夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

烏駆除

2009年08月21日 09時26分31秒 |  岬な日々
いすみ市(岬町だけかな?)では今週いっぱい 烏の駆除をやっています。
朝からパンパンと鉄砲の音がしています。
それで烏たちが家の周りにたくさん避難してきています。
とにかく、賢い子達ですから、何が、どこが危険で、安全かってすぐに分かるのですね。
それだけならいいのですけど、とにかく煩い。
声高に喋り捲っています。

「あんさ~ あそこで危うく撃ち殺されるところやったとよ」
「ほんと、あっちでもこっちでもポンポンと 危なかね~」
「そりゃ、ちいとは悪さもするばってん、人間ほどじゃなかとよね~ 駆除するならまず、人間から駆除してもらわんといけんとに」
「ほんと人間はかってじゃから。色が黒いからすかんとか。そんで自分たちは日焼けサロンとかに通って黒くしてみたり。そりゃ、人間が金を持ってくれるとなら、羽をピンクとか青とかに染めてもよかけど。ひゃ~~って、人間のそばに降りてきたら、赤と緑の烏やったっていうたら、人間は腰抜かすやろね~」
「おまけにさ、声が気に入らん? なんね、カラオケとかで歌いおるやろ、ひどかもんたい。うちたちは物まねだってやれるとやからね~。 人間の下手な歌をおいといて、烏ばかりをせめても、そりゃ聞こえんばい」
「あぁ~、腹たつ。こんど鉄砲を持った人間を見つけたら、急降下して突っついてやろうか。それとも空からピチッと落し物をしてやろうか」
「やめとかんね。そげんことをしたら余計にひどくなるけん」
「世話役さん、なんとかしてくれんね」
「せからしか~ ふだんは町会だら何たらはうちらとは関係ありませんなんちゅう人が一番、ああせぇ、こおせぇって頼んでこらす。うちは知らんけんね~」




カワセミのポイントは草が刈られ、木が切り倒されていました。
この2週間以上、カワセミを見ていません。
引越ししたんでしょうか、ちょっと心配。

住みよくなることと引き換えにだんだんと何かがなくなっていくみたい。


それでも、いすみは来週は平穏な田舎に戻っているでしょうか。


夏は曙

2009年08月21日 08時14分52秒 |  岬な日々


夏は曙
やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて 紫だちたる雲の細くたなびきたる
衾に身を預け
あげわたしたる半蔀を通して
風の簾を揺らして草の香りを運ぶはさらなり
現に鳥の声 蝉の鳴くを聞くいとあわれ



立ち詩に惑い 留め詩に笑う おかし
軒の蜘蛛に後朝の詩を託し、夜離れを期するもいとおかし


朝露の輝き抱く蜘蛛の糸
  風吹かぬ日は なゆるわせ
          風車


 

マイはし、マイバック そして蛇足としての アートマネージメント

2009年08月20日 15時53分32秒 | 芸術・文化

えらい長文だから、携帯から見る人は見ないほうがいいかもしれませんよ。
それに、蛇の足以下は、企画をする人には不愉快になるかもしれませんし、しない人には分からないかもしれませんので、余計なものです。





反町隆史さんが外出の時にはマイはしを持っていくのだそうです。
子供たちのためによりよい環境を残したいためというのがその理由。

次の世代のため、自然のためにと思いついて、それを日々の生活の中に実践されている彼の行為はとても素晴らしいし、見習わなければならないと思うけど、、、

各論として、マイはしが自然保護になるのかということになるとちょっと疑問。

日本の森林は荒れています。
このいすみ市の山や森だって、荒れてしまっている。
一部植林したところもあるのですけど、今やほとんど使われていないのじゃないかな。
大都市東京のお膝元でさえそうなんです。

輸入材が安く、日本の木が採算に合わなくなってきている。
今、売れなくても、樹木の手入れさえしておけば、良好な森林を保全して、次の世代でその財産が活用できるかもしれません。
でも、後継者も育たない。
間伐材の伐採や、森林の手入れの人件費が高い。
やっても赤字になってしまうのですね。

最近の話ではなく、もう何十年もこんな状態が続いています。
九州などで大雨が降ると、木が流れてきて橋を壊したりします。
森の管理ができないために、倒木などが放置されているせいです。

間伐材が少しでも売れれば、間伐や手入れの費用が出る可能性もあるのです。
それが自然保護の運動のために逆に売れなくなってきている。

マイはしを持つことって、ずいぶん昔から言われています。
でも、マイはしを持たないで欲しいという林業関係者からの話もそのつどでてきているのですけど、なかなか大きな声にはなっていかない。

林業の関係者はそこで助成金ということに方向を向けてしまいがちなのですけど、でも、私は、国の援助を入れるよりも、普通の経済活動をしていて林業が守れるような環境作りが一番だと思うのです。
木材が高すぎるのも、森の保守が高いのも、日本の人件費の問題が絡んできますので、林業だけではどうしようもないこと。
だとすれば間伐材をもっと活用して、林業の収入をあげ、輸入材との競争のための力をつけていくことしかないと思っています。

確かに林業と、自然は同一ではありません。日本には林業は要らない。手付かずの森と原野、自然があればいいというのであれば、間伐材の有効活用も、間伐を活性化することも必要ないことではあるのですけど。




でも、考えてみると、身近にはこんなことが結構あるようです。
マイバック。最近はエコバックって言われているのでしょうか。
これもずいぶん前から、マイバックの運動が進められてきました。
でもね~って思うのですよ。
マイバックを使うのはいい。それ以前からトートバックなんていっぱい持っているし。でも、マイバックを持っていってレジ袋がいらないとすれば、今度はゴミ袋を買わなきゃならなくなる。主婦はレジ袋をゴミ袋として再利用していますからね。
総量としてどれだけ環境保護に役に立つのかな?
返って、ゴミ袋を買うための費用がかかるだけじゃないのかなって思うのですよ。



いったん、何か動きが始まると、ワ~ってみんなで走っていって、ちょっとおかしいのじゃないとか、もう一度考えてみようよなんて人の意見は通らなくなってしまうのは日本の悪い癖なんですよね。
流れに竿を挿す意見。流れがどんなに大きくても、竿がどんなに小さくても、誰かが気をつけていれば、もしかしたら次へのステップの大きな手がかりかもしれないのに。




マイはし持ち歩く反町が環境保護訴える(日刊スポーツ) - goo ニュース




ここからは私の昔話、蛇の足ね;
写真はこの間すでにアップした燕です。
企画って、受けてくださる人や見に来てくださる人に喜んでもらえるものでなければ、啓蒙だとかなんだとかいっても続かないですよね。



昔の仕事をしていたときに、オランダにトールペイントの伝統がいくつかあり、それを日本の授産所などで教えていけないかと考えました。
技術を勉強してきた人たちはだいたい東京に多いのです。
この人たちがアクセスしやすいように大都市圏からさほど離れていない林業県でこのような技術を教え、その技術を使った小さな家具や木工品をつくっていけば、間伐材も有効に利用できるのではないかなと思ったのですね。

私の友人たちの多くは、アートの企画屋さんか、アーティストでした。
ただのアートのプロモーションではなくて、地域の活性を視野に入れたところは私と同じでした。
彼らと私の、ちょっとした違いは、彼らは自分が企画したいものがあって、こんな芸術をマネージしていいますということを知らしめたいところがどこかにある。
もちろん、企画屋さんとしての業務としてやることであれば、それは後々の活動のためにもどうしても必要なことなのでしょう。

でも、私の場合は、それをやることを含めて始めから私の一存で済むことでしたし、やったからっていって、自分の事務所からの援助もほとんど期待できない。
打ち合わせのための旅行もすべて自分の時間、自分のポケットマネー。うまくいけば、事務所としてはうちはこんなことをやっていますよって誇らしげにいうけど、私の名前はどこにもない。最初からそんな風でしたから、私としてはそれが当たり前。場所もないし、金もない、あるのはやりたい企画だけ、、、
ならそれを受けてくださる方、協力してくださる方々がそれからどんなメリットを受けてもらえるのか、アーティスト、あるいはアート、受け皿、協力者の三社が私の中では平等だったのですね。しかも私は黒子。失敗は私の責任だけど、成功しても私には何もない。だた、うまくいったね~ってみんなと飲み交わすだけ。
それでも、私はそんなにお酒が好きではない人なのですよ。

以前にも書きましたけど、慶応のアートマネージメントの講座で話をしていて、教授から、
「金も、場所もなく、失敗の責任はあなた、そんなところで仕事をしていて、自分の仕事場についてどう思いますか」って聞かれました。
「この仕事場に勤められて素晴らしい幸運でした」って答えました。
そりゃそうでしょう。日常の仕事はほっぽりだして、何か分からないことをごそごそやって、「大変だ~ 企画が壊れそうだから、緊急にオランダに飛びます」なんていったりするスタッフにだまって、給料を払い続けていたんですから、こんな仕事場って他にないですよね。

その後に、「では、今の仕事について幸福でしたか」って質問が続きました。
目の前には、これからこのような仕事をやっていこうという学生さんがいます。
でも、私は「あまり幸福ではないかもしれない」って答えました。
教授はびっくりして、「なぜ?」って聞きますので、
「本当にいいマネージャー、企画屋というものは、そのアーティストや作品、運動の評価を常にしている。でも、ある程度長くやってくると、若い作家などの作品には粗が目立って、評価できないものが多くなり、自分ならこうするけどって思ってしまう。作家になることはとうの昔に諦めているはずなのに、疼くんですよね。何かが。で、だんだんと面白くなくなってくる」って答えていましたけど、これはまたまた余計なことだったかな。

私と仕事をしている相手は、私の仕事が仕事場としての仕事だと思っている。だから上司のところへ挨拶に着たりするのですけど、上司は「えっ? そんなことをしているのですか」ですからね。

アーティスト・イン・レジデンスの世界的な組織の事務局長がアジアに来るというので、日本によってもらい、ラウンドテーブルをやって、日本のそのような施設を視察するという企画を立てました。日本側の受け皿になってくれたところがボスにお礼を言いたいって来たんですよ。困りました。
だって、ボスはアーティスト・イン・レジデンスなんて芸術家の物見遊山じゃないか、そんなものに協力したり、お金をつける必要ないなんて考えの持ち主だったから。
でも、それが日本のためにも必要だと思えば、ボスは関係ないって、、、
事務所としてやるべきもの、やらなきゃいけないことを私はやっているのだから、あなたも本部も私に協力するのが当たり前って暴言を吐いているんですから。
だから、ボスがだめだということを私がやっているのに、お礼に来たい、
「はてどうしよう」ですよね。
でも、それでも首にならず、定年までいれたのですから、すごい幸運でしょう。
今時そんな事務所も、会社だって、そくつぶれますよね。

最初のボスは何もしない人。よそから文句がつくと、理由も聞かずに怒り狂っていたけど、こっちは馬の耳。
次のボスは、私の企画を喜んでくれていて、それに専念しなさい、文句が来たら私が止めますって言ってくれるた。頭がよかったから、コンタクトが必要なときでもベストのラインを見つけ出して紹介してくれた。
三番目のボスは、理由があったのだけど、私が散々使いまわしていたけど、次のボスへの私の評価の申し送り書に、できるだけ私の行動に干渉しないで放っておくのがベストって書いてくれた。この評価が私が定年になるまで生きていたんですね。この言葉には物凄く感謝しています。

仕事をする環境としては、私はもうこれ以上ないというところにいたのだとつくづく思います。
今、アーティストやアートの企画をやろうとする人には、経済的にも、社会的にもいろいろ難しい問題がありすぎる。
私みたいな破れかぶれのマネージャーなんか出てくる余地はないでしょうね。

でも、芸術関係の企画者って、その企画をどうしてもやりたいから、企画を立てるのですよね。だったら、芸術性はもちろんだけど、受けてくれる人や、関係者にベストな環境を作っていくことが最大の課題じゃないかなっておもうのですよ。
2番目のボスは、自分のアイデアを実現することだけが楽しみだった。だから終わると関係者に対してけんもほろろ。だから協力者が増えていかなかった。
彼にとっては日本はただの任地の一つだったから、いつも次の任地のことを考えていればよかったからかもしれない。場当たり的にでも自分の実績さえ上げておけば、後のことはどうでもよかったのでしょうね。
でも、私のようにローカルな企画屋さんは、一つ一つの企画を通じて、いろいろのネットワークを育てていくって気持ちがなければ、次の企画はできないからね。





夏は夕暮   いすみ市椎木堰 鷺

2009年08月20日 08時53分31秒 |  岬な日々


夏は夕暮
ようよう日も山の端に傾き 風に人心地を覚えるころ



ねぐらに帰らむとて鷺の一つ二つと急ぎ飛び交うもおかし。





遅れたる鷺の「皆で渡れば怖くない」と群れをなして帰るさまはいとあわれ。





まいて、一堂うちそろい、帳の前の談笑に耽るさま、いと愛らしゅうて、時のたつのも忘れはべる




いすみ市椎木 椎木堰です。
普段は鴨や鷺などの水鳥がたくさんいるところですが、最近見かけませんでした。
昨日は、わざと時間をずらして日没ころに行ってみましたが、やはりこちらは鳥のコロニーになっているのですね。
たくさんの鷺が対岸を埋めていました。
でも、最盛期にはこの何倍もの鷺が来ています。

トンボ

2009年08月19日 22時04分48秒 |  岬な日々


ひぇ~ トンボを撮っちゃった。
先日もトンボを撮って、書くことがないから「赤とんぼ 九十三式中間練習機」なんてのまでかいちゃったし、
その前は「赤とんぼ」と結び付けちゃったし、
もちろん大好きな「とんぼ釣り、、、」の詩はとっくに使っているし、
もう、書くこと種切れ。
助けて。




ところで、日本ことを秋津島っていうのをご存知。神武天皇が日本を見て、うんトンボに似ているってことからそうなったらしいのですけど、トンボの古名が秋津なんですね。
葵のことを書いているときに、隣町の大多喜の本多忠勝のことに触れました。
彼の家紋が葵だったのでね。
その本多忠勝の槍が蜻蛉切りって名前の槍だったそうですよ。



なんて、、、
ほんと、種が尽きた、、、、
頭も回らない。
助けて。


岬の憂鬱  蜘蛛と蝉

2009年08月19日 20時34分41秒 |  岬な日々



いすみ市は日本で一番朝日の早いところ(の一つ)。
もちろん平野ではということですけど。

私は日本で一番早く太陽に起こされるところに終の棲家を構えたのですね。

でも、太陽に起こされるのなら、まだ我慢ができます。
太陽は、今の時期、優しく耳たぶにキスをしてなんて優雅な作法はしてくれません。
いきなり、頭に噛み付いて、目の中を真っ白にして、さあ、起きろって、、、
それでも、お天道さんならまだ、我慢ができますって。

いまや空が白みかけて、まだ太陽も昇らないうちから、
「か~ね、かねかね」って家の外で騒ぐのがいるんです。
それも集団でね。
これには参った。

どんなやつって、トップの写真のお兄さんですよ。
種類が違う?
細かいことは気にしないで。
生きているのはずいぶんとアップしているので、今日は変り種で参りましょう。

これが嫌さに、誰にも知らせないで、都落ちをしたのに、効果がありませんでした。


おまけに、家をでると、こんなのがてぐすね引いて待っていて、
「はい、今月の利息を頂戴します」って、、、、



だから、今日はずっと家に引きこもり。
4時ごろにブランチを食べて、、、、
こんな時間に食事をすると、夕食は食べられないですね、、、、
今日も一日一食。
食事代は、蜘蛛さんに吸い上げられちゃう。



笑顔ですよ。   愛されていると感じる瞬間ランキング - gooランキング

2009年08月18日 13時28分31秒 | 日記

愛されていると感じるのはってランキングが出ていました。
なんだらかんだらって、ランクされてましたけど、そんなのはどうでもいい。
笑顔ですよ。笑顔。嬉しそうな顔をしてこちらを見てくれることが一番。

それも、物をあげたときとか、して欲しいことをやってあげたときに見せる笑顔は、物が嬉しいのかどうか分からないけど、
久しぶりで顔をあわせたとき、一緒にいるときにふとこちらを見て見せる嬉しそうな笑顔、これはアラジンのランプをもらうより素晴らしいこと、愛されてるっておもうな~
それがあれば、ランクされていることって全部OKだもん。


久しぶりであっても、「ふん」ってなみたいに、こんな顔をされたんじゃ100年の恋も冷めちゃうね。



愛されていると感じる瞬間ランキング - gooランキング



野の花

2009年08月18日 09時39分06秒 | 芸術・文化
いすみ市のこの家にたどり着いて、荷を降ろし、窓を開けて空気を入れ替え、水道の栓を開けて水を流し、、
荷をアンパックする前にもう一つ定番のやることがある。
家の周りを一回りして、今、何が咲いているのかなって見て回ること。
気に入った花があれば失敬して、家に飾る。
今までも飾った花を何度もアップしていますよね。

活花を習ったわけでもないし、まったくの我流なので、皆さんにお見せするのは恥ずかしいのだけど、そんなことを言っていれば、このブログの文章も、写真も恥ずかしいものだから、気にしないことにしている。

花を飾ってあげると、それまでなんとなくただの見慣れた空間にしか過ぎなかったものに、親しみと潤いが感じられるような気がするからなのです。
やっと、岬に戻ってきましたよ、、、、
そんな安心感とゆとりが生まれるのですね。

全く活花を知らなくっても、花を飾り、楽しむ、そして気持ちに潤いをもてます。
花を飾るってそんなことなんじゃないかな。
でも、逆に活花をやる人が、日常、花を飾りたがらない。
活花って嫁入りのための勉強課題ではないと思うのですけど。

これって、お茶でも同じかな。
私はお茶のことは分かりませんけど、気持ちにゆとりが欲しいとき、ふっとお茶を飲みます。私がお茶に求めるものはそれだから、それで十分。
でも、お茶をやる人たちは意外とお茶を飲まない。
あぁだ、こうだって、小うるさいことが先にたつのでしょうね。
でも、もったいない。せっかく習っているのに。
それにお茶を習おうとした一つはお茶を飲んで、楽しむことだったんだと思うのですけどね。

蛇の足で、一つ申し上げておきます。
私の知人たちは、お茶もお花もお師匠さんとか、プロと呼ばれている人たち。
この人たちのことを言っているのではないですから、くれぐれもお間違いのないように。
子の刻参りなんてやらないでくださいね。
あの方たちはいやでもお茶を点て、お花を活けているのですから、違うのは歴然ですよね。

友達が常々言っていること。
「友達が来て、袋菓子を出して、おしゃべりする。そんなときにも、そのお菓子に合うようなお皿を見繕う。お茶をやること、やりたいと思うことってそんなことなのよ」
だいぶ、この言葉が分かってきました。



連泊するときには、だいたいカメラを持って、いつものコースを見て回ります。
ブログの日記にアップするためもありますけど。
そうすると、この時期、岬ではどんな花が咲いて、どんな鳥がきているのかわかります。

でも、時期によっては、花も鳥も種類が少なくなって、毎回同じものをアップするようになります。
そうするとブログの写真のほうは苦手だと思ってあまり撮らない風景に逃げてしまいます。
いすみにはいろんなイベントがあります。これなどを撮れればいいのでしょうけど、こちらは肖像権などが煩いし、風景以上に苦手な分野です。
40年ちかくアートマネージメントなんてものをやってきていながら、その企画の写真を自分では一枚も撮ったことがないのも、苦手というより、なにを、どう撮っていいのか分からないからというのが本音でしょうね。



今の時期も、鳥も、花も少なくなってきています。
こんなときには、遠州さんから送って頂いている、カレンダーを見ます。
綺麗な茶花のカレンダーです。
でも、これは一月に一枚の写真。これでは足りませんね。

それで池沢昭夫、洋子夫妻の「野の花三百六十五日」という本を開きます。
この本のことは以前にも紹介していますね。
この本には、毎日、毎日、365日、夫人が自分の家の庭に咲いている花を活けられて、それをご主人が写真に撮って掲載されている。花器もなかなか趣のあるもの。
でも、私が見たいのは、今の時期、どんな花が咲いているのだろうということ。
咲いている花が分かれば、どの辺を探せばいいか分かりますからね。
ところが、特に今の時期、花がなくて探しているときに限って、この本の花と、身の回りの花の時期のずれが気になってきます。
8月の花に桔梗や姫檜扇水仙、、、、こちらではもうとっくに終わってしまった花が池沢夫妻の庭には咲いているのですね。
6月の日記に紫陽花と姫檜扇水仙をアップしていますよね。
池沢夫妻のお家は加古川。千葉のいすみ市とはこんなにも違うのでしょうか。
なんてことを考えるのも一つの楽しみですね。

ところで、池沢夫妻の本には触れられていませんでしたが、私の花を飾るもう一つの楽しみ。それは土に戻してやること。花が終わりごろになると、花を落として、水に挿しておきます。そうすると根がでてくる。十分に根がで、葉っぱが出たころに、水蘚などを使って徐々に水を少なくして土に戻してやる。
でも、岬の一つの問題は、虫さんたちの数が多いこと。あっという間にせっかく出た葉っぱを食べられてしまうのです。
岬で飾った花を、東京に持ち帰り、ベランダで育てるとそんなことはないのですけどね。
家の何本かの紫陽花はそうやってある程度大きくして、こちらに持ってきましたけど、でも大丈夫かな。これでも虫さんはやってくるでしょうしね。

紫陽花は強い花ですので、土に戻すことまでは問題ない。あるとすれば、花がなかなか終わらないことでしょうか。
トップの紫陽花は、花瓶に飾ってから、すでに2ヶ月以上ここで咲いています。(花色は変わっていますけど、多分、このときの紫陽花です)
こちらにも何度か紹介した花です。
でも花をつけている以上、けちな私としては、花を落とすわけにもいかず、いつまで咲いているのっておろおろしています。
その前に飾った花は、もう根っこを3センチ以上伸ばして、そろそろ土に戻す用意をして上げなければいけません。
後は時期をいつなのか、気候のことも考えながら、、、
水揚げに苦労するのは、男の楽しみ、、なんてことを言ってはいけませんね。





夕暮は雲のけしきを見るからに

2009年08月17日 16時39分21秒 |  気になる詩、言葉


夕暮は雲のけしきを見るからに
    ながめじと思ふ心こそつけ
        和泉式部
        新古今集 雑歌下 1806


夕暮の景色は哀しいですよね。
だから、もう決して眺めまいという思いに駆られる。

風車の写真でも赤く沈む夕暮も、青く沈む黄昏でも夕暮は哀しい。

夕暮って、その哀しさには、何か、誰かを求めている気持ちが込められていませんでしょうか?
過ぎ去った幸福な日々、遠く離れた恋人、、、、
だから、哀しいから眺めまいと思いながらもついつい、眺めてしまう。


多分、夕焼けがどんなに豪華絢爛であったとしても、消えていく太陽、一日の終わりということが見る気持ちの以前にあるのでしょうね。だから、同じような朝焼けではそれを感じないのかもしれません。さぁ、一日の始まりだっていうのが気持ちのアンダーラインとしてあるわけですから。


哀しい、でもどこかに暖かさがあるのは、夕暮には、人を幸福にするエレメントがあるのでしょうか。

寂しいけど、お母さんの待っている家に帰る。
会えなくて哀しいけど、思い出すのは昔の幸福な時間。

哀しいけど、どこか諦めにも似た満足。




秋は夕暮れ、、、

2009年08月17日 16時15分46秒 |  気になる詩、言葉


秋は夕暮
夕日のさして山の端いと近うなりたるに
からすの寝どころへ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり
まいて雁などのつらねたるが いと小さく見ゆるはいとをかし
                枕草子
                清少納言

いいですね、彼女の感性。
山の端いと近うなりたるに、、、
秋が来て、湿度が下がってきて、山が近く見え始めるのですよね、、、
この繊細さが枕草子が時代を経て好まれてきた証なのでしょうね。

なに、まだ夏だって?
何を暢気なことを言っているのですか、世の中、もう立秋を過ぎて、立派な秋なのですよ。
暑い?
それは気のせい。
気をちゃんともてば、ほれ、、、、
でも、暑いね~


いすみ市では今日からカラスの駆除をやるとアナウンスしておりました。
春には害獣駆除とかで、鉄砲をもってワッペンをつけた人がうろうろしていましたけど、今回は烏の受難。
でも、カラスが増えすぎて、あちこちで鳥が減ってきているのだそうです。
カラスって攻撃的な鳥ですからね。自分と同じものを食べるような鳥には群れで攻撃を加えます。群れがいなくっても、一羽だけでも大きな鳥に向かっていきます。
ましてや、子育ての時期などには、人間にだって攻撃を加える。
嫌われるのも分かりますけど、カラスにとっては自分と仲間、そして子供たちの安全を守る必死の行動なのですけど。
とっても利口だし、物まねなんかも上手い鳥ですよね。
都会では真夜中でも鳴きながら飛んでいますよ。
「よう~し、今度は歌舞伎町だ~」なんて、人間の社会の発展を先取りしているようですね。

人間にとってはサギやカワウ、アレチウリなんかもそうだけど、増えすぎるのも困りますよね。
自然に手を加えることをあまり好きではない私としては、どう考えていいのか、、、、
なんて、殊勝なことをいいながら、昨日は草刈に精を出しておりました。
だって、やらなきゃ家に入れないくらいに草が生い茂るんですから。
それはそれ、これはこれよ。