惣吉と母親は漸う宿屋に着きましたが母親に癪が起きて思うように癒りません。長逗留を致しておりましたが追々良くなって元日に寝ていては縁起が悪いと惣吉の手を引いて出立します。小金が原へかかり塚前村の知己の処へ寄って病気の間厄介になろうと三里ばかり行くと大きな観音堂があります。霙が降り出して子どもに婆様では道は捗らず日も暮れまた痛み出します。仕方ないので観音堂に入り惣吉が母親の痛いところを押してやります。そこに尼さん年の頃58、9が入ってきて此方の畳の方に入りなさいと擦ってくれます。惣吉は医者から貰った薬を忘れたと言うので尼さんが近くに丸薬を売ってるところがあるからと惣吉に教えます。惣吉は出かけ探しますが見つからず近くで聞いても薬を売るところは無いと言います。仕方ないから観音堂に帰ってみると母親は首を絞められ死んでいる。荷物も母が持っていた多分の金も引っさらって尼が逃げていました。縊り殺された母に縋り付いて泣いてる子どもの声を、通りかかったのは藤心村の観音寺の和尚道恩。訳を聞くと和尚は直ぐに供の者を村方へ、百姓が二、三人来て死骸と共に惣吉を観音寺へ連れて来て段々聞くと頼るところもない実に哀れの身の上で、和尚は親の菩提のためわしが丹精してやるから仇を討つなど思わないで弟子になって追善供養を弔うがいいと、惣吉は頭を剃り宗観と名を替えて観音寺にいるところから、はからずも敵の様子が知れるという・・・・
安田一角の隠れ家交遊庵に取り入ったお隅は一角の疑念を上手にかわし寝間に入り仇を取ろうとします。一方麹屋では亭主が暁方富五郎が血塗れで死んで傍の書置きを見つけ大勢を頼んで交遊庵に駆けつけると、お隅は返り討ちにあい死んでいます。直ぐに書置きを羽生村へ持たせてやりました時には、母も惣吉も多助も恩知らずのお隅と憎んだことを詫びます。そして母と惣吉は二人の敵討ちの準備をし村の人たちに送られ上総東金の花車重吉を訪ねます。時は寛政十一年十二月十四日、年を取りました惣右衛門の未亡人が十歳になる子惣吉の手を曳いて。その翌年春年始花車重吉は行き違いに惣次郎の墓参りにやってきて和尚からお隅のことを聞きます・・・・