えらい長文だから、携帯から見る人は見ないほうがいいかもしれませんよ。
それに、蛇の足以下は、企画をする人には不愉快になるかもしれませんし、しない人には分からないかもしれませんので、余計なものです。
反町隆史さんが外出の時にはマイはしを持っていくのだそうです。
子供たちのためによりよい環境を残したいためというのがその理由。
次の世代のため、自然のためにと思いついて、それを日々の生活の中に実践されている彼の行為はとても素晴らしいし、見習わなければならないと思うけど、、、
各論として、マイはしが自然保護になるのかということになるとちょっと疑問。
日本の森林は荒れています。
このいすみ市の山や森だって、荒れてしまっている。
一部植林したところもあるのですけど、今やほとんど使われていないのじゃないかな。
大都市東京のお膝元でさえそうなんです。
輸入材が安く、日本の木が採算に合わなくなってきている。
今、売れなくても、樹木の手入れさえしておけば、良好な森林を保全して、次の世代でその財産が活用できるかもしれません。
でも、後継者も育たない。
間伐材の伐採や、森林の手入れの人件費が高い。
やっても赤字になってしまうのですね。
最近の話ではなく、もう何十年もこんな状態が続いています。
九州などで大雨が降ると、木が流れてきて橋を壊したりします。
森の管理ができないために、倒木などが放置されているせいです。
間伐材が少しでも売れれば、間伐や手入れの費用が出る可能性もあるのです。
それが自然保護の運動のために逆に売れなくなってきている。
マイはしを持つことって、ずいぶん昔から言われています。
でも、マイはしを持たないで欲しいという林業関係者からの話もそのつどでてきているのですけど、なかなか大きな声にはなっていかない。
林業の関係者はそこで助成金ということに方向を向けてしまいがちなのですけど、でも、私は、国の援助を入れるよりも、普通の経済活動をしていて林業が守れるような環境作りが一番だと思うのです。
木材が高すぎるのも、森の保守が高いのも、日本の人件費の問題が絡んできますので、林業だけではどうしようもないこと。
だとすれば間伐材をもっと活用して、林業の収入をあげ、輸入材との競争のための力をつけていくことしかないと思っています。
確かに林業と、自然は同一ではありません。日本には林業は要らない。手付かずの森と原野、自然があればいいというのであれば、間伐材の有効活用も、間伐を活性化することも必要ないことではあるのですけど。
でも、考えてみると、身近にはこんなことが結構あるようです。
マイバック。最近はエコバックって言われているのでしょうか。
これもずいぶん前から、マイバックの運動が進められてきました。
でもね~って思うのですよ。
マイバックを使うのはいい。それ以前からトートバックなんていっぱい持っているし。でも、マイバックを持っていってレジ袋がいらないとすれば、今度はゴミ袋を買わなきゃならなくなる。主婦はレジ袋をゴミ袋として再利用していますからね。
総量としてどれだけ環境保護に役に立つのかな?
返って、ゴミ袋を買うための費用がかかるだけじゃないのかなって思うのですよ。
いったん、何か動きが始まると、ワ~ってみんなで走っていって、ちょっとおかしいのじゃないとか、もう一度考えてみようよなんて人の意見は通らなくなってしまうのは日本の悪い癖なんですよね。
流れに竿を挿す意見。流れがどんなに大きくても、竿がどんなに小さくても、誰かが気をつけていれば、もしかしたら次へのステップの大きな手がかりかもしれないのに。
マイはし持ち歩く反町が環境保護訴える(日刊スポーツ) - goo ニュース
ここからは私の昔話、蛇の足ね;
写真はこの間すでにアップした燕です。
企画って、受けてくださる人や見に来てくださる人に喜んでもらえるものでなければ、啓蒙だとかなんだとかいっても続かないですよね。
昔の仕事をしていたときに、オランダにトールペイントの伝統がいくつかあり、それを日本の授産所などで教えていけないかと考えました。
技術を勉強してきた人たちはだいたい東京に多いのです。
この人たちがアクセスしやすいように大都市圏からさほど離れていない林業県でこのような技術を教え、その技術を使った小さな家具や木工品をつくっていけば、間伐材も有効に利用できるのではないかなと思ったのですね。
私の友人たちの多くは、アートの企画屋さんか、アーティストでした。
ただのアートのプロモーションではなくて、地域の活性を視野に入れたところは私と同じでした。
彼らと私の、ちょっとした違いは、彼らは自分が企画したいものがあって、こんな芸術をマネージしていいますということを知らしめたいところがどこかにある。
もちろん、企画屋さんとしての業務としてやることであれば、それは後々の活動のためにもどうしても必要なことなのでしょう。
でも、私の場合は、それをやることを含めて始めから私の一存で済むことでしたし、やったからっていって、自分の事務所からの援助もほとんど期待できない。
打ち合わせのための旅行もすべて自分の時間、自分のポケットマネー。うまくいけば、事務所としてはうちはこんなことをやっていますよって誇らしげにいうけど、私の名前はどこにもない。最初からそんな風でしたから、私としてはそれが当たり前。場所もないし、金もない、あるのはやりたい企画だけ、、、
ならそれを受けてくださる方、協力してくださる方々がそれからどんなメリットを受けてもらえるのか、アーティスト、あるいはアート、受け皿、協力者の三社が私の中では平等だったのですね。しかも私は黒子。失敗は私の責任だけど、成功しても私には何もない。だた、うまくいったね~ってみんなと飲み交わすだけ。
それでも、私はそんなにお酒が好きではない人なのですよ。
以前にも書きましたけど、慶応のアートマネージメントの講座で話をしていて、教授から、
「金も、場所もなく、失敗の責任はあなた、そんなところで仕事をしていて、自分の仕事場についてどう思いますか」って聞かれました。
「この仕事場に勤められて素晴らしい幸運でした」って答えました。
そりゃそうでしょう。日常の仕事はほっぽりだして、何か分からないことをごそごそやって、「大変だ~ 企画が壊れそうだから、緊急にオランダに飛びます」なんていったりするスタッフにだまって、給料を払い続けていたんですから、こんな仕事場って他にないですよね。
その後に、「では、今の仕事について幸福でしたか」って質問が続きました。
目の前には、これからこのような仕事をやっていこうという学生さんがいます。
でも、私は「あまり幸福ではないかもしれない」って答えました。
教授はびっくりして、「なぜ?」って聞きますので、
「本当にいいマネージャー、企画屋というものは、そのアーティストや作品、運動の評価を常にしている。でも、ある程度長くやってくると、若い作家などの作品には粗が目立って、評価できないものが多くなり、自分ならこうするけどって思ってしまう。作家になることはとうの昔に諦めているはずなのに、疼くんですよね。何かが。で、だんだんと面白くなくなってくる」って答えていましたけど、これはまたまた余計なことだったかな。
私と仕事をしている相手は、私の仕事が仕事場としての仕事だと思っている。だから上司のところへ挨拶に着たりするのですけど、上司は「えっ? そんなことをしているのですか」ですからね。
アーティスト・イン・レジデンスの世界的な組織の事務局長がアジアに来るというので、日本によってもらい、ラウンドテーブルをやって、日本のそのような施設を視察するという企画を立てました。日本側の受け皿になってくれたところがボスにお礼を言いたいって来たんですよ。困りました。
だって、ボスはアーティスト・イン・レジデンスなんて芸術家の物見遊山じゃないか、そんなものに協力したり、お金をつける必要ないなんて考えの持ち主だったから。
でも、それが日本のためにも必要だと思えば、ボスは関係ないって、、、
事務所としてやるべきもの、やらなきゃいけないことを私はやっているのだから、あなたも本部も私に協力するのが当たり前って暴言を吐いているんですから。
だから、ボスがだめだということを私がやっているのに、お礼に来たい、
「はてどうしよう」ですよね。
でも、それでも首にならず、定年までいれたのですから、すごい幸運でしょう。
今時そんな事務所も、会社だって、そくつぶれますよね。
最初のボスは何もしない人。よそから文句がつくと、理由も聞かずに怒り狂っていたけど、こっちは馬の耳。
次のボスは、私の企画を喜んでくれていて、それに専念しなさい、文句が来たら私が止めますって言ってくれるた。頭がよかったから、コンタクトが必要なときでもベストのラインを見つけ出して紹介してくれた。
三番目のボスは、理由があったのだけど、私が散々使いまわしていたけど、次のボスへの私の評価の申し送り書に、できるだけ私の行動に干渉しないで放っておくのがベストって書いてくれた。この評価が私が定年になるまで生きていたんですね。この言葉には物凄く感謝しています。
仕事をする環境としては、私はもうこれ以上ないというところにいたのだとつくづく思います。
今、アーティストやアートの企画をやろうとする人には、経済的にも、社会的にもいろいろ難しい問題がありすぎる。
私みたいな破れかぶれのマネージャーなんか出てくる余地はないでしょうね。
でも、芸術関係の企画者って、その企画をどうしてもやりたいから、企画を立てるのですよね。だったら、芸術性はもちろんだけど、受けてくれる人や、関係者にベストな環境を作っていくことが最大の課題じゃないかなっておもうのですよ。
2番目のボスは、自分のアイデアを実現することだけが楽しみだった。だから終わると関係者に対してけんもほろろ。だから協力者が増えていかなかった。
彼にとっては日本はただの任地の一つだったから、いつも次の任地のことを考えていればよかったからかもしれない。場当たり的にでも自分の実績さえ上げておけば、後のことはどうでもよかったのでしょうね。
でも、私のようにローカルな企画屋さんは、一つ一つの企画を通じて、いろいろのネットワークを育てていくって気持ちがなければ、次の企画はできないからね。