吹っかけ降りの雨の中観音堂に新吉とお賤が入ると六十近い尼が親切に迎え入れてくれます。足を洗い囲炉裏の側で二人は尼さんにお礼を言いますと、お賤は尼の顔をつくづく見て母親「・・・十三年前深川の櫓下の花屋へ置き去りにしていかれた娘のお賤だよ」と気づきます。尼はびっくりし「・・・先刻から見たような人だと思ってたが・・・私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃあありません・・・不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍してください・・・」と尼は懺悔話を始めます。
「・・・私の産まれは下総の古河の土井様の藩中の娘、父親は百二十石の高を戴いた柴田勘六と申し・・・お嬢様育ちでしたが・・・十六の時家来の宇田金五郎と私通、江戸へ逃げ出し本郷菊坂に所帯をもって午年の大火事のあった時宝暦十二年十七で子どもを産みました。翌年亭主が傷寒で亡くなり、子持ちでは喰い方にも困り産んだ子には名を「甚蔵」と付けましたが、菊坂下の豆腐屋の水船の上へ捨子にして、上総の東金へ行き料理茶屋の働き女に雇われ、長八という船頭といい交情となり深川相川町の島屋という船宿に行き亭主は船頭をしますが病が原因でまた死に別れ、そんな時島屋の姐さんから勧められ「小日向の旗本の奥様が塩梅が悪いので中働きに住み込んだところが殿様のお手が附いて、僅かな中に出来たのはこのお賤」。「この娘を芸者に出して私の喰い物にしようという了見でしたが、網打場の船頭の喜太郎と私通をして房州の天津へ逃げましたがそれからというもの悪いことだらけ、手こそ下さないでも口先で人を殺すような事が度々・・・仕方がないから頭髪を剃りこの観音堂で只観音様にお詫事をして、何不足なくこうやっていますが今日図らずお前たちに逢って、私はなお、観音様の持ってらっしゃる蓮の蕾で背中を打たれるように思います・・・」。
新吉「その小日向の旗本とは何処だえ」
尼「はい、服部坂上の深見新左エ門様というお旗本でございます」。
(ここからどんどん展開していきます)