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統制(占領下)経済 から 自由(国際)経済体制 への転換

2021年04月06日 | 歴史を尋ねる

 23年10月、昭和電工汚職問題で芦田内閣は退陣を余儀なくされ、野党第一党の民主自由党が推され、第二次吉田内閣が組閣された。ただ少数与党のため国政の運営が円滑にいかず、翌年1月23日、総選挙が行われた。民主自民党(民自党)は、一般の予想を裏切って、衆議院264名という圧倒的多数を獲得、吉田は時局を安定させ、国家の再建、財政経済の復興の実行に踏み出すには、どうしても強力にして比較的長期の政権が何よりも必要だという想いを痛感していたところであり、民主党連立派の協力も得ることが出来たので、思い描いた政権運営に乗り出した。一方総司令部の方にも色々動きがあり、日本の経済立て直しのためには相当思い切った荒治療もしなければならぬという声明もあって、この衝に当たる大蔵大臣には、総司令部にも自信をもって折衝し得る人で、大蔵省出身の池田勇人を選んだ。

 問題の24年度予算案には党の公約である減税を取り入れ、価格調整費や行政費を削り、公共事業費や失業対策費は増額し、特別会計は独立採算制を貫いて運賃や料金の引上げも止むを得ず、かなり思い切った緊縮財政予算案を準備した。総司令部にも提示して折衝を始め、池田蔵相はドッジ(2月来日、デトロイト銀行頭取がその本職で、日本来訪前には、西独の幣制改革を指導した。後にアイゼンハワー政府の予算局長を務めた)と会い、ドッジの考え方を探った。ドッジの考え方は、今までの総司令部とは相当違ったもので、殊に総司令部内のニュー・ディーラー達のやり方には批判的だった。国内物資に価格差補給金を出していることや、輸入価格を低く抑えて物価を抑制していることを竹馬の足と呼んで、これを切らねばならぬといった。これは吉田内閣の考えも同様だった。ただドッジは取引高税の廃止や所得税の減税という党の公約には反対だった。そのうち総司令部もドッジ氏を中心に予算案の大綱を練り上げ、3月20日頃に提示してきた。その内容は、切る切ると言っていた価格差補給金は政府案よりの大きく、公共事業費が減らされ、税は一切希望が容れられなかった。結局ドッジという人も折れる見通しもなく、党の方も随分不満が多いようだが総司令部の内示案を受け入れることとした。世間では、総司令部に押し付けられ、ドッジに抑え込まれ、自主性のない予算だと批判されたが、まず均衡予算を作成し、自立再建を図る決心であること、しかし税制の改革は早急に断行し、予算実施の途上でも、国民負担の軽減に努力する覚悟を明らかにした。野党からは、予算の自主性喪失と公約不履行を追及され組み替え動議まで出たが、絶対多数で一蹴してしまった。安定政権の強みを発揮した。

 予算の成立につづいて日本経済の直面したのは、4月25日の単一為替レートの設定だった。内閣は経済安定九原則の指令を受けると、単一為替設定について省庁で研究していたが、「単一為替設対策審議会(会長:吉田茂、日銀総裁一万田尚登、経団連会長石川一郎、東京商大学長中山伊知郎、東大教授東畑精一、有沢広巳、慶大講師永田清、富士紡社長堀文平、江商社長駒村資正、産業復興公団総裁長崎栄造を委員とする)」に移して学者や実務家に研究してもらった。その審議会の大体の結論は1ドル350円くらいが望ましいとし、ドッジの予算レートは330円だった。しかし、1ドル360円の決定はワシントン政府によって行われ、4月25日から直ちに実施するよう日本政府に命じた。総司令部はその発表を受けて、①今回の措置は経済安定九原則を実施するための主要な施策である、②円レート設定は日本の官民が渇望していたもので、これが実施されたのは日本が経済安定に向かって進んでいることを反映したもので、経済安定への発展の一つである、③新円為替レートは外国貿易をさらに常態化するための重要な要素で、日本産業の合理化を目的とする現行計画を促進するにも役立つ、と説明を加えた。これから後は、1ドル360円というレートを、日本経済運営の中軸として、このレートで日本の経済を安定させ、このレートで日本の輸出が伸び、このレートで日本の経済が復興するようにしなければならない。辛い産業も出てくるし、血のにじむ努力も払わなければならない、レート設定による輸入原材料の値上がりは、企業努力によって吸収し、物価改定は行わないことを決定した。

 その頃内閣が進める経済安定政策が、色々の面で摩擦を起しつつあった。米国の景気後退や英国のポンド不安といったこともあって輸出が予期したほど出なかった、復興金庫貸出の停止といったことが、金融面で大きく引締めに働いた、均衡予算による政府発注が激減したこともその要因の一つになった、価格差補給金の削減による企業の採算割れもあってか、人員整理が本格的になり出した。企業の合理化が進められ、統制の撤廃が闇ルートで働いていた人々の職を奪い、いわゆるデフレーションのしわ寄せが中小企業に強く影響を与えたため、24年度の下期は社会不安が大きな底流のようになって動き出した。吉田は覚悟していたことであったが、こうした摩擦や不安は新しい時代を生み出す悩みであり、出来るだけ手当はする様皆で考えて貰ったけれど、基本的方針は貫く決心で頑張った、と吉田首相。
 5月にシャウブ博士が来日、全国を回って税制の実情を仔細に調査し8月下旬に勧告が出た。この勧告には、選挙で公約した取引高税の廃止とか所得税の軽減とかが盛られ、早速ドッジ氏や総司令部方面をいち早く牽制する意味を含めて総理大臣声明を出し、これを機会に補正予算と25年度予算案の策定は急速に進んだ。10月30日ドッジが再来日すると池田蔵相との間で精力的に予算案づくりが進み、減税はシャウプ勧告の範囲内、終戦処理費の削減、価格調整費などは半減し、失業対策費や公共事業費は増額となった。25年度の予算審議では、今後の財政政策をどう展開していくのか、ドッジ・ラインを緩和せよ、ディスインフレーション政策を修正せよという声が大きくなった。そこで池田蔵相を米国に送りさらにドッジ氏と話し合うこととした。閉ざされた目と塞がれた耳で世界の動きを模索していては、国際経済への復帰だの経済の復興再建などといっても本当ではない、併せて、講和問題の先方の意向も打診することとした。帰朝した池田蔵相からは今後の行き方には相当明るい見通しがあるとのことだったが、総司令部の方は袖にされたという感じを以て、誤解が誤解を生む結果となり、その調整にも心血を注いだ。いずれにしろ、26年度予算策定方針は、予算総額の削減、官吏給与ベースの改定、一般会計より債務償還は行わない、価格調整補給金は廃止する、財政剰余を以てさらに減税するなどを掲げ、中小企業貸付の増加、国際通貨基金や国際小麦協定の参加などにも触れた。こうして選挙公約したことは盛り込まれ、当初考えていた方向に財政金融政策をもっていくことに成功した。なお、ドッジ・ラインの緩和とか、ディスインフレーション政策の修正とかは、朝鮮動乱の勃発という一大転機を迎え、その様相はすっかり変わった。

 朝鮮戦争は昭和25年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けた。その8月8日、米国務省東北アジア課は日本の自活と題する報告書をまとめた。「朝鮮戦争と西側諸国の軍備増強は日本経済に好影響を与え、今後数年間の繁栄が予想される。①アジアの原料生産国の外貨増大:マレー、インドネシアから錫、ゴムその他の買い付けで年間2,3億ドルの外貨を獲得いている。日本はこの地域に対する輸出で外貨を入手できる。②欧米の輸出力の減少、軍備拡張によって欧米からの輸出力が減り、その分日本が輸出を拡大できる。③朝鮮戦争による利益、在韓米軍の需要のため多額のドルを日本に支払い、すでに買入契約は5千万ドルを超え、会計年度では2~3億ドルに達すると見込まれる。」 8月13日の朝日新聞は「世界の貿易情勢は、明らかに買い手市場から売り手市場に変わった。日本も、まず買ってそれから売る輸入第一主義をとらねばならぬ」と。いわゆる朝鮮戦争特需の中身は何だったのか。日銀の発表によれば、8月の消費者物価指数の上昇ぶりは激しく、前月に比べ絹糸25%、銘仙55%、キャラコ47%と繊維品が大幅に値上がりし、米も7%上がった。当初米軍から調達されたものは、主に土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどに使用される繊維製品であり、他に、前線での陣地構築に必要とされる鋼管、針金、鉄条網などの各種鋼材、コンクリート材料(セメント、骨材(砂利・砂))など、そして各種食料品と車両修理であった。以上の状況を吉田の回想十年は次のように記す。
 在日米軍からの緊急発注が先ず経済に刺激を与え、これに海外物価の上昇が拍車を加え、物価も賃金も上がる、通貨も増えるという、一種のインフレーション的な姿になった。吉田は苦労して安定政策をやって、経済が正常な姿に引き締まろうとしている時、逆戻りするのではないかと心配した。しかし池田蔵相の説明では、終戦後に経験したインフレーションとは根本的に条件が違い、専ら海外需要と物価高に引きずられて起ったものだから、むしろ世界経済全体の動きに順応して、この機会に経済の規模も拡大し、企業の合理化も進めるよう策を考えるべきだ、とのことだった。物価の問題も、360円という為替レートを通じて世界の物価に結び付いているので、この物価の変動を国内に波及させないようするのは出来ない。結局、国内的にインフレーションを誘発しないような措置をとりながら、海外物価に追随していくほかはない、ということだった。そこで、何よりも先ず、輸入の増進を図ることが大きな政策として推進されることとなった。これで経済の均衡をとりながら、生産活動の拡大を裏付け、行き過ぎた物価の上昇を抑えようという訳だった。具体的には、外貨予算を修正して輸入の枠を拡げ、輸入の自動承認制をとり、出来るだけ輸入買付が自由活発に行える体制を整える一方、民間商社の輸入資金の支払猶予措置なども取られた。

 25年10月には、再度シャウブ博士、ドッジ氏が来日した。すでに26年度予算の概算は閣議決定していた。池田蔵相とドッジとの折衝が始まり、結果的にうまく運んだ。減税は織り込めたし、輸出銀行もつくることになった、価格調整費は切って、公共事業費は増やせた、給与改善も出来た、債務償還も無くなった。
 26年の春、世界の景気が漸くひと落着きし始めたころ、休戦会談も開始されることになって、朝鮮ブームと言われた日本の経済も一種の反動が来た。損失を出した商社が銀行からの借入をうまく返済できないことが起り、オーバーローン問題が議論された。財政面では7月以降対日援助打切りに伴う占領軍の米側負担問題が浮上し、日米経済協力の問題が講和問題とも絡んで大きなテーマになって来た。吉田はこのように考えた。日本のような資源の乏しい小さい国で人口が多いところでは、余程の工夫をしなければ経済はやっていけない。大国の恩恵にあずかって暮らすのでは国家としての誇りが許さない。独立国家として、対等の立場で、経済的に手を握っていくなら良い。そのためには通常の貿易なり取引なりの体制を、より密接に結びつけることもいいし、外資を入れて大いに国土を開発し、産業を振興して、経済を繫栄させることもいいことだ。そこで経済協力とか、外資導入ということは全面的に賛成であった。政治的にも、米国と日本が、経済の面で相互に結び付きながら、日本もしっかりした足場をつくるし、アジアの国々とも経済的に交流しつつお互いの繁栄を築き上げていく、そうなれば良いと考えた。うーむ、今の日本では至極当たり前のように国際経済活動がダイナミックに行われているが、この時は当たり前ではなかったのだ。統制経済から為替レートの一元化を図って国際経済と日本経済を結び付けていく、その転換の難しい時期に、偶々朝鮮戦争特需があったのが歴史の辿った途だった。吉田内閣が着手した日本経済の転換策はもっともっとひも解かれていい筈だ。韓国経済の復興も、中国の経済政策も、元は吉田の経済復興策を随分研究したのではないか。朝鮮特需を大きく見過ぎると、経済復興の本質が見失われる。


日本の戦後経済史

2021年03月29日 | 歴史を尋ねる

 戦後の日本経済の飛躍的発展は、その後の失われた20年を経験し、且つ中国の台頭もあり、その用語が大分陳腐化された趣きがあるが、でもその発展経緯は是非とも押さえておきたい。戦後の混乱からその萌芽をつまみ出そうと考えているのが吉田政権の経済運営であるが、どうもこの辺についてうまく解説してくれる著書も少ないので、前もって整理して置きたい。その上で吉田政権がどんな役割を果たしたのか、位置づけたい。

 「終戦後史1945-1955」の著者井上寿一氏は中公文庫版吉田茂著「回想十年」の解説者でもある。その著書で「自由経済の展開」項建てして、片山・芦田内閣の統制経済から第二次吉田内閣の自由経済への転換を解説している。しかし、当事者の言葉は正当化されているので割り引いて考えなくてはならないとの配慮からか、第三者(反吉田の元経済安定本部の稲葉秀三)の言葉引いて、経済再建構想を解説する。そうすると、吉田がなぜ自由経済をめざしたかコアな部分が捨象され、吉田は自由経済主義者だったからだという中身のない解説になる。従って井上氏の解説をとらないこととする。
 「戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点」の著書高橋洋一氏は小泉政権時代、経済財政諮問会議特命室、首相官邸参事官を歴任、経済財政の現場を歩いた人である。経済の歩みを正しく知らねば、未来は見通せないと主張し、戦後の奇跡の成長を振り返っている。高橋氏の主張を単純化すれば、高度経済成長は1ドル=360円の楽勝レートが成長の最大の要因、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需、という柱に要約される。結果的な現象面はそうとも言えるが、極めて大括りな結果分析ではないか。もう少し、起承転結があってもいい。それが歴史の重みであり積み上げだと思う。ただ「奇跡の成長の出発点に見るウソの数々」という項建てで戦後経済の常識を正しているので、これは参考にしたい。1、どうして日本は敗戦直後の廃墟から立ち上がれたのか:(戦後経済の常識)GHQが農地改革、財閥解体と集中排除、労働民主化などの経済民主化を行ったことが成長の基盤、悪性インフレの最大の要因である生産の絶対的不足に手を打つために傾斜生産方式が取られたのも効果的であった。けれど復金債の発行などがインフレ体質を強め、政府の補助金や海外からの援助に頼り切った脆弱な経済体質になってしまった。トルーマン大統領の求めに応じて、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが来日、ドッジの提言に基づき超緊縮予算、復金債の停止、自由競争の促進などの経済安定策が推進され、インフレは収まったものの安定恐慌の様相を呈したが、朝鮮戦争の特需で日本経済は息を吹き返す。 2,教科書にも出てくる傾斜生産方式はまるで効果がなかった:1947年の後半、生産が回復したのはアメリカからの重油の緊急輸入と1948年のエロア資金による原材料輸入によって生産が拡大した。傾斜生産方式はアメリカからの援助引出しに効果があった。 3、戦災に遭っても日本の工場はかなり生き残っていた:米軍は軍需工場の所在地を調べ上げて徹底的に破壊した。転用された民生用工場の中には、爆撃を免れたケースも沢山あった。政府の対米交渉で物資の輸入に成功したので、日本の産業全体が発展した。 4、復金債のお金のばらまきは悪性インフレの主因ではない:戦後の復興に必要だったのは原材料の輸入と資金の供給。政府は復興金融金庫をつくって復金債を発行、日銀引き受けで大量の資金が市場に投入され企業はドンドン設備投資した。日本には金融政策で広くお金をばらまくことは悪いことだと考える人が沢山いた。戦後の悪性インフレと呼ばれるインフレーションが起った最大の要因は、金余りではなく供給不足だった。 5、政策金融が呼び水となるカウベル効果が起った実例はない:復興金融金庫は1952年日本開発銀行に吸収され、その後は日本政策投資会社へと変わったが、民間金融機関の方が目利き能力があった。安い金利は民間圧迫ともなる。日本輸出入銀行は一定の役割を果たした。しかし民間金融機関の海外支店が充実して来るにつれ、その役割は減って来た。  6,政府の成長戦略に期待するのも、間違った認識から:政府の産業政策が間違いなく効くのは、産業のゆりかご期から幼少期。日本は戦前からすでに産業のインフラが整っており、かなり高度な産業が発展していた。戦後の日本企業は一部の許認可企業を除いて、通産省の指導など全く関係なく成長を遂げた。 7、戦後の「封鎖預金+財産税」は財政再建には意味がなかった:当時の預金封鎖は猛烈なインフレ対策として強制的に貨幣の流通速度を下げるためと言われた。しかし本当の目的は債務償還のために裕福層に財産税を課すことだった。だが、この間の猛烈なインフレによって、財産税の徴収よりインフレによる増収の方が大きかった。実質的な資産の目減りを経済学ではインフレ税と言い、インフレは政府債務の実質的な削減となる。戦後のインフレの原因は、生産設備や原材料の不足による供給不足だから、それを増やす政策を打てばインフレ率は収まる。 8,GHQの改革がなくとも、日本は戦前から資本主義大国であった:戦後の日本経済はアメリカの占領政策によって資本主義が根付いて、経済が生まれ変わったかのように誤解している人がいる。むしろ、資本主義の土壌があったうえに、アメリカの占領政策が加わって、戦後の経済発展の基盤が整ったと見るべき。当時は経済的規制はほとんどなく、日本は貧富の格差が非常に大きい国だった。ところが戦争が近づき戦時体制に移行し、経済は統制経済に変わった。民間企業は戦争中だったので我慢した。統制経済の日本をGHQが民主化したというのは、余りに近視眼的な見方、敗戦によって統制経済から元の資本主義経済にもどされた、と見るのが素直な見方である。  9、資本主義が前提の日本では、労働三法でバランスがとれた:戦後のGHQの民主化政策の中で、労働三法(労働基準法、労働関係調整法、労働組合法)が制定され、労働基準権が確立され、労働組合を結成できるようになった。労働者の権利意識が高まって労働争議がたくさん起こり、社会主義に転換するかもしれない、きわどい状況も生じた。しかし労働者の基本的な権利を守らないと民主主義にはならない。資本主義体制を前提とした労働の民主化は、社会のバランスをとる上で必要なもの、経済成長するに従って、多くの企業では労使協調路線となり、運命共同体となった。 10、財閥解体も集中排除も完全に骨抜きにした民間の知恵:GHQは財閥が軍国主義の温床であったとして、三井、三菱、住友、安田などを対象に財閥解体命令を出した。独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定し、市場競争を促進する政策を導入した。しかし日本はそこをうまく切り抜けた。完全にバラバラに解体したわけではなく、緩やかなグループとして温存させた。 11、農地改革は購買力を増やしたのではなく、共産化を防いだ:農民層の窮乏が日本の対外侵略の重要な動機になったとGHQは考えて改革を求めた。日本で農地改革を進めたのは、第一次吉田内閣で農林相を努め、片山政権で経済安定本部総務長官だった和田博雄だった。戦前和田は治安維持法違反容疑で逮捕された。そんな和田たちが推進した農地改革によって・地主層が大幅に増えた。農民たちは格安の値段で土地を買って地主になり、経済的にも余裕が生まれた。和田自身は日本が社会主義化することを望んでいたかもしれないが、結果として自作農を増やし社会主義化を防ぐ一因になると共に、自民党の根強い支持層になっていった。 12、ドッジ・ラインの金融引き締めが深刻な不況を招いた:終戦直後は生産能力が極めて限定されるから、そこに資金を大量に投入すれば一時的にインフレに陥る。昭和23年の日本経済はアメリカからの物資輸入で生産管理が整いつつあった。生産設備が回復すれば、供給が増えてインフレは沈静化する。しかし、GHQと日本政府はそれを待ちきれず、金融引き締めに走った。これによってインフレは収まったが、一転して深刻なデフレが起った。その結果、多くの中小企業が倒産し、失業者が溢れた。インフレ要因を見誤ってマネー要因と考えてしまうと、投資資金まで市場から回収してしまう。日本は深刻な不況に陥った。 13、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需:ドッジ・ラインをきっかけにした大不況で社会主義化しかねないところ、朝鮮戦争勃発で経済的には特需が起って好景気になり、政治的にはGHQによるレッド・パージが始まって、共産主義者が追放された。GHQが展開した経済安定9原則による緊縮財政や金融引き締めは深刻な経済復興につながらなかった。日本経済を復興させたのは、政府の統制や指導ではなく、朝鮮特需という外的要因だった。

 高橋洋一氏の著書からの引用が長くなったが、戦後経済史の常識を覆す見方を提示している。これは近年の経済運営から得た知見に依るものと思われる。たしかに金融引締めによるインフレからデフレに陥った景気を転換させたのは直接的には朝鮮特需であるが、もう少し内在的なものがあったのではないか、吉田第三次政権は経済自由化に舵を切った、国際経済とのつながりを考えて単一為替レートを模索していた。この辺を、吉田茂著「回想10年」でさらに追いかけていきたい。
 その前に、もう一冊1950年に発行された高橋亀吉の著書「戦後日本経済躍進の根本要因」を調べておきたい。高橋は本当に真正面から物事を分析する。「戦後経済の飛躍的発展は、昭和45~46年時に減速に転じ、48年以降の石油異変に直面して日本経済の成長率は5~7%に低下。これが日本経済に対し何を意味し、如何なる問題と対策を必要とするかが緊急課題だが、これに応えるためには、45年当時までの日本経済の飛躍的発展に原因、要因を新事態に対照してのみ、確実に掴むことが出来る」と序文に記す。そのスタンスは高橋洋一の考え方と同一である。しかし著作への動機は最初別にあった。敗戦直後の日本経済は第三流国家への復帰も難しいとされた弱体経済が、わずか四半世紀にして先進西欧諸国を凌駕し自由世界第二位の経済大国にまで急発展した。その基因は何か。この課題に対して問題意識を大きく盛り上げたのが欧米諸国の識者の著作だった。しかし改めてこれらの著作を精読してみると、飛躍的発展の基因は、大部分、彼等の国にない、日本独自の諸要因の重視であった。しかし高橋から見ると、外人の重視している諸点は、実は戦前からすでに日本に存在している歴史的産物である。にもかかわらず、戦後の日本が達成し得たような、世界の経済大国へは、戦前には不可能であった。では、戦後の日本経済に新たに付加された基因は一体何か、その研究が当初の動機であった、と。参考までに昭和42年発表されたロンドン・エコノミスト誌の「日本は登った」の特集記事から要因を記す。①日本は欧米流の自由経済体制ではなく、巧みに操作された計画経済である。②教育が高度に普及していて、労働者の高度の新技術に対する適応能力が高く、終身雇用制、年功加俸制の下に企業一家的に組織化されている。③労働力の、新興重化学工業への動員と移動とに成功している。④日本人は集団的忠誠思想を持っていて、目的達成への協力性が高い。⑤優秀な官僚の下に、官民一体となって、政府は経済の計画的達成を指導する機能を演じている。⑥経営者は利潤追求を二の次にして旺盛な企業意欲の下に果敢な投資をしている。⑦独特な銀行、信用制度の下に、巨大な企業資金が調達されている、と。
 以上はエコノミスト誌を代表させたが、高橋から見ると戦前から長く日本に存在していたが、戦前の日本経済は軽工業段階にとどまり、重化学工業そのものは世界の二流、三流にとどまり、その地位以上に脱出する可能性が殆どなかった。ところが戦後の飛躍的発展は、戦前では発達が制約されていた重化学工業が、俄然、世界の一流中の一流にまで発達し得るに至ったことが、その要因であると亀吉は分析する。戦前の日本に欠けていた重化学工業発達の要因が、戦後新たに登場することが、その基因である、と。日本経済は戦前においてある程度までの重工業の発達を成し遂げていた。しかしそれは軍事的立場からの強度の保護政策下にあって、国際競争力は極めて貧弱であり、重工業の発達は軍事関係以外は、著しく限られていた。昭和10年の工業生産総額中、軽工業は48.9%、化学工業20.7%、重工業は30.6%だった。戦後の飛躍的発展は、戦前の軽工業中心経済の殻を破って、重化学工業段階に大きく進展した為だったが、昭和30年代以前には、コスト高のためその発展は制約されていた。昭和28年度の経済白書ではコスト高の原因として①原材料の割高、②労働生産性の低さ(国際的比較で設備の陳腐化の程度が、今後新たに輸出産業として育成しなければならない機械や金属或いは化学において著しいことが問題である、さらに高金利があると白書)。 こうした不利な点が、昭和30年代に入り急速に改善され、日本経済の発達分野は新たに大きく拡大され、飛躍的発展につながった、と亀吉。①鉄鋼価格が戦前欧米より20%内外高価であったが、昭和30年代後半以降、逆の欧米より低廉となった。このことは鉄鋼を素材とする機械器具、造船、自動車の発達を有利にしている。②重工業がある点以上に発達すると、各産業の用途にそれぞれ最適の鉄鋼資材、機械設備等を簡便に供給できると、経済の発達を加速させた。以上諸々の結果、これまで設備投資を大きく圧迫していた国際収支の赤字は、重工業品の輸入代替化、次いで輸出化によって黒字常態に一転した。さらに付加価値の大きい重化学の発達によって国民所得は著増した。それは資本蓄積を増大し、国民購買力を増加させて、量産型大規模工業の発達を促進させた。これが高橋亀吉が言う飛躍的発展のプロセスである。

 第一次吉田内閣執行中の時期であるが、石橋蔵相が体を張って総司令部と折衝し経済の復興を成し遂げようとしている時、吉田は「財政や金融の技術的な一々の施策のことはともかくとして、何かしら全体としての経済の動きが、私が本来考えているのとは違った方向に向いているように思えてならなかった」と当時を振り返って述懐している。何気ない言葉であるが、これが政治家の勘というものではないか。それが第二次吉田内閣を組閣する時、もう少し具体化してくる。「当時はインフレーションを如何に抑えるか、換言すれば、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建とを如何にして進めていくか、ということが最大の関心事であった。そして経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や、経済統制の励行ということが、ある意味では一応成功した如く見えた。しかし別の立場から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった」 そして吉田は党内外の人を通じて耳に入ってきた中に、「当時はまだ商品によって区々だった為替レートの一本化を目標として、国内物価の調整安定と企業の合理化を図りながら、国際経済への結びつきを考えて行かねばならない」という話に、「この経済を国際的な結びつきで見なければいけないということは、多年海外生活をし国際関係になれて来た故もあってか、私には直感的にわかった」と。吉田はさらに考えを進め、「敗戦で領土は失う、蓄積は尽きる、しかも人口はどんどん増えていくというこの日本の経済が、自分だけの枠の中でいかに苦慮してみても、その効果には限度がある。一刻も早く国際経済の中に復帰しなければならない。国際経済に結びつけば、そこに自ら日本の経済の安定が見出せるだろう。統制だとか、助成だとか、小さな枠の中で色々手を尽して経済を安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々巡りになる。思い切って国際経済の嵐に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか」 このような話を経済学者からも、党の人達とも話し合った、という。

 日本が太平洋戦争で戦っている最中の1944年、米国を中心に戦後世界の国際経済の在り方を検討し、戦争の背景となった保護貿易を解消し、自由貿易を推進する体制としてIMF(国際通貨基金)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)を定め、国際復興開発銀行(世界銀行)を設立した。当然ながら、当時の日本はこうした機関に加盟することも出来なかったし、貿易そのものも総司令部の許可なしにすることが出来なかった。この環境下で、吉田内閣がすでに上記のような構想を以て政治に望んでいたことは、特記すべきである。戦前でも上記の考え方はあってもおかしくなかったが、唯一、東洋経済の石橋湛山らが語っていたぐらいか。ただ上記の国際経済体制が出来ていなかったこともあるが。戦後の一時期、日本は貿易立国にならなくてはならないと声が横溢したその淵源は、やはり吉田内閣のこの考え方がスタートではなかったか。

 


戦後混乱期の財政問題

2021年03月24日 | 歴史を尋ねる

 吉田は言う。図らずも第一次内閣を引受けざるを得なくなったのは、終戦間もない昭和21年5月22日であった。まず手をつけなければならぬことは、東久邇、幣原の戦後内閣に引き続いて、戦争中の後始末をすると同時に、食糧、石炭等の重要必需物資の不足、欠乏に対する対策と、一日も早く財政、経済の安定を図る方針であった。しかも占領軍総司令部の対日管理政策は厳しい時代で、財政、経済方面において、内面指導というか、内政干渉的なことも多かった。財政経済を担当した部門は経済科学局で、局長のマーカット少将はマッカーサー元帥にフィリピン戦以来従ってきた軍人だから、財政経済方面のことは知識も経験も持たない人物だったが、その局員として米本国から送られてきた文官のうち、いわゆるニュー・ディーラーが少なからずいた。本物の社会主義者とまではいわないにしても、一種の統制経済の信奉者であり、人為を以て一国の経済の在り方や動きをどうにでも出来ると考え、彼等が描いた青写真をもとに、平素の持論を日本で実験してみようという野望と熱意に満ちていた。当時の大蔵大臣でさえ週に一回か二回、日を定めて定期的に経済科学局長をはじめ幹部と会見し、指示を受けたり、当方の事情を述べて諒解を得なければならなかった。従って内外に対してしっかりした人物を据えなくてはならない。しっかりした見識を持ち、主義主張を堅持して、頑張りとおす人物、生産の復興が大事であることは勿論だが、インフレーション激化の危険を食い止める人物、そして出来るだけ統制を外すようにしていかねばならぬ。こうして石橋湛山に大蔵大臣を引受けて貰った。この時「この際は生産の復興が第一だ」と石橋は強調していた。

 世間では統制廃止論者でインフレ論者が内閣に入ったと評判が立っていたが、石橋の統制廃止論は、統制の持つ悪い面を出来るだけ切って、素直に生き生きと経済を伸ばしていくべきだという趣旨だった。前内閣時代からの引継ぎの戦時補償打ち切り問題などもやらなくてはならないと考えていた。インフレ問題も世間では第一次大戦後のドイツの場合を例にとって論議していたが、石橋は、まず生産、まず窮乏の打開、それがインフレーション激化を食い止めるもとで、財政や金融は適当にコントロールしていけば、無茶苦茶なことにならないという所説だった。
 当時は新円経済に移ってから漸く三カ月目(昭和21年2月17日、幣原内閣は国民生活安定のための経済緊急対策として、多くに緊急勅令と共に、金融緊急措置令、日本銀行券預入令を発布、実施したが、この措置の要領は、①預貯金の支払を停止してこれを封鎖し、②五円以上の日銀券は3月2日までにすべて金融機関に預入し、それ以後無効とすること、③預入金は個人百円に限り新円と交換し、他は封鎖預金にすること、④封鎖預金の現金引出しは、世帯主三百円、世帯員一人当たり百円に限ること、⑤定期的給与も五百円までは新円払いとするが、それ以上は封鎖支払とする、などを定めた)、戦後の混乱は一向に収拾されず、食糧非常時という言葉が出たくらい、生産は一向に軌道に乗らない、何となく騒然たる時だった。せっかく引締めた日本銀行券も、月が経つにつれどんどん膨らんでいく。何か思い切って戦後の後始末をつけ、新しいレールの上で、新しい経済が滑り出すようにしなければ、新円経済などといっても、元の木阿弥になってしまうというようなことが言われていた。
 組閣して一週間目ぐらいのときに、石橋蔵相が総司令部に呼ばれ、マーカット少将から戦時補償打切りと財産税の案が示されて戻って来た。総司令部の補償打切りの原案は、戦時補償はするけれど、同時に百パーセント課税するという仕組みで、石橋蔵相は反対ではないといった。仮にも政府が保証すると約束した国家の債務を、打ち切るのは出来ないが、それに百パーセントの税金を課することは、実質は打切りも同然で、一応理屈もつく。だが、補償打切りの損害がそのまま銀行に影響を及ぼし、銀行の預金者の預金を切り捨てる結果になるということだった。預金者に迷惑を掛け、銀行を窮地に陥れることとなれば、日本の経済復興は困難になる。それで石橋蔵相の意見では、これを財産税で処理しようというのであった。その他、打ち切りに伴う一般社会の不安を除く意味で、食糧の輸入をやって貰いたい、占領費の負担が無暗に増えるのも何とかして貰いたい、この2点を条件のように付けて回答した。
  補償打切りの問題は石橋蔵相もかなり辛抱強く交渉を重ねたが、遂に7月、総司令部から最後通牒のようなステートメントを突きつけられ、石橋蔵相の考えは容れられかった。ところで戦時補償打切りの問題はいよいよ実行してみると大した支障もなく済んだ。一つは大蔵省が総がかりで研究し対策をとっていたこともあるが、インフレーションの進行で、金額的に経済界の打撃は少なくて済んだ。石橋蔵相は関係法案の提案時、交渉の経過報告をやりながら感極まって涙さえ落としたぐらいの気持ちで取り組んだが、その勢いが災いしたか、後日いわゆるメモランダム・ケースの追放を受けるに至った。

 財産税の考え方は前内閣時代、渋沢大蔵大臣の手元で出来上がっていて、新円切替のときにも財産調査か申告だったかが併せて行われ準備がすすんでいたが、その頃は公債の償還に充てて、戦時中の始末をつけるという話だったが、公債償還などというのは金持ちや資本家を保護することだ、財産から巻き上げた者は社会政策に使うべしという議論もあって、石橋蔵相はこれを一般財源に使うことにした。一般財源に回せば、赤字公債を出したと同じ経済的効果を持つことになり、危険も承知だが、よく注意してやっていけば大した危険や弊害なしに済むという考えだった。
 7月に出した21年度予算案で、歳出の三分の一が終戦処理費(主に米軍駐留経費)で、進駐軍の工事が方々で無統制に行われている、余り勝手気ままな、或いは贅沢な注文は控えてもらう様にしようと、大蔵省や復興院などの関係当局の間にしばしば出た。そして後になって何カ条の申入事項として、正式に司令部に申入れた。総司令部の方も、自粛しようということになり、工事関係の一定金額以上のものは、総司令部の許可を要する扱いになった。石橋蔵相の見込みでは、2割ぐらいの節減になるとの見込みだったが、それでも資金繰りに困って、日銀から立て替え払いをしたこともあった。
 産業の復興には金を出さなければならない、何とかして生産設備を増強しなければならないというのが、当時の考え方の中心だった。そのために石橋蔵相は総司令部と話して、復興金融金庫をつくることにした。預金を封鎖したり、補償打切りをやったりして、企業も銀行も資金の蓄積がなかった。国家が産業に資金を直接供給しなければならない。法律が国会を通過して動き出したのは翌年に入ってからだったが、その前の8月頃から興業銀行に事実上やらせて、石炭や肥料などの資金を出すようにした。

 昭和22年度予算の編成は21年10月ごろから議論されていたが、当時は一日一日がインフレーションの進行だった。米、石炭、賃金、ストライキ、追加予算、ヤミ物価、いろいろな要素が絡み合ってグルグル回り始めた。経済の実力もないし、政府としての権力も弱い、特に労働攻勢の激しかったせいもあったが、何とかして国民が勤勉に、真面目に働き得るような経済の環境を作り出すようにしなければ、共産党の術中にはまって、日本はとんでもない混乱に陥りそうだった。さらに、全体の経済の動きは、吉田が本来考えているのと違った方向に向いているように当時感じた、という。それでも当時精一杯やり得たことは、共産党勢力の指導の下に、必要以上に色々な要求を突き付けては、結局は問題の解決をこじらせて、すぐにストライキだ生産管理だといっては、生産を破壊し、経済を混乱に導くような動きをしていた一部の過激分子に対して、真に国を憂え、國を愛する一般国民の世論の支持を得て、これに対処し、その被害を極力少なくするが出来たことである。(これは二・一ゼネストを乗り越えて、総選挙で共産党を少数党にさせたことを指しているのだろう。だが、総選挙の結果、第一党は社会党に譲り、自民党は10名の差で第2位に落ち、連立政権には入らず吉田自由党は下野した。さらに新憲法下の第一回国会を開く直前に、石橋は公職追放の処分を受けた)

 昭和22年10月、芦田内閣総辞職によって再び吉田は内閣の首班に指名されたが、当時は、いかにしてインフレーションを抑えるか、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建を如何に進めるかが、最大の関心事であった。経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や経済統制の励行というようなことが、成功したかに見えた。しかし別の角度から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった、と吉田は言う。ふーむ、吉田が第一次政権のとき、経済が違った方向に向いていると感じたのはこのことだったのか。先にも触れたが、為替レートを一本化して、国際経済との結びつきを考えて行かねばならない、吉田は直感的に分かった、と述懐している。国際経済に結び付けば、そこに日本経済の安定が見いだせるだろう、統制とか助成だとか、小さい枠で安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々巡りになる。思い切って国際経済の風に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか。当時の慶応大学永田清教授や他の経済学者からも聞いたし、党の人達との話し合った、と。

 第二次吉田内閣については記述済みなので、結論だけを記しておきたい。吉田は第二次内閣組閣早々、政府職員の給与改定問題を引き継いだ。賃上げが5300円か6300円か決断を迫られたとき、最終的にマッカーサー元帥の下で民政局長と経済科学局長を挟んで、6300円に決まったが、賃金についての総司令部の考え方(賃金三原則:賃上げの財源として、赤字融資、公価改定、政府補給金支出のいずれも行うべきでない)が、明らかにされ、企業がややもすると、その自主性と経済性を失っていると感じていたから、良い機会となった。激しいインフレーションの余勢がつづいており、極端にいえば、物価がどこまで上がるか分からない不安な時代に、賃金と物価との悪循環の弊を断ち切る契機となった。続いて12月18日、経済安定九原則が指令された。前書きの文句は、常日頃吉田たちが考えていたところであり、結びの文句「以上の計画(9原則)は単一為替レートの設定を早期に実現させる途を開くためには是非とも実施されねばならぬものである」となっているのも、政府としては同感であった。ただ、9項目の中に統制の強化に関するものがあったのは意外であったとも言っている。9原則について、予算委員会で統制の問題については、米国の考えで、ニュー・ディール式の統制を日本に試みることは再検討の必要があること、今での統制一点張りではなく、過渡的に統制を残すとしても、いずれは撤廃の方向に持っていくものと率直に答弁している。吉田の想いは日本の闇市場が却って弊害をもたらしているという事例、食糧問題調査団が来て日本の統制の実情を目の当たりにして、日本の統制経済の励行が如何に困難か見て帰っている事例も念頭にあった。
 12月に入って閣議で九原則に対する政府としての具体的方針を決めた。それは今まで考えていたことを、その機会にまとめたようなもので、単一レートによる国際経済との結びつき、価格差補助金の削減、財政の均衡確保と赤字緒融資の厳禁、企業や政府事業の独立採算制の堅持、統制の簡素化などであった。それから後に引続く経済安定政策への布石が出来上がり、23年を迎え、総選挙となった。


公職追放とその解除

2021年03月14日 | 歴史を尋ねる

 公職追放、俗にパージと言われたこの制度は、各界の指導層の多くの人々にとり、苦い経験として残っている。昭和21年1月4日、連合国総司令官から、戦争責任者の公職追放に関する指令が発せられた。もともとこれはポツダム宣言中の「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出た過誤を犯さしめた者の権力及び勢力を永久に除去すべき」という条項に基づいた。ついで、幣原内閣は2月28日、「就職禁止、退官、退職等に関する件」及び施行令を公布し、追放が実施された。連合国側の進駐当時の考えでは、日本は極端な軍国主義的国家であり、専制的警察国家であって、自由主義・民主主義の思想を圧迫し、国民を侵略戦争に駆り立てたから、その指導者の影響力を根こそぎ断ってしまって、国民を解放しようとした。この追放制度は、日本民主化政策の一つで、財閥解体とか戦犯処罰などとともに、敗戦国の指導者層に対する懲罰的な意味を持っていた。結果論から言えば、占領当局者にとっては気の引ける、後味の悪い政策であったし、日本人からも、追放、パージということが、制度として大規模に行われたには初めての経験だったし、共産主義国家の場合を除いて、世界の歴史においても、余り例を聞かぬ、と吉田は振り返る。
 従来日本社会の第一線に立っていた者が、みんながみんな、連合国側のいう軍国主義者や極端な国家主義者だったわけではなく、自由主義者、議会主義者も沢山いた。ただ一時、軍閥やそれに追随する軍国主義者たちが、日本の国家なり社会なりに支配的暴威を振るうに任せたけれど、これは必ずしも日本の社会、国家の本態ではなかった。明治以来相当長い期間に亙って、日本の社会制度、国家機構の根本思想は、自由主義的、民権主義的にも、かなり進歩していたことは、歴史に徴しても明らかである、と。当時吉田は総司令部の人とたびたび論じ合ったが、先方にとっては、日本はひどい軍国主義的国家であり、警察国家であって、自由主義、民主主義の思想は、軍閥以外の指導層にも全く失われていたという考え方が、先入観として植え付けられていたので、こちらの言うことなど聞き入れようとはしなかった、と。それどころか、時が経つにつれて、だんだん行き過ぎてしまって、玉も石も混同した制度の結果となった。

 最初の追放されたものを見ると、中央の政界、官界の上層部に限られ、その数も割合少なかった。ところがワシントンの極東委員会のメンバー、特にソ連側に、総司令部のやり方が手ぬるいという不満が強く、苦情が出た。そのせいか、総司令部民政局の追放関係担当者が、しきりに被追放者の人数が少ない、特にドイツに比べて少ないという点を問題にするようになった。しかし日本の場合、ドイツのナチのように、全国的な組織と同志的結合が政治を独裁的に支配していたのとは異なっていたから、ドイツの例を引いて、人数を考えるのは当を得ていない。吉田はそうした道理を、終戦連絡事務局の担当者に主張させ、吉田も先方にぶつかったが、ダメだった。また、日本の財界に対しても、総司令部の側に、当初から強い先入観があった。大資本家が自己の利益追求のために、軍部や政界を帝国主義的侵略戦争に引きずっていったという、左翼張りの公式論に基づく強い疑念と反感があった。最初戦犯容疑者が拘置された際に、相当多数の財界人が指名された。追放令を経済界へ拡大適用するという課題が、はじめから総司令部にあったに違いない。20年10月19日、吉田が外務大臣に就任した直後の記者会見で、日本の財閥が侵略戦争の原動力の一つであるから追放や解体すべきとの記者の質問に、「日本の今日までの経済機構は、三井、三菱その他の旧財閥によって樹立された。日本国民の繁栄は、これら財閥の努力に俟つものがものが多かった。これらの旧財閥を解体することが、果たして国民の利益であるか疑問である。各財閥はいつでも私利私欲からのみで仕事をしたのではない。戦時中などは、自己の損失において傘下の各産業の経営を続けた。政府がこれら財閥の損失を無視して、船や飛行機の製造を命令したからだ。軍閥と提携して巨利を博したのは、むしろ新興財閥である。軍閥は旧財閥が満州などの占領地で活動することを禁じて、新興財閥に特権を与えていた。旧財閥は平和時に、その財産を築き上げたのであって、終戦を最も喜んだのは彼等である」と答えた。当時、余りにも率直に財閥擁護論を述べたので、ソ連をはじめ連合国側でも相当問題視し、第一次吉田内閣を組織した時も、同様な質問を外国新聞記者団から受けたので、今でも正しいと信じていると答えた。吉田らしい対応の仕方である。

 言論界の追放問題については、当時総司令部も戦前、戦中の新聞、雑誌、書籍などの記事の調査に力を入れていたが、日本側のいわゆる進歩的分子、それも共産党と密接な関係のある人々が、言論界方面の指導者層の清掃を総司令部当局に対して強く進言しており、また総司令部民政局の追放担当者の中に、特にこれらの人々と密接な連絡をとっていたのもあって、それらの意見を民政局上層部にかなり強く反映させた。この追放令の分野にとどまらず、日本の民主化という改革実施局面において、共産主義者、その同調者、あるいは急増の左派オポチュニスト達は、進歩的民主主義者という仮面の下に、総司令部民政局に盛んに出入りして働きかけており、他方当時のアメリカ当局が日本の実情なり共産党ないし共産主義運動の実体なりに対して無知であったという事実と相俟って、一種の偏見にも近い既成観念を総司令部当局に植え付けた。
  追放令の拡大が実行されたのは昭和21年9月、総司令部民政局から非公式メモが手交され、総司令部は追放令を財界、言論界および地方レベルに拡大する方針であること、ついては日本政府側で一案を作成して提出せよというのであった。当時の実情は、政界では第一次の追放の実施によって、財界では財閥解体や独占排除などによって、言論界では急進的労働組合の強い圧力によって、すでに相当深刻な不安と混乱とを引き起こしていた。追放令の本旨が、戦争責任者の排除にあるべきということからいって、このような大拡大には、日本政府として承服し兼ねる所以のものについて、強く陳情をしたが、どうしても民政局が承知しない。ついには吉田首相からマッカーサー元帥に対して手紙で訴えたりして、原案が纏まらない日を重ねているうちに、民政局の意図している全貌が明らかにされた。民政局が提示したのは、地方への拡大と経済界への適用であって、言論界については持ち越された。地方レベルでは、支那事変勃発から終戦までの期間の地方行政関係の末端に至るまで、長にあったものを追放しようとするものだった。県知事、市長、町長、村長および町内会長までが含まれていた。県知事は最初の追放令で大半が追放されていたが、単に問題の時期にその職にあったというだけの理由で、戦争責任を追及されるというのは、実情にあたらず、納得が出来ない。戦後における地方民主化という立場から、新しい指導者を選択させるためというなら、追放とは別の措置を講ずべき。戦争責任などと言う追及は、追放の本旨に全く副わないばかりか、国民の多くはこれを怨嗟し、地方の混乱を増すばかりだというのが日本政府側の考えであった。日本側の態度が強いことを意識して、後で町内会長は追放の範囲からひっこめた。

 経済界への追放の拡大を意図する民政局の当初の腹案は、極めて広範囲の適用を考えていたもので、その財界に及ぼすであろう影響は深刻なものであった。財界の戦争責任を強く見た考え方は総司令部に止まらず、ソ連その他の連合国によって支持されていた。さらに深く調べると、総司令部に内において、特別重要な役割を演じたのは、経済関係の専任担当官であったピッソンとハドレーという婦人の二人だった。ピッソン氏は以前日本にいたこともあり、かなり熱心なニュー・ディール思想の持ち主で、相当革新的な考え、むしろ社会主義的な考えの様だった。ハドレー氏も以前日本にいたこともあり、特に日本の財界の研究者として知られていた。そして日本の侵略戦争と財閥の役割について特別の関心をもって、日本の民主化、平和化のためには、財閥を徹底的に解体する必要があるというのが持論だった。この二人の手によって総司令部に側の経済関係追放の腹案が示されたのは21年12月初めだった。対象会社:①資本金一億円以上の会社、 ②生産品が市場の10%以上を支配するもの、 ③軍需工業その他侵略戦争を援ける悪質な経済活動を行った企業、 ④植民地及び占領地の開発に従事した主な企業、 ⑤資本金の如何に拘わらず大きな経済的支配力をもった会社。 以上の基準によって補足された会社の数は240~250社。これらの会社に問題の期間中に在職していた取締役及び監査役は、常勤、非常勤たるとを問わず、一律に追放となる。これでは、日本の経済力の中枢にあった会社は殆ど網羅され、これらの会社で役員だった者は殆ど全部追放に該当するという重大事態に直面した。日本政府としては到底吞むわけにはいかないから、民政局に直接折衝したのは勿論、当時日本の経済再建に大きく目を向ける必要を感じていた経済局をはじめ、緩和を図るためあらゆる努力を傾けた。日本側の努力にも拘らず、結局中枢的な企業は大体網羅され、日本側に主張は殆ど認められなかった。拡張追放令の発布の期限に平取締役だけでも除外して貰いたいと必死の努力を傾け、さすがに民政局側も根負けしたというか、修正要望にマッカーサー元帥の承認を得るのに成功した。

 言論界の追放にはいろいろ複雑な背景が絡んでいた。日本を戦争に駆り立てた世論形成について役割を演じたものは、個人であろうと、言論機関の役員であろうと、その責任を追及するというのが総司令部側の既定方針であった。しかしその基準をどの程度までもっていくか最初は決まっていなかった。その後極めて念入りな、広汎な総司令部側の腹案が出たのは、三つの要素が作用した。第一は言論機関を乗っ取ろうとする左翼人の総司令部当局に対する執拗な働きかけ、第二は総司令部内における、これと呼応した人々の存在、第三はこの基準を利用して、特定の人物を追放しようとする民政側の意図であった、と吉田は分析する。民政局側が日本政府に命じたことは、支那事変の勃発から開戦に至る期間における一切の新聞、雑誌、映画、定期刊行物、放送原稿などを入念に調査し、その期間に会社、団体等で軍国主義、極端なる国家主義、侵略戦争を唱道し、支持したものが何件あるかを調査して提出せよという要求だった。この間に於いて先ず特別調査を命じられたのは、当時大蔵大臣だった石橋湛山が主宰した東洋経済新報とダイヤモンドだった。東洋経済新報などは当時の情勢としてもよくこれだけの反対の論文が掲載できたと思われるものが多々あり、委員会も東洋経済新報は該当しないと結論を出したが、民政局が承知しない。これは石橋蔵相を追放しようと狙っていたから新報そのものが追放に該当するような基準を示してきた。一度でも追放に該当する記事が掲載されればいけないとの基準を示し、殆ど全部の新聞、雑誌が該当することになった。該当する企業、団体の部長級迄追放の基準が示され、これでは壊滅的となるため幾度も折衝が続けられ、部長級は免除され、さらに範囲の縮小にも成功した。
 こうして総司令部の指令に端を発して、勅令が制定され、審査が実施されて、昭和23年5月をもって、約20万人の追放が決定され、終始符が打たれた。

 公職追放にはその後があることはあまり知られていない。追放解除の話である。総司令部の追放が進行中も解除の制度がなかったわけではなく、22年3月(第一次吉田内閣時代)、公職資格訴願審査委員会が設置され、追放を受けた者で、その決定に誤りがあると考え、且つこの証拠を挙げることが出来れば、この委員会に訴願し再審査してもらえた。このとき千余件の訴願を受け百五十件ほど解除された。第二次吉田内閣成立直後第二次の訴願委員会設置を元帥から許してもらった。しかし事務当局は厳しく望んだが、再度吉田はマッカーサー元帥へ直接書簡を送って訴えたところ、特免申請三万二千余件のうち一万余名に上る多数の解除者が決定された。続いて26年6月公職資格審査会が設けられ、11月に廃止されるまで、17万7千余名の追放指定の取消しを行ったし、その後公職資格訴願審査会が出来て、9千余名が追放解除された。そして昭和27年4月28日、サンフランシスコ平和会議が発効し、これに伴って公職追放関係の法令すべてが廃止され、これで追放に関する問題の一切が結末を告げた。

 


労働保護立法とその功罪

2021年03月08日 | 歴史を尋ねる

 労働保護の立法及びその実施は、財閥解体、公職追放、農地制度改革などと並んで、占領期の画期的な改革の一つだった。連合国は当初から、労働者の解放を以って、農民の解放と共に、日本の民主化の最も重要な目標としていた。しかしその後の実績に徴して、占領改革の行き過ぎはその労働政策において最も甚だしく、十年余の歳月を経た今日でもその禍根を取り除かれたとは言い難い、吉田茂はその著書「回想十年」でいう。「もういちど読む 山川 日本戦後史」の著者老川慶喜氏は、その改革の経緯と組合活動の活発化には触れるが、その後の経緯については触れず、行き過ぎと言われるものに対しての評価は避けている。
 終戦直後の労働情勢を吉田は次のような認識だった。飢餓とインフレーションによる労働者階級の生活苦、新たに解放された共産勢力の策動、これに対する占領当局の介入などが交錯して、事態を一段と混乱させ、かつ困難なものにした。しかしその間に生じた各般の悪弊は、その後、法制上や労働慣行において、いろいろ改善努力が払われたにも拘らず、根強い生命力を持ち、これを全く排除するには、極めて困難な性質のものとなった。今から顧みても、当時の社会情勢は正に革命的な様相を呈していた。終戦の年の10月、早くも読売新聞社に経営の民主化を名目に初めて生産管理戦術が取られ、新聞は共産主義者に指導される争議団に占領され、翌年2月には北海道美唄炭鉱において、連続数十時間に亙り、管理者に対する人民裁判めいた詰問が行われるなど、ストライキは勿論、座り込み、デモ、暴行、脅迫、監禁等の不法行為は、日常茶飯事の如き感があった。吉田第一次内閣などは、全く赤旗の包囲の裡で組織された。左翼勢力は21年1月に開催された「野坂参三帰国歓迎国民大会」を契機として、いわゆる人民戦線統一の気運が高まり、2月には共産党細胞の主導権の下に全国産業別労働組合会議(産別)の準備会、22年8月の結成大会により、参加組合員数160万人を以って正式に発足し、その後の労働運動を引きずりまわした。これに対し戦前の労働運動指導者を中心とする日本労働組合総同盟も相前後して発足したが、組合員85万人で、産別に対してその勢力は劣弱であった。他方経営者側の対抗態勢は、旧来の指導者の相続く追放などの事情もあり、著しい立ち遅れを示し、労働問題を専管する経営者団体である日本経営者団体連盟(日経連)の発足したのは、漸く昭和23年4月であった。
 戦後の労働情勢の中で、早くも21年5月、ちょうど吉田が第一次組閣の苦心をしている最中、総司令官マッカーサー元帥は「一部の規律なき分子による集団的暴力と脅迫を禁止する」警告(共産党の集団暴力について国民に警告し、もし一部分子の自制が不可能であるならば、総司令部としては、必要な対策を余儀なくされる。日本の健全な世論が、総司令部の介入を不必要とすることを切望する)を発し、直後に成立した第一次吉田内閣が6月、食糧危機突破声明と共に、「社会秩序保持に関する声明」(当時争議手段としてしばしば採られた生産管理という特殊な形態に対して、政府の見解と態度を明確化した。国民経済再建の必要上、やむを得ない場合には、適宜の措置をとる。そのためには経営者側及び労働者側の代表者で構成する経営協議会などを各企業に設け、争議を必要としないような措置を整えておくことが望ましい)を発した。

 戦後の労働政策の出発点は、20年10月11日「改革要請に関する日本政府への指示」というマッカーサー元帥から幣原首相に対して発せられたものだった。その中で、「労働者の搾取と酷使から防衛し、かつその生活水準を向上させるために、有効なる発言が出来るような権威を持つ労働組合を促進助長すべきこと」を指示された。吉田の考えでは、労働立法などは、終戦直後の前途に見通しも殆ど困難な混乱期になされるべきではないとの考えだったが、占領軍という絶対的権力によって、しかも占領初期の強硬方針によって、労働三法が相次いで制定された。幣原内閣は、官庁、学識経験者、事業主、労働者、貴衆両院各代表よりなる労働法制審議会を設け、答申を基礎として法案を決定、国会審議を経て、3月21日労働組合法は22年3月1にから施行された。当時、労働組合運動が現実にどう進展していくのか殆ど見通しがつかず、論議は戦前における組合運動の体験を前提とする資料が中心となり、かつ占領軍当局の意向を斟酌しながら立案した。基本的態度は、労働組合は当然に健全かつ民主的なものと想定し、その殆どの条項で、政府および使用者側の干渉弾圧の排除に重きを置いた。答申原案には、組合運動につき刑法の適用を全面的に排除するような規定さえ掲げられた。政府はこれを改めようとしたが、正当の業務によってなしたる行為はこれを罰せずという適用が曖昧だったため、その後における過激な労働運動の圧力が、この正当限界を著しく歪めた。従ってこの法律は昭和24年の第三次吉田内閣の手で全面改正となって、暴力否定の意味をさらに一層明確化した。

 労働関係調整法は21年7月、第一次吉田内閣により提案され、10月13日施行の運びとなった。本案も労働法制審議会の答申に基づいて立案されたが、総司令部は終始その背後にあって介入監督を加えた。最後は英文と日本文の間に齟齬がないかまで、関与した。その結果、政府案は答申案をそのまま鵜呑みにせざるを得ず、学校教員の争議権の制限についても、遂に認められるところとならなかった。従って本原案は当初労務法制審議会の委員であった松岡総同盟会長も賛成であったが、共産党の支配する産別会議派労働組合が反対運動を展開するや、総同盟もこれに巻き込まれ、会長は審議会の席上、公人として反対せざるを得ない立場について釈明をした。このことは当時の労働運動界が、一部良識を有する者をも共産勢力の影響下に圧服させたことを意味する、と。
 労働基準法も第一次吉田内閣の手によって、審議会に諮問の上、22年3月に国会に上程され、9月1日から施行された。同法は第一条で「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と規定し、家事使用人および家内労働者を除く一切の企業及び職業に一般に適用されることとなり、原則的に八時間労働、男女同一賃金を規定した点など、従来の工場法などに比べて、格段の進歩を含んだものであった。当時経営者団体からは、国家再建との関連において、労働能率を無視した労働条件の国際水準までの引上げは、企業を破壊するものであるから、経過規定を設けて、企業への影響を緩和せよという要求があった。敗戦後のわが国にとって、かなり無理なものと政府側も感じていたが、総司令部よりの介入監督があったのは事実だった。

 総司令部の民政局には、理想的な労働法規が出来上がったという自信と、結果的には極左勢力にとかく寛大で、むしろ同情的であった労働組合政治活動容認の態度は、マッカーサー元帥の二・一ゼネスト禁止を契機に早くも転換し出した。二・一ゼネスト直後、総司令部のコーエン労働課長やコンスタンチノー労働関係班長らが転勤を命ぜられたのも、明らかに総司令部の労働政策の転換を意味するものだった。しかし国内労働運動の現実の方向は、少しも総司令部の希望や意図とは一致しなかった。二・一ゼネストの後、総選挙の結果吉田は退陣し、社会党の片山内閣に引き継いだが、新給与基準の話合いは円滑にいかなかった。社会党政権になったら労働争議は沈静化するだろうと吉田は考えていたが、共産主義者にとって、社会党も保守政党もいずれも敵の陣営に属する、労働組合が共産党によって指導される限り、社会党政権であろとも、苛烈な労働争議は一向に静かにならない、と吉田は感じた。事実、片山、芦田両内閣を通じて、殆ど十二カ月に亙る過激にして執拗な争議行為が、特に官公庁関係組合によって繰り返された。総司令部もたまりかねて、突如、マッカーサー最高司令官から、国家公務員法を全面的に改正して公務員の争議を規制するよう、芦田首相宛てに勧告がなされた。芦田内閣から引き継がれた吉田第二次内閣は、国家公務員法の改正と公共企業体労働関係法を国会に提案、会期末一杯に成立させた。組合側からすれば、一度与えられた争議権を後になって奪われたので、納得し難いのも事実だが、不法ストのくり返しは、法律を正面から無視する行為・態度は許しがたい、と吉田は言う。組合法は、成立過程で、原則として、労働者の自覚と良識に信頼して、組合の健全な発展を期待したものだったが、その後の実態を見ると、こうした前提を覆すばかりか、一部に逆の事実さえ窺われた。労働組合が日本経済の再建、日本民主化の促進に好ましいものと成長するには、その前提として、組合が民主主義の線に沿って運営されねばならない。だが現実は、労働組合が、しばしば外部からの潜入分子によって支配されている。義務の方は忘れられて、権利のみが主張される。社会全体のことが疎かにされ、集団的利己主義が幅をきかす。こうしたことが労働組合の名をもって行われる。労働組合自身の正常な発展のためにも、組合が外部の勢力に利用されることなく、組合員自身の判断によって自主的に運用される必要がある。しかし当時の組合の実情は、一部少数の独裁または攪乱に委ねられ、組合員の民主的意向は蹂躙され、独裁主義、英雄主義がこれを支配し、経済の再建を妨害し、さらに経済を破滅に向かわせるものさえあって、日本の民主化促進に逆行し、これを破壊せんとする如き労働争議が発生する有様だった。二・一ゼネストに対するマッカーサー元帥の禁止命令、及び国家公務員の争議禁止に関するマッカーサー書簡などは、こうした事情に対処して発せられた。その後も、一部の労働者の自覚反省にも拘らず、なお不健全な者は執拗に活動を続け、その勢力は一段と暴威を加えた。日本の労働組合運動は、余りに正道を外れていた、と吉田は言う。先に触れたように、西ドイツは復興過程で日本のようなストライキは発生しなかった、東ドイツからの多数の難民が共産主義下の実情を伝え、西独国民は嫌というほど聞かされていたからだ、と西独側から説明があった。こうした事実からも、正道を外れていた、と吉田は言うのだろう。

 吉田はかねてから、占領下において発せられた諸法令を日本政府が自主的に再検討すべきことを総司令部側に要請していた。昭和26年5月、新憲法四周年記念日を迎えるにあたって、連合国最高指揮官リッジウェー大将は声明を発表し、占領管理の緩和の方針を明らかにすると共に、日本政府に対し諸法令の再検討、是正の権限を付与する旨を述べた。日本独立後の事態に即応するという新たな観点から、政府は政令諮問委員会を設け、中央労働委員会会長中山伊知郎を含む各界の学識経験者7名に、これまでの占領下の諸法規の検討を託した。7月委員会は「労働関係法令の改廃に関する意見」を答申した。その内容は、労働関係法令は経済民主化の根幹であるから、その基本原則は今後も確保強化すべきものであるが、過去5年間の経験から見て、日本経済の実情に適しない点は、国際水準を下がらない限り、率直に修正を考えるべきであるとの根本方針の下に、ゼネラル・ストライキに対する措置等につき改正意見が述べられた。政府は更に慎重を期して労使公益三者よりなる労働関係法令審議委員会を設けて審議を求めたが、中心課題について結論が得られなかった。そこで政府は自己責任で立法措置を講ずることにした。これが緊急調整制度だった。この制度は、争議のために国民経済や国民生活に重大な障害をもたらすと思われる場合、総理大臣の権限としてこれを中止を求め、労働委員会に争議の解決を任すことができるというものだった。昭和27年5月、破壊活動防止法案と併行して、労働関係調整法への追加改正案が国会に提案されたが、労働組合及び社会党方面からの猛烈な反対にも拘らず、政府は終始強硬な態度でこれを押し切り、7月末に成立を見た。その年の晩秋に起こった炭鉱争議の最終段階で、組合側が坑内排水作業の放棄、つまり水浸しの危険をもって経営者を脅かす戦術に出た時、この緊急調整権の発動となった。そして、二カ月余に亙る大争議はそれを契機に解決した。こうした事件を動機に、今度は争議行為規制に関する特別立法が行われた。

 この炭鉱争議と前後して、電気事業関係組合の執拗な停電争議を見るに及んで、こうした状態を放置しておくことは、経済復興のためのみならず、国民生活のためにも重大なる損害を与えるとして、断固として規制措置を講ずることを決意した。この政府方針を当時の労働大臣には事前に相談したが、当時の労働組合の事情を知っている事務当局に意見を聞かなかった。聴けば実行を渋ることは察知出来たから。しかし、一度政府の決意が表明された以上、事務当局も張り切って具体的法案の立案に全力を尽くした。国会には「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律案」の名の下に、スト規制法案が提出された。一回目は審議未了となったが、総選挙後の第5次吉田内閣で、新労働大臣小坂善太郎の所掌の下に特別国会に提案、乱闘一歩手前の事態まで起り、両院の労働委員長を左派社会党の議員によって占められていたため、執拗な引延し策を喫して難航、参議院では審議未了のまま、本会議に引取り、改進党と緑風会の協力でこれを可決し、漸くその成立をみた。その間の政府当局の苦心と努力は並大抵のものではなかった。
 また労働基準法が日本の産業労働界の実情、特に中小企業の実情に沿わない点の多いことは多くの人が首肯するところだった。これこそ日本の特殊事情を知らず、無視して、単なる理想にのみ走った総司令部内のニュー・ディーラー達の行き過ぎの典型的なものであった。当時数十万の適用事業所のうち、92%は従業員百人未満の事業所である。また従業員十人未満の零細事業所が70数%に及んでいるのに、基準法に依る違反件数は、昭和24年、百二十数万件に及んだ。この違反摘発によって、是正が行われたかというと、そのようには見受けられない。問題は中小企業の経済的実態そのものであって、摘発は徒に関係者いじめに堕するのみで、労働者保護上さしたる効果は期待し得なかった。しかし改正については国際的事情も考慮して、慎重なる態度を必要とした。ソーシャル・ダンピングという非難を受けないように注意する必要がある。昭和25年9月、吉田は運用につき改善を加えるよう指示を与えた。当時開催された基準局長会議で、保利茂労働大臣は、「労働基準監督行政の要諦は、単なる警察的な監督でなく、高度の指導性を持つことにある。その衝にあたる監督官は千差万別の事情を持つ各現場の現実を理解し、具体的妥当性のある臨床的措置を講じて、できる限り関係者が得心して法を守り、進んで労働条件の改善に努めるようにすることが必要である」という趣旨の訓示を与え、行政運営の一大転換を断行した。

 一般に、戦後の労働三法の成立までは一般に知られているが、その後の実績に照らした運用の改革は殆ど知られていない。吉田政権が保守反動とのレッテルを付けられていることの経緯は、こんな苦心の後だったのだろう。この経過からの吉田の所感も重要だと思われるので、ここに記しておきたい。
 第一に挙げたいのは、敗戦後の最も艱難なる時期に、共産党及びその同調者の策動が如何に甚だしく、わが国の再建復興に、どれほど妨害となったかという問題だ。彼等に言わしめれば、資本家的復興を阻止したというのだろうが、敗戦後、食うに糧なく、着るに衣なき時代においては、如何なる立場から見ても、国民一致の下に生産復興を第一義とすべきであった。もちろん勤労者の多くは何ら罪はない。もし罪ありとすれば、一部過激分子の跳梁を自ら抑え得なかった点であろう。当時の事態について、二・一ゼネスト禁止の指令と共にマッカーサー総司令官の声明書が詳細かつ雄弁に伝えている。「思うにゼネストに参加しようとする者は、恐らく日本国民の極く少数だろう。つい先ほど日本を戦争に導いたのも少数だった。それと同様の災禍の中へ、今やその少数者によって、大多数の国民が投げこまれようとしている。この際われわれは日本国民をその運命の中に打ち捨てておくか、われわれの乏しい資源を犠牲にしても、食糧その他の生活必需品をどこまでも日本に送るべきかという、誠に不幸な決定をなすべき破目に追い込まれている」と。
 また、共産勢力の策動は、国家再建、経済復興を妨害したと共に、わが国の労働組合運動の正常、堅実なる発達をも歪曲、阻害した点も見逃し得ない。当初は労働組合の保護育成に主眼が置かれて、二・一ゼネストゼネスト禁止以降次第にこれを抑制する方向に転換した。それにはニュー・ディーラー達の行き過ぎの是正とか、日本の産業、特に中小企業の実情への適応とかいうこともあったが、労働組合運動が始めから総司令部の保護育成策に順応して、健全着実な発達の途を辿ることを選んだとするなら、総司令部の弾圧的抑制もなかっただろうし、労働関係法規の改正も、特に行う必要はなかった。少なくとも改正の度合いが余程違った。その点で占領初期の総司令部の甘やかし労働政策の弊を非難したくなるが、その陰に、これに乗じて策動した共産分子と、図に乗り過ぎた軽薄短慮なる労働指導者が妄動を欲しいままにして、労働組合の本来正常なる在り方を逸脱させた罪は、忘れてはならない。

 当時の為政者として、率直にその所感を述べている。なかでも、少数過激なる指導者を、戦前の軍部における少数過激なる軍閥に準えていることが、注意を引く。マッカーサーも同様な趣旨を語っている。


農地制度改革、改革の先駆と第二次農地制度改革

2021年03月01日 | 歴史を尋ねる

 終戦後における農地制度の改革は、連合国の占領政策としても、また国内問題としても、最も重要なものであった。連合国側の認識は、日本の封建的な土地制度は、日本の経済を歪め、軍国主義の強固な基盤をなしている。地主階級に対しては、軍閥、官僚、財閥と共に、日本民主化の阻害要因と見て、消滅させるべきものと考えていた。また低賃金労働と日本軍の徴兵の供給源である大多数の農民は、奴隷的状態にあると見做し、これを解放して生活を向上させることは、占領当初からの、いや日本進駐前からの、重要目標の一つであった。一方、日本側も国内問題として、遠く大正時代より、自作農創設維持などをテーマに農地問題が採り上げられ、その必要は多くの識者から説かれ、歴代の内閣も、関心を持ってきた。しかも戦時中は食糧確保のために取られた統制措置から、自ずと自作農民尊重の空気が生まれ、寄生的な農地保有といったものは、甚だしく制約をこうむっていた。終戦当時の日本の地主小作の関係は、すでに外国人が想像するものとはかけ離れていた。終戦後においても、食糧確保の必要は必須で、従って農地制度は時代の要請に応じて、改革されるべき運命にあった、と吉田は考えた。実行に移された農地改革は、第一次吉田内閣のとき、総司令部の強い推進の下に立法化されたが、それより前、吉田が外務大臣のとき先駆的計画が、農林大臣松村謙三の下で、自発的に立案されていた。立案の衝に当ったのは、当時の農政局長、第一次吉田内閣に農林大臣として入閣した和田博雄だった。その内容は、従来の物納を金納制に改めるとともに、地主の保有限度を三町歩に抑え、それ以上は小作人に対して強制的に譲渡させるもので、当時としては画期的な改革案であった。閣議で説明されて、吉田は初めて承知した、と正直に述懐している。農地の強制解放は重大だったが、審議の末、原案の三町歩を五町歩に引き揚げる修正で閣議はまとまり、11月23日の新聞に、一斉に発表された。

 農地制度改革に対する当時の総司令部及び対日理事会の態度は、この問題を重大視はしていたが、どの国の歴史を見ても、土地に関する改革は流血騒ぎを伴うほどの深刻な問題で、慎重に構え、迂闊には手を出さぬ風にみえたと吉田は言う。そうしたところ松村構想による第一次農地改革案が現れ、総司令部に対して、具体的構想を示唆すると同時に、当時の世論の反響を通じて、相当に強力な案であることを知らしめた。法案は12月6日衆議院に上程されたが、審議はなかなか進まず、難航した。そうしたところへ、農地改革に関する指令が総司令部から出され、その内容は、審議中の法案と比べてかけ離れたものではなかったが、日本農民の劣悪な生活条件を細かに指摘し、改革を求めたもので、「農民解放指令」というべき厳しい調子のものであった。この指令が出たことによって、議会の空気が一変し、法案は僅少の修正で両院を通過した。この法律は21年2月から発効したが、農地の強制譲渡はこれを不徹底とする総司令部の意向で実施に移されることなく、第二次改革に席を譲り、もう一つの小作料の金納制の方は、実現された。
 指令を発した総司令部は、3月15日の政府の回答期限を目前に、農地改革問題担当者が記者会見を行い、第一次農地改革案に対して、地主の保有限度五町歩は多すぎる、その程度では解放措置の対象から外れる小作地が非常に多くなる、さらに農地解放を確実にするため、地主と小作人との直接交渉を認めず、政府が介入して買収売渡を行えということであった。しかし、当時総司令部の指令で総選挙も確定的、内閣は選挙管理内閣の性格を持っており、とりあえず第一次農地改革案を基本とした案を、回答として総司令部に提出した。最初から小作の全廃を目指していた総司令部側は、この回答で満足するはずもなく、マッカーサー元帥は本問題を対日理事会の討議に付した。農地改革について、米、英、ソ、中の四者の意見が珍しくも一致し、6月、元帥への答申が提示された。ただ小作農に対する売渡面積を平均一町歩に制限せよという項目は、日本農業事情に対する理解不足と思われるが、農業生産に大混乱を起すのは必至で、総司令部に強く申入れした。総司令部もよく理解して、この点は採用しなかった。なお、ソ連代表は小作地の全面開放と大地主からの無償没収を強く主張したが、この主張は通らなかった。その後総司令部と政府との話合いで、農地改革の成案は結論に達したが、これを正式の指令としてではなく、勧告という形で、政府に内示された。農地改革の如き、社会、経済制度の根本にふれ、影響するところ広汎かつ深刻な大事業は、日本人の自主的な考え方に立って実施され、しかも日本国民の衷心から承諾し得るものでなければ成功しないというマッカーサー元帥の深い配慮から、正式指令を避けたのだろうと吉田は推測する。この問題について、総司令部側と日本政府との呼吸が、よく合っていた、と。

 21年4月10日には総選挙(自由党140、進歩党94、社会党92、協同党14、共産党5、諸派38、無所属81)があり、つづいて22日には幣原内閣は総辞職、その後の政権の帰趨を巡って、切迫する食料基金を背景に、社会情勢は騒然としてきた。5月1日のメーデーにつづいて、5月19日の食料メーデーなど示威集会が続き、政界は赤旗の波の中に飲み込まれそうな相貌を呈していた。こういう情勢の中で、吉田の組閣工作は難航し、最後の難関であった農林大臣のポストに和田博雄を迎えて、5月22日に第一次吉田内閣が誕生した。この日に先立つ20日、マッカーサー元帥はついに「多数の暴民によるデモと騒擾に対する警告を発し、事態の鎮静化を図った。この激流の中で発足した新内閣の重要な使命として、前内閣が手を付けた農地改革が受け継がれ、さらに一層の徹底が要請された。一方当時の農村は、都会の物情騒然に比べ、比較的落ち着いており、むしろ都会の赤旗騒ぎに反発すら感じていた。もし当時の保守政党が徹底した農地改革を取り上げる勇断を欠いていたならば、あるいは農民の側から強い不満が沸き起こり、さらに政情不安が醸成されたかも知れなかった。幸い、農林大臣として入閣した和田博雄は前内閣の農政局長で、立案にあたった当人であったばかりか、その後も総司令部との連絡に当たってきた責任者であったから、吉田は安心して和田農相に一任した。

 対日理事会の共同勧告に基づく総司令部からの勧告は、6月末和田農林大臣が吉田代理として受けてきた。直ちに細目を検討、7月26日農地制度改革の徹底に関する措置要綱を閣議決定した、骨子は、不在地主は農地を全部手放させること、平均一町歩、北海道では四町歩を越える小作地の所有は制限される、小作・自作を併せて三町歩以上の土地保有を制限することの三点で、制限以上の土地は政府が強制買収して小作に売り渡す、地主に対する代金は公債を以って支払われることなどだった。法律案は9月7日衆議院に提出され、与党の指示で政府原案が成立した。戦後の農村に革命的一新をもたらした農地改革立法は、保守政党の手で仕上げることが出来た、と吉田。記録によると、農地改革法によって解放された農地は約200万町歩、土地を手放した地主約150万戸、売渡を受けた農家約400万戸の多数にのぼった。その結果、従来46%を占めていた小作地の割合は、10%以下に激減した。大部分の農家は自作農になった。昔のような大地主や不在地主は姿を消した。まさに画期的大改革であったが流血の惨事を見ることなく平和裏に実現したことは、当時の社会情勢を考慮に入れれば、真に驚異に値すると吉田は評価する。

 農地改革の細部について、批評する者に言わしめれば、それ相当に意見もあるかもしれないが、この改革で農民全般の生活水準を向上させたことは確かだ。しかも農村の生活向上と安定が、終戦後の不安、混乱に陥った社会情勢を緩和と安定に向かわせた。と同時に、この大改革の円滑な実施にため、旧地主が払った犠牲を見逃してはならない。地主たちがその不平不満を過激なる社会運動や政治運動に具体化し、農村を不安、混乱をもたらしたら、日本社会はどういう事態になっていたかを思うと、旧地主に対する感謝と敬意を表する、と吉田。農地改革を推進した内外の人のうち、日本の不耕作地主と言えば、すべてが小作人を農奴のように搾取、虐待していたとの認識を以って議論したものがあったが、真相を知らざる人々といわざるを得ない。日本の地主の多数は、欧州諸国のそれらと異なり、征服者として農民に臨むといったものでもなく、むしろ農民を愛撫し、場合によっては農民の味方として、その啓発と保護にあたった。地方や集落の公共的利益に貢献する場合も多々あった、と説明する。たしかに、あまり欧米の尺度で考えない方がいい。頭の中で考える人々は、現在でもその傾向が強い。
 マッカーサー元帥は法案成立の昭和21年10月11日、「健全穏健なる民主主義を打ち立てるため、これより確実なる根拠はあり得ず、また過激なる思想の圧力に対抗するため、これより確実な防衛はあり得ない」と述べ、その社会的、国家的効果を評価している。昭和26年9月4日、サンフランシスコの対日講和会議の開会式において、トルーマン大統領から農地改革に関する賛辞を受けた。その演説の中で、日本民主化の重要な指標として、またアジア全域にとっての貴重な先例として、日本の農地改革の成果を高く評価し、力説してくれた。
 第三次吉田内閣では、講和発効の昭和27年、第十三回国会で、従来の農地改革の諸原則をそのままに、純粋の国内政策として確立する方針を明確にして、これを農地法として提出した。この法案は、結局社会党を含めた圧倒的多数の賛成で成立した。しかし農地改革自体によって、日本の農業問題が解決したというのではない。膨大な農村人口で適正な生活水準を維持するに足る耕地が日本にはない。農地改革の終局の目的は、農業生産力を高め、生活水準を向上させることである。その一歩というべきである、こう吉田は結んでいる。


昭和21年の経済実情と食糧問題

2021年02月22日 | 歴史を尋ねる

 日本は敗戦直後の廃墟から雄々しく立ち上がって、奇跡の経済成長を遂げたといわれるが、その事情を暦年的に追いかける方法は難しい。後で振り返って奇跡の高度成長といわれるが、当時の事情を辿ってみると、紆余曲折があるようだ。戦後の経済は戦時中の統制経済を引き継いで、当初は経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や経済統制の励行が進められた。しかし領土を失う、蓄積は尽きる、人口はどんどん増えるという日本の経済が、自分の枠の中で苦慮しても限度がある、一刻も早く国際経済の中に復帰しなければならない。統制だとか、助成だとか、小さな枠の中で色々手を尽くして経済を安定させようとしても、いつまで経っても堂々巡りだ、思い切って国際経済の風に日本経済を当てなければ、本当に立ち直れないのではないか、第二次内閣の時、吉田茂はこのように考えた。一方で総司令部において、財政経済の担当した部門は経済科学局であり、その局長のマーカット少将はマッカーサー元帥にフィリピン戦以来随った軍人だから、経済的知識も経験も持たない人物だったが、その局員として米本国から派遣された文官は、ニュー・ディーラー達が少なからずいた。このニュー・ディーラー達は本物の社会主義者とまではいわないまでも、一種の統制経済の信奉者で、人為を以て一国の経済の在り方や動きをコントロールできると考え、彼らが描いた青写真を基にして、平素の持論を日本で実験してみようという野望と熱意に満ちていたようだった。したがって、事毎に日本政府を内面指導しようとしており、これと折衝する日本の責任者の苦労も大変だったと吉田は言う。しかし米国の日本統治も重点が移行し、次第にマッカーサー総司令部も米国の経済的負担等を軽減するため、日本の経済的自立策を模索していた。そうした背景を考えると、戦後経済復興の最初の転換点が吉田第二次内閣の頃であった。

 昭和21年4月21日戦後初の総選挙が行われ、選挙結果を踏まえて、帝国憲法下吉田茂に内閣組織の大命が降下された。6月21日に帝国議会が招集され、施政方針演説が行われた。その吉田の演説に当時の経済情勢が簡潔に語られているので参考にしたい。 1、我が国はまこと容易ならざる事態に際会している。ポツダム宣言に沿って民主主義的平和国家の建設という大事業を控え、目前の問題として速やかに食料問題を解決しなければならない。  2、まずは憲法改正だが、次に敗戦による経済の混乱を克服し、平和産業を活発に復興させて、国民生活の安定を図ることが急務。就中、食料事情は未曽有の困難な状態に陥っている。京浜地方はじめ、北海道その他の消費地方で甚だしい。この危機突破には、連合国の援助に待つ以外ないが、連合国は好意を以てこの問題を考慮していることは、感謝に堪えない。併しながらまずもって我が国民自ら今日の食料の窮迫を克服するの覚悟が必要。政府はあらゆる政策に先立って食料問題の解決に重点を置き、全国民に忍苦、友愛の精神による挙国一致の団結を強く期待している。農業生産力の発展は日本再建の基礎である。この際、更に農村の民主化を徹底させ、肥料その他必需資材の増産については、石炭その他の基礎産業の振興と併せて適切なる施策を講じ、農村技術の刷新、大規模なる開墾干拓及び土地改良事業をも実施している。尚、将来の食料問題の解決のため、蛋白、脂肪、でんぷん等各種の食料を総合的計画的に増産することが基本である。  3、金融財政については悪性インフレーションを絶対生じさせないよう対策を行うのは当然。この目的のため、産業界及び金融界を終戦後の実情に即応して速やかに整頓して、経済活動の基礎を確定することとし、民主主義的にして新たなる産業の勃興を促し、民需生産の増加を図ることに努力する。具体的施策については今議会に法律案を提出して協賛を得る。  4、生産の復興と関連して、現下の労働不安の問題については、労働組合の健全な発達を促すとともに、事業者側の生産への努力奮起を要望し、労使の間に合理的基礎に立脚した問題の解決を促進する所存。我が国経済界において中小企業の占めている地位、役割の重要であることは今後ますます大なるものがある、その安定向上については経営、技術、設備、労働等の全面に亘って必要なる対策を講ずる決心である。  5、失業問題の解決も極めて重要。政府は60億の国費を投じて公共事業を起こし、生産の振興と相まってその目的を達したい。右のほか、国民最低生活の保障のための適切なる施策を講じる。  6、最後に、戦災の復興については、政府が特に重点を置いている。戦災者、在外同胞及びその帰還者並びに復員者等の援護等に能う限りの手を尽くし、特にこれらの人々が安定して、業務について経済的基礎を固め得るようにしたい。 以上施政の大綱と所信を述べ、ご協力を切望する次第である、と結んでいる。  終戦後一年足らずの日本経済の実情を映し出した施政方針演説だが、早くも中小企業対策や公共事業が大きなウエイトを占めていることが注目される。農業は日本再建の基礎だとも言っている。さらに労使間の問題解決方法も課題に挙げている。  さらにこの施政方針演説には触れられていないが、当時大きな経済的問題は、戦争の経済的後始末として、日本軍の旧占領諸国に対する賠償問題、更には補償問題だった。占領初期、米国は「日本の侵略に対する賠償方法」という方針があり、日本の保持する領域外にある日本財産は関係連合国当局の決定に従って引き渡すこと、もう一つ、平和的日本経済ないし占領軍に対する補給のために必要なもの以外の物資、設備等を引き渡すことが規定してあった。これはいずれも賠償取立てで、成るべく在り合わせのものにより、実行したいというものだった。米国政府は第二の賠償の実行に資する目的で、賠償引渡物件の調査のため、エドウィン・ボーレー大使を団長とする使節団を派遣、国内各地の視察を行った。昭和20年12月7日公表されたが、賠償取立ての原則について、「過去の日本の工業発展は、極めて濃厚なる軍備拡張の色彩を帯びたものであり、終戦後の今日でも、平時国民経済の需要に対して、著しい過剰能力を擁している。これら過剰分を除去することにより、日本の武装解除を完成するとともに、これらの設備を、日本の侵略を受けた諸国に移すことによって、被侵略諸国の復興と生活水準向上に資することが可能である」との意見を述べ、暫定的な中間撤去をできるだけ速やかに開始すべきことを勧告した。そして陸海軍工廠の全部をはじめ、広範囲に亙る生産設備を撤去の対象として挙げた。具体的には、工作機械製造能力の半分、陸海軍工廠の全部、航空機工場の全部、球及び軸受工場の全部、20造船所の全施設、年産250万トンを超える鋼生産能力、石炭燃料火力発電所の半分、接触法硫酸工場の全部、ソーダ工場最新式のもの一工場等々。この勧告が如何に強い日本非軍事化の意図のもとになされたかが、窺われる。この報告が公表された頃から、米国内に批判の空気が生じ、余りに苛酷であることは、日本の国力を不必要に低下せしめ、却って米国の占領費用を増大せしめる危険があるとの反省が誘発され、次第に米国政府内にも強まり、昭和22年1月、再調査チームが派遣された。詳細は別途に譲るが、吉田が施政方針演説をしたころは、極めて憂慮される事態であった。 うーむ、戦後の復興だけでなく、賠償問題まで絡んでくると、ことの深刻さは重大だ。しかし吉田の施政方針演説を読むと、そこまで追い詰められたものには見えない。なろうとしてなった内閣総理大臣ではない、施政方針演説の冒頭、「不肖今般図らずも大命を拝して内閣を組織いたしました。まことに恐懼に堪えません。唯渾身の力を捧げて奉公を致す覚悟でございます」と語りだしている。率直な気持ちが前向きな演説内容になったのだろう。

 この次はテーマごとに、その経緯を追いかけてみたい。まずは戦後の食料事情。終戦後の農業政策の問題として、農地改革とともにもう一つは食料の確保であった。食糧問題は終戦後の問題というよりは、むしろ戦争中からの大問題だった。主食の統制は昭和17年に始まり、配給基準は米だけで二合三勺であったが、次第に後退して、終戦直後の昭和20年8月には、米麦、芋、雑穀を含めて、米換算2合一勺となった。東久邇内閣の時も、食料問題が最重要問題の一つで、陸海軍の貯蔵物資の放出、十九年産米の供出などのよって、一応危機は切り抜けたが、二十年産米の未曽有の減収に逢着、食料需給の前途は、極めて厳しいものだった。このままゆけば、一千万人の餓死者を出さざるを得ないという流説が真実らしく飛んだのもその頃であった。農林当局の試算で、吉田はマッカーサー元帥に対し、450万トンという莫大な輸入がなければ、本当に餓死者を生ずる惧れありと真剣に申し入れた。幸いその時は70万トンかの穀物の輸入で餓死者を出さずに済んだが、後になって元帥からは日本政府の統計の不備、杜撰を痛烈に非難された。悪いことに当時、世界の食料事情も悪化の一途を辿っており、欧州やアジアの各地に飢餓状態を現出していた。この対策としてアメリカは、昭和21年2月、トルーマン大統領が国民に節約を要請し、食料救済運動を強力に提唱し、フーヴァー特使を全世界に派遣して、世界の深刻な食糧不足を調査させる状況だった。同年5月22日、ワシントンで国際緊急食糧会議が開催され、理事会で不足する国に対し、食料、飼料、種子、農機具などの国際割当が実施されることとなった。世界の食料事情がこの有様では、敗戦国には国際割当は後回しになることが必至で、計画的輸入などは到底期待できないので、政府は国内産米の集荷に全力を注いだ。しかし二十年産米の供出は割当の77,5%という不成績に終わり、政府手持ち米は窮迫した。そして第一次吉田内閣が発足した昭和21年5、6月頃には不十分な規定配給数量の維持も困難になり、全国各地に遅配欠配を生ずるに至った。

 このような食糧不安は、当時の急進過激な攪乱分子の利用するところとなり、5月19日のいわゆる食料メーデーなどという狼藉沙汰まで発展した。内閣を組織して間もない6月13日、吉田内閣は「社会秩序保持声明」と並んで「食糧非常時宣言」を発し、十数項目からなる危機突破対策を掲げて、事態の解決に乗り出したが、国内対策のみでは危機突破の見通しが立たず、連合国総司令部に対し食料の輸入を強く懇請した。その結果、7,8月の最大危機に当って、360万石の英豪軍所有米の放出が行われ、9月以降は、引き続いての輸入食料の放出、その年の新米、甘藷の配給により、辛うじて端境期を乗り切った。  翌年の昭和22米穀年度に入ると、豊作であったに拘らず、公定米価と闇米価の乖離は、農民を闇売りに走らせ、供出は期待通りには伸びなかった。さらに米の生産県が消費地への送り出しを渋る傾向さえ生じたため、消費地の配給事情は急速に悪化し、一月末には比較的順調だった東京にも配達遅滞が起こった。このため総司令部は、政府を督励する一方、全国的に軍政部を動員して積極的に供出督励に乗り出した。さらに来日中の米国食糧使節団は声明を発し、日本は他国に援助を求める前に、まず自力で解決を図るための措置を取るよう指摘し、供出割当量の完遂を農民に訴えた。政府は、3月1日、特別報奨金制度を加味した供米促進対策を公表したが、東京の遅配はさらに伸びた。総司令部はマッカーサー元帥の名前で吉田首相宛の書簡を発出し、食糧供給の公正且つ有効なる確保は日本政府の責任であると強調した。22年5月、吉田第一次内閣は総辞職したが、翌23年10月に第二次内閣が出来るまでの約一年半の間も、国内の食糧事情は改善には至らず、配給量も増やすことができなかった。しかし世界的食料事情は昭和23年になると好転を示し、米国穀物の豊作、ヨーロッパ諸国の小麦も大不作を脱した。こうした食糧事情の好転に加え、米国の対日政策転換の兆しが現れ、米国の対日援助は俄かに積極化された。従来のような日本の輸入食糧を最小限に止めて、国内で食糧対策を講ずる方針も漸次転換を見せた。従来の対日食糧援助費(ガリオア基金)の外に、新たにエロア基金が設定された。ガリオア援助は社会不安と疾病の防止を目的とする民生救済物資を中心とした援助であったが、一歩進めて、日本経済の復興と輸出増進を目的とする輸出原材料の供給という方向に向けられた。こうして昭和23米穀年度は、輸入食料が増加し、遅配も著しく改善された。   

 次いで昭和24米穀年度に入るや・・・第二次吉田内閣は10月15日成立・・・政府は11月1日から、二合七勺への配給基準量の引き上げと、味噌、醤油、砂糖、油脂、合わせて消費者一人一日当たり1440カロリー分の配給改善および労務加配の対象範囲の拡大と労務加配量の増量などを実施した。このためには供出量の促進を図らねばならなかったが、経済九原則の実施に伴う供出の督励であった。食糧集荷の能率化という項目があり、マッカーサー元帥から主食の増産と追加割当の法制化が指示された。国内産食料の供出促進と米国の対日援助以外の商業ベースの輸入が全体の4割となり、米国の援助による食糧輸入からの脱却の兆しが見えてきた。24年度になると食料の配給操作は極めて円滑になり、9月には芋類の統制撤廃を決定した。かくて戦後の極端な食糧危機から脱することができた。昭和25年度に入ると、食糧事情の根本基調は変化した。食糧の確保という問題は重要性を失い、自由党は農業振興政策基本方針の一環として、主食の統制撤廃方針を発表し、当面は現行制度を続け、様子を見て結論を出すということになった。党及び政府が食糧問題をこうした線で考えるようになった背後には、総司令部からの示唆があった。総司令部の内部では、ドッジ・ラインの意向からも、食糧の統制撤廃、輸入補助金の廃止が真剣に考慮されていたと、「回想十年」の吉田茂は語る。ふーむ、戦後の食糧危機は日本政府と総司令部との二人三脚で乗り切ったのだ。

 

 


吉田茂著『回想十年』 西独編

2021年02月16日 | 歴史を尋ねる

 現在、戦後の日本の歴史を辿っているが、たまたま出会った表記の著書は、当時を生き生きと蘇らせてくれる。さらに当事者たちの証言が満載されているので、児島襄の著書も随分詳細に丁寧に事実関係を追っているが、色あせる面がある。第三者が説明する時は、どうしても直接的な表現が制約される。しかし、吉田はもともと歯に衣をかけない人物であり、批判は浴びるものの、明快に考え方が表明される。従って、その点は読者が割り引いて読み取れば良い。

 戦後の色々なテーマが、テーマごとに回想されているが、私の外遊日記ということで昭和29年9月26日からの七か国歴訪の旅を綴っている。その中の「西独の指導者と語る」欄で日本であまり取り上げなかったことに触れておきたい。アデナウアー西独首相との会見は吉田ももっとも楽しい印象深い会談の一つだったと感想を述べている。まず、ホイス大統領と会談し、同じ様に占領下におかれた日独両国の共通した環境に言及し、ドイツが四か国の占領を受けたのに対して、日本は実質上アメリカ一国の占領で幸いであったと述べたので、吉田は日本は十一か国の占領であった、ただアメリカが主要占領国の態度を貫いたのが幸いであった、と答えた。マッカーサー元帥が偉かったには幸いであったが、それにしても占領軍との交渉は困難なことが多かったでしょうと、ホイス大統領が同情を寄せたので、マッカーサー将軍は若い時父親と一緒に日本に滞在し、日本に深い理解を持っていたので交渉は楽であったが、将軍の部下たちは必ずしも理解ある人たちばかりではなかった、元帥にそうした悩みを訴えたところ、元帥は笑いながら、立派な人たちを揃えたいのだけれど、米国はいま好景気で各方面に人材をとられている、思う様にいかないということだったと話すと、ホイス大統領はそうでしたかと、愉快そうに笑い興じていた、と。  吉田は、ホイス大統領、アデナウアー首相をはじめ、エルハルト経済相、ウェストファーレン州長官アーノルド氏などと会談した。これらの人々との話合いを通じて、西独の経済復興の真相を探りたいということであった。敗戦の後如何にして今日の経済的隆盛をもたらし得たのか、どうしてストライキが無いのか、対共産主義政策はどういう様に行われているのか、吉田が是非知りたいと思う点だった。

 経済復興の問題についての言い分は、戦争の結果、ドイツは非常な貧乏国となった。貧乏に直面しては、誰もが先ず復興ということを考えた。皆が力を合わせて働き、國を再建させるという以外に道はなかった。だからストライキなんかやる暇はないし、またそんなものは結局国のためにもまた国民のためにもならないことを国民の多くがよく知っていた。従って生産の面への共産主義の悪影響などというものは感じていなかった。ところが先方から見ると、日本もまた着々復興が進んでいるかのに見えるらしく、日本の国民も勤勉な点では世界で有名ではないか、と言っていた、と。近頃(昭和29年当時)は労働組合も社会党も次第に現実的となってきたが、吉田の在任した前半の時期、労働界の空気は決して現実的ではなかったし、勤勉の風もあまり見られなかった。権利は主張するが、仕事は二の次となり、官公吏までがストライキに夢中になっていて、公僕としての義務はそっちのけになりがちだった。こうした日本の労働界の風潮の由って来る原因について、原因の大半は、占領政策の行き過ぎにあった、その最も顕著な例は、占領軍が強制した労働立法である。その結果、労働者の自由と権利が著しく増大したことは結構なことだったが、労働者側がこれに乗じて、自由や権利を名目に、過度なまた勝手な要求を突き付けるようになり、生産の進行を妨げるに至った。一方占領軍の命令で財閥が開催された結果、企業に余裕がなくなり、資金繰りに各企業とも追い回される実情で、落ち着いた長期の生産計画が出来ない。こんな調子ではよい品物が作られるはずがない。従って外国市場で競争が出来ない、輸出が伸びない、これは全く占領軍の誤れる政策によるところが多い。このような吉田の見解を述べたところ、西独の人たちも興味深そうに聞いてくれた。なお共産党の騒乱とそれによるストライキの問題について、西独の人々に会うたびに聞いたが、答えはみな同じ様であった。アーノルド長官ははっきり答えた「それは極めて簡単な問題だ。ソ連に占領されている東独から毎日多数の難民が逃れてきて、彼らが共産主義下の実情を伝える。ソ連や東独の共産党が如何に甘い言葉を述べても、それは絶対に実行されず、実情は全く彼等の言分とは正反対であることを、われわれ西独国民は嫌というほど聞かされ、よく知っているからだ」と。

 経済復興の進捗ぶりは良いし、国内の共産主義もあまり心配はない、となればこれは明らかにドイツの勝ちである。吉田は前から西独の復興ぶりの話をいろいろ聞いていたが、東西ドイツに分割されている現状では、内情は大変だろうと思っていた。しかし、意外の落ち着きと復興ぶりとを自分の眼で見る事が出来た。多少のお世辞も含めて、「私はアデナウアー首相を競争相手だと思っていた。同じ頃に首相として同じような条件で政治を担当してきた。貴下と私と、いずれが早く経済復興、自国再建に成功するかということを心に留めてきた。ところが西独のにやってきて、目の当たりに実情を見せられ、話を聞くに及んで、これは正しく私の方の負けだと感じた。きれいに兜を脱ぎます」というと、アデナウアー首相は文字通り呵々大笑しながら、「そんなことはない。もしも私が貴国を訪れたら、やはり貴下と同じ様に、私は敗けたと言わざるを得なかったと思う」というから、吉田はそれに応じて、「それはとんでもない。今貴下に日本に来て、実情を見られては、甚だ困る」と答えて、二人は爆笑のうちに終わった、とエピソードを紹介している。  さらに、対共産圏諸国に対する態度については、西独首脳者の考え方は、吉田の考え方と同一であることを確認した。米国とソ連の二大強国が対立し、自由主義国家群と共産主義国家群とが大きく分かれている以上、西独も日本も米国に協力し、自由国家群の一員として進んでゆく以外に途はない。しかも西独、日本ともに共産圏に対する前哨的地位に立っている。両国が自由を守ることは、とりも直さず自由国家群を守ることである。同時に前哨的立場にあることは、共産圏との交渉の機会が多いことを意味するが、それがソ連側の最終的意図たる米国孤立化の術策に陥ることは、自由主義国家群を守る上からも不利であることを知らねばならぬ、これが西独側の見解であり、吉田の同感するところであった。そして西独要人に向かって強調したのは、共産勢力は自由世界の弱点をついて攻勢に出る。彼等が真っ先に攻勢に出てくるのは、欧州より東亜である。東亜が共産勢力の手に陥る様になれば、それは自由世界全体の敗北を意味する。そして東南アジアの開発について述べた。

 次に吉田は西独国内の共産党対策を知りたいと考えた。西独側の説明は次のようだった。西独でも、憲法上政党の結社は禁止できないことになっているが、憲法を破壊するような活動はこれを禁止するよう、憲法第二十一条により憲法裁判所に提訴することができる。そこで政府は数年前に既に共産党の活動は憲法を破壊するものであるから、その活動を禁止すべしとして、裁判所の提訴しているということで、資料も十分揃えて提出してあるから、提訴が受け容れられる見込みが、九分通り確実であるということであった。(注:非合法判決は昭和31年8月に出され、政府は直ちに党の解散、財産没収などの措置をとった)  西独首脳との会談でほとんど同感ばかりだが、次の一点は意見の相違、立場の相違があった。それは再軍備の問題であった。西独側はこの問題に対する日本の態度に深い関心を持っていた。吉田は次のように説明した。今日本にとっては再軍備をすることは却って逆効果を来たす恐れがある。日本の経済力はまだそれに堪えるまでになっていない。もちろんある程度の自衛力を持つことは当然だが、その限度を越える軍備を持つことは、国民に大きい負担を課することになり、国内不安を来たせば、却って共産勢力の乗ずる隙を作るようなものである、故に日本の首相として「再軍備は当分致さない」と言い続けてくるのに、相当の苦労をしていると説明した。西独側は吉田の子の説明にだけは合点してくれなかった。西独では占領費として毎年90億マルクほど支出している。仮に50万の軍隊を持つとしても、それ以上の費用は掛からない。ロンドン会議の結果が決まりさえすれば、西独は自国軍隊の再建をはじめるつもりだ。吉田がボンを訪れたのは、西独再軍備の問題をめぐるロンドン九か国会議が終わったばかりであった。この会議で決められた大綱に基づいて、西独の主権回復や再軍備の問題を取り決めたパリ協定はその後調印され、西独の再軍備が、昭和32年に着手された。(注:パリ協定は昭和31年5月発効され、同時に西独は独立国となり、7月徴兵法を実施、昭和35年までに十二師、50万の軍備を整えた)

 国のトップ同士がお互いの国を比較し合う場面は面白い。トップというものは常に比較する相手を探しているのかもしれない、たまたま日本とドイツは境遇的に似たもの同士、吉田とアデナウアーはじつに共鳴し合ったようだ。アデナウアー首相と会っていると、意志の強い、頼もしさを感じたが、似たところと言えばそういう頑固さだと吉田は述懐している。


吉田内閣誕生と保守反動

2021年02月09日 | 歴史を尋ねる

 保守反動という言葉は最近聞かれなくなった。しかしかっての学生運動華やかしころ、この言葉はじつにポピュラーな言葉で、日常会話にも頻繁に出てきた、多少進歩的な雰囲気の気分を乗せて。だが、ウキペディアで見ると、反動とは歴史用語、政治用語で、革命勢力から見て反革命的な姿勢、行動のこと。左翼勢力が右翼勢力をさして批判的文脈で用いる(「保守反動」「右翼反動」など)、とある。当時は中立的な立場からのニュアンスに聞こえる使用方法だったが、今や左派勢力からのプロパガンダ用語にと一般の理解が進んだから、この言葉を使うと、自らの政治的立場を明らかにすることを嫌って、使用が減ったのだろう。 もう一つ、逆コースという言葉もある。これもウキペディアで見ると、逆コースとは、戦後日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの呼称である。逆コースと言われる事例は、 1945年、廃止した特別高等警察に代わり公安警察を設置。 1947年 GHQの二・一ゼネストへの中止命令(米国による労働争議規制)。 1928年 ・GHQ、日本の限定的再軍備を容認するロイヤル答申(再軍備準備)。 ・非現業公務員のストライキが政令201号により禁じられる(公務員に対する労働権制限)。 ・大阪市で可決・施行されたのを皮切りに、全国の自治体に公安条例が広がる(デモ規制の動き)。 ・東宝争議に占領軍が介入(米国による労働争議規制)。 ・12月24日、A級戦犯容疑者として収容されていた岸信介が不起訴処分となり釈放される(戦前・戦中指導者層の社会復帰の動き)。 その理由として、占領初期には非軍事化・民主化政策を推進したが、占領後期には社会主義運動を取り締まるようになった、とウキペディアは説明するが、これ等のほとんどが占領軍側からの指令ないし了解のもとに進められた。いずれも、クーデターの防止ないし共産主義政権誕生への予防策としてだった。民主化運動の行き過ぎを是正するのが、占領軍、政権党側の意向であった。もう少し突き詰めると、それが民意であった。

 昭和24年1月23日の総選挙の結果は、その総司令部の支持を背にする中間勢力がなぜ選挙ではじき出されたのか、その理由についての明確な解説は、どの新聞紙上にも見当たらない、と児島襄氏。朝日新聞が終盤戦での三党の状況を報道しているのが手掛かりだ。 民自党 ①社会、民主両党は連立の失敗でテスト済みだが、共産党と共に未知数の期待を受けている。日本人はせっかちだから未知数に人気が沸く。②総裁吉田茂にも漠然たる人気が集まり、どれほど偉いかわからないが、何かやってくれるんではないか、今の政界では唯一人の頼もしい人物という声が多い。 社会党 ①連立政権の失敗、疑獄事件などダメージが大きいが、地方ではその影響はとくに目立たぬようで、社会党が苦境に立っている感じは少ない。②委員長片山哲の奮闘は目覚ましい。襟巻をかぶってトラックの助手台にのる庶民的スタイルで、多い時は日に20回の演説をこなす。右手を上げて保守反動か、左手をあげて進歩革新か、と叫ぶ辻説法は聞かせるものがある。 民主党 ①迫力がない。そもそも性格がはっきりしない。地方の人々は保守といえば民自党と思っているので、民主党はピンとこない。おかげで選挙戦も、党としてではなく、人物本位で戦わざるを得ない。②犬養総裁も文学的すぎる。演説会では、民自党や社会党に対する批判も攻撃もしない。たとえばいま外はしんしんと雪が降り積もっている、という調子で話だすが、なにを強調するかといえば、お互いに一つの夢を持ちましょうという。 そして朝日新聞の総合的判断として、「民自未知数の魅力、社会、民主の二位争い」。 結果は民自党の予想以上の大勝であり、片山委員長の落選だった。民意の動向を新聞はここまでつかんでいなかった、ということか。 児島氏は分析していないが、前の総選挙は、新聞記者から社会党が第一党になったと聞かされて、「本当かい、君。そいつぁ、えらいこっちゃあ」と社会党書記長西尾末広が叫んだくらいだから、前回は予想外の支持票を貰った、3.1ゼネストの盛り上がりの余韻がまだあったかもしれない。今回はそれらの票が連立政権での失敗で、ほかに流れた結果だろう。しかし当時の日本の選挙に関して、日本を取り巻く世界は、そうは見なかった。

 米国の文化・社会科学使節団の一人、ハーバード大学助教授ライシャワーは、総選挙と総司令部との関係に注目した。総選挙の結果は占領軍の権威の失墜と失政が招来したものだ。占領が始まった時、日本人にうつった占領軍は、最強力の軍隊だった。だが、いまや日本人は総司令部が能力と意見を異にする個人の集合体だと見ぬき、マッカーサー元帥の神性の霊光が色褪せた。日本人は、占領軍と自分たちとの生活程度の格差、占領軍将校の横暴な振舞などから、占領へのいら立ちを深めている。この占領に対する日本国民の不快感が、総司令部に汚染されたとみなされる三政党の敗北という形で表明されたといえる、と。総司令部は、一方で日本人に対する民主主義の基本教育を怠ると共に、外の世界の知的、政治的動向に関する情報の流れをせき止める政策をとった。おかげで共産主義宣伝の水を飲まざるを得なくなった。総選挙の数か月間に日本人インテリの多くが共産党支持に流れ込んだことが、この事情を示している。つまり、軍政による占領は失敗した。速やかに民政に移管しなければ日本を離反させることになる、と。後に米国の日本大使になるライシャワー氏がこんな過激、というか、考えすぎな事柄を言っていたのは不思議だ。まず、選挙民には占領軍と日本政府の折衝ごとについて、ほとんど知らされていない。政府当局者の占領軍窓口との調整・折衝が大変だったということは、しばらくたってから回想本等が出版されて、知る程度だ。従って総司令部に汚染された三政党という認識はほとんどなかっただろう。ただ選挙民は皮膚感覚で、ことの是非は感じ取っている。むしろ、前項で紹介した投票前の総司令部外交局W・シーボルトの予測が一番選挙民の心をつかんでいるように見える。

 児島は引き続き当時を振り返る。ライシャワー覚書は総司令部批判であり、マッカーサー元帥批判であり、さらには米国の対日占領政策批判でもあった。それだけに、当時は公表されず、米国をはじめ海外の総選挙の結果に対する理解は、東西冷戦とくに中国における共産党の勝利が民自、共産両党の進出をうながしたという点で一致していた。そして関心は、すでに出た結果よりその結果の影響に集中した。日本はどこに行くのか、民自党の圧倒的勝利によって日本は保守反動化するのか。共産党は躍進したとはいえ466議席のうち35議席を占めるに過ぎない。が、解散前の4議席の約9倍である。マッカーサー元帥は声明で、「自由世界の人々は日本の総選挙の結果について満足できるであろう。日本国民は、アジアの歴史の危機的な時期において、政府の保守的な考え方に明確かつ決定的な委任を与えた」と。だが、元帥の安心感を共有する向きは少なかった。元首相芦田均は「日本の前途を考えると全く危ない橋を渡っている。吉田内閣が絶対多数を取ったのだから、それで当分やればよい。しかしどうせ行き詰まった時、後はどうするのか。まさか共産党に任せる訳も行くまい。ドイツのワイマール派が破れて共産党と右翼の対立となった。それが危ない橋という意味だ」 英紙タイムズは民自党と共産党のいずれもが日本との平和に危険だ、「西洋民主主義は日本の総選挙の結果に大きな打撃を受けた」 両党はともに西欧民主主義にあきたらず、連合国の日本占領に好意を持っていない。このため、マッカーサー元帥の政治、経済政策に不満を抱く日本の保守分子と組織労働者は、それぞれ吉田民自党総裁の新国家主義と共産党に結集した。民主主義に背馳する方向をたどることは十分に予想できる、と。では、日本の将来の反動化または共産化を予防するにはどうすればよいか。国連事務総長T・リーは「占領という不安定な状態が左右の温床になっている。一日も早く講和を成立させればよい」 米紙「ヘラルド・トリビューン」は、早期の講和が困難でも共産党の進出を食い止める方法はある、それは経済復興だ、腹が一杯になれば共産党は見向きもされなくなる。「しかし、この経済復興の仕事は極めて困難だろう。新内閣には、米国の政策をサボタージュする意向を隠そうとしない政治家が加わるものと見られるから」 総司令部経済科学局長マーカット少将も声明を発表した。「日本は歴史の転換点に直面している。この時に当り、日本国民は今回の総選挙で日本の自立復興のため敢然とと立ちあがった」どんな政治も生活向上も、経済の安定がなくては実現できない。日本の場合、経済復興は生産増大による輸出増加にかかっているのだから、政府も国民も一致協力して増産に努めなければならない。これが出来れば日本はアジアの模範となり、出来なければ滅びるのだ。 ふーむ、日本に在住するマッカーサーもマーカットも正確に日本の状況と今後を示している。それに比べて英紙タイムズや米紙ヘラルド・トリビューンは日本の状況を掴んでいない、誤認している。その理由は何故か、それは日本から発信される情報が、誤解を生んでいるとしか考えられない、現在でも起こっている事象から類推すれば。

振り返れば、昭和23年10月7日、芦田内閣が総辞職した。内閣が倒れれば野党第一党の党首が次の内閣を組織する。その常道にそぐわぬ動きが幹事長の首班指名活動、これを乗り越えて、10月14日吉田首班が確定した。挙国一致連立内閣は各党が背を向け、組閣は難航した。10月16日吉田首相は総司令部民政局に挨拶に行ったが、ホイットニー准将は多忙を理由に面会を拒否した。19日、第二次吉田内閣は発足した。吉田は少数内閣の限界を承知し総選挙を模索する。11月15日、臨時閣議を開き吉田首相は解散問題を協議した。実は、3日前に野党がホイットニー准将を訪ね議会の解散の憲法上の見解を質した。憲法の定める第七条ではなく第六九条以外に解散は出来ない、との回答。しかし、吉田は七条解散を貫く方針を決心した。(ちなみに現在の運用は七条解散) 11月28日、芦田前首相の召喚記事で、総司令部民政局ホイットニー局長とケーディス次長が首相官邸にあらわれ、吉田首相に事態収拾策を提示、いわゆるなれ合い解散の筋書きだった。 12月7日、ケーディス次長は米国帰国。12月23日、不信任案可決、日本国憲法第六九条および第七条により、衆議院を解散した。1月23日総選挙、民自党の絶対多数議席確保。その間、12月18日、国務相、陸軍省からの指令で、マッカーサー元帥から日本政府に九原則に基づく経済安定計画の立案を指示した。吉田は目標達成についての日本国民の能力に対する貴下の信頼に応える決心を表明した。さらに民自党は「日本再建についての重要なる示唆で、その主旨はわが党の政策の完全に一致する」と声明を発表している。その後吉田は民自党と民主党の保守合同を実現している。この一連の動きを追いかけると、吉田の並々ならぬ日本再建の意思がみえる。海外の記者にその理解を求めるのは無理か。保守反動の言葉が独り歩きしたのだろう。

 「回想十年」という吉田茂の著書がある。当時を吉田はどう考えていたのか、引用しておきたい。「昭和23年10月、芦田内閣の総辞職によって、私が再び内閣の首班に指名されたが、当時は、いかにしてインフレーションを抑えるか、換言すれば、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建とを如何に進めていくか、ということが最大の関心事であった。そしてともかくも経済安定本部を中心とするいわゆる傾斜生産方式や、経済統制の励行というようなことが、ある意味では一応成功した如く見えた。しかし別の立場から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった。党内外の人を通じて意見や考え方が耳に入ってきた中に、商品によってまちまちだった為替レートの一本化を目標として、国内物価の調整安定と企業の合理化を図りながら、国際経済への結びつきを考えてゆかねばならぬという話があった。経済上の細かい理論はともかくとして、この経済を国際的な結ぼ付きで見なければいけないということは、多年海外生活をし国際関係になれてきた故もあってか、私には直感的に分かった。敗戦で領土を失う、蓄積は尽きる、しかも人口はどんどん増えてゆくというこの日本の経済が、自分だけの枠の中でいかに苦慮してみても、その効果に限度がある。一国も早く国際経済の中に復帰しなければならない。国際経済に結び付けば、そこに自ら日本の経済の安定が見いだせるだろう。統制だとか、助成だとか、小さな枠の中で色々手を尽くしても経済を安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々廻りになる。思い切って国際経済の風に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか。それは苦しいかもしれない。しかしそれをやらなければいつまで経っても陽の目は見えない。このような話を当時慶応の教授だった永田清君やその他の経済学者達からも聞いたし、党の人達とも話し合った。

 片山、芦田両内閣時代に、総司令部のニュー・ディーラー達と結んでやって来た社会党や民主党の行き方は。どうもアメリカの統制経済の亜流のように感じだった。大体がアメリカという国は、経済力の豊かな大国だから、自らが国際経済の荒波の中に揉まれるいうこともないでの、統制でも何でも、それ程に切実、深刻なものとしてではなく、やればやれたのではないかと思う。統制がうまく行っているというのも、実体は、統制というものを死ぬか生きるかの切実な問題として受け取ることがないからではないか。とにかく日本とは事情が違うのだ。そんなことも考え併せて、この辺でそろそろ経済に運び方を転換しなければならない。いうならば、人為的な経済規則で縛るよりも、自然の経済法則によって鍛え直さなければならない。そういう風に私は考えた。私を評して極端な保守主義とか、旧式な自由主義者であるとか色々言われたが、経済の方の考え方も、アダムスミス式のレッセフェール(自由放任)であるという人もいた。そこまで旧式だと自分では思わないが、その当時の経済の動きを眺めていて、以上のような感じを持ったことを、私は間違っていたとは今以て思わない。第二次内閣の大蔵大臣には、党側の推薦によって、泉山三六君に頼むこととした。ところが同君はつまらぬことから二カ月くらいで退任の余儀なくに至った。大いに張り切ってやっていた本人としては、さぞ残念なことだったろう。退任後は近く衆議院の解散が予想されていた関係もあって、暫定的に商工大臣の大屋晋三君に大蔵大臣を兼任してもらうことにした」  ふーむ、当の経済情勢を踏まえての大局観、吉田は経済問題について詳しくないとの評価もあったが、人の話をよく聞いて決断する、その後を見ると見事だと思う。せっかくの機会なので第二次吉田政権時の彼の想いをもう少し引用する。組閣早々の問題は政府職員の給与改定問題だった。これは少数党内閣だったので社会党の主張を受け入れざるを得なくなったが、本人は黒星と評価した。しかしこの過程で賃金三原則が総司令部当局によって明示され、賃上げに対して、赤字融資をしてはならない、物価は改定しない、補助金は出さないという三原則で、賃金と物価の悪循環を断ち切る基盤が出来たと吉田は喜んでいる。さらに経済九原則について「12月18日、経済安定九原則が指令された。前書きの文句のところはもっともなことばかりで異論はなかったし、結びの文句は『以上の計画は単一為替レートの設定を早期に実現させる途をひらくためには是非とも実施されねばならぬものである』となっているのも、政府としては正に同感であった。しかし九項目の中には、統制の強化に関するものが何項目か掲げられており、いささか、意外の感を受けた。既に政府は国会で財政経済方針も明らかにして、その中で、経済統制の整理を真っ先に掲げて、企業の自己責任の自覚と経済活動の活発化を謳ったから、予算委員会で大部質問が多かった。私としては思った通りのことを率直に述べ、特に統制の問題については、ニューディール式の統制を日本に試みることは再検討の必要があること、今までのような統制一点張りではなく、過渡的に統制を残すとしても、いずれは撤廃の方向に持ってゆくべきものであると強調した」 日本に最初に来た米国の経済科学局の当局者は、ニューディールといった考えがあったと思われる。クレーマーなどは日本の統制経済をもっと強化しようとしたところ、実際は却って弊害が強い。それが統制にならず、闇市場に流れるという実情を見て、方法を変えなければならないと考えるようになった。日本における統制経済の励行は、米国その他と違って如何に困難なものであったかを物語っていた。「12月も押し詰まって、閣議で九原則に対する政府としての具体的方針を決めた。単一為替レート設定による国際経済との結びつき、価格差補助金の削減、財政の均衡確保と赤字融資の厳禁、企業や政府事業の独立採算制の堅持、統制の簡素化などである。こうして、それから後に引き続く経済安定政策への布石が出来上がり、23年を迎え、総選挙となった」 この厳しい経済政策を推進するため、吉田は安定した政権を望んだのだった。

 


九原則指令と六九条解散、総選挙

2021年02月01日 | 歴史を尋ねる

 翌12月1日、引き続き第四国会を召集した。公務員法改正にともなう新給与予算が、第三臨時国会の幕切れによって審議未了となっている。そして何よりも解散を断行するためだった。検察側から芦田前首相、川橋、北浦代議士の逮捕許諾を受けた吉田首相は、この日、松岡衆議院議長に逮捕許諾を要求した。 さらに12月3日、参議院本会議で施政方針演説を行い、①講和条約を締結されない限り、日本の独立は確保されない、②民主政治の成否は、憲法の全き運用が出来るかどうかにかかっている。憲法は、少数党内閣であれば国会を解散して信を問うことを要求している、と強調した。 12月6日、本会議に、三氏の逮捕に許諾を求める件が上程され、採決の結果、議員運営委員会の決定とは逆に芦田前首相らの逮捕は許諾された。 7日、出頭し取り調べを受けた芦田は、担当の検事正に関して次のような評言を残している。「恐らくこの処十数年六法全書以外は読んだことはあるまい、と形容すべき程世事には疎い」と。同じく同日、総司令部民政局次長ケーディス大佐が、羽田から出発して米国に向かった。その後日本に帰任せず、翌年退役した。大佐が知る占領の性格は軍事占領であり、与えられた目的は日本の政治的軍事的武装解除である。日本経済の復興は含まれていない。日本を産業大国として復活させるというのは、本来の占領目的に合致しないし、それは軍人ではなく文民の仕事だ。マッカーサー元帥と私の仕事は終わった、と。大佐は、日本国憲法、パージ(公職追放)、農地改革、財閥解体、選挙法および警察法改正、婦人参政権その他初期の占領政策の主務者だった。その後も、マッカーサー元帥、民政局長ホイットニー准将に次ぐ総司令部NO・3の存在として、その地位にふさわしい権力者の立場を保持してきた。この時期に、元帥と准将が情勢の推移に逆らう形で大佐を本国に派遣するとは考えられない。大佐が米国の新政策に順応しない思想の持ち主であれば、むしろ総司令部の邪魔者と見做され、あえて退役を前提に帰国をうながされたのではないか、東京の外人記者たちの間にそんな噂が流れた。アイケルバーガー中将の論評はもっと厳しい、「空疎な理想主愚者は驕りと腐敗におぼれて自滅するという手本を日本人に示した」と。

 12月10日、華北剿共総司令傳作義は、北平(北京)防衛が不可能と判断して辞意を表明、中華民国総統蒋介石は辺境地区と台湾を除く中国全土に戒厳令が布告された。ワシントンに滞在中の宋美齢は、ようやくトルーマン大統領に会うことができた。夫人は反共戦援助声明の発出、年10ドルの資金援助などを要請したが、大統領は「入院中のマーシャル国務長官の病状も快方に向かっているので、そのうち病院に出かけて声明発表の件を相談する」と。 取材を受けた国務相当局筋は、夫人の訪米使命は失敗に終わったと思う、と。米国のマスコミ論調には、日本に対する考慮はうかがわれず、中国に対しても、中国政府を見捨ててもよいといった雰囲気があらわである。夫人は蒋総統に電報して好結果は期待できないと述べると、蒋総統は、対米交渉に望みがなく侮りを受けるようなら帰国せよ、と返電。  米国は日本を忘れた訳ではない、NANA通信が政府筋の談話を伝えた、「いまや米国が極東でとり得る唯一の政策は、日本を経済的にも軍事的にも再建して、共産主義とソ連の進出にたいする防波堤にすることができる」 さらに同通信は国防筋の発言を報道、「米政府は、日本に十分訓練された十万ないし十五万の武装警察力を建設することを考慮している」と。日本に警察軍を、というのはアイケルバーガー中将の提言でもあった。早速UP通信が中将に取材すると、「想えば連合軍が共産勢力の助力なしで日本を破った時、一つの防壁を取り除いた、この結果アジアの勢力均衡は破れ、共産主義勢力は急速に前進できるようになった」 除去された防壁とは満州にいた日本関東軍かと質問すると、中将は「ノーコメント」と微笑した。 11月下旬、蒋総統は行政院長(首相)を更迭して中央政治委員孫科を新首相に任命したが、孫は組閣に慎重を期したいと組閣をしないまま過ごしていた。呉秘書長が遅延に別の理由がある、米政府は蒋総統下野、新内閣は和平を優先することを希望している、と蔣総統に述べた。12月18日、蒋介石総統は行政院長孫科と対談した。院長は米大使スチュアートとの会見内容の概要を語り、米国はなお中国援助の熱意を失っていないと述べたが、総統は、大使の発言は和平活動支持の表明だと解釈し、大使顧問が米政府は総統の下野を希望しているとの情報とを照合し、背後に中共の手が動いていると判断した。

 この日18日、総司令部が特別発表を行った。国務省および陸軍省が前日、マッカーサー元帥に対して、次の九原則にもとづいて経済安定計画を立案することを日本政府に指令する指示をした。 ①均衡予算の確立、②徴税体制の改善と脱税取締の強化、③経済復興の目的以外の資金貸付の制限、④賃金安定計画の策定、⑤物価統制の拡大強化、⑥外国貿易・外国為替の管理の改善と強化、⑦輸出増大のための物資割当と配給の改善、⑧重要原料および製品の増産、⑨食料集荷の改善。この九原則は、自立経済を目指して援助を当てにせずすべてを外貨獲得に捧げよ、というに等しく、消費生活が向上しつつある日本にとっては逆行であり反発が予想された。USIS通信は政府当局談として、「この指令は日本人に入手可能な資源でまかなっていかねばならぬことを教えたものである。荒治療的なものであり、日本人には不人気かもしれない。が、日本人もいまや西欧諸国と同じ立場で自国経済を調整すべきである」 元帥は、九原則を指令した吉田首相あて書簡の中で、将来の米国の援助は九原則の目的達成の日本人の努力に比例して期待できると強調、次の行為は絶対許さないと通告した。①経営者または労働者の生産干渉、②九原則にかんする政治的紛争、③九原則にたいする思想的立場からの反対。経済復興のために、日本は政治的経済的思想的統制下におかれた。吉田首相は、わが政府は日本国民の能力に対する貴下の信頼に応える決心であると返書を送ると、民自党声明「総司令部の指令は日本再建についての重要な示唆であり、その主旨はわが党の政策に完全に一致する」、社会党「この九原則は、自由放任経済に切り替えんとする吉田内閣の政策に対する、ワシントンの重大な審判が下されたものと見られよう。政府の政策の基本方針はくつがえったことになる」、民主党「政府はこの際手放しの自由経済への復帰が崩れ去ったことを反省し、新原則に立脚した総合的施策を実践すべきである」  九原則を実行するには、まずは政局が安定し政府の基盤が強固でなければならない。吉田首相はマッカーサー元帥を訪ね、民政局長、経済科学局長も同席して協議した結果、新給与予算の政府案5300円を野党案6300円をのむことにして、野党側に通告した。ところが社会党内部に倒閣論が沸き起こり、片山委員長も、吉田少数党内閣は選挙管理内閣に相応しくないと声明して、予算審議の引き延ばしにかかった。12月20日、民政局長ホイットニー准将はまず衆議院議長松岡駒吉、次いで片山委員長、犬養健総裁、三木武夫中央委員長の野党三党首を招いて、①予算審議後に不信任案提出という政府・三党間の合意は生きている、②できるだけ速やかに解散しなければならない、新給与法案を本日中に通過しなければ、6300円ベースの本月支払は不可能になる。徹夜審議をしてでも可決すべき。 本会議は午後11時47分開かれ、21日払暁に可決、直ちに参議院に回付、ここでも可決された。ようやく解散態勢が整い、政府は23日、内閣不信任案の提出をもとめ、承諾された。 ふーむ、不思議な光景だ。

 12月23日、衆議院本会議は午後一時の予定が紛糾して午後4時54分開会、「衆議院は吉田内閣を信認せず。よって速やかに総辞職すべし。右決議す」社会党片山委員長が趣旨説明、採決を経て賛成多数で不信任案は成立した。本会議が休憩にはいると、政府は臨時閣議を開いて衆議院の解散を決定し、首相が宮中に参内して天皇に解散詔書の発布を奏請、午後10時50分本会議が再開され、官房長官佐藤栄作が解散詔書の写しを松岡議長に伝達、議長は詔書を朗読。「衆議院において内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第69条および第7条により、衆議院を解散する」 新憲法下の最初の解散であった。詔書の憲法第69条によるとの文言は、総司令部の意向に沿った異例のもので、その後の解散は第7条にもとづく。12月29日告示、1月23日施行。 お隣中国では12月31日、総統は国民党中央常務委員会を緊急招集し、元旦文告(年頭教書)を決定、発表させた。「自分個人の進退は国民の公意にゆだねる。共産党が民衆の幸福と国民の利益を心から願うならば、政府は和平交渉によって内戦を終結させる用意がある」 条件付き下野声明だった。

 元旦各紙に掲載された年頭の辞で、マッカーサー元帥は「世界中で日本ほど人間が自由と安全と安定を享受している国はない。多くの近隣諸国のどこよりもはるかに大きな平和と平穏の中に生活している。自分はこれまで米政府に対して、日本国民は外国貿易の機会を与えらるならば、完全な自立経済を確立できる意志と勤勉に恵まれていると、繰り返し報告してきた。諸君はいまやその機会を与えられたのだ。しかし日本復興計画の重点が政治から経済に移行したために、諸君はむしろ友好的だがきびしい世界の批判の目にさらされている。諸君の日常生活の維持が、いくらかでも他国の好意的援助に依存している限り政治的自由の達成は不可能だからである。近く行われる総選挙は、諸君がこの重大時期に主権を委託すべき指導者の選択に当たって、諸君の叡知を試すもののなろう。私はこれに伴う責任を果たす諸君の能力については、いささかの疑念も抱いていない」と主張した。 ふーむ、主張が的確だ、日本の指導者になりきっている。元帥は年頭の辞で昭和24年を日本の経済自立の年と規定するものだった。そして、元帥からはお年玉のプレゼントがあった。私はここに、諸君の国旗を再び国内において無制限に使用し掲揚することを許可する。そして国旗掲揚には三つの意義が具備されるべきだ、と。①正義と自由の不滅の観念に立脚した平和の象徴、②国家主義の普遍的な国際法に対する義務感の表象、③政治的自由を確保する経済復興に向かって日本国民の一人一人を奮い立たせる輝くみちびきの光。

 総司令部のスポークスマン視されるAP通信支局長ブラインズは朝日新聞に寄稿している。「終戦後の日本には愛国主義的なものが欠けていた。日本人は、国民としてよりは夫婦として働いていた。結果として、日本国内には混乱と日和見主義が発生し、保守、中道政治家の多くを、愛国主義と国家主義が唱えられないがゆえに共産主義の宣伝を防止できないと嘆かせた。だが、元帥の新年のメッセージははっきり国家主義の必要を示した。民族主義を唱えて共産主義者が勢力を増やしている時節柄、元帥の声明は適切なものであり、これで日本人の愛国主義を復活させることになるだろう」 朝日新聞の社説は総選挙を論述した。「二年前の総選挙の結果が何であったかは、いやというほど国民の目に焼き付いている。失敗の原因ははっきりしている。正しい選挙が行われず、議会が正当に国民を代表せず、内閣ががっちりした多数の上に築かれなかったからである。しかし、それよりも何よりも、国民が憲法の規定を忘れて、主権者たるの自覚を持たなかったからである。主権在民とは、国民が正当に選挙された代表者を通じて国政をおこなうことである。ゆえに国民には選挙を放棄することは許されない。腐敗した政治にあきれたといって、国民が主人の地位を捨てて誰に拾い上げてもらおうというのか。過去が例示するように、支配してくれる他人を求めて責任のない絶対服従の安易さに帰ろうというのか。それは国際的にも国内的にも、専制と隷属に甘んずる外力依存の奴隷根性に他ならない。今年こそ日本人は主権者にならねばならない」 このブログでは、第一次吉田内閣が、新しい憲法も発布されるので総選挙をやって新しい体制でスタートすべきとマッカーサー元帥に指示され、総選挙をおこなった。その結果、社会党が第一党になり、社会党を中心に連立内閣が成立したところから、随分細かく政治を追いかけてきた。朝日新聞の社説が指摘する事柄は、抽象的でよく理解できない。揚げ句は選挙民を𠮟正している。単純化してみれば、社説の論説委員が社会主義者で、総司令部が彼らの意に沿わなかったことを、選挙民に向かって叱正した様にしか読み取れない。

 投票日は1月23日、全国的に晴天に恵まれ、国民の関心も強かった。投票率は76%。総選挙の結果、民自党264、民主党69、社会党48、共産党35、国民協同党14、労働者農民党7、社会革新党5、諸所属他24,計466。民自党の予想以上の大勝であり、戦後初めて絶対多数党が出現、芦田元総理も自身の計算通りトップ当選を果たした。開票が進むにつれて大物の落選が相次いだ。 社会党:委員長片山哲、元副総理西尾末広、元農相永江一夫、元逓相相野溝勝、元労相加藤勘十、同夫人加藤シヅエ。 民主党:元国務相一松定吉、元国務相楢橋渡、元厚相竹田義一、元逓相富吉栄二、山下春江。 「民意 中道政治を去る」というのが朝日新聞の総括的論評だった。「知るところが少ないと思われる国民が、実は片山、芦田内閣によって社会、民主、国民協同党の連立政権がどういうものかを知っており、もっとはっきりしたもの、右か左かを求めて、大部分の票が民自と共産に流れたようだ」 この朝日新聞の観察は他のマスコミ一般にも共通するが、いわば選挙結果の現象的指摘にとどまる、と児島襄氏はいう。児島氏の現象的指摘にとどまるという記述は、重要だ。選挙前には色々指摘するが、国民の本当の意識を掴んでいなかった。だから現象面の指摘にとどまらざるを得ない。むしろ総司令部の方が、正確につかんでいるように思える。選挙前の予測で、総司令部外交部長シーボルトも民自党第一党を予測した、多数の支持を得ると見込んだ理由は、①民自党は、日本の経済復興を達成するには国家を引っ張っていく強力な単独政権が必要だと訴えた。これは連立政権に失望する日本国民への有効なアピールである。②民自党は、不必要な経済統制の撤廃、行政改革、物品税の廃止、外資導入などを公約した。他党にはみられぬ政策であり、国民の歓迎を受けた。 局長シーボルトは共産党の躍進も予期した。根拠は経済安定政策への反対を主張する。これも民自党と同様に具体的な提言である。社会党のこれまでの実効があがらない労働政策に失望している労働者階級は、共産主義を支持するよりも、社会党に対する反発の意味で、共産党に投票すると見込まれる。また、外的な環境とくに中国における共産党の勝利が、共産党の利益をもたらしている。中国の蒋介石総統が退陣すれば、それは共産党にとって劇的な支援になるだろう。 ふーむ、これが投票前の分析である。当時から朝日新聞は客観的にものを見る力をうしなっていたのか。選挙結果の予想を朝日は、「民自未知数の魅力、社会、民主の二位争い」

 

 


吉田内閣への道 政治の民主主義の道とは何か

2021年01月26日 | 歴史を尋ねる

 10月9日、吉田総裁はマッカーサー元帥を訪ねた。直接ぶっつかって総司令部の吉田内閣に対する意向を確かめるためである。総裁によれば、次期政権担当の決意を表明すると、元帥は諒承し、かつ激励したという。そのあと、民政局長ホイットニー准将は記者会見を行い、占領軍当局は吉田首班に反対なのか、という質問に回答した。占領軍当局は現下の政局打開を日本人にゆだねている。われわれはいずれかに与することはしない。ロイター通信は、総司令部は右翼政党である民自党の政権担当に反対しない、と報道。ふーむ、ホイットニー准将の言い方に引っかかりがある、吉田が直接マッカーサー元帥に直訴するとは。そしてロイター通信は民自党を右翼政党と言っている、これは民主党の中道に対する言葉上の右翼か、あるいは戦前を意識した右翼なのか。これは原語に当らないと不明だが、なぜかホイットニーの言い方を補完しているようにも取れる。 吉田総裁につづいて、国民協同党中央委員長三木武夫がマッカーサー元帥と会見、元帥は時局収拾策として、①挙国内閣をつくる、②重要法案の通過後に議会を解散する、ことを勧告した、と。

 民主党内には顧問犬養健を中心にした民自党と提携する保守合同論があり、首班指名選挙では吉田総裁に投票すべきだと主張していた。しかし、芦田首相は吉田推薦にはマイナス要素がある、と反対した。①連合国は吉田内閣に好感を持たない。②民主党は吉田推薦で、民主党に不甲斐なさを感じさせる、提携先を変える政権固執党に映る、民自党との握手は相手への無条件降伏になる。この際民主党が民自党を支持しては総司令部の信頼を失う。吉田が最小限度の点数で当選することが、日本の反動勢力が案外無力なことを示せる、山崎首班工作は中止するよりは推進した方がよい、実現しなくとも山崎立候補によって民自党内の結束が乱れ吉田総裁の得票も減る筈だから。民主党の延命を含む総司令部一辺倒構想だと児島襄氏はいう。吉田総裁も、そ底意を推理する。山崎首班工作は結局総司令部にあった私への反感を利用して、あわよくば連立の形でも政権の座に残ろうとした民主党の策謀と、解散回避をねらう民自党の一部もこれに加わって生じた運動とみた。  10月11日、第三臨時国会召集日である。議事が終了すると、民自党の幣原喜重郎、星野二郎両幹部が首班選挙での吉田総裁に対する投票依頼のため、各党控え室を歴訪した。芦田首相は犬養顧問らの主張を抑え、①民自党に民主党を含む挙国一致内閣を申し入れる、②拒否されれば野に下る、と。しかし、首班選挙を終わって後に挙国的内閣組織の呼びかけをする考えだった。事前に連立内閣を承知すれば、政策協定も必要になるし、首班選挙で世話になる関係上、組閣人事も影響を受け、民自党がめざす政局収拾の主導権は希薄化せざるを得ない。まずは首班選挙を治め、その成果を基礎にしての交渉が民自党の順序だった。だが、民主党側からすれば、議会勢力から民自党の単独政権は不可能、政権維持のためには連立内閣が唯一の手段、にも拘らず、民主党の申し入れを拒むとは。民自党が二回にわたって妥協案を提示したがこれを拒否、山崎幹事長を推挙する、と決議した。この動きをキャッチした益谷代議士が山崎幹事長を訪ね自重を促すと、「民主党から正式に担ぎ出しの申し入れがあったら、議員を辞める、日本の再建のためには保守統一が不可欠だが、私が首班に推される事態は保守統一にミゾをつくる。議席があれば投票される可能性がある、だから議員を辞めることにした」と幹事長は応えた。これを聞いて芦田首相は呆然とし、憂慮した。米国、中国などの意向を汲み、反動勢力と見做されている吉田・民自党が議会の大多数の支持を得るのはまずいと考えている、結局幹部たちの意見はまとまらず、首班指名選挙に入った。まず参議院で行われ、あっさり吉田茂が勝った。投票総数213のうち、144票を獲得した。午後9時、衆議院本会議で首班指名選挙が始まり、第一回投票では吉田民自党総裁が400票中、184票。過半数に達しないので決戦投票に移り、今度は吉田首班が確定した。投票総数399,吉田茂185,片山哲1,白票213。

 吉田首相の組閣は難航した。挙国一致連立内閣が総司令部の希望であったが、各党はこぞって背を向けた。総司令部も相変わらずに吉田首相に好感を示さない様子。 10月16日、吉田首相は総司令部民政局に挨拶に出かけたが、局長ホイットニー准将は多忙を理由に面会を拒否した。付言して「新内閣は民政局と全面的に衝突している」と。10月19日、第二次吉田内閣は発足した。ただし、民自党単独政権であり、閣僚ポストもすべてを充当できず、首相が外相、法務総裁、蔵相泉山三六が経済安定本部長官を兼任した。新内閣の顔ぶれを見て吉田氏の無鉄砲さに驚く、明治以来これ程お粗末な内閣は見たことがない、と芦田前首相は酷評した。同じころ、前第八軍司令官アイケルバーガー中将は、しきりに日本再軍備を説く行脚をつづけ、吉田内閣が成立した同日、全米安全評議会主催の講演会に招かれ演説した。中国大陸は赤化しつつある、さらに日本が共産主義者の手に落ちたらどうなるか。日本海は共産湖になる。米国、カナダ、フィリピン、オーストラリアは第二次世界大戦の成果を失い、東太平洋での将来の如何なる戦争にも必敗が保証されることになる。米国の日本占領政策が円滑に遂行されているのは、天皇から農民まで全日本人が協力しているからである。だが、米国は日本を武装解除しすぎた、われわれは日本防衛に対する大いなる責任がある。日本人が自国を守りたいなら、われわれはそうさせてやる義務がある。「私は日本がわが同盟国としてともに戦う事態を考えたくない。が、結局そうなるだろう」 拍手がわき、各新聞は中将の発言をヨーロッパ重視主義の政府への警告と論評した。10月21日、外人記者団は吉田首相に論評を求め、首相は応えた。近き将来において講和条約が締結されても、早急に占領軍が引き揚げることになっては日本の安全は脅かされるであろう、政府は日本の対外的安全保障問題に重大関心をもつが、警察力は弱体であり、憲法は軍備を放棄している、どうすれば日本の安全が保障されるべきか、なにも具体的な意見は持ちえない。首相としては、まずは弱体内閣で国内の政治、経済の安定に取り組まねばならない、と。おりから、中国では政府軍の苦境が深刻化、揚子江以北では政府軍が都市とその周辺地域に孤立する状況が頻出した。中国政府軍は全満州を放棄し各地から撤退を開始している。アイケルバーガー中将は、中共軍が兵力を二分して、一方が朝鮮半島になだれ込むのではないか、日本の危機が切迫していると感じ、経済力だけを日本につけさせる米国の新政策はもはや時期外れだと判断して、国務相政策企画部長ケナンに電話した。「ジョージ、日本にいま必要なのは貿易よりも防衛だ。わかっているだろう」 わかっている、というのがケナンの返事だった。

 11月2日、米国では絶対の本命視された共和党候補デューイが敗北、現職トルーマンが大統領選に勝った。民主党の勝利は、共和党による孤立主義への回帰を回避する米国民多数の意見の表れ、というのが各界に共通する論評だった。日本では、芦田前首相の女婿で前秘書官である下河辺三史が東京地方検察局に連行された。容疑は、在職中に昭電事件関係で起訴されている山林仲介業岡組社長から収賄したというもの。捜査、芦田氏の身辺へ、と新聞は報道した。11月8日、第三回臨時国会が開幕した。会期が討議され、野党に押し切られ11月一杯となり、政府は12月1日に通常国会を召集する旨を言明した。政府側は通常国会の冒頭に解散したいが、野党側は解散防止策として憲法論を用意していた。  解散に関する憲法の規定は二条だけ。第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民にために、左の国事に関する行為を行う。 三、衆議院を解散すること。  第六九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信認の決議案を否決した時は、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。   野党側は、第七条は天皇に関する儀礼的条項にすぎない。解散は第六九条によらねばならない。国会は国権の最高機関であるという第四一条、内閣総理大臣は国会が指名するとの第六七条を組み合わせれば、内閣は衆議院の意思に反して解散することは出来ない、と。憲政の神様、無所属代議士尾崎行雄も、首相が国会の反対を押し切って解散することは、民主主義に反する悪例となる、と。東大憲法学教授宮沢俊義は朝日新聞に投稿して野党側の言い分に反駁した。「解散は、内閣が主権者たる国民に訴えて最終の判定を求める手段である、衆議院の意思とは全く関係がない、これがイギリス型議院内閣制の本領であり、日本国憲法の精神である」 政府もこれで野党側の主張は論破されたと考えた。ところが、総司令部が割り込んできた。民政局議会政治課長ウィリアムズから、衆議院の解散は憲法六九条または国会多数の意思によるというのが総司令部の意見だった。佐藤法制局長官が用談を済ませて辞去しようとすると、ケーディス大佐が呼び止め、「解散は、国会の意思と無関係に内閣が勝手にやれるものではない、君も同意見だろう」と。大佐はハーバード大学法学部出身の弁護士で、ほかならぬ日本国憲法の総司令部側の起案主務者であった。長官は宮沢教授の意見も引用して反駁したが、大佐は理解を示さない。長官は国会に急行、法務総裁殖田俊吉と官房長官佐藤栄作に報告、この様子だと解散も簡単に行かない、と。

 ソ連外相モロトフは国際問題にかんする演説の中で、日独両国を無期限に占領する権利はない、日独講和の促進を図るべきだ、と。これに対して米陸軍次官ドレイパーは、今後の対日方針の大綱を発表、日本の経済復興強化を挙げた。中国では、南京、上海に戒厳令が布告される事態になった。一方でソ連が中国情勢を利用して日本への介入を企図し、他方で米国が日本の既定事実の確立を急ぐ構図が、浮上してきた。日本を太平洋の防波堤にする米国の方針が成就されるためにも、その援助を受けて日本が立直るためにも、大前提になるのは政治の安定である。日本は政争に時間を浪費する隙はないはず、と芦田前首相。 11月12日、二年半に及ぶ東京裁判が終わり、判決が言い渡された。この件は、別項で取り扱うことにして、先を急ぐ。 11月15日、吉田首相は臨時閣議を開き、解散問題を協議した。「万一政府が第六九条に準拠しなければ、GHQは断固たる措置をとる」と。しかし、政府としては自主解散権があると判断している。吉田はあくまで第七条解散方針を貫く決心を固めた。①第六九条解散は憲法違反である,それを容認することは憲法を破壊し将来に禍根を残すので応じられない。②国会で選出された少数党内閣が国民に信を問うのは憲政の常道である。それをしないのは国民を無視することになる、と。 この日、衆議院本会議が開かれた。野党側は首相の施政方針演説を求める決議を提出したが、首相は拒否し、論述した。首相指名選挙では自分に対する支持票を上回る白票が投ぜられた。これは内閣に対する不信任の表意にほかならず、冒頭解散が政治常識である、第三臨時国会は、マッカーサー元帥書簡にもとづいて前内閣が公約した公務員法改正を実施するためのものであり、ほかの議案はない。ゆえにその通過をまって現衆議院を解散し、改めて信を国民に問うことは当然であり、民主政治に沿うゆえんと信じる。吉田内閣の国会無視、院議無視については断固戦うと、社会党書記長浅沼稲次郎は息巻いたが、解散を好まぬ野党は不信任案を提出できず、政府も総司令部をおもんばかって第七条解散に踏み切れない。しかし、吉田首相は不退転の決意を固めていた。11月22日、首相は内閣記者団と会見し、①講和も外資導入も安定した政府という受け皿がなければ達成できない。現在のような小党分立状態から抜け出して安定政権を誕生させるには、総選挙以外にはない。②今国会は公務員法を改正するためのものである。その目的を果たせば国会を解散するのが憲政の常道であり、国民に希望である。③国民生活上、正月の選挙を避けた方がよい。出来れば本年中にやりたい、と。  24日、臨時閣議を開き、首相談話を発表した。「野党が前内閣の与党時代に提出した公務員法改正案に消極的なのは、マッカーサー元帥書簡の趣旨に反するのみならず、元帥に対する公約を無視するものと言わねばならない。本国会の期間中に是非とも本法案を通過させねばならない」  吉田首相は官房長官佐藤栄作を通じて衆議院議長松岡駒吉に伝え、議員運営委員会に出席して申入れをおこなった。法案が可決されれば、首相の施政方針演説を行うと約束した。芦田前総理は来年の2月まで解散できないと踏んだが、総司令部は変心した。マッカーサー元帥がこの解散権の問題を知って、少数党内閣の吉田に解散権がないというのでは国政運営に困ることになるから、そこは何とか解決の途をつけるべきだ、と裁断した。総司令部は自ら蒔いた種を刈り取る立場に追い込まれた。  28日、総司令部民政局ホイットニー准将は次長ケーディス大佐と共に、首相官邸にあらわれ、吉田首相に事態収拾策三カ条を提示した。①翌日中に改正案を通過させる。②新給与ベースによる追加予算の審議を二週間に限る。③予算審議の終了日に野党は内閣不信任案を提出、政府は国会を解散する。 つまり総司令部の憲法解釈を押し通し、両者の中間をとった妥協案だった。いわゆるなれ合い解散の筋書きだった。民自党は役員会を開き、総司令部の筋書き受け入れと追加予算の提出を決め、総司令部に報告した。野党側は社会党が難色を示し、三派代表者会議は難航した。改正案に対する共同修正案を作成したが、意見調整がはかどらず作業は遅れ、最終日、深夜まで可決されなければ法案は流れてしまう。やっと出来上がったのが、時間切れの4時間前だった。野党の足並みが乱れたのは、社会党の変心だった。民自党、社会党、民主党幹部もお濠端詣でをおこなったが、議会政治課長ウィリアムズは、夜通しかかっても法案は通さなければならない、これは元帥の命令と思うべしと言明し、衆議院議長室に陣取った。国会は徹夜態勢に入った。午前6時本会議の振鈴、午前8時公務員改正法案が多数で修正可決した。参議院は衆議院から回付された法案を、午後9時、衆議院の決定通り可決、第三臨時国会は終了した。


昭和電工事件と芦田内閣、吉田第二次政権への道

2021年01月23日 | 歴史を尋ねる

 昭和23年8月1日、芦田首相は、第八軍司令官アイケルバーガー中将を訪れ、帰国する中将にアメリカに帰られたら日本の事情を米政府要路者に周知させてもらいたいと書簡を手渡した。大国間の意見の相違によって対日講和への道は遠のいたが、この事態にともなって対日政策も修正され、日本国民は歓迎しているが、新政策が財政、経済の分野に加えて政治面にも及ぶこと、米政府が日本政府により広い主導権と責任を認めるならば、それは日本国民の再建と繁栄を目指す努力に一層の激励と刺激を与え、米政策の成功に貢献できる。更に対日講和で重視されねばならないのは、日本の安全保障問題である。現在の情況では日本の自立を守るためには日米間の安全保障協定の締結が不可欠である、と。中将は黙読し終わると、これは必ずアメリカ官民に対して働きかける、と約束した。日本の為にという首相の要請に対して、同じく日本の為にと応じてくれたアイケルバーガー中将の姿勢に、このところの日本の政治家の国家不在の論調に比して、芦田首相はひとしおの感動に誘われた。前日、首相は社会党委員長片山哲と会談し、臨時国会の日程に合意したが、委員長は国会冒頭の解散を提唱した。左派が強硬で閣僚引揚げを主張している、このままではまずい思いの別れになるので、一度解散して出直す方がいい、と。そうかと思えば共産党代表が面会に来て、「我々はあなたを憎しみを持って眺めている」と。首相はつくづく浅狭な政治家心理を思い知らされ、年内一杯で引退を決心した。

 社会党片山委員長は8月12日の記者会見で、臨時国会で解散を要求する考えに変わりはないと述べ、①解散要求は10月下旬に行いたい、②社会党は閣僚を総引揚げをするつもりはない。③解散した場合、現内閣は次の選挙ができるまでの選挙管理内閣の立場をとる、と。  8月15日、マッカーサー元帥はソウルに飛んだ。進駐いらいはじめての日本国外出張であり、大韓民国独立式典に出席するためだった。朝鮮半島はカイロ宣言によって朝鮮人民の自由独立が米英中国首脳によって合意され、同じく三国首脳によるポツダム宣言で確認された。ソ連も同宣言に参加した。日本が降伏すると、朝鮮半島の日本軍の武装解除するために北緯38度線以北はソ連軍、以南が米軍の担当地域にされた。その後北部はソ連がバックアップする金日成を指導者とする共産勢力が根を張り朝鮮人民共和国政府が名乗りを上げ、それに対して南部にも大韓民国が成立した。南北国家の誕生は軍事境界線が政治境界線にし、東西ドイツと同様に同胞分割を固定化し、この日は朝鮮半島分断の記念日ともなった。マッカーサー元帥の式辞には、「過去40年間、私は、諸君の愛国者たちが外国勢力の抑圧的な絆を断ち切ろうと努力してきたことを、称賛の眼をもって見守って来た」「朝鮮人は、外国の破壊的な思想になびくことによってその神聖な大義を犠牲に供するには、余りにも誇り高き祖先をもっている」 元帥は、米国と韓国との永久不変の親交を約束すると述べ、式典が終わると素早く羽田空港に引き返した。 ふーむ、マッカーサーは軍人というよりは政治家というのがピッタリ当てはまる見事な内容だ、韓国人としては勇気を奮い立たせるような式辞だ。  この日は日本にとって敗戦三周年記念日、後年のような戦没者追悼行事も集会もなく、宮城前に集まった数千人の群衆は、公務員法改正反対、芦田内閣打倒などを叫ぶ生活権防衛ファッショ人民大会に参加する労働者たちであった。芦田首相談話:「本日ここに更生日本満三年の記念日を迎えるにあたり、日本国民はまず自らの運命を自らの手で開拓する決意と気魄を新たにするとともに・・・文化国家の実を揚げなければならない」

 8月25日、芦田首相は元中国行政院長張群と会談した。張群側からの申し入れに応じたものだが、首相は会見に強い関心をそそられた。日本にソ連を含めた講和に同意させるためか、あるいは中国の政策変更を伝えるためか。院長は来日が非公式であることを明らかにし、旧勢力が恢復する虞はないか、日本の民主化の実状を質した。第一次大戦後のドイツと現在の日本を同一視しているようだが、当時の戦勝連合国はドイツに賠償金を課したが政治には介入しなかった。今回はドイツにも日本にも政治改革による国家改造を施策し、保障占領迄行っている。旧ドイツ、旧日本の再生は封印されている。国を挙げて敗戦後の苦しい生活に追われている状態で、この状態が何時までも続くと共産党の危険が増大してくる心配がある、中国における共産党勢力の拡大の主因はまさに国民生活の窮迫にあるのではないか。張群院長の恐日感について首相は「日本の軍国主義は元来が借り物で根が浅かった。その根さえも無くなった今日、国民の気持ちを質して見たならば戦争を好むという者は一人もいないと信ずる」と。張群院長は黙思した後、「国交上の現実問題としては、経済問題が重要である」と話題を変えた。ひと呼吸して「中国経済はなんと言っても日本の援助を必要とする」と。芦田首相は瞠目した。それが真の目的だったのか、と。中国が極度の経済困難に陥っていることは分かるが、日本も戦災にあえいでいる。米国は中国に巨額の援助を行っているが、それにしても日本からの援助を口走るのは、講和の前に賠償を取りたてたいのでもあろうか、「如何せん日本は目下疲弊しているので、経済回復のために五年や七年は必要、唯今、日本に技術者は余っているので、これ等は直ぐにでもお役に立て得るものである」と首相。過去の日貨排斥は政治的反発であり産業上の利害衝突は一部に過ぎなかった、中国の復興のためにはこれまでの十倍の経済拡張が必要だが、日本は技術者の提供は出来ても物をもってお手伝いすることは出来ない、と。首相は用意した質問を開始、中共はソ連からどの程度の援助を受けているか、いまのところ具体的確認はない、ただ、満州方面の中共軍は旧日本軍の武器を使用していてソ連製の武器は供給されていない、と院長。中共討伐の見透しは如何、と首相。「なかなか短期間のは片づかないと思うので、武力と政治とを並行して解決を図るほかはない」と院長。取りたてて特筆するほどの話はなかったと首相は日記に既述したが、対中共戦への自信の無さに注目した。中国の赤化はアジア情勢に影響を与え、日本の共産党および左派勢力を鼓舞するに違いなく、自立日本のための努力と成果は霧消するし対日講和の機会も霧散する、その際に日本側の受け皿が確立されていれば有効な対応も可能、すなわち官僚機構の安定だ。社会に革命の気運が起っても官界が動揺しなければ行政、司法の機能稼働し、国家としての対外関係も維持できる、そのためにはあらかじめ共産分子を公務員から排除しておけばよい、首相の着想は、公務員ストを禁止するマッカーサー書簡よりも一歩踏み込んだ官界浄化策の必要を考え、外務省調査局に共産党員排除法案の研究を指示していた。

 8月27日、西尾元副総理は起訴されていた偽証罪の容疑にたいして、東京地方裁判所で無罪の判決を受けた。西尾は首相を訪ね、この際解散することはない、三派で頑張ることだ、片山君だって君に譲って去った以上責任がある、と。翌日、日銀総裁一万田尚登が官邸にやってきて、「経済再建は環境が恵まれている今が足場の出来る時であるのに、政界は労組と同じ様に行き過ぎている。これでは折角の好機を逃す惧れがあるから、何とか解散などは避けて平和に政党間の協力体制が出来ないか」と。また、総裁は石炭労組と電産労組が賃上げを要求しているが、総司令部経済科学局はそれを抑える気配を示していない、政府が方針を明確にしないと、物価と賃金の悪循環が始まる、と警告した。なお、この日、首相は経済安定本部長来栖赳夫を訪ね、自動車買入代金15万円を借用した。この資金は来栖長官の金策によるが、実はそのころ世間の耳目を集め始めた昭和電工事件がらみのものであり、やがて首相自身の命取りになるものだった。   のちに司法史上稀に見る事件と表現されるこの事件は、政、官、財界さらに総司令部を巻き込む贈収賄事件であるが、その発端は昭和22年3月、昭和電工株式会社の株主総会が開かれ、社長森曉が退任し、日本水素株式会社社長日野原節三が新社長に選任された。日野原は八カ月前に日本水素社長に就任したばかりだった。総司令部経済科学局反トラスト・カルテル課渉外係長ザイビュウ少佐は女性通訳との交際をはねつけられたので森社長の退任を工作、復興金融金庫理事二宮善基と持株会社整理委員会委員長笹山忠夫の支援で日野原社長が実現した。日野原社長が直面したのは会社の資金難で仕事は金策だった。昭和電工は総司令部の肥料増産指令によって肥料生産会社に指定された。工場の復旧改築、生産増強のために膨大な設備資金、運転資金が必要だが、指定工場なので政府、民間金融機関の融資が受けやすい立場にあった。日野原の仕事は、申請融資に対する許可並びに貸出の促進を図ることであり、越年資金の獲得もその努力の成果であった。努力すなわち関係筋への供応攻勢であったが、日野原社長は裏帳簿、製品にヤミ売り、日本水産からの援助の三方法で、工作機密費を捻出した。昭和電工が多額の融資を獲得して操業できたのは、日野原社長による連夜の接待工作のお陰だとすれば、社長は中興の功労者だと言える。だが、社長の工作活動は違法であった。昭和電工は制限会社で、持株会社整理委員会の許可がなければ会社財産の処分や預金の払戻し、使途を公表できない機密費の支出も出来なかった。会社のためだとはいえ、禁令を破り、派手に脱法行為を行った。

 8月に衆議院鉱工業委員会で社会党稲村順三議員が昭和電工に対する融資は不当に破格ではないか、会社経理に不正がないか、と質問、怪文書もまかれ、昭和電工に対する異常な集中的融資とその大ぴらな接待商法への疑惑は強まる一方であった。日野原社長も違法行為の自覚があるだけに、旧内務官僚の二人を会社顧問に、元農林次官に検察関係への対応を依頼した。警視庁は12月下旬に内定を開始、会社が利用する料亭、社内の反社長派、不動産・株式売買関係者などの聞き込みにまず当らせた。その後5月25日、警視庁は昭和電工本社を捜索し、帳簿一千冊以上を含むトラック三台分の書類を押収、秘密メモを手掛かりに金品贈与の記録を発見、次々に逮捕を進め、6月30日日野原社長を逮捕、翌月総務部長、財務部長、更に安田、三和銀行の収賄容疑者が次々逮捕された。9月2日事件が容易ならぬ大事と判定され、特別捜査本部が設けられ検察官24人、事務官54人が投入された。9月5日、社長は一気に贈賄者の氏名を自供した。その中に経済安定本部長栗栖赳夫の名前も。9月12日、東京地方検察庁は、大蔵省主計局長福田赳夫宅を家宅捜索し局長を収容すると共に33種類の物品を押収した。靴下44足、メリヤスシャツ上下一組、安全カミソリ一丁、ウイスキー20本、清酒一樽、下駄六足、封入入れ一包・・・。いずれも収賄品とみなされたが、いかにも物資欠乏時代を表徴する記録である。それにしても度が過ぎた法の適用だとの印象をうけるが、法は法である。身の回りはヤミ物資で囲まれ、ヤミ買い、横流しなどは必要悪視されていた。そんな時代には厳密かつ厳格にすぎるであろう・・。芦田首相は日記にいう。近頃の検察官の行き過ぎでニガニガしい事が多い。こんなことをしていては世間は再び委縮してしまう、と。

 9月30日、来栖長官と秘書官三ツ木恒彦が逮捕された。10月6日、公判中に別の事件で西尾前副総理が逮捕された。西尾前副総理は辞任済みである。しかし、経済安定本部長官来栖赳夫と同様に現職中に昭電疑獄に巻き込まれていたとあっては、芦田内閣の土台は根底から崩壊していたと言える。臨時国会、解散などの政治日程も、まして挙国連立内閣構想も一気に吹き飛んだ。斯くなれば辞職の外はない。社会党は総辞職すべきと決議した。午後宮中でお茶の会に出席、芦田首相はそのまま残って、天皇に謁見、辞職を決意しました、お許しを願います、と。次期内閣の予想に関する下問に、「両三日来知り得たお濠端の空気(総司令部)が、吉田茂等に対してよくありません」 すると第二次芦田内閣になるのか、「芦田は左様な事を予想致しておりません」   10月7日、米国務次官ザルツマンは大学の講演で、「われわれは忍耐、冷静、精神力の限りを尽くして戦争を避けようとしている。しかし、これは不可能であるかも知れぬ」 なぜならソ連の支配者には世界平和確立のために協力する意思が見当たらない。おかげで、国連はソ連の妨害で国際紛争解決には無力になっている。ヨーロッパでは、ベルリンの危機の外にフランス、イタリア、西ドイツが政治ストで揺れ、アジアでは、韓国に騒擾が繰り返され、中国は小川を集めた大河が氾濫する勢いの共産党軍が満州を席捲中である。すべてはソ連を背にした動乱に他ならない。あらゆる犠牲を払っても安全と自由を確保する用意を怠ってはならぬ、対ソ戦を覚悟しよう、と言うのである。帰国してワシントンに滞在するアイケルバーガー中将は、反発心をさそわれた。第二次大戦に勝ち抜いて守った自由主義世界が、今や崩壊の危機に直面している。だが、その原因をつくったのは米国とくに国務相ではないか、第二次大戦後、戦勝国の主導権を握る米国がやったのは、ただ戦争忌避のかけ声を発しただけであった、と。国務省は一方で国連をつくり、他方では戦争は犯罪だという概念を発明してドイツと日本の指導者を裁き、それが戦争再発の防止策になると考えた。日本には戦争放棄の憲法を制定させて不戦国にすることに成功した。だが、この国務相製の平和世界案が現実化するためには、全世界が米国と同種の思想による同型の国家群になり、軍備が全廃されることが前提条件になる。戦争を拒否しない国が一国でもあれば、平和の維持も侵略の防止も不可能である。「国務相は米国を武装しながら他国を武装解除させ、それが戦争を嫌がらぬ共産主義ソ連に世界制覇の機会を与えたことに気付いて、あわてているのだ」 ファシズムの世界征服を防止して共産主義に世界を与えるのでは、第二次大戦は無意味になる。

 10月7日、芦田内閣は総辞職した。閣議で、昭和電工事件に対する道義的責任のために辞職する、総司令部の諒解をとる必要があるので辞表提出は待って欲しいと述べ、首相は総司令部を訪ねた。マッカーサー元帥は、「君は組閣いらい多くの困難に逢着しつつ各派を取りまとめてよくやった。私はそれをアプリシエイトする。この際私が強調したいことは、日本の指導者が本当の愛国心をもって事に当たることを望むという点だ」とねぎらいの言葉を告げた。首相は日誌で述べる。「私は日本人よりも私の心事をよく了解して呉れると感じた。アメリカ人は率直だ。そして話して見るとお互いにぴったりと気持ちが合う」と。午後二時閣議を再開、元帥との会見の模様を報告して辞表を取りまとめ、政府声明を発表した。ところで、内閣が倒れれば次に内閣は野党第一党の党首が組織することになるが、その憲政の常道にそぐわぬ動きがすでに発生していた。野党民自党に移行させるが、首班は総裁吉田茂ではなく幹事長山崎猛にしようというのであった。この工作の中心は総司令部民政局であり、一説には、早くも9月下旬、民自党副幹事長山口喜久一郎に保守反動の吉田総裁の政権担当に反対の意向が伝えられた。また、民政局次長ケーディス大佐が挙国連立内閣を成立させるためには吉田総裁ではなく山崎幹事長が適任だと判決した。前日、民自党総務会長星野二郎、副幹事長広川弘禅は大磯の吉田邸に急行し、芦田首相の総辞職決断を伝えると共に、総司令部が吉田内閣を拒否するかも知れぬ、と告げた。だが、吉田総裁は憤然として応えた。「拒否するか直接ぶっつかってみるべきだ」 吉田総裁は闘志を燃やした。芦田内閣総辞職の日に上京した総裁は、緊急役員会を招集して声明した。「世間に伝わるようなこと(山崎首班)はないと信じる。政治は人の好き嫌いにより左右すべきではない」  役員会は、事態収拾の主導権は民自党以外にはない、次期首班は吉田総裁一本」にするとの方針を決定した。さらに翌日、吉田総裁は、民自党両院議員総会で強調した。「この政変に処しては、政権獲得よりも、民主政治確立のためにわが党が範を垂れるとの覚悟で臨むべきである。民主政治の精神に反する如き流言に対して、毅然たる態度をもって、挙党一致して政局に処したい」 山崎首班工作に惑わされるな、粉砕せよ、との号令であった。

 

 

 


社会党左派と芦田内閣

2021年01月15日 | 歴史を尋ねる

 予算案についての与党 ー民主、社会、国民協同党ー の足並みが揃い切らず、芦田内閣の予算審議が進まなかった。政府は副総理・社会党書記長西尾末広の起訴を押さえて予算成立を先行させようとしたが、社会党左派は、西尾問題と予算は不可分関係にあるとし、西尾副総理の辞任が先決だと主張して譲らない。6月23日、社会党は党出身閣僚と幹部との協議会をひらき、西尾書記長の進退は委員長片山哲に一任、左派に野党側が予定している不信任案に同調させないようにする、と決定したが、左派に一蹴された。クズ哲の異名の如く、一度だって自分から処理したことがない、一任なんて信用ならん、と。野党側は本会議で不信任案を上程することにした。

 たまりかねた形で、総司令部科学経済相マーカット少将は経済安定本部長官来栖赳夫を招いて通告。本予算の議会通過遅延は一カ月百億円の収入減をもたらす、均衡予算の成立が米国の対日援助の前提になっている。その不成立は対日援助に悪影響を及ぼし、占領業務に支障をきたす、いまや日本は占領開始いらい最大の危機に直面している、国会の会期はあと六日間である、この期間内に予算を成立させなければならない。以上述べたことはマッカーサー元帥の強い意思表示である、と。社会党は直ちに中央執行委員会を開催、不信任案に対して挙党一致粉砕を期す、委員長の責任ある処置を待つ、と。西尾委員長は発言を求め、私の責任において、党に迷惑を掛けない。午後6時本会議が開会、不信任案は賛成171、反対209で否決された。翌々日、芦田首相は総司令部マーカット少将を訪ね、予算の見透しは楽観である、と述べた。ところが28日、朝海浩一郎を総司令部に派遣し、内閣としては予算を是非通したいが、社会党左派がゴネるので、社会党の統制がとれない。或いは内閣は辞職をしなければならないと思うが、その場合に予算不成立は不幸である。経済科学局がメモランダムを出してほしい、と。少将は驚いた。マッカーサー元帥に相談してくるといって、一時間以上待っても戻らない。あきらめて朝海部長は首相に報告した。芦田首相は片山委員長を訪ねたが、党首会談に応じるが予算については社会党の主張に変化ない、連立は解消するかもしれぬ、と。衆議院議長松岡駒吉は首相を招き、総司令部から会期が終了する明日中に予算を通せ、と。前日朝海からのメモランダム発出の要望を受けて、マーカット少将はマッカーサー元帥と協議したが、元帥は渋った。日本政府に対するいちいちの指令が評判良くなかった。元帥は今一度の努力をこころみるべきだと指示し、民政局は松岡議長に使者を差し向けた訳だった。議長は三党首会談で折り合いをつけてほしいと首相に要請、議長も同席して三党首が話し合ったが、運賃値上げ問題でまとまらず散会、三党首揃って明日司令部マーカット少将にその結果を報告することになった。

 6月30日第二国会の会期末、芦田首相は三党首会談で熱弁を振るった。運賃値上げ問題で妥協が出来なければ、内閣を投げ出さなくてはならない、総司令部は干渉する意図はないようだが、この体たらくで干渉を求める恥さらしはしたくない、内閣を投出せば民自党は引き抜きに相当成功するだろう、解散になれば三党は惨憺たる結果を招く、それより予算なき政府は深刻である、国民生活は混迷し、インフレの昂進は避けられない、と述べた。片山委員長も党議に縛られ従来の主張を繰り返した。談判決裂と見極め、三人で総司令部に行こうと提案すると、片山委員長は中座を求め、党幹部と相談して帰ってくると、2・55倍で妥協しようと0・05の譲歩をしてきた。ここで決着すべきと、三木国民協同党委員長がささやき、首相も同意した。会期はこの日の午後12時まで。審議未了の法案を含めてすべてを処理することは不可能、①政府は直ちに運賃2・55倍値上げを基礎にする新予算案を作成する、②国会の会期を7月5日まで延長する、③予算は7月2日に成立させる。衆参両院はそれぞれ会期延長が決定された。  7月2日衆議院の予算通過の日であるが、三党首で決めた予定が大幅狂った。野党側の予算案上程の阻止工作、与党内の反対意見の再燃などが交錯して予算委員会の開催がずれ込んだ。政府予算案は一票差で否決されたが、委員会で否決されても本会議で可決されればよく、政府側は動揺しなかった。予算委員会が終了したのは午後11時20分、芦田首相は徹夜国会による予算成立を決意、午後11時51分に本会議をひらくと、議長は直ちに散会することを述べ、翌日午前0時30分に再開すると宣言。衆院本会議は午前1時9分から予算案の審議に入り、型通りの討論の後採決に移り、投票総数393、賛成217、反対176、与党である社会党左派12人が反対票を投じたが、予算案は可決された。翌日参議院の予算案が上程され、賛成117、反対57で可決された。芦田首相はこんな感想を持った、各派の賛否討論は誰一人として傾聴すべき様な論はない。全く府県会の程度で、昔の貴族院より低劣だ、情けない、と。

 7月22日、首相官邸に総司令部民政局長ホイットニー准将が来訪、マッカーサー元帥の書簡を持ってきた。内容は次の通り。政府関係の労働運動は極めて制限された範囲内で行われるべきであり、主権を行使している行政、司法、立法各機関の代用となったり、それに挑戦することは許されない。労組の判断を各機関に押し付け議会の権能を侵害することは、民主主義理念に反する。ゆえに非現業官公吏は、争議行為若しくは政府業務の能率を阻害する紛争手段に訴えてはならない。また、公衆に対してかかる行動に訴えて公共の信託を裏切ってはならない。そして次の措置の実施を要求した。 ①政府職員にたいしては団結権は認めるが、団体交渉権、争議権は認めない。②官吏の給与は議会で定める。③官公労組の意見の申し立て先は人事委員会に限定する。④現業と非現業を分離し、鉄道、通信、専売などの現業を公共企業体にする。  この書簡の発出には背景事情があった。戦後の労働運動の中核は、つねに官公労であり、その運動は政治性の強いものであった。政府はその対策に苦慮したが、片山内閣、芦田内閣も労働者の権利の伸長を政綱にする社会党を基盤にするだけに、官公労を抑制しきれない。公務員法の改正が論議されたが、与党である民主、社会両党の意見が食い違い、非現業職員のスト禁止の精神を案文に盛り込む以上には策案出来なかった。総司令部は官公労が9月の臨時国会び焦点をあててストを準備していることを知ると、阻止能力がない日本政府に代わって秩序回復手段をとるべきだ、と決意した。  この書簡に対して芦田は、官公労の組合の行き過ぎは締めなおす必要があるし、民主党の態度はこの書面の線に沿う。しかし、ことは社会党とくに左派の地盤を解体させ、官僚組織を衣替えさせる急進政策につながる。社会党の反発による内閣瓦解も予想される、と。准将は、社会党が総司令部の意思に反抗するとは考えない、この書面の趣旨は労働問題を要点とするのではない。政府使用人の規律の問題である、と。これをやらねば日本の再建は出来ない、と芦田。その通りだ、われわれはフルサポートをする、と准将。

 社会党、共産党などの左派勢力は、日本の敗戦を機会に蘇生しただけのものではない、米国の日本民主化政策に基づき、占領軍がその存在を容認したからである。ただし、米国の対日政策は日本を米国型民主主義国家に改造することであり、社会主義国または共産主義国にするものではない。従って占領軍の認める左翼の活動は民主国日本のワク内にとどまる。それを逸脱したり転覆させる気配がみえる場合、断固とした抑圧手段が取られてきた。だから、左派勢力も占領軍に逆らって生き延びられぬことを自覚している筈であり、書簡に対して積極的に反抗はしないと見込まれる。ただし占領は間接統治方式なので、左派勢力が国内で右派あるいは政府を目標にする政争をこころみるのは自由である。占領軍はギリギリまで干渉しない立場をとっているので、左派は試してみる価値はある、と。

 翌日、閣議でマッカーサー書簡の日本語訳が提示された。全閣僚がショックを受けた様子であったが、とくに社会党閣僚は顔色を変えた。そして閣議後に公表された。これまでは、命令、指令、指示、覚書その他形式はどうあれ、マッカーサー元帥の日本に対する通告は全て命令として実行されてきた。書簡も同様の強制力を持つものと理解すべきであろう。それなのに、社会党側が敢えて疑義を表明するような姿勢を示すのは、つまりは命令だとして労組側を納得させる底意だとも推測できる、と児島氏は分析する。首相は官房長官、厚相、経済安定本部長官と共に情勢判断会議をひらき、総司令部側から書簡が命令にひとしい旨を言明してもらおう、と議決した。公務員法改正案の作成には時間がかかり、場合によっては解散が必要になるとの判断も一致して、選挙費用のことは竹田厚相、来栖長官を煩わす外はない、首相は発言した。長官の資金運動はやがて昭和電工事件と関連して芦田内閣の命取りになる。この時期、長官も首相も文字通りに夢想外であったが。

 7月26日、総司令部経済科学局労働課長キレンは、労働次官江口美登留を招いて次の三項目を示達した。 ①マッカーサー書簡の指示事項は即時実施されるべきである。 ②政府職員の争議権および団体交渉権は、同書簡により消滅した。 ③組合が争議を強行すれば情勢は悪化する。 書簡は命令にひとしく、政府側の要請にこたえた通告である。社会党側の姿勢は委縮し、首相は日誌に記述する。「官公労は一応腰が砕けて思案投げ首。社会党も協議した結果、マッカーサー書簡を呑み、解散の風も棚上げらしいとの情報。書簡は内閣を強くした。我々はこの機会に官公労を叩き直す必要があると思う」

 

 


芦田内閣誕生

2021年01月12日 | 歴史を尋ねる

 片山内閣総辞職後の衆議院の勢力分野は以下の通り。社会党123、自由党120、民主党93、国民協同党29、同志クラブ28、有志議員クラブ16、第一議員クラブ13、農民党7、共産党4、無所属13、計446(欠員20) いずれも単独政権は不可能であり、主要政党は連立を企図する。有力視されたのは、「社、民、国」の片山内閣を「民、社、国」に変える芦田内閣である。しかし、捲土重来を期す自由党は民主党を切り崩し、小会派の抱き込み工作を猛烈に展開、国会での決戦を目指す。各党の思惑が絡んで首班選挙の日程も決まらず、新内閣の誕生は難産の気配。この間に、国際情勢は流動していた。最も目立つのは朝鮮半島、2月16日、北朝鮮の平壌放送局は突然、北朝鮮人民委員会委員長金日成の声を電波に乗せた。北朝鮮に人民共和国と人民軍が設立された、と。3月中旬までに憲法を採択、国旗の制定、南朝鮮が参加するまで平壌を首都にする。朝鮮半島はカイロ、ポツダム宣言を通じて、米・英・ソ・中国によってその独立が保証され、日本が降伏すると、北緯38度の北、南はそれぞれソ連、米国が担当して日本軍の武装解除を行い、独立準備については国連の朝鮮委員会にゆだねられた。臨時の軍事境界線である38度線は、北朝鮮のソ連を背に人民委員会の指導力が増すにつれて、思想的政治的境界線の性格を強め、半島の単一独立国家を目指す国連朝鮮委員会の作業は難航した。ソ連は北朝鮮に傀儡政権を樹立して協定を踏みにじった。ソ連は最初は秘密裡に、現在では公然と国連を無視する挙に出たと、南朝鮮米軍スポークスマンが声明すれば、委員会議長メノンは、「いまや朝鮮は明確に二つに分かれるであろう。北と南で別々に政府を樹立するのは、朝鮮人にとって最も不幸なことである」と語った。  歴史とは不思議なものである。戦前は日本がロシアの南下を恐れて、日露戦争迄打って出たが、第二次大戦後は公然と朝鮮半島に進出する。それを米軍ややっとの思いで支えている、日露戦争時の日本の危機意識を追認するような事態、今度は日本に代わって米軍が出てきた。

 朝鮮半島の新事態に、米国はどう動いたのか。2月18日、トルーマン大統領は中国援助のために五億七千万ドルの支出を議会に要請した。下院外交委員会でマーシャル国務長官とジャッド下院議員の問答を児島氏は引く。 問 米国の援助がなければ中国の国民政府は崩壊の危険があるのか。 答 可能性はある。少なくとも揚子江以北は完全に共産党が支配するだろう。 問 その場合、朝鮮の米国の地位は保てるのか。 答 ノー。 問 その場合、米勢力が日本から撤退することになるのか。 答 われわれは真に重大な局面に立つことになるだろう。 長官は中国に対する長期間の全面的援助は不可能である旨も述べ、中国の末期的症状に北朝鮮の独立が加わった影響が日本に波及する懸念を表明した。 外交評論家シムスは「朝鮮は極東のポーランドになる運命にあるようだ」「満州、朝鮮が赤化することは、米国が日本が赤化したアジアの先鋒になることになれば、戦前の日本の脅威などはまだ生易しい」 21日米政府筋は「米国は太平洋の共同戦線維持という差し迫った目標のために対日援助を強化する。日本の復興を喜ばぬアジア諸国は対内利益を忘れるべきである」と。講和は一層遠ざかる状況であった。

 2月21日、国会で後継首班の指名選挙が行われ、衆議院の結果は、芦田均216、吉田茂180、片山哲8、徳田球一3、無効14。得票の内訳、芦田均:社会党101、民主党88、国民協同党25、第一議員クラブ2。吉田茂:自由党117、民主党9、同志クラブ26、有志議員クラブ11、第一議員クラブ6、農民党7、無所属4。 参議院では、決選投票で吉田茂104、芦田均102。両院の決定が不一致なので両院協議会を開いても決められず、憲法第67条によって衆議院の議決である芦田首相が誕生した。芦田新首相はマッカーサー元帥を訪ね、施政方針覚書を提示した。①世界の信頼を獲得できる新日本の建設、②民主化と社会安定の強化、③経済再編成の促進、特に基幹産業を優先し必要なら政府が管理する用意がある。穏健な労働組織を支持する。共産主義および極端な政治思想は民主主義の発展に有害なのでその防止に努め、赤色分子とは断固戦う。元帥はファインといって、新内閣を全面的に支持する、と告げた。新内閣は三党政策協定と片山入閣を組閣の不可欠要件と見定めたが、何れもの交渉が難航し2月末となっても解決のめどが立たなかった。折から国際情勢の変容が伝えられた。米ソ関係のワク組が明確になるまで対日講和会議は開かれないだろう、講和より先に日本を復興させるという連合国側の方針が浮上してきた。本格的な貿易再開が見込まれ、国内の体制整備が急務となる。にも拘わらず新内閣の発足がもたついている。政、財、官界のいずれにもいら立ちの雰囲気が醸成され始めた。一方米国ではマッカーサー元帥の大統領出馬問題が浮上していた。同じく国務相政策企画部長G・ケナンが、自ら献策した対日講和は米国の太平洋戦略の一環にしなければならぬということで、陸軍省作戦課長と共に来日した。この関係はすでに詳述済みだ。

 5月3日、新憲法施行一周年記念日。マッカーサー元帥は日本国民あてのメッセージで、「周囲が荒れ狂い混乱する中にあって、今日の日本は比較的に静かでかつ意義ある努力をしている・・・アジアに新しい不落の民主主義の堅城をつくることに力を注ぐ日本は、真に自由な生活様式という恩恵を国民に与え、かつそれによって混乱と恐怖による不安定にさいなまれている世界の一つの安定要素となるであろう」 新憲法による民主化こそが日本の生きる道であり、それ以外に国際社会への復帰はあり得ない、日本の三権の長と元帥も説く。しかし、国際社会への復帰には、講和条約の締結が必須条件となる。その講和のことは誰も口にせず、外界からも聞こえてこない。しかし米国から、講和ナシでも日本を実質的に自立させようという励声が聞えてきた。戦争はとっくに終わったのだし、政府はソ連に対抗するために日本を味方にしようとしている、強い敵は強い味方にもなる。日本の経済的復興に賛成する。彼らが自活できれば、われわれの負担がなくなる。極東を繫栄させようとするならば、日本人に抱く憎しみと偏見を捨てよ、日本に経済的自立を達成させようとするなら、極東その他若干の地域に対する相当量の輸出を許可せよ。これらの発言を受けて、総司令部ニューヨーク貿易事務所は日本の貿易代金は半額をドル、半額を他の通貨か商品で決済することと発表した。日本に対する欧米、アジアでの貿易再開許可宣言だった。ふーむ、戦後これまで貿易も出来ない国だったのだ。この項もすでに詳述済みである。ここのところは重要なので、重複するが、敢えて記述しておきたい。総司令部は、天然資源局作成の報告書を発表した。「日本は自給自足が出来ない国である」 現人口約八千万人は1950年には九千二百万人に増加すると予想されるが、高地拡張計画が達成されても現在同様、必要食料の四分の一は輸入に頼らざるを得ない。「日本は食料の四分の一を買うための貿易を認められない限り、絶え間ない飢餓の脅威にさらされ、それをまぬかれさせるためには米国の援助も永遠に続くことになる」 その解決策は次の五策、①工業活動に対する制限の緩和、②海外市場の拡大、③技術援助、④賠償の軽減、⑤新魚区の開発。 「この解決策が実施されなければ日本人の生活水準は下がる一方、彼らは民主主義とは別の政治体制に魅力を感ずるだろう」「日本の貿易手段は繊維品輸出である。日本の繊維生産能力を来年末までに戦前の四分の一に回復することを希望している」 ふーん、総司令部は日本人の食い扶持迄心配して計画を練っていたのだ。

 日本政府は予算で苦戦していた。なにぶんにも財源が乏しいうえに各方面からの要求が重なり、おまけに総司令部の注文も加わって、昭和23年度予算の編成は難航した。それでも5月27日予算案が確定、議会の審議に回したが、野党側だけではなく、党内からも民生安定には程遠い片寄り予算であるとの批判が上がった。予算は当時の日本の担税力ギリギリであった。この審議のさなか、前回の総選挙の際の政治資金問題を審議する衆議院不当財政委員会で、副総理・社会党書記長西尾末広がやり玉に挙がった。選挙資金として五十万円の政治資金を受けた。政党に対する献金は、知事に届け出が義務づけられている。だが書記長は届け出なかった。西尾は委員会で社会党書記長個人に渡されたと思った、ゆえに名刺に受け取った旨を書き手交した。私もいくらか使ったが、ほとんど社会党候補者に渡した、と証言、野党側を刺激した。偽証罪になる可能性があると野党側が息巻けば、社会党左派議員が反西尾ののろしを上げた。予算審議はつかえた。

 最高検察庁は西尾書記長の起訴の方針を固めた。しかし「国務大臣はその在任中、内閣総理大臣の同意がなければ訴追されない。但しこれがため、訴追の権利は害されない」 閣僚の任免権をもつ首相は大臣をかばって訴追を遅らすことができる。首相は許諾引き延ばしの意向を暗示したが、西尾は士気阻喪。しかし副総理は変心した。社会党執行委員会で、検察庁が自分を起訴するのはデマだ、その出所を究明する必要がある、と強硬発言、左派議員は黙り込み、右派議員は西尾支持を表明した。6月12日、民自党代議士が偽証罪で検察庁に告訴、社会党左派議員が、衆議院52人、参議院11人の連著した辞任勧告書を西尾副総理に手渡した。この日、首相は全閣僚を招いて懇談、社会党は全体とそて内閣維持に賛成、国民協同党も倒閣は希望しない、との感触を得た。社会党委員長片山哲は、西尾副総裁を辞任させるべきだとの考えだったが、西尾副総理は、首相が内閣の大黒柱と見做すように、視野の広い現実主義的政治家の側面を持ち、社会党書記長としても強力なリーダーシップを発揮してきた。論理的かつ教条主義的な反体制闘士が多い社会党では異彩を放っている。芦田首相は予算通過後も内閣を投げ出す事はないと決意を固めた。

 予算の成立は保障されるのか、問題は日本政府の姿勢にあると、取材を受けたAP通信社東京支局長ブラインズは、朝日新聞に寄稿した。総司令部は日本側に多くの権威と責任を与えようと試みたが、その都度故障が起り、自らイニシアティブを取らざるを得なくなっている。現国会の重大問題は均衡予算の編成である。これは対日援助の前提になるものだから、マッカーサー元帥はスタッフを通じて日本側に予算作成のやり方を指示している。ところが衆議院は数十億円を農家に補助すべきだと決議したり、運賃値上げ問題で対立して、均衡予算を妨害している。ゆえに総司令部は、日本政府にどの程度の自主権を与えるべきか、いつになったら日本の政治家はこの任務にたえうるようになるのかについて、判断を決めかねている」と。朝日の見出しは「自力でやれぬ日本政治 総司令部いちいち指示」 だが、支局長ブラインズの見方は一方的にすぎるし、順序が違う。総司令部が政治、経済、社会の全てを管理し、閣僚から地方公務員の人事まで指示し、課長が大臣を呼びつけて口出しする事情では、いちいちお伺いを立てざるを得ない。G・ケナンもこの点に注目し、日本を自立するためには総司令部の干渉、介入を排除すべきだと、報告書に明記している。予算審議が難航しているのも、政府の無能力によるだけだなく、議会に安定勢力がなく、政府も社会政党と保守政党という水と油の連立政権であり、どこを向いても各党派の主張が先行してまとまりがつかぬ政情が、その主因になっている、児島はこう分析する。

 

 


片山哲内閣発足

2021年01月08日 | 歴史を尋ねる

 総選挙をおこなうかどうかは、日本政府の問題である。それをいちいち元帥の命令に待たねばならないところに、占領下である当時の事情と政府の力不足がうかがわれる、と児島襄氏。元帥にしてみれば、新憲法、政局安定、講和という三つの関連事項を処理しなくてはならない。あえて介入したゆえんであるが、この元帥の動きは講和の動きにも合致していた。ワシントン出張中の外交局長アチソンから元帥宛て親展電を受け取った。「米国政府は、適当な時期に外相会議において、対日講和条約の準備機構について討議することを提議する意向」と。具体的には、賠償問題を片づけて経済自立の道をひらくのが急務、日本の自律自存の水準にかえる機会を与えるのが、米国および連合国のの責任であると、アチソンはUP通信記者の取材に応じた、と。 ふと、日本史というのは、地理的、空間的範囲はどこまでか。ウキペディアの記述によると、日本または日本列島における歴史だという。では、日本の主権を失った占領下の日本の歴史は、どこまでが日本の歴史なのか、米国の占領統治機構にまで及ぶのか。間接統治といいながら、一部直接統治の部分もある。現在の日本国憲法の作成も、直接統治の部分に入る。日本の主権を行使した占領統治機構も日本史の一部に組み入れるのが、日本の歴史を正確に理解できる方法と考えられる。

 昭和22年3月31日、第92帝国議会が解散され、第一回国会選挙に向かって政局は走り出した。進歩党を中心とする民主党も新たに結成され、各党の選挙前勢力分野は次の通り。民主党145,自由党140,社会党98,国民協同党63,共産党6,農民党4,無所属2,無所属クラブ7,計465(欠員1)。 そして、4月5日知事市区町村長、20日参議院、25日衆議院、30日県市区町村議会と目白押しだった。4月5日の知事・市区町村長選挙は保守と革新、官僚と民間人の争いといわれたが、結果は保守、官僚の圧勝だった。20日の参議院選挙結果、社会党47,自由党39,民主党29,国民協同党10,共産党4,諸派13,無所属108、計250。無所属もほとんどが保守系であった。25日の衆議院選挙結果、社会党143,自由党132,民主党126,国民協同党31,共産党4,農民党4,諸派16,無所属11,計466。 目立つのは共産党の大敗と社会党の第一党への躍進だった。「日本国民は共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、個人の自由を確保し個人の権威を高めるために極右極左からの中間の道を選んだ」とはマッカーサー元帥の声明であった。アイケルバーガー中将は「とんでもない、マックは社会党が社会主義者の団体であることを忘れている。社会主義者は成長すれば共産主義者になるのだ」 もっとも、社会党が第一党になったからといって、日本が社会主義国になるものでもない。勢力分野からいって、社会党と自由党との議席差は12,自由、民主、国民協同三党の保守勢力を合計すると288となり、圧倒的多数になる。第一党の党首が内閣を組織するという憲政の常道を現実化した場合、社会党単独では政権の保持はほぼ不可能、自由党と対立する民主党と連立すれば議会の過半数は確保できるが、社会主義政党と保守党という結合がいつまで続くか、児島襄氏は解説する。

 社会党書記長西尾末広は、新聞記者から社会党が第一党になったと開票結果を告げられると、「本当かい、君。そいつぁ、えらいこぁちゃあ」 一般国民も驚き、朗報と受け取るべきか、それとも凶報と見做すべきかの議論に湧いた。第一回国会が開かれた。吉田茂首相は閣僚の辞表を天皇に捧呈して内閣は総辞職したものの、後継内閣が決まらず、衆議院本会議は直ちに休会となった。早期対日講和の風がそよぎ始めている事情に鑑み、一刻も早い新内閣の発足が望ましい。だが、その政治的基盤の弱さを自覚して自由、民主、国民協同党との四党連立、吉田首班を着想、吉田前首相に同調を求めた。吉田総裁はこれを拒否、共産主義者に近い社会党左派とは一緒にやれない、と。七重の膝を八重に折っての長いごとです、と西尾書記長がそういうと、今年の二月、自由党が挙国一致内閣を作ろうと言ったが、社会党に協力してもらえなかった、その言葉はお返しします。外人記者たちの間には、総司令部の工作の為ではないか、との観測が広がった。米陸軍省は軍人、軍属のレッドパージをこころみ、この5月10日、総司令部でも約300人の共産主義者が解任または職場転換の処置を受けた。2・1ゼネストに関与した経済科学局員のうち、労働課長コーエンは解任され、労働関係班長コンスタンチノはマニラに左遷された。また、5月17日には、蔵相石橋湛山、商工相石井光次郎、法相木村篤太郎の公職追放が発表された。このような事情に注目して、赤嫌い、反抗嫌いの総司令部があえて社会主義政権の誕生を邪魔しているらしい、と推理した。しかしこの種の風評は、総司令部にとって好ましくない。元帥も総司令部も、繰り返し「自由に表明された日本国民の意思」の尊重を言っていた。23日、社会党は四党代表者会議を開き、あっさりと片山首班に決まり、衆院本会議で首班指名選挙が行われ圧倒的多数で片山委員長が指名された。西尾書記長は組閣はあくまで四党連立で28日までに完了させたいとして、24日片山首相が全閣僚の倫理代理として天皇の認証をうけ、日本で初めての社会党内閣はまず一人内閣で発足した。

 社会党は、四党連立による挙国一致内閣を目指しているが、不参加を党是にした自由党を引き込むことは難しく、政局は不安定の日々を重ねた。西尾書記長も四党内閣に見切りをつけ、民主、国民協同党との三党連立で行くこととし、5月30日首相官邸に組閣本部が出来た。民主党内も重鎮の幣原喜重郎、斉藤隆夫は四党に拘り、役員会を繰り返して最終的に三党連立で決した。31日やっと組閣が出来た。西尾書記長は記者団に「難しい争議をやった。途中でもうダメかと思うような辛いやつ。そういう感じだね」 首相片山哲(社会)、外相芦田均(民主)、内相木村小左衛門(民主)、蔵相矢野正太郎(民主)、法相鈴木義男(社会)、文相森戸辰男(社会)、運輸省苫米地義三(民主)、逓相三木武夫(国協)、官房長官西尾末広(社会)、国務相和田博雄(参院)、同笹森順造(国協)、同米窪満亮(社会)、同斉藤隆夫(民主)、同林平馬(民主)

 6月1日、午前10時に認証式を終えて片山内閣は発足した。「列車は発車した。ともかくも」とは、朝日新聞の評言であるが、新内閣を迎えたのは、困難な国内問題もさることながら相次ぐ講和関係のニュースであった、と児島は伝える。これらの情報を総合すると、①講和は十一か国方式、②年内に予備会議、③講和条約調印は翌年末期、④ソ連は不参加、という構図が浮かび上がって来た。この動きに対応するのは新外相芦田均の責務であるが、外務省は敗戦後三か月後に準備作業を開始していたのは既述した。そして芦田外相が講和準備の概要を知って、特に強い印象を受けたのは条約局長荻原徹が提出した策定文書だったことも、講和会議を追いかけた段階で既に詳述した。その中に連合国側に述べる希望的意見五項が列挙されているが、日本政府の意見を開陳できる機会を与えてほしい、国際法の諸原則に合致したものであって欲しい、引き受けた平和条約は誠実に履行する、日本の安全保障を考えてほしい、経済的に自立できる条件を与えてほしい、以上を見ると、将来の明暗、吉凶の予測もつかぬ当時としては、ただただ国家としての生存を願わねばならず、その必至の想いを表示したのがこの五項目であった。戦後の日本はこのような国際環境からスタートしていたことは、どうしても押さえて行かなくてはならない点である。当時の政治家がどう行動したのか、マッカーサー司令部がどう行動したのかが、戦後日本の歴史を辿る重要なポイントである。

 10月16日の衆議院外務委員会で自由党代議士佐々木盛雄は、講和会議全権は如何なる構成によるのか、と質問、片山首相は、講和会議は現内閣で十分担当できる、全権団は野党を含めて国民代表の形にしたいと答弁、佐々木は更にコミンフォルム設立で米ソ対立は拡大されたが米ソいずれの陣営に入るのかと質問、片山は、共産主義による政治的原理を日本国民および日本国家はとっていない、将来の安全は国連に参加して積極的に世界平和に貢献することで達成できると信じる、と。それ以上は言えない環境にあった、と児島はコメントする。 中国外交部長王世杰は講和会議覚書の背景説明で、中国にとって満州は最重要地域である、満州がなければ政治的経済的に中国は存在しなくなる、ソ連が中国共産党に対する支援を増強して満州を共産化されては、中国の基盤は失われ、中国そのものがソ連の衛星国になりかねない、対日講和問題で、ソ連提案を受け入れてほしい、と米国務長官マーシャルに説明。汪部長は更に日本を回って、マッカーサー元帥、日本政府に対し、中国は対日講和条約において大規模な生産賠償を要求、中国の原材料を加工させた製品による長期的賠償を求めた。元帥は反駁、中国はすでに中国本土、満州、台湾の莫大な日本の在外資産を接収している、日本はその生産の45%を自力で行っているが、残りの55%は米国の援助で賄っている。「日本は米国のお陰で生きている状況において、どれほどの生産賠償に応じられると思うのか」 中国は日本から無限の賠償を要求できるかのように述べるが、実情に反しており、中国民をあざむくものである、中国政府はなぜそのような新聞論調を取り締まる措置を取らないのか。「要するに、日中両国は相互に有益な貿易をおこなうべきであり、さもなくば経済的混乱を招くだけである」と。ふーむ、これほど当時の日本にとって有難い仲裁者がいたことに感謝しなければならない。同様の質問を汪部長は日本政府にも持ち掛けている。その時の回答は芦田外相。それは困る。生産賠償となると、相当の年月にわたって日本政府が生産費を各会社に支払うことになる。それは裏付けのない紙幣の発行にほかならず、インフレが不可避である。それこそ第一次大戦後のドイツの事態の再現になりかねない。日本としては一時的実物賠償を希望している、と。

 翌年1月末、片山内閣は危機を迎えていた。平野問題と社会党左派の反逆で内閣は長持ちしないと芦田外相の日誌にいう。平野力三農相は11月に総司令部民政局次長ケーディス大佐の強硬な介入によって解任され、1月3日パージ処分を受けた。農相は片山首相を相手取って地裁に追放停止仮処分を申請した。地裁は農相の主張を認め、2月仮処分を決定、法相鈴木義男は仮処分決定の無効を宣言した。これに地裁も反駁声明、この2権対立論争は総司令部が介入、裁判所はパージに関する裁判権を持たない、と。ホイットニー民政局長も日本が占領下にあることを忘れぬなといい、総司令部は最高裁長官に口頭指示で地裁決定の取り消しを指示した。一方、政府は郵便料金と鉄道運賃の値上げを財源に公務員に0.8カ月の臨時給与を支給する追加予算案に、社会党左派は公共料金の値上げに反対して他の財源を充てるべきだと主張、左派は自説を曲げず、やっと過半数を確保出来ている弱体内閣で、その主体である社会党が分裂したのでは、政権基盤が崩れ、予算案通過も絶望となる。片山内閣は政権投出しを決意せざるを得なかった。

 2月9日、閣議の冒頭で、首相は内閣総辞職の決心をしたから、今日中にマッカーサーに面会して報告の上、明朝の閣議で最後の決定をしたい、と。芦田も三木も決心に同調するが、元帥との会談で新たな事情が発生した時は、今日の決定に固執する必要はない、と付言した。首相は午後八時マッカーサー元帥のに会った。片山 自分は今度辞任の決意をした。 元帥 不信任案を提出されないのにじしょくするのか。 片山 それが出てから辞任することは自分の好まない処である。 元帥 事情は良く判ったから辞職はやむを得まい。後の時局の収拾はどうなる? 片山 一切を国会に一任したいと思う。すべての斡旋を衆議院議長に一任するつもりである。 元帥 それが憲法上至当のことと思う。今日までの労苦を多とする。良き新しい内閣の誕生を希望する。

 その後午後9時マッカーサー元帥は、内閣総辞職は日本の内政問題なので国会で解決されるべきだ、と声明を発表し、更に内閣が直面したのは目新しい問題ではなく、日本の情勢下に固有のものである、と。 こうして新憲法下の最初の内閣であった片山社会党内閣は、内部不統一のため退陣した。首相談話「連立内閣の場合、ややもすれば陥りやすい党内事情の悩みが大きく表れたのであって、わが国の現状では避けがたい歴史的な一つの段階であると思う」