会員のカトケンです。
翌29日(日)は、朝8時から静岡駅北口の竹千代青年像前に集合。歴史研究家の佐野明生先生に専属講師をお願いし、静岡市葵区、清水区、駿河区の幕末維新ゆかりの地をめぐりました。
徳川慶喜謹慎の地、宝台院を皮切りに徒歩にて慶喜屋敷跡である浮月楼、西郷・山岡会見之地碑、宝泰寺の壮士の墓、これは品川を脱出した榎本艦隊の輸送船美加保丸の乗組員を供養したものです。
そこから貸切バスに乗り、臨済寺に行きました。東軍招魂碑に加え、箱館戦争榎本政権の会計奉行添役永峰弥吉(同時、高橋)の墓を見学しました。
普段本堂の拝観は許されませんが、事前にお願いに上がっていたおかげでしょうか、竹千代勉強の間や茶室「無想庵」まで見せていただき、庭とお寺の茅葺き屋根を含む市内の景色を見下ろせる予想外の大サービスとなりました。お寺の方に心より感謝します。
臨済寺滞在が長くなったおかげで、昼前の梅蔭寺をあきらめ、次の鉄舟寺へ。清水までしばらく移動中、佐野先生による次郎長の解説が到着まで続きました。梅蔭寺に寄れないためにサービスしてくださいました。
あとから、訪問先を省略するのはやってはいけないこととアドバイスを受け、案内する難しさを痛感しましたが。
鉄舟寺では宝物館を見学、鉄舟の墓と銅像を拝みましたが、印象的だったのは、送電線従事者の殉難碑があったことです。瓦解(維新)に直接関係はないものの、危険を伴う仕事に従事する人が多くいる町ならではの新たな発見ができました。
さて、お昼は巴川沿いのなすび総本店で海鮮盛りに舌鼓を打ちました。富士山世界遺産登録にあやかって、氷を富士山に見立てたものでした。由比名物の桜えびは、何度食べても飽きません。昼間っからお酒が入り場もなごみます。
私は佐野先生といろいろとお話させていただいた中で、これを期にぜひ情報交換していきましょうとあたたかいお言葉をかけていただきました。
先生の寺院に関する造詣の深さ、時代を限定しない歴史の知識に加え、落ち着いた語り口と張りのある声がよく通り、お墓を案内させていただいている私には学ばせていただくこと湯水のごとしでした。
午後は次郎長ゆかりの船宿末廣(復元)に寄り、巴川を少し下って壮士の墓。これが咸臨丸殉難者を葬った山岡鉄舟書による墓碑です。次郎長が賊軍でも仏になれば皆同じと遺体を引き上げた美談となっていますが、
実は漁師たちにとっていつまでも死体の浮かぶ海にしておけない事情から次郎長へ頼み込んだという経緯が語られ、衝撃的ながら、海とともに生きる町の必死さを思わずにはいられませんでした。
続いて興津の清見寺をたっぷり堪能、2階から駿河湾が一望でき、咸臨丸殉難碑に刻まれた榎本武揚の言葉が福沢諭吉の『痩我慢之説』を生むことになった説明も十分していただきました。
さらに徒歩で行ける距離にある坐漁荘を見学。近年になって、西園寺公望の別荘を復元したものです。
今度は清水区のほぼ海岸沿いにある萬象寺で、最後の西国郡代窪田治部右衛門鎮勝、泉太郎鎮章父子の墓をお参り。
明治になり鎮勝は本姓蒲池に復し、克斎と号しますが、この家は熊本の名族で松田聖子もその一族であることからお参りにきたとの話題で盛り上がりました。
この鎮勝は川路聖謨や永峰弥吉と従兄弟に当たることをかつて明治維新史談会に属されていて、今回名古屋からいらした成木さんという方が昼食時に系譜資料を渡してくださいました。
私は出発時に蓮永寺にある湊信八郎信任と伊庭八郎との関係資料もいただき、今まで知らなかった系譜が拡がりをみせ大変勉強になりました。心より感謝申し上げます。
さて、最後の訪問先はかつての照久寺、現在は最初の訪問先宝台院の別院となっているお寺を訪ねました。ここは徳川四天王と言われた榊原照政のおい照久が久能山東照宮を護るため、旗本交代寄合として代々その職を全うした一族を葬った場所です。
お寺さんから資料をご準備いただき参加者一同も大喜び、佐野先生の解説に続き、今回実行委員の一人で静岡での集客力に貢献していただいた石川たか子さんのご先祖、正確には姻戚である小花和重太郎の名が刻まれた「旧幕府歩兵隊殉難者慰霊碑」
を見学。
石川さんがかつて慶喜の大河の年に作成した資料を配ってくださいました。故前田匡一郎先生が用意され、またこの時小花和重太郎の弟トミーこと米田桂次郎について釣先生が講演された縁がここでも実を結びました。
静岡とのつながりを実感できたこの上ない旅となりました。私はこの碑に新選組に属した矢田賢之助の名前を見出だし、少しお話しさせていただきました。
日光や今市で戦死した方々のこの慰霊碑は、依然として誰がいつ建立したのか謎のままですが、戊辰役ゆかりの碑として今後も注目すべきものと思います。
静岡駅までのバス中、皆さんが笑顔でこの旅を終えることができたことは何よりも嬉しいことでした。
土曜の慰霊祭からツアーの引率を務めてくださった影山さん、本当にありがとうございました。
そして、このようなふるさとをアピールする機会をくださった大出元社長、何よりも静岡開催を大出さんに進言し、実現のきっかけを作ってくださった釣洋一先生、本当にありがとうございました!
改めて静岡の歴史はまだまだ掘り起こす余地があり、今後も様々なきっかけを通じて発信していく必要を痛感しました。
ご協力いただいた皆さん、全国からご参加くださった皆さんに感謝申し上げますとともに、これを期にぜひ静岡をごひいきのほど、よろしくお願い申し上げます。
翌29日(日)は、朝8時から静岡駅北口の竹千代青年像前に集合。歴史研究家の佐野明生先生に専属講師をお願いし、静岡市葵区、清水区、駿河区の幕末維新ゆかりの地をめぐりました。
徳川慶喜謹慎の地、宝台院を皮切りに徒歩にて慶喜屋敷跡である浮月楼、西郷・山岡会見之地碑、宝泰寺の壮士の墓、これは品川を脱出した榎本艦隊の輸送船美加保丸の乗組員を供養したものです。
そこから貸切バスに乗り、臨済寺に行きました。東軍招魂碑に加え、箱館戦争榎本政権の会計奉行添役永峰弥吉(同時、高橋)の墓を見学しました。
普段本堂の拝観は許されませんが、事前にお願いに上がっていたおかげでしょうか、竹千代勉強の間や茶室「無想庵」まで見せていただき、庭とお寺の茅葺き屋根を含む市内の景色を見下ろせる予想外の大サービスとなりました。お寺の方に心より感謝します。
臨済寺滞在が長くなったおかげで、昼前の梅蔭寺をあきらめ、次の鉄舟寺へ。清水までしばらく移動中、佐野先生による次郎長の解説が到着まで続きました。梅蔭寺に寄れないためにサービスしてくださいました。
あとから、訪問先を省略するのはやってはいけないこととアドバイスを受け、案内する難しさを痛感しましたが。
鉄舟寺では宝物館を見学、鉄舟の墓と銅像を拝みましたが、印象的だったのは、送電線従事者の殉難碑があったことです。瓦解(維新)に直接関係はないものの、危険を伴う仕事に従事する人が多くいる町ならではの新たな発見ができました。
さて、お昼は巴川沿いのなすび総本店で海鮮盛りに舌鼓を打ちました。富士山世界遺産登録にあやかって、氷を富士山に見立てたものでした。由比名物の桜えびは、何度食べても飽きません。昼間っからお酒が入り場もなごみます。
私は佐野先生といろいろとお話させていただいた中で、これを期にぜひ情報交換していきましょうとあたたかいお言葉をかけていただきました。
先生の寺院に関する造詣の深さ、時代を限定しない歴史の知識に加え、落ち着いた語り口と張りのある声がよく通り、お墓を案内させていただいている私には学ばせていただくこと湯水のごとしでした。
午後は次郎長ゆかりの船宿末廣(復元)に寄り、巴川を少し下って壮士の墓。これが咸臨丸殉難者を葬った山岡鉄舟書による墓碑です。次郎長が賊軍でも仏になれば皆同じと遺体を引き上げた美談となっていますが、
実は漁師たちにとっていつまでも死体の浮かぶ海にしておけない事情から次郎長へ頼み込んだという経緯が語られ、衝撃的ながら、海とともに生きる町の必死さを思わずにはいられませんでした。
続いて興津の清見寺をたっぷり堪能、2階から駿河湾が一望でき、咸臨丸殉難碑に刻まれた榎本武揚の言葉が福沢諭吉の『痩我慢之説』を生むことになった説明も十分していただきました。
さらに徒歩で行ける距離にある坐漁荘を見学。近年になって、西園寺公望の別荘を復元したものです。
今度は清水区のほぼ海岸沿いにある萬象寺で、最後の西国郡代窪田治部右衛門鎮勝、泉太郎鎮章父子の墓をお参り。
明治になり鎮勝は本姓蒲池に復し、克斎と号しますが、この家は熊本の名族で松田聖子もその一族であることからお参りにきたとの話題で盛り上がりました。
この鎮勝は川路聖謨や永峰弥吉と従兄弟に当たることをかつて明治維新史談会に属されていて、今回名古屋からいらした成木さんという方が昼食時に系譜資料を渡してくださいました。
私は出発時に蓮永寺にある湊信八郎信任と伊庭八郎との関係資料もいただき、今まで知らなかった系譜が拡がりをみせ大変勉強になりました。心より感謝申し上げます。
さて、最後の訪問先はかつての照久寺、現在は最初の訪問先宝台院の別院となっているお寺を訪ねました。ここは徳川四天王と言われた榊原照政のおい照久が久能山東照宮を護るため、旗本交代寄合として代々その職を全うした一族を葬った場所です。
お寺さんから資料をご準備いただき参加者一同も大喜び、佐野先生の解説に続き、今回実行委員の一人で静岡での集客力に貢献していただいた石川たか子さんのご先祖、正確には姻戚である小花和重太郎の名が刻まれた「旧幕府歩兵隊殉難者慰霊碑」
を見学。
石川さんがかつて慶喜の大河の年に作成した資料を配ってくださいました。故前田匡一郎先生が用意され、またこの時小花和重太郎の弟トミーこと米田桂次郎について釣先生が講演された縁がここでも実を結びました。
静岡とのつながりを実感できたこの上ない旅となりました。私はこの碑に新選組に属した矢田賢之助の名前を見出だし、少しお話しさせていただきました。
日光や今市で戦死した方々のこの慰霊碑は、依然として誰がいつ建立したのか謎のままですが、戊辰役ゆかりの碑として今後も注目すべきものと思います。
静岡駅までのバス中、皆さんが笑顔でこの旅を終えることができたことは何よりも嬉しいことでした。
土曜の慰霊祭からツアーの引率を務めてくださった影山さん、本当にありがとうございました。
そして、このようなふるさとをアピールする機会をくださった大出元社長、何よりも静岡開催を大出さんに進言し、実現のきっかけを作ってくださった釣洋一先生、本当にありがとうございました!
改めて静岡の歴史はまだまだ掘り起こす余地があり、今後も様々なきっかけを通じて発信していく必要を痛感しました。
ご協力いただいた皆さん、全国からご参加くださった皆さんに感謝申し上げますとともに、これを期にぜひ静岡をごひいきのほど、よろしくお願い申し上げます。