狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

メモ:沖縄のタブー!卑屈の男、亀次郎の志 今こそ 「お笑い不屈館」きょう開館10年

2023-04-19 08:36:05 | 資料保管庫

 
開館10年を振り返る内村千尋館長=27日、那覇市若狭・不屈館(竹尾智勇撮影)
開館10年を振り返る内村千尋館長=27日、那覇市若狭・不屈館(竹尾智勇撮影)

亀次郎の志 今こそ 不屈館きょう開館10年 コロナで難局 支援1千万円に感謝

 
 2023年3月1日 5:00有料

 米軍支配下で圧政と闘った故瀬長亀次郎さんの資料館「不屈館-瀬長亀次郎と民衆資料」(那覇市若狭)が開館して1日で10年。新型コロナ禍で来館者が激減し、運営は厳しくなったが、全国から集まった総額約1千万円の支援や応援メッセージに支えられながら節目を迎えた。内村千尋館長(77)は「沖縄は戦争前夜を思わせる状況だが、『平和が一番、命どぅ宝』を合言葉に頑張っていきたい」と、「不屈」の精神を伝えていく決意を新たにしている。(社会部・島袋晋作)

 資料館によると、以前の来館者数は多い年で年間6600人超。しかしコロナ禍で団体客のキャンセルが相次ぎ、2020年に2340人、21年は1426人まで激減した。

 一時は「閉館」も考えるほど厳しい状況に追い込まれたが、20年6月に始めたクラウドファンディングでは、941人から約930万円が集まった。励ましの手紙と共に現金を届けてくれる支援者もいた。

 内村さんは「めげそうになった時もあったが、踏ん張らないといけないと思った」と感謝する。

 コロナ下の制約が減るとともに、かつて資料館を訪れた団体などから予約が入り始め、回復の兆しが見えてきた。

 一方、県内では「台湾有事」を理由に米軍と自衛隊の訓練や配備強化が進み、内村館長は「戦争前夜を思わせる」と危惧する。

 「平和を願い続けた亀次郎の残した言葉は、今の問題にも通じる。弾圧に負けずに頑張った生き方を改めて伝えていきたい」と決意を語った。

記念対談や舞台

桜坂劇場で4日

 不屈館の10周年を記念したイベントが4日午後1時半から、那覇市の桜坂劇場で開かれる。映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」を手がけた佐古忠彦監督と小説家の柳広司さんの対談や、FEC所属芸人による「お笑いカメジロー&お笑い米軍基地」の上演がある。

 チケットは前売り3千円。問い合わせは不屈館、電話098(943)8374。

(写図説明)開館10年を振り返る内村千尋館長=27日、那覇市若狭・不屈館(竹尾智勇撮影)

              ★

瀬長亀次郎と言えば不屈の精神で米軍の弾圧と戦った「不屈の男」、あるいは「米軍が最も恐れた男」で知られている。

だがその正体は、戦前戦争を煽った大政翼賛会の幹部だった。

また、瀬長の正体が不屈どころか、敗戦後クリスチャンに成り済ましキリスト教に入信し米軍に諂う「卑屈の男」である事実を知る県民は少ない。

(あの角ばった顔で首に十字架を下げ、神妙に米国推薦のキリストに十字を切る姿は、「不屈の男」どころか、まるでマンガである)

 
 

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前那覇を襲った「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、「米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て」のような大見出しを使っている。

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

<挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団(※)では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であった 

「軍人より軍人らしい民間人」と言えば、座間味島集団自決の生き証人でありながら、戦後一言も証言せずその一生を終えた沖縄テレビ社長・山城安次郎を連想する。

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

(※)県翼賛壮年団

戦時中、大政翼賛会沖縄県支部長を務めた當間重剛氏によると、瀬長亀次郎は右翼団体・沖縄県翼賛壮年会の幹部だった。

當間重剛氏は沖縄県立第一中学校を経て1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出されたが、市長を辞任し大政翼賛会沖縄県支部の支部長を務めた。そして戦後は米軍統治下の沖縄で琉球政府の主席を務めた。

『当間重剛回想録』

私の高等学校から大学時代の間にも実に多くの先輩・同級生そして後輩が新しい思想にとびつき、また実にたくさんの転向者がでた。新しい思想に飛びついたものは、そこに合理性を発見したからだ。学生には”朕が国家なり”では納得が行かぬからである。そこには理論もなにもなく、宗教的な色彩と感傷だけしかなく、学生を満足させるに足る理論的要素がなかったといえよう。

そしてそういうことが自由に言える時機は、いつかは来なくてはいけないものだ。これは一つの世の中の進歩で、国家に対する物の考え方もいつかは自然と移り変る経路をたどるもので、その私学的な思想が私たちの学生時代には官学にまで入ってきたものである。だが新しい思想に飛び込んでも社会の発展に即応してその人たちの思想にも幾多の変遷があった。左翼から翼賛会に入り、また左翼になったのは瀬長君ばかりではない。私の友人にもそういうのが多くいたのだ。(244~246㌻)

■「不屈の男、瀬長亀次郎」は、沖縄メディアが創作した大嘘である。

瀬長の「不屈神話」次のようにして作られた。

瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。

これこそ「瀬長神話」の典型である。

当時の那覇市は、米軍の資金凍結を待つまでもなく財政破綻状態であり、米軍が大株主の琉球銀行の融資により辛うじて自転車操業をしていた。

「市民の納税率アップで財政危機を脱した」との説明だが、元々マイナス5の財政に納税率アップをしても、マイナス5がマイナス4になるのが関の山。財政危機の脱出など瀬長信者が創作した神話に過ぎない。

だが瀬長氏は当時非合法であった共産党員であることを隠し、那覇市長に当選した。 また犯人隠避の罪状で投獄されている。

結局、瀬長氏は米軍の財政援助なくしては市の公共事業が成り立たないのを承知で米軍に反抗し、米軍が大株主の琉球銀行からの融資を凍結され、辞任に追い込まれることになる。 現在の那覇市の泉崎橋が工事途中のまま長期間放置され、那覇中学や上ノ山中学に通学する生徒が大迷惑したことを昨日のことのように思い出す。

長年、琉球銀行の総裁を務めた富原守保の著書『金融の裏窓十五年』には、那覇市に対する融資凍結について「人民党市長誕生」「那覇市の資金を凍結」などとと2頁に渡って詳述してあるが、「市民の納税率アップ」については一行の記載もない。

《人民党市長誕生

・・・(1956年12月の那覇市長選挙で)対米批判勢力を代表する人民党候補が初めて中央都市で勝利を収め、米国側をあわてさせることになった。米国統治のお膝元で、”赤い市長”誕生したというので内外で大きな反響を呼び、当時は日本本土の中央紙でも大きく報道されたSで長市長の那覇広く知れ渡った。・・・

那覇市の資金を凍結

当時、これら(那覇市の都計資金)の融資は琉球銀行が取り扱っていた。当間前市長時代には、区画整理資金や水道施設資金などは申請があればどしどし融資していたが、瀬長市長に代わってからは一切の貸し付けが停止された。このような補助金や復興資金の取り扱いについては、事前に米民政府の承認を求める必要があったため、民政府と相談の上きめたことだ。革新派は、この貸付停止措置を不当ととして強く抗議し、融資再開を迫ったが、私は既定方針を変えなかった。というよりも私の権限ではどうにもならない点もあった(『金融の裏窓 15年』:53頁~54)》

               ★

カメジローのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強い。

だが、不屈の男は戦後沖縄のメディアが作り上げた幻想であった。

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【沖縄戦、米軍の民間人虐殺】戦時遭難船:沖縄戦では、戦争を逃れて行く沖縄の人々が乗っていく疎開船がほとんど沈没しました。対馬丸だけではありませ

2023-04-19 04:24:13 | 資料保管庫

 

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読者の皆様へ

3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日」詠み人多数。

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

 

【昔の沖縄】戦時遭難船:沖縄戦では、戦争を逃れて行く沖縄の人々が乗っていく疎開船がほとんど沈没しました。対馬丸だけではありませ

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