日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに (角川新書)
アゴラの「カーボンニュートラルは21世紀の三国同盟」という記事が今ごろヘッドラインに上がっているので、82年前の日独伊三国同盟の本を紹介しよう。これが日米開戦へのpoint of no returnだったという歴史家が多いが、当時の政府部内では反対が強かった。

その情勢を逆転した主役は、松岡洋右外相である。彼は昔の外交官によくある「語学バカ」で、英語で1時間でも2時間でも原稿なしでしゃべったという。松岡は1940年7月に近衛内閣の外相として迎えられ、三国同盟の締結に奔走した。
 
前年からドイツ軍はヨーロッパで快進撃を続け、北欧やフランスを占領して、イギリスの陥落は時間の問題だと思われていた。イギリスのアジアの植民地を獲得するためには、日本軍は早く東南アジアを占領すべきだという火事場泥棒的な南進論が強まった。

対英戦争は、必然的に対米戦争になるので海軍首脳は慎重だったが、松岡は「対米戦争も辞さず」という強硬方針を打ち出した。日独伊がソ連と連携し、イギリスが降伏すれば、アメリカは中立を守るとみていたのだ。そのためヒトラーと会談して、日独伊ソ四国同盟の締結を提案したが、そのときヒトラーは対ソ戦を準備していた。


松岡の状況認識は今からみると荒唐無稽だが、当時はそうではなかった。東京日日新聞ロンドン特派員の「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行語になった。今でいえば「カーボンゼロに乗り遅れるな」という日経新聞のようなものだ。三国同盟が結ばれたときの新聞は、祝賀一色だった。

Epb8LfaUwAcpfM0

そのバスとは、ドイツがヨーロッパを征服して民主主義の時代は終わり、全体主義の時代が来るという時代の流れだった。その「空気」は陸海軍の現場にも共有され、政府や軍の首脳もそれに屈服した。その点では対米戦争の意思決定は民主的に行われたのだが、そこには致命的な見落としがあった。
 

⇒最初にクリックお願いします