新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

9.11とCIA

2020年06月15日 | 日記

 CIAケース・オフィサーとしての訓練を受けたリンゼー・モランが最初に赴任したのはマケドニアの首都スコピエだった。ブルガリアの首都ソフィアまで100キロほどの距離にあり、車なら3時間で行ける。ソフィアにはエンマ、エミリーというブルガリア系アメリカ人の友人二人がいる。ソフィアは、リンゼーがケースワーカーとしての仕事の合間を縫って、週末を過ごすには恰好の場所だった。
 任務最初のエイジェントは、うさんくさい老人だった。前ユーゴ大統領ミロシェビッチの居場所を知っていると自ら売り込んできた。何回か会って前大統領の居場所を聞こうとしたが、ユーゴスラビア、セルビアがたどった歴史について長広舌を振るうばかりで、肝心のことをはぐらかしてしまう。どうやらその老人はその日暮らしをしており、わずかな謝礼を受けとるのが目的のようだ。この手の詐欺が多いことは分かっていた。ついにリンゼーはポケットに用意した百ドルのピン札3枚を手渡して縁を切った。
 2001年9月11日、ニューヨーク、ワールドトレードセンターのツインタワーに旅客機が突っ込む。ほぼ同時にヴァージニア州国防総省ペンタゴンにも。いわゆる世界同時多発テロが発生したとき、リンゼー・モランはやはりマケドニアで情報収集にあたっていた。だがCIAの一員でありながら、事件についての前触れ情報はなにも入っていなかった。ムスリムのエイジェントとも接触はあったが、テロ事件を起こしそうな情報はかけらもなかったし、米国のCIA本部にテロ計画の情報が入っていなかったようだ。リンゼーは人種が錯綜するマケドニアで任務に当たっていたにもかかわらず、母国にとって役立つ情報を入手できておらず、もっぱらマケドニアとその隣国の摩擦情報を母国に送りつづけていた。
 自身のCIAケース・オフィサーとしての活動のむなしさ、CIAの限界を感じたリンゼーは、2003年、以前からつき合いがあった米国人との結婚を決意し、CIAを退職した。
 以上、リンゼー・モラン「私はCIAのスパイだった」より。





The Town Week

2020年06月12日 | 日記

 朝、可燃ゴミを出すか不燃ゴミを出すか、あるいは資源ゴミかプラゴミか。夜はテレビで何の番組を観るかで曜日の感覚が多少は戻るが、概して曜日を意識しないで生活している。
曜日の感覚がなくなりつつあるいま、むかし読んだエッセーを思い出した。E.V. Lucasが書いたThe Town Weekはペンギン・ブックスのThe Book of English Essaysに収められている。イギリス、ロンドンの郊外に住む文筆家にとって、曜日の特徴はこうだった。

 月曜日。a courageous beginner、つまり1週間の生活を果敢に始める日。a feeling of revolt、すなわち週末の気分を一新して新たな挑戦を開始する日でもある。そのrevoltに十分に適応しきれない人には、Mondayishという言葉があるとおり、少々憂鬱な気分がつきまとう。
 現代日本でもこの点に異論はない。月曜は始まりの日であり、さっそうと出勤、登校する。だが、職場が、学校がいやな人にはブルーな日でもある。
 火曜日。a tame follower、つまり前日からの流れにだらだらと従う以外にしかたがない日。Tuesday is nothing、つまり火曜は何もない日だ。特徴がない。惰性の日といえる。レストランの料理人でさえ火曜の客には腕を振るおうとしない、とルーカスはいう。
 水曜日。居眠りから目覚める日だ。にわかに活気を帯び、転回点になる、週後半の活動への原動力が沸き起こる。友人に会うにはこの日がよい。週末の旅行から帰っているし、次の旅行にはまだ間がある。人が確実に家にいる日だ。
 学校に勤めていたころ、水曜は会議の日だった。各種の部会、職員全員が集う職員会議はきまって水曜に設定された。この日なら全員が学校にいる。だれも出張しない。会議が終わったあとは、たいていご苦労さん会で、街の飲み屋へくり出す。飲み会の日でもあった。
 木曜日。水曜のあの活気は影を潜め、またしても沈滞の日になる。
 金曜日。あわただしく希望に満ちた日。土曜日とある程度、運命をともにする日だ。anticipation、つまり週末への助走日として期待がつのる日だ。だからFriday is perhaps the best day of the weekとルーカスはいう。こう見てくると奇数番目の日に活気があるのに対して、偶数番目の火曜と木曜はよどんだ空気をもつ。
 現代日本のデパートやスーパーが、金曜になると品揃えを充実させ、週末の客の殺到に備えることも、当時のイギリスと同じだろう。
 土曜日。この日はこま切れの日だ。日曜日の準備の日であり、半分仕事をして早く帰宅する日でもある。落ち着かない日だ。
 現代日本の学校は1992年3月まで毎週土曜は半ドンだった。その後、月1回の土曜休業などを経て、完全週5日制へ移行したのは2002年4月のことだった。
 日曜日。この日については個人差がありすぎるので、ルーカスは一概にいうことを差し控えている。宗教により、職業により、過ごし方の差が大きすぎる。
 現代日本でも同じだ。土日を稼ぎどきとして忙しく働く人がいるいっぽうで、ゆったりした週末を楽しむ人がいる。一括りにはしにくい。
 さて、きょうは金曜か。週末へのanticipationが沸き起こるかな?

マケドニア

2020年06月10日 | 日記

 本を読んでいると、主題から外れたところに興味を奪われることがよくある。マケドニアの国名問題がそうだった。
 北マケドニアを正式国名にしたのは、つい最近のことだった。それまでの国名は、なんとThe Former Yugoslav Republic of Macedoniaだった。分かりやすく解説ふうに訳せば、「マケドニア地方の旧ユーゴスラビア領だった部分」ということになる。じつは南に隣接する国ギリシャの北部にマケドニア人が多く居住している。だから旧ユーゴスラビアが崩壊し、マケドニアが独立国になったとき、ギリシャがマケドニア共和国という国名に強硬に反対した。米国はさまざまな理由からギリシャに肩入れした。
 おおざっぱにいえば、マケドニアは東をブルガリア、西をアルバニア、南をギリシャに接している。そして民族事情は複雑に絡み合い、互いを憎み合っている。マケドニアの国名に関しては、NATOもブルガリアを迎え入れようとしていた矢先だったので、ブルガリアが毛嫌いするマケドニアを支持することを差し控えた。結局マケドニアは1993年以来ずっと「旧ユーゴスラビア共和国マケドニア」という屈辱的国名を使用することを強いられた。米国のことを「旧イギリス植民地アメリカ」というようなものだ。これが米国の正式な国名なら、鼻っ柱の強いトランプも、すこしはへりくだることがあるかもしれない。
 ブルガリアはマケドニア語の存在を認めない。マケドニアの言語はブルガリア語の一方言にすぎないと主張する。しかもa bastardizationだと。つまり正式な家系とは別系統で生まれてきた非嫡出子だというわけだ。これに対抗してマケドニアの首相は、ブルガリアの大統領と会談する際、通訳を介在させることを要望することさえあったという。国家間の泥仕合とはまさにこのようなことをいうのだろう。
 米国からマケドニアに赴任したリンゼー・モランが、自宅の庭木の手入れをアルバニア人にやらせていると、「おたくはアルバニア人びいきなんですね」と隣の人にいわれた、と著書「私はCIAのスパイだった」に書いている。外国では人種によほど気を使わないといけない。



CIAのケース・オフィサーとは

2020年06月09日 | 日記

 CIAのケース・オフィサーとはなにをする人か。外国でその国の機密情報を提供してくれる人を探し出し、手なづけ、機密情報を母国に送ることを主たる任務にする人をいう。ターゲットを見つけたら、その人に取り入るのだが、その人が置かれている状況を探り当て、困っている点を察知する。娘が病気だ、親が病気でお金が要る、息子に海外留学させたい、借金苦にあるなどの理由でお金を必要とする人に、そのお金を提供するのと引き換えに国家機密を引き出す。もちろんケース・オフィサー自身は自分の正体をいっさい明かさず、すべてを仮面のままでターゲットとつき合っていく。「私はCIAのスパイだった」というメモワールのタイトルとは裏腹に、本人がスパイ活動をするのでなく、ターゲットにスパイ活動をさせる。
 メモワールの半分あまりを、任務に就くまえの訓練のようすを描くのに費やしている。壮大な規模のサバイバルごっこをする。「ザ・ファーム」と呼ばれる訓練場で、教官も一緒になってサバイバルごっこをする。泥沼で歩行訓練をし、飢えに瀕しながらも任務を遂行し、仮想の敵に銃を向けられても正体を明かさず、偽名でとおし、仮想の敵に逮捕され、辱めを受ける訓練に耐える。ターゲットに選んだ相手とともに豪華な食卓を囲み、ターゲットの弱みをつかむ訓練、現地当局による尾行を察知し、煙に巻く訓練も含まれる。不思議なのは、こうした厳しい訓練中も、土日は休暇で、実家へ帰ることができる点だ。ただし実家や友人たちには自分がCIAで訓練を受けていることを明かしてはいけない。
 著者のリンゼー・モランは、仲間十数人とともに受けたこの訓練を、上位2位で通過した。根っからのスパイ好き女性だった。フルブライト奨学生として行ったブルガリアでロック・クライミングをしていたころに知り合った恋人と別れ、恋い慕い始めたタパス・バーで働く青年ともきっぱり縁を切ってしまうほどスパイになることに憧れていた。不思議な人もいるものだ、と思いながら、CIAの裏側を知りたくて読み進めている。




胃が悪い

2020年06月08日 | 日記

 3日間お粥だけの食生活をつづけた。胃を悪くし、食欲がなくなったからだ。さすがに3日目になると、空腹を感じるようになる。こうなれば回復したといえる。きょうからまたふつうの食生活に戻っている。胃が若返ったようだ。腹がグーグー鳴る。時間がたてば空腹を感じる。3日間、酒を飲まなかったので、肝臓も若返ってきれいになったはずだ。ちょっと出っ張ってきた腹回りがすっきりし、スリムになった気がする。お粥療法は一石三鳥の効果がある。
 若いころからの胃弱で、最近は月に1回ぐらいの割で胃が変調をきたす。そのたびにお粥だけの食餌療法をする。私の場合、胃の調子さえよければ、あとはすべてよし。ちょっとしたことで胃が悪くなり、食欲がなくなる。空きっ腹にビールを飲む、アイスクリームを食べることなどを最近は厳禁にしている。ともすると食べ過ぎる。これがいけない。年齢をわきまえないといけない。
 胃弱といえば夏目漱石が思い浮かぶ。終生、胃弱に苦しんだ。胃潰瘍ならいまは治る。当時は適当な薬、治療法がなかったのか。それを超える症状だったのか。修善寺で吐血したときはもう末期症状だったはずだ。そのような闘病生活のなかで、あれだけの作品群を世に遺した。逆にいえば、あれだけの作品群を遺すことを考えなければ、もっと長生きできた。世に寄与するものを遺すか、長生きするか、どちらがよいか、などと考えるのは野暮というものだろう。