23年10月、昭和電工汚職問題で芦田内閣は退陣を余儀なくされ、野党第一党の民主自由党が推され、第二次吉田内閣が組閣された。ただ少数与党のため国政の運営が円滑にいかず、翌年1月23日、総選挙が行われた。民主自民党(民自党)は、一般の予想を裏切って、衆議院264名という圧倒的多数を獲得、吉田は時局を安定させ、国家の再建、財政経済の復興の実行に踏み出すには、どうしても強力にして比較的長期の政権が何よりも必要だという想いを痛感していたところであり、民主党連立派の協力も得ることが出来たので、思い描いた政権運営に乗り出した。一方総司令部の方にも色々動きがあり、日本の経済立て直しのためには相当思い切った荒治療もしなければならぬという声明もあって、この衝に当たる大蔵大臣には、総司令部にも自信をもって折衝し得る人で、大蔵省出身の池田勇人を選んだ。
問題の24年度予算案には党の公約である減税を取り入れ、価格調整費や行政費を削り、公共事業費や失業対策費は増額し、特別会計は独立採算制を貫いて運賃や料金の引上げも止むを得ず、かなり思い切った緊縮財政予算案を準備した。総司令部にも提示して折衝を始め、池田蔵相はドッジ(2月来日、デトロイト銀行頭取がその本職で、日本来訪前には、西独の幣制改革を指導した。後にアイゼンハワー政府の予算局長を務めた)と会い、ドッジの考え方を探った。ドッジの考え方は、今までの総司令部とは相当違ったもので、殊に総司令部内のニュー・ディーラー達のやり方には批判的だった。国内物資に価格差補給金を出していることや、輸入価格を低く抑えて物価を抑制していることを竹馬の足と呼んで、これを切らねばならぬといった。これは吉田内閣の考えも同様だった。ただドッジは取引高税の廃止や所得税の減税という党の公約には反対だった。そのうち総司令部もドッジ氏を中心に予算案の大綱を練り上げ、3月20日頃に提示してきた。その内容は、切る切ると言っていた価格差補給金は政府案よりの大きく、公共事業費が減らされ、税は一切希望が容れられなかった。結局ドッジという人も折れる見通しもなく、党の方も随分不満が多いようだが総司令部の内示案を受け入れることとした。世間では、総司令部に押し付けられ、ドッジに抑え込まれ、自主性のない予算だと批判されたが、まず均衡予算を作成し、自立再建を図る決心であること、しかし税制の改革は早急に断行し、予算実施の途上でも、国民負担の軽減に努力する覚悟を明らかにした。野党からは、予算の自主性喪失と公約不履行を追及され組み替え動議まで出たが、絶対多数で一蹴してしまった。安定政権の強みを発揮した。
予算の成立につづいて日本経済の直面したのは、4月25日の単一為替レートの設定だった。内閣は経済安定九原則の指令を受けると、単一為替設定について省庁で研究していたが、「単一為替設対策審議会(会長:吉田茂、日銀総裁一万田尚登、経団連会長石川一郎、東京商大学長中山伊知郎、東大教授東畑精一、有沢広巳、慶大講師永田清、富士紡社長堀文平、江商社長駒村資正、産業復興公団総裁長崎栄造を委員とする)」に移して学者や実務家に研究してもらった。その審議会の大体の結論は1ドル350円くらいが望ましいとし、ドッジの予算レートは330円だった。しかし、1ドル360円の決定はワシントン政府によって行われ、4月25日から直ちに実施するよう日本政府に命じた。総司令部はその発表を受けて、①今回の措置は経済安定九原則を実施するための主要な施策である、②円レート設定は日本の官民が渇望していたもので、これが実施されたのは日本が経済安定に向かって進んでいることを反映したもので、経済安定への発展の一つである、③新円為替レートは外国貿易をさらに常態化するための重要な要素で、日本産業の合理化を目的とする現行計画を促進するにも役立つ、と説明を加えた。これから後は、1ドル360円というレートを、日本経済運営の中軸として、このレートで日本の経済を安定させ、このレートで日本の輸出が伸び、このレートで日本の経済が復興するようにしなければならない。辛い産業も出てくるし、血のにじむ努力も払わなければならない、レート設定による輸入原材料の値上がりは、企業努力によって吸収し、物価改定は行わないことを決定した。
その頃内閣が進める経済安定政策が、色々の面で摩擦を起しつつあった。米国の景気後退や英国のポンド不安といったこともあって輸出が予期したほど出なかった、復興金庫貸出の停止といったことが、金融面で大きく引締めに働いた、均衡予算による政府発注が激減したこともその要因の一つになった、価格差補給金の削減による企業の採算割れもあってか、人員整理が本格的になり出した。企業の合理化が進められ、統制の撤廃が闇ルートで働いていた人々の職を奪い、いわゆるデフレーションのしわ寄せが中小企業に強く影響を与えたため、24年度の下期は社会不安が大きな底流のようになって動き出した。吉田は覚悟していたことであったが、こうした摩擦や不安は新しい時代を生み出す悩みであり、出来るだけ手当はする様皆で考えて貰ったけれど、基本的方針は貫く決心で頑張った、と吉田首相。
5月にシャウブ博士が来日、全国を回って税制の実情を仔細に調査し8月下旬に勧告が出た。この勧告には、選挙で公約した取引高税の廃止とか所得税の軽減とかが盛られ、早速ドッジ氏や総司令部方面をいち早く牽制する意味を含めて総理大臣声明を出し、これを機会に補正予算と25年度予算案の策定は急速に進んだ。10月30日ドッジが再来日すると池田蔵相との間で精力的に予算案づくりが進み、減税はシャウプ勧告の範囲内、終戦処理費の削減、価格調整費などは半減し、失業対策費や公共事業費は増額となった。25年度の予算審議では、今後の財政政策をどう展開していくのか、ドッジ・ラインを緩和せよ、ディスインフレーション政策を修正せよという声が大きくなった。そこで池田蔵相を米国に送りさらにドッジ氏と話し合うこととした。閉ざされた目と塞がれた耳で世界の動きを模索していては、国際経済への復帰だの経済の復興再建などといっても本当ではない、併せて、講和問題の先方の意向も打診することとした。帰朝した池田蔵相からは今後の行き方には相当明るい見通しがあるとのことだったが、総司令部の方は袖にされたという感じを以て、誤解が誤解を生む結果となり、その調整にも心血を注いだ。いずれにしろ、26年度予算策定方針は、予算総額の削減、官吏給与ベースの改定、一般会計より債務償還は行わない、価格調整補給金は廃止する、財政剰余を以てさらに減税するなどを掲げ、中小企業貸付の増加、国際通貨基金や国際小麦協定の参加などにも触れた。こうして選挙公約したことは盛り込まれ、当初考えていた方向に財政金融政策をもっていくことに成功した。なお、ドッジ・ラインの緩和とか、ディスインフレーション政策の修正とかは、朝鮮動乱の勃発という一大転機を迎え、その様相はすっかり変わった。
朝鮮戦争は昭和25年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けた。その8月8日、米国務省東北アジア課は日本の自活と題する報告書をまとめた。「朝鮮戦争と西側諸国の軍備増強は日本経済に好影響を与え、今後数年間の繁栄が予想される。①アジアの原料生産国の外貨増大:マレー、インドネシアから錫、ゴムその他の買い付けで年間2,3億ドルの外貨を獲得いている。日本はこの地域に対する輸出で外貨を入手できる。②欧米の輸出力の減少、軍備拡張によって欧米からの輸出力が減り、その分日本が輸出を拡大できる。③朝鮮戦争による利益、在韓米軍の需要のため多額のドルを日本に支払い、すでに買入契約は5千万ドルを超え、会計年度では2~3億ドルに達すると見込まれる。」 8月13日の朝日新聞は「世界の貿易情勢は、明らかに買い手市場から売り手市場に変わった。日本も、まず買ってそれから売る輸入第一主義をとらねばならぬ」と。いわゆる朝鮮戦争特需の中身は何だったのか。日銀の発表によれば、8月の消費者物価指数の上昇ぶりは激しく、前月に比べ絹糸25%、銘仙55%、キャラコ47%と繊維品が大幅に値上がりし、米も7%上がった。当初米軍から調達されたものは、主に土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどに使用される繊維製品であり、他に、前線での陣地構築に必要とされる鋼管、針金、鉄条網などの各種鋼材、コンクリート材料(セメント、骨材(砂利・砂))など、そして各種食料品と車両修理であった。以上の状況を吉田の回想十年は次のように記す。
在日米軍からの緊急発注が先ず経済に刺激を与え、これに海外物価の上昇が拍車を加え、物価も賃金も上がる、通貨も増えるという、一種のインフレーション的な姿になった。吉田は苦労して安定政策をやって、経済が正常な姿に引き締まろうとしている時、逆戻りするのではないかと心配した。しかし池田蔵相の説明では、終戦後に経験したインフレーションとは根本的に条件が違い、専ら海外需要と物価高に引きずられて起ったものだから、むしろ世界経済全体の動きに順応して、この機会に経済の規模も拡大し、企業の合理化も進めるよう策を考えるべきだ、とのことだった。物価の問題も、360円という為替レートを通じて世界の物価に結び付いているので、この物価の変動を国内に波及させないようするのは出来ない。結局、国内的にインフレーションを誘発しないような措置をとりながら、海外物価に追随していくほかはない、ということだった。そこで、何よりも先ず、輸入の増進を図ることが大きな政策として推進されることとなった。これで経済の均衡をとりながら、生産活動の拡大を裏付け、行き過ぎた物価の上昇を抑えようという訳だった。具体的には、外貨予算を修正して輸入の枠を拡げ、輸入の自動承認制をとり、出来るだけ輸入買付が自由活発に行える体制を整える一方、民間商社の輸入資金の支払猶予措置なども取られた。
25年10月には、再度シャウブ博士、ドッジ氏が来日した。すでに26年度予算の概算は閣議決定していた。池田蔵相とドッジとの折衝が始まり、結果的にうまく運んだ。減税は織り込めたし、輸出銀行もつくることになった、価格調整費は切って、公共事業費は増やせた、給与改善も出来た、債務償還も無くなった。
26年の春、世界の景気が漸くひと落着きし始めたころ、休戦会談も開始されることになって、朝鮮ブームと言われた日本の経済も一種の反動が来た。損失を出した商社が銀行からの借入をうまく返済できないことが起り、オーバーローン問題が議論された。財政面では7月以降対日援助打切りに伴う占領軍の米側負担問題が浮上し、日米経済協力の問題が講和問題とも絡んで大きなテーマになって来た。吉田はこのように考えた。日本のような資源の乏しい小さい国で人口が多いところでは、余程の工夫をしなければ経済はやっていけない。大国の恩恵にあずかって暮らすのでは国家としての誇りが許さない。独立国家として、対等の立場で、経済的に手を握っていくなら良い。そのためには通常の貿易なり取引なりの体制を、より密接に結びつけることもいいし、外資を入れて大いに国土を開発し、産業を振興して、経済を繫栄させることもいいことだ。そこで経済協力とか、外資導入ということは全面的に賛成であった。政治的にも、米国と日本が、経済の面で相互に結び付きながら、日本もしっかりした足場をつくるし、アジアの国々とも経済的に交流しつつお互いの繁栄を築き上げていく、そうなれば良いと考えた。うーむ、今の日本では至極当たり前のように国際経済活動がダイナミックに行われているが、この時は当たり前ではなかったのだ。統制経済から為替レートの一元化を図って国際経済と日本経済を結び付けていく、その転換の難しい時期に、偶々朝鮮戦争特需があったのが歴史の辿った途だった。吉田内閣が着手した日本経済の転換策はもっともっとひも解かれていい筈だ。韓国経済の復興も、中国の経済政策も、元は吉田の経済復興策を随分研究したのではないか。朝鮮特需を大きく見過ぎると、経済復興の本質が見失われる。