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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

もう、三方損の話はしない!

2023年06月30日 14時55分09秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 今日、既に前回、書いた記事も、いちおう、自分の心の動きの記録として自分には有用なので、取ってはおくが、余り、これはハッキリ言って、愚痴・蒙昧(もうまい)に過ぎない。
 これら記事は、自分にも、言って聞かせた周りの人にも、その言われた本人にも、結局、皆が損する、三方損の関係性であり、皆が皆、無駄な言説である事に、今になり、初めてやっと気づいた。
 もう、これは、仏教の、三毒の、貪瞋痴(とんじんち)の、いずれもの、むさぼり、いかり、おろか、の三つの毒に、見事ハマり、当てはまる程の、仏法上の、大罪である。
 人に言うにも、良い事だけ、人が聞いて、気分を害しない、耳心地の良い、爽やかな言葉だけを人に告げる。悪い事は、自身の胸の中に納め、絶対に口外しない。それ位に、徹底しないと、これは、人にも嫌われ、自身も、気が滅入るだけだ。
 この、この世の成り立ち、成り行き、構成が、段々と、少し、判って来た、私がいる。この世での、身の処し方、過ごし方、安楽な結末へと導き至る道筋が、何とはなしに、判って来た、私、かな。
 私は、人生をあやまたずに、間違えたとしても過ちを改めるにはばからずに、間違いを出来るだけ少なくし、人とは、仲良く、「和」を重んじ、「慈悲」を率直に愚直に素直に実行実践したい。
 それには、先程も言った、愚痴の三方損、仏教の貪瞋痴の三毒の解消を図る。それら悪心にさらりとして、決して捉われない、本当の意味の自由人として、私は歩んでゆきたい。
以上。よしなに。wainai

私らの折伏主は、そもそも、私ら自身

2023年06月30日 12時43分12秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私はまたもや、高齢女性の、G元講頭と揉めて、今は、絶縁状態である。
 この人には、ひ孫がいて、今は、絶賛、その、ひ孫の折伏に熱を入れ、毎日、入信できるよう、ひたすら、拝んでいる。
 しかし、このGさんにしろ、一般的に言えるのは、それらの方々は、折伏するのは、確かに上手い。見事に、入信まで導ける。
 しかし、それが、その後の「育成」ともなると、いばらの道であり、誰も背負いたくないらしく、ほったらかし、育成拒否、育成拒絶の様な、有り様だ。
 私は、2017年平成二十九年二月八日、このお寺、菩提寺の、郡山市日蓮正宗無量山寿海寺に、単身で乗り込み、駆け込み寺よろしく、実際に、自分の判断で、入信をその場で直に訴え、自ら決断し、勧誡式を受けて、受理された。
 その時の、入信用紙には、私は、折伏主(親)は空欄で提出した。
 これを、この時、御住職様は、当時の、G講頭の名前を空欄に書いた。母もこの日の私の後にすぐに勧誡式を受けたが、私の他にも、この母にまで、その手柄を、G講頭は手中にした。
 私にとって、今となれば、誰が折伏主でも構わないが、しかし、ケジメだけはつけたいとは思う。それまでに、決して、この、Gという人になど、一度も会った事など、一面識も無かった事共を。
 その場限りの、世話をした積りで、G元講頭はいるんだろうが、私は、もう、この人からは、離れようと思う。
 創価教育学会時代、牧口常三郎氏、戸田城聖氏、両名は、三谷素啓氏に影響を受け折伏を受けたが、その後、その元を離れて行った。折伏主ではあったが、その影響下からは、立ち去っている。
 こういう事は、いろんな場面で有り得る。私は、このケースよりもひどく、全く、G氏には、G氏からは、折伏の「しゃ」の字も受けてはいない。承ってはいないのだ。
 それに、G氏は、毎回、お寺に、今までにも、沢山、折伏した人々を連れて来たとしても、誰一人と言って、今現在も、未だに、折伏された側で、お寺に残って来ている人など、一名も、一人たりとも、いないのが、全てを物語る。 
 私くらいだろう、この中で、居残るのに成功した身分で居たのは。皆が皆、実体がない、仮に籍だけ置く、幽霊信徒信者ばかりなのだ。
 そんな、「お為ごかし」の、甘言に騙されてもいられないだろう。こちらが、バカを見る羽目になる。
 それだけ、折伏した人々が、ことごとく、離反してゆくのには、何か、深い理由が必ずある筈なのだ。
 とにかく、私も母も、形式上は、折伏したのは、G氏という事になっているのかも知れないが、これは、とんでもない言い草である。
 私は、それから母は、自分の意志で、このお寺、日蓮正宗無量山寿海寺に、帰依、帰伏、入信した。これには、私個人なりの、現状打破への、深い深い動機、力強い意思、誰も知り得ない、悩み苦しみ、原動力があった。
 だから、それを踏みにじる、そんな、権威権力には、断固戦い、私ら親子は負けない。
 折伏主と言ったって、「仮」に過ぎない。それが一番分かっているのが、この、G元講頭に他ならない。
 私は、断固戦う。精神の消耗戦になろうとも。けれども、一番良いのは、無視だ、とも判っている。
 だから、こちらからは、敢えて、手は出さない。ただ見守る。それだけだ。一傍観者として、振舞うのみだ。
 この、私の折伏主とは、という、難問を突き付けたのは、その、入信用紙に、「折伏者」の一空欄があったが為であるが、これは形式上に過ぎない。
 私は、これからは、自由人として、折伏主、などに頼らずこだわらずに、生きさせて頂く。フリーダム、自由。なんという、軽快で、美しく楽しい言葉か。
 だから、もう、あれら、人には、私は頼らない。今までが、全てが、異常だったのだ。
 自由に生きられる。素晴らしい体験だ。自由が、希望の明日が、待っているのだ。そう思うだけでウキウキする。この事を、祝して、自分の肩の荷を少しは降ろしたい。もう、講中を、あの、うらぶれた、黄昏世代の、言うがままには、絶対に、させない。容赦はしない。覚悟せよ!!

※編集後記 
 ただし、思い違いは決して致しません。それは、私の師匠、師となる先生は、菩提寺の、御住職様、お一人であられる事を、ここに明言し、その膝下(しっか)で、ひざまずき、お慕い申し上げ、これからも御仕えし申し上げ参る所存である事共を、ここにひたすら、自ら挺身して、御誓い申し上げます。
 わたくしなりに、私の命を賭けてでも、お寺、御住職様、総本山富士大石寺の御法主上人猊下様、ひいては、宗内の全御僧侶方をもあまねく御守りし、御守護申し上げる所存でございます。

※編集後記第二
 それでも、もう、Gさん、元講頭さんを、今では、恨みはしてはいない。私ともう一度、私がGさんから許されて、再出発、関係性を取り結べるものならば、私はそれを、渾身を込めて、その為に東奔西走、尽力したい。許されなくても、何も悲しまずに、そのままにしておく。こちらからは、強制はしない。それで、何も不自由はない。フレキシブル、柔軟性を私は身につけたい。
 とにかく、信用・信頼を一度失った、否、二度までも失った私は、これはいばらの道であろう。それらに果敢に、再度、友好、友情を結べるまで持ってゆけるように。それに、その為に、日頃からの、お題目が、効き目、助け、功徳というものがあるのだと思う。
 とにかく、焦らずに、妙法が指し示すままに、強い将棋棋士が、一手を、考え考え、指してゆくように、怖れずに、雄々しく生きてゆきたい。

以上。よしなに。wainai

複音ハーモニカを中心に、ハーモニカの説明

2023年06月30日 07時17分01秒 | 音楽楽器・演奏・歌・楽典楽譜・ハーモニカ・電子ピアノキーボード
複音ハーモニカを中心に、ハーモニカの説明 複音ハーモニカを中心に、テンホールズ(十穴ハーモニカ、ブルースハープ)、クロマチックハーモニカ、の説明。複音ハーモニカによる、毎度おなじみの、「君が代」演奏。複音ハーモニカについて、熱く語る。以上。よしなに。wainai


私達、母子(おやこ)は、元々をたどれば、西国出身者

2023年06月28日 05時01分39秒 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 何度も言ってるが、私の母方の祖父は、鹿児島県は奄美大島出身である。
 母もその血筋を受け継ぐ。当然、私も、同然である。
 祖母は、江戸生まれ、東京出身であった。
 母は常々、私は、それから、あんたも(私の事を指す)西の方から来た者なんだよ、と言い聞かせていた。
 だから、母は、東京生まれとはいえ、関西、京都、奈良、大阪の地理、歴史、文化、にも、造詣深く、関心を示した。
 私が、関西の、大阪の人は特に、「パン」を食べる時、東京の人は、意外とけち臭く、八枚切りのパンを好むが、大阪人は、これが不思議と、六枚切り、四枚切りなどと、パン一枚の話だが、分厚いパン、全然ケチじゃない、大盤振る舞いなのを、ラジオだか、テレビで、それら情報を仕入れて、母に話すと、母は、私も、どっちかというと、大阪派だわ、といって、大阪、関西の肩を持った。
 とにかく、母は、けち臭いのが大嫌いである。うちの父は、父の父、私の祖父が、一代で、巨万の富、というと大げさだが、地元でも、大地主になったのも、その祖父は、凄いケチで有名であり、中々掴んだ金を、離さない。それを、その祖父が、つまり父の父が早くに亡くなった時、日本国では、戦後、民法が変わり、今までは長男が遺産の全ての相続を総取り、独り占めだったのが、父の頃になると、兄弟で共同で、均等分割相続制度に変わってしまった。
 父は、長男だったが、腹違いの弟や妹たちと、何分の一かの、財産を父の父からもらった。
 これが、父は面白くなかったようだ。たった、数年で、自分の取り分が、戦後GHQにより、世の趨勢が変わってしまったのだから。
 だから、父は、早速、その財産を、どうやって切り崩したのか、あっという間に、使い果たしてしまった。ケチでは父は決してなかった。
 その、祖父、父の父は、凄いケチだったが、その傾向を強く持ったのが、父の腹違いの弟。これは、やはり、私の祖父の遺伝を強く受けたみたいで、未だに、その父の地元の、東北地方福島県本宮市に行くと、その弟の、家屋敷の構え方、田畑が、凄く豪勢で、往時を偲ぶ程、金持ちなんだなあ、と、こちらは、今まで、思い続けた。
 そんな我が家の父の姿を見て、私などは、バカなことやったなあ、これは、母もおんなじだったが、その父の、財産の使いっぷりにも、母なりに、この人を支えなければ、と、思い致したようだった。
 母も、母で、母は、その、昭和の頃、地道に、女一人で稼いで働いて、一軒家を東京町田市に於いてささやかながら、個人で親の応援も一切無しで、構えられる身分にまでなる。だから、父が、行商で、母の家に初めて行くと、その、母の母、詰まり、おばあちゃんが、私の父を大層気に入り、母の写真などを、母に無断で、父にあげてしまう。それからは、御察しの通り、父と母との出逢いと成り、私が誕生する。
 とにかく、母は、ケチな人が大嫌い。私は、父の父、祖父の影響を受けているらしく、母から見ると、どうしても、ケチに見えるらしい。それを、よく、母には、「あんた、ケチだねえ」と指摘されるのが、常であった。
 それ位、うちの価値観では、ケチは御法度なのである。お金も、常日頃から、堅実に、貯めて置く事は奨励されたが、いざ、入り用ならば、パパッと、後先考えずに、大胆に、使い果たす事が、我が家の美徳である。
 だから、大阪の人、京都・奈良の関西の人達が、普段はケチなんだが、いざとなったら、バーッと、気前よく、お金を使う生き方が、母をも共鳴、同意、同感、賛意をいだかせた。
 そうして、けれども、母は、どちらかというと、普段の実生活上も、ケチは戒めていた。
 また、東京、江戸っ子は、お金に対しては、宵越しの金は持たない、とはいうものの、それは見栄っ張りであり、わざと、無理している所が、自分に負荷をかけてまで、虚栄心にまみれているのが、堅実ではなく、母にとり、母も東京出身者ではあったが、その一点だけは、嫌いだったようだ。
 母は、私も、私らは、西から来た、西国出身者と同じなんだよ、と、常々言って、私に語って聞かせていたのを、今も思い出す。

以上。よしなに。wainai

養老孟司著「ヒトの壁」を読了

2023年06月27日 17時08分09秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 
 養老孟司先生著作の「ヒトの壁」を本日、読み終わった。勿論、電子書籍である。
 ただ、鎌倉市内にある、自宅を舞台に、「コロナ禍」で世間は騒いでいるが、それを横目に見て、文明論を語ったり、自由に論を進めている。
 最後は、愛猫「まる」の、生と死を描き、最後はその愛猫が亡くなった所で、大体の、この本の結論、というのか、幕を閉じる。
 あとがきを書いている、令和三年2021年十一月には、前に出版した、「バカの壁」が、四百五十万部を突破したと、述べる。
 しかし、謙虚なもので、それは、ある先輩に、「あんたの書く事位はだれでも考えているんだよ。ただ表現能力がないだけだ」と言われた、と書き、そうかも知れないな、と著者、養老先生は仰る。
 そこまで、考えが及ぶ、先生の思考法に、皆の注目が集まるのだ。学者は、「新しい発見・思考法」を求められるのが常だが、養老先生は、特段、新しい考えを提示しようとは思わなかったと言う。
 ただ、こうした学者の考え方、自然科学の考えと、世間の考え方の、「ズレ」を、常日頃から探求しつつ、そのズレが、考える動機となっていたのだと。
 明治以来、日本の欧米化に伴い、日本の独自の、古い伝統的価値を持つ考え方と、欧米の新規の考え方との、正に、衝突が、日本の各世代間にも起こっていた。その、欧米流の考え方がダメだとか、間違っているとは、先生は、正面からは論じた事は無いと。それに対する回答も無いと言う。それで良い回答があるのなら、本を書く動機にはならない。要はどう、折り合いをつけるのか。
 無限に思考が、養老先生からは、発せられ、続いてゆく。
 そこへ、二十年近く飼っていた、猫の「まる」が、段々衰弱してゆき、やがて亡くなる。その、断片が、最後のこの本の掉尾を飾る。
 もう、猫も、飼いたいが、自分自身の寿命も考えて、飼いたくはないと言う。その辺の事情は、養老先生には家族もいるが、私は一人暮らしであり、非常に身につまされた。
 やはり、猫を飼えると言うのは、贅沢な趣味だと、私自身も、納得尽くで、そう思う。しかし、自分の周りに、何一つ、何一匹、自然界の、動物がいないのが、私は、私のうちでは、父母が家にいた頃は、ペット屋さんをやっていた関係から、動物無しの生活は、ただ、寂しい。それだけだ。
 動物に恋慕してしまった、今回の、養老先生の「ヒトの壁」という本の、読後感であった。

以上。よしなに。wainai

もう栄養ドリンク剤は辞める!

2023年06月27日 11時31分21秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 私は、以前、ここ数年間というもの、栄養ドリンク剤を常用して来た。
 それで、昨日、虫メガネで、そのドリンク剤の、成分表を見てみた。
 すると、添加物として、アルコール、とあった。
 私は、アルコールは、極めて、体には合わず、受け付けず、それらが微量に含まれていたら、恐れを為す程、忌み嫌っている。
 私は、昨日の夜、寝床に就いた時、や、今朝、起きた時に、頭が痛い気がした。
 これは、ハッキリと、連日、毎日毎朝飲み続けた、栄養ドリンク剤のせいだ、と思い致した。
 栄養ドリンク剤には、その他、余計な、カフェインや、糖分、砂糖の類が、わんさか、多量に含まれている。
 それらが、一時的に、効いている、効き目があるんだと、錯覚していたんだ、と思い致した。
 だから、まだ、十本以上残っているので、今度は、二日置き、位にして飲んで、もう、二度と買って来ないようにしようと思う。酒やたばこの類は、私は優等生を気取っている訳じゃなくて、本当に、自分の体には全く合わず、受け付けないのだ。飲んでいる薬との相性も、絶対良くない。
 だから、これら、ドリンク剤は、もう辞めにする。買ってくる手間ひま。あれ程かさばり、重たい。ガラスびん詰だから、猶更だ。
 栄養ドリンク剤よ、さらば、じゃ!
以上。よしなに。wainai

アンチ・反・断捨離。捨てるのは諸悪の根源。想い出まで捨てろ、というのか?!

2023年06月26日 13時13分39秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 重ね重ね、長文、心苦しく、誠に失礼致します。 

 私の家で、もう数年、五~七年位前に、福祉関係者が五、六、七名集まり、我が家の、床板を直す前の、前段階として、うちにある、余計な物を、選別して、処分する事になった。
 私達、母子にとっては、想い出が残る、本当に大切な物でも、その人達は、まるで、他人事のように、全て、ゴミだ、と言わんばかりに、本当に選り分けているのか、とこちらが疑問に思う程、非常に雑に、それら、我が家のモノたちが、どうでも良い物のように、扱われ、結局棄てられた。
 私が、それら、五、六、七人の人達が、無造作に捨てているので、そんなに雑に捨てないで、というと、福祉まるごと相談の女性の人が、こういうのは、思い切り、が大切で、情など要らない、バッサバッサと、打ち捨てて行った方がいいんだ、と大声でどやすと、皆、黙々と、その言葉に、従うのみであった。
 私一人は、これは皆、母との、想い出がいっぱい詰まった、宝物の様な、モノたちなので、一人、戦慄を覚えながら、皆を見守るしかなかった。
 そうして、その日の午前中に、それらは終わり、私は、終わりを告げて、皆、家路や職場にそれぞれ帰って行った。
 その後、私は、それらゴミ袋の一つから、丹念に調べ上げてゆくと、何と、我が家の銀行の通帳やら、カード類やら、本、雑誌、他、我が家には重要だと思えるものが多数、その袋の中には、大事な物が多量に含まれていた。その事を、福祉の相談員や、その、総元締めの、福祉まるごと相談の人にも電話にて注意した。
 そうすると、福祉まるごと相談の人は、男の人が出て、申し訳ない、と謝り、福祉相談員は、これまた、謝ったが、そんなに、今日一日で、あれだけの品物を、捨てたのだから、また、○○さん(私)は、無理しないで、そんな、ゴミ漁りは、程々にして、休んだ方がいいですよ、と言った。
 しかし、探せば探す程、今日、その日来た人たちが捨てた我が家の物品が、全て、我が家にとり、貴重品の類ばかりである事に気付き、そんな事を聞いている場合ではない事が、如実の内に判った。 
 しかし、私も、寄る年波には勝てずに、そして、明日がゴミ捨ての日だと知り、その袋、かなりの数を、ろくに点検もしないで、諦めてまるごと捨ててしまった。
 その、ゴミを全て捨てた事を、その時の相談員に言うと「よかったですね」の一言で済まされた。
 後年になり、否、その時にもとっくに気付いてはいたが、母の、大事にしていた、東京浜松町で、母が、自分が仕事をし始めた、初めてのお給料で記念に買った、女性用の、セイコーだかシチズンの、小振りの高価だった腕時計や、母が、継母が支配する、私の祖父、母にとり実家の実の父の家から母の母、詰まり、私のおばあちゃんの家の看護師事務所に家出して逃げ出す時に、その実家から辛うじて持ち出して来た、「そろばん」と「印鑑」も、それら、母にとっては、一番の宝物が、どこをどう探しても、我が家からは全然見つからない。
 絶対に、あの時、母のそれら宝物たちは、皆、ごっそりと、ゴミとして、処分されたのだと思う。
 宗祖日蓮大聖人様の御金言に、たとえ、ゴミの様な袋にまとわれ、おおわれていたとしても、中身が大事であり、中身が、こがね(金)の場合もある、と。これは、まわりの入れ物が尊いのではなく、あくまで中身、こがね、とは、この場合、御本尊様を指す。そういう事を、大聖人様は仰っている。
 あの、我が家に来た福祉関係者達は、その時その場の判断ミスで、我が家の財宝、歴史とも言うべき、我が家にとって、否、母の、大事な宝物にまで手を掛け付けて、今時の、「断捨離」などという、いつそんなのは廃れるのかわからない、そんないっときの他人受けしている、聞こえが良いブームに乗っかって、全てを灰燼(かいじん)に帰した、「宝」を宝と見抜けなかった、張本人達であった。そんな、福祉なんて、いい加減な人間達に、私も、全てを委ねて、任せてしまった、私にも無論、責任がある。
 その後、その件で、針生が丘病院の、老人病棟に(当時)入院していた母に、非常に申し訳なく、全て、母の大事にしているものが、どこを探しても出て来ない、見当たらないんだ、と愚痴をこぼすと、母は、母なりに受け止めて、私がショックを出来るだけ受けないように「いいんだよ、いいんだよ」と老いた母は繰り返し言うのみであり、それ以降、この、私ら、親子、母子は、その場に於いて悲嘆に暮れて黙りこくっているばかりだった。
 この怒りを、どこに差し向けたら良いのか、さっぱりわからない。私の母の宝物たちが、家から忽然と姿を消してから、もう、五、六、七年になる。悔やんでも悔やみきれない。

以上。よしなに。wainai

※編集後記 
 あと、これは、ここ数か年間の事だが、我が家の、母の鏡台の上には、母が使っていた、おサイフがあった。
 これは、私は、千円札一、二枚と、硬貨が、五百円か百円玉かが、何枚か入っているサイフであった。
 これが、この数か年の間に、これも、忽然と、消えた。
 それも、誰かが故意に盗み出さない限り、無くなりっこないのだ。
 こちらとしては、大体、容易に、怪しそうな人、団体、個人にしろ法人にしろ、関係者は、うすうす、察して、判ろうというものだ。
 こちらは、そうやって、個人の、たった数千円の、単位の、モノまで、それら、福祉関係者の餌食にされるんだとの、幻滅感ったらない。信じていたのに。
 だから、もう、本当ならば、我が家に、赤の他人は、本当本来ならば、入れたくはないのが、正直な所なのだ。
 それを、今まで通り、うちの敷居を跨がせていた、泥棒を我が家に平気で上げていた、私が一番悪い。 
 これには、もう亡くなってしまった父親、まだ生きている母に、何と申し上げて良いのか、親不孝な息子で、誠に申し訳有りませんでした、私の管理が行き届かず、悪かったのです、という他はない。
 しかし、それとて、避けようがない事ではないか。元々、盗む方が、盗まれる方より、百倍以上、悪い。
 兎に角、ズルい人間、泥棒については、そういう事が、有り得る、在った事実だけは、こちらとしても、受け止めねばならない。受け止めている最中だ。

 福祉だからって、信用はならないのだ。どんなに甘い言葉で、個人を大事にしているように装われたとしても。それは、飾り立てた、甘言、諂曲(てんごく、こびへつらい)に過ぎないのだ。その一点を、正に見破り、見詰め直す必要がある。

 身の回りの、福祉を疑え、と。

以上。

柴田淳 - あなたの手(Short ver.)

2023年06月26日 06時43分38秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
柴田淳 - あなたの手(Short ver.) 柴田淳さんの、アルバム「あなたと見た夢 君のいない朝」所収の、「あなたの手」のショートバージョン。
 しばじゅんの、フルで掛けたいけれども、これしかなかった。しばじゅんさんは、このアルバムを作っている最中に、大失恋をした。その経過が、このアルバムに色濃く反映されている。
 柴田淳さんの作品の中でも一、二を争う程、私自身としても、大好きな曲。

以上。よしなに。wainai 

変わるもの、変わらないもの、変えようがないもの

2023年06月24日 16時05分52秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 長文、失礼致します。 

 私は、自身の性格を変えよう、変えよう、とばかり躍起になっている所が、近々、見受けられた。
 しかし、これは、不可能だと、思い至った。
 私の主治医の、女医先生は、○○さん(私)のキャラ(性格・人格)、私は好きなんだけどな、と仰った。
 或る、我がお寺の近くに住む、高齢女性で、若く見えて、おかっぱで髪も黒々とした方に、私は本当は○○さん(私の事)と一緒のバスが良かった(その日はバス二台で総本山へと向かった)○○さんと隣の席になりたかった、とまで言って下さった方まで存在する。
 私は、自己の、性格・人格改造に取り組み、何とか、人に好かれよう、人様の誤解を受けずに、人様から、万人受けするような、立派な人になりたい、そう心掛けて生きて来た。
 しかし、それは、無茶な、土台、無理である事共が、如実に、自明の理として、想像の域から、確信へと変わって行った。
 人の性格は変わらない。短所を詰めて、長所を伸ばす事位なら、いとも簡単に出来得る。しかし、この、性格・人格というものは、変え得ることは出来兼ねる、出来得ない、全くの無理難題だと、思い知り、思い至った。
 これまで、私が辿って来た、人生行路は、無理が祟り、自身を自罰主義で、自分を罰して、若しかしたら、その分、人様へも、自分以上に、他人様へもかなり厳しい目で、他をも律して、見て来たのかも知れない。
 これを、こんな悲しい性(さが)、悲劇は、今日を最後に、止めたいと思う。人生、残り少なくて、今、性格・人格改造が、無理・難題であり、非常に困難、困苦を極める事が判っただけでも、良かったと思う。
 これからは、聖徳太子の、十七条憲法にもある、「和を以て貴しとなす」の教えの下、同調せず、協調して、協調路線で、人当たりがよいと、言われるように、人様にも、慈悲を持って、決して冷たく当たらず、自分にも、なるべく優しく、接していけたら、と思っている。
 今までの、性格・人格まで変え得る、と思って来たのは、人間に対する、不遜、否定、慢心、増上慢、増長した心が為した、悪い心がそう為させていたのだと、思い至った。
 自分の良い所は伸ばして、悪い所は縮める、それは堅持する。しかし、性格・人格改造など、出来もしない事を、理想に謳ったって、損をして、自分が性格まで破壊破綻させてされて、自分が苦しむだけである。土台、無理を承知で、反省の名の下に、無理を自身に課していたのだ。
 だから、長所短所の問題と、自身の性格・人格の問題は切り離して、次元が全く違う問題として、自分に厳しく、人に優しく、をこれまで通り堅持するが、しかし、自分にすこしは、休める時、安楽の時、優しさを持ち寄る時すらも、持って来ても良い気がする。
 以前、我が家に来ていた看護士さんで、○○さん(私)の様な、自罰主義で、考えてばかりの時間が、一日中続いたんでは、これは、心の休まる時など、何にもない。だから、なーんにも考えずに、自分の、空白の、真っ白な時間を持っても良いのではないのか?一日中、疲れませんか?考えてばかりや、自分を責めてばかりで、自分が可哀想じゃないですか?と訊かれた事があった。
 その通り。私は、自身を律している積りが、自罰主義、厳罰主義。己に鞭を当て過ぎて、体も心も休まらず、これまで、自らを、ボロボロにして捨て置いて来たのだ。これが、心身共に、良い結果を生む筈など無かったのだ。
 時には、外を覗いて、自然の様子を伺い知り、見たりする。気分を代えたり、世の中の事に触れて、大自然とも会話をして、その間は、考えなど及ばずに、自由闊達な心で、子供の頃のように純真・純粋・無心になって、散歩してみる、散歩に出かける、とか。色々、自己の生活改善プログラムというか、やり方がある筈なのだ。それが、自分の、心身共に、守り得る、肥やし、栄養ともなり得るのだ。
 季節の移り変わりも判らないで、ただ、時間だけ過ぎて、オマケに、自分を責めてばかりでは、気が滅入り、自暴自棄になったとしても、おかしくはない。今は心が平静に保たれていたとしても、それではいつかは自爆、暴走する。
 変わるもの、変わらないもの、変えようがないもの。今、自分にとって、この三点の、心の整理が必要なのかも知れない。
 
 今、改めて、八方美人では、ダメなのかも知れない。私を好きになってくれる、私を素のままで、好んで下さる人がいるならば、素直に、それに従い、去る者は追わずであり、元々、私とは、合わない人だったのだ、と、諦めて、悲しいけれど、こうやって、このまま、これからの人生を生きてゆく他はない。

 この私だって、死力を尽くして、それらトラブった関係者達と、関係改善を図り、試みた結果が、今の偽らざる、私なのであるから。もう、つらいよ。悲しくて、やり切れないよ。心が、壊れて、ガラスのように、粉々になって砕けてしまいそうだよ。心が、魂が、痛いよ。

 もう、悲しい思いは、決して、私自身は、したくは決してない。

以上。よしなに。wainai

※編集後記、この記事への反論文
 このリンクの、文章群を、私めは、最近、今年の八月下旬現在書きました。この、六月時点とは、打って変わって、自身の心境の変化を、どうか一読し、私が如何にして、こう、考え方が変わったのかを、とくとご覧になり、お読み頂きたい、と思います。リンクをたどって、この、青字をクリックすれば、今の時点で、比較的最新記事へとたどり着きます。性格は、変わる、変わり得る、との、自覚に至った経緯、その、今までの、意固地だった自分への反省が載って居ります。
以上。


齋藤孝著「心が強い人はみな、『支える言葉』をもっている」を読了する(電子書籍)

2023年06月24日 10時19分26秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 本日、「心が強い人はみな、『支える言葉』を持っている」齋藤孝著を読み終わった。
 一か月三十日分の、一話完結式であり、これを私は、一日に一話読む所を、一日に二話、三話、読まない日は全く読まない、等したが、何とか今日、読み終えた。
 この齋藤先生は、どこからでも、文書を引っ張り出してきて、大盤振る舞いであり、偉人の励ます言葉を元に、自論を展開する。
 中でも、私は、徳川家康の「重荷を負いて遠き道を行くが如し いそぐべからず」や、西郷隆盛の「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引き受けします」、藤子・F・不二雄の「いじわるされるたびに しんせつにしてやったらどうだろう」、坂本龍馬の「世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」が心に残った。
 皆、偉くなる人は、それなりに、言う事が違う、皆、それに相応しい言葉を残しているんだ、と思い致し、考えさせられた。
 言葉は、生きてゆくのに、かなりの武器にもなるし、人を傷つける事もあるが、励ましの、これら偉人たちの言葉には、こちらも大いに励まされた。
 私も、常日頃から、こういった言葉を、日常生活で編み出して、使って行って、当たり前のように、極説中の極説を、さらりと、しかし、含蓄ある言葉で、端的に言えたらそれは凄い事だろうなあ、と思った。
 とにかく、混迷する現代にも、この世に名言あり、を実感致した本。これも電子書籍であった。

以上。よしなに。wainai

創価学会よ、人をバカにするな、人を見くびるな!

2023年06月21日 07時54分33秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
 私は、去年、おととしから、母の仕事仲間だった、今年で八十をとっくに越した、高齢女性を折伏していた。
 それで、私が去年、(任意)入院した、と私から正直に言うと、それ以来、彼女の方から、私を憐れみ、私に、何と、私が日蓮正宗の書物や新聞を手渡そうとすると、自身の、創価の出版物、新聞等を、後ろ手に忍ばせて、あなたも可哀想に、と実際に言って、私にそれら出版物を、渡そうという気苦労を、彼女、母の元同僚は、何ともしているらしいのだ。
 私は、今現在も、創価が、そうやって、「仏法対話」なる、何にもならない、むしろ害悪としかならない、ムダな悪あがきをしているのを、逆にこちらが可哀想に、何にも判っていないんだ、と判じているのに、何ら恥じる事無く、それら行動をとる、この女性も、どうかしている、と思わずにはいられなかった。
 創価が、立派に、日蓮正宗の、本物の仏法を頑なに信ずる人に「仏法対話」?私は、聞いて呆れてしまった。
 逆だろう。こちらが、飽くまで、指導をする立場であり、従うのは、創価側である筈だ。それが、この女性は、創価が主で、日蓮正宗が従、だと思って信じ込んでいる。
 アホくさくて、話にならない。相手は真面目みたいだが、私は、この家に、折伏に行くのも、気が滅入ってしまい、もう、行きたくは無くなってしまった。
 後は野となれ山と成れ。もう、この一家は、私は知らない。勝手に創価の、新興宗教ごっこをやってろ、としか言えない。
 新興宗教・創価学会。その深淵を覗くと、おぞましいまでの、気持ち悪さ、気色悪さが、私共の心持ちに深く残る。
 創価だけは、私は、イヤだ。気持ちが、気色が悪い。こちらの気分まで害して、悪くなる。あの、池田大作の、肥満体質、傲慢体質。裸の王様の如くの、まるで豚の様な醜い体型が、それら全てを物語る。
 あの団体だけは、信用が成らない。決して許されない新興宗教政治屋団体だ。
 
 問答無用で、それら団体の、勧誘は、断る。お断りする。私も、見下げられたものだ。

以上。よしなに。wainai

※編集後記 ~今日の決心、発心。
 だが、宗祖日蓮大聖人様の御金言「懲りず候」であり、創価であろうとなんであろうと、折伏の火を絶やさず燃やし、むしろ、水の信心、プラス、水に、火を混ぜた、「お湯」の信心、日亨上人様の御説の通りの、折伏弘教を、大々的に実践して、こんな程度の妨害には、決して屈せず負けずに、心は高みから俯瞰しつつ、同じ土俵には決して立たずに、むしろ、教導、教え導いてやる立場がこちら側、日蓮正宗僧俗一同である事を肝に銘じつつ、これからも、諦めないで、折伏してゆきたい。「懲りず候」!
 
以上。wainai