Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

参政党は、脱党退党致しました。

2023-05-31 12:26:27 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・国防憲法論、太田西ノ内病院医師の件含む
 私は、元より、路線の違いが甚だしく感じて、昨日を境として、「参政党」を脱党、退党、辞めました事をここで広く、お知らせいたします。

 結局、あの、参政党は、食品の事を持ち出して、あれを食べちゃいけない、これがダメ、だの、ワクチンが、だの、極めつけは、準党首級の、神谷宗幣氏の、皇室の事は皇室が自ら決定せよ、との訴えに、右派の竹田恒泰氏が反論を口を極めて、実に理路整然と、神谷議員に対して、それは間違いだ、と正論を諄々と訴えていたのを、動画で見させて頂き、これは、間違った政党だな、との理解に至ったものです。
 どうも、最近からか、以前からこの政党はそうだったのか、分からないですが、不自然な所、私は、党サポーターを自認して、党内に籍を置いてみてみると、その弊害、悪質、悪どさ、が身に染みて、理解が出来ました。
 結局、自民党の亜流を作りたいだけの小政党なんだな、というのだけは判りましたので、もう、自分が居る、それだけの価値は感ぜずに、退党届を、党本部に送った次第です。もう、懲り懲りです、こんな悪徳小政党は。金儲けばかり考えた、上意下達の、官僚制・ビューロクラシーの権化のような、妖怪小政党、それが、参政党の正体!

 これからは又、与党・自由民主党を、心置きなく、応援してゆく所存です。

以上。よしなに。wainai

野球を代表とするスポーツは、もう、観ない・ゲームももう、やりたくはない。私にはいずれも合わなかった←何れも誤り間違えた捉え方考え方

2023-05-31 09:57:33 | 野球スポーツ、高校野球、等々、スポーツ談議
 今年の、WBCという、世界の野球大会があったらしい。

 私は完全に蚊帳の外だった。そんな行事があった事すら知らなかった。

 その期間の、ニュースも勿論見ていた筈だったが、その期間の、スポーツニュースなど、一切、関心、関知などしてはいなかった。

 そうしてからに、そのチームは、世界一となり、成し遂げた。

 私は完全に、その話題からは逸れて、門外漢となった。

 でも、私はそれに関して、何ら問題は無い、関係しなくて良かった、とさえ思える。

 その、観戦に際しての間中、その事、事柄への関心の持ち過ぎによる、自身の精神のブレ、関心の寄せ過ぎによる、生活の乱れ、等々が、一切、自身には及ばず、巻き起こらなかったのだから。

 大体が、私には、今現在の、若い野球選手たちの、名前と顔、容姿が完全に一致しない程の、無関係、関心が全くと言って良い程、全く無い。

 勝手にやってろ、状態。私は、去年の、八月の、夏の甲子園での、自己の生活を乱しに乱す程の、野球に熱中した事実、入院の遠因きっかけにもなった事実、原因元凶がある。

 去年の年末ごろの、サッカーの国際試合にも、私は一回も、一分一秒も、サッカー日本に対する、興味関心なども、一切なかった。

 世の、ブログ、ニュース等々で、盛り上がっているのは知ってはいたが、自身で、まさか、応援しよう、などは、思うだけでも損だ、自身の時間の有効活用の大損失だ、その時間が勿体なかった。

 そんな私の、時代に背を向けた姿勢を、何てシニカル、冷笑的皮相的皮肉に受け取るんだ、との批判には、ここで私は答える積りも毛頭ないし、ただ、そんな、国民皆が応援に、一時の、一事のものに、一つのモノに一斉にそんなに国民こぞって、狂奔し、大騒ぎして、やるべき事なのかと、果たして。

 その間にも、最大限の国民的関心事の、政治の問題にほっかむり、一番論じ合わなければならない問題、例えば、この日本国では、憲法改正問題など、解決しなければならない諸問題・諸課題に対して、目くらましをしている、わざと、と言った感想を受けた。

 とにかく、私はあの、去年の八月の、夏の甲子園に熱中し過ぎて、一日食事が一食しか摂らずに、やせ細っていった、不健康な前例があり過ぎ、あの地獄のような日々を思い出すので、絶対に、もう、野球を代表とする、スポーツ観戦などは、御免蒙(こうむ)りたい。二度と、甲子園、野球、サッカー、ラグビー、相撲等など、は、観たくも聴きたくも、絶対に、全く無い程に、大っ嫌いになってしまった。

 しかし自分はそれをそれ程悲しくも不幸とも思わずに、こうやって普通に生活できているし、一般人とはその時その場限りで、話題が合わないだけであり、一切、不都合不条理矛盾等は感じずに済んでいる。

 そんなもの、観るのが国民の義務でもあるまいし、観たくないなら見なくても済んで良し、それで、何ら問題などは、生じはしないのである。いずれにしても、そんなスポーツ番組など、観戦しなくたって、見なくて結構なのだ。誰に無理強いされている訳でもあるまいし。

 私は、これは最近の私の現況だが、ゲーム機器、ゲームのソフトの内容、ゲーム遊びにも、自身の限界、というか、その詰まらなさ、満足感の無さ、集中力の無さを、嫌味さを、感じ始めている。

 ゲームをやるんだったら、その間に、活字を追って、小説なり評論、随筆・エッセイ、新聞・雑誌等々などの、本や書籍を代表する活字に目を通し触れた方が本当に有益であり、音楽をその間にも聴いたり、音楽を単体でそのモノを集中して聴く事だって、自分の人生上の、自由時間には、非常に為になり、大事で快適で優雅で有益有為な時間の過ごし方だ。

 何なら、ラジオやテレビなどの、放送媒体に触れている時こそをも、私にとり、非常に、至福の時、時間である。特に私は、ニュースや天気予報、等々の報道番組が大好きである。

 私の安心して感得納得出来得るものは、本を読んだり、手書きにしろPCによるキーボード打ち込み打鍵にしろ、文字を書いて執筆したり、音楽等を聴いて心を慰めたり、テレビ等の映像作品を見て、鑑賞して、心の印象に残る程の、何よりの、自分なりの、感動を頂く事共、等々である。第一、何より、それらが、気分がいいし、自身、ストレスフリーとなれる。自身の自由が保障され得る。

 何ともこの「ゲーム」という代物の、時間つぶしには、反感こそあれ、これで満足した気持ち、気分になる、などとは、今の今まで自分自身の人生上、一度もひと時も全く感じた事など一切合切、無い。微塵もない。あくまでも。ゲームはストレスの根源である、私にとっては。最悪…。

 非情なる詰まらなさ。気分が悪くなる程の代物、どのゲームも。楽しみなど、どこにもない。あるのは、ただ、目の前で勝手に作り上げ繰り広げた、大人が勝手に作って、子供用にしつらえた、御遊び道具、子供だましの、一切合切の、一作品群共。

 そんなのに興じてたって、時間が勿体ないだけ。人の時間を奪うな、と言いたい。

 最初から、ゲームなど、やる気も無いから、実際やってなんかいないんだから、時間もそもそも、奪われようも無いのだがね。実際やった時も、ちっとも楽しくなく、面白いとも、思わなかったよ、感想はね。ゲームのね。

 最初に申した如くに、ゲームをやる位ならば、その間に、活字を追ってゆきたい。ラジオや音楽やテレビを聴いたり、観たりしたい。そう申し上げたい。今、そう、申し上げている。

 ゲームは、ハッキリ言って、飽きている。否、やる前からそれは判っていた。私はゲームには手の負えない、不向きな人間である事共が事実であるのが、ハッキリと自身で判り、判明していた。

 それをやる、時間が勿体ない。そう申し上げている。ハッキリ言って、ゲームをやるのは、時間のムダ。他にやる事が一杯ある、私はそれだけで、ゲームなどは、不満、不信感の元、不審に感ずる次第。

 それが今日の結論。私がここで最も、言いたい、言いたかった事共。

 ゲームもスポーツも、私の範疇を越えた、私とは異色異質の、世界が、畑が違った世界、業界に他ならない。私にとり、実に詰まらぬ、取るに足らぬ世界。縁が初めから、無かった世界。他人の世界。氷の世界(井上陽水の音楽作品名)。

 私が、この稿で、本日、最も言いたかった事共は、それらの事々だけである。

 正に、誠に、任天堂スウィッチなど、買って損した部類の、代物の、買い物であった。

 買ってみて損したのが初めて判るのが、愚人、凡人。莫迦者。愚者。

 天才、仏の位の、仏界に達した人は、初めから、買う前から、それらが判明、判断が付き、おのずと自然と自明の理が、わかる人。

 私は前者。日蓮正宗で修業を正規に踏んでいる、大方の、方々は、勿論、後者の方々。日蓮正宗内で、境涯が高度に達する人で、御題目を信じ抜いて、死ぬ程唱えた方々、仏界の人、は、後者の人々、方々。

 「後悔先に立たず」が判る人々。初めから、聴く耳を持つ、立派で人物が出来ていて、自身の目標とすべき方。

 私は、仏道修行が、全く足りてはいない人種、人間、人物に過ぎないのは、自明の理。誰もが、そう思う程の、全くもってして、修行が全然足りない。六道輪廻の権化の存在の、現在、今の私。

 これからは、私も、読経唱題の、熱意溢れる人へと、自身、変身、生まれ変われる程の、大変革、大革新的で、大改革出来得る、真っ当な人生、真人間へと、生まれ変わりたいと必ずや、必死になって、決死の覚悟で、望む。望んでいる。

 実際上、その努力を始めようと、日々、目論見、画策中の、努力の人へと生まれ変わろうとして努力中の、正にその最中の、人生の途上者がこの私。偽らざる、私の決然たる、決意、覚悟が要る、必要だ。

 富士山登山者の、登山口に居て、今、正に、富士山頂上の、登頂目指して、登り始めた者の正にその一人。私は、今現在、日蓮正宗のビギナー、初心者に他ならない。

 皆さん、私も、登頂目指して、皆に遅れずに、立派に登ってゆけるように頑張って最後まで登って見せるから、今に、見ていて下さい。日蓮正宗の方々も、皆さん、応援宜しくお願い致します。

 今回も、非常なる長文につき、誠に失礼、申し訳なく、存じ上げます。
 これら文章は、これは、察するに「愚痴」だな。ハッキリ言って。今日は文章の調子が悪すぎる。
 自分の事ばかり、縷々、書き綴りばかりしていて、畏れ入ります。

 いつかは、皆様に、何とかお慶び頂ける、話題性あふれる、そんな文章群を綴り送り届けられるよう、努力・精進致します。

以上。よしなに。wainai


※編集後記
 私は、これら文章を綴って来て、ふと振り返って思った。何も、野球観戦に、ゲームに熱中しているからって、それが果たして、「悪」なのか、との疑問を呈したくなった。
 それら、一切の障壁を抜けて、一途になれる人は、一種の才能、趣味の人、趣味の最たる開花、開眼なのではないのかと。
 一概に、ゲームをやるから、野球を見るから、それが悪だとは、言えない、言ってはいけない筈だ。それは、狭い、利己的な主義主張、判断なのではないのかと。
 実際に、ゲームや野球等々で、そう、何時間も熱中集中出来得る人、それは正に、「才能」「特技」の開花、表れではないのか。逆に、私などは、興味を持って、尊敬してしまう程の、それらは、集中力を身につけた人、と言えないだろうか?ボケ防止等にも、最大限、役に立っているのではないのか?との疑義を、今日のこの文章群の最後に、呈して、終わりとしたい。
 とにかく、「悪」と決めつける本人に、貴方は、そして私は、果たして、「悪」と自分が決めつける如くに、聖人君子然として、振舞っているだけじゃ有りませんか?と。実際の所、それは「二重人格」「偽善者」の衣をまとっているだけの、割と、ゲームや野球以外の所で、酒を飲んだり、タバコに溺れたり、女にだらしがない、他、エトセトラの、沢山の「業」(カルマ)というものを、私自身も、そういうあなたも、抱えていて、人の事を御節介している自分自身の頭の上のハエすら追えないで、居るのと違いますか、そんなに自分が、「聖人君子」だと、お思いなのですか。所詮、おんなじ、人間同士、はたけばホコリもでる、人間じゃないんですかね。立派に振舞っていたとしても。という、疑問が、自分自身の中で、沸々湧いて出て来ている。このどうしようもない感覚は、私の現在の頭を捉えて、離さない。
 ともかく、ゲームや野球一つに目くじら立ててる輩は、その分際を弁えないといけない、これらは、私への戒告でもある。
 そうして、自身に、ゲームを行うに際して、罪障が本当に実際の所に、全然ないのかあるのか、について、詳らかに自己点検するに限る。私も含めて、これは自戒を込めて、物を語っているのだ。この話には勿論、自身、大いに、虚心坦懐に、謙虚・謙遜を、伴って、ヘリ下って、話している事共を、福島県民郡山市民福島市民には特に、良ーく吟味して、考慮して欲しい。
以上。wainai

好き嫌いじゃない、何を差し置いても、やらなきゃならないのが、『勤行唱題』

2023-05-29 15:25:34 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 かつて、創価学会の池田大作は、自身が入信した時の模様として、「(元々が自分のうちが真言宗で)南無妙法蓮華経が大嫌いだったので、嫌々、入らされたようなもの、創価学会に(趣意)」というような事を、入信の日の想い出として、告白していた。

 要は、話は、好き嫌いじゃないのである。好きだろうが、大嫌いだろうが、仏道修行は、待ったなしで、やらなきゃならないものなのである。

 それを、好きだからやる、とか、嫌いだからやらない、では、自己進歩、自由闊達な、自身がやりたいように、望んだ如くの、人生などには、夢にも歩めない。

 要は、自分なのである。自分がまずは、変わる事なのである。他の言い訳などは一切要らない。それらは皆、愚痴に他ならない。

 自己責任ともいうが、とにかく、最期に人生を笑えるか、泣こうか、わめくのかは、この自分自身の振る舞いにカギが握られ隠され、生命の、その後の行方を、下支えしつつ、決定するのである。それが、人の、特に日蓮正宗信徒の、あからさまで、明らかで、正直な、生き様である。

 自分自身が、全ての、人生上の権威権力を、覇権の剣(つるぎ)を、決定権を握っているのだ。それを知らぬ、多くの一般大衆が、悲しく、哀れでならない。一人残らずに、一般大衆を、地道に救っていきたいものだ。この大仏法を知れば、信ずれば、人生が変わり得るんだと言う、人生の醍醐味を、知るには、この日蓮正宗の大仏法の門を叩き潜(くぐ)る以外には、金輪際、有り得ない。

 そう、本日私は、否、いつでも、何どきでも、申し上げ、断言致します。

以上。よしなに。wainai

朗読・「日本の宗教の現状」創価学会版、キリスト教破折

2023-05-28 21:35:24 | 朗読版・折伏破権門理・邪教破折日蓮正宗御本読上げ・勉強趣味楽器演奏動画特集
朗読・「日本の宗教の現状」創価学会版、キリスト教破折

この書は、昭和の時代に初版が発行された、各種宗教の破折書です。昭和の頃の創価は、ちっとはまともな事を行い、やっていた。この事実に、今の創価の、牙を抜かれたネズミのような、薄汚さを感ずる、今日この頃であります。以上。よしなに。wainai

キリスト教破折、日蓮正宗版「折伏必携」による

2023-05-28 21:20:40 | 朗読版・折伏破権門理・邪教破折日蓮正宗御本読上げ・勉強趣味楽器演奏動画特集
キリスト教破折、日蓮正宗版「折伏必携」による
キリスト教の間違い、その狂った教えの根本を、日蓮正宗の立場から批判します。この書は、真理を突いています。統一教会の批判もあります。 以上。よしなに。wainai

創価学会員への折伏教本、各論、第二章、終わりまで

2023-05-27 13:50:45 | 朗読版・折伏破権門理・邪教破折日蓮正宗御本読上げ・勉強趣味楽器演奏動画特集
創価学会員への折伏教本、各論、第二章、終わりまで
創価学会員破折へと、動いて居ります。まずは、「創価学会員への折伏教本」を参考に、地道に朗読して、折伏しています。これを、心ある創価学会員は、心して、聞け、と念ずるのみです。以上。よしなに。wainai

福島の人は…総じて

2023-05-25 18:42:45 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 福島の人って、私(自分)が、謙遜で、わざと、自分をへり下って、低くして語ると、それを、その事を、真に受けて、事実だ、実際そうなんだろ、そういう劣った存在が、お前自身なんだ、との、酷い受け付け方、受け取り方をされるので、こちらとしても、かなりガッカリ、ショックな気持ちである。
 うちの母なんかは、母と私は、私が小さい頃から、私ら親子は、しょっちゅう、おしゃべりの花を咲かせた関係で、そんな、福島の人と、為(な)り、人柄を評して、母とその事、件で相談した事がある。
 言っておくが、私ら親子は、関東の、母が東京、私が神奈川生まれである。
 母もその点には、同情、同意した上で、母は頭が良いから、郷に入れば郷に従え、のことわざの通り、こっちに来てからは、自分からは、謙遜などは、絶対にしない、と言っていた。馬鹿馬鹿しいことだから、と。
 こちらがバカを見ることだけは、避けたいから、あんたが言う意味も、最大限に判るよ、と言っていた。
 そうして、私は、人一倍、一人っ子の、お人好しであり、それが元で、この土地では、人に付け入られる事も有り得るから、最大限、それには気をつけなさいよ、とも常々、言われた。
 こちらの人に、自分から謙遜してモノを言うと、それを額面通りに受け取られ、こちらがバカを見る。これって、貴族文化や、武士道にも劣る。福島、特に、郡山は、貴族や武士が支配した町では無かったせいもあるのかも知れない。
 元々、町人文化、侍などは余り居ない、ちょうど、大阪の様な町だったのではないのか?独特の、宿場町の郡山、という土地柄。
 だから、ケチな人も多くいて、金に汚い人ばかりの印象を受ける。
 福島県全体が、とは言わないが、実際に、自身が感じ取った実感なので、謙遜したら負けだ、との、こちらの土地では、自尊心の高すぎる人、プライドの高すぎる人、とにかく、大袈裟にモノを言う、えばり腐った人を多く見かける。
 大体、ずうずう弁自体が、大袈裟でえばり腐って聞こえる。
 それらの人には、謙遜とは、自分を見下し卑下する事だとして、一切、江戸、東京の文化、京都や奈良のようなみやびな、日本の古都の文化、等は、一切受け付けない、受け取られない、初めから、文化というものの無い、寂しい都市や、町村だな、という思いしか禁じ得ない。謙遜の、奥ゆかしさの、意味の分からない人々の総体、それが福島。

 要するに、歴史の無い街。それが、郡山福島の実態。悲しい街の、一典型。

以上。よしなに。wainai

五月五日の郡山市街の様子(写真画像)・文化論

2023-05-23 18:59:56 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
参政党の街頭演説が終わった後の、郡山駅西口広場。
場所は代わって、駅前から、中町通りへ。
うすい百貨店のビル。
安積国造神社の参道。我ら日蓮正宗信徒は、絶対に、この方を向いては、お辞儀もしない、絶対に。下駄や草履の、鼻緒が切れても、そのまま、日蓮正宗信徒は、慌てずに、そのまま頭を下げずに、平然と過ごし、素通りして、立ち去るのが礼儀。鼻緒が切れて、それを直すだけで、神社に頭を下げた事となる、看做(みな)されるのを防いだ、古人(いにしえびと)から現代人へと引き継ぐ、正宗信徒の智慧、意地、義務である。
依然として、中町通り。
このあたりは、郡山市の、地価が高い地域として、いつも、報道される場所じゃ無かったかな。
中町通りが終わり、渡れば、大町通り。それを横切り貫く、駅前通り。
さりげなく、ベンチが。
ビューホテルアネックス。
駅前通りは、郡山市清水台の坂道へ。
歩道橋。

上は古着屋。下の画像は、十字屋楽器の店舗ビル。
十字屋楽器は、お休み。いつ行っても、休みのような感覚が。
この、河童という飲み屋は、母によると、よく、日本共産党の人達が、会合を開く店だと、聞いた事がある。

言わずと知れた、エセ、邪政治団体・公明党の事務所。邪教創価の、根城。
開成山公園入口正門。
市役所本庁舎と、西庁舎を結んでいる。
ニコニコこども館。
五月五日の、写真画像は、残念ながら、ここで、この写真画像で、終わっている。ちょうど、開成山公園の、沿道であった。ここは、春ともなれば、桜が見事であり、今年の春も、私は桜の花の見事さに驚いたものだ。しかし、この私も、齢五十ともなれば、あと何年、桜の花を見られるのか、といった、寂しい感じも受ける。

ラジオ福島で金曜日の昼下がりの番組担当の、普天間かおりさんの歌でも、『守りたいもの』という歌の中で、「つられて笑うようなありふれた時をあとどれくらいあなたと過ごせるのだろうか」という一節があり、勇気ももらえるし、涙を誘う歌でもある。「確かなやすらぎをここに見つけた」「信じたいものがあるよ。叶えたい夢があるよ。私をずっと支えている明日の勇気になれ。」と歌は続いてゆく。「守るべきものがあるよ。愛すべき人がいるよ、震える命ぎゅっと抱きしめる、しっかり生きなさいと。」と最初冒頭から受けたリフレインで、曲は結ばれる。

福島県にいると、普天間さんのラジオを聴けたり、その他、こちらの心が豊かになる様な色々様々な番組も、以前に比べて、格段に多くなったような気がしている。それらも、東日本大震災を境に、機に、自分の身の周りを見直し見詰め直すが如くの、素晴らしい人や物の情報があふれ出て来て、集中的に格段に増えて来ているように感じているのは、私だけであろうか!
福島県が、精神的に、心の成長力が、たくましい程の勢いで、境涯の高さが、高まりが、盛んになってきているのを、この私は、受けて感じざるを得ない。
これは、私だけの感覚なのか、一般的な感覚なのかは、ズルいようだが、論を後世の人達に譲りたい。後世の人が判断すれば、宜しいのではないのか。と、の念慮が、常々、私の中で、働いている。
きっと、今が、福島県を含めた、日本の中での、歴史の中の、かなりの高度な文化の成熟度で観た、ターニングポイントに立っているのかも知れない。
最高度の、文明開化が、福島を中心に、と言えば大袈裟かも知れないが、巻き起こっているのだと。
衣食住、その他、学問でも、日蓮正宗で言えば、信行学、全てに亘り、最高度に、磨きがかかって、福島を中心に巻き起こっているとしたら、これは凄い事だ。
そんな事を、この日、私は郡山駅前西口に立ち、そうして、駅前通り、さくら通り、新さくら通りと、通りを通ってゆく道すがら、考え、思っていた。

以上。よしなに。wainai

本日は家でゆっくり、…。事故の後遺症の痛み

2023-05-21 08:12:28 | 各交通機関、車、電車、交通マナー等々
 本日は、五月十日水曜日の、星ヶ丘病院の帰り道に、車には接触はせずに、轢かれた訳じゃなかったから、交通事故扱いでは無いが、一応警察の方の話だと、事故扱いで、賠償金等は、一切払われない。私は横断歩道で自転車で倒れた。

 その関係で、日数が経ってから、首を中心に、腰まで痛くなってきた。段々と。

 これは後遺症である事は明らかだが、誰に文句を言う事も出来ない。

 自分が、歩道を、自転車可の大通りだったが、渡る前に、地面を見ていた。その寸前に、青に変わったのを、一時停止もせずに、そのまま、左右を確認せずに、渡ろうとしてしまった。そこに、残存自動車が、赤から青に信号が変わり、そのまま私の歩行を遮ったが、それでも、一切、接触は無かった。
 
 だから、後の祭りであり、今は、整形外科で診てもらい、治療加療中だ。
 
 その上で、私には、本日は、お寺、日蓮正宗無量山寿海寺での、五時間唱題会、それから、同じく、第三日曜日は、安積町での、オレンジカフェ、があるが、どちらも、長時間に及び、私は、事故の後遺症で、おそらく、首や腰の痛みで、そのどちらも、決して耐えられないのは自明の理なので、今回今度のどちら、いずれもの、参加は、見合わせ、辞退させて頂く。今日程、家で、ゆっくりと、治療、加療をしないと、マズい日は無いのだ。今後、一か月は、そうした日々が続くと思う。私には、治療加療静養が、必要なのだ。

 私も齢、五十となり、中々、生命力が弱くなっており、若い時のような、自身の元気で乗り切る程の、無理は出来ない。この点、この為に、私は諸行事に、全て欠席を致す事に、承諾を願える事を、御祈念をもって、お願いしたいと心より思う。

 あとは、家でのお仏壇の御本尊様への、朝夕の、勤行唱題の、お勤めに、その、治療加療のカギ、自己治療、生命力を増す、秘訣があるんだと考える。

 一念の配慮が自分の心の中で必要だ。いわゆる、大生命力で、この、自身の大難、危急存亡の時を乗り越える。大袈裟じゃなく、大きな心で、慢心ではなく、ひたぶるな信仰信心で、乗り越えてゆきたい。

 おそらくは、この事故も、自分の普段からの心掛けが悪く、邪念邪推をいだき、自身の過去世からの、謗法罪障、罪悪がこれでも軽く、出て来たのであろう事は、自責の念慮じゃなくても、自己批判の上でも、判り切った事だ。要するに、罪障だ。自己責任だ。自分にすべての原因がある。

 転重軽受の法門で、これだけで済んだ事に、喜ばしいと思わないと、罰が当たる。元々が、罰当たりの、この身なのだから。軽く受けたのだ、重きを転じて。未来世に、地獄の業火・業罰に当たる所が、この世に生まれ出でて、創価・キリスト・神道、等のそれら悪党宗教集団の、邪智・邪義・邪教・邪説・邪淫・邪心・邪道・邪悪・邪法・邪行・邪業の限り、を乗り越えている最中の、自身も、正宗信仰の自信、自尊心というものが毛穴から入って来る程に、付いてきている。正に、この、wainaiなのである。私の救い幸福は、目前にあり、今に、この手に、この目にして、大功徳を、善根にて、得られるとの、自信・確信、が正にある。

 だから、最後は、自分で、良く頑張ったね、とねぎらいの言葉を掛けてあげられるように、善の行いを怠らずに止めない。努力を、仏道修行の努力を、私は決して辞めない、諦めない事をここに誓う。
 
 以上。よしなに。wainai

365人の生き方の教科書、五月中旬分

2023-05-20 22:15:11 | 朗読版・読み上げ一般書籍読書社会情勢・勉強趣味楽器演奏動画特集
365人の生き方の教科書、五月中旬分

各界の有識者たちの、珠玉の言葉の朗読です。 ※交通事故まがいの事故で、自転車で転んで、首を痛めて、今治療中につき、首を傾げて居ります。非常に済みません。 以上。よしなに。wainai