私はまたもや、高齢女性の、G元講頭と揉めて、今は、絶縁状態である。
この人には、ひ孫がいて、今は、絶賛、その、ひ孫の折伏に熱を入れ、毎日、入信できるよう、ひたすら、拝んでいる。
しかし、このGさんにしろ、一般的に言えるのは、それらの方々は、折伏するのは、確かに上手い。見事に、入信まで導ける。
しかし、それが、その後の「育成」ともなると、いばらの道であり、誰も背負いたくないらしく、ほったらかし、育成拒否、育成拒絶の様な、有り様だ。
私は、2017年平成二十九年二月八日、このお寺、菩提寺の、郡山市日蓮正宗無量山寿海寺に、単身で乗り込み、駆け込み寺よろしく、実際に、自分の判断で、入信をその場で直に訴え、自ら決断し、勧誡式を受けて、受理された。
その時の、入信用紙には、私は、折伏主(親)は空欄で提出した。
これを、この時、御住職様は、当時の、G講頭の名前を空欄に書いた。母もこの日の私の後にすぐに勧誡式を受けたが、私の他にも、この母にまで、その手柄を、G講頭は手中にした。
私にとって、今となれば、誰が折伏主でも構わないが、しかし、ケジメだけはつけたいとは思う。それまでに、決して、この、Gという人になど、一度も会った事など、一面識も無かった事共を。
その場限りの、世話をした積りで、G元講頭はいるんだろうが、私は、もう、この人からは、離れようと思う。
創価教育学会時代、牧口常三郎氏、戸田城聖氏、両名は、三谷素啓氏に影響を受け折伏を受けたが、その後、その元を離れて行った。折伏主ではあったが、その影響下からは、立ち去っている。
こういう事は、いろんな場面で有り得る。私は、このケースよりもひどく、全く、G氏には、G氏からは、折伏の「しゃ」の字も受けてはいない。承ってはいないのだ。
それに、G氏は、毎回、お寺に、今までにも、沢山、折伏した人々を連れて来たとしても、誰一人と言って、今現在も、未だに、折伏された側で、お寺に残って来ている人など、一名も、一人たりとも、いないのが、全てを物語る。
私くらいだろう、この中で、居残るのに成功した身分で居たのは。皆が皆、実体がない、仮に籍だけ置く、幽霊信徒信者ばかりなのだ。
そんな、「お為ごかし」の、甘言に騙されてもいられないだろう。こちらが、バカを見る羽目になる。
それだけ、折伏した人々が、ことごとく、離反してゆくのには、何か、深い理由が必ずある筈なのだ。
とにかく、私も母も、形式上は、折伏したのは、G氏という事になっているのかも知れないが、これは、とんでもない言い草である。
私は、それから母は、自分の意志で、このお寺、日蓮正宗無量山寿海寺に、帰依、帰伏、入信した。これには、私個人なりの、現状打破への、深い深い動機、力強い意思、誰も知り得ない、悩み苦しみ、原動力があった。
だから、それを踏みにじる、そんな、権威権力には、断固戦い、私ら親子は負けない。
折伏主と言ったって、「仮」に過ぎない。それが一番分かっているのが、この、G元講頭に他ならない。
私は、断固戦う。精神の消耗戦になろうとも。けれども、一番良いのは、無視だ、とも判っている。
だから、こちらからは、敢えて、手は出さない。ただ見守る。それだけだ。一傍観者として、振舞うのみだ。
この、私の折伏主とは、という、難問を突き付けたのは、その、入信用紙に、「折伏者」の一空欄があったが為であるが、これは形式上に過ぎない。
私は、これからは、自由人として、折伏主、などに頼らずこだわらずに、生きさせて頂く。フリーダム、自由。なんという、軽快で、美しく楽しい言葉か。
だから、もう、あれら、人には、私は頼らない。今までが、全てが、異常だったのだ。
自由に生きられる。素晴らしい体験だ。自由が、希望の明日が、待っているのだ。そう思うだけでウキウキする。この事を、祝して、自分の肩の荷を少しは降ろしたい。もう、講中を、あの、うらぶれた、黄昏世代の、言うがままには、絶対に、させない。容赦はしない。覚悟せよ!!
※編集後記
ただし、思い違いは決して致しません。それは、私の師匠、師となる先生は、菩提寺の、御住職様、お一人であられる事を、ここに明言し、その膝下(しっか)で、ひざまずき、お慕い申し上げ、これからも御仕えし申し上げ参る所存である事共を、ここにひたすら、自ら挺身して、御誓い申し上げます。
わたくしなりに、私の命を賭けてでも、お寺、御住職様、総本山富士大石寺の御法主上人猊下様、ひいては、宗内の全御僧侶方をもあまねく御守りし、御守護申し上げる所存でございます。
※編集後記第二
それでも、もう、Gさん、元講頭さんを、今では、恨みはしてはいない。私ともう一度、私がGさんから許されて、再出発、関係性を取り結べるものならば、私はそれを、渾身を込めて、その為に東奔西走、尽力したい。許されなくても、何も悲しまずに、そのままにしておく。こちらからは、強制はしない。それで、何も不自由はない。フレキシブル、柔軟性を私は身につけたい。
とにかく、信用・信頼を一度失った、否、二度までも失った私は、これはいばらの道であろう。それらに果敢に、再度、友好、友情を結べるまで持ってゆけるように。それに、その為に、日頃からの、お題目が、効き目、助け、功徳というものがあるのだと思う。
とにかく、焦らずに、妙法が指し示すままに、強い将棋棋士が、一手を、考え考え、指してゆくように、怖れずに、雄々しく生きてゆきたい。
以上。よしなに。wainai