日蓮正宗信徒として、当然の務めとして、自行化他、勤行・唱題・折伏・育成がある。この内の勤行唱題の自行は何とかなっても、化他行の折伏育成が伴わないと、日蓮大聖人の仏法は成り立たず、完成しない。
最近、色々な所で、大聖人様、日蓮正宗、宗教の正邪、高低浅深について話をする。仏様の種まきである。時には日蓮正宗の御本を持ち出しての熱を帯びた対話対論になる時もある。
しかし、何か手ごたえが薄い。何というか、こちらの話が不器用で下手なのは百も承知だが、中々、皆さん、達者な人、動かざる事、山の如くの人、宗教を何か高尚、難しいものと思う人、様々だ。
皆さん共通するのは、私は無宗教、信じるものはない、と言う。が、過去、かりそめに、信じた宗教、各家の菩提寺・宗派宗教、等々は皆、持っている(いた)。
そして、人によっては、何教でも構わない。人が信じるのなら、自由だわ、といった、冬にはキリスト教のクリスマス、正月三が日は初詣でで神道の神社、キリスト教のバレンタインデー、お墓参りは各宗派のお寺、葬式は仏教、結婚式は神道・キリスト教、最近ではキリストのハロウィンパーティも出てきた。
しかし、ここで日本人は雑多な混ぜこぜ宗教、というか、無宗教、とばかり断ずる事は出来ない。
日本人ほど、宗教好き、宗教のるつぼ、宗教のメッカのような国はない。
日本には、十万とも二十万とも言われるほど、宗教団体がある。それに、占い、俗信、民間信仰、疑似宗教等までを含めたら物凄い数の宗教が存在する事になる。
宗教にも、病気直し等に特化した、邪師による幼稚な邪教、霊波の光、手かざしの世界真光文明、崇教真光。ヘンテコな人生訓を掲げ、道徳で味付けしたような邪教、PL教団他。日蓮正宗から換骨奪胎して、その本体から段々とニセモノへと巧妙に手を変え品を変え、我流に味付けして変質させた異流義、正信会、顕正会、創価学会。南無妙法蓮華経と題目を唱えるが、釈迦如来を本尊とし、総戒名を拝ませる、霊友会、立正佼成会等法華系。以上述べたこれらはガチガチの新興宗教だ。
その他にも、伝統宗教で、この街、郡山で多いのが、真言宗(堂前町、如法寺)、浄土宗(郡山中町うすいそば、善導寺)、真宗大谷派(開成、道因寺)、曹洞宗(大槻町、長泉寺他)等々。
これら寺院の、檀家の遺された方々が大変で、聞いたのは、浄土宗善導寺は、院号を持ったばかりに、法要で一回、七、八十万円の布施を出させられた、というのを聞いた。キリスト教は、什一献金。全収入の十分の一の献金を、一家の家計から出さないといけない。皆、ボロ儲け宗教である。
キリスト教徒にはまだ出くわしていないが、あ、エホバの証人がいたが、いまだキリスト教でもないのに、何となく、乙女チックに、あの教会堂や、聖書などの世界観で、そっち側に振れて、変に憧れる人もいる。
いまだに、日蓮正宗というと、ああ、創価学会、と言う人がいるのには閉口する。年配者に多い。
その宗教の弱点欠点、誤謬、誤りを言うと(破折も兼ねて)、皆、一度はムッとする人、どうでもいいとお茶を濁す人、そうなのー、と一応は感心してみせる人、とこれも様々。宗教法論をしていて、ムッとしたり、感心している人は一応まだ救いがあるが、ここで無関心な人と言うのは一番手が付けられない程、残念な人かも知れない。反対するなら反対する、賛成なら賛成、と大きくベクトルが動いている人の方が御しやすい。自分の家の宗教を微塵も疑いもせずに、どーでもいい、では、生きてるんだか死んでるんだか、実感が沸かない程、ボウフラのような、その人の熱意が感じられず、実体のない気がするのだ。
まあ、それでも相手にはするが。そのような人でも救いは必ずある。
しかし、狂乱狂信じみて、余りに熱を上げてその宗教の文句を言われたと怒り狂い、何だコノヤロー、とばかりに、こちらが強折したのを逆恨みして、こちらの意気を消沈させる位、自分の宗教に自信があるのか、強気で出る、実際、今までこうしたケースは余り出くわさないが、出たら出たで面白い。受けて立つ。
大体、今の創価にしても、一時代を築いた割には、皆、おしなべて元気がない宗教に成り下がった。体ばかり大きくなり、知恵が回りかねた、大きな子供かモンスターのようなのが今の創価。そのお粗末下品な貧困教学、宗教哲学など何もない、日蓮正宗のまがい物。池田邪師を奉っていれば安泰だとばかり思っている。お山の大将。お里が知れる。
何を言っても今の日本の宗教界は、日蓮正宗以外はにっちもさっちも行かない、箸にも棒にも掛からぬ、救いようのない宗教どもばかりだ。宗教の看板を掲げた、悪徳商法詐欺宗教団体組織、拝み屋だ。
だから、針の山を登る程の苦労をしてでも、煮え湯を飲まされる苦心惨憺を味わったとしても、そんな大難があると鼻から決めてもいけないが、大難がたとえあったとしても、日蓮大聖人の大仏法を広めるのが大聖人門下の務め、大聖人様とのお約束。人が法を広めないで、誰が広めるというのか。
広宣流布とは、そういうものだ。