<竈山神社 かまやまじんじゃ>
長髄彦(ながすねひこ)と争う中で、
大きな傷を負った五瀬命(いつせのみこと)は、
「私は、日神の子孫であるにも拘わらず、
太陽(東)を向いて敵と戦ってしまった。
これは天道に逆らう行為である。
今度は敵の背後から西に向かって攻めよう」と決断し、
神武軍は紀伊半島をぐるっと回りこんで、
熊野からヤマトに乗り込むことを決めたのだとか。
一方、名草では「神武軍は戦いに敗れたため、
仕方なく熊野ルートに変更した」という話が伝わります。
どちらが正しい説かはわかりませんが、
「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。
則ち名草戸畔という者を誅す」
という史書の短い一節だけ取り上げても、
これだけの相反する背景が隠されているのですね。