syousyu-wainai123753
1分前
私の母方の祖父は、鹿児島県奄美大島出身で、郷土の名士、あの、西郷隆盛を尊崇していたので、「子孫に美田は残さず」という遺訓を頑なに守り、一切、子どもたちには財産は遺しませんでした。
祖父は、中央大学法学部を優秀な成績で卒業し、国家資格の司法試験にも合格し、弁護士資格と、警察官僚として、明治から大正昭和と駆け巡りました。
祖父の経済力からすれば、そのころの東京の土地と家くらい楽々買えたはずでしたが、生涯、貸家住まい。慎ましく、暮らしました。
しかし、私の母は三女ですが、その母、私の祖母とは仲違いして、後妻を迎えます。母にとり、地獄の日々が始まりました。継子イジメです。
継母は、自分の産んだ子には、目に入れても痛くない程溺愛する。母には無視。母は東京都立戸山高校に通うも昼ご飯も出ない。教科書代も足りない程、お小遣いを渡さない。しかし、その時でも母の成績はトップクラス。元々戸山は、東京では当時から、日比谷、西と並び称される程の、ハイクラスの進学校。全国から越境入学するために倍率も高かった。
母の話に戻すと、母は御茶ノ水女子大を目指していたし、実際、短距離で行ける立場だった。級友からは、御茶ノ水ならぬ、「お湯の水」と敬い称された。
実際には、母は、戸山高校を卒業するが、父親、詰まり私の祖父と継母との息詰まる生活に限界を感じて、当時、看護婦事務所を経営していた母の母、詰まり私の祖母、弁護士と官僚の祖父の元妻だったおばあちゃんの家に、「そろばんと実家の印鑑」を持って一目散に逃げ出した。おばあちゃんも今にして思えば、女だてらにやり手だった。離婚されても、ただじゃあ起きない。女としての生きる道、術は持っていた。
そうして、母と祖母との、二人三脚の、母子による共同生活が始まる。祖母の事務所は東京の江古田にあった。今でもあるのか、当時は日芸、日大芸術学部などもある土地であった。そこで母は誰よりも事務所で最初に起きて、木製の看護婦事務所の看板をまずは出す。それから看護婦さんたちへの食事券の切符を切ったり、事務仕事。訪問看護で、病院で付きっきりで看護婦が看護した利用料の回収に各大病院、逓信病院やら女子医大病院、慶応病院、鉄道病院、どこへでも行った。
おばあちゃんも、最後は事務所を引退して、母は事務職その他、女手一つで稼ぎ、町田に家を買う。おばあちゃん、詰まりは母の母と親孝行で一緒に暮らす為だった。
そこで福島から出稼ぎで来ていた父に見初められて、実はおばあちゃんが父に母の写真を託して、キューピッド役を演じたのだが。そこでうちの父母は結婚した。その後、私が生まれた。
結局、結論として、我が家は、祖父も祖母も、自立して当時から立派に生きて来たが、今思えば、財産らしい財産など、微塵も残さなかった。祖父は鹿児島の西郷の影響下、祖母は江戸っ子の、宵越しの金は持たない?果たして、祖母は決して贅沢などはする人でも全くなかったが、結果としても、誰に迷惑も掛けずに、消え去るように安祥としてこの世を去った。
面白いのは、この内、母と祖母とは、当時から、二代続けて日蓮正宗だった事である。これが実に母子としては傑作だ!
以上。よしなに。wainai
※編集後記
なおとも様、この長文の文章、私が大変に気に入りましたので、最近ネタ切れ気味の私のブログにも転載させて下さい。お願い致します。よしなに。
祖父は、中央大学法学部を優秀な成績で卒業し、国家資格の司法試験にも合格し、弁護士資格と、警察官僚として、明治から大正昭和と駆け巡りました。
祖父の経済力からすれば、そのころの東京の土地と家くらい楽々買えたはずでしたが、生涯、貸家住まい。慎ましく、暮らしました。
しかし、私の母は三女ですが、その母、私の祖母とは仲違いして、後妻を迎えます。母にとり、地獄の日々が始まりました。継子イジメです。
継母は、自分の産んだ子には、目に入れても痛くない程溺愛する。母には無視。母は東京都立戸山高校に通うも昼ご飯も出ない。教科書代も足りない程、お小遣いを渡さない。しかし、その時でも母の成績はトップクラス。元々戸山は、東京では当時から、日比谷、西と並び称される程の、ハイクラスの進学校。全国から越境入学するために倍率も高かった。
母の話に戻すと、母は御茶ノ水女子大を目指していたし、実際、短距離で行ける立場だった。級友からは、御茶ノ水ならぬ、「お湯の水」と敬い称された。
実際には、母は、戸山高校を卒業するが、父親、詰まり私の祖父と継母との息詰まる生活に限界を感じて、当時、看護婦事務所を経営していた母の母、詰まり私の祖母、弁護士と官僚の祖父の元妻だったおばあちゃんの家に、「そろばんと実家の印鑑」を持って一目散に逃げ出した。おばあちゃんも今にして思えば、女だてらにやり手だった。離婚されても、ただじゃあ起きない。女としての生きる道、術は持っていた。
そうして、母と祖母との、二人三脚の、母子による共同生活が始まる。祖母の事務所は東京の江古田にあった。今でもあるのか、当時は日芸、日大芸術学部などもある土地であった。そこで母は誰よりも事務所で最初に起きて、木製の看護婦事務所の看板をまずは出す。それから看護婦さんたちへの食事券の切符を切ったり、事務仕事。訪問看護で、病院で付きっきりで看護婦が看護した利用料の回収に各大病院、逓信病院やら女子医大病院、慶応病院、鉄道病院、どこへでも行った。
おばあちゃんも、最後は事務所を引退して、母は事務職その他、女手一つで稼ぎ、町田に家を買う。おばあちゃん、詰まりは母の母と親孝行で一緒に暮らす為だった。
そこで福島から出稼ぎで来ていた父に見初められて、実はおばあちゃんが父に母の写真を託して、キューピッド役を演じたのだが。そこでうちの父母は結婚した。その後、私が生まれた。
結局、結論として、我が家は、祖父も祖母も、自立して当時から立派に生きて来たが、今思えば、財産らしい財産など、微塵も残さなかった。祖父は鹿児島の西郷の影響下、祖母は江戸っ子の、宵越しの金は持たない?果たして、祖母は決して贅沢などはする人でも全くなかったが、結果としても、誰に迷惑も掛けずに、消え去るように安祥としてこの世を去った。
面白いのは、この内、母と祖母とは、当時から、二代続けて日蓮正宗だった事である。これが実に母子としては傑作だ!
以上。よしなに。wainai
※編集後記
なおとも様、この長文の文章、私が大変に気に入りましたので、最近ネタ切れ気味の私のブログにも転載させて下さい。お願い致します。よしなに。
なおともさんのブログ記事URL。gooブログ。
なおともさんの返信コメントから。
コメント一覧
なおとも
30分前
@syousyu-wainai123753 様
とても読み応えのあるコメントを頂き、本当に有り難うございました。文章の内容の一部はブログや私に頂いたコメントで存じ上げておりましたが、もっと深い物語があったのですね。土地勘があり戸山高校はよく知っていますし、前を通った事も何度もありますよ。お母様が戸山高校にお通いだったのは存じ上げていましたが、そんなドラマがあった事に驚きました。人に歴史ありですね。素晴らしいお話だと読みいりました。ご苦労も沢山されたのですね。考えられません。よく頑張られたと思い感心しました。
「子孫に美田は残さず」は本当に正解だと思いながら、揺れ動く駄目な私です。でも、本当に考えるきっかけになりました!
どうぞ、ブログにお使い下さいませ。こんなにきちんとした文章をコメントだけでは勿体ないです。お心の籠ったコメント本当に有り難うございました!
とても読み応えのあるコメントを頂き、本当に有り難うございました。文章の内容の一部はブログや私に頂いたコメントで存じ上げておりましたが、もっと深い物語があったのですね。土地勘があり戸山高校はよく知っていますし、前を通った事も何度もありますよ。お母様が戸山高校にお通いだったのは存じ上げていましたが、そんなドラマがあった事に驚きました。人に歴史ありですね。素晴らしいお話だと読みいりました。ご苦労も沢山されたのですね。考えられません。よく頑張られたと思い感心しました。
「子孫に美田は残さず」は本当に正解だと思いながら、揺れ動く駄目な私です。でも、本当に考えるきっかけになりました!
どうぞ、ブログにお使い下さいませ。こんなにきちんとした文章をコメントだけでは勿体ないです。お心の籠ったコメント本当に有り難うございました!
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