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読者の皆様へ
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版します。
決定版です。
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狼魔人日記
江崎 孝
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3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。
そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。
★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。
管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp
※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。
「八月や六日九日十五日」詠み人多数。
米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。
酒乱の暴力男・大田昌秀元沖縄県知事がノーベル賞候補?2021-07-29
沖縄をダメにした人物を挙げよと言われると、即座に数十名の名前が脳裏を過るが、それではスペースがいくらあっても足りないので、海兵隊政務外交部次長として沖縄に約6年間在住したロバート・エルリッヂ博士の言葉を借りると、次の四つの層に分類される。
➀マスコミ
➁学者(大学教授)
➂活動家
④政治家
沖縄をダメにした四つの層の詳細を書けば一冊の本では足りないぐらいなので、④の政治家の中から、カリスマ化され反対派の批判さえもはねつける程神格化した政治家を3人に絞ると、瀬長亀次郎、太田昌秀、翁長雄志になるだろう。
瀬長亀次郎が対立する保守系政党の調整失敗により分裂選挙を強いられ、1944票の僅差で、辛うじて那覇市長のポストを得たが、市政混乱のため僅か10ヶ月で市長不信任案が可決され、市長の座を追放された。
この事実を知る沖縄県民はほとんどいない。
瀬長が市長に就任するや、那覇市職員は瀬長市長への非協力声明の公表など、あるいは那覇市の建設組合など各業者団体が非協力声明を公表。「赤い市長」は四面楚歌の船出であり、副市長や助役に就任する者はなく、次期兼次市長就任の2ヶ月の空席を埋める貧乏クジを引かされたのが下記写真の東江臨時市長である。
勿論、副市長や助役は空席の孤立無援の2ヶ月だったが、収入役だけは瀬長市長の前任の当間重剛市長時代の収入役が留任して対応していたようである。
那覇市長
当間重剛1946.4-1946.6
東恩納寛仁1946.7-1948.2
仲本為美1948.3-1949.11
賀数世隆市長代理1949.11-1949.12
当間重民1949.12-1952.2
又吉康和1952.3-1953.9
当間重剛1953.11-1956.11
瀬長亀次郎1957.1-1957.11
東江誠忠臨時市長1957.11-1958.1
兼次佐一1958.1-1962.1
西銘順治1962.1-1968.10
平良良松1968.12-1972.11
苦渋の表情の表情の臨時市長、市政を混乱させた赤い市長の尻拭いをさせられたせいなのか・・・。
さて、話変わってここでは大田昌秀元沖縄県知事についての真相を深堀してみよう。
上原氏と具志頭村長ら四人が平和の礎の構想に県の協力得るため大田知事に面談し構想を説明した。
ところが大田氏は上原氏らにひと言の断りもせず「自分独自の構想」と発表し平和の礎を盗用したため、具志頭村に建立のの構想は頓挫したという経緯がある。
そのことを上原氏が批判したら、内外知識人の集うハーバービューホテルのパーティ会場で泥酔した大田知事が上原氏に暴力を振るい、床を3メートルも引きずったという。
ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔 - 狼魔人日記
当時の文藝春秋が「反戦政治家・大田昌秀氏の正体」と題する特集を組んで、大田氏の仮面を引き剥がしている。
文藝春秋 1996年10月号["マスコミの寵児"の知られざる実像:大田昌秀ある
☆
大田氏を批判した過去記事を一部引用する。
大田昌秀の正体!反戦平和の免罪符を剥がす2015-11-03
■大田昌秀著『2人の「少女」の物語』の大嘘
大田氏は最新の著作『二人の「少女」の物語』(新星社 2011年)を出版することにより、大城盛俊氏が語り部として20数年間に渡り全国にばら撒いてきた嘘を「沖縄戦の真実」として認め、歴史の一ページに刻むつもりである。
大田昌秀著『2人の「少女」の物語』には概ね三つの大きな嘘が含まれている。
「うつろな目の少女」についての嘘は、これまで述べたとおりだが、もう1人の「白旗の少女」についても嘘がある。
比嘉富子さんが「白旗の少女」は自分であると名乗り出た動機を大田氏は故意に隠蔽し読者を誤誘導しようとしている。
ドキュメンタリー作家上原正稔氏が創設した「1一フィート運動」の成果である米軍撮影記録フィルムの中で、健気にも手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は見る者の心を打った。
白旗の少女が公開されたその翌年には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、そこでは「少女を盾にする日本兵の醜い姿」が描かれた。
「あとがき」には日本兵に対する憎悪をむき出しの、このような文言が書かれている。
<本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >
<沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
沖縄の「識者」たちによる「白旗の少女」を歪曲した絵本の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。
それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年、「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。
そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。
比嘉富子著「白旗の少女」(講談社)
その本の後書きには、当初名乗り出ることを躊躇していた比嘉さんが、名乗り出るどころかあえて出版に踏み切った動機をこう書いている。
<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのように誤解されているのは、大変残念なことです。この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>
比嘉富子さんが、勇気をもって真実を告白してくれたお蔭で日本兵の「捏造された汚名」は雪(そそ)がれることになった。
不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られていた。
ここに登場する日本兵は名も知られぬ無名兵士ゆえ、慶良間島集団自決の梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。
だが日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が定着していたであろう。
『2人の「少女」の物語』では、大田氏は比嘉さんが日本兵の汚名を雪ぐために名乗り出たという重要な理由には一言も触れていない。
比嘉富子さんは、「少女を盾にした卑劣な日本兵」という通説が嘘であることを証言するため、あえて名乗り出た。だが大田氏は比嘉富子さんの心情を隠蔽することにより「残虐非道な日本軍」というイデオロギーを押し通そうとした。
「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。
否、「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は、一行の訂正もされず発売されているし、各図書館に所蔵され、子供たちの「平和教育」に使用されている。
「残逆非道の日本軍」というイデオロギーを押し通すために・・・これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。
■「一フィート運動」にまつわる嘘
『2人の「少女」の物語』が語るもう一つの大嘘は、「一フィート運動」の嘘だ。
同書には「一フィート運動」は大田氏が1983年(昭和58)に自宅で創始したというくだりがある(同書158ページ)。
一フィート運動はドキュメンタリー作家の上原正稔氏が創設した。これは沖縄戦に関心のある県人なら誰でも知っている紛れもない事実である。
当初、顧問として「一フィート運動」に関わった大田氏ら沖縄の左翼学者は上原氏のイデオロギーに拘らない姿勢に反発し、数を頼んで上原氏を追放した。
これが真実である。
では何故沖縄ではこのような明らかな嘘がまかり通るのか。
■「反戦平和は免罪符」
沖縄には筆者が流行らせた「反戦平和は免罪符」という言葉がある。
大田氏は、嘘を撒き散らしながらも「反戦平和」を叫ぶことにより沖縄2紙の免罪符にしっかり保護され、琉球大学教授から県知事、参議院議員と上り詰めた。
大田昌秀氏の正体
1992年9月13日、琉球政府の民政官を務めたフィアリー氏を歓迎するパーティがハーバービューホテルで催された。
会場にはアメリカ総領事ら県内外の知名氏が出席していた。
満座の客が注視する中、大田昌秀氏が上原正稔氏に私怨により暴力を振るい床を引きずり回した。
この事件は、沖縄2紙の記者がその場にいたが、大田氏の「反戦平和の免罪符」のお陰で一行の記事にもならず、県民の耳目から完全に遮断された。
まるで島ぐるみで太田氏のご乱行を隠蔽しているとしか思えない。事件の目撃証人は数多くいるがほとんどが新聞社OBを含む左翼文化人のため口をつぐむ人が多いという。
上原正稔氏は、確実に証言してくれる人物として、大田氏の暴力を押しとどめた沖縄タイムスOBの大山哲氏と元沖縄県副知事で沖縄県博物館・美術館館長も努めた牧野浩隆氏の名を挙げている。
沖縄2紙が与える「反戦平和の免罪符」を盾に、数多い著書の中で嘘を撒き散らす「文化人」の代表格が大田昌秀元県知事の正体である。
大田氏は自身が経営する大田平和総合研究所では沖縄戦のみならず、「中国大陸で日本軍が行った残虐行為」として数々の捏造写真を展示し日本軍に対する憎悪を煽っている。
その中でも「うつろな目の少女」の写真は一際目立つ展示がされている。
ところが不思議なことに、その写真の説明文には「大城盛俊氏が日本兵の暴行を避けるため少女に変装した」というセンセーショナルな記述は一行も無い。
琉球新報のロゴの付いた展示写真には次のような説明文が付されているだけである。
「戦火は何の関係ない人も悲惨極まりない地獄図となった。 戦火の火中に巻き込まれ、不可解な事態に疲れ果てた少女」