亀次郎の志 今こそ 不屈館きょう開館10年 コロナで難局 支援1千万円に感謝
米軍支配下で圧政と闘った故瀬長亀次郎さんの資料館「不屈館-瀬長亀次郎と民衆資料」(那覇市若狭)が開館して1日で10年。新型コロナ禍で来館者が激減し、運営は厳しくなったが、全国から集まった総額約1千万円の支援や応援メッセージに支えられながら節目を迎えた。内村千尋館長(77)は「沖縄は戦争前夜を思わせる状況だが、『平和が一番、命どぅ宝』を合言葉に頑張っていきたい」と、「不屈」の精神を伝えていく決意を新たにしている。(社会部・島袋晋作)
資料館によると、以前の来館者数は多い年で年間6600人超。しかしコロナ禍で団体客のキャンセルが相次ぎ、2020年に2340人、21年は1426人まで激減した。
一時は「閉館」も考えるほど厳しい状況に追い込まれたが、20年6月に始めたクラウドファンディングでは、941人から約930万円が集まった。励ましの手紙と共に現金を届けてくれる支援者もいた。
内村さんは「めげそうになった時もあったが、踏ん張らないといけないと思った」と感謝する。
コロナ下の制約が減るとともに、かつて資料館を訪れた団体などから予約が入り始め、回復の兆しが見えてきた。
一方、県内では「台湾有事」を理由に米軍と自衛隊の訓練や配備強化が進み、内村館長は「戦争前夜を思わせる」と危惧する。
「平和を願い続けた亀次郎の残した言葉は、今の問題にも通じる。弾圧に負けずに頑張った生き方を改めて伝えていきたい」と決意を語った。
記念対談や舞台
桜坂劇場で4日
不屈館の10周年を記念したイベントが4日午後1時半から、那覇市の桜坂劇場で開かれる。映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」を手がけた佐古忠彦監督と小説家の柳広司さんの対談や、FEC所属芸人による「お笑いカメジロー&お笑い米軍基地」の上演がある。
チケットは前売り3千円。問い合わせは不屈館、電話098(943)8374。
(写図説明)開館10年を振り返る内村千尋館長=27日、那覇市若狭・不屈館(竹尾智勇撮影)
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瀬長亀次郎と言えば不屈の精神で米軍の弾圧と戦った「不屈の男」、あるいは「米軍が最も恐れた男」で知られている。
だがその正体は、戦前戦争を煽った大政翼賛会の幹部だった。
また、瀬長の正体が不屈どころか、敗戦後クリスチャンに成り済ましキリスト教に入信し米軍に諂う「卑屈の男」である事実を知る県民は少ない。
(あの角ばった顔で首に十字架を下げ、神妙に米国推薦のキリストに十字を切る姿は、「不屈の男」どころか、まるでマンガである)
■昭和19年12月の「県民大会」■
昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。
その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。
昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前那覇を襲った「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。
ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、「米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て」のような大見出しを使っている。
泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団(※)では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であった。
「軍人より軍人らしい民間人」と言えば、座間味島集団自決の生き証人でありながら、戦後一言も証言せずその一生を終えた沖縄テレビ社長・山城安次郎を連想する。
例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。
(※)県翼賛壮年団
戦時中、大政翼賛会沖縄県支部長を務めた當間重剛氏によると、瀬長亀次郎は右翼団体・沖縄県翼賛壮年会の幹部だった。
當間重剛氏は沖縄県立第一中学校を経て1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出されたが、市長を辞任し大政翼賛会沖縄県支部の支部長を務めた。そして戦後は米軍統治下の沖縄で琉球政府の主席を務めた。
『当間重剛回想録』
私の高等学校から大学時代の間にも実に多くの先輩・同級生そして後輩が新しい思想にとびつき、また実にたくさんの転向者がでた。新しい思想に飛びついたものは、そこに合理性を発見したからだ。学生には”朕が国家なり”では納得が行かぬからである。そこには理論もなにもなく、宗教的な色彩と感傷だけしかなく、学生を満足させるに足る理論的要素がなかったといえよう。
そしてそういうことが自由に言える時機は、いつかは来なくてはいけないものだ。これは一つの世の中の進歩で、国家に対する物の考え方もいつかは自然と移り変る経路をたどるもので、その私学的な思想が私たちの学生時代には官学にまで入ってきたものである。だが新しい思想に飛び込んでも社会の発展に即応してその人たちの思想にも幾多の変遷があった。左翼から翼賛会に入り、また左翼になったのは瀬長君ばかりではない。私の友人にもそういうのが多くいたのだ。(244~246㌻)
■「不屈の男、瀬長亀次郎」は、沖縄メディアが創作した大嘘である。
米軍統治下の沖縄ではGHQの「公職追放」は行われなかった。
おかげで戦前は戦争を煽った大政翼賛会の幹部だった瀬長亀次郎は、公職追放を免れ反戦政治家として沖縄で活動できた。
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■小林よしのり氏も騙された「不屈の男神話」
保守主義者を自認する小林よしのり著『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を、「沖縄の英雄」と祭り上げて書いてしまったことである。
小林よしのり著『沖縄論』を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。
小林氏と思想的にまったく逆の立場の瀬長亀次郎氏を絶賛している内容に誰もが驚くはずだ。
日本共産党の機関誌「赤旗」の書評でも、『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだ。
沖縄左翼を読者として取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。
瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」あるいは「不屈の男」は実際は、沖縄左翼とマスコミが作り上げた創作である。
沖縄の売れない芥川賞作家目取真俊氏が『沖縄論』の「亀次郎の戦い」について地元作家の盗作だと喚いていたが、県外に住む小林氏が米軍統治下の沖縄で活動した瀬長亀次郎のことを作品にしようと思えば、どうしても地元作家の作品を参考にせざるを得ない。内容が似てくるのは当然だ。それを盗作だと主張するなら、著作権侵害で提訴すれば済むはず。
だが、いまのところ提訴の話は聞いていない。
ここで取り上げたいのは、「盗作か否か」の問題ではない。
目取真氏を筆頭に沖縄の左翼陣が「米軍が最も恐れた男」「不屈の人」としてカリスマ化した瀬長氏の正体は、本当に不屈の人だったのか。
この疑問を検証してみよう。
■大政翼賛会と瀬長亀次郎
戦後GHQが占領下の日本に行った数々の「改革」の中で、最も日本の国力を削いだのは公職追放だ。何しろ戦前、日本を世界の大国に育て上げた日本の知識人やリーダーが、官民を問わず職務から追放されたのだ。
公職追放の対象にしたのは、戦争犯罪人、超国家主義者らの中に「大政翼賛会」が含まれている。
そしてここで、最も大政翼賛会とは無縁と思われる瀬長亀次郎と大政翼賛会の関係を検証してみよう。
米軍統治下の沖縄では、GHQが行った公職追放は実施されなかった。
その理由は、マッカーサーとその配下の沖縄軍司令官(後の高等弁務官)が、極端な人材不足の沖縄で、公職追放は戦後沖縄の復興は無理と判断したからだ。
したがって沖縄では戦前戦争を煽った国家主義者や大政翼賛会の幹部までもが公職追放を免れ、新聞社や自治体の公職に就いた。
米軍占領下の沖縄では、公職追放に限れば、「銃剣とブルドーザー」どころか日本より緩やかな政策がとられた点に注目すべきだ。
瀬長亀次郎は、戦前大政翼賛会の幹部をしていながら公職追放を免れ保守政治家又吉康和那覇市長の推薦で新聞社に勤務。その後保守政治家・又吉康和氏の後押しで政治家の道を歩むことになる。
ちなみに保守系政治家でジャーナリストの又吉康和氏は那覇市長を在任中急死し、その功績を顕彰して現在の通称「崇元寺通り」に「又吉道路」に命名されたほどの人物である。
ところが瀬長亀次郎は又吉氏を始め自分を後押ししてくれた保守系政治家との交流を一切語ることはない。戦前の大政翼賛会幹部の汚点がバレるからだ。
一方、日本では1946年1月4日、GHQから日本政府に「公職追放令」が通達された。
追放の該当者はこうだ。
A項が戦争犯罪人、
B項が陸海軍軍人、
C項は超国家主義・暴力主義者、
D項は大政翼賛会指導者、
E項は海外金融・開発機関の役員、
F項が占領地の行政長官、
G項はその他の軍国主義者や極端な国家主義者。
追放の対象となる在職期間は、日中戦争の発端とされる盧溝橋事件の起こった1937年7月から、終戦の45年8月までとされた。
公職追放の烙印をおされると、公職から追放され、退職金も恩給ももらえない。政治家であれば政治活動が禁止され、経済人なら会社にも入れず、言論人は言論活動ができなくなった。
瀬長の「不屈神話」次のようにして作られた。
《瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。》
これこそ「瀬長神話」の典型である。
当時の那覇市は、米軍の資金凍結を待つまでもなく財政破綻状態であり、米軍が大株主の琉球銀行の融資により辛うじて自転車操業をしていた。
「市民の納税率アップで財政危機を脱した」との説明だが、元々マイナス5の財政に納税率アップをしても、マイナス5がマイナス4になるのが関の山。財政危機の脱出など瀬長信者が創作した神話に過ぎない。
だが瀬長氏は当時非合法であった共産党員であることを隠し、那覇市長に当選した。 また犯人隠避の罪状で投獄されている。
結局、瀬長氏は米軍の財政援助なくしては市の公共事業が成り立たないのを承知で米軍に反抗し、米軍が大株主の琉球銀行からの融資を凍結され、辞任に追い込まれることになる。 現在の那覇市の泉崎橋が工事途中のまま長期間放置され、那覇中学や上ノ山中学に通学する生徒が大迷惑したことを昨日のことのように思い出す。
長年、琉球銀行の総裁を務めた富原守保の著書『金融の裏窓十五年』には、那覇市に対する融資凍結について「人民党市長誕生」「那覇市の資金を凍結」などとと2頁に渡って詳述してあるが、「市民の納税率アップ」については一行の記載もない。
《人民党市長誕生
・・・(1956年12月の那覇市長選挙で)対米批判勢力を代表する人民党候補が初めて中央都市で勝利を収め、米国側をあわてさせることになった。米国統治のお膝元で、”赤い市長”誕生したというので内外で大きな反響を呼び、当時は日本本土の中央紙でも大きく報道されたSで長市長の那覇広く知れ渡った。・・・
那覇市の資金を凍結
当時、これら(那覇市の都計資金)の融資は琉球銀行が取り扱っていた。当間前市長時代には、区画整理資金や水道施設資金などは申請があればどしどし融資していたが、瀬長市長に代わってからは一切の貸し付けが停止された。このような補助金や復興資金の取り扱いについては、事前に米民政府の承認を求める必要があったため、民政府と相談の上きめたことだ。革新派は、この貸付停止措置を不当ととして強く抗議し、融資再開を迫ったが、私は既定方針を変えなかった。というよりも私の権限ではどうにもならない点もあった。(『金融の裏窓 15年』:53頁~54)》
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カメジローのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強い。
だが、不屈の男は戦後沖縄のメディアが作り上げた幻想であった。