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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

人生の応援歌「青春をどう生きるか」加藤諦三著

2017年06月30日 21時47分16秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
人生の応援歌とも言うべき著作がある。加藤諦三著「青春をどう生きるか」(光文社カッパブックス)である。
 この本では、加藤諦三さんが、熱く人生、青春を語っている。
 曰く「大切なエネルギーだから蓄えておいて、などと言うな。いまやらなくていつやれるというのだ。若い日には、壁に突き当たったなら、またそこで、その時考えればいいではないか」とある。
 兎に角熱い。悩み多き青春時代、私もこの本を読んで多いに励まされた。
 別に青春にこだわらなくてもいい。この本は人生までをも述べているから。
 まさに冒頭に戻るが、素晴らしい人生の応援歌。これ程の著作を著す加藤諦三さんは、素晴らしい。正に愛読書だ。

戸田会長の言葉と現在の創価学会-アーカイブ・過去記事から

2017年06月28日 21時39分43秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
02/13/2017 戸田会長の言葉と現在の創価学会
 
 戸田第二代会長は、日蓮正宗に多大の功績を残し、一信徒として赤誠の限りを尽くし、日蓮正宗宗門発展に寄与なされた。
 今日の創価学会は、戸田先生が余りに日蓮正宗の富士大石寺大御本尊様を根本に実践したものだから、それに学会員の目と耳をそらし、深い信心を拒絶し、戸田城聖全集を絶版にするなど、自身に都合の悪い事は、何でも覆い隠すつもりで暴走している。

 戸田会長の言葉。

 「余は二十七年なりとは弘安二年十月十二日の総与の御本尊の出現をさしての御仰せであって、このお言葉によって本仏出世の御本懐は此の御本尊の出現にある。世の不幸を救ふ一大秘法は此の本尊にありと信じなくてはならぬ。」(大白蓮華昭和二六年六月号)

 「弘安二年十月十二日の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟本懐の中の本懐で真に尊き事と拝さねばなるまい。この御本尊こそこれ三大秘法の随一であり、一閻浮提総与の御本尊である。」(大白蓮華昭和二八年二月号)

 「御本仏は、生きていらっしゃるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏のお名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下さるのである。」(日蓮正宗方便品寿量品講義)

 「日蓮大聖人はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人の御当体とは気がつかないでいるのである。」(日蓮正宗方便品寿量品講義)

 「学会は今大聖人の命うけて弘安二年十月十二日に御顕しになられた一閻浮提総与の御本尊を日本に流布せんことを誓う。」(聖教新聞昭和二六年一一月一〇日付)

 「われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。」(戸田城聖全集)

 「この本尊論がまことに大事なところなんです。これが狂ってくると、一切が狂ってくる。ただ、富士大石寺の文底深秘の大御本尊、これより他にはない。これが根本なのですよ。」(大白蓮華昭和三四年四月号)

 「日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである。」(戸田城聖全集)

 「日蓮大聖人様から六百余年法灯連綿と正しく続いた宗教が日蓮正宗である。最も完全無けつな仏法が正宗なのである。この仏法こそ私達を真に幸福に導いてくれる宗教であることを私達は日夜身をもって体験してゐるのである(中略)私達は無智な人々を導く車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である。宝の山に入って宝をとるかとらないかはその人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが我々学会の尊い使命なのである。」(大白蓮華昭和二四年一二月号)

 現代現在の学会は、人師論師の説に過ぎぬと、あれだけ三代会長と謳っていながら、初代二代会長の言葉は蔑ろにされている。どう過去を捨て去っても、日蓮正宗の信徒団体として出発した創価学会は変節と謗法の限りを尽くしてしまい現在に至る。日蓮正宗と創価学会は元から親と子のような関係であり慈悲から親の日蓮正宗が子を叱るのは当然なのだが、学会は聞き入れはしない。今は幹部が会員を牛耳り耳も目も塞いでしまっている。学会は、決して日蓮大聖人の正統な継承者ではなく、やがて将来は日蓮大聖人の金看板を外してしまいかねない危惧さえある。大御本尊への信仰を放棄するくらいだから、何をしでかすかは誰にもわからない。
 牧口会長・戸田会長が、現在の創価学会を見れば、その謗法(ほうぼう)まみれの変貌ぶりと慢心に、さぞ嘆き悲しみ泣き叫んでいることであろう。

日蓮正宗に宗旨替えしました-勧誡式を受ける 、-(過去に出て来た自身のブログ記事から)

2017年06月28日 21時35分30秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
02/08/2017日蓮正宗に宗旨替えしました-勧誡式を受ける
 創価学会の度重なる教義改変・改悪、経本の御観念文が5~10年程でコロコロ変わる。会則を替えたのは二年前位だったか(大御本尊を否定)。池田会長が変節したのは、平成時代の頃よりも更に前の、昭和52年路線の破たんからの学会、池田氏の長年の恨みが元で、日蓮正宗から破門されるに至ったこと、御本尊模刻事件、池田マジック事件、その他、おかしな点が創価学会側には多すぎること。
 ニセ本尊の害毒も凄まじかった。わたしは、ここでは書かなかったが、去年の12月年末の忙しい時期に交通事故の被害者となった。救急車で病院に運ばれた。相手が100%悪い事故である。うちはいつも圧倒的に交通事故の被害者だ。平成を過ぎてから多い。それと昨日、詳しくは書かないが、死にそうな思いをした。そして、母も高齢になり、最近は被害妄想気味の毎日を送っている。わたしの体調も精神面もここの所、絶不調である。
 その事を地元の日蓮正宗寺院のご住職様にお話しすると、それはニセ本尊の害毒です、とはっきり言われた。わたしは、学会のいわくつきの本尊を寺に渡し、勧誡式を受け、母も式を受け、謗法払いをした後、勧誡して頂いた。新しいご本尊様をご下附していただいた。新しいご本尊は、日如御法主上人猊下の字の見やすい立派なご本尊だ。あの、創価の、くすんだような、あれ程創価の二代までの歴代会長が、魔が入っていると訴えていた、勝手に濫造、国に二王なしの、ニセ本尊を手放した今は、本物の勤行が出来、腹の底から生命力が湧いてくるような、清々しい気分だ。ご住職様にも自宅に来ていただき、感謝しきりだ。
 思えば、学会で嫌だった思い出は、母と二人で地元の福島文化会館へ行ったとき、隣前に座った女が、母に「一緒にトイレへ行きませんか」と言ってきた事。母は、何であなたとトイレに行かないといけないの、と一喝すると、「ああ、そう、ああ、悪い」とか何とか言って、立ち去るかと思ったらまた戻ってきたが、母にはその後被害はなかった。知っている者同士なら、男の連れションなら判るが、誰だか知らない、女の連れションなんてあるの?
 また、これも母だが、高齢の母は椅子席に座っていたが、母の後ろに同じく椅子で座っていた初老の男性が、「あんた邪魔だから、こっちこっち」と母を勝手に脇に寄せて、自分だけオープン席のように前をあけようとした。言っておくが、母は身長も座高もそれ程高い人ではなく、こじんまりした人だ。その母にこの男はどけと言わんばかりに母を邪魔者扱いした。勿論母も「何でそんな事しなくちゃいけないの」と反論した。すると、創価のおかしな人はいつも正しい事、正義の一喝・正論で必ずタジタジになる。他にもおかしな場面はよくあったが、ここでは割愛する。
 日蓮正宗に帰依したのは、YouTubeという動画インターネットサイトで、樋田昌志氏(字はこれでいいのかな?)の創価の害悪を必死で訴える姿に感動したのも大いにある。もっと声が大きい音だと有難く、耳が遠くなった母でも見られる動画サイトだと思う。
 やはり、伝統宗教と、新興宗教の差だ。戸田城聖第二代会長の奥様もご子息も日蓮正宗を信仰しているのも、必ず理由がある。
 わたしは日蓮正宗創価学会時代を通じて、昔の、お山に登っていた頃の学会が好きだった。大石寺版の格調高い御観念文、長行のお経を削った学会は自ら正当な後継指名を破棄し、お経を短くして、見苦しく教義内容を日蓮正宗に似せながらも、段々と堂々と別の物にすり替えていく。よく言われる譬えで、一級の大吟醸のお酒を、どんどん水を足して薄めて別の味にして売る詐欺商法と同じだ。
 池田氏も、自分が破門の罪を犯しておいて、一般会員にまでその罪、軽はずみな軽口、いつもの愚痴めいたスピーチが及ぼした害は計り知れない。
 わたしは、泥船には乗りたくはない。まるで浄土教の親鸞が法然に、教えが間違っていても、地獄に落ちても後悔せずにお供するという話とおんなじだ。創価も、先が知れている。牧口・戸田会長が死に物狂いで守って来た、学会が宗門へ誓った外護の精神が、三代池田で完全に消えた。残念と言うより、貴重な時間を返せ、と怒るよりあきれる。
 日蓮大聖人直結と学会は言うが、日蓮正宗こそが大聖人直結だ。前に読んだ新人間革命で、池田氏は(ゴーストライター説があるが)日蓮大聖人を日蓮日蓮と名前だけ呼びつけにして、日達上人も、日達と呼びつけ、そこには、言葉の重み、特に人を敬う気持ちが全く無かったのが、自分と大聖人、猊下を同列に見る、ふてぶてしいまでの卑屈な尊大さ、俗物くささが漂う小説で残念な気がした。
 わたし自身も、このブログで無知が招いた正宗批判、異教礼賛、占い、暦等を礼賛してきたいきさつがある。それら記事は自分の歴史としてとっておくが、非常に今では反省しきりである。わたしの心の迷いと受け取って欲しい。
 うちの昔の東京のおばあちゃんは、お山が大好きで、高齢になってからは、母にお小遣いをもらうとよく大石寺に登山していた。お寺に行くと心が休まるとも言っていた。おばあちゃんは日蓮正宗創価学会時代の人だったが、今現代も生きていれば必ず日蓮正宗についたと思う。 


遥かなる憧れの国、ドイツ

2017年06月28日 08時16分52秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
私は、外国に行くならば、本当は日本国内が一番いいのだが、敢えて海外に行けるとなったら、絶対に、ドイツに行きたいと思う。
 ドイツは工業も商業も医学も学問も皆、大発展、発達していて、皆勤勉で職人気質であり、私は憧れる。
 ドイツは、かの私の尊敬する天才音楽家、楽聖ルードイッヒ・ヴァン・ベートーヴェンやバッハ、ブラームス、同じドイツ語圏ではオーストリアのモーツアルト、シューベルト、現代の指揮者だったドイツ人のヘルベルト・フォン・カラヤンなどを輩出していて、ドイツ人は本当に優秀であり、素晴らしい民族だと感心する。
 ドイツのハンブルクに、私の大好きな、同じ音楽家の若きビートルズ達が、修行と公演を兼ねて修練を積んだのも、何かの縁だろう。
 ドイツは、私は高校の頃から憧れていた。高校の体育の先生が、磐城高校、東京学芸大学出身なんだが、その先生が、体育教師なのに、英検一級を持っていて、しかし、その先生は、本当はドイツに憧れているのだという。余りドイツ語を習える場所がなく、独学でもいいのだが兎に角ドイツ語も研究中だと言っていた。
 当時ドイツは東西に分かれていて、その先生は社会主義国の東ドイツに行ってみたいと言っていた。中々今は忙しくて行けないが、必ず彼の地、東独を訪れたいと仰っていた。
 私も当時多感な頃で、その話を聞いて、「ドイツかあ」と思い、私自身も多分に影響を受けた。ドイツを調べると、名車メルセデスベンツも、名車フォルクスワーゲンも、ドイツの外車名車に他ならなかった。
 母は、美容師業にも従事していたことがあり、ドイツのカミソリやハサミのゾーリンゲンと言うメーカーの刃物は切れ味が良く、美容師業界では神の使う道具のように珍重され、重視されていた。
 成程、自分が使う、髭剃りのメーカー、ブラウンも、ドイツのメーカーだ。こうして考えてみると、私達の日常生活で、一流と言われる製品の多くが、ドイツ製の製品である事が分かる。素晴らしい国!ドイツ!
 日本は明治時代、憲法や民法などの法律を、ドイツに倣い、見習い、手本とした。お医者さんの医学の学問も、ドイツに見習った。だから、今だにお医者さんの机の上のカルテはドイツ語で書かれる。日本には、ドイツ国家、大ドイツ帝国の影響は、至る所に見受けられ、皆日本に立派にドイツが貢献していて、日本も大いに助かっている。
 私は、高校時代、そんな事をふと考え、ドイツ民族の優秀さ、勤勉さに憧れ、じゃあ、ドイツ語ってどういうんだろうと思い立った。
 当時うちの近所には、新桜通りに、我こ書房(字は失念)という大きな書店があり、私は学校帰りに良く立ち寄っていた。私はそこで本を良く買ってはいたが立ち読みも良くした。そこで、NHKのドイツ語講座のテキストを立ち読みしてみた。
 ドイツ語で、おはようございます、はグーテンモルゲン、こんにちはが、グーテンターク、というのがまず目に飛び込んできた。グーテンターク、素敵ないかめしい響き。ドイツ語のことばの語調は、何か、本当に演説向きと言うか、弁論に向いているような気がした。
 後年、ドイツ語で、ありがとうは、ダンケ、と言うのを知り、フランス語が同じくありがとうはメルシーなので、女性的であり、又フランスの男性が使ってもそれはそれでお洒落である。何か優男(やさおとこ)の雰囲気プンプンだが、まあ良いだろう。
 しかし、ドイツ語でありがとうがダンケ、では、男性は様になるが、女子が使うと何か興ざめな気がした。もし、懇意にしているとするドイツ人女性に、突然、ありがとうを、いきなり「ダンケ」と言われたら、ありがたく思えるだろうか。私なら、余りに唐突過ぎて、その場からもしかしたら立ち去るかもしれないし、何を言われたか一瞬解らないかも知れない。その語感が、いかめしいドイツ語のその響きが、そうさせるのかも知れない。
 でも、笑って、愛嬌たっぷりに「ダンケ」と言われたら、私も納得はするかも知れない。それも余り綺麗だったり可愛かったりしない、年齢が上の女性だったら、何とかまだましなのかな、とも思う。
 兎に角、ドイツ語と言うのは、偉く語調のはっきりした、フランス語のように変に端折ったりしない、ハキハキはっきりとモノを言う言語だと思う。だから、アドルフ・ヒットラーなどの演説は、ドイツ語のカッコ良さをかなり意識した、むしろそれを最大限利用した、一般大衆を巻き込む力を大いに秘めた、魔法のような言葉と語調と勢いに任せて、ドイツ民族を鼓舞した。あれだけの演説、弁論ならば、どんな人でもその言葉に酔い痴れ、素晴らしいと賛嘆し、魅入られ、ナチスの運動の輪の中へ飛び込ませる魔力を持って、民衆に受け入れられていった過程がつぶさに手に取るように今となっては判ってしまう。
 そんなドイツ語を、今年の四月に私は性懲りもなく、NHKラジオドイツ語講座をテキストを使って、うちにあるラジカセ(ラジオカセットレコーダー)やなるべく安価な録音機器を駆使してまで勉学に少しは励んでいたが、三日坊主じゃなく二十日坊主で、嫌な予感は多々あったが、又一か月で終わった。語学は、学校に行かない限り、自分は無理だと思った。独学は、余りにリスクが大きすぎる。結局、英会話も独学じゃ物にはなっていない。
 でも、ラジオ講座は、安く済ませるならば、これ程安価で経済的で、素晴らしいシステムは他には見当たらない。ただ、自分の根性がなっていない、馬鹿で愚の骨頂で飽きっぽいからこうなるのだ。
 だから、今度はフランス語で挽回だ、とか、もしかしたら中国語も向いてるかも、とか、色々手を出したらキリがない。しかし、何か国語をも多く話せる人もいるのだから、この言語でだめなら今度はこれ、と向き不向きもあるのかもしれない。
 しかし、私は、ドイツ語は、未だ憧れの的であり、素晴らしい言語だと思っている。ラジオ講座は、ドイツ語が四月から始めたのに全然初歩じゃなく非常に大変に難しかったが、もっとやさしくても良かったのにと、そのテキストの長い単語や文章を見て、そう思う。
 良く、その国の言葉を覚えるならば、その国の友達を持つ事だ、と言う事もあるが、ドイツ人の知り合いなんていないし、ドイツ人と会ったこともお喋りした事も全くない。日常では考えられない。やっぱり大学へ行った時に英語じゃなくドイツ語かフランス語を取るべきだった。
 そんな自分でも、ドイツと言う国には今まで述べて来たように、大変親しみがある。ドイツ語の辞書、独和辞典も買って眠らせたままだ。私の手持ちの辞書、フランス語辞典、仏和辞典などはスタンダード版と現代語版と二冊もある。それらが全く無くても勉学に励んでいる人もいるだろうに。
 兎に角、ドイツは、遥か日本の西方、彼方にある。私にとっては憧れの国には変わりない。いつか、ドイツ語でベートーヴェン作曲の「第九、合唱」を、ドイツ語で合唱して歌ってみたいという野望を秘めつつ、素晴らしい商工業メーカーを生み出す、国民・国家としての、職人肌の勤勉な国、ドイツの事が一時も頭を離れない、私なのでありました。

平成29年4月30日 支部総登山、総本山富士大石寺にて―後半・霊峰富士山写真画像

2017年06月27日 19時00分29秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
寿海寺の前にてバスに乗り、いざ、出発となった。先々月の、四月は二十九日の土曜日、昭和の日の夜、十時に発車である。

山梨県の上野原市にある、談合坂サービスエリアにて、しばしの小休止である。


総本山富士大石寺に到着した。富士山が朝方出迎えてくれた。



戸田先生が建立なさった、あの大講堂が見えて来る。

客殿。


戸田先生、とうとう私は、あなたの愛してやまなかった富士大石寺に只今参りました、と一言心の中で私は申し上げた。

客殿前の、開かずの門。ここは、世界広宣流布の暁には、颯爽と開かれるのだと言う。



上で手を挙げているのは当寿海寺の副講頭さん。



何十年振りかで見上げた富士山。私は元々、小田原市に程近い、神奈川県足柄上郡開成町の出身で、富士山は見慣れていたが、
この日の富士には、驚いた。それ程の絶景であった。
富士に励まされ富士に人生を教えられ、富士山と一杯(私はお酒が飲めないので、お茶でもコーヒーでも頂こうか)、
是非ともやってみたい。富士山を師匠と仰ぎ、富士と共に寝て起きて、そんな富士山を、私は大好きで愛していると心の底から
言える。出来れば、富士山にいつかは登ってみたい。それは遥かに彼方の遠い望みであり、余りに無謀だが。
富士山だけは、日本人の心の故郷として、未来永劫、遺してゆきたい気持ちである。素晴らしい、立派な富士であった。

西那須野を後にして、那須塩原市黒磯鍋掛への道へ

2017年06月26日 14時22分07秒 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

西那須野駅を後にした私は、その後、黒磯駅に降り立つ。この日は、2017年平成二十九年六月二十四日、土曜日の、昼11~12時になんなんとする頃合いで、丁度小腹が空いてきたが、黒磯駅前には、「ゆ~バス」なる、二百円で市内各方面を行き来する交通機関、つまりはバスが既に到着済みであった。これを不覚にも逃すと後は数時間遅れて行くことになる。この日の目的は、那須塩原市鍋掛(なべかけ)にある、(ここでは写真には載らないが)我が家の古い土地を再度視察に参る所存であった。いざ出発・出陣なのだア!(この「ゆ~バス」の時刻表は、駅構内の観光案内所で配っている。これを手にしないとはっきり言って正確な時間が解らない。勿論、バスの中にも時刻表の小冊子(パンフレット)はある。当地は時刻表も掲示板も何もないので、注意が必要だ。)。

バス車内。



この資材館と書かれたホームセンターはカインズホーム。ここでもよく母と買い物をした。




この「トヨタネッツ」前で、うちの廃車にした、母が運転する車の中に大きな森、林の乱立する栃木特有の、大きなスズメバチが入って来て、この場所に車を停めて一時、ハチを無事追い出した苦い、と言うか変に妙に笑っちゃう思い出がある。

この「幸楽苑」黒磯店も大変馴染み深いお店で、よく母と来た。昔は会津っぽと言っていたが、いつの間にか名称が変わった。それでも味は変わることなく、福島県郡山市から日本全国へと出店して一大企業となった。ここの社長の新井田傳社長は名物社長であり、郡山でも重鎮だ。


鍋掛十字路や終点の那須脳神経外科病院へ行くには、真っ直ぐには行かずに、まず那須塩原市役所に寄ってから、それから宇都宮線を跨ぐ太鼓橋のようなアーチ状の坂の道路を通り下ってしばらく行き、エイトタウンと言う、ヨークベニマル、ダイユーエイト、百円ショップ(の確かセリア)を横目で
睨み、四号バイパスを通って南下し、ビバホームの大きな店のある店舗群を通り、また今度はエイトタウン(福島だったらヨークタウン)の前の道路に出て、右折。しばし、食品スーパーダイユー、赤札堂等を通り、直線の東西に通る道の、小学校だか中学校等を通り、那須の緑の大地広がる鍋掛へ。




この地、鍋掛十字路のファミマ(ファミリーマート)前でバスを降り、しばしの休憩。ここで、おむすびとサンドウィッチ、飲み物を所望した。長旅の疲れを癒やし、英気を十分養い、又出発である。


何かの地蔵と駐在所。


近く、選挙があるのか、自民党のポスターが。


松尾芭蕉が当地を「奥の細道」紀行で寄って行ったという。他にも、伊王野というここから程近い道の駅の途中に「遊行柳」という柳の通りがあり、丁度国道294号沿いにある。そこでも芭蕉は句を詠んでいる。この鍋掛の地の芭蕉の句は、

「野を横に

 馬牽(ひ)きむけよ

 ほとゝぎす」

と詠み、昔から森も多く、ほととぎすの鳴く土地柄でもあるのであった。しばし、芭蕉の世界を堪能し、味わって、暑い初夏の夏の午後をゆっくりと過ごす。しかし、ゆっくりもしていられない。私は旅の者でもあるのであり、じっくりゆったりと我が家同然とはゆかない。帰りの汽車も心配だ。自然、早足になる。が、旅先ではせかせかせず、少しは優雅にゆったりと寛ぎたいものだ。そんな余裕を心の中に、忙中閑ありで、暇を見つけてでも、持っていたいものだ。




土地の異状のないのを確認し、帰路に就く。帰りは又、「ゆ~バス」のお世話になる。運賃二百円は安すぎる。これで経営は大丈夫なのだろうか。疑問だが、黒磯の那須塩原市は太っ腹なのだろう。
帰りのバスは、鍋掛十字路を今来た黒磯方面から右折して曲がり、又南下して那須脳神経外科病院前の病院施設内のバス停を通り、しばし停車した後、折り返し、又、元来た道を辿った。今までそこにいた懐かしい鍋掛十字路を通り、食料品スーパー・ダイユー等がある東西貫く道路を通り、無事黒磯駅へと到着した。郡山駅行きの電車は午後3時32分発の列車で、もう既にホームに到着していた。これに乗れば後は午後16時34分には郡山に着く。私は、栃木県は那須塩原市の西那須野、黒磯を後にして、家路に向かった。大変有意義な、心に残る、楽しい旅であった。

六月二十四日、高野悦子忌、西那須野にて

2017年06月26日 11時30分20秒 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
郡山駅から東北線で黒磯に南下し、乗り換えて西那須野駅へ向かう。


黒磯駅構内。

西那須野駅構内。


西那須野駅の外、西口へ出る。



いよいよ、高野悦子女史の眠る菩提寺、曹洞宗宗源寺へ。



お墓は境内から少し離れた、住宅街を抜けた小道をゆく飛び地にあった。人が余りいない(苦笑)。
ここで少し前に墓前で参拝し終わり帰ろうとする親子か夫婦と思われる二人の方々が居られた。手には高野悦子著「二十歳の原点」をしっかり握られていた。私もその同じ本をカバンに忍ばせて携帯しており、行きの車中でしばし読み耽っていた。巻末の、今は亡きおん父、後に西那須野町長にまでなった高野三郎氏の「失格者の弁」が涙を誘う。娘を不意に失った親の悲しみは如何ばかりか。もう少し、悦子さんも親思いの、親孝行の一つでもしてやってから亡くなってもよかったのに、というより、亡くなる理由などは何一つもなかった。この本をたとえ読めなくたっても、悦子さんにはたとえ平凡でも、立派に結婚して子供たちを育てるまでに自身も成長して、立派に今頃は孫までいるような御生涯を辿って欲しかった。そう思う高野さんの著書を読んだ読者の方々も多い事だろう。余りにも悲しい今生の別れの時は、私の生まれる数年前の、昭和四十四年六月二十四日、京都に於いて、鉄道自死にて迎える羽目になってしまった。なんともやりきれない。これだけの日記の文章を綴れる方であれば、将来は物書きの仕事を、そうでなくても、平凡でもいいから、一主婦としてでも、立派に元気にやって行けたろうにと、本当に残念でならない。


事前に、数日前に、福島県郡山市の寿海寺に願い出て、以前、西那須野に私が住んでいて、高野悦子さんの家にも程近く、且つ、彼女の本も全て読み、感動したことをご住職様に言い、私は高野悦子女史名義の寿海寺への卒塔婆をお願いして奉納していた。ご住職様も高野悦子女史の事はよくご存じであった。
しばし佇み、家から持ってきたおシキミを飾り、法華経寿量品第十六自我偈とお題目をその場で暗唱して唱え、邪宗の寺だが、一応懇ろに祈りを捧げて来た。
日本曹洞宗の祖、道元も、一時期、というか晩年、自身の生死に迷い、遂に法華経の真理に目覚め救われ、一応法華経も所為の経典にしているらしい。しかし、元々が禅宗の、日蓮大聖人様があれ程、「禅天魔」と言って戒められた教えに凝り固まった邪師道元などに、そのお教えの真髄の一端などが判るものかと、思いつつ、寺の敷地を通って来た時の、日蓮正宗寺院では考えられない、粗末に卒塔婆が外の境内脇に無造作に一緒くたに並べられ、その卒塔婆も安く上げたのか、短く御利益もないような卒塔婆だなアと半ば呆れ顔でその隣を通って来た。おまけに水子供養の地蔵まである。何でもありの寺らしく、水子の地蔵の前で風車がグルグルと悲しみをあざ笑うかの如くに虚しく風に吹かれて廻っていた。







「二十歳の原点」小中高校生徒・大学生時代のあだ名は「カッコ」こと、高野悦子女史、ここに眠る。何とも悲しくやりきれない、不可思議な気分に包まれ、この寺を後にした。天気は晴れ、微風そよぐ、初夏の、梅雨入りしたにしては幸い雨も降らずに馬鹿に暑い、陽だまりの中を、この私といえば、黒ネクタイを締めて喪服の礼服、背広に身を包み、一応の礼儀、義理は果たした?!と思いつつ、栃木県は、那須塩原市、西那須野駅を後にした。以上。

ブログを再開しました ー付記 創価・キリスト等を貶め、日蓮正宗を宣揚する!

2017年06月26日 07時05分05秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私は、ブログを2009年4月から今年2017年二月半ばまで開設していたのですが(gooブログに於いて、「日々雑感 わたしが思う あの事この事」というタイトルで)、勿体なくも全て破棄、消し去ってしまいました。一部の心無い(特に主に本当に憎たらしい創価学会員により)悪徳コメントを受け、一時は絶望の気分を心の大半に占めせしめ、暗澹たる気分でいました。そして、ブログを何でそうなるのか、消滅させました。今度は、二度とそんなバカな真似は致しません。
 過去の自身の宝物のように大事に守って来たブログ記事を失くし、そいつら学会員の卑怯卑劣な仕打ち、その恨みは一生忘れない。私は、自身、蛇のようにしつこく、元来人から受けた恨みは必ず返してきたので、このブログを通して、そいつら天敵・創価学会員、並びに新興宗教教団、宗教法人「創価学会」撲滅に立ち上がり、こちらも命を懸けて創価のインチキ、嘘つき体質、反社会性等を声を大にして訴えていきたい。
 こうなったら、創価学会が滅びるか、わたし自身が倒れて討ち死にするか、兎に角、命懸けで日蓮正宗の正義を宣揚し、悪辣極まりない、人々を塗炭の苦しみに投げ落とす悪の権化、暗い世界の代表者、総じて悪魔の団体、頭破七分の邪義を立てている池田邪師による悪の巣窟、邪義邪道邪説邪智邪教を構える創価公明の欺瞞性、悪徳宗教の、どこまで行っても邪は邪でしかない、お天道様、この世に背を向けてよしとするその心根を糺し、ぶっ潰し、ぶっ飛ばしてやるのが私のこれからのライフワークとなるであろう。
 宗教の話、なかんずく創価学会以外でも、否、むしろ、こちらが主になるが、世の中の趨勢、思想、音楽、放送マスコミの報道、政治の事や自分の雑多な体験、考え、意見、行動等を、本当に時々にだが、写真付きでたまには紹介していきたい。不定期発信ブログとして、毎日毎週という訳にもいかないから、月に許せば、数回、毎月という訳にもいかないが、牛の如くノロくとも確実に足を踏みしめて文章を綴っていきたい。初めは処女の如く後は脱兎の如く、猪突猛進して事に当たりたい。
 心機一転、出直すつもりで、このブログの新一年生として、また戻って来ました。今までの自身の悪弊を糺す為にも、これはこれで良かったと思う。「人間万事塞翁が馬」、「禍福は糾える縄の如し」、「楽は苦の因、苦は楽の因」、と申しますように、今まで書いて来た、八年間の思い出の日記は消えてしまったのは残念至極だが、又こうして再開できたのだから、文句は言うまい。
 更にパワーアップして、力強く、本音でぶつかっていきたい。これは私が日々の出来事から得たヒント、時にはボヤキ、雑念、愚痴等を、愚痴で終わらせない形にまで昇華させて何とか持っていけたらと考えている。
 実は、フリーアナウンサーで歌舞伎俳優市川海老蔵さんの妻、小林麻央さんが先日亡くなったが、その方のブログは一度も見たことがなく現在もないが、新聞テレビ等を見ると、その誠実なお人柄、最後まで家族を気づかい、最期の言葉が海老蔵さんやご家族に対して「愛してる」だったという事実、自身は乳がんに侵され、余命幾ばくもなく、その最後の救い、砦、人生のよすがが、彼女の場合は「ブログ」であった事、等が折に触れて私の脳裏を掠めていて、ずっと気になっていた。わたしは現在、死ぬような大病には幸い罹ってはいないが、人間、いつどこでどうなるかは全くの未知、答えはわからない。ただ、こうしてブログで書けば、どこの誰とは知らぬが記録として残る。私は、其の一点に賭けてみようと思い立った。その結果、出た答えがこのブログである。
 どうか、読者諸氏諸賢の、篤い友情の眼差しで、このブログを暖かく見守り、見つめてほしい。このブログの初めに述べたかったことは、これである。私自身にも、賢明なる読者諸氏諸賢諸君にも、いま改めて幸多からん事を願いつつ、このブログの初めの言葉と致します。

付記 (以下、この上の今までの文章と合して11744文字にもなる大作の為、時間の許せる方はお読み下さい。)

 私は、既に以前の、先代のブログ「日々雑感 わたしが思う あの事この事」内の記事に於いても書いていたのだが、今はそのブログ自体が存在せず、記事も取ってはおかずに全て無くなった。残念なことであった。

 その記事には、私が今年二〇一七年平成二十九年二月八日(水曜日)に、郡山市土瓜にある、日蓮正宗無量山寿海寺にて、菅野蔵道ご住職様に、勧誡式を受けた事を簡単に記していた。今日はその詳細を述べることにする。
 私は、前日の、二月七日夜七時に、自殺未遂を図った。しかし、失敗に終わる。フラフラになり、母に抱き抱えられて、お茶を只一杯飲んだ。呂律が回らず、口はヘロヘロである。お茶が口の脇の横から漏れる始末。首が痛く、舌、のどの奥も痛い。

 母は気丈に構え、大人しく私を見つめて言った。
「どこか旅でもしようか。そんなに人生面白くないのかい。最近旅行もしなくなったねぇ。どこへ行きたいんだい。」

 それに対して私は首吊りの影響で、ヘロヘロになっている、呂律の廻らぬ口調でやっとこさ喋り始めた。
「お母さん、旅行もいいけど、うちのお父さんの納骨料、お寺に去年から一切お納めしていないんだ。日蓮正宗寿海寺に!!これだけは、ケジメを付けなければならぬ。明日の朝、一番でお寺に行ってこようと思うんだ。

 ついでに、うちの仏壇にある、あの(ニセ)本尊を、あのお寺に持って行って叩き付けて来ようと思っているんだ。あの本尊にしてから、良いことがなんにも無くなって、坂を下るように運が落ちて行った。

 去年十二月二十七日火曜日午後の郵便局前で二十代の運転初心者の女に車で轢かれて撥ねられて投げ飛ばされて駅東口の星総合病院に救急車で担ぎ込まれて今は近所の病院に代えて今だに通院リハビリ中なのだって、あれも創価学会の最後の謗法罪障が出たと考えれば合点が行く。仕事につまずき、酷い目に合わせられた時は、丁度ニセ本尊を掴ませられて昼夜逆転の生活に陥っていたあの頃と符合する。
 あの享保五年の気色悪い本尊をもらってからというもの、何一ついい事なんてなかったよ。少しはいいこともあったって、それは邪宗教の魔の通力と言って、一時しのぎの御利益で、それにあぐらを掻いて居たらやがてはもっと酷い命にも及ぶような罰が出て堕地獄だって、同じような事をインターネットのユーチューブという動画サイトで、樋田昌志さんと言う日蓮正宗法華講の方も仰っていたよ。
 全ては邪教創価学会、あのニセ本尊が招いた種だったんだ。いいでしょ。今日はおそらく興奮して眠れないだろうから布団に横になって朝が来るのを待つ。朝が来たら、いの一番でお寺、寿海寺に行って住職さんに話を付けて来る。
 ついでに、出来れば正真の、日蓮正宗の、御法主上人猊下様の書き著された、本物の御本尊様を頂いて御下附されて帰って来るからさ、どんな御本尊様か見るのが楽しみでもあるんだ。」
と言うと母は、
「そうかい、行っておいで。寝不足ならば、車には気を付けるんだよ」と私にやさしく言って聞かせた。

 朝が来た。待ちに待った、永い夜が明け、待望の朝が来た。厳冬の二月八日。一応、古いうちでお巻きしていた戸田先生時代の古い昭和三十年代の享保三年の日寛上人猊下様の縦長でコンパクトな御本尊様をその朝だけご安置して、数年振りで私は朝の五座の勤行をしてみた。口は引きつり、碌に発音できないが、不器用なりに私は真剣に懇ろに勤行をした。まんざらでもないな、と私は妙に五座を終える頃には思うようになっていた。私は自転車にまたがり、ニセ本尊と経本をカバンに詰めて出掛けた。母が気を付けて、といつもの口調で見送った。

 その古い戸田先生時代の御本尊様は、時系列が前後するが、女性二人とうちから改めて持ち出して、私の勧誡式の後、今度は母を勧誡にお連れした時に、ご住職様に見せて、「こんなに古い、昭和三十年代の御本尊なんて使っている家は今では殆どない。表装も見ると長年の経過でお汚れしている。新しい(御法主日如上人猊下様の)御本尊様の方がいいですよ」と勧められ、母が独身時代に東京中央区銀座明石町に勤務する会社の同僚女子社員に折伏され、御下附された御本尊様は、お寺へ返納された。

 これで、元々のお寺に帰ったんだから、創価学会の奴らやあわよくば狙い済ました顕正会の奴らに横取りされないだけでも後から考えれば良かったと思った。実際、我が家にある真新しい、御法主日如上人猊下様の御本尊様も、お寺の奥の部屋や一般信徒の方の家を訪問すると御安置されている日顕御陰尊猊下様の御本尊様とを比べるのもおこがましく身の程知らずだが、私はどちらも大好きであり、非常に達筆で大好きなお文字であり、どちらも近眼の私には、特に我が家の御法主日如上人猊下様の御本尊様も大変見やすく、字がはっきり大きく立派に書かれていて、大好きな御本尊で大聖人の仰られた秘すべし秘すべしで、大変に大事に珍重して好んで毎日朝な夕なに勤行唱題をし、時々それらに再び別に唱題の時間を特別に入れて織り交ぜ、祈り拝んでいる。
 一応、お寺で使うだろうと思い、日蓮正宗大石寺版のお経本も持って行った。

 寺に着くと、朝九時を少し廻っていただろうか、もう既に、人の気配がする。お寺の受付で、私が前に立つと、ご住職様が現れた。私は、平静を装ったが、内心、ビクビクしていた。「本当に大丈夫だろうか、本尊は本当に取り替えてもらえるのかな?」
 最初に、去年の納骨料をお納めしていなかった旨をこちらが語り、お金を払い本題に入った。

 「あのー、この(憎っくき)ニセ本尊なんですが、(とおもむろにそのニセ本尊をカバンから取り出し、ご住職様の面前でそれを叩き付けた。)こいつのせいで、私の人生は狂いに狂った、去年十二月の世間もうちも忙しい時に、郵便局前で車に轢かれる大きな交通事故に遭った。それ以前にも、このニセ本尊を貰った時には、会社でいじめに遭い、辞めているし、その間、莫大な負債、借金も負った。それに昨日の自殺未遂事件等々。余りにもおかしな事が多すぎる。今、この(ニセ)本尊を手放さないで、いつ創価学会を辞める機会があると言うのか。絶対に今しかない。今を於いて他にはない。だから、この本尊、どうにでもして欲しい。そして、新しい本尊に代えて欲しい。頼みます。」
と言うと、ご住職様は、メガネの奥の眼光鋭く、しかし、謹厳実直な物腰と態度とお声で、
「それらは全て、ニセ本尊の害毒に他なりません。」
とキッパリと一言仰られた。

 そして、今から勧誡式というものを執り行います、と仰られ、本堂に通された。お経は自前で、御数珠はこの時忘れたのでお寺から借りた。
 もう既に数人がお寺の朝のお勤めの為に参集していた。そこで私がご住職様と共に入っていくと、ご住職様は、今から急遽、普段の勤行会とは違って、本日は、私の為に勧誡式を執り行う旨の発表をして、その場の皆の誰もがそれに従い、頷き合って、私を迎え入れてくれた。
 そして、法華経方便品と寿量品長行と自我偈と唱題、のワンセットの勤行による勧誡式が始まるのだが、私は大変緊張していた。普段から五座はやった事がなく、今朝方、五座をやったのにまた長行か、という思いと、普段から長行を含め、お経を唱え慣れている、皆様と同じように、果たして自分が通用し務まるのだろうかという邪推邪念があった。

 創価の邪教邪義邪説に長年慣れ親しみ、一座の、方便品と自我偈だけで良い、何なら題目三唱だけでも良いとする、お手軽お気楽の、その実、手抜きで何の御利益もない欠陥だらけの邪道の経本の観念文も空虚で有難みのない、五年位ずつで自然と経本も学会の教え、指導、会則がコロコロ替わる。
 
 大体、創価の経本からは、いつの間にか、五座三座はなくなり、東天、諸天善神の祈りはなくなり、引き題目はなくなり、三師供養の、第三祖日目上人はいなくなり、祭礼の日に正宗寺院では当然のごとく荘厳に法華太鼓が打ち鳴らされるがそれもない。代わりに歴代会長の祈念と称する祈りのページには、三代目会長池田大作(先生)への祈念が加わり、果たして池田という奴は、この経本を本当に使っているのだろうか?!自分で自分自身に祈念する馬鹿がどこの世界にいるのか?この経本でセンセーが祈っていたらそれはそれで滑稽で笑われるし、馬鹿だよなア、その図を見てみたいような見たくもないような。

 それら虚しい空々しい空虚な祈りの続くオンパレードに、日々接していくうちに、虫唾が走り、段々と、正常な思考の持ち主ならば、必ずそのイカサマ、インチキ、淫祠邪教の類の教えの低さの故に、馬鹿らしくなってくる筈なのだ。
 
 一部の池田親衛隊のような、創価班、牙城会の連中ならば、それが見抜けず、騙され、むざむざと邪師池田の思う壺となる。今だに馬鹿だからゴーストライターの手になる代作の、現在・植物人間・池田大作の出る幕のない、全部出鱈目、美辞麗句、池田好みの文章で脚色され色直しされた、「人間革命」「新人間革命」に代表される、世にも気色悪い著作群が出来上がったのを無下に信じ込まされている。全部全額、金と言う金が池田田吾作のポッポ、懐に入る訳だ。
 道理で池田が最晩年、「わたしは勝った、わたしは勝った、大勝利だ」とのたまい、うそぶく訳だ。勝ったのは全て金で勝ったのであって、池田の功績・功労でも努力の賜物でも何でもない。ただ金の力で「勝った」と大言壮語、豪語して自身の死後、否、現世で当然受くべき堕地獄の現罰・業罰の現証の恐ろしさには何一つ気付かず触れてもいない。敢えて考えないようにしているとしか思えぬ底の浅さお粗末さ。センセーも人間終わったな、こんな人間に付いて行っていた私が愚かだった、気付くのが百年遅すぎた。今だにイケダに付き従っている奴らって一体ナニ?!一体誰?!何様のつもりなんだ。

 しかし独り、日蓮正宗は、七、八百年の間、何一つ邪義邪説を交えず、富士の清流そのままに厳然としてそこにおわし、それは多分に、あの富士大石寺に鎮座まします、鎌倉時代執権北条氏の御代の、弘安二年十月十二日に、末法のご本仏・日蓮大聖人様がお書き遊ばされた、三大秘法の本門戒壇の大御本尊様を受持し伝持し、厳護されて来た、勿体なくも、血脈相承・法水写瓶・唯授一人の代々の御法主上人猊下様の御正師様方が永年心血を注いでその教えを守り抜いて来た、永い歴史に裏打ちされた、立派なお教えだからこその、末永く永遠に代わる事のない安心感、教えの健全性、堅牢さ、重厚で厚みを増した、いぶし銀のような素晴らしさがそこにはあるのだ。

 何とか勧誡式では長行も無事にそつなくこなし、ホッとしていると、そう言えば、新しい御本尊様は今日は頂けないのか、何としてでも欲しいと懇願して切にお願いして聞くと、ご住職様は別の事を気になさっていて「お母さんは元気にしているのですか」と聞いてくる。

 少し足腰は弱っているが元気だと答えると「じゃあ、ここに呼んできなさい」と言う。「それは無理」と私が言うと「どうして?」とご住職様。「足も悪いし、色々な所が弱ってきている。雪のチラつく寒い日に、ここまで歩いて来れるかどうか。車も廃車にした。母は寒いのも苦手で、無理だ」と言うと、信徒の方々が「車なら私らが運転してあげる。それに折角お母様がいらっしゃるならば、絶対にこの勧誡式をお受けになられた方が良い。本当に悪い事は言わない」と言う。ご住職様も「本堂もお寺の廊下も、何台も暖房器具を付けているから大丈夫。車の中も当然暖かくするから安心して下さい」と言われ、状況が刻一刻と移り過ぎ、無下に断る事が出来なくなって来た事に段々と気付くわたしがいた。
 それならばと、私は家に戻り、母にその事を言うと、母も「何だか大ごとになって来たね」と一言いい、うちにやって来たその本堂で一緒にお祈りしていた二人とも御年配で眼鏡をかけた女性達で、女の方の一人が、のちに大変お世話になる、お寺でも一番偉い「G講頭さん」だったのだが、その方とYさんがうちに二人で来た。その他にもその日、式が終わると途中で帰られたが、本堂には男性の方、長身のロマンスグレーの白髪のお方もいた。後に、そのY田さんは、私に私の名前入りの洗濯ばさみ付きのネームプレートを下さり、他のお寺や富士大石寺に行く時は靴を失くさないように挟んで使うといいよと前もって実に芸が細かく配慮して心配なさって下さった。私を初めて見て「何だ見た事のない、珍しい人が来ているなぁ」と思ったそうである。その方と違う男の方は小柄で運転が非常に上手く、足は悪いが、以前はタクシードライバーとして勤務する程の腕前の運転のプロだという。
 皆は「今から謗法払いをさせて頂きます」と言って、うちに上がり、うちにある邪教の、つまりはお守り、創価のまだあった経本類、等々を次々に払い除けて行き、お寺にお納めすることにした。それらを持って母をも連れて今度は車は又もやお寺に向かって走り出した。私も事前に自転車を走らせていた。
 お寺に着くと、又、今度は母の為に、一同、皆さんと、ご住職様とも御唱和しての私に続いて、母にとっての勧誡式となった。母も立派にお経を皆に付き従って唱え、無事、勧誡式は終わった。

 式の最後に、お経の中の自分の好きな個所の経文を開くように言われ、母の時、私は絶対に寿量品の釈尊(お釈迦様)と日蓮大聖人様の文底秘沈の大法の論拠、根拠、根底となり、重要な論説の「我本行菩薩道」の部分をどうしても開きたかったが、何故か、手が凍ったように動かず、中々文句の個所がページを探して繰っても出て来ない。ご住職様はどこでもいいんですよ、と言って焦(じ)らす。しょうがなく後ろの方の長行の自分としては不本意な個所を開かざるを得なかった。
 そこにご住職様は、筒のような、扇子の袋のような、それよりも袋で包んだ長い棒のような物でお経のその開いた個所を挟み、挟んで軽く持って下さいと言い、その後、その筒のような長い物から、待ってました!、御本尊様がにょきっと(失礼)現れ、これを大事に家までお持ちになって下さい、と仰られた。それにて、勧誡式は終了した。

 その後、その日の内に、ご住職様を自宅にお迎えして、お仏壇に御本尊様を御安置する入仏式を執り行った。これで母は二度目、わたしは一同の皆さんと同じ三度も方便品・寿量品長行・自我偈と三度目の(笑。アハッハッハ、こんなに何度もお祈りを重ねたのは実は生まれて初めて、キャハハハ。)読経唱題で、わたしはヘトヘトなのに、皆さん大変に若々しく、何一つお経を唱えるのに躊躇も不満もないといったご様子で、作詞作曲家、シンガーソングライターである小椋佳さんや歌手布施明さんの昭和時代に大ヒットした歌「シクラメンのかほり」ではないが、全然「疲れを知らない子供のように」振る舞い、若いのに疲れを見せて弱々しい生命力の皆無の私などを尻目に、今現在を謳歌するが如く、若さを私に誇示し、これ見よがしに見せつけるのであった。私はその時、正直、その若さが、その時・今の生命力の劣り弱った脆弱な心身の老生した私には甚だ眩しく羨ましく映り、わたしにも、何としてでも、あの若さが欲しいと正に言わしめる程の物だったのである。

 のちに、三月終わり頃、講頭さんが、北海道の姪っ子さんに折伏されて、霊友会だった新入信徒の方の御受戒の式上の終わりで述べてその新入信徒の女性の方を一生懸命に励ましていた。「大丈夫、大丈夫。『更賜寿命』と言って、大聖人様のみ教えどうりに従う我が日蓮正宗の信徒のみが、若さを共に保ち、若い頃と何不自由なく変わらずに、寿命を更に増して頂いてゆけるのです。そういう有難いみ教えが、日蓮正宗の力ある教えなのです。」と仰る講頭さんの背中は、何か後光が差すような気高さと気品とがあった。

 今年の二月八日の私達親子の勧誡式の日に話が戻るが、その日は、講頭さんが、是非とも五座三座を覚えた方が良い、と仰り、ご住職様が、今まで学会でもやっていたようだし、今日の読経の様子を見ても、おかしくはなく、大丈夫ではないかと仰り、私も、以前、学会時代には、五座三座の御観念文が改訂されて今は方便自我偈の一座となり、私にまでは決定した事実が周知徹底されず解らず、聖教新聞も取っておらず、何年も遅れて、乗り遅れて五座を止めて一座にしたと言った。一応の問題はないものと判断を受け、その日は散会となった。皆口々に、良かったねとか、頑張ってとか、大丈夫とか言って他にも色々と心を砕かれて助言などして頂き、非常に励まして頂き、その並々ならぬ有難い御厚意にこちらが平身低頭して恐れ入るほど、感謝に堪えませんでした。

 その日の午後、前の日の事など嘘のように、朝五座を家でして、こうしてお寺で二回(母は一回)、うちでももう一回、寿量品長行を含む勤行をやって、もういいかなと魔の囁きがささやくが、いけないいけない、今日からは日蓮正宗信徒として、大事に勤行を執り行い守って行かなければいけない。今日から又、広宣流布、折伏共に大事であり、そのご飯のようなエネルギー源の大事が、勤行唱題なんだと自明の理であると悟り、その日その時夕べの三座をきちんとちゃんと実行実践してみた。

 すると、生まれて初めて自分で題目のお経を唱えて実践しだした、1998年平成10年の8月に1週間以上も雨が降り続き、福島県栃木県で起きた大雨洪水による災害水害を機縁として自身の祈りの生活が、あの時あそこから始まった、心篤く水の如くの信心をしていた日々を思い出していた。あの頃は、最初は題目を数遍唱えていたがそれに飽き足らず、次第にお経を覚え、日蓮正宗の正真のお経本を使って、始まった信仰生活であった。あの頃は覚えたての5座3座は何か物珍しく非常に興味深く面白くって、大変楽しくお祈りを、お経をお題目を毎日上げていた。信仰も乗りに乗って楽しんでいる所があった。

 しかし、創価学会の文化会館に行って、学会版の経本を買ってからというもの、陳腐な観念文がやる気を失せさせ、勤行が何かと疎かとなり、ガッカリしたのを覚えている。日蓮正宗のお経本の御観念文が本当に立派で気品があり格調高く、正に伝統宗教のそれであり、日蓮正宗の方が本当はいいのは判っていた。経本一つとってみても判断、断定できた。

 だのに、疑問を持っててもそれをどこへも吐き出せずに我慢偏執する自分がいた。「自分は学会でいいや。何を今更。」と若いのに、諦め気分満載であり、惰弱な生命力であった。創価に何の恩がある訳でもない。あるのは只、絶対服従のマインドコントロール・洗脳の類。当時はうちでも盛んに聖教新聞・大白蓮華等を何か月何年もとり、自分も頭破作七分の悪影響を受けつつあった時代。苦しめば苦しむ程、ドツボにはまり、毒を時には周囲に吐き、愚痴を聞いてもらえる内はいいが、その内に誰もがそんな自分を見て聴いてからは去って行くのは自明の理なので、一切他人にはおくびにも出さず、黙って我慢していた。

 そんな日々を乗り越え、くぐりぬけて来た自分には、今は同志となった寿海寺の法華講の講衆の皆様の私への励ましが、万感胸を打って迫って来る。同じ宗教でも創価学会なぞには、これ程の励まし、ご助言、ご指導を賜った事などは全くなく、誠に有難く感謝の念に堪えない。金輪際、自身の誤れる宗教遍歴の、創価やキリスト教(プロテスタント・カトリック問わず)、東京の母方のおばあちゃんの先祖の信仰、浄土真宗。同じくおじいちゃんの先祖の信仰、真言宗。福島県本宮市の父方は(おそらく)神道の、邪教にまみれて汚染された過去現在の漫漫の謗法罪障の現罰がなるべく出ないように消滅するように、転重軽受の法門の日蓮正宗のお教えに沿った正しい信仰で自身の誤り過ちを謗法厳戒の元に励んで勇んで仏道修行して六根清浄を願い、祈り続ける他がない事を時の鐘が知らせる。

 月に一回、毎月第二日曜日の御講(御報恩御講)の日ともなれば、正宗信徒の誰もが参詣参拝が推奨されている為に必ず参詣し、高らかに厳かに勇壮果敢に豪壮に、日蓮正宗寺院各末寺では、読経唱題の際の砌(みぎり)に、胸にジンと打つような、雄々しくも激しい法華太鼓が鳴り響く。そうしてそこでは私達は日頃の喧騒を忘れ、ご住職様のお話、説法にじっと耳を傾ける。

 私はこの日の為に日蓮正宗㏍大日蓮出版発行の「日蓮大聖人御書 大石寺」という正宗では御金言と仰がれる大聖人様のお著しになった御著述の書物を私も、私以外の多くの方々もお寺に持参して大いに御書の勉学に励んでいる。

 アマゾン ジャパン(Amazon Japan)のホームページの本の欄の日蓮大聖人 「御書」で調べると、創価学会版御書(創価の本は「御書全集」というタイトルなので一発でわかる)じゃなくて、黒い表紙の、一応、阿部日顕上人猊下様が編集、監督、監修なされたので、アマゾンの表記では日顕猊下様が著者にはなっているが、実際は鎌倉時代の日蓮大聖人と後ろの数十ページは日興上人の御著作である。

 種明かしをすれば、そこで私は「福島のあまっこ、wainai123753」と言うペンネームでカスタマー(お客様)レビューを書いていて、「御書」で調べると今年二〇一七年平成二十九年三月終わりに私は御書の五つ星の点数を付けて実際に自分の過去現在の信心、創価学会を辞めて日蓮正宗に鞍替え、宗旨替えを致した経緯を縷々述べているので時間があればそちらも参考にして欲しい。

 以上、長々と自身の日蓮正宗、乃至(ないし)日蓮大聖人様、乃至、大御本尊様への心懐恋慕・渇仰於仏(しんねれんぼ・かつごうおぶつ)して、御祈りの重要性をここに説いてきたが、時間を大幅に過ぎてしまった。読者諸氏の、ここまでお付き合い下さり、拝読下さった方には、心より敬服し感謝申し上げます。誠にありがとうございました。恐々謹言。