<諏訪大社前宮 すわたいしゃまえみや>
「死」を穢れとする価値観は、日本古来のものではなく、
「後世になって大陸から持ち込まれたもの」だと聞きました。
仮に、奥出雲に住んでいた隼人系の先住民が、
「死」に対する禁忌が薄かったと考えれば、
「死体を柱に括りつけると、よい鉄が取れる」
という、金屋子神にまつわる物々しい祭祀に対し、
さほど違和感を抱かなかった可能性もありますね。
そうしますと、渡来人との交流が始まる前から、
すでに日本では「人柱」という習俗が根付いていた、
とも推測できますが、色々と調べてみたところ、
どうも「生きた供物」を神に捧げるという行為は、
超古代の日本には存在しなかった節があるのです。
恐らく、『金屋子神祭文』と言う物語は、
タタラに関する様々な伝承を統括した話で、
奥出雲の民がもともと所有していた死生観が、
播磨からやってきたタタラ民の習俗と重なり、
内容に反映された部分があるのでしょう。
つまり、日本は「死を禁忌としない」
「死を穢れとしない」国柄ではあったものの、
「人や動物を神に捧げる風習はなかった」
と考えるほうが自然なのかもしれません。