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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

日本の死生観

2019-03-05 09:01:23 | 出雲の神社

<諏訪大社前宮 すわたいしゃまえみや>

 

「死」を穢れとする価値観は、日本古来のものではなく、

「後世になって大陸から持ち込まれたもの」だと聞きました。

仮に、奥出雲に住んでいた隼人系の先住民が、

「死」に対する禁忌が薄かったと考えれば、

「死体を柱に括りつけると、よい鉄が取れる」

という、金屋子神にまつわる物々しい祭祀に対し、

さほど違和感を抱かなかった可能性もありますね。

 

そうしますと、渡来人との交流が始まる前から、

すでに日本では「人柱」という習俗が根付いていた、

とも推測できますが、色々と調べてみたところ、

どうも「生きた供物」を神に捧げるという行為は、

超古代の日本には存在しなかった節があるのです。

 

恐らく、『金屋子神祭文』と言う物語は、

タタラに関する様々な伝承を統括した話で、

奥出雲の民がもともと所有していた死生観が、

播磨からやってきたタタラ民の習俗と重なり、

内容に反映された部分があるのでしょう。

つまり、日本は「死を禁忌としない」

「死を穢れとしない」国柄ではあったものの、

「人や動物を神に捧げる風習はなかった」

と考えるほうが自然なのかもしれません。


隼人の一族

2019-03-04 09:57:54 | 出雲の神社

<桜島>

 

「隼人」と呼ばれる人々は、

もともと鹿児島など南九州一帯に

居住していた日本の先住民族であり、

インドネシア系南方文化の影響を受けた、

海人族の一派だったとも言われています。

 

のちに「八幡神」と称する新羅系渡来人の襲来など、

幾多の争いの歴史に巻き込まれたことにより、

その多くが殺害されてしまったと聞きますが、

残った者たちは、大和族(天孫族)への

忠誠を誓うことで血統を保ち、

宮中に仕えて警護などの役職を担ったり、

舞や相撲などの芸事に従事したりして、

自らの家系を継続させたようです。

 

また当時は、先住民族と渡来人との間だけでなく、

百済系渡来人と新羅系渡来人との間にも、

深い因縁を残す出来事が繰り返されたため、

隼人をはじめとする先住民族の人々も、

それらのイザコザに翻弄され、

敵と味方に分かれることも多かったのでしょう。

 

恐らく、隼人の一大居住地である南九州の一帯に、

「百済王」の伝説が残っていることなどを考えれば、

隼人の一部は百済側と結びついていたのかもしれません。

だとすると、百済の文化に馴染んだ奥出雲の人々が、

新羅寄りの「播磨の金屋子神」が持ち込んだ祭祀を避け、

「みかん」を供物から排除した背景も見えてきますね。


みかんのタブー

2019-03-03 09:54:58 | 出雲の神社

<中嶋神社 なかしまじんじゃ>

 

島根県の一帯の金屋子神を祀る神社の祭祀では、

なぜか「金屋子神が好む」とされる「みかん」が、

ほとんど登場しないと聞きました。

他の地域の金屋子系神社のお祭りでは、

必ずと言っていいほど供えられるにも関わらず、

こと金屋子神のお膝元・奥出雲の地に関しては、

どういう理由かみかんの姿を見かけないとのこと。

また、四国などの一部地域では、みかんではなく、

ユズなどの柑橘系に置き換えられるという話もあり、

金屋子神とみかんに関する謎はますます深まります。

 

ちなみに、金屋子神を助けた「藤」が、

新羅との縁が深い「諏訪」とつながることは、

以前の記事でも述べましたが、

仮に、田道間守との関係を元に、

「みかん=新羅」の暗示と置き換えるなら、

金屋子神に砂鉄の利権を奪われた奥出雲の民は、

さしずめ当時、新羅と敵対関係にあった

「百済」側の人間だったでしょうか……。

色々調べてみますと、クシナダヒメ一家の

出自と推測される「隼人」には、

やはり百済との深い結びつきがあったのです。


先住民と獣

2019-03-02 09:52:15 | 出雲の神社

<犬資料>

 

金屋子神に吠え掛かった「犬」というキーワードと、

金屋子神を助けたとされる「竹」というキーワードは、

どちらも「隼人」という部族を連想させる言葉です。

ときに、播磨から来た金屋子神の一行を襲い、

ときに、吉備から来た金屋子神の一行を匿った「隼人」とは、

いったいどのような人々だったのでしょうか……。

 

当時、各地の豪族は、その土地に古くから居住していた

「犬」「猪」「猿」……など、先住民族と呼ばれる人々を

陰で動かしながら、領土や利権を得ていたものと思われます。

一方、彼らの配下となってもなお「獣」たちの多くは、

各豪族との主従関係に深く囚われることなく、

「山々の峰」などを渡り歩き、同族の人々と

密に連携を取り合っていたのでしょう。

 

恐らく、金屋子神に襲い掛かった「隼人(出雲の犬)」も、

金屋子神を助けた「隼人(吉備の犬)」も、

元をたどると同じ系列の部族だったのかもしれません。

金屋子神が播磨や吉備からやってきたとき、

出雲の「犬」が撤退を促すかのように吠え掛かったのも、

同族の犬に対してある種の「伝言」だった想像すると、

また物語の違った側面が見えてきそうですね。


生き残りの術

2019-03-01 09:41:01 | 出雲の神社

<斐伊神社 ひいじんじゃ>

 

クシナダヒメという女神は、自らの名に

竹を材料とする「櫛」の字を冠するだけでなく、

「母・テナヅチがクシナダヒメを

産み落とした際、父・アシナヅチが

笹竹でヘラを作って、へその緒を切った」

との伝承を有するなど、

何かと「竹」との縁が深い神様です。

これらのことを踏まえますと、「竹」を象徴する

クシナダヒメとその両親アシナヅチ・テナヅチが、

「隼人」だった可能性も否定できないのでしょう。

 

仮に、「竹=隼人」という設定で

日本神話のオロチ退治を読み解けば、

「出雲の隼人一族の娘であるクシナダヒメが、

越のオロチに差し出される寸前、

スサノオに助けられた」……。あるいは、

「隼人が所有する出雲の砂鉄を奪おうとした

越のオロチを、スサノオが討伐した」

……という風にも受け取れますね。

 

恐らく、隼人という一族は、もともとは

国津神の血を引く人々だったと思われますが、

早い時期に渡来系の人々と融合した結果、

天津神の臣下に置かれたケースも

少なくなかったのかもしれません。

金屋子神を巡って繰り広げられた、

一見真逆のようにも見える振る舞いも、

一族の持つ複雑な因縁に起因する、

生き残りの術だったのでしょうか……。


隼人と竹

2019-02-28 09:38:41 | 出雲の神社

<曽枳能夜神社 そきのやじんじゃ>

 

南九州を本拠地とした「隼人」という一族(集団)は、

日本の先住民の一派であり、同じ九州にいた「熊襲」や

奈良の山間部を拠点にした「土蜘蛛」「国栖」などと同様、

ある意味、大和朝廷の支配外に置かれていた人々です。

 

一説に隼人たちは、犬の遠吠えをして連絡を取り合ったり、

悪霊を追い出すために犬の鳴き声を真似したり……等々、

「犬」の鳴きまねを得意としていたそうで、

『播磨国風土記』に記載される「別部の犬」や、

金屋子神に吠え掛かった「出雲の犬」も、

隼人とのつながりが深かったと言われています。

 

また、「竹」を扱う技術に長けていた隼人は、

様々な竹製品を製造しただけでなく、

かぐや姫の話の元となった「竹取物語」

の誕生にも深く関わっているのだとか……。

 

隼人たち自体が海外からやってきたのか、

それとも渡来人の影響をいち早く受けた

先住民なのかははっきりとしませんが、

いずれにせよ、南九州には他の地域に先駆けて、

南方系の渡来人が到着し、全国の「竹文化」の

発信源となったことは間違いないのでしょう。


竹の部族

2019-02-27 09:26:56 | 出雲の神社

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

「竹(笹)」は、稲作が日本に到来する遥か以前、

渡来系の人々が南九州に上陸した際に、

異文化とともに持ち込んだという説が有力です。

何でも、各地に存在する「竹林」は、

南九州を本拠地としたある部族が、

日本国土を北へと移住する過程において、

竹にちなむ文化を広めて行った名残なのだとか……。

 

今回、出雲一帯の神社を巡っている最中、

たくさんの竹林を見かけたため

不思議に思っていたのですが、

もしかすると出雲は、早い時期に渡来人が

定住を始めた土地だったのかもしれません。

また、島根県の出雲地方だけでなく、

全国の「イズモ」と呼ばれた場所には、

早期渡来人の移住地も多かったと思われます。

 

恐らく、竹・笹に助けられた金屋子神や

阿用の夫婦は、「竹」の暗示する部族に

匿われたという意味なのでしょう。

『金屋子神祭文』の中で金屋子神を助けた「藤」、

逆に安倍の犬に協力した「麻」「蔦」に加え、

新たに登場した「竹」という植物も、

古代氏族の暗示である可能性が大です。


笹の手助け

2019-02-26 09:24:20 | 出雲の神社

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

アニメ映画「もののけ姫」の舞台にもなった、

島根県雲南市・菅谷たたらの伝承の中に、

先日ご紹介した『金屋子神祭文』とは

少々異なる言い伝えがありました。

何でも、出雲タタラの始祖である金屋子神は、

吉備の中山から、村下1人とオナリ1人、

そしてお伴を2人連れて、

奥出雲へとやってきたのだそうです。

ところが金屋子神の一行が到着したとき、

四つ目の犬が吠えて襲いかかってきたため、

金屋子神は慌てて笹の中に身を隠したのだとか。

それ以来、タタラで働く人々は犬を嫌い、

笹を大事にするようになったと言います。

 

また、近隣の雲南市・阿用という地区には、

「片目の鬼が来て、農家の息子を食べた。

その時、父と母は竹藪の中に隠れた……」

という内容の昔話が残されていました。

一説に「オナリ」とは、15歳くらいの少女

(飯炊きの老婆という説もあり)を指し、

神様の食事を作っていたとのことですから、

恐らく巫女のような立場だったのでしょう。

「オナリ」と金屋子神とのつながりは、

それ以上調べることはできませんでしたが、

気になるのは、金屋子神も阿用の夫婦も、

「笹」に助けられたという点かもしれません。


オナリ

2019-02-25 09:22:06 | 出雲の神社

<稲田神社 いなたじんじゃ>

 

日本神話だけに留まらず、

人身御供を示唆する伝承は、

全国各地に伝えられており、

特に、「製鉄」に関わる言い伝えの中には、

川の治水工事や城の建築工事などと同様、

多くの人身御供の逸話が含まれています。

 

それらの話のほとんどが、

「タタラ神の妻として娘を差し出す」

といったあらすじの物語でして、

タタラ神の妻となる女性は、

主に山師の娘の中から選ばれ、

「オナリ」という名で呼ばれたそうです。

 

一説にオナリは、田の神へ捧げる

生贄の女性を指すとも言われており、

クシナダヒメの別称の「稲田姫」の「稲」も、

田の神とのつながりを示すものなのだとか。

もしそうだとすれば、クシナダヒメの両親である

アシナヅチ・テナヅチは、オナリを娘に持つ、

イズモの「鉄の民」だったのでしょうか……。


人柱にされた娘

2019-02-24 09:19:14 | 出雲の神社

<松江市・松江城>

 

ヤマタノオロチに命を狙われたクシナダヒメや、

ヤマトタケルの身代わりとなって海に沈んだ

弟橘媛(おとたちばなひめ)の話など、

記紀の中には「人身御供」を

思わせる物語が少なからず存在します。

 

また、神話内だけに留まらず、

古くから「跡目争い」や「国盗り合戦」

の舞台となった「城」という建物にも、

何かと物騒な伝説がつきものでして、

築城工事の際などに問題が出ると、

「土地の神様の怒りを鎮める」といったの名目の元、

若い女性らを人身御供として生き埋めにした、

などの言い伝えがあちこちに残っているのです。

 

出雲市のお隣・松江市にある松江城にも、

「天守閣を支える石垣が何度も崩れ落ちたため、

城下で踊りを踊っていた少女を連れ去り埋めた」

という話が伝えられておりました。

この話は、小泉八雲が描く「人柱にされた娘」

というタイトルの怪談話の題材にもなりましたが、

これらの事実からも、日本には「つい近年まで」

人身御供の儀式が残っていたことがわかります。


人身御供

2019-02-23 09:13:36 | 出雲の神社

<奥出雲町稲原>

 

古代より、土地の神を鎮め災いを防ぐために、

人身御供という儀式が行われてきました。

対象となったのは、主に子供や若い女性で、

現在、神社の特殊神事や民間習俗に残る

「動物の供物を捧げる」という儀式は、

人的犠牲の代替行為でもあります。

 

記紀のヤマタノオロチの物語の中にも、

のちにスサノオの妻となるクシナダヒメが、

人柱になりかけた経緯が描かれていますが、

神話の舞台が出雲に移ったタイミングで、

「人身御供」の伝承が登場するということは、

古くからこの風習が重要視されていた証なのでしょう。

 

恐らく、クシナダヒメとヤマタノオロチとの一件は、

「人身御供(人柱)」として犠牲になった、

イズモの女性たちを示すと同時に、

全国の「イズモ」と呼ばれた土地に、

人柱となった人々がたくさんいた事実を、

後世に残すために記された話なのかもしれません。


クシナダヒメ

2019-02-22 09:13:00 | 出雲の神社

<奥出雲町稲原>

 

『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では

奇稲田姫と表記されるクシナダヒメ(稲田姫)は、

ご存知のようにヤマタノオロチにさらわれる寸前、

スサノオによって命を助けられた女神です。

一般的には、農耕祭祀の象徴、五穀豊穣の神……、

などとして崇敬され、スサノオとの間に

八人の御子神を産んだことでも知られます。

 

また、クシナダヒメという名前は、

スサノオがヤマタノオロチを退治する際、

クシナダヒメを「櫛」に変えたことから

その名がついたのだとか。

何でも、櫛の材料となる「竹」には、

不思議な霊力が宿っているそうで、

クシナダヒメが化身した櫛を

髪に挿して出陣したスサノオは、

その力のおかげか見事オロチを退治しました。

 

ちなみに、イザナギが黄泉の国から逃げる途中、

イザナミに「櫛」を投げつける場面がありますが、

「櫛を挿す」「櫛を投げる」という行為には、

どことなく意味深な暗示が漂いますね。

これらの「稲」「櫛」「竹」……等の

キーワードは、果たして出雲神話を

ひも解くヒントとなるのでしょうか……。


稲田神社

2019-02-21 21:02:07 | 出雲の神社

<稲田神社 いなたじんじゃ>

 

***** 出雲の神社2 *****

金屋子神社から30分ほど南に下った

奥出雲らしいのどかな田園風景の中に、

クシナダヒメを祀る稲田神社がありました。

周囲には、姫が産湯に使った「産湯の池」や、

へその緒を切った竹を祀る「笹の宮」など、

クシナダヒメと関わる伝承地が点在し、

古い由緒を感じさせる場所です。

 

ただし、稲田神社の建物自体は、

昭和13年に寄進されたそうで、

もともとのお宮は、「産湯の池」か、

「笹の宮」の付近にあったのだとか。

地元の伝承によれば、産湯の池の近くから、

神剣や神鏡が出てきたという話もありますし、

一帯が古代の祭祀場だったことは確かなのでしょう。

 

考えてみますと、クシナダヒメという神は、

夫であるスサノオとともに祀られることが多く、

単独でご祭神となっているケースは少なめです。

出雲神話に登場する女神の代表格であり、

スサノオとの間に八人もの子を成した、

偉大な「母神」であるにも関わらず、

故郷出雲におけるクシナダヒメの存在感は、

意外なくらいに凡庸としていました。


鉄の神の争い

2019-02-20 09:19:49 | 出雲の神社

<多度大社 たどたいしゃ>

 

仮に、新羅由来の習俗を持つ渡来氏族が、

但馬国、播磨国などを経由し、

金屋子神への信仰とともに出雲に進出した経緯が、

『金屋子神祭文』に描かれているとすれば、

出雲で起きた「鉄の主導権争い」や、

それらの出来事を暗示したヤマタノオロチ神話が、

さらに具体性を帯びて迫ってくるようです。

 

一説によりますと、奥出雲のタタラの

棟梁である村下(および金屋子神)が、

麻(蔦)に足を取られて亡くなったあと、

次なる村下の立場を担ったのは、

天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だったのだとか。

天目一箇神は「鍛冶の神」であるとともに、

筑紫忌部・伊勢忌部の祖神とされる神様ですね。

 

播磨国の和気氏と出雲国の安倍氏の一件以外にも、

中国地方に進出した渡来氏族の間では、

出雲の砂鉄を巡る攻防があったのでしょう。

伊勢神宮の創建にも関わったとされる

秦氏の重要人物・秦河勝が、

異国の神を信奉する大生部多を討ち取ったように、

この出雲の地でも、伊勢と縁する氏族が、

金屋子神の名前を借りた、ある種の「邪教」

を成敗した歴史があるのかもしれません。


橘の神紋

2019-02-19 09:15:10 | 出雲の神社

<金屋子神社 かなやごじんじゃ>

 

「常世」「みかん(橘)」という単語から、

連想ゲームのように頭に浮かんできたのは、

皇極天皇の時代に「常世神」への信仰を説いた、

大生部多(おおふべのおお)という人物でした。

大生部多は、のちに邪教を広めた罪により、

秦河勝(はたのかわかつ)により征伐されますが、

彼が「常世神」という名で崇めていたのは、

みかん(橘)の葉を食す毛虫(幼虫)です。

田道間守の逸話を元に考えると、大生部多が信仰した

みかん(橘)の葉を食べる「常世の虫」とは、

「新羅の神」だった可能性もありますね。

 

ちなみに、金屋子神社の古い神紋は、

藤原氏由来の「下り藤」ではなく、

「菱井桁に橘」という図案なのだとか。

みかんの伝承が神紋の「橘」に影響したのか、

逆に、神紋の図柄がみかんの伝承を

生み出したのかはわかりませんが、

みかん(橘)を好み、みかん(橘)の木によじ登り、

命を救われたとされる金屋子神の姿が、

「常世の虫」と重なって見えてくるのは、

少々行き過ぎた妄想でしょうか……。