産党に対する措置は、私が最初に内閣を組織してから、最後に退陣するまでの間、終始一貫した問題であった」と吉田茂は「回想十年」の中で述懐する。この言葉は吉田茂と共産党との関係を言った言葉ではない。議会制民主主義で選ばれた首相としての言葉であり、もう少し極論すれば、国民と共産党との関係を指していると考えた方が、国の仕組みから言えば適切かもしれない。
 吉田の体験談を聞こう。第一次吉田内閣を組閣する時、共産主義者に指導された暴徒によって、実力的に妨害され、赤旗に囲まれ、革命歌のうちに内閣を組閣した。その後の遊説旅行なども極端な妨害を受けた。身辺も危険といった空気であった。この話を聞いて、総司令部第八軍司令官アイケルバーガー中将は私服の護衛をつけ、妨害行為が警官だけでは治まりがつかないとき、私服の合図で兵隊を連れてきた。富山の駅を降りると、大阪から共産党応援隊が自動車を取り囲んで動かさない。そこへ米軍がきて道をひらいてくれた。金沢では演説会場の声明文を舞台に張り付けたところ共産党員が舞台に駆け上がり、声明文を剥した。すると兵隊が場内に入ってきて一団を取り押さえた。大阪では天王寺公園の演説会場では、会場入口近くに武装兵が鉄砲に弾丸を込めている。壇上に立つと吉田の左右にも兵隊が立って護衛してくれた。会場は水を打った静けさで、野次もないが手もたたかぬ。当時の世情はそのようなものだった。
 一方において、共産主義者たちは労働組合の組織の中に、その勢力を浸透させるようになった。労働組合は占領政策における重要な民主化方式として保護助長され、その政治活動も公然と奨励されたから、労働組合の名をもってする行動は、その内容性格に拘らず、常に大義名分を主張できた。そして新聞その他の批判も、これを庇護し容認して、行き過ぎを咎める警察の取締りは、自由の弾圧として非難される風があった。
 そうした労働組合の行動を通じての最初の大規模な攪乱工作は、二・一ストと呼ばれる全国官公労労働組合のスト計画であった。それまでも、逓信事業関係、国有鉄道関係その他の従業員組合の争議は断続的に行われたが、全官庁、全国営事業が一丸となった連合体260万人のスト計画は空前のものであった。その実現の際には、食糧、石炭その他の重要物資の輸送途絶から生ずる混乱は、国民を救い難い困窮に陥れる恐れがあった。当時その指導者たちが主張したような美名のためのものとは信じがたく、社会的攪乱の意図を蔵した共産主義者の、計画的政治行動と見る外なかった。組合の公表された声明によれば、「この闘争のみが産業を復興し、民族の破壊を救い、全勤労大衆を解放するものであることを確信する」と。これらを見ても、当時この計画が、如何に美名を掲げる破壊的行動であったかは、容易に了解し得るであろう、と吉田。マッカーサー元帥も産業活動を停止せしめると警告し、ゼネストの禁止声明を発した。如何にそれが労働組合の行動であろうとも、この種のストライキを勤労者の基本的権利の発動とはみなし難い、と吉田。
  吉田は言う。世の中には共産主義の問題を、単純な政治的信条の問題と見たり、甚だしきは思想の自由、結社の自由に帰着する問題の如く見做すものが多く、共産党に対する弾圧的措置を、基本的人権の侵害の如く見做すものがあるが、このようなことは、故意に現実に目を覆うものでなければ、思慮の至らざるものか、眼はあれども節穴同様と言わねばならぬ。私たちが占領中から独立後に至るまで、共産主義者を絶対に容認することが出来ないのは、その思想や信条を問題にしたからではない。問題は常にその行動にある。特にその破壊活動にあった、と。

 ではその破壊活動の中身は何だったのか。ここでは兵本達吉氏の「日本共産党の戦後秘史」を参考に、内部からの証言を考えてみたい。1950年(昭和25)1月6日、コミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局)機関紙が「日本の情勢について」を発表した。この論評は、野坂参三の平和革命論は、帝国主義美化の論でマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない反愛国的・反人民的な理論だと、厳しく批判した。当初徳田球一書記長ら指導部は、日本の党が置かれている条件の下では、現実を無視した批判であると反論した。ところが1月17日、今度は中国共産党機関紙「人民日報」がコミンフォルムの論評を支持し、日本共産党を批判すると、党内は大騒ぎになった。「今日の日本のようにアメリカ帝国主義の支配下で、勤労人民を獲得するのは、ただ一つ、革命的闘争によってのみであり、議会は単に一つの補助的手段に過ぎない」と。この記事によって徳田は「所感」を撤回、野坂も「平和革命論」を自己批判し、全会一致でコミンフォルムの論評受け入れを決議し、事態の収拾を図った。この批判をチャンスとばかり飛びついたのが志賀義雄と宮本顕治だった。宮本は野坂の平和革命論を切って捨て、さらに議会を通じての政権獲得の理論も誤りであると言い切った。こうして「論評」を巡る「所感派」と「国際派」の対立は激しい議論を通して、党組織や幹部の人間関係まで俎上に載せる内部闘争、権力闘争に発展した。
 1950年2月、中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。その頃、ニューヨークタイムズ紙とAP通信記者が、スターリンと毛沢東の会談で条約を結ぶとともに、その秘密のメモランダムをスクープした。中ソ両首脳が、朝鮮半島ないしは台湾海峡での有事を視野に、日本共産党を武装化させる合意に達した、と。また、金日成がスターリンから南朝鮮侵攻への同意を得た。他方アメリカは1949年6月、朝鮮半島の動きを察知して、北朝鮮専門のスパイ網をつくった。ソ連も中国もアメリカも一年前から朝鮮戦争が始まることを掴んでいた。双方とも日本が韓国軍と米軍の後方基地となることを明確に認識していた。だから米総司令部は、団体等規制令で共産党員を登録させ、レッドパージに利用した。また1950年6月には、米総司令部は日本共産党中央委員24人の公職追放を指令、翌日「赤旗」編集委員など17人を追放した。他方、ソ連も中国も、朝鮮戦争の準備をしていたので、コミンフォルムの論評という形で、能天気な日本共産党に警告を発したと、兵本氏は解説する。

1951年(昭和26)8月、コミンフォルム機関紙は、第四回全国協議会の分派主義者に関する決議を支持し、国際派の宮本らを日米反動を利する分派活動として非難した。当時は、殆どの党員が国際派(国際盲従分子)で、国際的権威に弱かった。五つほどあった分派組織が自己批判書を持って党に復帰した。しかし主流派は容易に許そうとせず、数万人の党員が党から去った。この時宮本顕治も自己批判書を提出して復党が認められた。このコミンフォルムの論評もスターリン関与の下で作成された。そこで、日本共産党の党内問題について、スターリンは四全協を支持し、宮本らを分派とする裁定を下した。そして自ら筆を入れてた最終決定「五一年綱領」を日本側に押し付けた。
 1951年8月上旬、徳田、野坂、西沢そして袴田(宮本派)の四人は、スターリンの別荘に呼びつけられた。そこにはスターリンはじめマレンコフ、モロトフ、べリア、さらに中国共産党ソ連大使も同席、草案を作成した。「アメリカ軍が占領している条件の下で、革命が平和的に成功すると考えるのは重大な誤りだ、日本共産党は、暴力革命に向けて先頭に立って決起せよ」と。朝鮮戦争で膠着状態を打破するため、後方支援、兵站基地である日本で米軍の後方攪乱を望んでいた。この時提出された文書は武装闘争の考えに立脚したもので、のちに日本共産党の「五一年綱領」として発表された。袴田は「ソ連共産党の大国主義に腹立たしい思いもしたが、当時のスターリンの偉大さは、われわれ共産主義者には絶対であり、逆らうことは出来なかった」と述べている。さらにこの綱領には中国革命の革命方式が取り込まれた。純然たる暴力革命の綱領だったと兵本氏はいう。
 もともとマルクス・レーニン主義というのは暴力革命の理論だった。階級闘争を徹底的に突き詰めていって、最後には暴力で権力をとること、そして一旦権力を奪取したら、暴力を無制限に行使して、革命の敵を粉砕すること、肉体的にも抹殺してプロレタリアート独裁を獲得する。議会を通じて権力を獲得するという西欧のマルクス主義は、社会民主主義という別の流れの社会主義であって、日本共産党は党創設以来、これを敵視し、主要な打撃を加えよと言ってきた。スターリンや毛沢東から、「五一年綱領」を押し付けられ、唯々諾々と受け入れた日本共産党はだらしないが、しかし、暴力を肯定する理論的素地が元々あったからである、とは兵本達吉氏。第五回全国協議会(1951年10月16日)から朝鮮戦争が休戦する1953年(昭和28)7月27日までの1年9カ月間、軍事闘争、武装蜂起に励んだ。朝鮮戦争が終わると、日本共産党の軍事闘争もピタリと終わってしまった。

 五全協では、四全協の軍事方針、「五一年綱領」をさらに具体化して、軍事綱領を作成した。綱領では、当面目指すべき革命を、社会主義革命でも人民民主主義革命でもなく、民族の独立を第一義とし、反封建を課題にした「民族解放民主革命」であると規定、戦後の農地改革でとっくに消えた地主階級の打倒を掲げた。闘争も議会で多数を得て権力の座を奪う平和的方法ではなく国民の真剣な革命的闘争が必要だとした。綱領は、中核自衛隊の組織、任務、指揮系統、行動要領、パルチザンの組織について、問「われわれは何故軍事組織が必要か」答「武装した権力と戦っているからである。従って平和的方法だけでは、戦争に反対し、平和と自由と生活をまもるたたかいを推し進めることは出来ないし、占領制度を除くために、吉田政府を倒して、新しい国民の政府をつくることも出来ない。軍事組織は、この武装行動のための組織である」  問「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」答「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なものは、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自ら守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。従って、中核自衛隊は、工場や農村で武装するための武器の製作や、獲得、あるいは保存や分配の責任を負い、また軍事技術を研究し、これを現在の条件にあわせ、闘争の発展のために運用する」

 日本共産党は、昭和26年1月26日付「球根栽培法36号」で軍事方針を打ち出し、中核自衛隊の組織と戦術を明らかにした。中央の軍事委員会から、各地区に政治委員を派遣して武装闘争の指導に当たらせた。共産主義研究家・宮地健一が作成した軍事闘争の一覧表がある。その内容は、1,警察署等襲撃(火炎びん、暴行、脅迫、拳銃強奪)96件、2,警察官殺害(伊藤巡査、白鳥警部)2件、3,検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎びん、暴行)48件、4,米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車両襲撃 11件、5,デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件など)20件、6,暴行・傷害 13件、7,学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)15件、8,在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争 23件、9、山村・農村事件 10件、10,その他 27件、総数265件。

 伊藤律が仕入れてきた極秘情報により、近くGHQが弾圧をはじめるらしいということが分かった。伊藤は学閥を利用して大手新聞社から何らかの情報を手にした。浮足立った徳田らは地下にもぐることにした。昭和25年7月徳田球一に対して最高検察庁が逮捕状を発布した。すでに病を患って余命いくばくもないと宣告されていたが、スターリンにコミンフォルムの日本共産党批判を撤回させようと思いつき中国行きに同意した。伊藤律、袴田里見、紺野与次郎、西沢隆二、野坂参三も中国に渡った。中国の北京に日本共産党の徳田機関が設立され日本共産党の事実上の指導部となり、ここから日本の臨中へ指令が伝えられた。1951年の秋、非公然組織の地下放送「自由日本放送」を通じて、日本国内に対する政治的扇動が始まった。北京機関の構成員は、1500~2000人と言われているが、その多くは当時中国東北地区に残留していた旧日本軍の兵士の中から選抜された。日本からの中国への密出国者は65人だと言われている。毛沢東の指示により、劉少奇が日本の武装闘争を援助するため、秘密裏に軍事学院を創立、最初は中国に残留した若い日本兵が選抜され、のちに日本から適した若者が招かれて軍事教練を受けたという。

 しかし、日本における武装闘争は、国民の厳しい非難を巻き起こしただけで、何ら見るべき成果がなかった。昭和28年7月、朝鮮休戦協定が調印され、戦火は止んだ。その10月、徳田球一(59歳)が中国の地で亡くなった。日本共産党の武装蜂起は日本国民の支持を得られなかったどころか猛反発をくらい、昭和27年の総選挙での共産党の当選者は、前回の35人からゼロへと転落した。後に宮本顕治が反共風土と呼んで嘆いた日本の政治的土壌は、自らの革命的、犯罪的愚行がもたらしたものであった。


中国情勢と日本の社会情勢(下山事件他)昭和24年

2021年05月18日 | 歴史を尋ねる

 昭和23年12月14日、NANA通信は米政府筋の談話を伝えた。「いまや米国が極東でとり得る唯一の政策は、日本を経済的にも軍事的にも再建して、共産主義とソ連の進出に対する防波堤にすることである」 なぜなら、もはや中国への援助は無効である。 ①米国は中国政府が昭和12年に重慶にうつっていらい援助をつづけたが、中国政府は日本軍が進攻してこないので、もっぱら共産党討伐を行いながら援助を食いつぶし、そのために腐敗と民心の離反を促進させた。 ②その構図は現在も変わらず、米国の援助はもはや中国政府の体質改善には役立たない。 ③武器援助も逆効果にしかならぬ。共産軍は撃破した政府軍の米国製兵器で戦力を向上させ、満州では米国式装備の師団がそっくり赤色ゲリラに転向している。 「これに比べて、日本は高度の教育を受け、しっかり統制された八千万人の国民で構成される親米民主主義国家である。米国が極東で頼りに出来る国は、ほかにはない」 したがって米政府としては、米軍の監視による間接管理の下に日本を自立させる政策をとるべきだ、と強調した。これからは児島襄著「講和条約」による。
 米政府内で高まる日本強化論は、裏返せば中国放棄論に他ならない。国務次官ロベットは記者会見で、「米国の対中国援助は蒋介石総統の下にある中国政府に対してのみ行うものである・・・中国全般にたいする米国の不干渉政策に変更はない」 蒋介石政権が倒れれば米国は中国から手を引く、というのであった。さらにロベット次官は、中国共産党の最高指導者は訓練された正統的マルクス主義者である、だが同党は単なるモスクワの手先ではない。中共政権が誕生しても、中国をユーゴ以上に鉄のカーテンの向こう側に押しやることはあるまい。われわれが賢明かつ寛大であれば、中国で全体主義に陥るのを防ぐ機会がある。「蒋介石政権の退陣は、米中間の歴史的友好関係を回復し、新しい真の門戸開放政策の維持を可能にすると見込まれる」 その後の情勢に照合すれば、甘い希望的観測だった、と児島襄。

 12月17日、北平(北京)の剿共総司令傳作義は飛行場が攻撃を受け使えなくなった旨を蒋介石に急電、天津地区への退却を命令してほしい、と要請。傳総司令は鞭撻したにも関わらず断固たる戦闘を行わない、電文に戦策の提言もなく、戦意もないと、蒋介石は嘆いた。実は、前月下旬、首相を更迭して孫科を任命したが、組閣をまだ行っていない。その理由を調べると、米政府は蒋介石総統下野、新内閣は和平を優先することを希望している、そこで組閣を躊躇している、と。12月31日、総統は国民党中央常務委員会を緊急招集して年頭教書を決定し、発表させた。「自分個人の進退は、国民の公意に委ねる。共産党が民衆の幸福と国家の利益を心から願うならば、政府は和平交渉によって内戦を終結させる用意がある」 条件付き下野声明だった。
 新年、総統蒋介石の年頭教書(元旦文告)は和平の年になると期待された。しかし、和平といっても、国民党と共産党との和解を信ずる者は内外とも少なく、本年が国民党政府の滅亡の年になって、その結果としての和平実現を予想するものが多かった。
 1月22日、蒋介石は杭州の生まれ故郷に帰って墓参りし、日記には、立国建軍の策案にふけり、他方、南京を望んで国運の行方を深憂した、と。 南京では総統代理李宋仁が声明し「政府は、中共側の和平八条件について直ちに商議する意向を持ち、すでに交渉のための代表を決定した。中共側の回答があれば、いつでも和平会議を開始できる」と。 北平では午前10時に銃声が止み、午後6時華北剿共総司令部は突然声明を発表、「傳作義総司令と中共側との間に北平地区の地域的和平協定が締結された」  共産党側も素早く反応した。降伏する指揮官は戦犯指定を解除すると放送するとともに、日本にもアピールした。「われわれの全国的勝利は日中関係の新展開をもたらす。われわれは日本の民主化と反動勢力の再興の防止を援助する用意がある」 もう勝った、次は日本だ・・・というかのようだと児島襄はコメントする。 一方、1月23日、日本は総選挙の投票日で、民自党の圧勝、民主党、社会党の凋落、共産党の躍進だった。日本の場合は既にみてきた通り、第三次吉田内閣の誕生時期だった。 1月28日、中共放送は和平八条件についかして、①(中国内戦)戦争犯罪人の即時逮捕、②日本人戦争犯罪人の抑留継続、③南京政府が26日に無罪判決を下した支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の再逮捕、を発表。しかし中国政府はBC級戦犯260人を抱えていたが、総司令部と交渉して日本に移送することを決め、岡村大将はじめ無罪判決者9人を含む全員をはこぶ輸送船が28日上海に入港済みだった。

 5月20日、ソ連タス通信が発表した。「本年5月から11月までの期間中に、現在戦争犯罪に関して取調中の一部グループを除き、総計9万5千名に達する捕虜の全部が送還される」 ソ連からの邦人引揚げについては、前年末から中断され、被抑留者の健康が心配されながら、舞鶴、函館、佐世保の三港に32隻の引揚船が待機をつづけていたので、歓声が上がった。だが、関係当局者の間では不審が広まった。①ソ連軍による日本軍捕虜は59万4千人であり、うち70,880人は現地で解放された。②1946年12月1日から1949年5月1日までに418,166人が送還された。残る104,954人のうち、95,000人を送還するという。これらの数字に日本側は納得がいかない。
 また、日本政府および総司令部の調査では、ソ連地区の日本人引揚予定者は1,617,655人であり、これまでに次の引揚者が記録されている。大連 223,093人、千島・樺太 287,880人、シベリア 375,407人、北朝鮮 322,546人、計1,208,926人。 残りの408,729人の筈だが、ソ連は9,500人だという。差引313,729人はどうなったのか。参議院でも論議になったし、マスコミもソ連大使館に押し掛けた。その後の長年月にわたってつづく日本人抑留者のミステリーの発端だった。
 6月27日、引揚再開の第一船が舞鶴に入港した。ナホトカからシベリア抑留者2,000人を運んできた。内訳 陸軍軍人1953人、海軍軍人28人、一般邦人19人、遺骨三柱、遺品九点。これまでは、出迎えの船からはバンザイ、ご苦労様、などの叫び声が湧き、引揚者は故国を眺める感動に胸を詰まらせ言葉少なに対応するのが普通であったが、今回は相違した。引揚船の甲板に群集した引揚者たちは、突然かつ一斉に労働歌、インターナショナルに似た国際青年の歌を合唱し始めた。どの顔にも涙の筋はなく、どの眼もうるんでいなかった。引揚者というよりは労組員、引揚船というよりはストライキ船の感じさえうけて、出迎えの人々は日の丸のふる手を止め、ばんざいをのみ込んみ、呆然と歌う引揚者を見上げた。朝日新聞は取材した引揚者の感想を記録している。「まだ30万人が残留していることは船中で初めて知った」「約十万人が沿海州のキャンプで帰国の日を待ち焦がれている」「「生活事情は同盟の方がずっと良い、日本とは比べ物にならない」 誰もが印象付けられたのは、引揚者が共産主義信奉者揃いであることだった。「思想、態度からみて、ソ連の教育が極めて徹底していることが感ぜられた」と舞鶴援護局長が述べると、引揚問題特別委員会委員長は「今度の引揚者は組織的な団結を持っている。考え方も、われわれと大きな食い違いがある」と記者に語った。林譲治厚相は、引揚再開はソ連の日本共産党に対する援軍を送り込む作戦だと見做したが、UP通信は別の観測をした。「日本人は終戦までは軍国主義、戦後は民主主義、今回は共産主義に洗脳された。引揚者は本来は無思想のために容易に新たな思想に感化される日本人の性格を証明したものである」と。

 6月10日、日本では国電ストが発生した。東神奈川車掌区で、国鉄が6月1日に公共企業体に変わったのをきっかけにする「新交番制」を巡る交渉がまとまらなかったのが、原因だった。ストは京浜東北線、中央線、鶴見線、横浜線、総武線におよび東京地区の90万人の足に影響が及んだ。国鉄当局は他の線区から要員を派出して運行の回復を図ったが、スト労組側は実力で阻止した。前面には「人民電車 東神奈川車掌区管理」のビラを貼り、赤旗を掲げ、赤羽行き電車は各駅で警察官と小競り合いをくり返しながら進んだ。当局側は送電を止めて停車させたが、進駐軍用電車が続行しているので、結局人民電車は赤羽まで運転された。もっともストは長続きしなかった。この日に総司令部から中止勧告、翌朝に中止命令が出されると、午後には平常運転に戻った。
 単発ストの印象を受けるが、政府はストを予期していた。難航して成立した定員法は官公庁、公共企業体の人員整理を伴い、単一組織として最も大量の約九万人の整理が予想される国鉄労組の反発は必至と見込まれたから。また、政府は、経済再建のために好ましくない者、不忠実な者を先ず整理の対象にする方針を定めていた。特に共産党およびその同調者を整理するのであり、その分野からの反抗も予見された。
 東神奈川車掌区は、勤務体制の変更である新交番制を九月からの整理の前触れと捉えて反対し、国鉄労組本部の指令によるものではなく職場闘争の形をとり、かつその地域の民間労組、友好団体を巻き込んだ。共産党の主張する「地域人民闘争」そのものであり、さらに公共企業体労働関係法を無視して、人民電車に象徴されるように国鉄の人民管理を叫んで、権力闘争の性格を明示した。「今回のストは占領政策違反であり、経済九原則違反である」と総司令部労働課長が声明すれば、政府は共産党側がその革命戦術を露呈したものと見做して、危機感と対決決意を刺激され、対策を急ぐことになった。

 6月30日、政府は閣議で164,000人の官庁、公共企業体の人員整理を最大規模の国鉄(95,000人)から実施することを決め、声明を発表した。「経済九原則に則り、財政上の均衡を確立し、国民負担の軽減を図るため、政府はさきに書く省行政機構を大幅に簡素化したが、今回いよいよ行政整理を断行せんとするものである」「この行政整理による退職者に対しては、産業の振興、建設事業の拡充等により極力これを国家再建のため必要な他の職場に吸収せしめる所存であり、その他失業対策および社会保障制度等については万般の準備を着々と進めている」
 だが早くも争議ならぬ騒擾事件が発生した。現場は福島県平市。駅前に個人名義で許可を得て立てられた掲示板が、実は共産党石城地区委員会のもので政治ビラが貼りだされたため、市警察署は許可を取り消したうえで、午後4次までに撤去を命じていた。共産党は反発して午後2時過ぎから約400人が警察署に集まって抗議したが、午後3時30分、約50人がトラックで乗り付けるのを合図に一斉に警察署に乱入し、投石して建物の一部を破壊するとともに、警官5人を引きずり出してふくろ叩きにした。群衆は警察署の前に日本の赤旗をたて、気勢を挙げたが、夕刻ふたたび署内に入って占拠し、警官二人を留置場に押し込めた。国警本部が近接地区から武装警官約500人を平市に急行させて警戒に当たる一方、共産党側代表は警察署と交渉を行ったが、物別れに終わり、夜半群衆は退去した。朝日新聞は次のような記事を流した。大部分は党員だが、少しは党外のものも混じっていた。事件は純然たる暴動、些細な問題をとらえての暴発は、きっかけをとらえる計画があったことを推察させる。他の場所での警察の牽制行動をともなっている点も計画を示唆しており、人員整理による国鉄のスト情勢と組合わせると、実力行動に入る先駆的あるいはモデルを示していると見られる。事件はすこぶる重大な問題を底にひそめていると見ざるを得ない、と。

 7月1日、吉田首相は内閣記者団と会見した。記者団が労働攻勢に対する政府の対策はどうか、と質問すると、首相は一同を睨みすえて開口した。私は逆に新聞を責めたい。政府の労働対策は、結局は産業を振興し、新たな労働力の需要を起すことにある。それなのに新聞はことあれかしといった調子で、やれ労働不安のやれ労働攻勢のと書きたて、日本の労働不安を世界に広告するようなものではないか。これではかえって外資導入を妨げ、産業復興を阻止し、ひいては労働不安をますます大きなものにする。平事件その他で、共産党が治安を乱すだけでなく労働不安を起すということが事実だとすれば、黙っては居られぬ。日本に不安を起し世界の信を失わせて、これを利用するようなものには、堂々と対抗して闘わねばならない。 行政整理はあくまで実施するつもりかという質問に、首相は経済復興のためには是非とも行政整理をやらねばならない。この考え方に何ら変化はない、と。ふーむ、吉田の率直な言葉が印象的だ。マスコミにも率直に意見が云えたのだ。民間組織(企業)では経済の論理が働くが、行政機関・公共企業体はそこ迄経済の論理が働かず、戦後直ぐの就職難で公共企業体が受入れ先になったのだろう。

 7月2日、国鉄当局は国鉄労組に対して、人員整理に関する団体交渉には応じられない旨通告した。すると翌日、各地で列車妨害事件が続発した。 ・東海道線 牛久保付近の線路上にこぶし大の石20個設置、二川駅付近で下り列車に投石、窓ガラス一枚破損。 ・舞鶴線 西舞鶴駅付近の線路上に卵大の石三個設置、和野付近で走行中の列車に投石、窓ガラス一枚破損。 ・北陸線 氷見駅付近の線路上にこぶし大の石四個設置、魚津付近で上り列車に投石、乗客一人が一週間の負傷、富山保線区でレールの接続ボルト二本を脱却。 いずれも事故につながらない程度の妨害事件であるが、子供のいたずらと見做す訳にはいかない、手口は同じであり、国鉄当局の強硬姿勢に呼応したものであった。
 7月4日、この日は米国独立記念日で、例年、宮城前広場で米軍のパレードが行われる。この日の総司令部が発表したマッカーサー元帥の声明は日本国民を対象にする異例のものだった。  共産主義は哲学的基礎を持たぬ国家的かつ国際的民権剥奪運動であり、その犠牲になった者に与えられるのは奴隷になることだけである。かかる共産主義運動に対しては、今後、法律の効力、是認、保護を与えるべきや否や問題を提起する。幸い日本国民の多数は共産主義の宣伝に動揺していない。これら日本国民こそ、共産主義の東進を食止め南進を阻止する有力な防壁である、と。共産主義と戦え、米国は応援する、というのであり、この反共声明は、中国大陸の赤化趨勢を背景にし、直接には人員整理を巡る、引揚者も巻き込んだ共産党と国鉄労組の不穏な動きを注視したものだった。
 仙台高等検察庁は平事件に騒擾罪を適用することを決め、国鉄は9月の人員整理95,000人の第一次分30,700人の実施を開始した。一方引揚者事情は、詳細は煩雑になり省略するが、出迎え家族と共産党および労働団体との引っ張り合いが起きて、多くの引揚者が歓迎大会に出席した。上野下谷公会堂は、国鉄首切り撤回、復員者の生活の保護その他十一項目要求を決議し、散会した。

 その頃、政府は異変の発生に緊張していた。国鉄総裁下山定則が行方不明になった。増田官房長官によれば、第一報はこの日の午後二時ごろ、治安対策閣僚会議の開催中に新聞社から届いた。警視総監田中栄一が捜査指令を発したが、その後、発見報が入らないまますぎた。午後五時過ぎ、総裁運転手大西正雄が電話してきた。総裁は午前8時30分、大田区池上の自宅を出て国鉄本社に向かったが、途中千代田銀行、三越に立ち寄った。百貨店の駐車場で待機をつづけたが、午後5時過ぎ、かー・ラジオで総裁の行方不明のニュースを聞き、仰天して警視庁に電話をした。7月6日午前零時25分ごろ、足立区五反野南町の常磐線と東武電鉄の交差点ガード下の常磐線線路上を巡回中の保線区員が、約50メートルにわたって散乱する寸断された轢死体を発見した。定期券などから下山国鉄総裁と判明、転がっていた腕時計は零時20分を指して止まっていた。遺体を解剖した東大法医学部教授古畑種基は、遺体に生活反応がない旨を発表した。警察は二日前に首相官邸に脅迫状が届いていたことを明らかにした、「吉田首相および閣僚、田中警視総監、下山国鉄総裁、加賀山副総裁を暗殺する、引揚者血盟団」。 下山事件の犯行者の謎はいまだに解明されていない。

 下山事件は、政府に警察の弱体を痛感させた。類似の事件による社会不安を防止するための共産党対策、労働攻勢対策が至急の課題である。その中心となるのは説得と取締であり、政府は首相を先頭に説得の努力を開始していたが、取締を担当する警察が、組織的にも能力的にも十分機能しない状態に置かれていた。終戦までの警察は、国内の治安行政を担当する内務省に所属する一元的組織であった。強力な国家警察であり、同時に政治性も色濃い存在であった。旧体制の破壊と民主的再編成、権力の拡散が米国の対日占領政策の基本であるので、警察は解体され、昭和22年12月の警察法によって、自治体警察と国家警察に分割された。米国の警察組織をそのまま導入した。占領下なので他の組織と同様に警察の高級人事権も総司令部が把握し、初代の国家警察本部長官に任命されたのは斉藤昇警視総監だった。総司令部の考えでは、人口五千人以上の都市におかれた自治体警察と人口五千人未満の町村を統括する国家警察である。全国的な事件が発生しても、その処理の責任は自治警察で、国家警察の役割は応援にとどまる。米国のFBIの権限と比べようもない。警察の機能は衰えた。自治警は駐在所、国警は派出所なみの存在になり、事件捜査も個々の警察官の自覚と能力にすがる傾向が強まり、市民たちの不安と不満を誘発した。現に、下山事件の前日、福島県議会は意見書を採択、両院議長、首相、国家公安委員長宛てに送ったが、内容は財政的な問題もあるが、自治体警察返上論であった。政府も警察組織の改正を検討していたが、なにぶんにもこれは総司令部の対日占領政策の目玉の一つであり、総司令部との折衝と、法改正による国会審議が必要だった。時間がかかるので、斉藤昇長官の更迭で組織の引き締めを狙ったが、国家公安委員会の反対に遭い、この件は沙汰やみになった。

 7月15日、蒋介石は李総統代理と会談し、太平洋反共同盟について説明したが、李総統代理ははかばかしい反応を示さず、奥地抗戦戦略を強調し、そのため蒋介石は会談を一時間で打切り、日誌に憤慨の文字を連ねた。 東京でも、マッカーサー元帥が憤慨していた。6月23日の極東委員会で、ソ連代表の駐米大使バニューシキンが、日本では政府労働者のストライキを禁止する諸法規が実施されているが、これは労働組合および進歩的分子の抑圧を目的としたものである。日本政府は経済安定を名分にして、警察の勝手な干渉制度を設け、大規模な弾圧措置を労働組合、進歩的分子に加えている。極東委員会が以上の米国の対日政策を直ちに中止させることを、要求する、と発言した。その時は公表されなかったが、7月13日、議長である米国代表マコイが公開し、七千語に及ぶ反論を行った。抑圧しようとしている事実は存在しない、日本当局は注意と自制心を以て事態に対処している、事実は中央からの指令に基づく恐怖、社会不安、混乱、無秩序の発生をねらう組織的運動が行われている。その目的は政権奪取に好都合な条件を作り出し、政府の威信を覆すことにある、と。ソ連代表バニューシキンは再び立ち上がり、米国の対日政策を攻撃した。マッカーサー元帥は反駁声明を発表した。ソ連は、日本復興という大事業に対しては最小の寄与をする意思もなく、過去4年間の占領期間を通じてあらゆる建設的な措置をことごとくバカにし、よこしまな意図をもってこれを阻害してきた。ソ連側がこのような主張を行う理由は、①日本をソ連の庇護におさめようとする悪だくみが失敗していた、②わずかな少数分子によるものにせよ、無秩序と暴力を日本に持ち込んで日本を全体主義的思想に引き付けようとする期待が破られた、ことを自覚しているからである。 ソ連と共産主義者は日本赤化のための暴力の輸出に失敗した、バニューシキン発言は口惜しまぎれの雑言だ、と。

 その元帥声明が発表された夜、異常事件が発生した。午後9時24分、東京中央線三鷹駅構内の車庫内、七両連結の無人電車が、突然暴走し、死者6名、重軽傷者二十余名にのぼる大事故となった。いわゆる三鷹事件である。車庫をとび出した無人電車は社内のライトをつけて高速で突進した。一番ホームの車止めに激突し、改札口をぶち抜き、駅前派出所を粉砕したうえに民家に飛び込んで止まった。脱線する手前約百メートルで電車から飛び降りた人影をはっきり見た、という踏切付近にいた市民の目撃談を、朝日新聞も伝えた。下山事件の記憶も生々しい時期の鉄道事故だけに、当然に国鉄の人員整理にからむ労組、共産党分子の仕業らしいとの見方が強まった。そして惨事が発生してみると、事前に事件を予告するような動きがあったことも判明した。また、朝日新聞は発生直後の現場の不穏な声を報道している。駅前の25歳前後の背の低い男が、この惨状を見ろ。国鉄首切りをするとこんなざまだ。商店街で数人の男が声高に、政府のやり方が悪い、国鉄の再建を考えないで首切りを断行するからこんなことになった。駅のホームで、国鉄職員らしき男が乗客に説明した、国鉄がボロボロになっているのに首切りするからです、これからチョイチョイこういう事が起ります。事件後の復旧作業は難渋を極め、一人目の遺体が掘り出されたのは、事故発生の48時間後であった。
 吉田首相は、事件は共産党の謀略と判定して、午後5時20分、声明を発表した。現在のいわゆる社会不安は主として共産主義者の策動によるものである。虚偽とテロが彼らの運動方法である。人心の不安と動を煽り大衆をかりたて暴力行為に出しめんとするのが、彼等の常套手段である。しかし、共産主義者が鳴らす鼓鐘や罵声を割引して事態を正しく観察するならば、現下の社会不安の大部分は雲散霧消するであろう。「私が、国民諸君が常に落着いておられることを切に希望する」と。なお、国鉄当局は報告を受けた、・浜松駅で進駐軍列車の車両の車輪とブレーキの間に角材が差し込まれていた、 ・盛岡通信区でケーブル、電話線が切断され、二か所で踏切警報装置の乾電池が抜き取られた、 ・吉祥寺、三鷹間の上下線のレール接合部のねじが一本ずつ外された。

 8月17日午前3時9分、青森発奥羽線まわりの東北本線上野行列車が、金谷川、松川間のカーブに差し掛かった時、突然機関車が転覆し、荷物車二両、郵便車一両、客車一両が脱線した。機関士および機関助士二人が死亡、車掌一人、荷扱手二人、郵便係員二人、乗客四人が負傷した。当夜の乗客630人にすれば、比較的小事故と言えるが、レールの継目版が外され、レールを枕木に固定する犬釘27本が抜き取られて、計画的犯行であることは明瞭だった。また、前日に東芝松川工場で今夜三鷹事件以上の事件が起こるという楊言が聞かれ、事故前に現場で不審な数人の人影も視認された。事前の予告めいた流言、現場付近の不審人物など三鷹事件の類似点、幸い被害が少なかったが大惨事につながりかねない計画的犯行である事情に基づき、暴力革命をめざす共産党の犯罪だと断定しているに等しい、と児島襄。このころ日本国民は全米水上選手権大会に思いを寄せ、戦後初めての国際競技で日本人の勝利が期待されたからだった。大会第一日目に古橋、橋爪が世界新記録をだし、8月18日の各紙は一面トップで報道された。前日の松川事件は第二面に押しやられ、国民の注意を強く引くことはなかった。

 吉田は昭和24年11月8日の施政演説でこう述べている。「戦後における生活難に伴う社会不安が外国の矯激なる思想を誘致し、国家を破壊と混乱に陥れんとするものの生ずることは、世界各国にその例を見る所である。わが国に於ても、自由と人格とを無視する暴力的、破壊的傾向の一部少数分子が近時治安を乱し、経済復興を阻害するが如き好ましからざる事件を頻発せしめたることは、甚だ以て心外に存ずるところである。国民諸君は、批判力と自主的勇気とを堅持して、治安およびわが復興を妨害するものに対して敢然これを排除し、国家の再建に国を挙げて努力して他を顧みざることを、私は信じて疑わない。また矯激なる思想を抱くものといえども、経済生活が安定し、健全なる国民思想が普及し、国際の環境が明朗となると共に、自然愛国的民族意識に立ち返る日のあることを、私は確信して疑わない。政府は国民諸君の協力を得て、国家の平和と秩序維持に万全の措置を講ずる決心でいる」

 

 

 


総司令部管理下の対外取引から貿易自主権の回復

2021年05月08日 | 歴史を尋ねる

 終戦後の日本は、対外経済関係取引はポツダム宣言とアメリカの初期の対日方針により、次の原則で立って、総司令部の統制の下に置かれた。1,平和国家としての日本経済を維持するに必要な原料等の輸入とそれを支払うための輸出は許可される。 2,将来、世界貿易機構に参加することが許される。 3,ただし、占領下にあっては、連合軍総司令部の許可のない限り輸出入は許されない。外国為替取引も同様である。 4,日本の在外資産は、連合国当局の決定した処分を受ける。 これに続いて、昭和20年9月22日、「金、銀、有価証券及び金融証券等の輸出入統制」および「金融取引の統制」が発せられ、内外の経済交流が遮断された。更に、10月30日「日本在住者の外国商社との契約」が発せられ、日本政府の許可なくして、日本在住外国商社との金融的、商業的取引契約を禁止し、日本政府も司令部の事前承認が必要となった。以上三つの指令によって、日本人の対外取引は原則として禁止され、終戦後、日本にとっては為替に必要な一切のもの、外貨、為替取引、為替相場、為替銀行等が存在しない状態になった。
 日本は有史以来、その過多は別として、連綿と国外との経済交流を続けてきた。その経済的交流を断ち切られたのは、大戦直前の米国からの経済・金融封鎖であり、その延長線で戦後再度の経済・金融封鎖であった。日本の戦後史を辿るとき、ここの部分を詳しく説明する歴史書は少なく、空白の部分を少なくないので、大蔵省財政史室編の「昭和財政史 終戦から講和まで 15国際金融・貿易」でその空白部分を埋めたい。吉田内閣がどんな問題意識を以て戦後経済を進めていたか、補完することになると考えたから。

 終戦直後の飢餓に直面し、緊急に必要とする物資の輸入が必要であり、これを賄う輸出が必要となった。そこで、政府は司令部に食料を中心とした必需物資輸入許可を懇請したところ、司令部は援助物資を受け取り、輸出物資を取り扱う一元的機関として貿易庁を新設し、その経理を明らかにするために貿易資金を設置することを指令した。貿易庁は輸出入の専管機関となるが、補助機関として約80の輸出入代行機関を指定し、品目ごとに輸出入業務を取り扱わせ、その輸出物資買上げに要する経費は貿易資金から払い出し、輸入物資の売上代金は貿易資金に受け入れる。この体制は逐次整備され、以後の日本側の貿易関係業務は、すべては政府に代わって貿易庁が運営することとなった。貿易庁の拡大強化に伴い、法令で貿易資金特別会計の設置、国営貿易体制の構築が完備し、旧貿易運営機構の解体が進められた。
 以上の制度の特色は次の通り。
・為替相場が設定されていないため、貿易庁の輸出品買上げおよび輸入品売却価格は海外に対する売値、買値とは無関係に国内公定価格に準拠して定められた。一方、外貨預金の管理は司令部商業勘定において司令部が直接管理し、その内容は日本政府に知らされることがなかったから、貿易資金の経理は単に円貨の受払に限られ、円貨・外貨を通じる経理は不可能だった。
・敗戦の結果、日本の外国為替銀行が閉鎖され、貿易に伴う為替業務は、司令部の認可によって終戦後いち早く進出した外国銀行のもっぱら取り扱うところとなった。

このように、戦後日本の貿易は政府貿易方式によって開始されたが、昭和22年以後いわゆる東西の対立、冷戦を背景とするアメリカの対日政策の転換に伴って、輸出面については民間貿易方式が徐々に開かれた。昭和22年8月、外国人バイヤーの日本人業者との引き合い(一部輸出品)が許可され、民間貿易の第一歩が踏み出された。翌23年8月、日本人業者とバイヤーとの直接取引を許可するバイヤー・サプライヤー・ダイレクト・コントラクトが実施され、10月、商品別に円ドル交換率を定めた価格算定制度が採用された。こうした状況のもとで国内経済が次第に安定し、外国為替相場設定の基礎が造成されると共に、国営貿易から民間貿易への移行、外貨資金管理への日本側の参加が日程に上がるようになり、24年2月1日、一部商品を除く輸出契約承認権限が日本政府に移管されると共に、政府貿易の範囲が限定され、民間貿易の拡大が図られた。更に4月には360円単一為替相場が設定される事態に至ったが、なお、当時の日本の対外取引は戦時中の外国為替管理法と戦後の非常臨時立法が混交したもので、総合的な為替管理立法が要望される状況となった。
 昭和24年、4月360円為替レートの設定、その直前、外国為替管理委員会の発足、年末の「外国為替および外国貿易管理法」の制定が主な出来事で、国際的には9月、英ポンドの大幅切下げが最大の問題であった。すでに23年3月来日したドレーパー使節団は、日本経済の復興と自立安定のためには貿易の振興が必要であるとし、為替相場の復興と民間貿易への復帰を勧告した。しかし、激しい戦後インフレの下で、安定した為替相場の確立は困難であった。23年12月に発表した「経済安定九原則」では、インフレ政策の排除、通貨価値の安定をはかり、新たに単一為替相場の設定を目標として掲げた。24年4月、一ドル=360円の単一為替相場を実施することを日本政府に指令し、日本経済は国際経済と戦後初めて直接に連携することになった。これに伴い、外貨の管理権と為替管理に関する権限を日本側に移管し、日本貿易の自立化を図ることとし、外国為替管理委員会の設置、外国為替・貿易に関する総合的管理制度を確立するよう指令した。

 外国為替および外国貿易管理法では、従来輸出許可制が緩和され輸出自由の原則が大幅に採用され、輸入は政府輸入から民間輸入に切り替えられ、正常貿易の方向へと大きく進展した。しかし、輸入については、乏しい外貨を有効に利用するため外国為替予算制度が採用され、輸入金額、品目が規制されることとなった。また管理委員会は従来司令部が管理していた外貨を政府に移管する際、外貨を管理運営する専門機関となり、外国為替特別会計も設けられ、これらの措置によって、戦後の管理貿易方式は昭和25年度以降民間貿易方式に移行した。 また同時に、日本の為替銀行が海外銀行と接触することが認められ、市中銀行11行が認可され、25年4月以降、コルレス契約を通じて海外の外国銀行と直接結びつくことが出来るようになった。27年6月には邦銀の米ドル建て自己勘定の保有が認められ、27年末には戦後初めて海外支店の開設が認められた。

 まず、外国為替管理委員会発足後の外貨資金状況を見てみたい。
 外貨受払いの計理事務が司令部から日本政府に移管されたのは、昭和24年11月1日だった。その後27年4月28日講和発効の日までの2年6カ月、司令部より引き継いだ外貨資金がどう蓄積されたか、振り返る。24年11月より25年6月までは、司令部諸勘定からの計理事務が外国為替委員会に移管されると共に外為委勘定が発足し、戦後の為替管理が第一歩を踏み出した。次いで25年7月から26年9月までの14カ月間であり、この間、外国為替集中規制の改正、特別預金勘定制度の創設改廃、外国為替貸付制度の実施等により為替取引の円滑化が図られると共に、他方、朝鮮戦争の勃発を契機とする世界経済の変貌、特需の発生、物価先高見込みによる緊急輸入、26年2,3月のポンド資金の枯渇、5,6月のドル資金の欠乏等有為転変を経て、ようやく期末にかけて外貨資金に蓄積が顕著になった時期であった。また、司令部諸勘定が徐々に委員会勘定に振り替えられて為替管理の自主権を回復し、26年8月に米ドル資金、26年10月に英ポンド資金が日本政府に移管されて日本政府自体の勘定になり、オープン勘定も政府が直接の当事者となり、外貨管理の点では、おおむね講和以前に司令部から独立した。第三期は26年10月から27年4月末までの6カ月間で、自主権を回復した外為委勘定を運営し、講和を目前にして海外諸国との取引の活発化、為替取引の正常化を図ると共に、ポンド過剰問題、オープン勘定問題等難題に取り組んだ。講和発効の昭和27年4月28日、最後に残った司令部商業勘定の債権債務の引継ぎを終わって、占領下の為替管理から新しい門出をすることになった。なお、蓄積された米ドル資金および英ポンド資金は在日在外各外国銀行に預託されていたが、国際取引ぼ活発化を図るため、26年10月、在米七行と新たにコルレス関係を結んで米ドル資金を預託し、27年に入って、イギリス五大銀行を含む在英九行と直接取引を開始し、6月初めコルレス取引を締結した。更に定期預金をも再開し、利子収入も確保されるようになった。

 次いで、輸出入貿易の年別実績推移を見てみたい。
 昭和21年(昭和20年9月~21年12月)
・輸出:生糸が総輸出額の47%を占めたが、輸出額は小さかった。このほか石炭、枕木、機械等、更に戦時中ストックされた鉛、錫、アンチモニー、生ゴムが輸出された。国別には、アメリカ向けが69%、朝鮮、中国がこれに次いだ。
 ・輸入:食料が総額の61%で、これに肥料、漁船用重油を含めると70%以上となり、食生活関連輸入が大部分を占めた。残余の大部分は綿花で、これが加工製品化されて大部分が輸出された。輸入はアメリカからが96%を占めた。

 昭和22年
・輸出:前年に比べ7割増加したが、昭和5~9年平均に比べ1割強の小規模だった。55%は繊維品で占め、綿糸・綿織物は35%、生糸は7%。農水産物、雑貨類、機械類等の輸出は漸次増加したが、機械については鉄鋼・石炭の不足により注文に応じられなかった。前年同様、朝鮮・香港向け石炭、中国・朝鮮向け枕木・杭木等の木材、沖縄・朝鮮向け肥料のごとく、国内で不足している物資が、極東地域の復興用として輸出された。
・輸入:前年比7割増加したが、昭和5~9年平均に比べ33%の規模だった。最低生活を維持するための物資が総輸入額の68%で、戦前、工業原料が5~6割を占めた構成とは大きく変化した。輸入はアメリカ中心で、88%を占めた。

 昭和23年
・輸出:綿織物26%、綿糸15%、硫安14%、生糸13%、板ガラス12%などで、昭和5~9年平均に比べ16%の規模、輸出余力の乏しさを物語っている。
・輸入:食料の比重は半ばを占め、後は生産資材、輸出原材料だった。

 昭和24年
・輸出:前年比ほぼ倍増となったが、戦前(昭和9~11年平均)の数量と比べると、16%の水準にすぎない。輸出が増大した原因は、生産量の増加、国内購買力の停滞による輸出圧力の増大、通商協定の進捗、輸出手続きの簡素化、単一為替レートの設定による貿易活動の正常化などが挙げられる。24年中、協定相手国に対する輸出額は総額の7割を占め、また、輸出総額の9割が民間輸出によった。しかし、単一為替レートの設定による動揺とポンド切下げの影響が出て、価格弾力性を持っていた繊維および農水産品は比較的早期に切り抜けたが、金属・機械・化学製品などの重化学工業品および雑貨類は影響を強く受けた。
・輸入:前年比32%増、数量は戦前(昭和9~11年平均)水準の29%。輸入総額の比重は食料41%、工業原材料22%。24年中の製造工業生産指数は戦前(昭和9~11年平均)の69%、前年の52%から大きく伸びている。

 昭和25年
 戦後日本経済にとって、大きな変化の年であった。前年来の経済安定計画の下で、インフレーションは終息したが、滞貨増大と購買力不足が表面化した。世界経済は、戦後の物資不足とインフレが各国で終息し、経済統制も撤廃・緩和され、大多数の国の工業水準は戦前水準を上回るに至った。しかし6月の朝鮮戦争発生による軍備拡充計画の進行は、経済を足踏みさせ、戦略物資の不足や物価高騰が生じた。日本経済は、特需の発生、輸出の増大により滞貨は一掃され、生産も再び上昇する一方、輸出入価格の高騰、外為払超による通貨の膨張で、国内価格も高騰し、投資活動も活発化した。
・輸出:繊維品の輸出が中心であるが、金属および同製品(鉄鋼)、機械類(船舶、鉄道車両、紡績機)が著しく伸びた。これは後進諸国の自国工業化着手と世界経済復興期に再開しての輸出対応であった。
・輸入:前年度比8%増。輸入総額比は食糧37%、繊維原料37%、

 昭和26年
 朝鮮戦争により日本の貿易は活況を呈したが、春ごろより休戦交渉が開始され、アメリカをはじめ各国の備蓄買付は一段落となり、国際価格は反落に転じた。貿易面では、7月以降のアメリカの対日援助打切り、中国貿易の事実上の中止、日英新支払協定の締結の多くの問題に直面した。
・輸出:前年比65%増だが単価の高騰が大きく寄与している。総額比、繊維44%、金属および同製品19%、機械類8%と続く。鉄鋼は、朝鮮戦争後、世界的需給ひっ迫で日本に買付が集中し、当時日本は世界の限界輸出者と呼ばれた。綿布はインドに代わって日本が世界一位の輸出国となった。
・輸入:前年比2倍と大きく増加、そのうち単価の伸びが半分を占めた。輸入の中心は繊維原料および食糧(58%)だが、食糧の比重が大幅に低下した。鉄鉱石、石炭などの鉄鋼原料の比重上昇が顕著で、原油および重油も大幅に伸びた。日本は国際小麦協定に加入し、年間輸入量の三分の一が低廉な価格で輸入が保証された。砂糖輸入は戦後最高となり、27年4月から配給統制が撤廃された。
・国別輸出入:輸出入の第一位はアメリカ(総輸出の14%、総輸入の35%) さらに決裁地域別輸出入では、アメリカを中心とするドル地域依存が高まった。戦前に比べると、輸出は中国(ドル地域)および朝鮮(オープン地域)向けが減り、南アフリカ、オーストラリア(ポンド地域)、インドネシア、タイ(オープン地域)向けが増えた。輸入は中国、インド(ポンド地域)、朝鮮、台湾(オープン地域)から、アメリカ、オーストラリア、タイ諸国に転換がみられた。
・商品構成面:戦前、食糧の大部分はオープン地域(朝鮮、台湾)に、綿花は半ばをポンド地域(インド等)に依存していたが、輸入の大宗となるこの両者がドル地域に依存することになった。

26年貿易の水準、構造、国民所得との比率
・水準:戦前(昭和9~11年)に比べ、輸出量で31%、輸入量で48%にある。輸出では繊維製品が戦前の3割に減少したことが輸出全体に大きく影響した。特に対アメリカ輸出の花形であった生糸は14%に落ち込んだ。ただし、鉄鋼は三倍近く伸び、機械類も50%近い伸び率になったが、繊維製品の落ち込みをカバーするまでのはなっていない。輸入は単価の高いコメから、安い麦や雑穀に転換し、重量では戦前水準に達した。原材料では生ゴム、鉄鉱石が戦前水準に回復した。
・構造:商品別構成:輸出では、繊維製品が43%と変わっていないが、金属製品および機械の割合が42%と増えた。輸入面では、原材料および燃料が戦前を上回り、68%を占め、製品輸入が著しく縮小した。以上を俯瞰すると、内容的には重化学工業化を進めながら加工貿易が進展した。
   地域別構成:輸出面では、戦前、近隣地域(中国大陸、朝鮮、台湾)の比重が44%あったが、26年には10%に著しく減少したが、東南アジア向けが拡大した。北アメリカ向けは戦前と同じ比率、その他の諸国は通商協定の拡大で比重が増加した。輸入面では、近隣地域が戦前の37%から4%に縮小、その一部が東南アジアに転換されたが、北アメリカが援助輸入もあり、五割近い比重を占めるに至った。
・国民所得に対する輸出入の比率:戦前(昭和9~11年)では輸出入の比率がともに23%であったが、昭和26年の輸出比率は11%、輸入比率は16%である。国際比較をすると、戦前の日本はかなり高位であったが、戦後は日本の低下が身だっている。その理由は、輸出依存度の高い繊維工業の比重低下と輸出依存度の低い重化学工業の比重増大による産業構成の変化、アメリカの対日援助による生産の回復と復興需要が輸出余力を低下させた、輸入品構成の変化等によるものと昭和財政史はいう。

 ここまで、戦後の日本の貿易(国際取引)の実態を追うと、米占領政策を乗り越えて30年代の日本の高度成長のベースが徐々に形作られていることが分かる。昭和財政史には経済白書昭和26年度版の興味深いデータが注に掲載されている。戦前との比較による主要国の貿易数量水準の国際比較である。アメリカ:輸出175,輸入128。イギリス:輸出155,輸入84。フランス:輸出187,輸入94。イタリア:輸出96,輸入136。西ドイツ:95,輸入128。日本:輸出29、輸入33。 日本の出遅れが顕著で、ドイツはすでに戦前を回復している。その理由について財政史はとくに触れていないが、米占領政策での国際取引規制が極めて強かったことが一因だろう。それについて日本政府の見解は表明されていないが、野口悠紀雄著「戦後日本経済史」でドッジ・ラインは大蔵省が黒子として操っていたのではないか、と野口氏は推定している。当時、池田蔵相の秘書官だった宮澤喜一は次のように言っている、と。「それまで日本の財政当局はニューディーラーにいじめられ続けていた」「当時、日本の官僚がもっとも頭を使ったのは、どうやって占領軍という絶対権力者を自分の都合の良い方へ引っ張っていくかであった」「ドッジとニューディーラーたちとの離間にすこし精を出してみれば面白いのではないか」「この際はドッジという、未知ではあるが頑固らしい老人の力を借りて、ニューディーラーたちへうっぷんを晴らしてやろう、という気持ちがなかったわけではない」 ニューディーラーたちは統制経済信奉者だった。自由経済への理解者がドッジであったことは吉田の回想十年にも触れられている。日本の貿易自主権の回復についても、同様なことが起っていたのではないか、貿易数量水準の出遅れ感は当時の行政には相当の問題意識があったと思われる。 

 ちょっと長くなったが、吉田茂の施政方針演説から経済問題の取り組みについて抜き書きし、吉田の問題意識の所在を確認しておきたい。
・昭和24年4月4日:「わが国の現状を見るに、日本の生産指数は、米国の援助資金の大幅な累進的増加によって上昇しており、輸入超過額も増加し、輸出入の不均衡は年々激増しつつあるが、米国の援助資金によって、つじつまを合わせて居るような次第。この現状は、国家経済上看過し難きところである。経済の終局的安定をはかり、徹底的にインフレーションを終息させ、豊かなる経済的発展を遂げ、祖国を自立再建するためには、国民生活にたとえ一時容易ならぬ影響があるとしても、国民最大多数の究極における幸福の為に断じて行わねばならぬ」「米国の日本に対する深い理解と絶大なる援助は、感謝にたえない。しかし、われわれとして最も大切なることは、できるだけ早くこれらの援助をなくして自立し、祖国を復興することである。私は、連合国の恩恵のみに依存することなく、国民自ら強烈な自主的精神と、耐乏生活に徹した努力とによって、速やかに再建を成就する決心を八千万国民がこぞって固くすることを切望する」「単一為替レートは貿易振興、外資導入のため必要かくべからざるものである。現在の日本経済は、一応表面的には安定の段階に達したように見えるが、その実は自力によるものでなく、米国の援助と支援によって支えられていて、内面に幾多の不安要因を包含している。例え単一為替レートの設定を見ても、健全なる経済力の回復がなければ、これを維持できない。また、経済に必要な外資の導入も期し難い」 単一為替レートの司令部発表は4月23日であったので、発表前の演説だった。
・昭和24年11月8日:「戦後、物資の極度に欠乏する場合には、自由経済に移行する段階として、統制も止むを得ないが、幸い米国の援助および生産の回復により、いまや物資の統制を不必要とするもの、または有害とするに至れるもの甚だ多く、従って政府は従来統制の整理もしくは廃止に努力して来たが、本年に至り、野菜をはじめとして、石炭、銅、非鉄金属、まき、水産物等多数を統制より外すことが出来た」「また先に単一為替レートが国民の予期する額より円安に設定されて、貿易振興に寄与したことはご承知の通り」「他方、貿易協定の締結、貿易統制管理の大幅な緩和等、輸出貿易進捗に政府はますます努力する」
・昭和25年1月23日:「統制の整理撤廃は、わが党年来の政策であり、政府も勉めてその実現に力をいたし、統制品目の大部分を整理したが、明年度は更に大幅にこれを減少して、残存品目は最小必要の限度にとどめたい。鉱工業昨年度の生産は、戦前の80%に達し、一昨年に比し二割余の増加を示している。ことに質的方面における向上の跡は顕著なものがある。貿易は漸次増進して、昨年の輸出は一昨年の倍額に上っている。最近輸出入と共に管理貿易より民間の自由貿易に移行したが、なお他面通商協定、海外渡航、政府出先機関、商社の支店の設置、船舶の増加に伴う可及的自国船舶による通商等、貿易の条件に改善を加えることに力を致している」
・昭和25年7月14日:「貿易の推移をみると、24年度における輸出入ともそれぞれ前年に比し増加を示し、更に本年4月には戦後最高の実績を見た。しかし、いまだ経済自立への規模に到達するには程遠い。政府は貿易振興のため、協定貿易の促進、海外市場への拡大、ことに先般設置した米国内在外事務所の効果に鑑みて、更にスターリング地域にも在外事務所を設置し、かつ輸出金融機関の設置に努力するとともに、従来の統制を大幅に撤廃し、世界市場への参加に資する」
・昭和25年11月24日:「わが国の経済安定復興のため貿易の振興の要をますます痛感しているが、現在までに24の通商協定が成立し、在外事務所の設置、邦人の海外渡航の機会の増加、その他通商振興のための諸問題が漸次解決しつつある。特に最近輸出が飛躍的に増進していることは、わが国貿易の前途に喜ばしい。政府は更に貿易に伴う資金の円滑なる供給を確保するため、輸出銀行を設置する。また輸出振興の基盤としてわが国中小企業の占める重要性は政府も認めている。特にその金融については、見返資金の枠を広げる等の措置を取った」
・昭和26年1月26日:「産業金融政策については、資本の蓄積と輸出入の振興に重点を置くが、ことに輸入の促進については、国際的軍備拡充の気構えに伴い、諸原材料は価格が高騰し、重要物資の入手が困難な現状に鑑みて、国内資源の開発活用、輸入の促進を図ると共に、必要な船腹の増強に力を注ぐ」
・昭和27年1月23日:「わが国の国際経済関係については、平和条約の効力発生後出来るだけ速やかに関係各国と通商航海条約を締結する。特に日米間の通商航海条約については、近く米国政府との間に具体的交渉に入ることとなっている」「産業・通商貿易関係については、広く自由世界との通商貿易を振興するため、価格の低位安定と品質の向上に特段の努力が必要と考える。政府はそのために必要な電力、石炭等の急速なる増強を図ると同時に、産業の合理化、生産設備の近代化および技術水準の向上、特に最新技術の導入につき鋭意施策を講ずる考えだ」

 以上を見てくると、吉田内閣は統制経済の限界を見定めて、自由経済体制の確立に舵を切った。そのためには貿易管理の自主権確立に力を入れて、日本経済の復活、成長を指向してきた、と言えそうだ。


昭和24年、日本の経済自立の年

2021年04月29日 | 歴史を尋ねる

 また、児島襄著「講和条約 戦後日米関係の起点」に戻って、戦後の歩みを辿ってみたい。
 第二次吉田内閣が誕生後の昭和23年12月18日、総司令部が特別発表を行い、米国務省および陸軍省がマッカーサー元帥に対して、九原則に基づく経済安定計画を立案することを日本政府に指令するよう指示があった、という。この指示内容を受けて吉田内閣は直ちに、12月も押し詰まって、閣議で九原則に対する政府としての具体的方針を決めた。単一為替レート設定による国際経済との結びつき、価格差補助金の削減、財政の均衡確保と赤字融資の厳禁、企業や政府事業の独立採算制の堅持、統制の簡素化などである。こうして、それから後に引き続く経済安定政策への布石が出来上がり、24年を迎え、総選挙となった。この厳しい経済政策を推進するため、吉田は安定した政権を望んだ。その結果が、昭和24年1月23日、総選挙の結果は民主自由党の予想以上の大勝で、戦後初めて絶対多数党が出現、社会、民主両党はその退勢を示し、大物議員が次々落選した。ここまでが、前回までの歩みであった。
 

 吉田は予て、国家の再建、財政経済の復興の実行に強く踏み出すには、強力で長期の政権が必要ということを考えていた。保守合同はすでに政界の底流として存在していたが、総選挙後に顕在化し、特に民自党総裁吉田茂が熱心で、党内の反対論を抑えて実現に邁進した。信念として、今後経済九原則による経済復興を達成するため、共産主義勢力の進出を抑えるためには、血の雨を降らす覚悟が必要、それには保守勢力は団結して、一日も長く政権を維持して政策を実行しなければならない。強固な政権による政局の安定が講和の受け皿である。それがなければ、日本の自立も独立も招来することが出来ない。この吉田構想に対して民主党側は二つのグループに分かれて意見が対立した。総裁犬養健を中心とする勢力は日本の将来のためには保守勢力の結集が不可欠とし、元総裁芦田均を中核とする勢力は、保守連携は左翼の人民戦線結成を促進させる、民主党は独自性を保持しなければならない、という意見であった。一時単独内閣組閣に動き出したが、その後犬養総裁と保利幹事長は民自党と保守連携内閣の樹立に合意した。そして民主党は分裂した。

 2月23日、その構想の下で第三次吉田内閣は誕生した。大蔵大臣の選定には、従来になく慎重を期し、大蔵省出身の池田勇人を選任した。組閣直後の初閣議後、直ちに新聞記者会見を行い、首相談話を発表した。「総選挙の結果、健全な保守主義を基調とする政党が最多数を占めた事実は、国民諸君が主義政見を異にする政党間の妥協による不明朗な政局にあきたらず、真に志を同じくする政党による政局の長期にわたる強力な安定を切望していると同時に、着実穏健な民主主義を擁護していることを現わしている。敗戦により、わが国は困苦と欠乏のドン底に落ち込んだが、連合国、特に米国の援助を得て、わが国経済が復興の徴候を見せつつある。この際政府は、均衡財政の堅持、行政機構の刷新整理並びに綱紀の粛正を断行して、時局の要請にこたえるとともに、一切の浪費を除き、国民諸君は最大限度に勤勉の成果を発揮されたい。政府は国民と一体となって、経済九原則を強力かつ忠実に実行する」と。

 3月7日、総司令部経済顧問のデトロイト銀行頭取J・ドッジは、内外記者団と会見し、今後の日本経済の指針を発表した。①通貨改革は将来の課題として、現在は行われるべきではない。 ②単一為替レートの速やかな設定が望ましい。ただし、織の中の猿のように激しく上下するレートでは意味がない。 ③インフレ対策および経済安定に関する決定事項は、すべて政府の予算に関連しなければならない。インフレは形式的な通貨の操作ではなく、増産と国内の消費節約がなければ収束できない。 ④米国の対日援助は米勤労者の税金で賄われている。日本が自力でやるべきことを、一時米国市民が肩代わりしているのである。必要なものを外国からの援助だけに頼っていては、永久的な解決は見いだせない。 そしてドッジは補足説明した。 ・現在とられている日本政府の国内経済に関する方針、政策は、合理的でもなく現実的でもない。 ・日本の経済は両足を地につけておらず竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、もう一つの足は国内の補助金制度である。 ・今直ちに足の寸法をちじめる必要がある。外国の援助をあおぎ、補助金を増大し、物価を引き揚げるならば、インフレを激化させるだけでなく、国家を自滅に導く恐れがある。
 日銀の一万田総裁は声明の趣旨に全面的に賛意を表すると言明したが、金融緩和による景気浮揚を公約した吉田民自党内閣にあって、蔵相池田勇人は渋い表情で談話を発表した。「今後の金融政策としては、金融の常道を守り、過度の引締めは出来るだけやりたくない・・・自分としては金利も現行水準を維持し、将来はむしろ低くしたい」 景気後退を懸念しての発言であるが、顧問ドッジの指摘が適切であることについて、識者に異論も異議もなかった。

 3月18日、北大西洋条約の締結が発表された。加盟国は米、英、仏、カナダ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの七か国。北大西洋地域の集団防衛条約であり、アルジェリアを含む加盟国・西ドイツにおける占領軍・北回帰線以北の北大西洋領域に対する攻撃に対して発動される。条約にはノルウェー・デンマーク・アイスランド・ポルトガル・イタリアが加入を表明していた。この条約はソ連の各個撃破戦略に対して西欧諸国の団結を強化するものであると、米国務長官Ⅾ・アチソンが声明した。反共同盟だった。条約は不安感と危機感を中国政府に与えた、ソ連をアジアに向かわせる、と。中共放送も声明した。・米帝国主義者は北大西洋条約によって新たな世界戦争を起そうとしている。 ・ソ連は成長しつつある世界の平和愛好勢力の団結の中心である。 ・同時に、中国に対するソ連の友情は戦争における貴重かつ重要な要素である、と。一方、李総統代理は中共側との和平交渉を模索中で、ソ連訪問も計画中であった。
 その頃日本では、吉田内閣が苦境に陥っていた。民自党の総選挙での公約は公共事業の拡大と減税で、それが支持され絶対多数をとれたのだったが、総司令部に内示した7千億円の均衡予算案に手を加えることを認めない。3月19日国会開院式が行われたが、政府は公約実現の予算案を準備できず、このままでは予算のない新会見年度を迎え、モラトリアムも余儀なくされる形勢だった。政府は暫定予算を組み、それまでに総司令部の諒解を求める方針をきめ、蔵相池田勇人は連日のように総司令部を訪ね、ドッジと交渉を重ねた。だがドッジは、耐乏予算を主張して政府の景気刺激予算案をはねつけて譲らない。蔵相はここまで来たら暫定予算を組むしかない、と肩を落としているところ、総司令部当局者談話が発表された。「民自党が公約を活かそうと工作するのは分かるが、占領下では選挙の公約を犠牲にすることも止むを得ない。占領軍の意向が至上だからである」
 29日、吉田首相はマッカーサー元帥を訪問した。政府は何とか公約予算を願ったが、総司令部の姿勢は固かった。 ・対日政策の目標は、政府の援助のない自立経済体制の確立である。故に出来るだけ補助金のない均衡予算が必要になる。 ・陸軍省は、対日援助費の一億ドル増額を考慮し、7月からの新会計年度に占領地費用の増額を要求するつもりである。 ・それには日本の耐乏計画が陸軍省が考える広範囲なものであり、その成功のための協力が不可欠である。 日本が努力しなければ、われわれは対日援助資金を獲得できない、耐乏予算を実行すれば一億ドルを提供する、というのであった。 政府はそこで暫定予算を組むとともに総司令部案に基づく本予算を編成して、5月に来日するシャウプ税制調査使節団との折衝に望みをつなぐこととした。
 4月15日、総司令部顧問J・ドッジが最後通告的声明を発表した。政府は予定通り4日に本予算案を国会に提出したが、なお成立のメドがたたないので、たまりかねてドッジ顧問の声明発出となった。「均衡予算の確立と実施は経済安定九原則の第一要件である。それは各政党や各個人の無条件の義務である。だから均衡予算の成立は国家的な問題であり、政党の問題ではない。米国の対日援助資金を有効に使用するためにも不可欠の要件である。更に次の点を強調した。日本国民が自分の国の状態をまるで気にかけていないと思える点である。それは政府が経費支出の要求に応じ続けたからである。今こそ日本人が自分自身のギリギリの事実に直面し、自分自身の問題に立ち向かい、自分自身の努力によって独立を取り戻すべき時である。米国の援助は、日本人自身が自立経済を発展させようとする努力に対する一つの刺激剤として役立つに過ぎない。日本人は何よりも先ず政府に均衡予算を要求すべきである、と。
 折から、ワシントンで英米仏三国外相が対ドイツ賠償の緩和に合意したとのニュースに続いて、マーシャル・プランの有効活用、急速な貿易拡大など、西ドイツの自給自足を促進させた要因は、日本には欠けている。日本がその経済を維持するうえで対米依存を必要としなくなった時初めて、西ドイツと同様の内政自主権回復も可能にする条件が生まれる、と米高官筋の談話を伝えた。 日本政府は声明を発表した、「政府としてはドッジ声明の主旨をを直ちに実現し、わが国経済を一刻も早く安定せしめるため、全幅の努力を傾注するつもりである。予算案が速やかに議会の議決を経て実施されるよう、熱望してやまない」。翌日ドッジ声明は魔法の杖並みの威力を発揮した。予算案はあっさり衆議院を通過し、回付された参議院でも、20日成立のスケジュールが決まった。

 4月23日、大蔵省渉外部長渡辺武は、ワシントン発のUP電の瞠目した。日本の単一為替レートが一ドル360円に決まり、4月25日から実施される、と。予ての懸案であった。高く売って安く買うのが商売の常道だと言われる。戦争で経済基盤に傷害を受けた日本では、生存と復興のための対外貿易にこの原則は不可欠だとみなされ、これまで輸出には円安、輸入には円高、更に製品別の複数レートが採用されてきた。たとえば昭和23年末の平均レートは輸出が一ドル340円、輸入が一ドル160円である。そして品目により差異があった。 輸出品:陶磁器600円、鋼船500円、生糸420円、綿糸250円。 輸入品:鉄鉱石125円、小麦165円、綿花国内用80円、輸出用250円。 輸出入品は貿易資金特別会計(円勘定)により輸出品は割高に買上げ、輸入品は割安に払下げられた。当然に差額の調整が必要になるが、それは米国からの援助物資を公定価格で払い下げた収入と日銀からの借入金で賄った。しかし当然に赤字勘定になり、前年末の貿易資金特別会計は累損欠損は3735億円に達した。インフレ助長の一因ともみなされ、経済九原則に基づく耐乏自立への障害とも判定され、単一レートの必要が叫ばれたが、では一ドル何円にすればいいか意見が分かれた。当時の日本の経済は孤立経済なので実勢測定が難しい。日本の購買力、生計費、賃金などの比較を算定基準にしても、277円~393円にばらついてしまう。日本側の単一為替設定対策審議会の試算では、一ドル400円では輸出の40%が採算不能になり、一ドル350円なら80%が生き残れる。総司令部の主務者J・ドッジは一ドル330円を決意しワシントンに承認を求めた。だが、米国の「国際金融問題に関する国家諮問委員会」は360円を総司令部に勧告してきた。理由は、①330円は円の過大評価、②世界経済はリセッションを迎え、ポンドの大幅切り上げが見込まれる、③330円では内外の変動に対する余裕が乏しい。 総司令部は勧告を受諾、一ドル=360円の単一為替レート設定に踏み切った。
 総司令部は正午為替レートの設定を発表した。付け加えて、単一為替レートの設定は、経済九原則にの実施のための主要な措置であり、日本の民間、政府とも熱心に待望していたものである、新為替レートは、日本の外国貿易をより正常化し、日本産業の合理化をもたらすものと期待される、と。ドッジ顧問も渡辺部長に、合理的な企業を利益あらしめ、不合理経営の企業を忍耐せしめることが望ましい、と告げた。 これが、吉田の言う国際経済に結び付き、企業の競争力を引き出す、自由経済化の扉になるということだろう。

 5月12日、ドイツと日本に喜びの声が上がった。ドイツの場合は、ベルリン封鎖の解除の祝声だった。東京ではAP通信電が各界を沸き立たせた。「米政府は、日本経済の自立化に資するため、さきに中間賠償に指定された工場施設(暫定賠償決定額の30%)の今後における取立を中止するようマッカーサー元帥に命令した旨発表するとともに、今後いかなる賠償施設をも日本から撤去することに反対する態度を明らかにした」と。具体的には、米代表F・マコイが極東委員会に通告した。①極東委員会が対日賠償問題を解決できないでいるため、日本の経済自立が著しく遅れている。②米国は委員会加盟国に対し対日中間賠償の取立の中止を勧告し、対日賠償支払いの復活を求めても反対する。その理由は、・日本の対米依存度を軽減するためには手持ちの資源の全ての活用を必要としている。 ・日本は既に中国、オランダ、フィリピン、英国に23百万ドル以上の機械、施設を送り出したほか、海外資産の押収により約30億ドルの実質的賠償を支払っている。ソ連は満州占領で最も多額を得ている。 ・米国は日本の平和産業を制限すべきではない。  米国の日本占領の目的は、軍国主義日本の復活の防止である。そしてこの米国の占領政策は着実に実行され、日本は急速に民主国家に変身した。対日講和条約締結の時期が到来したと見られたが、東西冷戦の激化は講和への足並みを乱し、米国はヨーロッパに重点配備をするために対日占領政策の変更をはかった。保護と管理をゆるめ、日本を自活させ、西側の一員にしようとした。オリンピックを含む国際組織への参加、経済九原則、単一為替レートの設定などは新政策のあらわれである。
 しかし経済自立には、賠償問題という根本的な障害が付きまとっていた。経済自立は経済復興にほかならず、耐乏生活だけでなく、生産増強が必須だが、主要生産工場の多くが賠償指定を受けて操業が停止させれれていた。賠償指定845工場のほとんどは鉄鋼、造船、化学、航空機、機械、電力といった基幹産業のもので、これではいくら為替レートの設定がされ貿易振興が叫ばれても、肝心の輸出するものが産出できない。指定工場のうち470は、総司令部に平和産業への転換が認められて操業していたが、賠償の対象になっていることに変わりはなく、前年度は17軍工所約十万トンが撤去された。今年度は50万トンの賠償撤去が予定されていたが、軍工所の残りは約二十万トンなので、不足分は民間工場に食い込まざるを得ず、このままでは機械、施設は減る一方ではないか、と産業界の不安が高まっていた。その意味で、米国の賠償打切りは朗報だった。今回の措置は米国の対日政策の画期的な前進であると朝日新聞が歓迎の意を表明すれば、株式市場も反応して重工業株は一斉に高騰した。


戦後復興期の松下、ソニー、本田

2021年04月23日 | 歴史を尋ねる

 法政大学イノベーション・マネジメント研究センターの纏めた「企業家に学ぶ 日本経営史」はなかなか示唆に富んでいる。題名からして企業家に学ぶという姿勢に好感が持てる。学者の自己主張の場ではないから。前項の財閥グループ、日立製作所、川崎製鉄につづいて、復興期の企業を跡づけたい。

先ず、松下電気産業から。この著書では日本の経営発展に貢献した経営者として①大企業セクターと②企業家セクターに分類する。前者は専門経営者として日立の倉田主税、川鉄の西山弥太郎を挙げ、学歴があって内部昇進からトップマネジメントについた経営者で、戦後の混乱期を乗り越え、復興期から高度成長期に自社をリードした。後者は資本家経営者、いわゆるオーナー経営者で会社を創業し、復興期から高度成長期の日本の経営発展に大きな役割を果たした。後者の代表として、トヨタの豊田、ブリジストンの石橋、東洋工業の松田、出光興産の出光、サントリーの鳥井などが挙げられるが、ここでは松下の松下幸之助を取り上げる。
 幸之助は彼が4歳のとき父が米相場で失敗して9歳で大阪に奉公に出た。その店は3カ月後に閉められ、その後転々として、大阪電灯に入社、入社後3カ月で工事担当者に昇格、幅広い箇所での工事を経験。そのうちソケットの改良をこころみて、22歳のとき事業を開始、松下器具製作所を創業、電気器具の開発に本格的に取り組んだ。1933年業容の拡大に伴い門真に本店と大規模工場を建設、事業部制を敷いて組織を改革した。戦時体制期に入ると、航空機用の電装品、軍事用乾電池や無線機などの軍事品の生産も行い、売上は一気に膨れ上がった。終戦後、日本再建が使命だと行動を開始したが、昭和22年、GHQから制限会社、財閥家族、賠償工場、公職追放、持株会社の指定、軍需補償の打切り、過度経済力集中排除法の適用を立て続けに受けた。幸之助は財閥と同列に扱われたことに納得がいかず、GHQに50回以上に亙って出頭・抗議した。組合も社長追放除外の嘆願運動を行い、昭和22年、財閥家族指定と公職追放指定は解除された。しかし他の指定は残っていたので経営は悪化し、給料支払いの窮して、日本最大の税金滞納者とも言われた。
 松下の経営は朝鮮戦争勃発による特需で徐々に立ち直っていき、昭和26年1月、初めてアメリカを訪問した。アメリカで何が売れるか、供給できるものは何か、日本と比べて大きな利益を上げているのは何かなどを調査することを目的とし、3カ月間の視察の中で、幸之助は欧米の先進技術の高さに驚き、特に真空管技術の導入が急務であることを痛感した。ふーむ、吉田茂が想起した国際経済との繋がりはこんな形で、実を結んでいったのか。幸之助はその年の10月、具体的な提携先を求めてヨーロッパを視察した。そこで選んだのがフィリップス社で、無資源国オランダに本拠があり、フィリップス家によって経営されていたことが松下と似ており、それでいて操業60年の歴史をもつ従業員7万5千人の世界的電機メーカーだった。交渉の結果、松下電子工業株式会社が松下70%、フィリップス社が30%の出資比率で設立された。2度の欧米視察で、幸之助は欧米の電気産業の状況と共に生活状態についても観察、欧米の高度な大衆消費社会の豊かさを実感、持論である水道哲学への意を強くした。松下は洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫をはじめ様々な製品を手掛けた。昭和25年の売上高27億円から30年には220億円に成長した。そして、幸之助は新商品の開発よりも、既存の製品の性能・品質の改良、或いは価格面での競争優位政策をとり、製品の量産・量販体制の構築(プロセス・イノベーション)を推進した。

 続いてソニーを取り上げたい。敗戦後、わずかな従業員とともに、技術ベンチャー企業の中でも、極めて短期間に成長を遂げて世界的企業に変貌したソニーと本田技研工業は、日本の高度成長のシンボルとして高い評価を受けてきた。ソニーと本田に共通するのは、技術に専念する経営者と経営に能力を発揮する経営者という二人三脚型の経営が、極めてうまく機能した。ソニーの二人は井深大・盛田昭夫だった。井深大は早稲田理工学部時代、学生発明家として注目され、卒業後写真化学研究所に就職、次いで日本光音工業に職を得て測定器の研究に没頭、昭和15年日本測定器という小さい工場を立ち上げた。戦時、軍は井深の技術を評価し、軍・官・民合同の戦時化学技術研究所の委員に就任、熱戦誘導爆弾の開発に参加、事業場のパートナーとなる海軍技術中尉の盛田昭夫と出会った。
 戦後、工場疎開先から上京した井深は、昭和20年10月、日本橋の白木屋3階に東京通信研究所の看板を掲げた。終戦後、人々は正確な情報と娯楽に飢えており、そこにビジネスチャンスを見出し、ラジオの修理と改造に着目した。壊れたラジオを修理し、短波受信用コンバーターを取り付ける仕事は繁盛した。この記事を見た盛田昭夫と再会し、井深の事業に協力することになった。井深たちはラジオの修理をするかたわら、電気炊飯器、電気座布団などを試作・販売し、発展の機会を模索していた。日本測定器以来の研究が結実して真空管電圧計が完成し官公庁の仕事に参入することが出来た。昭和21年5月、従業員二十数名で、東京通信工業株式会社(ソニーの前身)を設立した。22年2月、ソニーは、旧軍の無線機を無線中継用受信機に修理・改造する仕事をNHKから受注したのをきっかけに、NHKから多くの仕事を受注した。ただ、井深は大手メーカーが戦争被害から立直り、本格的に事業に復帰すれば、自社の存在意義は失われることを考え、大衆向けの製品に目を向けていくことになった。飛躍の契機はテープレコーダ―の開発だった。
 昭和25年、試行錯誤の末、テープレコーダーG型を発売したが、重量がある上に価格も高かった。翌年、小型・軽量化したH型を発売、官公庁向けから一般消費者向けへ、第一歩となった。占領下の日本で、英語学習に不可欠なヒアリングには、テープレコーダーが有益で学校での聴覚教育用として使用された。ソニーは市場で主導権を握っていたが、松下電器が特許の期限切れを待って、参入してきた。しかしマーケットが飛躍的に拡大し、結果としてソニーの売上がその分伸びた。
 昭和27年、井深はアメリカにおけるテープレコーダーの調査で渡米した。この時、ベル研究所でトランジスタの開発が進んでいることを知り、次の新製品の種を見つけた。翌年盛田が渡米し、ベル研究所の親会社であるウエスタン・エレクトリック社と、トランジスタの特許使用権に関する契約を結んだ。三井銀行から融資を取り付け特許使用権を購入し、昭和30年日本初のトランジスタ・ラジオを、32年には世界最小のラジオを発売し、初めて本格的に輸出され、ソニー・ブランドは世界に知られるようになった。トランジスタ・ラジオの販売が軌道に乗った頃、トランジスタ技術を日本に持ち込んだソニーを差し置いて、東芝がトランジスタ生産で首位に立った。しかしこれはトランジスタ技術を自社で独占せず、他社に公開しつつ、マーケットを拡げようという井深の考えが実現した。
 ソニーはトランジスタ特許権を持つWE社から実施権を取得したが、製造ノウハウは供与されなかった。当時のトランジスタは、オーディオ領域にしか使えず、用途としては補聴器ぐらいしかなかった。ラジオのような高周波領域での使用には、新規の技術が必要だった。ソニーは高周波数でも使えるトランジスタづくりに挑戦、最先端技術を取得して、ソニー独自の思想と技術でオリジナルな一般向け商品を生み出していく革新性、創造性、独自性は、トランジスタ・ラジオ開発の中で培われた。更にこの研究開発のプロセスで、エザキダイオードが開発され、後にノーベル物理学賞を受賞した。
 また、昭和28年、森田はオランダのフィリップス社を見学、フィリップス社が世界のエレクトニクス産業に確固たる地位を築いていることに勇気づけられ、ソニーの製品を世界中に売り込めるチャンスがあるという決意を持った。昭和30年には、海外市場への進出を考慮して、SONYマークを考案、ブランド育成に努力した。アメリカの時計会社から試作品のトランジスタ・ラジオTR-52に対して10万台の引き合いがあったが、ソニー・ブランドの使用を拒否したため、森田は契約を拒否した。自社ブランド確立の重要性を知る盛田の対応であった。ふーむ、技術の導入といい、マーケットの開拓といい、国際経済との繋がりを深田も盛田も早くから意識した行動をとっていたことは、戦後復興活動の共通する特徴だ。

 続いて、自動車産業並びに本田技研工業について。1970年代における産業構造変化の特徴は第3次産業比率の上昇と第2次産業の加工型製造業の生産の伸びが特徴だった。石油危機によるエネルギー価格の上昇は、重厚長大型の素材産業に大きな打撃となったが、加工組立産業の生産は伸長した。電気機械、自動車、精密機械などの産業は、品質や生産性の点で国際競争力を向上させ、比較優位産業となった。とりわけ、戦後の日本経済の奇跡的成長を象徴的に表現するのが、自動車産業だった。だが、昭和25年当時、一万田日銀総裁は、「国際分業の時代にあって、日本で自動車工業を育成しようとすることは意味がない。価格・品質ともに優れたアメリカから輸入すればよい」と発言し、物議をかもしたが、当時の自動車産業の置かれた立場を表している。戦前、アメリカのフォード、GMの子会社が組み立てる自動車に市場を席捲され、日本の自動車会社は軍用トラックの生産に専念させられた。戦後は自動車産業不要論が受け容れられた状況の下で、通産省は外貨の節約と経済波及効果を考慮して自動車産業育成方針を採った。講和条約が発効する昭和27年4月以降、外国メーカーの資本と製品の対日輸出に厳しい制限を加え、国内メーカーには外国技術の導入を有利にするための低利融資や特別償却などの措置を講じた。更に昭和31年に機械工業振興臨時措置法を制定し、自動車部品工業の育成と近代化を推進した。政府の保護・育成措置に沿う形で、日産・オースチン、日野・ルノー、いすゞ・ルーツなどの外資提携が実施され、外国企業から乗用車技術を学習することが出来た。通産省は保護育成策を推進しつつ、一貫して規模の経済性を実現するため業界再編成を指向した。昭和30年の国民車構想が、その表れだった。しかし業界は必ずしも賛成でなかった。昭和35年以降になると、貿易・資本の自由化を控えて通産省は自動車産業の体質強化に乗り出し、3グループ構想を発表したが、この構想も業界の反発を招いた。資本自由化を前にして、通産省が慫慂した産業の体質強化策である企業合同についても、日産・プリンス合併のケースのみに終わり、輸入自由化とともに戦後一貫して取られてきた保護政策が撤廃される段階になって、相互補完型提携によって体質強化に向かった。
 ここでは本田技研工業の例を引いて、戦後復興の事例に変えたい。戦争中、本田は東洋精機を経営して、ピストンリングを中島飛行機に部品として納入していた。一方藤沢は日本機工を経営していてバイトを中島飛行機に納入していた。納品の窓口が竹島弘だった。昭和24年8月、竹島の紹介で、本田宗一郎と藤沢武夫が出会った。「浜松の本田が、エンジンを自転車に取りつけたバイクを製作していたが、今度はオートバイをつくりたがっている。東京へ進出したがっているのだが、資金を出して一緒にやろうという人を探している」と。こうして二人は共同経営を始めた。技術面は本田、販売・金融・管理面は藤沢が担当した。コンビ経営をスタートした時、ホンダは最初のオートバイ、ドリーム号D型を試作していた。昭和26年日本最初の4サイクル・オーバーヘッド・バブルエンジンのドリーム号E形が、翌27年に自転車用補助エンジン、カブ号F型が開発された。藤沢は流通チャンネルと資金調達の課題を一気に解決する販売網を構築した。更に、オートバイ業界の群雄割拠状況から抜け出すため、本田が自ら渡米し工作機械を購入、次々工場建設に踏み切った。この時資本金の25倍の設備投資を決断した。大規模な設備投資はホンダを破産の危機に追い詰めたが、この危機を乗り越えるとホンダは量産効果を発揮して快進撃を続けた。その立役者は昭和33年に発売されたスーパーカブ号だった。そのスーパーカブ誕生秘話を小堺昭三著「鬼才と奇才」本田宗一郎・藤沢武夫物語で紹介したい。宗一郎と藤沢がヨーロッパ旅行に出かけた昭和31年暮、その道中で二人の話合いがきっかけとなって完成させることが出来た。「130馬力以上のエンジンを開発してTTレースで優勝したい、というのは社長の夢としてはいいことだ。しかし、これからの商売となるのは小さい50ccだ。F型カブ号みたいに自転車に取りつけるのではなく、ボディぐるみの新しいスタイルを研究してほしい。あんたならできる」「そんな玩具みたいなものに、大人が乗れるかよ。オートバイは時間との勝負をやらなきゃいかんのだ」「要するに、必需品となる底辺向けの商品をつくって貰いたいんだ。速いだけが能じゃない。底辺に喜ばれる実用的なものがない限り、本田技研の繁栄は望めない。いまや販路はそこにしかないと思ってくれ」「最高に速いものをつくりたがっている俺に、いちばんのろいやつをつくらせたいのか。たとえばどんなものだ」「どんなものと言われても、技術者でないおれには具体的にこんなものだとは示せない。けど、そういうものが出来るはずだよ」 西ドイツでオートバイ工場を見学した時、宗一郎が数種類指さしたが、藤沢は「つまらん、すぐに売れなくなる」「それじゃ、ないのも同然だ」 西ドイツより帰国して一年後の某日、宗一郎は藤沢に新しいスタイルの50cc車。「これでもダメか」「うん、これだ、絶対に売れる。こういうのが欲しかったんだ」「どこくらい売れる」「月、三万台だ」「三千台じゃないのか」勿論藤沢は口から出まかせを言ったのではなかった。計算済みだった。8月からスーパーカブC100を発売した。たちまち爆発的な人気を呼んだ。ふーむ、出来過ぎるぐらいの話だ。この先はこのカブで米国市場進出の面白い話があるが、super CUB storyで詳細はご覧いただきたい。戦後復興期の日本企業のバイタリティが伝わってくる。その眼差しは世界に、アメリカにあった。


日本経営史に見る戦後復興・高度成長の足跡

2021年04月14日 | 歴史を尋ねる

 日本の戦後の経済復興・高度成長の足跡は経済企画庁の白書が分かりやすいかもしれないが、企業側から見たその足跡は白書でも追い切れない。今回は「日本経営史」からその実態に迫ってみたい。著書は法政大学イノベーション・マネジメント研究センターと同エクステンション・カレッジの共催による公開講座の講義をもとに、内容を吟味・修正して作成された。

 まずは財閥解体から。昭和20年時点で、三井、三菱、住友、安田の4大財閥傘下企業は全国会社払込資本金の24.5%を占めており、これに6財閥(鮎川(日産)、浅野、大蔵、古河、中島、野村)を加えると、その比率は35.2%に達した。GHQは財閥を日本の軍国主義と封建主義の経済的支柱とみなし、その解体を日本政府の命じた。まず昭和21年9月、三井、三菱、住友、安田の各本社および富士産業(中島飛行機)が持株会社に指定され、以後追加してもあって、昭和22年9月までに計83社が持株会社に認定された。持株会社は所有株式を持株会社整理委員会に提出し、財閥本社は清算手続を開始、同時に三井、三菱両財閥の中枢と見做された三井物産と三菱商事は解散処分を受けた。
 この間、企業経営者の追放も実施された。昭和20年11月、財閥家族の本社役員辞任が指令され、昭和22年1月には大企業283社の常務取締役、常任監査役以上の役員が追放処分を受け、昭和23年1月には財閥同族支配力排除法の制定の下で、財閥家族の関係会社役員辞任が強行され、2月には過度経済力集中排除法が公布され、325社の大企業が解体、分割、工場処分の命令を受けた。
 しかし昭和23年夏以降、東西冷戦の進行で対日占領政策も大きく変化し、日本経済を弱体化する方針からその復興・自立を促進する方向に転じ、過度経済力集中排除法で指定された会社の指定解除や取消しが相次ぎ、結局、2社以上に分割された会社は、日本製鉄、三菱重工業、王子製紙、大日本麦酒のほか14社にとどまった。財閥系企業は占領政策の転換に合わせ、商号・商標の使用回復や適用範囲の緩和を求めて、同系列企業同士、或いは系列を超えて共同して、GHQ・日本政府に働きかけた。財閥系企業が直面した問題は、財閥家族の所有株式が株式市場に放出されると、含み資産豊富な財閥系企業乗っ取り事件が頻発し、安定株主を確保しようとの狙いだった。従って財界人追放後の平取締役が一気に経営トップに立った経営陣の主要職務は、先鋭化した労働運動攻勢に対応することと同時に自社の安定株主を如何に確保するかにあった。
  当時、持株会社の設立は禁止されたので、戦前型の企業集団を形成することは出来なかった。財閥系企業の新たな経営者は、各社間の業務連携と情報交換をテコに社長会を結成し、メンバー企業が同系列企業株式を相互に持ち合う方式での企業集団再結成を企図した。先陣を切ったのは住友系企業で、昭和26年社長会・白水会を設立し、企業集団活動を開始した。この動きに刺激を受けて、三菱系企業は金曜会、三井系企業が二木会という社長会を結成し、同様の企業活動に乗り出した。その他の財閥系企業、或いは独立系大企業は1960年代中頃から貿易・資本の自由化措置への防衛策として、メインバンクである富士、三和、第一勧銀の各行を中心に株式相互持合いを進める一方で社長会を結成し、戦後型の6大企業集団が出そろった。また、26年に入って、GHQの三井物産、三菱商事の解散措置が事実上失効すると、約170社に再分割された旧三井物産系各社は合併・合同運動を開始し、翌27年3月までに10社に集約、29年7月に三菱商事の再統合が実現すると昭和34年2月三井物産の再統合が実現し、ここにグループ企業成長の再構築が実現した。

 次いで日立製作所の事例を取り上げたい。日立では、昭和20年12月、戸畑と戸塚両工場を皮切りにすべての事業所に組合が組織され、翌年2月には日立労働組合総連合が結成され、社員と工員が同一組合に一本化された。6月には経営と総連合間に最初の労働協約が締結され、本社の中央経営協議会、工場の工場経営協議会を通じて従業員の意思を経営に盛り込むことが制度化された。戦後の財界追放の対象とされた日立の創業者小平浪平の後を継いだのは平取締役だった倉田主税だった。倉田が初めて争議の洗礼を受けたのは、社長就任後間もない22年9月だった。戦後の意インフレ進行を背景に、組合は赤字補填資金要求を会社に提出、回答を不満とした組合は一斉にストに突入、10月に入ると増額要求を会社に突きつけ、泥沼化の様相を見せた。組合が上部団体からの応援組である共産党員に率いられたのに比べ、経営者側は経験不足を露呈し、組合のペースに引き込まれた。倉田は炭坑用機械の生産を求めるGHQの後ろ盾を利用し、辛うじて47日間に及ぶ長期ストを経験した。翌年も賃上げ要求を巡る波状ストを経験、悪化する経営内容の下でスト対策に翻弄されつつ、人員整理の回避に向けて努力もした。
 昭和25年5月、経営側から組合に対して従来のベースアップ要求を拒否する通告がされると共に、従業員の17%にも上る5555名の人員整理への協力要請がされるに及んで、日本労働運動史上記録的な大争議が発生した。その過程で、解雇の撤回を求めて暴行事件が頻発、応援の外部団体の赤旗が工場の周りに林立した。会社側はロックアウトを宣言するとともに、立入禁止の仮処分申請と暴行事件の告訴・告発びよって、組合側に一歩も引かず対抗した。この間、組合内部にも暴行・脅迫などの行き過ぎた行為により、一般従業員の支持は次第に失われ、6月末には3500名が退職を申し出、7月、2カ月に亙った大争議は終結した。更に争議の終結と10月のGHQによるレッド・パージをとらえ、会社は特別人員整理要項を発表、50名に極左勢力は一掃された。
 小平浪平の国産技術主義を実現するために誕生した日立製作所は、技術提携を通じて積極的に外国先進技術の導入に乗りだした。戦時期に海外の技術情報は閉ざされ、その間の大きな技術上の空白をなんとか埋めなければ戦後の日立の再出発もかなわない状況だった。また世界の電機メーカーと伍していくためにも、不可欠の課題だった。しかし技術導入は創業の理念に抵触する、倉田は悩んだが、輸出立国を使命として国際競争力をつけるためには、技術提携という近道を通る決断をした。昭和27年のR.C.Aとの提携は大成功、受信管、トランジスタ、送信管、陰極線管、テレビ受信機、AMおよびFMラジオなどの品目で、10年間に特許実施権の供与と技術情報の提供を内容とした提携を通じて、製品の品質は飛躍的に向上し、国内外に売上を伸長した。その後、倉田は技術進歩のスピードが増す中で、国産技術開発に固執することなくその時々の先端技術を素早く活用する道を採用、社内の技術開発を不断に活性化することに成功、工業所有権は増加の一途をたどり、昭和35年には全国1位の座を占めた。

 続いて重化学の雄、鉄鋼業の川崎製鉄を取り上げる。昭和23年2月、持株会社整理委員会は工業・商業・サービス業の325社を分割対象企業に指定したが、その後の占領政策の転換で、最終的に過度経済力集中と認定されて2社以上に分割されたのは、①同種部門:日本製鉄、三菱重工業など7社、②異種部門:三菱鉱業、三井鉱山など4社、③工場・株式などの処分:日立製作所、東京芝浦電気など7社、の計18社。 日本製鉄は過度経済力集中排除法の指定を受けて、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の4社に分割、昭和25年4月」、第二会社として発足した。川崎製鉄は川崎重工業の一角を占め、川崎重工業が持株会社の指定取り消しで分割が亡くなったが、企業再建整備法に基づく自主的な意思決定として、昭和25年7月、第二会社・川崎製鉄が誕生した。
 後に川崎製鉄の社長になる西山弥太郎は昭和17年の陸海軍から出された鋼板の生産拡充命令が契機となった川崎重工業の製鉄所建設の検討があり、ここで高炉6基と平炉からストリップ・ミル、厚板などの設備を含む一貫製鉄所のレイアウトが策定されたが、敗戦によってストップされた。これは戦後の千葉製鉄所建設の先駆けとなる具体的計画だった。敗戦直後、西山は「日本の鉄鋼業は、欧州式の小規模生産方式から米国式大量生産方式に切り替え、コストダウンをはかり、国際競争力をつけていかねばならない。大規模生産を行うには、溶鉱炉をもつ銑鋼一貫製鉄所が必要だ」と語っている。戦後の鉄鋼需要拡大を予測した西山は、国内および輸出市場において競争力を維持していくためには銑鋼一貫製鉄所を建設し、八幡や広畑などの製鉄所よりも競争力を持った製鉄所建設が必要と考え、昭和25年11月、通商産業省に対して千葉製鉄所建設計画を見返資金貸与の願書という形で提出した。資本金5億円の川崎製鉄が建設資金163億円の約半分を政府資金に仰ぐという計画だった。西山のこのような大型投資を意思決定した要因を挙げると、まず外的要因として、国策企業であった日本製鉄の分割・民営化で八幡製鉄・富士製鉄が発足、鉄鋼業界に自由競争をもたらし、企業間競争では、銑鉄をライバル企業から供給を受ける不利な状態で、脅威となることが、川崎製鉄を銑鋼一貫参入の促進要因となった。次いで、内的要因として、川鉄の製造品目は鋼材の品質において、戦後の世界市場に対応していくうえで設備の近代化が最も迫られていたのが鋼板類だった。同社には設備老朽化と拡張不可能という制約条件が存在した。
 従来の製鉄所は原料立地型が主流だったが、原料の大半を輸入に依存する日本の実情を考え、西山は臨海部に立地を求めた。検討の結果、日本一の大市場・首都圏、消費地立地を考慮し、熱心な誘致を考え、千葉市に進出することを決定した。川崎製鉄設立から100日というスピードだった。
 しかし西山は川崎重工業時代、もう一つの関門をくぐり抜けていた。それは昭和23年の8カ月に亙る大争議を解決したことだった。全日本産業別労働組合(共産党系)会議の関西地区の拠点であった川崎重工業葺合工場(神戸)の製鈑分会は、川崎独占資本の打倒を標榜し、その急進的な労働組合運動によって労組優位の状況を生み出していたが、その経営権確立が急務だった。この争議で、西山は急進的労働組合による職場支配を打破して、過激な組合運動から経営権を奪取して職場の秩序を回復し、労使協調路線を確立し、製鉄部門の分離・独立、千葉製鉄所建設遂行の基礎的条件となった。
 川鉄の銑鋼一貫計画を通産省に提出されたことについて、様々な反応があった。川鉄のような新しい企業が、それも世界一流の銑鋼一貫製鉄所をつくることなどは予想されなかった。鉄鋼業界は計画反対が主流で、日本銀行も当初消極的な反応だった。しかし西山は国際競争に太刀打ちできるだけの力をつけなくては鉄の将来はあり得ない、だから思い切って、最新でしかも世界超一流の銑鋼一貫工場を持つべきだという主張を繰り返した。発表された建設計画は15カ月にわたって認可が先送りされ、資金調達計画を数次にわたって修正・変更され、通産省との交渉・協議を経て、昭和27年1月最終計画(273億円)が決定した。昭和28年6月、戦後日本初の千葉第一高炉の火入れ式が行われたが、これまでに完成した設備は高炉から分塊圧延までであり、半製品を千葉から神戸の工場まで長距離輸送して圧延しなければならなかった。ホットまたコールド・ストリップ・ミルの完成は第2期以降の課題だった。この難局に西山は世界銀行に着目、八幡・富士・鋼管の先発3社の反対に会いながら世銀からの調達も成功、その後の外資導入も容易になった。昭和33年3月、第二高炉の火入れ式を行い、4月ホット、6月コールド・ストリップ・ミルが完成、川鉄は日本の代表的な鉄鋼メーカーに成長した。
 戦後鉄鋼業は第2次大戦時、軍事産業としての役割を果たした結果、壊滅的な打撃を受けたが、生産復興を目指して敗戦直後から戦後復興期、大規模な設備投資が果敢に実行され、高度成長期を通して。欧米鉄鋼業へのキャッチアップを実現した。戦後鉄鋼業の発展には、その後の日本経済の基礎産業である鉄鋼業の躍進を固く信じ、自らはその分野の中で何をなすべきかを深く考え、勇敢に実施・実行し、積極的な経営革新と大規模な近代化を主導した企業家活動があった、と「企業家に学ぶ日本経営史」(有斐閣)は解説する。


 以上三つのグループ企業について、戦後の経済活動から高度成長に至る企業行動を見て来た。戦後のGHQ占領政策の混乱を経ながら、雄々しく立ち上がった企業家の活動を見て来たが、その土壌を敷いたのは、やはり政治の力であった。日立の倉田にしても川崎製鉄の西山にしても、世界を見ていた。欧米諸国、特にアメリカの企業実態をよく観察しながら企業活動を展開している。日本国内にとどまらず、欧米市場も視野に入れている。この視野の拡がりは、吉田茂が統制経済の不自由さを感じて国際経済社会との繋がりに舵を切ろうとしたその思いに繋がっているように感じ取れる。統制経済から自由経済・国際経済への転換が、日本の企業家活動を世界に目を向けさせ、日本の高度成長に繋がったと言えるのではないか。