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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

あゝ、カッコ良い、憧れの石原裕次郎!

2017年07月29日 09時22分36秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
私は石原裕次郎が大好きだ。昭和六十二年(1987年)七月十七日が彼の命日だ。神奈川県總持寺というお寺に眠っている。
 私の所属する菩提寺、日蓮正宗寿海寺にも裕次郎が大好きな人が多い。特に年配の女性に多いが男性も多い。
 
 私は、裕次郎の歌が大好き。映画も好きだが、何十年も前に、テレビで「嵐を呼ぶ男」の放映が私にとっては最初に裕次郎の映画を見たので、印象に残っている。
 歌が私はおもで、子供の時からずっと聴き続けてきた。高校生の頃からは本格的にカセットテープに録音して、テープが伸び切る程に何度も繰り返し繰り返し聴いた。今は音楽CDをパソコンに入れて持っている。私の青春は、正に、石原裕次郎と共に始まり、存在した。
 子どもが聴いても、あのカッコよさが判る。石原裕次郎は私の青春だ、とお寺の御婦人方男性陣に言っても、信用してもらえない。時代が違うと。「裕次郎はわたしらの年代・世代のヒーローなんだよ」と。しかし、現代の若者達が、今のザ・ビートルズを後追いで大好きになる人がいるように、私も現役世代には適わないが、青春時代に本当に浴びる程聴いて来たので、私もお仲間に入れて欲しいと思う。
 今この時も、石原裕次郎を聴いている。あの男らしい、女々しくない、男の色気、若々しさ、カッコよさが非常に私はしびれる。あんなカッコ良い人は、今後、一切この世に現れないんじゃないだろうか。石原プロが、第二の裕次郎、なんて募集していたが、あれはその後どうなったのかな。

 昭和時代はいいなあ、と、その今の異質な時代とは違う、平和な、良い時代であった、とつくづく思い致す。昭和に帰りたいよう!


法華講員の教学基礎辞典、という御本

2017年07月27日 00時06分02秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
日蓮正宗無量山寿海寺で買った「教学基礎辞典」という本。定価3000円(税込み)。
凄く詳しく仏法なかんずく、大聖人様もそれ以外の事、哲学、仏法用語も載っている。
ネットでもなかなか売っていない。
良いお買い物をしたと思う。

日蓮正宗のお経本

2017年07月25日 07時14分54秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
私の手持ちのお経本。法華経寿量品の長行の「或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。」(わくせッこしん。わくせッたしん。わくじこしん。わくじたしん。わくじこじ。わくじたじ。)の所と、「我本行菩薩道。」(がほんぎょうぼさつどう。)の所と、
「尋便来帰。げん使見之。諸善男子」(じんべんらいき。げんしけんし。しょぜんなんし。)(げんしけんしの部分は、文字がパソコンにないので、平仮名。)の所が気に入っていて、言い回しが、
調子が良い。お寺で売っているのは、百円と二百五十円。

総本山大石寺の売店にて買った特大サイズのお経本は大きくて見やすい。開いているのは、ひらがな勤行要典等。200円。
 
創価学会よりもお経本は多彩だろうと思う。このほかにも我が家にはまだほかにもお経本がある。皆100・200・250円と言う安さだ!
おばあちゃんがつかっていたらしいお経本もうちにはあるが、ここのお経と大差はない。自然と増えて行った。

変わっているのはひらがな経本。これは声を出して読む時に、読み方が判る。

あと、欲しいのは、外国版のお経本。これは余り出くわさないので、今度総本山へ行った時に見て来ようと思う。

このお経本を私は交通事故で痛む患部の部分に当てると、何か治ってゆくような、とても楽になれる。これは功徳だと思うのだ。
 
兎に角、日蓮正宗のお経本には、それだけお力があり、凄い立派なパワーが湧出していると言うことだ。

私の高校受験時代~私も、お題「夏休みの宿題は計画的でしたか?」に参加中!

2017年07月21日 16時39分40秒 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
私の子供の頃の夏休みの宿題を仕上げるのは、恥ずかしい話だが、休みが終わるギリギリの、最後の一週間前にはきりきり舞いになっていた。宿題を出した学校を恨み、先生を憎み、恨んでも憎んでもしょうがないのだが、兎に角、ヒーフー言いながら、やり場のない苦しみ、呻吟するような気分で、最後の一週間を過ごした。
 小学校~中学一年生までは、そうやって、その繰り返しの毎年の夏休み・冬休み・春休みの生徒時代の長期休暇の過ごし方だった。これは大いに反省する。
 
 中学二年生からが全く変わった。ちゃんと計画的に、宿題を全て夏休み期間終了までには終わらせ、中学時代、引いては小学校高学年の教科書も使って、しかし、中学が主だが、主に英語と数学を、復習を母と一緒に習い直したのが大きい。頭のいい母の教え方は、とても分かりやすかった。
 この中二の時の五、六月に、私は自分のウィークポイント、欠点を補うべく、当時、最も不得意教科だった、英語と数学に特化した学習塾、つつみ教室と言う塾に通うようにもなった。そこには、不良と勝手にこちらが思い込んでいた男の子が通っているのを母から人づてに聞き、私は最初は、嫌だ、そんな所になど通いたくないと突っぱねていた。母には、そんな塾に行く位ならば、道路で車に飛び込んで死んだ方がましだとまで言った。
 しかし、私の苦手な数学の時間に、その生徒は、先生の指名を受け、黒板に二次方程式の解法をすらすらとチョークで書いて見せてしまった。果たして、先生は、赤色のチョークで大きな花丸を書いて、その生徒を褒め讃えた。
 私は、凄い、と当時単純に思った。その不良だとてっきり思っていた生徒が、実は優秀な、数学の成績が人並み以上に出来る人物だったのだ。
 私は、ただ単純に、不良だと格好だけで決め付けていた自分を恥じた。自分が愚かだと思った。そんなことだけ、人をただ外見だけで判断を下し、悦に入っていた自分が恥ずかしくなった。
 私はこの日のこの一件から考えを改め、その塾に行くことを真面目に考えだした。
 そこの塾は、奥さんが書道を教えて、男の旦那さまが数学と英語を教えた。その先生の自家用車で自宅から塾まで送り迎えしてくれる。そして、授業の合間に、奥さんの手料理で、お好み焼きややきそば、その他の御馳走まで振舞ってくれた。
 それだのに、月々五千円を下回るような、お安い月謝。当時は穴場の塾だった。
 そこでは私は僅かに二年近くの時間を過ごした。その間に、私は、私の中学校の校長、先生、生徒が目を見張るような、急激な学業成績の向上が認められた。
 私の学校では、私が偏差値を二十も三十もアップさせたのを受けて、私を見る目が変わった。
 以前は劣等生だったのが、その時から優等生の仲間入りを果たした。
 私は、当時県中の学区内では中堅と言われた、当然狙えた県立郡山高校から、県でもトップクラスの、福島県下、一、二の進学校に志望校を代えて、勉強に打ち込んだ。
 しかし、運が下がると言うか、ある回し者の女子二人が、私の塾に交じり込むようになる。私の成績がうなぎ上りに登ったのを見て、どこの塾に通っているのか聞き付けたその女子二人が、潜り込んで来た。
 そしてあろう事か、その塾の授業中に、うちのお店の屋号を連呼して、我が家の商売を貶め始めた。
 塾の先生は、静かにして下さいとは言ったが、その女子達もそこの塾の生徒、お客さんには違わず、余り口うるさくは言えない。私は、ずっと授業妨害のその女子の攻撃を受け続けた。
 うちの母も、当時は個人情報保護法が幸いなく、その女子達の親の職業や生徒の住所がまるわかりの時代に、その生徒たちが怪しい、うちの商売敵、スパイだよ、と勘づいて、警戒するように私に言い聞かせていた。
 今だったならば、その女たちを引っ叩いても、蹴りを一発入れるなり、美空ひばりの「柔」の、「♪口で言うより手のほが早い、馬鹿を相手の時じゃない」の歌詞から言えば、私も馬鹿だが、その当時はそんな実力行使は一切出来なかった。
 何しろ、その女達は、れっきとした「スケバン」不良女達であり、その女らの報復も怖い。今以上に嫌がらせ・仕返しを学校で男女の集団で受けるだろう。暴力で立ち向かえば、相手も必ず暴力で返してくる。
 言葉で返しても、言葉で、目には目をの如くに、真っ向から立ち向かえる相手じゃないのは分かっていた。
 私は、もう諦めて、その塾を涙を呑んで、辞めた。
 私が塾を辞めたのを母は知って、その後、中三の夏休みには、公文式の無料体験などを受けるように勧めた。
 しかし、その公文式は、小学生が主体になって当時通っていて、当然中学生の自分は、そこの問題集は、簡単な足し算引き算掛け算割り算、漢字書き取り、読み仮名振り、英語のアルファベットの簡単な綴り方等、余りに初歩的で、高校受験を目指す私には、持て余し気味の教室だった。
 そこに夏休みの間腐らず通い、しっかり無料体験をして、後は習わなかった。
 そして、自身の判断ミスで、当時尚志学園高が母体となって運営した福島高等予備校に通うようになる。
 初めは遠慮して、最初の見学で、私は、郡高郡女コースという授業を見た。割かしこれなら、問題集を演習する割には、詳しく教えているみたいだからと安心した。
 数学と英語の授業の後、担当の教師と面接した。
 そこで、私の偏差値を聞いたその先生は、「その成績ならば、当然、県中一の進学校を狙うよう、学校側で配慮なさると思いますよ。」と言い、その予備校の安高安女コースを薦められた。
 私は、深く考えずにその安高安女コースと言うのに乗っかった。それが失敗の元だった。
 私は、てっきり、見学した時には、あれ程わかりやすく、手取り足取り教えてくれていた男女の先生方が、安高安女コースの授業は、まるで慈悲もなく、ただの答え合わせ、先生方がただ生徒達を指名して立たせて答えを述べさせるだけの、無味乾燥な授業しか行っていなかった。私は、この授業は、事前に問題を解いて家から出て来なくてはならない、予習復習の必要な授業だとは、勿論事前に見学した時には漠然と聞いていたので判らなかった。
 私は、私の番が来ないように必死で願った。当てられることは少ないが、順番が来て当たれば「わかりません」と答える、いけない学習消化不良生徒だった。
 その先生の指名が怖くて、そこを二か月位で辞めた。
 母のその時の落胆ぶりと言ったら、私を、入会金三万円、月謝一万円の、まずは金額を私に言い付け、ガッカリしていた。
 その後、私は、又性懲りもなく、クラスの男子で成績のいい生徒が進研ゼミと言う通信教育をやっているのを知り、母と相談して入るが、これも、三年生の冬の一月には、もう赤ペン先生の通信添削などは終了していた。その後、この会社の、高校講座にかなりの高額で四万円以上もする、それもたった半年間の、講座に入るが、それも続かず、どんどん教材が溜まりに溜まり、遂に辞めた。
 その高校時代には、一年の冬には、今度は旺文社ゼミと言うのもやるが、これも続かない。
 志望高校には晴れて、それ以前の授業・成績の蓄積から、無事合格するが、理想の学習塾には、ついぞ、出会えなかった。その後は、全て独学、と言うか、学校の授業の予習復習のみである。
 私の母などは、学校の授業さえ受けていれば、ちゃんとノートを取ってみっちりと予習復習に励めば、東大京大なども恐れるに足りず、という一家だ。塾は、あくまでその手段であって、自分の負担になるならば、最初からそんな贅沢は止めた方がいい、と言う教育方針。特に、私自身、親から、やれ、勉強しろ、だの特に口やかましく言われた事等はたったの一度もない。
 それに高校も、中学二年生が始まった四月の三者面談で、担任の女の先生が、「あなたは、今、行く高校はない。親御さんの商売から言っても、岩農、つまり、岩瀬農業高校がいいと思う」と仰った。
 その当時、まだわたしの五十に満たない偏差値でも行ける高校はあったと思う。日大東北職業科、郡山北工、帝京安積(安積商業)、遠くなるが、郡山市外の、須賀川高、本宮高、長沼高、湖南高、矢吹高、等々。
 その岩農という所はどこか、と母が聞くと、先生は、県南の、福島県岩瀬郡鏡石町にあると言う。
 その女の担任教師は、本当かどうか、その岩瀬農業の回し者のような先生で、成績の悪いと思しき生徒は、皆、決まって岩農に行かせるきらいがある先生だった。事実、数名の生徒が、私の学年から、特にその教師のクラスから、岩農に旅立って行った。
 そんな遠い所、と母も当初ビックリし、そんなにうちの子は成績が悪いのかとにわかに思わせた。
 それから親子二人三脚の塾探しが始まり、冒頭の話につながる。
 その塾探しで、うちの近所で当時やっていた或る学習教室では、五教科も授業があり、それぞれ特殊な教材を使って行うが、一か月何万円もして、そこに通っている私のクラスメートもいたが、ついぞ、成績が上がったなんてきいた試しが無かった。掘っ立てプレハブ小屋でやっていて、地面が砂利の、あそこじゃ夏は暑いだろうねと母も言う程の、カッコばかりの教室だった。
 私の母も、何もあんな、進学校など、無理していかなくても、と言い、母自身が東京の都立の古参の伝統校、進学校だったが、自身の受験地獄、それ程苦労した訳じゃないが、あんまり子供の私には、勉強漬けにはなってはどうか、やるんだったら徹底するが、苦労をして欲しくはなく、人並みで良いと考えていたようだ。
 私は、そのまま、受験戦争競争曲に乗っかってその後突っ走って行ったので、母はむしろ傍観者だった。
 父も、私には、農家になってくれと懇願された時もあったが、それも立ち消えになった。
 どうせ、安高に行った人を見ても、その後出くわすのは、成れの果ての、余りに受験期に気負い過ぎて、気に病んで、思い通りにいかないせいなのか、後には精神を病んでしまっているような、神経症だか何だか知らぬが、心の病に罹っているような人達が割合多いのを見るに聞くにつけ、ここはお国の何百里、知ってはいけない世界に踏み入れたのか、とも思う。比較的、偏差値の低い帝京や北工には、精神病などは一人も聞いた事がないような気もする。頭が良すぎるのも善し悪しだ。
 兎に角、私の受験生生活は、あの夏の、中学二年生の夏休みを期して始まっていた。あの夏の勝利が、その後の、塞翁が馬、禍福は糾(あざな)える縄の如しのことわざの如くに、その後の喜びも苦労も味わうきっかけ、さきがけとなった。

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 私は、もう少し、背伸びせずとも、身の丈に合った、無理のない勉強法、人生の過ごし方も出来た気もする。が、しかし、過去を変える事は誰人にもできず、私達は、過去を生きるのではなく、来世の極楽往生を願うのでもなく、今を生きなければならない。今、この場に生きている我々は、今日という日が、やり直しのきかない人生の中で一番、若いのだ。振り返るのではなく、現在、この時を大事に生き切る。それしか道はない。


西郷輝彦のCD

2017年07月21日 10時47分55秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 
 昨日、ブックオフで、売値が280円が108円に安くなり、CDが安いので、西郷輝彦の楽曲を買った。私はこういう古くても今となっては新しい曲が好きだ。
 全五曲で、「西郷輝彦(2)、オール・スター・ショー」というCD。1.君だけを、2.星空のあいつ、3.メキシコ娘、4.たそがれは君の匂い、5.初恋によろしく、と言う構成。
 音もいい。しかし、ケースは真ん中のCDを留める留め金のプラスチックが破損している。買ってから気付いたが、後の祭り。百円だから良しとする。
 聞いたことがない曲やおなじみの曲もあり、得した気分。正に、ナイスプライス、コストパフォーマンス、安さに長けた買い物だった。

外国人の方

2017年07月20日 18時07分55秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
私は、尊王攘夷、と言うか、外国人は苦手だ。
 私が小学校四年生以降に、当時の、建物が建て替わり、現在もあるが、「ヨークベニマル希望ヶ丘店」というスーパーに、近所の子供らと買い物に行っていた。
 そこに、白人の、外国人の方が、スーパー内に居た。私は、
 「がいじーん、がいじーん、外人。うわー!、毛唐人だ。やだー。」
 と囃し立てた。すると、その外国人の方が、日本語で、
 「何なんですか。私が外国人ならば、だからと言って、何だと言うんですか?人間的な違いなどない筈です。あなたは何故、人を外人だと差別するのですか?人種差別じゃないですか?」
 と仰られた。
 私は、日本語で、冷静に理路整然と是非を糺して話すその外国人の方に、圧倒されて、
 「わー、こわっ。そらっ、逃げろ!」
 と子供たちを引き連れてその場から逃げた。

 言ってることはその外人も正しいが、私は田舎町のこの街で、ただ外国人が珍しかっただけであんな事になってしまったのである。

 あの日から何年経っても、外国の方は苦手は苦手だ。中学校から英語を習っても、よそゆきの、海外の言語と思い、敬遠する訳じゃないが、自然と遠ざけるようなところがあった。しかし、受験等で、しっかり勉強すると、外国の、海外の考え方が自然と乗り移り身に付く。

 自分も、外国人を差別する体質は改めたいと思うが、中国人韓国人が、今だにああやって日本並びに日本人を差別している以上、どうなのか。
 最近、とみに、我が家の近所に居住する外国人が増えて来た。これから、どうなってゆくのかとても不安。
 しかし、互いに分かり合う事は、文化を乗り越え、人間対人間であれば出来る筈。
 人間力が試される。

砂川啓介さん、大山のぶ代さんの夫様の死を悼む

2017年07月19日 23時23分27秒 | ブログ論。私の本音。一人語り。物故録。恋愛論。恋話。大いなる自分の好み、嗜み。
砂川啓介(さがわけいすけ)氏が亡くなられた。思えば、大山のぶ代さんの認知症を介護している矢先だった。
 妻を残しての死去。もっと生きたかったろう。ガンと言う病魔の恐ろしさを思う。
 しかし、慶応大学近藤誠先生著の、「患者よがんと闘うな」と言う本もうちにはあるが、砂川啓介さんは真正面から、共存を選ばずに、がんと闘ってしまったようだ。手術までして、それが内臓までにダメージを与える。
 認知症は、我が家でも問題の一つだ。
 今月発売の月刊文藝春秋八月号に、認知症の話が載っている。下図、写真画像。
 今月発売になったばかりの日に、ツタヤみどり書房にて、定価八百八十円にて買い求めた。本屋さんでは平積みになって、一画を占領していた。買っていく人もちらほらいた。
 こういう本をもっと世の中に知らしめ、この種の本がもっと出て来たら良いと思う。今のところ、文藝春秋社くらいが関の山だが、結構売れてるんじゃないかな、うちも買った位だし。
 世の中の人も、私自身も、認知症を誤解しているきらいがある。
 この本を読んでもっと勉強しようと思う。
 
 その前に、砂川啓介さんのご冥福をお祈りします。南無妙法蓮華経。合掌。

日野原重明先生を悼む

2017年07月18日 19時47分18秒 | ブログ論。私の本音。一人語り。物故録。恋愛論。恋話。大いなる自分の好み、嗜み。
 今日、医師で、聖路加国際病院の理事長であり、名誉院長の、日野原重明先生が亡くなられた一報を聞いた。
 我が家にも、日野原重明先生の本があった。
 日野原先生のラジオ放送は、短波放送の、ラジオ日経にて、平日水曜日の夕方五時十五分過ぎに、「日野原重明の輝く顔と輝く心」という番組が放送されていた。

 私は、その番組を聴ける時は聴いていた。先生のお話は、誰が聴いても納得する、皆為になるような、有難いお話ばかりだった。聴いているこちらが、最後は自信が持てるような、自信をもって生きて行けるような、正に、人生の応援歌だった。
 百五歳。長命な方だろう。けれども、もっと生き続けて下さるような気がしていた。最近は先生の話を余りラジオで聴かず、番組を聴くのをだいぶ御無沙汰していたが、まさか、今日訃報を聞くとは…。
 テレビでもそのお元気なお姿を拝見する度、心から、私自身が応援されているような、励まされているような、暖かな気持ちになれた。
 今は、あの温和で暖かな日野原先生の言葉を再び噛み締め、先生のご冥福をお祈り致したい。南無妙法蓮華経。合掌。

あの、女が、―居た……。

2017年07月18日 18時11分01秒 | ブログ論。私の本音。一人語り。物故録。恋愛論。恋話。大いなる自分の好み、嗜み。
先週、病院に行って、いつものように、座席で診察やリハビリの順番を待っていた。
 私は病院備え付けの、雑誌、週刊文春を、これもいつものように、眺め、読んでいた。

 次の時、前の順番の段階で、診察室から、或る女が出て来た。

 その女は、どこかで、見覚えのある女だった。

 私は、記憶の隅を辿り、漸く思い出した。忘れもしない、
 十七、八年位前に、確かに別れた、向こうから別れを切り出して来た女だった。

 その女は、自分の記憶が無くなりやすいのか、何なのか、舌の根も乾かぬ内に、
 別れて半年後の正月に、腐れ縁の私に年賀状やら手紙を寄越した。
 記憶がないのか、自分の手持ちのカードとして、
 最後まで私を利用する、したいつもりだったのか?。

 私は無視した。一切連絡を絶った。それ以来、その女からは、何も来なくなった。

 あれから十数年。あの女は、だいぶ変わり果て、情けなくも、
 気持ちの悪い程に、まるで、怪物が化けて出て来たようだった。

 時間の経過は、諸行無常で、非情だ。情け容赦がない。

 まるで、あの当時からそうであったが、化粧っ気のない顔。

 変わったのは、ざんばら髪の、狂った女のような滅茶苦茶に引っ掻き回したような汚い髪の毛。

 昔からぽっちゃりはしていたが、より肥え太り、肥満した人用のサイズのジーパンズボンに、
 それを覆うように、革バンド一つで無理に支えたような、  
 胴回りが私の二倍も三倍も何倍もありそうなぶっとい大太りの腰回り。

 顔色も、以前は白くて、化粧しなくてもそれ程目立たなかったが、
 今では黄色いような薄茶色いような、黄疸気味の表情。

 病院の看護師と話す時の声も、
 かすれ気味の、発音もどぎつく、何を言っているのかわからない、
 夢遊病者のような、正確な発音じゃない、粘っこい粘口の喋り方。

 あの頃も、そんなに大した美人と言う程の娘ではなく、平凡な感じが取り柄の娘だったが、
 今のあの姿は、人を幻滅させるに格好の哀れを誘うみすぼらしさだった。

 私は、ショックから、見てはいけないものを見た、と思ったが、しかし、

 よく見て置け、これがあの時、自分が一時ででも好きになった人の、

 成れの果ての姿なのだ、と自分に言い聞かせるように、

 心に刻み付ける如くに、あの女を凝視した。

 あの女は、次の瞬間、病院の受付で名前が呼ばれて、私の考えはその時確信に変わった。

 確かに、あの女の名前が、読み上げられた。私の名前も診察室から呼ばれたが、
 一向にあの女は気が付かなかった。

 それ程に、私も忘れ去られ、私の顔を一瞬あの女も見たが、
 人違いと思わせる程、時の経過を物語っていた。

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 昔に付き合った人間と出っくわす。それは他面、
 いい事もあるし、悪い事もある。自分をふと、省みる。

 私は、自分は、あの頃よりも進歩しているだろうか。
 少しでも良い人間、有為なる人間、頼もしい人材として
 胸を張って生きているだろうか。

 叩けば埃の立つような人間だろうが、それでも、
 毎日を感謝して、満足して、人間らしく生きているだろうか。
 人様、世間様に後ろ指差されるような人間ではいないだろうか。

 人に慈悲の心を、慈悲の行動を起こし、慈悲の眼で、
 人様へ慈悲を差し伸べて与えているか。人様に感謝される人間となれるか。

 努力を、あの頃よりも心掛けて、精魂傾けて、人一倍努力し続けているか。
 人生を、自分で恥ずかしくなく、自分なりに、自分の道を、
 大道を、大手を振って、堂々と、歩いているか。

 一日に、何度も何度も反省を加えて、明日の糧にしているか。
 今日、この今の時を、精一杯、悔いなく生き切っているか。生き切ったか。

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 今日その日の出来事は、別段、悲しくもない、ただ遣り切れない、
 虚しい感じのした一日だった。
 それらの事を、一つ合わせて、考え、思った。そんな一日だった。

 南無妙法蓮華経。合掌。
 以上。

自分語り、今日はラジオの話をしましょうか―あり得ない会話体、BARアヴァンティー風に…

2017年07月18日 11時31分16秒 | ラジオ・テレビ・新聞雑誌ネット等マスコミ。ラジオ機器オーディオビジュアル製品
 私の家にある、ICF-SW11という、国際ラジオ、ワールドバンドラジオ、短波ラジオ。これが今、問題だ。

 何故問題か、と言うと、あのラジオメーカーと自分の中では認識している電機メーカー、ソニーが、このSW11の生産を取り止めてしまったのだ。

 私の家には、この他に、短波ラジオが、ソニー他数台あるが、この製品は比較的安価であり、その日本メーカー製の安心感たるや、綺羅星の如くの、ソニーと言うメーカーには、そのラジオ製作にかける情熱を、私は高く買っていたのだ。それが、いとも簡単に、容易く、何で次から次へと、ラジオ機器を生産停止にするの?と言う疑問符を投げ掛けざるを得ない。日本企業・国産メーカーのソニーって、ラジオの生産に命を懸け、ラジオの会社として出発した会社・企業の筈だったんじゃなかったの?

 ラジオを始め短波を軽視するソニー。これらラジオ機器には、他にも、五千円台で売っていたが今ではヤフーオークション等で高値で取引されている、AM単機能の、ちょっと小ぶりだが少し大きな、可愛かったICR-S71、だとか、カセットテープのケースサイズの小さいのに重厚で手にずっしり重く、一杯機能の詰まった、一万円ちょっとで売っていた国際短波ラジオICF-SW22、他、多くの人気機種を、ラインナップを、削りに削った。

 パナソニックは、とうに平成の何年かから、とっくに短波ラジオは見限り、生産撤退、中止停止に追い込まれている。それに愚かにも、「ラジオのソニー」が乗っかって続こうとするのか、愚の骨頂、はっきり言ってバカだ。その内、それじゃあ、今だって、否それ以前からも、短波ラジオは国産は割高だからと、国外海外、特に中華ラジオに注目が集まる。ソニーも堕ちる所まで堕ちた。

 正に、自分の手で自分の首を絞める、現経営陣の大バカ息子達。もしや、創業者の盛田昭夫・井深大、両氏が現代に蘇り現状を見ていたら、「この愚か者め!獅子身中の虫どもめ!」と以前は碌に業績も残せず赤字の山を築いた前職ストリンガーなる外人雇われスパイ経営者もどきをかつては飼い、今の現経営者で社長の鬼畜「平井」以下を大いに嘆き、罵倒せしめ、正に正義の鉄槌、肘鉄を食らわして、怒号の一喝を賜る程の、情けない、庶民や何を置いてもソニーの会社自身の体面を傷付け、ないがしろにして、辱めている現状は嘆かわしいの一語に尽きる。

 ソニーに、ラジオを作る職人魂、クラフトマンシップ、仕事の鬼のような企業精神、体質を期待していたのに、最近のソニーにはその期待を裏切られ、ガッカリばっかりさせられている。もっと日本の消費者たちは、ソニーの横暴に対して、おかしい、と怒りを露わにしても良い、と信ずる。

 世の中の人は、と言えば、ラジオなどには気にも留めずに、ラジオなんて、と通り過ぎる人大多数(苦笑)。

  

 ラジオに少々詳しい人でも、ラジオ好きな、ラジオに一家言のある人達が語っています。以下に述べる、こんな事を、今日も街中の一角のあるレストランバーでは、お話ししていたそうな。それでは、じっくりと、話に聴き耳そば耳を傾けてみましょうか。(往年の名作ラジオ番組。TOKYO-FM、「サントリー・サタデー・ウェイティング・バー・アヴァンティ―」風にラジオ司会者を気取って。(苦笑))。

(或る人はこう言う)
―「ソニー?、昔の栄華に酔っ払ったような、古い体質の、現代では時代遅れの企業?駄目駄目!今じゃ保険屋が本業の、社長以下、皆、素人で技術者なんて皆無。技術屋で持っていたあのソニーも、今じゃゲームやテレビ位しか売る物もなくて、保険屋が主力だもんねえ、立ち行かない訳よ、ラジオ?古いよねえ、短波放送、何それ。」

(別の人は~) 
 「短波放送?ああ、子供の頃、大人になるまで、確かに昔、BCL遠距離受信で、短波ラジオで世界の放送を聴くのが流行ったさ。当時はソニーのスカイセンサーやナショナルのクーガーだったけかな、他のメーカーも、沢山の高価で高感度な短波ラジオが出回っていて、子供ながら憧れの的だったよ。学校から帰ると、真っ先に自分ちにある高級ラジオ、スカイセンサーのスイッチに手を伸ばして、ずっと世界から電波で送られてくる国際放送の受信に余念がなかったナ。しかし、それも昭和の頃が最盛期で、その後は下火だったね。高校生の頃、一度、日本の深夜放送が大ブームになってて、自分もよく聞いた口だけど、今じゃあラジオは滅多に聴かないねえ。車で聴く位だよ。家では聴かないよお。家ではテレビやネットがあるし。何たってスマホの時代だヨ。テレビも今では衛星放送だCS放送だと色々あるからね。わざわざラジオなんか聴かないよ。」

 「でも、おいらも時々、あの小中学生のBCLブームや、高校生以降の深夜放送ブームの頃を懐かしく思い出す事がよくあるんだ。あの頃は、あんなラジオなんて、音だけが頼りの、本当に細々としたメディアであり、自宅のラジオも小さなトランジスターラジオの箱の中の世界なのに、あの頃は本当に輝いて見えて聴こえたなア。ほんと楽しかったよ、ラジオの中のお喋りや音楽が。間違いなく輝いていた。今の衛星放送テレビなんてびっくり仰天の、面白さだったねえ。あの頃に戻りたいよ。」

 「でもさー、今は風の便りに聞くと、だいぶ短波放送の日本語放送が減ったって聞いたね。あの頃は、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスBBC、バチカン、オーストラリア、ロシア、ほか等々と、沢山の国々が短波放送やっていたからね。今は、近隣の、アジア諸国の放送ばかりなんだろうね。聞く気も起きないよ。」

 「もっと、日本を取り巻く、ラジオ放送の環境が、一度、ビッグバン、起爆剤を起こして、カオス、混沌の中に、全部の全国の既存の放送局がかき回されて、淘汰されて、玉石混交の中から、しっかりと、一、二を争うような、立派な放送局が、日本各地に現れて来れば大したものだ。一度、既成の放送局が死に、犠牲にならないと駄目だろうな。」

 「そうそう。それよ。既得権益に今まで守られて来た放送局も、規制のタガが外されて、放送局大倒産時代、大合併大合従連衡時代がその内来るんじゃないの。そう遠くない未来に。法律は何だか変わったとかって、以前、新聞かネットで読んだよ。日本の放送各局は、政府関係省庁に甘やかされて来て、自助努力を怠って、正に怠けて、今の今まで、補助金だの何だのって、国におんぶに抱っこの状態だったのが、今度は、国も借金財政で身に染みて、そんな余裕はなくなった。民間放送局が潰れても、構わない、その代わり、儲かっている放送局がそれらを赤字弱小放送局を買い取る。局同士の合併を認めて、都道府県をまたいでも良い。そうやってそれを乗り切る方針。今までが異常だったんだよ。」

 「国の税金をそんな所につぎ込んでいたなんて。健全じゃなかったんだよ。在野の民間の放送局の独立自治の精神にももとる。僕の地域の民放ラジオ局なんて酷いもんだよ、CM、宣伝なんか何も流れない。ただ自局のラジオ番組の制作宣伝を垂れ流し。」

 「ああ、うちの所も、そう言えば、時々、過払い金の弁護士司法書士事務所や、宝くじにパチンコスロット、競馬や競輪、競艇のギャンブルの宣伝、カニやエビなどや健康食品などの通信販売の宣伝、創価学会や幸福の科学、生長の家、天理教、日蓮宗身延派、浄土宗、立正佼成会に霊友会等のいかがわしい怪しげな宗教宣伝や番組のPR、それらのえげつない、下世話な、露骨でいやらしい、ハイエナのように人々の生活を狙い脅かす宣伝群が流れては消えて行っていたっけ。無視したくとも、そうした悪徳宣伝CMばかりはスポンサー企業様の意向に逆らえずに流す。果たしてこれが民主主義の世の中の民意を反映した、民衆一般大衆が本当に望む、あるべきラジオの姿なのかねぇ。」

 「だからね、僕は、民放ラジオがそんなだから、とうとう、ラジオは宣伝CMのないNHKラジオ第一・第二・FM放送一択に代えたよ。正確には三つのNHKの電波だから三択だね。NHKだけでも、三つもチャンネルの選択肢があれば、いいよね。何かしら、面白い事やってる。これ、ラジオはNHKしかないね、今は。民間放送はギャンギャンうるさくって。仕事にならないよ。」

 「小沢昭一さん、お笑いの、早稲田中退三人トリオなんてあるんだかないんだか、あの小沢昭一さんの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というラジオ番組、あれは面白かったな。学校帰りの、確か夕方の時間帯にうちの地方ではやってた。下手な落語よりも面白かったよ。あの頃がTBSラジオ本局の最高傑作、だったなありゃ。今は小沢さん、惜しくも亡くなっちゃったけど、今でも生きていたら…。そう考えると、今のラジオ界って、何にもしない人ばかりが浮き上がっちゃっていて、ちっとも面白くないねえ。昭和時代には戻れないけどさ、あの頃の、少なくとも平成二十年代までは小沢昭一さんのような番組続いてたんだから、また後をバトンタッチして、後続が続いていかないと…。何も昔が懐かしくって言うんじゃないが、昭和は遠くなりにけり、だねえ、やっぱり。」

 「永六輔さんも生前言っていたね、『自分がラジオを聴くならばNHK!出演し出るんならば民間放送のTBS。そういうもんだ』ってね。昔っからそうなんだよ。永さんも良く言ったもんだ。民放ラジオは聞くに堪えないね。今となっては、庶民の敵!のようなもんだよ。聴きたい話などは何もないし。こうやってあたしら一般庶民だってグチグチ話すけど、民放ラジオはほーんと、愚痴だらけの愚痴まみれの、後は怪しげなコマーシャリズムに毒された、正に理不尽な、逆立ちラジオだね!毒にも薬にもならねえ。止めとき止めとき!。あたしゃ言っとくけど、民放ラジオ、御免だね。聞いたって一文の得にもなりゃあしないよォ!。」

 「俺も地方の人間で、詰まらないけど、無理して地元の民間ラジオ放送聞いてた。FM、AM問わずにね。その話聞いてて、合点がいった。俺も今日から民放ラジオ辞めて、NHKラジオにするわ。まあ、当分は、俺、学生時代からずっと音楽好きだったベエ。だからクラシックの掛かるNHK-FMから入門する事にするよ。後、演歌や歌謡ポップスも好きだから、今日たまたま聴いたら昼の時間にJ-POP、FMでやってんのね。そして夕方も昨日や土日になるとこれ又好みの曲をやっていたのを、たまーに車なんか乗ると聴こえる訳。しかし、今までの習慣って怖ろしいね。民放ラジオに図らずも回しちゃった。もう、そんな悪い習慣は辞めて、きっぱり、CMのないNHKラジオにする事に決めたっちゃ。うん、そうするヨ。」

 一同「賛成。賛成。さーて、帰りの電車は何時発かなあ。会計は割り勘だナ。さあ、急がないと電車に乗り遅れちゃうぞ!そらっ、急げっ!」
 一同「急がば廻れって言葉、知らないのかい?まあ、皆歩いてきたから、ポケットラジオでも皆聴いて、今だったら丁度、七時前だから、時報と共に、NHKのラジオニュースが聴ける。途中まででも各々、ゆっくりと歩こうよ。幸い、都会の電車は便数が多いから、乗り遅れるって事はないよ。」
 一同「(唄って)♪おお手々つないで皆帰ろう、カラスと一緒に帰りましょー♪。」
 一同「もう酔っぱらってるなー」
 一同「そんな事、うん、あるかな(笑)。」
 一同「さあ、もう帰る支度して、さっさと引き上げましょ」
 一同「おうー!」

 こうして、街のレストランバーでは夜ごとひねもす、お客の皆様のラジオ談議が、続いていました。なーるほど。勉強に、為になりましたよ。チャンチャン。おしまい。
~(サントリー・サタデー・ウェイティング・バー・アヴァンティ―<<~のもどき番組>>これにて終了!)完。

先月の割かし高めの買物~辞書の話から、話は軽減税率の国会議論にまで及ぶ

2017年07月17日 18時41分47秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
雑然としているが、シャープの電子辞書。それでも三万円台の物よりも割安感がある、一万数千円のもの。四月辺りは、本体3000円+税、で、岩波国語辞典第七版を買った。
シャープ電子辞書「ブレイン」付属の辞書の、国語辞書は大辞林と英和・和英、ブリタニカ百科事典、漢和辞典、各国語会話フレーズ(単語音声付き)のコンパクトな一台。先月に買った。電子辞書入門編には持って来い。しかし、三万円台の電子辞書は、もっと本格的であり、何十冊もの辞書や百科事典、薬の辞典、医学辞典、趣味の辞書やら沢山の書籍類が何十万円分が一台に入っている。私はそんなには必要がないと思い、これにしたが、私が買ったこの機種はその電気店では一番人気だったが、何といっても、入門編には安いに越したことはない。これでも高い方だ。画面はモノクロであり、高い物はカラーだ。まあ、うんと使ってみて、物足りなくなったら、高級機種も候補には上がるが、今は要らない。お金が勿体ない。
写真右のCDはビートルズの最近発売された「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」の2CDアニバーサリー・エディション。一枚目は昔と同じ内容だが、中身の音が、2017年リミックスにより、加工され、だいぶ音質が変わっている。二枚目は、新たな未発表音源とリミックス2017の既成の曲の新曲。二枚とも、かなりレアで、ファンもそうでなくとも、このCDはお薦めだ。しかし、この今年六月発売のこのCDは、結局多く売れたのか、判別できないが、まあ、ビートルズも商売の上手い事うまい事。定価3,600円+税。


電子辞書を開いた所。隣の「思い出の愛唱歌」という本は、ブックオフで二百円で購入。私は現在、ハーモニカを勉強しているが、その教科書・教則本に記載されている音符じゃなくて、音符も勿論使うが、数字譜と言って、ハーモニカのドレミファの音階を数字で表している。その数字譜がこの本にも付いているので重宝する。おそらく、ハーモニカだけじゃなく、多分、大正琴にも使えるのではないかと睨んでいる。

電子辞書は、紙の辞書を引くのと、余り時間的には変わらない。今では、紙よりも、電子辞書を使う事が多くなったが、紙の辞書もいい。紙の辞書の良さも味わい堪能し、実感する。今の時代は、どちらも利活用できればそれでいい。
 
NHKラジオ第二放送の、確かあれは、木曜日だったか、夜の八時半からの、「カルチャーラジオ」では、今現在、先々週位から、「辞書」について専門家の方が、論じて語っている。辞書の歴史、辞書の種類、「大言海」という革新的な辞書が、我が国における最初の本格的な辞書の始まりであり、それが現在現代の、中型大辞典の、広辞苑、大辞林、大辞泉、等や、小回りの利く、ハンディーな国語辞典の、岩国こと、岩波国語辞典第七版、三省堂の新明解国語辞典等に繋がってゆく事を、その学者の方は熱を帯びて語っている。今や電子辞書の時代で、否、それを飛び越えて、インターネットでパソコン・携帯スマートフォン等の登場により、今では紙の辞書はおろか電子辞書も出る幕が無く、コンピューターにより、ヤフーやグーグル等の検索エンジンが辞書の引き方、使用環境を変えたと仰っていた。

兎に角、現代は、辞書の、特に紙の辞書の危機であり、紙の辞書が将来、無くなる可能性にもその辞書研究専門家の方は言及する。おそらく、人々は、紙の辞書をページを繰ってめくって単語・言葉の意味を調べる行為が無くなるのではないか、そこまで氏は考えを及ぼす。何でもパソコン、スマホ、という簡単便利な生活に慣れてしまった現代人の失った代償は大きい。

今の子供は、ラジオの付け方、そもそもラジオを持って居らず、ラジオがどこで売っているのかもわからない。だから、ラジオは付けた事もないので、テレビスマホパソコン以外はわからない。辞書も同じなのか?

今の子供は、しかし、必要に迫られれば、自然に何事も覚えるのが若くて速いのだから、習得は出来ると思う。これは若者だけじゃなく、高齢者でもおんなじだが、体でも頭(脳)でもそうだが、どんなに年を取っても、若くても、機能を使わないから衰えてしまう。余り大事にし過ぎるのも考え物で、常日頃から、頭も心も体も、機械や道具類も、億劫がったり勿体ない等と思わずに思い切って使う事。大事にして守りに入り、使わないから、腰痛にもなり、肩こりにもなり、ボケてしまい、機械類も故障したり錆びて動かなくなってしまうようになる。恐れずにどんどん使え。

私は、まだ現段階では、紙の辞書はなくならないと、単純に思っている。紙の本の需要はまだあり、電子媒体の虚しさ、電子液晶画面のブルーライトがすぐに目が悪くなる、紙の安心感等々、これから紙媒体を失って気付く事が多々あり、そう簡単なものではない。

ともかく、紙媒体が無くなると言う危機意識も大事で、貴重な提言だが、それよりも、もっと紙媒体の利点・有利な点、優秀さを懇々と人々に説き、出版文化を、宣揚し、鼓舞し、そうして応援して、協調してゆく、旗振り役を、ラジオ講座の氏のような方や、出版業界が音頭を取り、市民国民を動かしてゆく事だ。
 
 それには、正に自民党は余り乗り気ではなく、公明は片手落ちの、消費税率を10パーセントにする法案における軽減税率の話。軽減税率を「8パーセントに据え置き」案。そうじゃなく、折角、軽減税率を食料品や出版物にも及ぼすならば、税負担を「5パーセント」なり「3パーセント」なり、思い切って「0%」に下げる事はできないものなのかねえ。軽減税率なんだから、それ位やってくれても文句は出ないでしょう。
 私は民主党政権時代の国会中継で、当時の野党自民党議員が、公明議員と一緒になって、時の民主党の首相に直訴し、「いっそ、軽減税率を、食品書籍に限り、0%にしたらいいんじゃないのか。それは今の民主党政権じゃできない相談なんですかね」と語っていたのを聞いた覚えがある。
 借金財政だからと、今の財務省がいつも増税増税と危機意識を煽る。計算が出来ても、実際に増税しても、いつも帳尻合わせが上手くゆかないのは、財務省の無策の責任では?!机上の空論のお役人によるお役所仕事の為せる業か。
 政権を一旦握れば、実際に頭の固い国会議員には、良い政治、国民が助かり喜ぶ政治、それが出来ないのだねえ。国民が財布のひもを固く締め、国民が警戒するような政治しかできない今の自公。憲法改正を論議するよりも大事な話。今の国会議員の、情けない話だよ。

海について~「海の日」に寄せて

2017年07月17日 11時36分23秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
今日、七月十七日は「海の日」。日本の祝日は、七月は海の日、八月は山の日、と盛り沢山だ。
 今、NHKラジオ第一放送では、作家の落合恵子さんが、海の日の特集・ワイド番組をやっている。キャロルキング(Carole King)の「君の友達(You've Got A Friend)」で始まった放送は、途中、なかにし礼氏を迎え、なかにしさんは惜しくも帰られて、今は落合さんが一人でマイクに向かっている。
 海の日は、以前は確か七月二十日辺りが祝日だったと思うが、自公の悪徳政治家が、ハッピーマンデーなる悪法により、今のような日曜月曜連休にしてしまった。
 夏を感じさせる祝日であり、お題の「好きな海はありますか?」であるが、海は、同じような質問を、小学生の頃、私が福島に引っ越して来た時の郡山市立小学校の担任の秋山芳子先生という女性の熟年の、大変感謝して居る、厳しくも暖かく優しい、給食の食育・体育音楽の授業・普通教科の学業・生活面に於いても人生の指導の万般の、最初の入り口を教わった、お世話になった先生がしていたのを思い出す。みんなが好きな海、港はどこですか、行った事のある場所で、好きな海や港を言ってみなさい、と夏のある一日に仰った。
 クラスメートの生徒の皆は、いわきの海、仙台港、新潟の海、北海道の海、福島は会津や郡山に面した猪苗代湖、とか色々海と港の話題が出た。
 私は、最後の締めくくりに先生の質問に答える形で、「僕は神奈川県は横浜市にある、横浜港の海が好きだ」と答えた。
 秋山先生は、さすがは○○(私の名前)。そう言えば、○○は神奈川から越して来たんだねえ。横浜港と言えば、日本一の(当時)大港湾都市、日本を代表する港でしたね、と感慨深そうに、感心して、「みんなも、○○君(私)に良く話を聞いて勉強するんだよ」と興味深そうに仰られた。
 私は、自分の生まれ故郷の、神奈川県は、横浜の港と海を、皆は知らないし、その当時誰も行った事が無いのは勿論、誰もが私の話を固唾を飲んで見守り、聞いていた。
 先生が、「その海と港には、何があり、どういう風だったか」と仰るので、
 私は、
 「横浜港は磯の香りがしたが、やはり油のようなにおいがしていたような気がする。山下公園には、マリンタワーがあったり、公園があったりした。別の場所で、私が最後に見た時は、何か工事中のような、多くの作業員の働いている姿を見た。大きな船も泊まっていた。閑散としてはいても、人が沢山いた。山下公園は穴場で、人はまばらであった。帰りは歩いたが最後、バスに乗って、横浜駅まで行き、当時の自宅のあった東急東横線で川崎の元住吉駅まで帰った。毎回、横浜港はよく立ち寄るので、物珍しくもない。帰りのバスでは、横浜スタジアムのライトが光っていたので、うちに帰ってきたら、父が見ていた、やっぱり丁度テレビで読売ジャイアンツ、対、横浜大洋ホエールズ(当時。現横浜DNAベイスターズ)の試合が生中継されていた。きっとそこより南の、横浜市金沢区の方に行けば、確か日産の自動車工場かなにかあると聞いたので、車を海外に輸出する為に、外国船に積んでいる場面も見られるのではないか。云々。」
というような事を話した。
 先生も生徒一同も、日本の当時の高度成長期の時代の後にも、まだ経済大国だった日本の屋台骨を支えていた港の話を聞けて、大変興奮しているようだった。
 授業の後、クラスの成績の良かった生徒が決まって私の所に集まり、もっと話の続きを聞きたいと言ったので、二言、三言、話をした。
 その時も、そこにいた人たちが、いわきや仙台の海や港の話をした人も集まって来たので、私もそれらの土地の話を同時に聞いた。
 その当時、私は仙台にも、いわきにも行った事が無かった(小学生後半で、母と初めて、我が家の商売の関係で、下調べの為に、いわき市に初めてその土地を訪問した。)。
 皆は、横浜港だなんて凄いね、と言ったが、見た事はないけど、いわきや仙台の港や海も凄いんだろうね、是非とも行って見てみたいね、と私は言った。
 仙台は、その後、中学一年生の時の学習旅行の時、松島へ行った時に途中を通った。どこまで行っても街並みが続き、物凄く仙台市の市街地が大きく拡がっていたので、大体、大都会、都市の規模が仙台駅前を見ないでも、伺えた。
 いわきも、初めて行った時、あれは夏だったが、南国のような、良い街だと心から思えた。
 いわきの海は、大人になった、平成の頃の、今から十年近く前になるのか、生まれて初めて行って、この目で見た。「いわきららみゅー」と言う場所の、海であった。バス停から、海へ一直線に母と一緒にテクテク歩いた。
 あの場所は、その後の、二〇一一年(平成二十三年)三月十一日(金曜日)の、福島・茨城・宮城・岩手の津波で大きな被害を及ぼした、東日本大震災では大災害の被害を被った場所。今は、その時の記憶も薄まり、またあの日の賑わいを取り戻しているのではないかと期待して思うが。
 
 私は、残念ながら、今まで、海水浴だけではない、観光地・景勝地、神奈川県の湘南の海へは行った事が一度もない。母などは、飽きる程、何度も何度も行ったと言う。それも江ノ島の場所で、しょっちゅう学校の遠足等で、親と行ったりして、学校でも、必ず、迷子になったと言う。あそこは、迷子になりに行く所だ、とも言う。
 それは流石に御免だが、私は、後年、夏も冬も、桑田佳祐氏のサザンオールスターズの音楽をよく聞くにつけ、その歌の場面にしょっちゅう出て来る、「茅ヶ崎」「江ノ島」「江ノ島の烏帽子岩」「鎌倉」等々の、神奈川県鎌倉、藤沢、江ノ島、茅ヶ崎、逗子、葉山、大船、大磯、平塚、近辺の、湘南の海には、お洒落であり、大変に憧れが、大いにある。これら地名の出て来る場所には、一度も行った事がないのは、恥だとも思うが、歌で聞くだけで、憧れているだけではなア、とも思うが、元々縁がないのかな。
 私も、小学二年生の時に、福島県郡山市に越して来たので、もう後、数年、川崎市に住んでいたならば、当然、遠足でも、家族旅行でも、湘南へは行っていた筈。残念だ。
 あと、湘南は、有名人、政治家・映画人芸能人歌手の、石原慎太郎や石原裕次郎の石原家や加山雄三等のヨット文化、船やサーフィン、エレキギター、小説にも音楽にも主役の土地となれる、海水浴のメッカ。慎太郎は一橋だが、他は慶應ボーイの、夏の日差しを一身に浴びた、明るく若くってオシャレな感じが物凄くカッコ良く、この私はいい年をして、たまらなくしびれるし、憧れる。
 湘南の夏の海は、人をジャガイモか里芋にして、芋の子を洗うようだと、余りに人でごった返していて、人の近づく所じゃない、とも言う。ああいった観光地に行けるって事は、若さが為せる業だ。自分は、目の前が湘南の海だったら、自然と海の家などで食事をしたりもするが、わざわざ東北地方・福島くんだりから、電車を乗り継いで、この暑いのに、行ってはいられない、それじゃまるで、アホだ。
 いわきの海も、先日、海開きをしたと、福島民報新聞一面に載っていた。
 正に、夏本番。この夏も、自分は、海なし県のような中通り地方・福島県郡山市に住む私は、毎年、海とは無縁の、しかししっかり、海の幸のお魚を食すことは大好きであり、新聞・テレビ等のコマ切れの映像等で、海の香りを伝える、ラジオのニュースや宣伝や番組等で、高みの見物を決め込み、人混みを敢えて避け、海を遠目にして眺めているのが常なのであった。チャンチャン。おしまい。以上。

怖ろしい。邪師による、邪宗邪教の類の邪説、について

2017年07月16日 08時32分22秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類

日蓮正宗の書籍類。「諸宗破折ガイド」、「日蓮正宗入門」、それと、昭和時代の学会の本(「日本の宗教の現状」)。

樋田昌志さんと言う法華講のおん方のホームページ(http://toyoda.tv/)に、日蓮正宗のパンフレットのページがあり、それには、興味深い事実が列挙されている。
(以下に引用する―少しく私による教祖名等、加筆訂正部分あり)。
(引用、開始)

「宗派による傾向性」

不幸を幸福へと転換する事ができる本当に正しい力ある宗教は日蓮正宗でありますが、逆にそれ以外の全ての宗教は、完全でない、何らかの欠陥を持った邪宗教であり、それを真剣に信仰すれば勿論の事、何かしらの縁を持っているだけで人生や人格に歪みが生じ、不幸にならざるを得ません。あまたの不完全な宗教の中でも代表的な宗旨の概ねの傾向性を挙げてみましょう。

「浄土宗」念仏無間地獄―法然
 
●現実を逃避する。●諦めの強い、退廃的で優柔不断な性格や生き方。
●人まかせ、先頼み、先送り。●常に悩み苦悩の連続。
●外面はいいが家庭内で横暴、酒乱が多い。
●ひどい場合は鬱病、自殺。(善光寺大本願も)

「浄土真宗」―親鸞

●基本的には浄土宗と同様。
●何か問題にぶつかると破壊的な発想や行動に走りがち。
●自暴自棄的なるが故に性格が攻撃的でひねくれる場合が多く、
他人の粗を捜して批判する事が得意になる傾向が強い。

「真言宗」真言亡国―空海

●個人においては嘘と虚飾、誇張の多い人間となり、
組織社会では長に従わず、自分が長に立とうとするが故に
混乱を招く。
●一家においては柱であるべき長男が立たない(主人・長男が
早死にしたり、病弱だったり、精神障害だったりする)。
●女系家族が多く、女性の気性が過剰に強くなり、主人を支えない、
小馬鹿にする等、家庭内の”下剋上”が子供の教育上大きな歪みを
生じている(善光寺大勧進、真如苑など)

「禅宗」曹洞宗―道元、臨済宗―栄西、黄檗宗―隠元

●自分の力だけで生きて行くと言う強さだけは身についているようにみえる。が
しかし、●傲慢で思い上がりが強い。●口が達者で理屈屋だが独りよがり。
●ワガママ、頑固、人の意見を聞かない
●自分が他の人より勝っているような、全てを悟っているような、
分を弁えぬ心が強い人が多い。
●が故に、他の人達と心から通じ合えないで自分自身が孤立し孤独。

「キリスト教」二重人格―イエス。カトリック・東方正教会・プロテスタント諸教派、
異端―モルモン教、エホバの証人、統一教会等。

●偽善的で消極的な二重人格者が多い。
●教義的に抑圧されているのでショックな出来事に出会うと激しくパニック、
ヒステリー状態になりやすい。
●人種差別的な発想。
●戦争には過去も現在もキリスト教国が大きく関係して起きてきた歴史的事実!
博愛を説きながら好戦的。自己矛盾。

「日蓮宗系」頭破作七分

(日蓮正宗以外の「南無妙法蓮華経」と唱える宗旨。日蓮宗身延派、池上派、創価学会、
顕正会、正信会、立正佼成会、霊友会など。)

●正当な相伝を無視あるいは歪曲して宗旨を立てている。
●そのつど考える事、言う事が一変してしまうというような精神の異常、神経症、精神病。
●頑迷で道理が分らず独りよがりで執着の強い歪んだ人格が形成。
●業病(医者で治せない病気の類)や喘息が多い。不慮の災難、一家離散などの、
悲惨な現象が現れる事が多い。


■「自分は無宗教だから関係ない!」と言う人もあるでしょう。
しかし、その人の先祖をたどれば必ず菩提寺があり、
その宗派の悪影響は、肉体的には遺伝という形で、
精神的には教育という形で、意識しなくても私たちの生命に刻み
付けられていて、その歪みは現実の生活上に現れています。

(樋田昌志さんのホームページから引用、ここまで)。
(引用、終わり)

 日蓮正宗の本、「諸宗破折ガイド」(定価、本体1905円+税)、
には、邪師達による、邪義邪説邪道邪教の、
創価学会、顕正会、正信会の異流義、霊友会、立正佼成会、等の法華宗系新興宗教、
仏教系、神道系、諸教系の、生長の家、幸福の科学、オウム真理教他等々、
以上の新興宗教の淫祠邪教の類、
疑似宗教、民間信仰、俗信等、数多の邪宗教が破折されている。

それは、新興宗教にとどまらず、日蓮大聖人の時代から大聖人門下を悩ませた
念仏・禅・真言・律等や神社神道等の誤れる伝統宗教の破折にも及ぶ。

第六章の世界の宗教では、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、の「啓典の民」、
ゾロアスター教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シク教、チベット仏教、
儒教、道教、上座仏教、韓国の曹渓宗・太古宗、台湾の一貫道、
等の紹介・解説が最後を飾る。

これだけの邪宗教を生み出し、現在も生まれては世間を騒がす害悪宗教は、
とどまる所を知らない。

或る教えに出会った時、人はただ単に有難がったり、むやみに近づき、ひれ伏す前に、
その本尊、言われ、その教えが根拠にしている文献、教典等をしっかりじっくりと
吟味して、確かめ、論証しないといけないのだが、自分の食生活の栄養素などには、
スーパーなどで買う時はよく調べる癖に、肝心の身体や精神に多大な影響を与える
宗教には、多くの人は、深く考えずに、ただ感覚的、感傷的、感情で選び取る所がある。
それが実に危険だと、大聖人の時代から、日蓮大聖人様はじめ、
日蓮正宗の代々の御法主上人猊下様方が警告を度々されている。
人生、社会を狂わせるのは、ただの一凶のこれら邪宗教にあり、と勇ましく悠然と見抜き、
それら邪教には、近寄らず、相手にしない事に尽きる。

あゝ、遥かなる富士山

2017年07月14日 21時11分51秒 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

日蓮正宗総本山大石寺に行った砌(みぎり)の、バス車内から撮った富士山。

 富士山には登ったことは、一度もない。しかし、我ら日蓮正宗法華講信徒は、「登山」と称して、富士山の近郊にある、静岡県富士宮市、総本山大石寺に「登って」ゆく。富士山の、あの富士の高嶺は、登るのは登りたいが、時間的にも、距離的にも、金銭的にも余裕がなく、おそらく一生の間にも、それは叶わぬ夢なのかも知れない。
 やはり、富士は、こうして下から見上げていた方が宜しいのかとも思う。富士山登山は、かなりの難儀を食らいそうな感じがある。
 しかし、よく「がん患者の会」の皆さんが、富士登山を果たしたと言うニュースとか、NHKテレビのタモリのブラタモリで、いつだったか、タモリがNHK女子アナウンサーと一緒に富士山に登っていた。日本一の高さなので、空気は薄くなるが、酸素ボンベの携帯用のを持って行っていて、時々吸っていたが、それは気分が良くなるからであり、余り登山中、二人とも普段とは変わらぬ様子であった。
 やはり、嫌な言葉にはなるが、最後は「自己責任」という奴なんだろう。
 富士山で遭難しても、自分が悪い、自分が責任を取る、という事だろう。
 富士山を、静岡県側から見るのと、山梨県側から見るのが、違うと言う見方があり、写真等でみると、実際違いが分かる。
 富士山は、小田原市に程近い、私の生まれ故郷、神奈川県足柄上郡開成町にいた時も、うちの窓が自然の額縁になって、それはそれは立派な富士山であり、うちに来た親戚縁者は皆その威容に惧(おそ)れをなし、驚いていた。皆、観光絵葉書みたいだと言って、母も父も大喜びだった。
 私の好きな短編小説集に、太宰の「走れメロス・富嶽百景」(岩波文庫)という本があり、富士山を身近に感じたい時などは思い出して読んでいる。太宰治は他の小説は余り感心しないが。
 兎に角、富士山には、私は、軽く優しくガツンと一発、ひとたたき、背中にいつも頑張れ、と暖かく、何か声援を与えられ受けているような、不思議な感覚で、今も私を応援しつつ、励まされ続けているような実感を常々抱いている。富士山よ、有難う!

頭破作七分、有供養者福過十号の、両肩のご本尊様の但し書きについての現罰・現証

2017年07月14日 16時05分14秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致

 うちの父は、若い頃に、日蓮正宗創価学会の御本尊を頂いたが、生前の本人や、母に聞いたところでは、父はその御本尊を焼くなり捨てるなりしたという。
 その後しばらくは本当に何もなかった。父は前妻と別れ、裁判まで起こされて、酷い目に遭う。
 業罰の現証とは、そんな生半可なものじゃ済まなかった。
 それから十数年経ち、母と巡り合うが、その日、胸騒ぎがした母がバスで行きなさいと言っても聞かずに、僅かのお金をケチり、その日に限り自転車で会社に向かい、案の定、車に撥ねられた。
 頭と体を負傷し、大けがで半身不随となる。本人も私達家族も、大変に難儀を極め、非常に苦しんだ。
 父の変わり果てた姿を見て、おばあちゃんは大変に心を痛め、がっかりしていた。父は一言「こんな体になり、申し訳ありません」とおばあちゃんにひた謝りに謝って語っていた姿を、うちの母も見ていた。この時、その父の謝る姿を見て、母は、まだましな、少しはこの時点までは父が改心して謙虚に反省していたのだ、この人は、懺悔のかけらは持っている人間だったのだと、まだ時間は掛かるがやり直せる、と少なくとも思ったようだった。
 
 しかし、無事退院し、川崎に越した頃には、父は、又もや慢心を起こし、幼い私と結託して、当時から宗教を馬鹿にしていて、「のんのんさま」と言って罵るようになった。
 ある日、父は、あの小さな仏壇を捨ててこい、と言って、母に叱り飛ばした。私も当時、知らず知らずのうちに、「捨てろ、捨てろ」と言って囃(はや)し立てた。
 とうとう母は、御本尊様だけは大事にお巻きして別の場所に隠して持ち、それだけは取って置き、当時我が家にあった小さな仏壇のみをゴミ捨て場に捨てた。
 私は学校へ行くときに、ゴミ捨て場におもむろに捨ててあったうちの仏壇をこの目で見た。別に深い感慨もなく、むしろ、共産党は宗教とは無縁であり、宗教はアヘンだ、御法度だ。仏壇なんてうちにあっては絶対にいけない、それは弱い者のする事、父の信奉する、日本共産党の御指導・お教えの通りに進む我が家だからしょうがない、むしろざまあみろ、清々した、といった、父の言う事のみを鵜呑みにした、言わば詐欺師に騙された、子供ながら正義感で酔い痴れていたのかも知れない。
 後年、その事で私は大変に思い悩み、後悔・懺悔・絶望の淵に打ち沈んだ。何より、ゴミ捨て場に打ち捨てられ、放置されていた、あのお仏壇が物悲しく可哀想であり、勿体ないことをしたと思っても後の祭りだった。悲劇的な最期の運命を遂げた、うちのあの哀れなお仏壇に、泣いて同情し悔いても、二度と戻っては来ない、諸行無常の理(ことわり)を示されるのみであった。
 その後、父も亡くなり、改めて今度は故人の為に母が、かなり奮発して数万円の比較的高めの立派なお仏壇を買った。
 父の死後、父を懇ろに弔い、お仏壇を仏間に御安置し、日蓮正宗の、母が昭和三十年代に御下附された御本尊様をその時は無事に十年振り位かで祀った。今は正真の御法主日如上人猊下様の御本尊様を祀り、そのお仏壇と共にうちは春夏秋冬、風雪を忍び、今に至る年月を過ごしている。
 まるで父が、反対者だった父が、今では何か、逆に仏法を司る化身のような存在である。
 父が菩提寺の郡山の日蓮正宗無量山寿海寺に眠っていなければ、私とて、このお寺とは縁がなかった筈だ。果たして日蓮正宗に入信したかどうか、これも縁としか言いようがない。
 父が生前、暴君のように振る舞い、仏壇を捨てさせた癖に、今ではあべこべに父が仏法の守護者の如くに菩提寺の寿海寺に眠っているのは何か腑に落ちない、と以前、広布推進会でいわき市の大華寺に向かう道すがら、車中でS楽さんに言うと、先日の学会員への折伏のブログ記事でも私が書いたように、今では大恩人と公私共にお世話になりお慕いするS楽さんが、
 (S楽さん)「今も○○君(私)とお母さんの事を”草葉の陰”から○○君のお父さんがじっと見つめて見守っていてくれているんだよ」
 と言って、私が感動して涙ぐんだ、と言うあの有難い御話につながるのだ。
 古来からも、雷神、祟り神だった菅原道真公が改まって学問の神様として太宰府に祀られたり、無念の死を遂げた鍾馗(しょうき)さんが今では五月節句の神様に昇格して、無病息災を祈る善神となったりと、そういう事はよくあるらしい。私も今では父の御供養を買って出ているし、いつも五座三座の回向では父の事、他にもおばあちゃん、おじいちゃん、叔父さん等の既に亡くなった方々、親戚の事や飼っていたペット・動物達の御霊を、折に触れ他人様の御命日をも手厚く御祈念している。
 それらが、父の、御本尊不敬の罪、御本尊様の右のおん肩におしたための、若悩乱者頭破七分の最終的な解答・答えである。御本尊様の、左のおん肩には、有供養者福過十号、とある。現に、現在の母と私共の実生活の、御本尊様に畏れかしこまり、敬いつつ送っていて日々現れているこの現証・功徳は、今までの功徳以上に、良き報せは良き報せ、良き訪れは良き訪れとして、これからも次々と現れて来る事であろう。
 私たち家族は、御本尊様を御不敬する事が、どれ程罪作りで、罰当たりかを、身を以って体験している。否、それは、当然うちだけではなく、現代日本でも、先般、平成七年一月十七日午前五時四十六分に起きた、神戸の、阪神・淡路大震災では、創価学会によるニセ本尊配布の折、大量の日蓮正宗の御本尊が御不敬されて、打ち捨てられた時、「日蓮を用ひぬるともあしく敬はゞ国亡ぶべし」(種種御振舞御書・御書一〇六六頁)の大聖人様の御金言そのままに、忽然と天地は震え、天地の神々は怒り狂い、大火災に苦しみ、塗炭の苦しみに喘ぐ人々の断末魔に創価の大罪が断罪された事実、実証・現証、業罰・現罰を、経験上、事実上、現実の上からも、曲がりなりにも経験し、知っている。

 以上、御本尊様の左右のおん肩に認(したた)められている、深い理由と言うか、現実に起きた現罰・現証について、縷々、述べた。