Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

「優しい日々」なおともさんのブログのコメント欄から。母の生い立ち生き様。祖父祖母達、憎っくき継母との関係性。私達の一家の物語

2024年06月26日 22時15分14秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
syousyu-wainai123753
1分前
私の母方の祖父は、鹿児島県奄美大島出身で、郷土の名士、あの、西郷隆盛を尊崇していたので、「子孫に美田は残さず」という遺訓を頑なに守り、一切、子どもたちには財産は遺しませんでした。
祖父は、中央大学法学部を優秀な成績で卒業し、国家資格の司法試験にも合格し、弁護士資格と、警察官僚として、明治から大正昭和と駆け巡りました。
祖父の経済力からすれば、そのころの東京の土地と家くらい楽々買えたはずでしたが、生涯、貸家住まい。慎ましく、暮らしました。
しかし、私の母は三女ですが、その母、私の祖母とは仲違いして、後妻を迎えます。母にとり、地獄の日々が始まりました。継子イジメです。
継母は、自分の産んだ子には、目に入れても痛くない程溺愛する。母には無視。母は東京都立戸山高校に通うも昼ご飯も出ない。教科書代も足りない程、お小遣いを渡さない。しかし、その時でも母の成績はトップクラス。元々戸山は、東京では当時から、日比谷、西と並び称される程の、ハイクラスの進学校。全国から越境入学するために倍率も高かった。
母の話に戻すと、母は御茶ノ水女子大を目指していたし、実際、短距離で行ける立場だった。級友からは、御茶ノ水ならぬ、「お湯の水」と敬い称された。
実際には、母は、戸山高校を卒業するが、父親、詰まり私の祖父と継母との息詰まる生活に限界を感じて、当時、看護婦事務所を経営していた母の母、詰まり私の祖母、弁護士と官僚の祖父の元妻だったおばあちゃんの家に、「そろばんと実家の印鑑」を持って一目散に逃げ出した。おばあちゃんも今にして思えば、女だてらにやり手だった。離婚されても、ただじゃあ起きない。女としての生きる道、術は持っていた。
そうして、母と祖母との、二人三脚の、母子による共同生活が始まる。祖母の事務所は東京の江古田にあった。今でもあるのか、当時は日芸、日大芸術学部などもある土地であった。そこで母は誰よりも事務所で最初に起きて、木製の看護婦事務所の看板をまずは出す。それから看護婦さんたちへの食事券の切符を切ったり、事務仕事。訪問看護で、病院で付きっきりで看護婦が看護した利用料の回収に各大病院、逓信病院やら女子医大病院、慶応病院、鉄道病院、どこへでも行った。
おばあちゃんも、最後は事務所を引退して、母は事務職その他、女手一つで稼ぎ、町田に家を買う。おばあちゃん、詰まりは母の母と親孝行で一緒に暮らす為だった。
そこで福島から出稼ぎで来ていた父に見初められて、実はおばあちゃんが父に母の写真を託して、キューピッド役を演じたのだが。そこでうちの父母は結婚した。その後、私が生まれた。
結局、結論として、我が家は、祖父も祖母も、自立して当時から立派に生きて来たが、今思えば、財産らしい財産など、微塵も残さなかった。祖父は鹿児島の西郷の影響下、祖母は江戸っ子の、宵越しの金は持たない?果たして、祖母は決して贅沢などはする人でも全くなかったが、結果としても、誰に迷惑も掛けずに、消え去るように安祥としてこの世を去った。
面白いのは、この内、母と祖母とは、当時から、二代続けて日蓮正宗だった事である。これが実に母子としては傑作だ!
以上。よしなに。wainai

※編集後記
なおとも様、この長文の文章、私が大変に気に入りましたので、最近ネタ切れ気味の私のブログにも転載させて下さい。お願い致します。よしなに。

なおともさんのブログ記事URL。gooブログ。



なおともさんの返信コメントから。
コメント一覧


なおとも
30分前
@syousyu-wainai123753 様
とても読み応えのあるコメントを頂き、本当に有り難うございました。文章の内容の一部はブログや私に頂いたコメントで存じ上げておりましたが、もっと深い物語があったのですね。土地勘があり戸山高校はよく知っていますし、前を通った事も何度もありますよ。お母様が戸山高校にお通いだったのは存じ上げていましたが、そんなドラマがあった事に驚きました。人に歴史ありですね。素晴らしいお話だと読みいりました。ご苦労も沢山されたのですね。考えられません。よく頑張られたと思い感心しました。

「子孫に美田は残さず」は本当に正解だと思いながら、揺れ動く駄目な私です。でも、本当に考えるきっかけになりました!

どうぞ、ブログにお使い下さいませ。こんなにきちんとした文章をコメントだけでは勿体ないです。お心の籠ったコメント本当に有り難うございました!
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或る若年ブログ・ブロガーからのフォロアーを、辞めた。私のブログ論へとなだれ込んでゆく!

2024年06月26日 16時56分28秒 | ブログ論。私の本音。一人語り。物故録。恋愛論。恋話。大いなる自分の好み、嗜み。
 或るブログのフォロアーだったのだが、私は今日を限りに、潔く辞めにした。
 今では、惜しくも何ともない。むしろ、清々とした。
 こちらも、その人は、若い人で、まだ三十代くらいだろうが、余りに、書いている内容が、世渡りの上手さを考え抜いていて、要領の良さにばかりこだわり、それらの総合性が大切なんだと言わんばかりの話のオンパレード。
 女の子と遊んだのが楽しかった、だの、今日行ったラーメン屋はおいしかった、サウナが最高、資格、投資にはどうの、あと何十年で定年だ、それまでにどうたらこうたら、とこうだ。自分の貪り、欲望の話ばっかりだ。
 まだ青さが抜けていない、青年然とした、年に似合わぬ幼さの残ったその「青年君」には、私はこれは付いてはいけないと、判断を下した次第。
 その青年君も、同じく心の病らしいが、私には付いてはいけない。そう私は断じた。
 その、数年間、去年からか、ずっと最初から、「いいね」等々を私は押下していたが、これも撤回、こちらから皆、取り下げた。それ程に醜悪な感じのするブログ、ブロガーであった。
 それに、いつも私の片想い、私からの一方的な、「いいね」や、コメントばかりであり、その返礼返答がないのも不信感を懐く原因、端緒とはなった。
 誰だって、「片想い」はないでしょう…。多少の、いいねを押したら、いいねで返す。これ位の礼儀はあって然るべきでは。それは私が厳しすぎるとは、ちっとも思いませんがね。ええ。
 とにかく、私は、片想いはイヤです。片想いをする位ならば、少しフォロワーが減っても、こちらから願いを下げて、解除、するしかないのでは。
 あれだけ頑固な人、若者も初めて見た。道理で、そのブログ記事のページが、いつも、毎度、閑古鳥が鳴いていた訳だ。
 私も他山の石として、気を付けたい。自分も、他人様のページに寄る時は、そこへお邪魔させて頂く際は、よーく吟味して、よーく文章、画像、動画等に注意着目して熟読愛読させて頂いて、そして、いいねを惜しみもなく押下する。気に入った記事には、必ず四つ、という風に。忙しい時以外は出来るだけ。
 私の最大一に考える日蓮正宗のお寺に関する朝夕土日含む一般関連行事、私の自宅での自行化他にわたる勤行唱題行。後は私自身の生活、最初の第一義の福祉の関係やら趣味やらこのブログの執筆、撮影等々に抵触しない範囲内に於いては最大限のサービスを私から見舞い、皆様へと心から平伏しつつ低頭平身していいねを押下し続け試みる事を精励したい。最低でも日に一度は。お寺ファーストではあるが。
 これです。この心意気なのです。私の「ブログ道」、「SNS道」というのが、この言葉自体が、あるのか無いのかは、分からず、私の勝手な造語かも知れないが、とにかく、私なりのこれは今日の結論なのであります。

※編集後記
今日もこれから、お寺の夕べの勤行に行って参ります。皆様のブログ記事へ辿り着き、見て「いいね」等々押下するのは、夜半に至る事が予想されます故、何卒お見知り置きを。

以上。よしなに。wainai

「青春をどう生きるか」(完)要領など要らない。冒頭、私のラジオ投稿メール採用の報せ!ハモニカ

2024年06月26日 15時06分54秒 | 朗読版・読み上げ一般書籍読書社会情勢・勉強趣味楽器演奏動画特集
「青春をどう生きるか」(完)要領など要らない。冒頭、私のラジオ投稿メール採用の報せ!ハモニカ。 冒頭で、私のラジオ福島への投稿、「座右の銘」についての採用された話。今日は「青春をどう生きるか」第8章ためらわずにやり直そう。この本の巻末の書き込みには、一九八九年平成元年秋、購読。東北書店にて。とあった。以上。よしなに。wainai