私は、大悪党と申すか、否、いわば、小者の、悪党であると他人には目されているみたいである。私はそうは思わないにしろ。
それは、各所、随所での、私自身の犯して来た、悪事を見れば、一目瞭然である、という。何か、昔通りに自分がやっていても、年齢相応の、実際上の行動を求められる事が多くなった。
悪事と言っても、他人様から見ても、他愛のないものばかりではあるが、自身が、それらを犯した自覚が、他人様から指摘を受けない限りに於いて、全くの自覚がないのだから、呆れる外はない。おそらくは、自身の、倫理観の欠如か、忘れっぽさか、罪の意識の自覚の無さか、その他に起因するものと言えるのかも知れぬ。
それらは、私が知らぬ間に犯したものが殆どであるが、実際上、人様からは、お前は悪事を為した悪党だ、と言われているのが物語り、その時初めて気づき、何も申し開きなどは、出来ない関係性となってしまう。
為に、特に、多くの、私の周りの関係者には、迷惑を掛けどうしであり、私の被害者と成り果てて、未だに、私は、憎まれっ子世に憚る、柳に風の、皆の心を傷つけている、と聞くに及ぶ。
それを聞き付けるにつけて、私は、一日の終わりには、自己自身、瞑想に近いが、反省の機会を、眠りに就く間の、ほんのひと時に、寝床に於いて、懺悔の時を自身、持つ。
それ以外にも、最も大事なのが、朝な夕な、特に、夕べの勤行に於いては、日蓮正宗信徒としての、反省の時の、法華経の読誦の、読経唱題の時を以て臨む。
むしろ、読経唱題の、夕べの感謝と反省の勤行、御勤めに於いて、それらは最大限に、発揮される。それらで思いついて、気が付いたうえでの、夜寝る直前の、瞑想である。
この時に於いて、目まぐるしく、自己への自己批判、自己反省、自己懺悔、の念慮を、人一倍抱き、自身の恥じ入るばかりの、正に生まれ変わりの瞬間の如くの、反省、悔い改め、が、自己が思いつく範囲内で、思い、致している。
しかし、一回くらいは、人様、相手側様方の皆様に対しても、私に弁疏(べんそ)、反省の申し開きの機会が与えられても良いとさえ思う。私にも、相手側からは、問答無用に、私からは、一つの言い訳も許されずに聴かれる事もなく、それら罪状が事務的に処理され、他言無用になってしまっている現状には、私自身、非常に戸惑いを感ずる。相手様は、将軍か、内閣総理大臣か、天皇陛下か、司法を司る裁判長か法務大臣か、はたまた、日蓮正宗御宗門・猊下様なのか。果たして?!それ程に、御偉い存在なのか!まあ、被害者なのだから、それなりの存在なのではあろうが。
怒る気持ちも判らなくもないが、私だって、それらが、思わぬ内に行われていた、事実に、自身でも戸惑いつつ、思い返しては、恥ずかしくもなり、反省もちゃんとはして居る積りなのである。その後、反省しています、御免なさい、とは言っても、これは、日蓮正宗内の人々は、非常に、あっさりとして、私の事を一つも責める事無く、「もう二度と、しちゃ、ダメだよ」と言って、親心から、有難くも、お許下さりして頂いている。
許していただけないのは、むしろ、一般大衆、日蓮正宗以外の人々ばかりではある。これは徹底している。絶対に、日蓮正宗信徒以外の人達は、逆恨みしているみたいに私に接して、お灸を据えるみたいに、懲らしめて、私が苦しむ姿を見て、むしろ、慶びを感じつつ、良いザマだ、とばかりに、私を弄ぶ如くに、絶対に許してくれはしない。これは、経験上、人生上の、私の体験した、実際に感じた感慨、思慮である。(そうとも言えない事実を、正宗信徒だから信用してよい、とはどこにも書いても話されても無くて、私の単なる思い付きでしかなかった出来事が、最近も事実上、あった。だからこの記事は、ウソ、信ぴょう性がない。)。
閑話休題。それはさておき。
創価学会と日蓮正宗が、今までとても仲が良かった一時代があった。所謂、「日蓮正宗創価学会」と、どちらの団体も一緒くたに呼び並び称されていた。一体不二の関係に、どちらの団体も名乗り、関係性は良好な時代が、長期にわたり続いた、昭和の頃の両者、であった。
しかし、昭和も五十年代あたりから、おかしな動きが、創価側から一方的に発せられた。所謂「昭和五十二年路線」というものだ。
この路線の特徴は、日蓮正宗の化儀化法を守らず、教義逸脱が謀られた。その一端に、曰く、
一、創価仏法の原点は、戸田会長の獄中の悟達にある
二、唯授一人の血脈否定、途中の人師論師は無用、大聖人直結
三、人間革命は現代の御書
四、池田会長に帰命、池田会長は主師親三徳・大導師・久遠の師である
五、寺院は単なる儀式の場、会館は広布の道場
六、謗法容認(祭りへの参加等)
七、供養は在家でも受けられる
等々、である。
それから、その時の、『山崎・八尋文書』(昭和四十九年四月)には、こうある。
「一つは本山といずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、いつでも清算できるようにしておく方法と、いま一つは長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です」というもの。
もう一つの、後の第四代創価学会会長を務める事になる北条浩による、『北条文書』(昭和四十九年六月)には、こうあった。
「長期的に見れば、うまくわかれる以外ないと思う」「やる時がきたら徹底的に戦いたいと思います」などとある。
池田は、正本堂建立を機に宗門に根強い反感をいだくと同時に、「学会は主、宗門は従」との本末転倒の考えをもとに、宗門支配を画策し、宗門に対して様々な圧力を加え始めた。
学会に批判的な僧侶に対して吊し上げを次々に行い、公然と宗門批判・僧侶否定の指導をするようになったのが、昭和五十二年であった。それを「昭和五十二年路線」と呼び、いう。
こうして、創価学会は、日蓮正宗の教義信仰から次第に逸脱し、ついには、御法主上人の許しを得る事無く、紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に模刻するという大謗法を犯すに至った。それらが皆、創価学会による、「五十二年教義逸脱問題」と言われるものであった。
これらの創価による謗法行為に対し、宗内僧侶を中心とした学会批判の声が全国的に広がり、脱会者が続出した。池田は、創価学会の崩壊につながりかねない事に最大限、危惧をこの時抱き、第六十六世御法主日達上人猊下様に情けなくも泣き付き、謝罪を申し上げ、事態の収束を願い出た。
そして、昭和五十三年六月三〇日、創価学会は機関紙・聖教新聞紙上に、「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱に関する訂正文を掲載した。
しかしそれは、訂正内容が曖昧であった上に、会長である池田大作の責任を明らかにするものでは無かった。
この頃、創価学会による本尊模刻も発覚し、同年九月二八日、学会は急遽、勝手に作った七体の本尊を総本山へ納めた。
窮地に追い込まれた学会は、同年十一月七日、総本山において、幹部二,〇〇〇名による「創価学会創立四八周年記念代表幹部会」(通称 お詫び登山)を開催し、列席した宗内僧侶の面前で公式に謝罪の意を表明した。
しかし、実際には、それらの逸脱は一向に改められはしなかった。
一旦は、創価側が謝って来た筈が、歴史の誤ったボタンの掛け違いが、後の世に、大きく影響を与えて行った。
これらが、約十年をかけて後の、平成二年からの、池田大作氏による、一方的、悪意に満ち満ちた、「謗法スピーチ」へと連なっていく。正に、創価独立を宣言し、企てるものであった。
平成二年十一月十六日、池田氏は、全国の学会員に対して、衛星放送を通じて、法主上人への誹謗と宗門蔑視のスピーチを行ない、こう言った。
「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません。」
「五〇周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ」というものであった。
その後は、皆様御存知、創価の宗門批判記事が創価機関紙「聖教新聞」に活字がまがまがしく載って踊り、創価の宗門離反劇へと連なる。
その時にも、現在も、当時の学会員達も、は、宗門が、池田大作氏を破門に付したのを、一方的にいまだに恨んでいるが、そこに、落とし穴がある。
何も、日蓮正宗宗門は、池田氏を一方的に破門に付すのじゃなくて、ちゃんと、池田氏側からの、それに対する、弁疏の機会を、事前に池田氏側には、猶予を与えていたのである。
それに対して、無視を決め込み、答えなかったのは、池田大作、その人、その本人の責任なのである。張本人は、池田である。
池田がすべてを取り仕切り、成り行き任せに、御宗門に弓矢を向けた張本人であり、全ては、計算され尽くされた出来事であったのだ。宗門からは、いつでも、もう学ぶべきものは何一つ、無い、と企む。我々は、独立できる段階に居る。もう、宗門の力を借りる必要など、どこにもない、という、大慢心、謗法まみれの、創価学会、及び、主に池田大作氏の、魂胆がここにあった。
そうやって、宗門蔑視の謗法スピーチをぶち上げ立ち上げて、それから怒涛の平成三年の、聖教新聞、創価新報等の、反日蓮正宗・反御宗門への、大デマ、大プロパガンダ報道へと学会はなだれ込んで行った。どうしようもない連中である。
それと、私の反省とを、比べようとも、比べ切れないが、歴史に学べば、私にも、一つ、反省の弁を述べる機会、制度が欲しい、と望んでいる。
今も述べた、仏の団体、七百五十年、八百年の伝統と文化を護持し、誇る、日蓮正宗御宗門は、仏の顔も三度と言うが、一回は、池田大作さんには、否、二回目も、弁疏の機会を与えて、一回目は、見事、池田氏側から、泣き付く様に、創価代表者として、謝って許された。恐らく、二回目は、池田氏の方からは、もう、宗門側に飽き飽きして、謝るのも面倒、とも思ったのかも知れない。
辛抱強く待っていたのは、いつも御宗門の方であった。極論すれば、あの時、平成二年から平成三年の間、若しも、池田氏が翻意して、謝って来ていたならば、今日でも、創価は独立などせずとも、「日蓮正宗創価学会」の名誉ある地位の名称、名前のまま、存続しつつ、昔の創価学会のままの方が、もっとも良い組織で居られたのでは無かったのではないのか。果たして。
その創価学会の名前も、今の現在の世間の悪評通りの代名詞、となってしまった。あの、池田大作氏がいなければ、この世に生誕して来なければ、話は、歴史に違(たが)い、歴史に、if、若しもは無いのだが、もしも、池田氏がこの世に生まれていなかったならば良かっただろうに、との念慮が、非常に今になり、そんな考えが支配して、働き、及ぶ。
例えば、創価学会が、「ただの新興宗教じゃないのか?」や、「ニセ本尊を祀り配って歩いて売りさばいて、何様の積りなんだ一体?」とか「犯罪集団が創価学会の本質・特質なんだろ?」とか「元々は、池田教の、池田大作が根本崇拝の、池田ファンクラブなんだろ?」「金だけには、うるさい宗教だよね?」とか「選挙の時になると、選挙の時に限って、猫なで声で、電話でまでそこら中に宣伝して、公明党に入れろ入れろ、って、うるさいったらないよね?」とか言った、創価自身のイメージダウンに結び付きはせずに、済んだはずではあった。
今日の創価の価値は、その昭和の頃の当時よりは遥かに下がり、福徳・功徳もだだ下がりに下がり果てて、大御本尊様をも見棄てて否定するという、何とも情けない、見下げた姿、状態と成り果ててしまった。
全ては、池田氏による、個人的な恨み、私恨、宗門蔑視、宗門への十四誹謗が為せる業、わざわいによって引き起こされた。一般の創価学会信徒とは一切関係がない。
トップが狂えば、末端までにその狂い、ひずみが及ぶという、悲喜劇を池田大作はこの世の舞台で巻き起こし、末端会員までをも巻き込み、本当に、全く失礼しちゃうよなあ、という、感想を懐いた次第。こんな事も、この世には在るんだ、という、ビックリの、歴史的事実。
私も、反省に反省を加えないと、あの、自身が今では最も忌み嫌う、創価の会長の池田大作氏や、顕正会の会長の浅井昭衛氏と同じ立場、狂った立場の人種・人間となってしまう。
これら、昭和の新興宗教の立場にしか立てない、哀れな人種を見ていると、自身もそうなりはしないか、との懸念、念慮をいだき、危惧、惧れをいだく。ハッキリ言って、コワいと思う。
この二人とは、他山の石として、反面教師として、自身の反省材料として、自身の鏡を磨くが如くに、重々、しつこい位に、悔い改めて行かねばなるまい。
そう思い、考えた、自身の振る舞いを大いに大反省致し、自己を改め、改心して、心と行動を転回して、生きて行こう、生き直そう、と思い直しました。
例え、人が、許そうが許すまいが、私が反省している事には変わりがないのだから、愚直にも、それこそ、御本仏宗祖日蓮大聖人様が仰った、「冥の照覧」であり、たとえそれが、誰にも認められなくても、ただ、御本尊様だけは、ちゃーんと見詰めて見抜いて下さっている。御本尊様だけは、確かに、何の、誰にもよらずに差別なく、左右されずに、この私をしっかりと見定め見続けて居られている、との自覚の下に、自身、晴れがましく、何人にも左右されずに、他人から認められようが認められまいが、そんな事共には一切関知せずに、御本尊様根本で、生きてゆく事をこの場に於いて、御本尊様の面前にても、本気で、本心から、必ず誓い申し上げます。なづき(脳髄)が砕ける程に、強盛にお祈りし奉ります事を、ここに誓い申し上げます。
さすれば、いつの日にかは、私にも、人々からの御赦免の機会も訪れ、人との和解の時が必ず持たれ、来たる日も、遠くはない筈、との確信めいたものをも、感じ取った、春四月の、下旬の最中、もうすぐ五月になんなんとする、うららかな日ののどかな一日であります。
以上。よしなに。wainai