Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

外国人参政権賛成!私の考え方、こういう考え方もあったという事~「さくらもちさん」のブログ記事から考えてみた事共

2024年06月28日 19時16分26秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
以下は、「さくらもち」さんというお方の、ブログ記事からの一部引用である。とっても示唆に富む内容であったので、コメント欄もなく、連絡は取れないので、無断だが、引用をさせて頂く。引用後、私の愚考というか、改まった考え自身の清新溌溂たる意見の一端をも披露披瀝したい。(以下、引用はじまり)。

  • Happy Birthday / 傘コレクション
#ペットの肖像画

#検証新型コロナ
日記
2024-06-28 11:50:02


外国人参政権について
外国人参政権には反対の人が多いと思う。保守的な人達ばかりではなく、コロナのカラクリやワクチンの危険性を訴えている人達でも反対の人が多いようだ。私は賛成である。
なぜか?いやそれよりも反対する理由は何なのだろう?外国人に有利になるような法案が増えるからだろうか?外国人に占領されてしまうのを恐れているのだろうか?
しかし考えてもみよ。何もしなくても自公政権は外国人に手厚く、日本国民には厳しいではないか。今のままでももう相当な土地が外国人に買われているし、いろいろな分野でどんどん外国に市場開放されている。
第一、日本国民は選挙に行かないではないか。ということは何も変わらず、どんどん外国寄りになって行くだけだ。それなら何も外国人の参政に反対する理由などない。

脱税する人達にこんなこと言う資格があるのだろうか(笑)。
外国人と一口にいっても様々だが、特にヨーロッパ人は政治に興味を持ち、日本国内に住んでいる人達の中には日本人より遥かに日本の政治に詳しい人もいる。こういう人の方が何も知らずに自公に一票を投じる愚かな日本の高齢者などより、余程まともな投票をするのではないだろうか?彼らの方が自公の腐敗ぶりに詳しかったりするのである。
日本人は政治に無関心で、政治に興味を持つこと自体良くないことのように思われている。おかしくはないだろうか?政治は国民のためのものであるはずなのに、興味を持ってはいけないとはどういうことなのだろう?そこへ行くと、フランスはじめヨーロッパの人達は政治に詳しく、各議員の政策や人柄にまで通じている。議員は国民を代表するのだから、政策や人柄を知るのは当たり前ではないだろうか?

角栄や中曽根の時代が懐かしい。
更に申せば、外国人の方が日本の伝統文化に理解があるように思える。日本の祭りなどは今や外国人なしには神輿も担げないところまで来ている。日本人はどうかと言えば、その地域に密着した人々はともかく、大都市で活動している人達の伝統文化に対する関心が薄いように思える。自公政権などは伝統を破壊しようとさえしているではないか。外国の人の方が日本の伝統芸能の保存に積極的だったりするのである。日本の自民や公明では日本の文化伝統を守っていけないことを誰しも承知のはずである。
こういった観点から私は外国人参政権には賛成であり、一日も早く実現してもらいたいと思っている。           
 (引用ここまで。)

 祭り、御輿までは、私は言及は避ける。これは、私共の、宗教の日蓮正宗では神社神道は御法度なので、この説は私は取らない。致し方ない。
 ただ、外国人の方が、日本の伝統文化に深い関心、造詣が深いのは、これは認めたい。この一点に、私も私の思想信条を懸けてみたい!

 しかし、これも時代なのか。今振り返り、思えば、私共、家族の母子、親子は、外国勢力、ここでは、中国、朝鮮(韓国・北ふくむ)、台湾、ロシア、フィリピン、ベトナム、他、etc…。沢山のこれら他国の、特に石原都知事などが警戒して差別発言をした「三国人」などを、差別する意図は無かったものの、かなり、石原氏ではないが、警戒して、親子では外国勢力に対して、危機意識を持っていたものだ。
 うちの既に亡くなった父も、朝鮮人・韓国人が大嫌いであった。生前に、何かその人種と、揉め事があったのやも知れぬ。
 とにかく、2009年の、民主党政権樹立の時には、与党の民主党・社民党等はおろか、野党の日本共産党までもが、「外国人参政権」に賛成に回ったり、法案を明日にも提出するのではないのかと、気が気でなく、非常に母子で気を揉んでいて、その危機感から出来上がったブログがこのブログの前身の、「日々雑感、わたしが思う、あの事この事」という、私が既に退会、止めてしまったブログ、同じくgooブログが、今言った、2009年の民主党大勝選挙前に産声を上げたのだった。
 詰まりは、全てが、その当時、私が文章を紡いだブログの中身とは、私の趣味や当時信じていた宗教、今の日蓮正宗とは百八十度違う、「創価学会」の事を応援して書いたり、(しかし、当時から、決して創価の支持する「公明党」には一票も入れずに、自民に親子して頑なに入れ続けた。何故なら、「公明」も「外国人参政権」には賛成していたからだった)、とにかく、民主党政権が憎くて憎くて、自民党の応援団を買って出ていた。その時の自民党の総裁は、今では記憶にないが、谷垣だったか、安倍に代わった時期だったのか。そのいずれかだった。
 そこで健在だった母との、民主党批判をこのgooブログで繰り広げて展開して、面白いように、読者数も増えて行った。
 決まって、民主党の政治姿勢、手法を叩く、その批判に興ずる、というのが、私と母の基本スタンスだった。
 それもこれも、全ては「外国人参政権」を法案として通らせないために、母と私の親子同盟みたいなものだった。母からは文章の指導、指南も受けていた。
 しかし、時が過ぎてみれば、やがて、安倍首相は狙撃されていなくなる。その時には既に、私の心は、与党自民からは、その時、一時的にせよ、関心は全く薄れて、立憲民主党と日本共産党に心が応援に傾いた。それは私の三年とも四年ともつかぬ数年間はそうだった。確実に今と同じ、完全に野党支持に回っていた。
 その後、一か月の入院。その時に安倍首相の国葬等があり、段々と、自民党応援支持回帰へと自身が向かい、完全なる、右翼、保守派系となる。
 その頃の自身のブログを読むと、恥ずかしい位の、自民擁護、与党保守右翼賛美へと、自身の思想信条が変遷している。
 誰だって、浮動票が国民の大半を占める位の世の中だから、政党支持なんかは、自分としても、どうだって良い、と言えばどうでも良く、自由だとは思う。自分は現在は確信のある浮動票だ、それも人物本位、人柄で選ぶという感覚だ。
 しかし、あの頃の自分は、悪乗りをしていたと、実感としては大きくある。
 その頃の世相と言えば、むしろ、自民には追い風どころか向かい風、逆風であり、特に、「元統一教会問題」が尾を引いていて、誰も自民なんかには目も向けなくなる時期に、私と来たら、時代遅れの様な、自民支持。
 それでも自民党が勝つのが不思議だった。安倍首相死去で、多少の同情票がもらえたとしても、何か不正の臭いもした。
 それにしても、邪教創価学会が支持する邪政治団体の公明党が、下駄の雪よろしく自民党に付いて行っている最悪の自公政権下で、国民皆が苦しんでいる最中の私の所業は一体何だったのだろうか?
 その後、私は、今の自民はヤバい、自浄能力が全くないんじゃないか、と薄々感じ始めて、お寺の親身にしている人も支持していた、「参政党」の一時的な無料サポーターとなる。
 この政党は、小さいが、保守系であり、宗教色も一切ないのが売りだったので、信用して入った。
 しかし、金には汚く、えげつない程であった。それを、そのお寺の信徒の人は「自民党は大政党だからお金が潤沢にある。この政党は小さく、政治には金が非常に掛かるから」の一言で裁決しようとした。
 私はちょっと待って。皆が、クリーンで、清潔で、お金が出来るだけ掛からない政治をやろうと腐心して、野党を始め、政党達が立ち上がりつつあるのに、その言葉はまやかしに聞こえた。正に、自民党を始めとする「保守」「右翼」が信じられなくなった瞬間だった。
 それに、その政党、「参政党」の準党首の、神谷宗幣氏が、異性関係問題を影で起こして、愛人二人を、会議で自分と一緒に同席させた。その話は、私はユーチューブ動画で、元同党応援団だった、中部大学教授の武田邦彦氏の暴露の決定的な動画を見てから、疑念が確信に変わった。私の考えは間違ってはいなかったと。道理で、金にも汚ったねえ小政党、政治屋だったと。信じた私がバカだった。
 それから、話しは自民に戻り、その時以来、私は今まで自民党及びその取り巻きが、昭和時代から、平成令和と、説き続けた全てに疑問符を投げ掛けるようになった。勿論、軍事予算の増額にしろ、日本の核武装論にしろ、その他の、自民党が言い続けて来た「日本国憲法の改憲論議」にしろ、だ。
 とにかく、自民の全てを疑り出した。そこへ、去年から今年にかけての自民党の出て来るわ出て来るわの「裏金献金問題、疑惑」。疑惑なんてもんじゃない。実際に、大っぴらに、派手にやってくれたもんだなあ、と、一国民としても、以前の自民党支持者としても、これには大いに不満、反感、疑問、不審感をいだいた。道理で、今となっては、一番我が身大切、であり、自公は、一芝居、身動きすら取れずに、選挙すら出来ない訳だ。
 それに、自民党が、いまだに党を始め、党首もがこれだけ問題を起こしているのに、いまだに岸田文雄が依然とした党首であり、この、一切のデリカシーのなさ、自浄能力のなさ、もう、政党としての役目、役割、消費期限は、この自民党という政党は「終わった」とはっきりと私自身が自覚をした瞬間だった。
 後は、瞬間湯沸かし器の如くに、毎日聞かされるテレビラジオ等々での、品のない、えげつない、偉ぶった議員さん共の、聴きたくもない政治ニュースを聞くたびに、その都度、こちらも怒りに一人、否、日本国民で、これらの政治家という人種たち、特に自民・公明、最近では維新の会に、怒りに燃え、表さない一般大衆など、いないのではないのか。それ程までに気が狂った政治を、今般の国会、彼らの政治行動で見せつけられたのが、いまだに一日本国民としての私にとってトラウマになった。正に今の政治に幻滅した。
 
 ここで、そうした個人的な経験論体験論一般論ではなく、最初の核心の議論に戻りたいが、そのアンチ・反「外国人参政権」とは、与党、特に保守系、右翼系と称する、自民党にとり、最大限の国民への「撒き餌(まきえ)」に他ならない。
 実際には、自民党自身が段々と、圧力団体の「経団連」等々に言い寄られて、「移民政策」に踏み切る姿勢も見せて来た。
 大体が彼の著書、本で読んだが、元自民党環境庁の長官だか何だかで、元東京都知事も務めた、故石原慎太郎氏が、太鼓判を押して、移民政策に賛成した文章を読んで、私など、裏切られたと心底思ったものだ。何が「NOと言えるニッポン」だと。嘘八百、ウソばかり並べた人種であり、石原の軽薄さ、日本への裏切りともこちらは取った。保守ってそんなに軽薄だったのかと。昭和平成の社会党系政党が言うんなら納得はしたんだが。
 しかし、頭を話を、百八十度変えてみて、故石原さえ夢見た、移民にしろ、外国人参政権にしろ、実際の所はどうなんだ、という話。それによる、メリットは全くないのか。メリットはあり過ぎる程、あるのではないのか。
 第一、日本国民の、大半、特に若者たちが、政治には関心が無さ過ぎる。これを代える方法として、先ほど上記で、さくらもちさんのブログ記事の一部をコピペ、コピーアンドペーストして、転載を願ったものであるが、そこでも述べられた通り、非常に、外国人の方が、選挙行動に於いては、非常に現在の日本人、日本国民よりも、大変にスマートで、政治に御詳しい方々もおられるのは事実である。
 これを利用しない手はない。若者がいわゆる「バカ」過ぎて、自分の遊ぶ事しか考えない「エゴイスト」なんだから、それを叱咤激励して、改めさせて、外国人の方が今では非常に賢い、勉強家が多いのならば、その影響下に触れさせて、彼らに爪の垢を煎じて飲ませて、見習わせるしかないではないか。
 元はと言えば、そんな日本の若者たちを生んで育てたのは、他ならぬ、日本の同胞の親たちや、その祖父母にまで、その責任の一端が繋がっていて、あるのだ。
 それのみならず、そんな教育しか出来なかった、戦後体制がいまだに続く、自民党政治の中の、文部科学省の、教育方針にも、私としては疑問符を投げ掛けざるを得ない。
 それに今まで、選挙に行かなかった人たちに対して、何らのペナルティーも課して与えて来なかった現政府自民党公明党政権は、一刻も早く、選挙へ行かなかったら、罰金刑、選挙棄権税を取る、くらいの矜持を持たないでどうするのか。
 税を取られたくない人は、どうしても一票を入れたい人が見当たらなければ、強制じゃないから、「白票」として、自由に無記名で投ずる制度でいい。それも民主主義の一つの形態、在り様だ。
 何よりも、自分の「意志」を示すことが、何よりもここは重要なのだ。だから、選挙の大事さも目立って来る。そこに外国の方が関われば、政治が大きく変わる可能性は、ゼロじゃない。
 集団で、束になられて、現与党政権の壁となり、逆風が吹くのを非常に怖れて、「ネット投票」の解禁にも踏み切れない現自公政権。チキンで、弱虫な、実は国民に反旗を翻され、国民の「真の声」に一番に耳を傾けたくはない、都合のいい、場当たり的な、耳心地のよい言葉しか聴こうとはしない、現政権与党、自公の、岸田一派たち。
 今、幾ら評判が悪いと言って、いざとなれば選挙時に岸田の自民という低俗雑誌の表紙替えをしたからって、国民を騙せない。我々は絶対に騙されないからな。覚えて置け、自民党公明党政権、及び、金魚の糞の裏切り者の維新の会よ!!
 選挙権の棄権へのペナルティー、ネット投票、それが出来ないのは、それら腐った政党共が、悪の権化の小選挙区制のカラクリで、自党に有利な実際は小規模なせこい組織票にこだわる余り、大多数の国民が本気を出して、国民皆に選挙に一斉に行かれたら、大反発、大反乱を受けて、自分らの体制が一気呵成に一日であっけなく崩れ壊されて、自分の首を締めて、困るからだろう。
 その働きを外国人の方々に担って頂けるならば、今の日本においては、実に情けないが、これはウェルカム、大歓迎ではないのか。今のバカ者共の日本の選挙に行かない若者たち。遊びにばかり興ずる、公共心の全くない、本当の「バカ」な人種共などに、選挙権が果たして必要なのか、とのこれは逆の見方もでき得る。逆にいえば、全く、選挙に行く気が無いのならば、永久に選挙権を剥奪したっていいんじゃないのか。全く、義務を行使せずに、権利を今度は主張する気でいるのか、本気かよ、おい。
 日本に新鮮な、清新な風、空気を入れ替える。この国を根底から、底の底から代える。良い機会に、「外国人参政権」が果たせる可能性というものに、私は今日からは、これらブログ記事に触発されて、次第に固かった頭の中身が、穏やかに柔らかく変わってゆくのを、この梅雨空の雨の最中に、一人考え、ぽつねんと、想いに想いを重ねている。それに懸けてみても良いと、思い始めた、自分がいる。
 それは、「売国」「売国奴」「非国民」「人非人」などの、否定的な、ネガティブで侮蔑的で、差別的な言葉で私を評しようとしてもムダだ。私の「信念」はもう出来上がっていて、中々に代えられない。私の「心の中」までは、代えようがない。それ程に、今日仕上がった、私の考え、意志は固い。

 そういって、私をそれらの言葉で批判する者こそが、逆のブーメランで、さらし者となり、「差別主義者」のレッテルを貼られる日もそう遠くないだろう。

 それこそが、正に、仏法で説く所の、「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」であり、全ては言い出した、その張本人に還ってゆくものなのだ。これが仏法の定理だ。

 大体、今までの日本の在り様が、外国人に対して、何様だという位、頭が高くて、差別体質であったのだ。それも全然是正、改善が為されずに、そのまま放置されて来た。
 意外と日本ほど、外国、外国人を恨み差別し、憎む国も、フレンドリーではなくて、自国民ですぐに固まる国民性。排外性。
 だから、明治が来る以前の江戸幕末には排外運動としての「尊王攘夷」運動がまかり通り、この国の侍、浪人、士農工商の国民の間で巻き起こっていたのだ。その事実が全てを物語るではないか。その弊害たるや、如何ばかりかと。

 それこそ、その希望の政策こそが実行実現されれば、我が日蓮正宗、宗祖日蓮大聖人様が御説き遊ばされた、我々が最も願う至上、史上、最高崇高な、一般民衆の平和楽土、「仏国土」「衆生所有楽」の現世の在り様が、映し出されて、この世に現出する日もそう、遠くないのではないのか。

 その日こそが来るのが、待ち遠しい私にとって、いとおしくも、待ち望んでいる日々こそが正に今日という新しい旅立ちの日なのである。そしてそれを今か今かと希望の光を見据えて待ち続けている私である。

 合掌。南無妙法蓮華経。

以上。よしなに。wainai、長文につき、失礼。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿