夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

灰を篩う その3 白骨を発見 写真と記事を追加しました

2007年07月22日 11時49分53秒 |  非・常識的茶道
灰を篩うは7月4日に最初に灰を漉したことをアップして以来、これで3回目になりますね。
でも、まだ乾かない。
周りがいくらか乾いてきたかなってところです。

この状態でふるって甕に入れてもまた、だまになるでしょうね。
もう少しの辛抱。

先日灰器に残っていた灰が綺麗なので、この灰にくわえました。

昨日灰を箸でひっくり返していたら、白骨を発見、、、なんて
灰器に残っていた炭なんですけど、、、ほんと、火葬場で骨を拾っている状況そのまま、、

でも2でも書きましたけど、この灰を簡単に篩って、乳鉢でごしごしやって、風炉に戻せるまで、あとどれだけかかるでしょうね。

そして、今度は炭か、、、
さすがに炭焼き釜をつくろうとは思いませんけど、、

釜がかけられるまで、生きておれるのでしょうか、心配になってきました。



トップの画像の灰器の中の白いものが「骨」
ポリバケツの中は篩った灰(お分かりのようにまだ篩いは荒いものを使用しています)
右は「だま」、一応これは退治すみ。
もう少し乾かしてから、乳鉢ですりすりですね。

いすみ市岬町 ヒグラシ

2007年07月22日 04時50分23秒 |  岬な日々
今、 4時半
ヒグラシの大合唱
鳥もがんばっていますけど、何せ多勢に無勢


5時
あれほど騒がしかった蝉が今は一匹も鳴いていません
鳥の声も密やかになりました

雨のしとしとと降る中を
岬の朝は幕をあけます


そして今は夕方の5時
これだけ曇っていても、 太陽の位置が傾いて
ベランダの前の木々を浮かび上がらせています


また、ヒグラシが合唱を始めました


いすみ市岬町

2007年07月20日 12時42分45秒 |  岬な日々
今回の岬行きの写真です。
今回は高速を木更津東まで使ってみましたが牛久までですね。
カメラは故障中ですので、今回は200万画素の骨董デジカメ。
広角気味で、ズームはなし。ちょっとフラストレーションがたまりますけど、、



今回は牛久に出ないで山道を高滝まで行きましたが、あまり意味がないみたいでした。
長南まで延びなければ、今までのように金田で降りて、16号から広域農道に入っても時間は変わらないと思います。

トンボ沼のことを聞かれていましたけど、今回はいすみの環境と文化の里のセンターにある蓮を見てきました。
トップの蓮もこのセンターのもの。
そしてこれは大賀蓮です。



一種のショウルームですね。特に、いろんな蓮の種類を見たいというようなことでなければ、トンボ沼の方が自然にあふれていますのでお勧めです。
千葉はレンコンの産地。中でも上に出ていた長南がその一番多いところだそうです。長南のほうがもっといい写真が取れるかもしれません。
また、千葉市の千葉公園には見事な蓮の池があるそうです。

見事な椿でしょう、おいしそうですよね~



こんなにたわわに実っています。



紫式部は花もまた、可憐ですね。
(コムラサキシキブって書かなきゃいけないのかな?)



ルドベキアなんでしょうか、都会で見るのと違い、存在感がありました。



カメラがないときに限って、クイナやさまざまな鳥が目の前を飛び交っているのを見ました。残念。

それにしても一階の三角の庭。



刈り払い機やヘッジトリマーが横浜に行っているとはいえ、私だって道に迷いそうに、ジャングルになってしまっています。




灰を篩う  2

2007年07月20日 11時13分51秒 |  非・常識的茶道

灰を篩い始めたことを日記にアップしたのは七月四日でしたね。
一応簡単に篩い、ポリバケツに移して帰りました。
岬では次にいつ来れるのか判らないので、広げておくことができないのです。
だって次にきたときに、ほこりならともかく、いろんな虫の死骸だの卵だのがいっぱい灰の上に落ちているのはうれしくありませんから。

それで先日岬に行ったときに新聞紙の上に灰を広げました。当然まだ乾いてはいません。広げて、だまを少し崩してあげましたけど、2日そのままにしていても、なかなか乾きません。次回は土曜日あたりに行けそうなので、今回は新聞紙の上に広げたままにして帰りました。

さて、これを篩いにかけて、今度は乳鉢でごしごしと粉にしていく作業、、、
灰を篩うって言っても結構時間がかかりそう、、、
それにこれはテスト用の新しい灰。
メインの炉の灰はまだ二つ分くらいが手付かずで残っているのです。
全部終わるのには今年いっぱいかかりそう、、、


本来は農家みたいに、一年のシーズンを見ながら、作業のタイミングを合わせていくのでしょうけど、今回はお茶のシーズンとは関係のないタイミングになりました。
とにかく、灰を作るだけに専念しているもので、、、

この経験を来年以降にお茶の季節に合わせて行きましょう。

でも、来年は炭?
いつになったら、お茶が点てられるようになるのでしょうか、そんな日が来るのか心配になり始めています。



夏のシクラメン

2007年07月20日 10時58分45秒 | 日記


5月末くらいでしょうか知人からシクラメンがまだ咲いている、どうしようって話を聞きました。
そのときにもシクラメンの画像をアップして、家でももう何年も一年中咲いていますってお返ししました。7,8月の本当に暑い日にはさすがにへばってしまいますけど、それ以外はちゃんと花をつけてくれます。

毎年、暑くなってくると水をひかえて枯らしてあげようか、そのほうがシクラメンにはいいのじゃないかなって思うのですけど、一生懸命咲き続けている花を見ると、水をひかえるのがかわいそうになって、贔屓の引き倒しになるかもしれないと思いながらも、水をやり続けています。

今日のシクラメンをお届けします。
この一月ほど面倒を見る時間がなくて、一度は枯れそうになっていましたし、今でも大分弱っています。こんな状態の写真をアップするのは彼女には可愛そうですけど、それでも逆境にもめげず、がんばっていますよ。


自分の音 ホールの響き

2007年07月19日 22時56分55秒 | 芸術・文化
何とかしてよ  ソニーさん」で部屋の中で響く音のことを書きましたけど、考えてみれば、楽器を弾けない私のような素人って幸福なんですね。どんなに素晴らしい演奏家でも、自分の音はきちんと聞けないのですから。

子供のころ、放送部って部活をしていました。テープレコーダーで録音した自分の声を聞いて、これは機械が悪いからこんな変な声になるんだって思うことにしました。すこし機械がよくなってきて、そして友人の声はそんなには違わないのに気が付いてからも、マイクがちゃちぃとかいろんな理由をこさえて自分の声はちゃんと録音できないって信じることにしました。

声楽家は同じことですね。自分の声はかなりの部分骨を通じて聞こえているので、自分が知っている自分の声は人の知っているものとはちょっと違います。
これはバイオリンやビオラも同じ、楽器を顎の骨と鎖骨ではさみますから。
オーボエなんかのリード楽器はリードを歯ではさみますから、ストレートに脳天まで響いてくる。
先ほど以前のブログを見ていてこの辺のことも書いていたのを見つけました。
人間はどこまで詳細な区別がつく オケのピッチ
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/65cb05334c2e6f533f3e79bfe3e41a62)

水琴窟 その2  音色について
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/719bcabd8b9add091e5e27fa2869422e)

ここでは温度や湿度のことはピッチの問題で以前のブログに書いていますのであえて省きますね
質問 ビオラダガンバと調弦
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/fd9811caac7133ae5c1a8aca05e7684b)

これらは聴衆が聞いている楽器の音とはちょっと次元の違う音です。

でもピアノやチェロ、コンバスのような共鳴箱を自前で持っている楽器はまだ幸福。
知り合いのピアニストはイギリスのランズエンドという、大陸の一番西にあたる崖の上でピアノを弾きました。
もし、フルーティストにそこで吹けって命令したら、彼はその崖から飛び降りるかもしれません。フルートは自前では蚊の泣くような音しか出せません。もっとも自前の音も金や銀をどのくらい混ぜるかでずいぶんと違ってはくるのですけど。
ステージの反射板などの音の反射を利用してやっとあのフルートの音になるのです。
ですから反射のない(デッドな)ホールで吹かせたら、どんな名人でもめろめろになるはずです。

その楽器の持つ自前の音は代わりませんが、ステージなどの近間で反射してくる音はそれぞれのホールで違います。例えば今までで最高の音が得られたのは日光の戦場ヶ原の樹海でした。初春で木がまだ枯れていてその枝に音が反射して素晴らしい音になりました。やはり自然ってすごいんだな~って感じた一瞬でしたけど。
朝日ホールやカザルスホールも、素晴らしい音をだしますけど、できたては最悪でした。ステージやホールに張り詰めてある木が1年ほどして馴染んできて始めて今の素晴らしい音を出せるようになってきたのです。
でもここまでは演奏家は聞けると思います。

本当に聴衆が聞いているのは、その音がホールに満ちて反射してくる音とミックスされた音ですね。誰の音が綺麗とかって言われるときには実はこの音が基準なのです。もちろん、演奏家もステージでのリハーサルはします。でも客の入っていないホールの響きと客が入ったときの響きは全く違うものになってしまいます。演奏家はそれは聞けないのです。

ステージの広さ、高さ、反射板の角度や材質で響きの長さ、全体の音の色、艶が違ってきますし、設計によって途中で変に強く反響してくる部分もあるし、音が濁ることもある。オランダのコンセルトヘボウがこの問題で、ホールを修復しましたけど、いまだに一部の演奏家からは不満があるようですね。

プロのステージでのリハーサルは自分の考えている音楽をそのホールではどんな弾き方をすれば実現できるかの微調整なんです。でも人の入っていないホールは人が入ったときとは違う響きになるって書きましたよね。。。

国立博物館の主任学芸員というかたが、専門は音楽ではないのですけど、このことにものすごく詳しくて、例えばゲバントハウスっていうと、どこと、どこと、どこのホールで聞き比べたけど、あのオケはどこのホールの方が素晴らしい音を出すっていうようなことをお話になれる。でも本当に同じ演奏家、同じ楽器でもホールによってずいぶんと音が違うのです。

よく遠鳴りのする楽器って言い方をします。素晴らしくいい音を出すバイオリンをそばで聞いたことがありますが、傍ではただゴーゴーって音が出ているだけ。それが離れて聞くと素晴らしく色艶の音になっている。今でも不思議なのはあれを弾いていた人には少なくともバイオリンの音になって聞こえていたのかなってこと。その人には骨を伝わって聞こえている音がありますからね。

また、音楽が貴族の楽しみだったころには、ホールも小さく、音は小さくても綺麗な音が出る楽器が好まれました。音のピッチも今よりも半音以上低いことが多かったのです。
でも音楽が大衆のものになって、大ホールができるようになると、大きな音が出る楽器、そしてもっとさまざまな音色、表現ができるような楽器が好まれるようになってきました。ちょうどチェンバロがピアノフォルテになり、現在のピアノが生まれたように。

岬の部屋一杯に響くオケとピアノの音を夢見ているとなんだか変なことを書いていますけど、、、

親子

2007年07月19日 21時01分40秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
知人のお母さんが具合が悪かったみたい。連絡がなくなんとなく心配になって電話を入れてそのことを知って、「私ってそんなに頼りないのかな~」ってがっかりしていた。
でも、子供に、「お母さんは、おばあさんとそっくり。自分が何かあったら知らせないでしょうね。でも知らせてよ」って釘を刺されたようだけど。

家も同じ。こちらが具合が悪いときには長崎に独居している母には心配をかけたくないので、母には知らせないようにって回りには言う。でも母から必ずといっていいほど電話がある。「何か困っていない、具合でも悪いんじゃない」すごいな~って思う。

弟が心臓の手術をしたときにも弟から「母には内緒だよ」って念を押された。彼も長崎にはなかなか帰れなくなってしまった。手術の後が見えるからそれがばれるのが嫌なのだろう。でも、母は何かを感じているようで、しきりに弟のことを気にしている。

その母も、自分が具合が悪いときには何も言わないで一人で何とかしようとする。そして治ってから、「実は、、、」って話が来る。

家族の間って遠慮がないようで、結構気を使っているんですよね。

一人で心細くなっても、子供の迷惑になるからって、こちらは一緒に住むための家を手当てしているのに、なかなか上京してこない。理由はその都度、いろいろ言ってくるけど、その理由の底にあるものが見えるからなんとかしたいとやきもきするけど、でも無理強いもできないし、、、


何とかしてよ ソニーさん

2007年07月18日 15時04分20秒 |  岬な日々
先日から撮影旅行を企画していたらカメラが故障しメーカーに出し、友人からサブカメラを借りたらそれもまた故障したことを書いています。
故障していなければ台風の大波を撮りに海岸に行くか、福島あたりから新潟への高速をまだ通ったことがないのでそちらに廻って、いずれにしろ波にさらわれるか、地震でハンドルを取られてろくな結果にはならなかったかもしれません。
知人からは運が強すぎるって非難ともつかないレスを頂いたりして(期待を裏切って、ごめんなさいね)いました。

ところでそのときには書かなかったのですけど、実は岬においてあるミニコンポも故障していたのです。メーカーから引き取り、今度こちらに運んできました。
ところが電源が落ちてしまう最初の現象がまた起こっています。プラグを何度か抜き差しして、今は落ち着いていますけど。。。
あら、またオフになってしまいました。

岬のお気に入りの椅子、ここに座って外の緑をみ、鳥の声を聞くのも一つの楽しみですけど、ここでしかできない楽しみもあります。
それは大音量で音楽を聴くこと。東京のスタジオではマンションですから望むべくもない。前後、左右、上下の部屋から苦情が殺到するでしょう。
横浜のうちはすかすかですから、ここでもやはり文句がでてくるのは十分に予測可能。大家と仲の悪い地主が目の前にいるのですからその関係をこれ以上悪化させることは慎まなければ。
ということで岬ならそれが可能。文句をいうのはせいぜい、崖の下で鳴いている蛙か、近くの木にきている鳥たちくらい。(あと、狸の家族がいましたけど、お家はちょっと離れているみたいだから大丈夫でしょう)

音量が全てとは言いませんけど、小さな音で聞いていると通りすがりに家の中からもれてくるピアノの音とか、遅れてついたホールの外で聞くオケの音とか、、、鳴っているのは判るけどってレベルですよね。

もう少しボリュームを上げると、そら、胸をときめかせてホールのドアを開けたときの音。音がホールに充満して、艶と張りのある音が聞こえてきます。

さらに上げると、あたかもオケのメンバーでステージにいるかのような音と空気の触れが感じられます。岬のいいところはリビングが広いこと。多分25坪以上はあるでしょうか、そのリビングが音で満たされ、木の壁からの反射が私の体を包みます。ティンパニーの音、チェロのフォルテが体を震わせます。好きな曲を流して、お気に入りの椅子に腰を落ち着けていると、これもまた岬にいてよかったって思えるときなのです。

その楽しみがミニコンが故障で駄目になりました。電源が入らない。修理にもって行きました。メーカーから読取装置が弱くなっているって連絡。ちょっと待ってください、電源と読取装置は関係ないでしょうって言うと、コンピュータが各部をチェックしてエラーがあると電源が入らないとのこと、でもコンピュータがチェックしている間はディスプレーにいろんなメッセージが流れますけど、それもない。そんなことを伝えましたけど、工場ではそういっていますってことで、そのまま修理の続行をお願いしました。引き取りに明細を見るとベルトまで交換してある。
音楽を聴くのは好きだけど、岬でゆっくりとしている時間はこの数年を合わせてもそんなにない。このミニコンを聞いている時間は通算しても何十時間くらいでしょう。なのになぜ読取装置がおかしくなったり、ベルトが伸びたりするのだろうって質問しましたけど、要領のいい返事はもらえませんでした。

で、岬について、音楽をかけました。でもすぐに電源が落ちる。今までよりかは電源が入るだけはよくなったけど、使えない。ソニーさんもう少しきちんと整備してください。読取装置やベルトの交換はむしろ不要な作業であったのじゃないでしょうか。それへお金を払うのも嫌だけど、横浜から今度の修理も含めると4往復もすることになる。貴方のところの作業料金でそれを計算しても結構大きな額になるのではないですか。前回の修理代と、往復代で、新しいミニコン一台買えちゃうよ。
 



干物女が増殖中? 社会の趨勢じゃない

2007年07月18日 10時30分33秒 | 芸術・文化
「干物女」ただいま増殖中! (ゲンダイネット - 07月17日 10:00)によればドラマ「ホタルノヒカリ」が話題なのだそうだ。
>>
主人公は20代の女盛りなのに恋愛に興味がなく、枯れていることから“干物女”と呼ばれている。干物女は決して特殊な存在ではない。...家でゴロゴロするのが何より好きで、部屋は散らかり放題。休日は昼間から缶ビール――こんな女は実際に増えている。「働いてるのに、自炊や掃除なんてできないっスよ。外で気を張っている分、家ではダラダラしてもいいでしょ? 一人暮らしのOLなんて、みんなこんなもんよ」... でも「一人暮らしの干物女はまだ救いがある」と言うのは、女性心理に詳しいライターの大野宏美氏だ。「自分のだらしなさを認識しているから、何かのきっかけで立ち直る可能性がある。... 好きな男ができたら化粧してデートに行くし、いつ部屋に来られてもいいように掃除だってしますよ。
本当にマズいのは、実家暮らしの“隠れ干物女”。隠れ干物は放置しておくと発酵して“くさや化”し、手の施しようがなくなります」... 散らかしても親が片付けてくれるため、自分が干物女だと気づかない。それが結婚後に表面化し、“くさや主婦”になってしまうのだ。... 夫は出社前に洗濯、帰宅後は片付け、たまの休日は掃除やアイロンがけに明け暮れる羽目になる。...
「干物女は表面を取り繕うのがうまく... 一見それとわかりません。一人暮らしなら、部屋に上がって水回りの汚れをチェックすれば一目瞭然ですが、実家暮らしだと判別が難しい。見破るには、細部をよーく観察すること。マニキュアがはげていたり、ムダ毛の剃り残しがあったり、いつも同じピアスをつけっ放しの女は要注意。干物女はパッと見さえ取り繕えればいいため、細かいところまで気が回らないのです」
(途中、ちょっとはしょったところがありますけど)

仕事に明け暮れ、家は寝て、着物を換えるだけってのは男だってそうですよね。確かに昔はオスは外でマンモスと戦って、外敵から家族を守り、食料を得てきた。メスは出産、育児という大事業があるので、巣の中を守り、疲れたオスを癒して、また兵士として、働き蜂として送り出す役を担っていた。生物進化学的に言えば、それが生物としてのDNAに深く刻まれてきたのでしょうね。

それは戦い方にも現れているように見えるのです。
オスは獲物を持ち帰る家族をしょって戦うから、常に自分のリスクと成果を天秤にかけた戦い方をする。オスが自暴自棄になるのはオスとしての生存価値を問われるような場だけなのかもしれない。
メスが戦うのは家族を死守するとき、常に後の無い状態での戦いになるから、最初から全てをかけて敵を倒す。「されど母は強し」の状態になるのですね。

人間の知識や技術でかってのような危険な作業はなくなってきている。出産、育児も命を賭け、一生を捧げる仕事ではなくなってきた。おまけに子供を産まない方法も進化してきた。もうオスや家族に縛られる必要もなくなってきたのかもしれない。だから女性がもっと自由をと叫ぶのは歴史の必然なのでしょうか。

そんなには長い年月ではないにしても千年、あるいは何百年かかけて、人類の社会はだんだんとそのような新しい環境に慣れてきている。そして過去50年くらいにそのレベルが急速に高まってきていると思う。ただ、個人的、社会的な意識にはまだ古い感覚がどこかに染み付いているので新しい環境、それから生まれる生活、道徳観念に馴染まないところが多いように思われるけど。

女性が自由になり「好きな男と寝て何が悪い」って開き直れば、オスの守護から外れてしまう。でももうその必要性も薄れてきたのだから、家族やしきたりからもっと自由に生きたいという考えはどんどん染みとおってきたのだろう。今はまだ自分が古い考えに反した新しい考えで自由を謳歌しているという段階なのかもしれないけど。「好き」のレベルも、生きるために食べるから、単にお腹がすいたから目の前の食べ物が何でも好きに見えるような、その場の感情だけのレベルでの判断に落ちてしまっていることなのかもしれない。昔の愛とか恋といったものはだんだんとなくなっていくのでしょうか。

赤ちゃんポストの問題のときにその根底にあるものとして、ほんとうはこんなことも書きたかったけど、でもあのときは現場での命を守ろうとする悲痛な叫びだったし、急を要する問題でもあったのであえてここまで話を紛糾させることは無いと思ってはしょってしまった。
安易な衝動で産まれた望まない子供を死なせたり、捨てたりするのはむしろセックスというものに対する価値観が薄まってきた、命を賭け、生涯をかける大事業ではなくなってきた時代を表すものかもしれませんね。だとしたらこれはこれからもどんどんと広がっていくのだろうかと心の隅で思っています。その末路を見なくてすむのは嬉しいような気がしますけど。

アーティスト イン レジデンスという活動を1980年からやってきました。若い作家たちが何ヶ月も滞在しているのですから最初から男女の問題がいろいろとあることは覚悟していました。でもそれがあまりにも目立つと何のために来日したの、何のために私はあちこちで頭を下げてお願いしまくっているのって活動への意欲が減退してくるのも確かでした。

最初とその後数回来日した男性作家は行く先々で恋人を作って帰国の前後にはその後始末がこちらに廻ってきたりしてました。数年前に来日した女性のアーティストは異性問題でレジデンスのオーナーと問題を起こし途中で別なレジデンスを探すのに大騒ぎになりました。彼女は自分が必要なもの、協力を得るためには体を差し出すのも自分の意欲の表現として思っていたようです。ステージのアーティストにはどんなに練習をつみ、どんなにすばらしいプランを立てても舞台というチャンスがなければ単に空に書いたお城よっていうのが彼女の口癖でした。途中来日した彼女の旦那(彼も大きな劇場のアーティストディレクターでしたけど)もそのことでも特に驚いた様子は無かったのです。彼女のことで相談をしたある女性は、私が彼女にそのことで詰問したのかってきくので、「レジデンスのオーナーからクレームがついて、途中で止めることになったから」っていいましたら、「彼女が可哀相。こちらではそんなことはむしろ当たり前の出来事だから」って言っていました。でも彼らはまだ干物。自覚した上での行動ですね。

外国は日本とは違うって言わないでくださいね。
友人からの頼みで、恋人が文化庁の在外研修で一年の助成をもらい出かけるののお手伝いをしました。受け入れの施設の指導員は彼女の元彼。もともとは彼と一緒に住むために助成金をもらったというのが本音だったと思います。友人と付き合うようになって彼のことは過去の存在になった。でも私のためにいろいろと企画をしてくれるし、申請に指導員からの受け入れ状が必要だからって、元彼にはまだ愛しているよって振りをしながら、新しい彼氏には「協力してくれるから求められれば断れない。でも一年したら帰ってくるから待っていて欲しい」ってなんの不思議もなく言える人でした。最終的に私はどうしても彼女の考え方が判らないのと、彼氏の悲しみを見て協力を断りました。日本だって若い人たちの考え方(人類の歴史から見れば、ほんとに短い間ですけど)がもうわからなくなってきていると思います。このケースなんかもう「くさや」のレベルじゃないかと思います。だって彼女には自分のやっていることに対する自覚がまったく無いのです。協力を断るときに彼女にはっきりとこの考えを伝えましたら、びっくりして、人生の大きな夢が実現するということで自分を見失っていたって言いましたけど、とんでもないそれが一番の問題。自分の本来の姿がそうなのだということに気がつかなければこれ以上彼女に協力することは無意味だと思いました。アーティストとしては彼女は成功するでしょう。自分の行動を自分に都合のいいようにしか解釈しないのですから、何でもできるでしょう。でも、人が可哀相でしたね。
物事の判断が皮相、突き詰め方が上っ面だけ、だから自分の心の底も判る必要もない。だから自分が何をしているのかもわからない。

愛とか恋、使命、なんて人間の文化、芸術の根底にあるものが薄れてくれば、芸術なんか薄っぺらい紙切れみたいになってしまうかもしれないし、そんな社会での芸術なんて私には考えられないおもいです。

売春を悪く言う女性はたくさんいる。これは昔の倫理観がそれを悪いこととしているからその目で見るからでしょうね。でも売春をしている女性は何かの理由があってそうなっていったのかもしれない。そして自分たちのやっていることが社会の倫理観に反しているのは自覚しているのだろうとおもいます。だからその倫理観を持たない若い子たちには「楽いことをして、お金までもらえるのだから」何が悪いのってことになる。

自覚がある人は干物女なのでしょうね。それなら自分が干物になるだけですむけど、「くさや」女は相手まで腐らしてしまう。でも、そういえるのは私がいかに昔の倫理観に縛られているからって反応が来るのはわかっていますけどね。。。
私はオスだから、女性の事を書きましたけど、メスから見れば今の男性にだって言いたいこと山ほどなんでしょうね。