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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

最近の自民党議員はだらしがない、情けない、非常に悔しい、この想い。 真実の、日本の伝統文化を守る、自由民主党への大願成就への提言!

2022年11月30日 14時55分33秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 最近の自民党議員が、やけに派手に、問題ばかりを起こし、酷い衆目を集めるような、衆愚政治をやっている事に非常に、私は自民党支持者に今年の九月から成り代わったが、それにしても、酷い惨状に胸を痛めている。
 自民党議員による、カルト邪教・創価学会・公明党と、これもカルト邪教・統一教会との連立・連合・選挙協力による、弊害、被害、国民感情の非常な悪化。
 これに加えて、最近の相次ぐ大臣等々の辞任騒ぎ。それに追われる岸田首相・内閣。
 この他、最近では、地方議員で、妻を殺害するに至るという、容疑を掛けられた自民党県議も出たというから、何をかいわんや、である。
 これに、今のラジオで聞いていたニュースでは、政治資金規正法に違反する形で、又、自民党議員がやり玉に挙がって居るという、速報を聴いたばかりである。
 何か、自民党議員の中では、何かが足りない、欠落して居る、振る舞いがぞんざい過ぎないか?余りに国民を、ここまで舐めて掛かると、その内、というか、そんなに遅くない、極めて早くに、極限状態状況の、悲惨な状態、つまりは、自民党下野、二〇〇九年の民主党政権の再来、悪夢の時代が始まり兼ねない。
 自民党が夢見て描く、「憲法改正(創憲)」などは、夢のまた夢、現実化は決してせず、それらは、又しても、野党共の言うなり、何十年も、戦後、七、八十年間も、昭和憲法の居座った状態、こんな、アメリカの言いなり憲法、米国の押しつけ憲法のままの、日本にとっての最悪の非常事態が、この八十年間では無かったのか?このまま、自民党の党是、国民の真の幸せの為の第一歩の、「令和憲法(新憲法)」発布公布へ向けた、新たな動き、時代のうねりは、今のまま封殺されてしまうのであろうか?
 もう、私は、今の憲法、日本国憲法(昭和憲法)は、もう沢山だ、飽きた、嫌だ、大嫌いだ、勝手に押し付けられたものを、何で公明党や共産党や、立民や社民党は、後生大事に守り、営々と不磨の大典の如くに、守ってゆかねばならないのか?
 アメリカの為?アメリカなんかは、とっくに、そんな、日本国憲法を自分ら、GHQ、マッカーサー元帥が残して押し付けていった憲法の事実、現実など、他人事として、なーんも感じず、考えても居ない。ただ、何で、日本の自衛隊と、米国の国軍が協力協調しようとすると、軍事演習なんかをしようとしても、実際上は、日本側の制約が余りに多く制限を掛けられ、されているのを、怪訝に思いつつ、まさか、自分らが過去、第二次大戦戦後、米国が憲法を押し付けたせいで、日本がそれだけの不利益を被っているなどは、時の大統領(バイデン民主党大統領サン)でさえ、果たしてちゃーんと理解してるかどうか?
 日本人だけが、この憲法に、現憲法、日本国憲法(昭和憲法)に頑なに拘り、固執し、凝り固まって、後生大事に守っているに過ぎない。
 新たに、そんなに、基本的人権の尊重が大事ならば、それを、新憲法、これから皆で議論してゆく改まった憲法に盛り込む事を、大々的に、自民党とて、訴えて言ったってちっとも悪くはない。むしろ、新憲法創設の、新たな原動力と成り得る。
 しかし、憲法九条は、戦力の保持・交戦権の認定は、これは絶対に、改憲、憲法改正を掛けて成立、今で言う、合憲と為さねばならぬ。これは、自主憲法制定の、憲法の骨格、国家の骨格、決まりの、一丁目一番地の、国民の大利益に基づく、憲法の根幹に関わる大事、である。
 日本国民にとって、自国を守る、自衛のための、他国侵略じゃない、過剰防衛じゃない正当防衛の、最もこれが基本的人権の最たるものが、私が今言う、自衛権、敵基地反撃能力を持つ交戦権(やられたらやり返す正当な権利)、世界の悪国(中国や北朝鮮、ロシア等々の、人権の全くない非道、非情、最悪の国家群)との、一旦、危急の時来たれば、何も、日本国家としても、交戦権を発動して、世界の善たる国と協調して戦って何が悪い。
 日本も、時と場合により、被害が及びかねない、地理的、経済的、自然的、外交的な状況、状態に置かれた場合、日本国としても、その戦いに参戦するのは、きわめて合理的な判断だ。日本にもいずれ、累(るい)が及び、被害が及ぶのが時間の問題となる時に限るが。
 日本は、戦前戦中の、国家としての、他国との争いに因る、甚大な被害を及ぼし及ぼされた深く際限のない体験、実体験がある為に、そんなに簡単に、「侵略戦争」と日本共産党(日共)や社会民主党(社民党)、中国(中華人民共和国)や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、韓国(大韓民国)、台湾(中華民国)等々の偏頗な野党や他国反日三国人達の言うような、そんな簡単な手段を日本が正当に、当たり前の如くに手段を択ばずに使う訳が全く無いのである。これだけは声を大にして言いたい。断じてない。言い切る。
 問題は、この日本が、これら、反日の息の掛かった三国人国家、北方ロシア連邦などから、攻められた時、事、場合を、状況を、ひたひたと感じ、日本国民、日本人の皆さんには、深く胸に手を当てて、自身でしっかりと考えてもらいたい。日本が外国に攻められて、領土領海領空を犯されて、なんにも反撃も反対も、抗う事なく、攻められっ放しで、イジメられたらイジメ返すのでもなく、果たして泣き寝入りなんですか?、と。

 昔、フォークソングで、大分昔だが、加川良と言う人が「教訓1」という、反戦歌を歌っていた。
 その歌の中では、たとえ、この国が、その時代、加川が生きていたその時代には、今ほど、中国や北朝鮮等々の、侵略に怯える危機の時代ではなく、東西冷戦の最中ではあっても、アメリカとの日米安保条約、アメリカの核の傘の下の、非常に安楽な、気楽な、「昭和元禄」とも称された、極めて平和で暢気な時代であった。
 その頃の、加川良は、その「教訓1」の中で、「命は一つ、人生は一回だから命を捨てないようにね」「慌てるとついフラフラとお国の為だのと言われるとね」「御国は俺たち死んだとて、ずっと後まで残りますよね」「失礼しましたで終わるだけ、命のスペアなんてありませんよ」「青くなって尻込みなさい、逃げなさい隠れなさい」「命を捨てて男になれと、言われた時には震えましょうよね」「そうよあたしゃ、女で結構、女の腐ったので構いませんよ」「死んで神様と言われるよりも、生きてバカだと言われましょうよね」「綺麗事並べられた時も、この命を捨てないようにね!」「青くなって尻込みなさい、逃げなさい隠れなさい」という歌であった。
 これは反戦歌であり、当時も良く歌われたようである。この曲に刺激されて、シンガーソングライター、作詞作曲者の、最後のフォークシンガー、これら世代のあと、後(のち)の時代に出て来た、「松山千春」氏などは、後輩として、この人を正当に評価し、後世に語り継いでは居る。
 しかし、松山千春さんは、現在は、自民党寄り、右翼より、右寄りの御意見であり、この時代の、反戦左翼思想とは、全くの無縁の存在である。極めて面白いのは、松山千春さん程の、右寄りの人が、こんな、左巻きの、左翼思想、日本国憲法(昭和憲法)を地で行くような歌を歌っている人、加川良、この他、松山さんは、岡林信康(たしか、キリスト教牧師の息子で、フォークの神様、と呼ばれていた人)をも信奉している。
 昔のフォークソングとは、こんなもんしか無かったのである。後の時代に、吉田拓郎や南こうせつとかぐや姫、井上陽水などの、四畳半フォーク、フォークソング、ニューミュージックの、一大勢力・ムーブメントが押し寄せる。
 その後は、女性歌手のシンガーソングライター、中島みゆきや松任谷由実、が70年代から80年代、その後、八神純子や尾崎亜美、竹内まりや、男性では、山下達郎、サザンオールスターズの桑田佳祐、YMOの3人、はっぴいえんどの大瀧詠一、等々の、錚々たる布陣の作詞作曲家が数多く出て来る。
 とにかく、その、加川良という、浮世離れした、今現代現在の時代情勢から見れば、かなりの理想主義、現実離れした考え方に代表されるのが、今の左翼思想、極左集団の、日共、社民、立民、令和、等々になるかと思う。そんな、一時的に、昭和の頃流行った、理想を追い求めたって、害悪になるばかりである。
 これを、未だに、これら害悪思想、日本国憲法(昭和憲法)の残滓、害毒を、述べ伝えて、大々的に公表、発表、美化、宣伝し、この自虐的な反日憲法を喧伝する者たちが現今でも、まだ大勢居る。このバカ共を、何とか改心させ、反省、悔悟、悔い改め(何もこの言葉は、基督教の専売特許でも何でも無い)させねばならぬ。
 だから、今は、自民党、自由民主党と、それに賛同致す諸政党に、多く国民を巻き込み、賛同者を募って、憲法改正、改革、創憲への第一歩、初めの第一歩としなければならない。それを、先般お亡くなりになられた、安倍元内閣総理大臣は、第一義に、申され、誰よりも必死に願い、懇願し、御遺志として、御遺言として課題を我等国民に託し、遺されたのであり、我々はそれらを引き継ぎ、護持し、守護し、必ずや成し遂げねばならぬ。安倍元首相の弔い合戦の為にも、是非。
 絶対に、憲法は改正せねばならぬ。これは、今生きている、日本国民の達すべき悲願、念願、大願であり、これを成就せねば、これから百年千年と続く皇国大日本国の永続、伝統と文化は途絶えてしまうかも知れない。それ位の危機に我々は居るのだという認識を、日本人ならば持ち、日本の隣国他国とも相対峙し、国を守る気概を持たねばならぬ。
 何で、軍事大国に日本が成ってはならぬのか。誰だって、自分の家の戸締り、カギ掛け、防犯対策は、じぶんち位は決して疎かにはしないであろう。
 それと同じ事である。防衛予算を積み増やす、国家防衛、軍事には元々、お金、予算の要る、掛かる元手が掛かるもの、性質なのだ。
 よその家でも、昔、長島茂雄巨人軍ジャイアンツ監督が「アルソック、してますか?」とやっている宣伝、CMを見たことがある人も、多くいるかも知れません。アルソックとは、総合警備を担当する会社です。要するに、警備会社の一つです。
 その、警備を、各家庭で「アルソック」が担当するという。其れにはそれ相応の、お金、警備費が掛かるでしょう。当然ですよね!
 それ位、国家予算の中でも、「防衛費」は、他国隣国が見積もるよりも、特に四海、十方を侵略国家、共産主義国家に囲まれた国、日本ならば、今現在の防衛予算なんて、スズメの涙、カスのような額に過ぎず、日本共産党や社民党、現在では立民、れいわの叫ぶ、「防衛費を下げろ」とのシュプレヒコール、叫びは、詰まりは自殺行為、自分で自分の首を絞める行為です。絶対に、これらを戒め、これらを禁戒し、これら思想に近づいては成りません。これらの意見は、反動的、反日的、反国家、反伝統、反文明文化的な、三国人国家、北・中国・韓・台・露、等々の反日国家の言い分をそのまま受け売りした意見に過ぎません。絶対にこれら意見、日本の主な野党の言い分に賛成賛同してはなりません。
 それら野党は、それら反日国家勢の、多分に息が掛かった、反日国の意見に支配され、陰では常にそれら国々の言い分を普段常日頃から言い聞かせられ、言う事を聞く様に仕向けられた、反日議員達ですから、我々も一々聞いている必要性など微塵も在りません。
 尚、これに、与党の中でも、邪教・創価学会が支持母体の、邪・政治団体・公明党も、中国の犬、ポチとなり、中国に忠実に従う忠犬としての、他国、特に、中国韓国に大変非常に甘く、大甘で、それら日本の侵略を中長期的に考え実行に移そうと企てた国々との密接な太いパイプ・友好関係は、その、公明党の創立者・池田大作氏(創価学会第三代・名誉会長)が指示・指令し、命令し、企画・企図したのは今も昔も明白である。元々が池田氏自身が、どこの素性の出身者、果たして日本人のそのものの元になる国籍者なのか、その立ち居振る舞いからも、大いに疑問符の有る人物がそれら物事を、一人いい気になって築き上げて来たものです。そんな、一個人、この場合、一宗教団体の、それも、暗示的・強迫性脅迫・金品強奪・カルト性が非常に疑われる団体の意見などに、特に現時に於ける、日本国の希望の星の自由民主党が、国是が日本の伝統と文化を守る主義主張の政治政党が、こんな訳の分からぬ、素性も明かさず、ただ、中国・韓国を自身の大友好国として名乗り、大々的に奉っている、媚中、媚韓の政党、カルト宗教の政党と共に長く、二十年にわたり、政権に就く等、絶対に有っては成らぬ事です。これを一日も早く、今現在の、同じカルト宗教として問題になって居る、これもカルト・韓国新興宗教・キリスト教異端・邪教・統一教会との永遠の決別、これは韓国カルトですが、これら過去の清算と共に、日本国内の、日本生まれのカルト教団、邪教・創価との、関係清算、関係破棄、関係断絶を、今すぐにでも実行に移し、自由民主党が動き出さないならば、これら、カルト教団との関係性の断絶・謝絶は、絵に描いた餅で終わる事になるでしょう。
 何も、韓国だけがカルトの教えの総本山があるばかりではないのです。日本国内にも、東京都新宿区信濃町に本部を置く、宗教法人・創価学会、これこそが、日本のガン、日本発のカルト教団としての地位を占め、それらが多数を頼みにしているのを良いことに、「赤信号、みんなで渡れば、コワくない」を地でゆき、皆が皆、多勢に無勢で、宗教団体が政治政党を持ち、国家の政権政党の一翼を担うなど、現憲法違反なのは百も承知で、悪事を為し続ける。それを国民は、さじを投げて、諦めて、ただ黙って見守る、つんぼ桟敷を演ずる他は無い。こんなのって、国民の正当な権利義務から言ったって、有りと言えるのか?私は無し、だと正当に思いますけれどもね。
 国民をバカにするのもいい加減にしろ、と言いたい。いつまで自民党は、こんな、今まで述べて来たバカげた事共を行えば気が済むんだ、と言いたい。
 「百年河清を俟つ」ではダメなんです。あてどもない、自分たちで自力で、本気になって改革、日共が、日本の革命を企てて居たり、創価が、「総体革命」と称する、日本の三権の行政・立法・司法の乗っ取り、各分野、マスコミ、警察権力、防衛分野自衛隊にまでその触手を伸ばし、汚い息のかかった創価独自の人材群を各界に送り込む、これはある程度は、成功したと言えるでしょう。今現在の状況からすれば。
 しかし、創価と言えども、その内、高齢化の波が必ず押し寄せ、その組織内の弛み、組織の弱体化、退潮現象は避け得ないでしょう。それは現在進行形で、創価内部では現実の証拠(現証・現罰)として、自身の組織内に於いて、緩やかに進行中です。それは正に、成人病・メタボリックシンドロームに侵され、自身では何一つ気付かずに、死への準備段階へと移りつつある、今の現役世代、其れか或いは、退職後の余暇を悠々と送る世代の、ある人は全く危機意識を持たずに生活をそのまま送り、やがて早死に、遅くない将来、平均寿命よりももっと早くに死を迎え遂げてしまうかの様な、現証・現罰とは正に、実に怖いものなのです。

 私は日蓮正宗御宗門側の人間ですが、御本仏宗祖日蓮大聖人様の御聖訓「後生を畏れよ」と言いますか、本当に、今生でも、過去世からの因縁がこれ程出て来るんですから、現在積んでる罪障が、未来にわたり出て来るのは、理屈・道理から言っても、大聖人様の御意見に従わざるを得ず、全くの、その、過去世・現世・未来世、の三世を永遠に貫く法、というものがある。
 これを我々日蓮正宗では、「法華経」、即ち「妙法蓮華経」と申し、その中でも、日蓮大聖人様がお悟りになり、お表しになり、御体験を述べられ、立宗宣言為された時に唱えられた五字七字の大事の御題目「南無妙法蓮華経」が、その最大一の、御正意、御正当な第一義、第一番の、最大限の、我ら日蓮正宗僧俗一致・信徒の眼目、大願成就への一番の近道が、この御題目であります。
 それに付随する、法華経の経典は、あくまでそれへの助行、にしか過ぎません。
 あくまでも、正行は「南無妙法蓮華経」の御題目です。
 これが判る日本国民、日本人の方々は、今はそうは多くは居りませんが、必ず、大聖人様は、この御教え、日蓮正宗が大繁盛し、大いに栄え、日本一国広宣流布、乃至、世界広布する時代、時が必ずやって来る、と仰せです。それは「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は 大地を的とするなるべし」(御書六六六頁)と大聖人様は仰せられ、明らかだ、と御書の中に述べて居られます。
 その時は、今とはかなりの、大変に時代的に万民が大いに慶び、時代を寿ぐような、近未来の訪れとなり、日蓮大聖人様は『如説修行抄』に広宣流布の様相について、次のように述べて居られます。
 「妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」(御書六七一頁)。

  今の創価が言う程の、世界宗教となったと宣う程の広布にはなっては居らず、それは情けない程の人数の少なき勧誘であり、創価のは微弱貧弱な、かなり世間の評価は、創価内と、外の、日本国内でも異論続出で、誰も今の日本国民で、多数を占める人々は、創価学会が世界宗教になった、なっている、とは、誰一人、認めないでしょう。
 それは、世界の宗教人口に占める割合は、何億人・何十億人という、キリスト教カトリック・プロテスタント諸教派・東方正教会等々、イスラム教シーア派・スンニー派等々の、大世界宗教がその大多数を占め、それらの大元のユダヤ教、インドの(実はインドは仏教国だと勘違いする人もあるが、現在は全くと言っていい程関係性が無い)バラモン教を受け継いだヒンドゥー教、ジャイナ教、シク教、チベット仏教、儒教、道教、上座仏教(南伝仏教、小乗仏教)がそれらに順不同に続く。それらよりも遥かに劣った宗教・日本の新興宗教の一派、一派系、一分派、にしか過ぎぬ、日本で単独で大勢だからって空威張りしているのが、ズバリ創価!カルト洗脳教団・創価!
 日本で最大派閥の宗教団体だ、とは言っても、まだ上には上が居て、「神社本庁」なんかは、創価の八百万を大きく上回る六千万人だか七千万人だか、日本の二人に一人は神社神道信者、これは、神社のぐるっとその土地・地域の周りの人口を、信徒信者と数え考える神社側の理屈も垣間見えるが、とにかく、創価は自身がエゴ剝き出しで、日本最大の宗教団体、世界宗教などとほざくには程遠い事を自身で知れ!このあほんだらめが。
 とにかく、日本で、政界で最大与党の自由民主党が、創価公明が日本で一番の信者がいると無理に考え、勘違いして、大票田だと思い過ごしたのがそもそもの大間違いの大元。その襟を正し、まともに本当に日本人・日本国民に真っ向から向き合い、日本の歴史に名を残し、真実に日本の為に戦う気力がある人だけが、自民党に残れば良いと私は思い、考える。そこから、自由民主党の再生のドラマの第一章が始まり開くと、私は考える。

※以下に、私のお寺の元副講頭の、政治にも詳しい、現・参政党の支持者でもあるK氏に、その、自民党内部事情、自民党の暗部にも触れた記事を、ここに掲載する。既に、自民党の私の各記事に於いて、それらKさんの記事を目にされた方々も多かろうが、それ以外の読者へも、大いに参考になるだろうと目し、そのURLを此処に、掲載する。
 以上。よしなに。wainai

これで、私も立派なゲーム機器・任天堂スウィッチ、ゲーマー

2022年11月30日 11時49分47秒 | 映像・映画・ゲーム・アニメ系

 私は、昨日付で、任天堂スウィッチの箱の封印を破り、箱を開き、ゲーム機器の初期設定、PCのネットHPにての説明書をよーく下調べして読んだ上で、数時間、ゲームに勤しんだ。
 まあ、楽しかった。今日はまだゲームは一切しては居ない。今日は何だか昨日の反動か、したい気がしない。不思議なものである。
 昨日は、うちのゲーム機器の型式、ソフトが古いとPCのネット上に出て居て、実際にうちのゲーム機器のソフト年代を調べると、型番が古い。これは、ネットにつなぎ、アップデートすれば解決すると踏んだ私は、早速Wi-Fiの設定を済ませ、無事、アップデートにも成功した。
 インターネットには、ホントにこのゲーム機器は弱い感じもするが、YouTubeのソフトを入れて見たら、これがいける。本当に、ユーチューブが楽しく見られるのである。
 これは、儲けもんだと思った。こんな楽しさを今まで知らなかったなんて、何て自分は損をしていたんだろう、と思った。
 結局、このゲーム機器、任天堂スウィッチを買ったのが先月十月十八日の火曜日だったから、もうとっくに一か月ちょっとが経ってしまった。時間のムダを自分はやってしまった。
 ネット上説明書にも書いてある(任天堂は、紙の説明書は付けず、一切がオンライン、ネット上の説明書である)。半年に一回は、最低でも充電をして下さいと。そうじゃないと、充電池が劣化してしまうと。やはり、使わないと、駄目になるのだ。

 そして、肝心のソフトだが、「集まれ、どうぶつの森」は、これは楽しい。皆、短編、というか、時間が決まっているみたいに、短編小説の如くに楽しめる。物語性がある気がする。その場の、キャラクターたちとの友情も楽しめるし、協力協調し合う重要性も学べる気がする。その、無人島での、島生活が、時間も短くまとめられていて、切のいい所で終われる。
 しかし、これが「放浪者、フランケンシュタインの創りしモノ」というゲームは、絵が、背景絵画、音楽は申し分なく美しいんだが、結局、私の様なゲーム初心者、初めてゲームに取り組む者にとっては、どうやって次の場面にゆくのか、全く分からず、暫くその場面で、迷う、というか、さまよい、さすらい、本当に「放浪者」とはこの事なのか、と思う程、攻略法も全く分からず、途中で投げ出しそうになっている。何だか、非常に詰まらない感じのゲームであり、ただ、背景画だけが、水墨画のように美しい、音楽も、物々しい程のリアルさで、ある意味、コワさ、恐怖すら感じて、孤独感すら感ずる程の、これは、私は結構な値段で買ったが、千円でもいい位のレベルの、駄作と言っちゃ、駄作の様な気もしている。二度目に買うかと言ったら、絶対に買わない。

 これに懲りて、というか、その予言的な行動を自分は取って居り、その、おととい、二十八日月曜日から、私は、つまりは前の日から、ゲーム、ゲーム、と、念仏のように内心唱えて居り、ゲームがその日は、夢中になりたい程の求め方が自分の内で起こって居た(実際はネット上でソフトを買っただけで終わった)。
 その日も私の通院日であったが、その帰り、何故か、将棋のゲームがあれば、面白いのに(私は以前、将棋が強かったので…)、一生懸命ゲームで勉強して、もっと強くなりたい、とその日は非常に思い心に念じていた。
 その帰り、セブンイレブンで、四千円、アマゾンギフトカードを入金して、うちに帰り、暫くアマゾンのHPを見ていた。
 すると、「世界のアソビ大全51-任天堂スウィッチ」という商品が見えた。これをクリックすると、何と、そのソフトには、「将棋」の他、オセロ、麻雀、ビリヤード、カードゲーム(大富豪、七並べ、他)、ボードゲーム、花札、チェス、五目並べ、ボーリング、ゴルフ、トイベースボール、トイサッカー、他トイシリーズ、これらの、他、世界中の面白そうなゲームが何と全部で51種類もあるという。
 それらも、じっくり取り組むものから、一分間程度で終わるゲームまで、非常に多彩であるという。
 それらが、一本のソフトで、三千数百円となれば、これは買うしか有るまい、買いました。今週、届きます。

 こういった、私もゲームの趣味を身に着けてゆく。誰にも文句は言わせない。考えて見れば、私だって、お母さんと一緒にトランプの七並べ、ババ抜き、等々をお正月など一緒にやったし、お父さんとは、将棋をやって、大分鍛えられた。それを思い起こせば、懐かしく、感慨を持ってこのゲームに取り組めるというものだ。

 私は、何度も言うが、人生には、無駄なものなど一つも無い、といいたい。私は、卒業のない、人生大学・社会大学へと邁進して学び、一生修行、一生仏道修行中なんだと、日蓮正宗の大仏教大仏法哲学を、思い致し、思い知り、考え、自身の想像力・イマジネーションで補い、学んでいる真っ最中、途中、途上の者である。私は、それ以外の、何者でも全く無い。至極、簡単な事、話である。

 以上。よしなに。wainai

以前の紹介した、TOSHIBA TY-C250 CDラジオ機器への、紹介記事の、再編集、今一度、語りたい事。

2022年11月30日 10時18分13秒 | ラジオ・テレビ・新聞雑誌ネット等マスコミ。ラジオ機器オーディオビジュアル製品
追々記・編集後記(二〇二二年、令和四年、十一月三十日水曜日午前十時現在の私の気持ち)
このCDラジオ、壊れていると思いつつ、大事に寝かせて取って置いた。
何と言っても、パソコンの、ポータブル外付けBDドライブ以外は、このCDラジオがうちの、我が家の生命線であり、これ以外、これしか選択肢がないからだ。
暫く寝かせて、置いて置いたら、何と、直っていた。電源を入れても、勝手につくような事は全くない。
一応、信用はしていないので、この機種を常時コンセントにプラグは差さないようにはしている。
しかし、良く聞けるし、うちにあるレコードプレーヤーの立派なお供、外部端子に拠るステレオスピーカーの役目も立派に果たし、ラジオもAM・FM両方聞けて、CDも聴ける。いい事ずくめのCDラジオである。
この製品を作ってくれた、東芝には、正に神としか言いようがなく、ただ、崇め、神々しい製品群を産み出す正確には、東京芝浦電気株式会社、略して、東芝には、ただ、感謝、である。

新宿高野の、高野フルーツパーラーの、開店記念のソノシートレコード盤。
以上。よしなに。wainai

今年令和四年二〇二二年八月、夏の終わりに買ったCD三枚(正確には内二枚組があるので、四枚)

2022年11月30日 07時41分17秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集

 谷山浩子さんのベスト盤CD、「ベスト・ア・ラ・カルト」を八月に買った。このCDは、ずーっと昔、郡山市新さくら通りにあった、「鵞湖(がこ)書房」にて、レンタルとして借りて、カセットテープに録音した。
 しかし、うっかりして消してしまった。とっても大事にしていたのに!そのがこ書房も、もうその頃にはすっかり店舗を畳み、無くなってしまった。
 市内の幾つもの中古屋、レンタルCD店、図書館等等に行っても、絶対に手には入らなかった。
 それを、久しぶりに、アマゾンを見て居たら、何と売っていた。買うしかなかった。
 このCDのどの曲もとても大好き。特に「お早うございますの帽子屋さん」などは、以前、ラジオ福島の、と言っても、今から三十年位前か、その時代、ラジオ福島アナウンサー、今はフリーの、鏡田辰也アナの夜の番組のテーマ曲がこの曲だった。私は、どうやって調べたのか、ネットも何も無い時代、この曲が谷山さんの曲と知り、早速、上記の「がこ書房」にて、レンタルしたのである。

 
 松山千春さんの二枚組、野外ライブ、松山千春LIVE「大いなる愛よ夢よ」~1982.7 札幌・真駒内野外競技場~、は、歌の外は、ほとんど、千春さんのMC、しゃべり、語りが満載であり、この時代の千春さんの考えが伺える。千春さんは、おしゃべりがとても面白い。これも彼の才能なんだな、と思う。


 最後は、演歌で、「尾形大作」の「俺の道」。この全ての演歌の楽曲が素晴らしいんだが、中でも何故このCDを選んだかというと、このアルバムの「無錫旅情」という、当時一世を風靡した、大ヒット曲が入っているからだ。この曲目当てで、このアルバムを買った。素晴らしいの一言である。
 この「無錫旅情」は、ある男が、女と別れて、中国大陸、無錫を中心に、縦横無尽に傷心旅行をする。最初に目に映るのは、雄大な中国大陸の、全ての広大な姿。そこで、自身をその男は見つめ反省する。旅路を急ぎつつ。中国の歴史の街、無錫がぼやけて見える。
 最後は、もう一度出直そう、今度君と出会ったら、二度と君を離しはしない、と明るい希望に包まれて、最初は悲恋の歌かとも思えたが、その、演歌、というか、軍歌調の曲調は初めから何か、大きな希望を抱かせ、期待させるものであった。
 最後は、主人公の、明るい希望に包まれた、期待感を大きく歌い上げ、大団円を迎えるその歌の姿勢、形式が、その、昭和当時の、音楽ファン、演歌ファンの心をぎゅっと掴み、射止めたのであろう。
 素晴らしい三枚三種三様の(実際上は内、一枚は二枚組なので、四枚)CDアルバムを手に入れられて(アマゾンにて)、今年八月当時も今現在も、ウキウキで、ご満悦の私である。

以上。よしなに。wainai

アマゾンミュージック反田恭平さんの作品が何故かiTunesに移行できていた

2022年11月30日 05時51分37秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 昨日の夜から私は自身が買った1TBのmicroSDにアダプターを付けてSDカードとして、自身の音楽資産、二百数十GBの、PCからの移行、移設を夜通しやったのだが、怪我の功名?か何か、ケガは一切してないのだが、移設した一覧を覗いてみると、何と、反田恭平さんのCDダウンロード目録がiTunesの欄にあったので、そっくりアマゾンミュージックから移っていたと思われる。
 私のPC側の反田さんを見ると、一曲しか入っていないので、ファイル>ファイルのライブラリに追加、をして、何とかダウンロード楽曲一枚分、一時間一分をiTuensに移行した。
 何でこうも上手くいったのかは判らない。元々出来る仕様だったのかも知れないし、無料移行ソフトをマイクロソフト社のストアからダウンロードしたせいかも知れないし、アマゾン社が、仕様が変わったのか、それも考えにくいが、とにかく、iTunesでも反田恭平さんのラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が聴けるのは非常に有難い。心強いとはこの事だ。
後日談:microSDに曲を移設出来ていると思っていたが、良ーく調べたら、ちーとも移ってはいなかった。それで、その後、誤って、私のiTunesの中身の音楽資産を消してしまった。
日頃から、バックアップを取ってあったから良かったものの、冷や汗ものだった。
このmicroSD1TBは、ゲーム機、「任天堂スウィッチ」の、中身に入れて、何かの時に役立ててみようと思って居る。
このmicroSDカードは、キンドルfireは返品返金が利いたが、このカードは、アマゾンマーケットプレイス(第三者業者)の為、返品が出来ない。それで、こんな、二次策、三次策、を考えねばならない。ただ、自分が、使わないと勿体ない、という、ケチ、貧乏くさいだけなのかも知れないけれども。

以上。よしなに。wainai

昨日の日蓮正宗無量山寿海寺に於ける「御会式」。今、俳優・織田裕二の著作を読んでいる

2022年11月28日 08時33分07秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 昨日、午前十一時から、日蓮正宗無量山寿海寺に於いて、「御会式御正当会法要」が厳かに執り行われた。
 これは、十月十三日が、御本仏宗祖日蓮大聖人様の御命日に当たり、その日を、福島県内の十何か寺で持ち回りで御会式を開催する為、我がお寺、寿海寺は、十一月の一番最後の土日に行われた。
 日蓮正宗・大日蓮出版「諸宗破折ガイドの分冊版①仏教各派」御本と、紅白饅頭が振舞われた。
 この日は、皆が皆、男性はスーツ・背広であり、女性もスーツ姿が多かった。私も勿論、スーツ姿、一張羅であった。
 この、スーツのネクタイが面白い。普通、大聖人様の御葬式に当たるのだから、黒のネクタイか?というと違うのである。
 この場合、白のネクタイが正しいのである。大聖人様の滅不滅をお祝いし、末法の御本仏の、三世永遠の実在性、この世にまだ居られる、示同凡夫としての滅は示すが、仏様としては常住なんだと、こういう論理、説明で、皆、会った人毎に、「おめでとうございます!」というお言葉掛けをする仕来り、習いとなっている。決して、悲しみの式ではないのである。
 この点が、極めて日蓮正宗宗門は、オプティミズム、楽観的であり、何事も祝い事にしてしまう楽しい世界である。
 お葬式の香典も、お寺に上納する、葬祭料、読経料も、各自の自由な金額の裁量、気持ちで結構と言われて居り、幾ら包もうが経済が許す限りの個人の自由である。そのお金を包む香典の包みも、日頃、月毎の御供養も、赤色のお祝いの包みであり、自身で「御供養」と書くと、指示されている。

 そして、昨日、お寺から帰って来てから、夜は、読書を楽しんでいる。織田裕二という俳優、歌手の『脱線者』(朝日新書、朝日新聞社)という本で、これを、以前、私は近所の古本屋で買い求めたものだ。
 何気なく買い求めた本だったが、この本の冒頭に書き綴られている、「自殺しようと思ったことがある。」の言葉に、私は遂、釘付けになった。彼ほどの、立派に芸能界で立身出世を計った者が、若い頃、自殺を考える程、悩みを持って居たなんて…。これは大いに、私にはショッキングであった。
 その、彼なりの解決方法、彼の場合、運動部でテニスに血道を上げすぎ、人生の全て、夢の全てはテニスだと思い込んでいた。それがある日、運動のし過ぎで、膝をぶっ壊す。そして、自殺を考えた。ここから、彼の転生、人生の転機を迎えていく。
 その経過が、非常に興味深く、大変に私の人生にとっても共感を持って、感じ入っている。
 まだ途中の、読みかけの書物だが、うちにある本は、皆が皆、良書ばかりだなあ、と、感慨を新たにしている。
※編集後記。
 この、織田裕二の本は、余りに若過ぎ、えぐいくて、人生観に無理が感じられたので、もう読むのは止めにした。何か、読んでいて、こちらは辛くなるのだ、余りの緊張感、エネルギッシュさ、ギラギラ感により。
※のちに、この著者、著作について、私なりの批判文を寄せている。以下、URL参照。
 以上。よしなに。wainai


日蓮正宗無量山寿海寺に於ける、師匠と弟子。御住職様と、私との対話。人様に不甲斐ない、配慮無かった私。恵まれた私の環境下にあって、御住職様なりの御判断・御名答!

2022年11月27日 16時57分34秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
これは、福祉相談員に送ったメールですが、私の、今の、お寺、御住職様、講頭さんの、Hさん等々の恩情にもかけがえなくも触れるよすが、心地がしたので、転載致します。御容赦の程を。

こんにちはです。wainaiです。

私としては、先ほどの話の続きじゃないですが、

看護師さんに来て貰わないと非常に困るのです。

何よりも、服薬の管理。これが最重要課題です。

それから、体温計、血圧計、測量、それら話をしている間にも、

私は、今、悩んでいる悩み事等々を、看護師さんに常に聞いて頂いて居ります。

この安心感は、経験した者じゃないと、計り知れない程、全くの門外漢には、全然分からないはずです。

この安心感、K様には、果たして、分かり得ますか?分からないでしょう!

それを、私は、バカにも、うちのお寺のトップ講頭に、今度、うちに、週一位に、看護婦さんが来るんだ、と言うと、辞めた方が良いと言う。

私は、余りに理不尽であり、これは、私の入院中の主治医、K林女医先生、何より、本来の主治医、T先生の指示、御判断でもあり、そんな、いくら、お寺のトップだからといって、それはない、と思った。

それで、ありとあらゆる、お寺に所属する、講員、つまりは信徒に電話で聞いた。

すると、皆、異口同音に、Hさんは医者でもないのに、越権行為であり、それは、いくら、お寺のトップでも許されない、と言う意見で全て埋め尽くされました。

その時のHさんは、私は心理学の本も少しだけかじっていて、その話では、本来ならば、絶対に日蓮正宗では認めてはいない、

小乗教、の教えにも一理あり、その心理学の今、Hさんが読んでる本にもそれを踏まえた事が載ってる、と言う。

この事も、私は絶対におかしいと、お寺の、今言った関係者に言うと、心理学と精神医学は全くの別物。Hさんもどうしちゃたのかねぇ、と言う反応。

いよいよ、キナ臭くなって来たので、今言った、お寺の人が、そう言う事は、是非とも、御住職様に聞いた方が最適だ、

と言うので、御住職に電話で直接、率直に聞いた。

まず、例により、御住職様は、両者、双方の意見、気持ちを聞かない事には、本当の真実、真相は全くわからない、とあくまで、裁判官の口振り。

私は、私の言った通りですよ、御住職様が私を御信じにならなくても、一向に構いませんけども、私がHさんから電話で聞いた事が全ての真実ですし、Hさんも彼が嘘をつかない限りに於いては、彼も同じ事を言うと思います。私は一切、天地神明に誓って、嘘は申しては居りません。

こう、御住職様に申し上げました。

すると、御住職様は、ふーん、とため息をついた後で、

じゃあ、wainai君は、その、Hさんとの電話を、何時ごろにしたの?

と仰るので、

午前6時か、それ以前の、午前5時台だったと思います。と何気なく言うと、

御住職様は、
それだ。
とお答えになり、そんな早い、誰だって人が眠っているかもしれない時間帯に、wainai君はいいよ、その日は午前3時、4時には起きてたんだろうから。

けれども、だ。

Hさんにとっては、今、起きたばっかりだったのかも知れない。

いきなり、wainai君から電話が来て、気が動転したかも知れないし、それは分からない。

けれども、wainai君も、もっと、人の気持ちが判る人に成ると言うか、もっと、人の自由になる時間帯、迷惑にならない時間帯に、電話しても良いとは思う。

決して、wainai君が、人様に、電話をするな、と言ってるんじゃない。

時間帯を選びなさい、そう、申して居る。

分かったね、wainai君。もう遅いから、これで電話は切るけれども、又、何かあったら、電話寄越してもいいし、何時でも、お寺に来て、又、一緒に、皆と、御題目をとなえようよ、それじゃあ、また。

と言って、御住職様は、電話を切られ、私は、その場に於いて、尚、自分を反省、省み、暫し佇み、御住職様の御心配、御意見、御慈悲に触れる思いで、只、自身、畏れ入り、恥じ入るばかりの、夜の候となった。

以上。よしなに。wainai


今年も「ラジオ福島、通りゃんせ基金」に募金!

2022年11月25日 12時54分53秒 | ラジオ・テレビ・新聞雑誌ネット等マスコミ。ラジオ機器オーディオビジュアル製品

 私こと、wainaiは、今年も、ラジオ福島が主催する、「ラジオ通りゃんせ基金」の趣旨に賛同致し、募金を、東邦銀行にて、行なって来た。
 障碍者へのチャリティーの期間が、今の時期であり、12月24~25日に、記念の放送がある。これは、基幹の東京のニッポン放送がこれも主宰している。これに賛同して、日本の各局ラジオ放送局各社が、賛同して、一斉に放送を繰り広げる。
 それに、いつものように、東邦銀行の、斎正機画伯の、来年のカレンダーも三本もらって来た。
 これらが滞りなく済むと、今年も年の瀬だなあ、とひたひたと大晦日、正月がやって来るのをしっかりと実感する。

 今年も、皆様、お世話になりました、と、一言、添えたい。

 以上。よしなに。wainai


五木寛之著「捨てない生きかた」を読む

2022年11月23日 21時02分17秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 
 読後感は、歴史の、記憶から、特に戦争の忌むべき歴史的事実が失われる事への著者の危機感が最後の方で述べられる。人の「生命」が亡くなれば、後は「モノ」が伝えるしかないと。全体を貫くのは、日本の高度成長期は、登山でいう、上り坂の時期、「捨てる文化」で良かったかも知れないが、その後の低成長時代を、日本の「下山」文化・時代と五木氏は呼ぶ。
 世界史を見ても、どこの都市でも、歴史の経済状況が絶頂を迎えた時が、その文化の最高ではなく、それからのタイムラグがあり、その経済絶頂から、幾分か時代が経ってから、文化が盛り上がってくる、それが世界史だと、と五木寛之氏は説く。
 それから、モノの全くない、殺風景な部屋に住むのは味気なく、モノだらけ、ガラクタにまみれて居た方が、そのモノたちへの「記憶」を留めた、懐かしさ、郷愁、想い出等々、それだけの豊饒な文化的な生活が維持出来ると力説する。モノには、それだけ長いその人個人の「歴史」が封印されていると。
 五木氏は、今の、断捨離ブームに抗ったり、反対する積りは全くない、という。
 しかし、その、何でも捨てればいい、とする、その背後に、何か一抹の寂しさを著者はひたひたと感じているような気がした。
 この著作は、2022年令和4年1月に発行され、勿論最新の、コロナ禍についても述べられていて、極めて新しい五木氏の所見を伺った気がした。

 以上。よしなに。wainai

私と、私の母の『勧誡式』の日、肝心の私には日蓮正宗に入信した時の折伏者がいない、その理由、訳

2022年11月23日 10時11分38秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私は、二〇一七年平成二十九年二月八日に、突如、日蓮正宗無量山寿海寺に、ほぼ駆け込み寺のように、私は突然、突撃訪問して、「御本尊様、下さい」「(創価の)ニセ本尊は、食うなり焼くなりして、この通り、お寺に御収め致します」と言った。
 もう、勝手気ままに、こちらから事前の報せ、何の打ち合わせもなしに、アポも取らずに、夜討ち朝討ちの如く、朝、九時前にひょっこりとお寺に私が直接、現れて、それも、何か思い詰めた、真剣な眼差しで、私はお寺に自転車で向かい、誰よりも真面目に(そう思い込んでいる)お寺に乗り込んで行ったのである。
 その時、数人の、もうお寺は、毎朝六時半には開かれていたのだけれど、九時の唱題行には、それ以前から、もう数人、姿を続々と現していた。
 私は、人を憚らず、忌憚なく、この偽本尊が私の人生を狂わせたんだ、このすべての元凶が、こやつなのだ、と力説した。そして、涙ながらに、私の人生上、半生上で起こった様々な災厄、難を語り、そのニセ本尊を突き出して見せた。
 これは、正に私の真摯な訴えではあったが、人が聞けば、愚痴かも知れぬ。しかし、私は私の人生が本気で一生が掛かっている、大事な時期なのだと考え思った末の、行動だった。
 すると、全てを聞き届けた、うちの御住職様は、「それら全ては、この、ニセ本尊に因る、害毒の結果です」と仰られた。
 私は、何故か安心した。そう言われて、納得づくで、納得が出来た。
 それから、私一人と、お寺の皆さんでの、唱題行、改め、勧誡式(かんかいしき)となる。
 それが終わり、やっと御本尊様が頂けるかと思ったら、突然、御住職様が、「お母さまは元気になさっていますか?」と聞いてきた。私は何のことやらさっぱり分からず、「ええ、元気ですけども、何かあるんですか?」と聞き返した。すると、御住職様始め、取り巻きの皆さん、全員で、お母さんも、勧誡を受けた方がいい、絶対その方が良い、と訴える。
 私は、母は元気ですけれど、大分高齢で、こんな、二月八日の、極寒・酷寒の寒い日に、こんな寒い日に母を道中、こんな寒い道の中を連れては来れない。私は自転車で来たんだけども、母は今は自転車すら乗れず、最近に車は廃車にしてしまい、足が全くないんだ、歩いて来ないといけない、と愚痴をこぼした。
 すると、当時、女性としては初の講頭となっていた、G講頭さんが、「だったら、私らが送ってあげる。この人は、元、タクシードライバーで、腕のいい運転をしますよ」と言って、その男性の方を紹介した。名前をI本さんと言った。口数が少なそうな、素直そうな朴訥そうな人であった。
 私は確信した。この人らならば、母の命も、私の全生命、全人生を投げ打ってでも、この信心で何とかやっていけるんじゃないのか、と。
 そして、母は、I本さん運転の車で家とお寺を往復し、私と同じく、私は二度目の、勧誡式を受けた。
 この日は、G講頭さん、Y口H美さん、I本さん、それに忘れてはいけない、御住職様と、これらの方々のお世話になり、真新しい、正真の御本尊様を御下附頂く為に、入仏式を執り行った。うちの家の仏壇に、これらの方々が勢揃いした。
 しかし、事前に、「入仏式」と聞いて、私は薄ら寒いものを感じた。当時の我が家は家計が火の車で、とても、そんな、お寺の御僧侶にお金、大金を包む程の余裕など、どこにもなかった、恥ずかしい話だが。
 それで、その直前に、まだ御住職様がお寺に御滞在の時に、私は一方的に電撃的に電話を掛けた。曰く、私のうちは貧しく、そんな、御僧侶、お坊様を呼べるような格式ある、立派なうちじゃないんです。来てもらっては、困るんです、と。
 すると、御住職様は、うちの宗派は、決して、暴利を貪る様な、邪宗の様な、法外なお金、御供養はお取りは致しては居りません、とキッパリ語った。
 それで、嫌々、というか、渋々、その御意見に乗る形で、御住職様を我が家へと迎えた。(実際に、この日かかった経費、は、御本尊様代金、三千円のみであった。その前に、毎年の納骨料二千円分。これには、様々なご意見を後から伺い、それではいけない、ある程度、気持ちで、あと千円でも二千円でも、包まなくちゃいけないよ、というご意見。それと、終わった話なんだから、それをそんなに悔やむ必要はない、というご意見。)
 そして、御住職様は、うちの過去帳をご覧になり、この過去帳は、日蓮正宗の、比較的新しい、平成時代の過去帳だ(父が創宗和合していた、平成に亡くなったから)、と仰り、創価学会時代は、この歴代上人、大聖人様の御父母、大石寺御建立御寄進に精力を傾けた南条時光殿の外にも、創価学会初代牧口会長、二代戸田城聖会長の二名が加わった過去帳があった、等々を御住職様は語った。
 そして、この家には、一見して、なんの謗法物も見当たらないのがいいですねえ、と御住職様は我が家を褒め、けれども、うちの一角に、大きな、スタンド型の、頭を入れて乾かす巨大なドライアー、壁の写真には、外国映画女優・オードリーヘップバーンの、髪の毛をドレスアップしたポスターが張られているのを見た御住職様は、一番に、母の以前やっていた職業を言い当てた。
 「お母さんは、以前、美容師か何かを、なさっていたのですか?」
 これには、私も母も驚いてしまった。その鋭い洞察力!人を有り様を見抜く目力!凄いと思った。その通りだったからである。
 それから、御住職様は、付け足しで、こう言った。
 「この家は、何か見ていると、人をただでは受け付けない、人を毛嫌いし、人を寄せ付けない所を感ずる。どうかそれを止めて改めて、『千客万来』の、人様が大勢現れ、集まり、訪れて来る、そういう、そういった家、人を受け入れる家庭を目指しましょう」と仰った。
 これらの話を聞いていて、何か、今までの創価学会時代とは、その、人数規模では劣るが、それらの、ビューロクラシー・官僚制の如くに冷たい創価とは訳が違くて、こちらの世界は、その家庭的な、あったかい、人柄がとても良い、ドライではない、ぬくもりのある人情の様なものを、まるで昭和二十、三十年代の頃の、創価学会第二代会長戸田城聖先生時代の懐かしいあの頃を彷彿とさせる、あったかさを、私はこの日蓮正宗に対して初めて懐(いだ)いた。
 入信したその日から、こっちの方が良い、こちらに決めた、と誰でも人情からそうなるではないか!
 それから、私の今日が有る。
 実はこの前日、私は自殺未遂を起こしている。それは、母の介護に限界を日々感じ、自身の人生を恨み、悔やみ、惜しみ、何一つ、自身のこの身この体この心を人様の為に使おうともせずに、勝手に世の中を恨み、妬み、謗り、世を蔑みはかなんだ末に取った行動であった。
 しかし、次の日には見事、何とか回復?し、一晩休んだ結果、その時の晩から、お寺に行く事は、母とも合意して、取り決めていた。
 私のうちには、父の遺骨が、日蓮正宗無量山寿海寺に眠っている。毎年毎年、うちでは、ちゃんと、その二千円の納骨料は納めていた。しかし、去年前年に限り、そのまま払わずにいた。
 これを、私は、非常に気にかけていた。お父さん、どうなっちゃうんだろう、と。
 それで、私が首つりの後遺症で、疲れを見せながらも、やっとのことで、母の差し出すお茶を飲みながら、話したのが、明日、必ず、お寺に行って、納骨料をお納めする事、それから、これら、酷い事ばかりが、我が家に立て続けに起こった原因、結果が、あの、創価発行の、ニセ本尊にある。これを取り払い、この謗法物をお寺に預けに行って、今度は、正真の、今の代は御法主日如上人猊下だから、その真新しい御本尊様を頂いてくる、と。
 私は1999年頃位から、パソコンのインターネットで、家で何でも調べ物をしている関係で、良ーく、世の中の事、創価学会に対する批判批評、非難の記事を、動画を、それ以前から、これでもか、これでもか、という程、一杯、沢山、浴びる程見て聞いてきた。それらには、YouTube動画の、樋田昌志さん、黒川和雄さんら頼もしい方々が居る。
 その結論が、今回の、この、お寺に駆け込む、という、一連の行動となって表れた。この行動に、もはや悔いなどは全くない。むしろ、悦ばしい出来事となって、自身の人生を光り輝かせている。
 私には、当然、折伏した人、折伏者、折伏主(親)が全く居ない。これが私の弱みであり、当時の入信提出表にも、折伏者を空欄で出した。
 きっと、その欄には、その当時の講頭だった、G講頭さんか、或いは、有り得ないとは思うが、御住職様?かが多分、折伏者となっているんじゃないかとは思っては居る。
 それで良いとも思う。実際に、私は、このお寺や日蓮正宗関係者のみんなが私の折伏者、人生、人間皆、師、先生なり、であり、特にこのお寺の全員を私は、それは、御住職様・奥様を筆頭に、それに、総本山の御法主上人猊下様は第一番で、欠かす事は出来ない事だし、それらの方々を、私の、大教師だと思っている。
 その他、講頭さんだとか副講頭さん、役員を務める方々、御先輩各位、御同輩、御後輩に至るまで、皆が皆、私の大師匠、大先輩だと思い、勤め、励んでいる。私はもっと頭を地面にこすり付ける程、平身低頭で、慎ましく敬虔で、謙虚謙遜で有らねば成らぬと思い続けて居る。皆に詰まらぬ事で嫌われぬ為にも。
 皆、どの人も、日蓮正宗の方々は、見習うべき点、感心する点、感動感銘を受ける点、がてんこ盛りであり、どの人に倣っても一切無駄がない。それだけは言える。
 皆が皆、一度でも御授戒(ごじゅかい)・勧誡(かんかい)を受けられた方々は、全員、優秀、エクセレントexcellent、なのだ。何度も言うが、一切、無駄がない。どんな人にでも、必ず学び甲斐がある。
 こちらは日々、学び、襟を正す日々が続く。
 全く、創価を何十年やっていたって、それらは詰まり、非常にまずく、傲慢さの固まりであって、創価を何年やったって無駄にしか成らず、そんな事はどうでも良い。
 こちらの方が大事、日蓮正宗の御事、御教え、正法を、知ってるようで、全く知らない私が居るのだ。是には改めて驚かされる。
 とにかく、日々が信心。日々が精進。日々が修行。日々が学び。日々が発見。信行学、自行化他に亘る、人生修業は、一生続く。
 又、とにかく、私は、命に及ぶ自らが招いた、因果に亘り、過去世が原因の、難を忍びつつ、現世現在に、臨終只今なりとの、罪障を今に未来に出来るだけ積まぬよう細心の注意を払い、謗法は払い除け続け、これを、最高真実最良の最大限の結果を、果実として、未来世に受け繋ぎ、見事、宿命転換を図り、成仏を遂げる。人は三世永遠の法、生命を知る。その為の仏法である。
 命に代えても、生まれ変わったこの私には使命があると、これは、日蓮正宗に死身弘法して、ついてゆくしか、方法がないでしょう。是こそ、日蓮正宗こそが、私にとっての生き甲斐、生きる印、象徴なんだと言う事が、自明の理、である。
 これを、「事の一念三千」の正法法義の下、人間機関車・ブルドーザーの如くに実際上現実上に進めてゆく事こそが、私の一生涯の夢、希望である。

 ※編集後記: 以下、この上記の記事に関連して、私と母の勧誡式の当日の模様、大体のアウトライン、それらを振り返った、その年、2017年の当時の、私の思い出し書きの、ブログ記事のURLを貼り付けて置く。尚、この記事は、このブログの、初めての、初頭を飾る、トップバッターの、極めて初期も初期、第一回目の、初投稿ブログ記事である事を、ここに改めて、お断りしておく。
 何分、大量の、かなりの長文の記事である為、お気をつけて、気ままに、お時間がある時にでも、自由に読者諸氏自身の宗教的背景を振り返り、考え直し、どうやって、日蓮正宗に入り直す時に、読者諸氏が、想い立った日には、きっと役に立つ日が来ると信ずる記事であるからして、これを、ここに貼り付けて、記す事にする。
(私の第一番目、初投稿の、この私のブログの初頭を飾る、ブログ記事)
 以上。よしなに。wainai

「法華経は最高の兵法也」、日蓮大聖人様の御言葉集、御金言。

2022年11月22日 13時32分05秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類

日蓮正宗総本山富士大石寺、御本仏宗祖日蓮大聖人様(一二二二年~一二八二年)の御言葉、御金言集。

「愚人にほめられたるは第一のはぢなり。」(開目抄下、五七七頁)
「仏法は時によるべし。日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ、大いに悦ばし。」(開目抄下、五七八頁)
「実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。」(諸法実相抄、文永一〇年五月一七日五二歳、六六五頁)
「嬉(うれ)しきにも涙、辛(つら)きにも涙なり。涙は善悪に通ずるものなり。」(諸法実相抄六六七頁)
「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名を立て身をまかせ給ふべし。」(諸法実相抄、六六七頁)
「現在の大難を思ひつゞくるにも涙、未来の成仏を思ひて喜ぶにも涙せきあへず、鳥と虫とは鳴けども涙をちず、日蓮は泣かねども涙ひまなし。此のなみだ世間の事には非(あら)ず、但偏(ただひとえ)に法華経の故(ゆえ)なり。若(も)ししからば甘露(かんろ)の涙とも云ひつべし。」(諸法実相抄、六六七頁)
「師子王は前三後一(ぜんさんごいち)と申して、蟻の子を取らんとするにも、又猛(たけ)きものを取らんとする時も、勢(いきを)ひを出だす事はたゞ同じき事なり。」(経王殿御返事、文永十年八月一五日五二歳、六八五頁)
「夫(それ)仏法を学せん法は必ず先(ま)ず時をならうべし。」(撰時抄、建治元年六月一〇日五四歳、八三四頁)
「人、路(みち)をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや。良医(ろうい)薬を病人にあたう、病人嫌ひて服せずして死せば、良医の失(とが)となるか。」(撰時抄、八三五頁)
「法華経を信ずる人は冬の如し、冬は必ず春となる。いまだ昔より聞かず見ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には『若有聞法者無一不成仏』ととかれて候。」(妙一尼御前御消息、八三二頁)
「約束と申す事は違(たが)へぬ事にて候。」(上野殿御返事、八二四頁)
「後悔先にたゝず」(法蓮抄、八一七頁)
「近き現証を引いて遠き信を取るべし。」(法蓮抄、八一四頁)
「大事には小瑞なし、大悪興(をこ)れば大善きたる。すでに大謗法(ほうぼう)国にあり、大正法必ずひろまるべし。各々なにをかなげかせ給ふべき。迦葉尊者にあらずとも、舞を舞いぬべし。舎利弗にあらねども、立ちて踊りぬべし。上行(じょうぎょう)菩薩の大地より出で給ひしには、踊(をど)りてこそ出で給ひしか。普賢菩薩の来たるには、大地を六種に動かせり。事多しといへども、繁きゆへにとゞめ候。又々申すべし。」(全文。大悪大善御書、文永一二年、五四歳、七九六頁)
「心の師とはなるとも心を師とせざれ。」(曾谷入道殿御返事、七九四頁)
「月は山よりいでて、山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。」(十字[むしもち]御書、一五五一頁)
「なにの兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法を用ひ給ふべし。諸余怨敵皆悉摧滅(しょよおんてきかいしつさめつ)の金言むなしかるべからず。兵法剣形(ひょうほうけんぎょう)の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶うべからず候。恐々謹言(きょうきょうきんげん)。」(四条金吾殿御返事、弘安二年一〇年二三日、五六歳、一四〇七頁)
「夫(それ)運きはまりぬれば兵法(ひょうほう)もいらず。果報つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず。」(四条金吾殿御返事、一四〇七頁)
「今謗法の酔ひさめてみれば、酒に酔へる者父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後歎きしが如し。歎けども甲斐なし。此の罪消えがたし。何(いか)に況(いわ)んや過去の謗法の心中に染みけんをや。」(佐渡御書、文永九年三月二〇日、五一歳、五八一頁)
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。  建治二年丙子(ひのえねえ)六月二十七日、日蓮 花押」(四条金吾殿御返事、御書、九九一頁)
「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし。」(上野殿御返事、弘安元年四月一日、日蓮大聖人御書新編・大石寺、一二一九頁)
「此の南無妙法蓮華経に余事を交(まじ)へば、ゆゝしき僻(ひが)事なり。」(同上)
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたまへり。」(開目抄上、五二六頁)
「実には釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なり。」(下山御消息、御書、一一五四頁)
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ。」(開目抄下、文永九年二月、五一歳、五七一頁)
「詮(せん)ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期(ご)とせん。身子(しんじ)が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)の責めを堪へざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵(じん)をふる、悪知識に値ふゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生を期(ご)せよ。父母の首を刎(は)ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむとちかいし願やぶるべからず。(主師親三徳の御言葉)」(同上、開目抄下、五七二頁)
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざるをなげかざれ。我が弟子朝夕(ちょうせき)教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。拙(つた)なき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。」(同上、開目抄下、五七四頁)
「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。」(最蓮房御返事、文永一〇年一月二八日、五二歳、六四二頁)
「上行菩薩末法の今の時此の法門を弘めんが為に御出現之有るべき由、経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん、出現すとやせん。日蓮先(ま)づ粗(ほぼ)弘め候なり。相構(あいかま)え相構えて強盛(ごうじょう)の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事(しょうじいちだいじ)の血脈(けちみゃく)此れより外(ほか)に求むることなかれ。煩悩即菩提、生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益(むやく)なり。」(生死一大事血脈抄、文永九年二月一一日、五一歳、五一四頁)
「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か。」(同上、生死一大事血脈抄、五一四頁)
「末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし、不軽菩薩の利益(りやく)此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」(諌暁八幡抄、一五四三頁)
『四箇の格言』、
「大難の来たれるは、真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊との給ふゆへなり。」(諌暁八幡抄、一五四〇頁)
「かゝる日蓮を用ひぬるともあしく敬はゞ国亡ぶべし。」(種々御振舞御書、一〇六六頁)
「所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。」(「就註法華経口伝 下 廿八品に一文充の大事」御義口伝下、「五百品」、御書一八〇一頁)
「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病障(さは)りをなすべきや。」(経王殿御返事、文永一〇年八月一五日、五二歳、六八五頁)
「いかなる処にて遊び戯(たわ)はぶるとも恙(つゝが)あるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女(こうたいにょ)の守護ふかゝるべきなり。」(同上)
「但し御信心によるべし。剣(つるぎ)なんども、進(すゝ)まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心の健気(けなげ)なる人こそ用ふる事なれ。鬼に鉄棒(かなぼう)たるべし。」(同上)
「わざわひも転じて幸ひとなるべし。」(同)
「日蓮が魂(たましひ)を墨(すみ)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御心(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」(同)
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『充満其願、如清涼地』『現世安穏、後生善処』疑ひなからん。」(同、六八五頁~六八六頁)
「書は言(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。」(『建長寺道隆への御状』文永五年一〇月一一日 四七歳、御書三七六頁)


大聖人様の御金言は、何時(いつ)の時代にあっても、真実極まりない。この御教えは、永遠に廃れる事無く、永遠に語り継がれ、日本一国広宣流布、世界広布へと続いてゆく事であろう。永い旅路となるだろうが、我々、日蓮正宗法華講僧俗一同は、大邁進(だいまいしん)し、大驀進(だいばくしん)する一心で、この私の人生の途上の中での、私は、護法への不自惜身命を誓い、この大法をより多くの人々へと教え伝え導き、邪宗邪教の誤りは誤り、間違いは間違いと見破り見抜き、邪師による、邪義邪説邪道邪法邪智邪行邪業邪淫邪見邪難を構える相手をも、相手の間違いを慈悲をもって指摘してやり、勇気をもって破権門理、折伏・破折し捨て去り打ち捨ていつかは必ずやこちら側の味方に付け、一大勢力と成し遂げ、大仏法哲学、大仏教実践実学思想、獨一本門の三大秘法の戒壇の大御本尊様を有する、日蓮正宗を世界宗教にまで必ず持ってゆく。要するに、折伏こそが、大慈悲なのだ。この真実の御教えにひたぶるにひたすら、ひとえに、すこぶる健気(けなげ)に、あまねく、これ一筋に信じて生きてゆこうと、これが、日蓮正宗こそが私の信ずる至高最高最上最大甚深の、世界中のどこを探しても、これしか、これ以外には他に全く求めるには及ばない、大日本国、中部東海地方、静岡県富士宮市上条、霊峰富士山の麓、日蓮正宗総本山富士大石寺こそが、世界最大の大宗教、私自身の宗教信条、天下の大法なんだと、私は思い、考えている。

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「論語」孔子の世界

2022年11月19日 22時21分21秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
子の曰わく、人の己を知らざることを患えず、人を知らざることを患える。
先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、人を知らないことを気にかけることだ。」(「巻第一、学而第一」以下、同じ。)

子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして憾(うら)みず、亦た君子ならずや。
先生が言われた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも嬉しいことだね。(そのたびに理解が深まって向上していくのだから。)だれか友だちが遠い所からたずねて来る、いかにも楽しいことだね。(同じ道について語り合えるから。)人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね。(凡人にはできないことだから。)」

曾子の曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
曾子がいった、「わたしは毎日何度もわが身について反省する。人のために考えてあげてまごころからできなかったのではないか。友だちと交際して誠実ではなかったのではないか。よくおさらいもしないことを(受け売りで)人に教えたのではないかと。(「岩波文庫」より。)


おそらくこの三つ目は、あの、辞書などで有名な、「三省堂書店」の謂われ、書店名の名前の語源なのかな、とこれも孔子様の言う「受け売り」では困るんですが。

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2022年Yahoo!本屋大賞・ノンフィクション部門、大賞に、この作品が選ばれて欲しかった。落合選手監督が一番!!!

2022年11月19日 18時51分51秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平/文藝春秋)
出版社からのコメント
 いま、球界で名将と呼べる監督はいるのだろうか。いるなら、それはどのような人物なのだろうか。この本はそうした思いから始まっている。善悪や是非、白か黒か。鈴木忠平さんはいずれにも偏らず、取材対象との間合いを保つことに努めた。その結果生まれたこのノンフィクションは、プロ野球選手がレギュラーであり続ける覚悟、ライターがものを書くことの覚悟、そして落合博満監督の、勝つために嫌われる覚悟を鮮烈に描き切っている。それにしてもこの本が持つ力は何であろう。一体、何人の人生を変えるのだろうか。(引用、終わり)


 落合博満選手監督は、知る人ぞ知る、現役バリバリの「日蓮正宗信徒」である。その事実を知る人は、我ら、正宗信徒の詳しい人か、ネットに慣れた人、反(アンチ)日蓮正宗者(創価・顕正会・正信会、の愚者共、他、邪宗邪教の類の詳しい信者共)位のものであるが。
 この方は、非常に類まれなる、非凡な才能をお持ちで、それは、中日ドラゴンズ選手時代、読売巨人軍ジャイアンツ選手時代から、その卓越した、バッティング、本塁打(ホームラン)、守備で鳴らせた。
 監督に成られてからも、その才能を遺憾なく発揮された。
 この人こそは、球界の救世主、人を救う、折伏主ではないだろうか?
 日蓮正宗信徒としても、この人は、正に、見上げた存在、偉い人だと思う。
 こんないい人に、どうして、本屋大賞・ノンフィクション部門が受賞出来なかったのか?それだけが、悲しい。
 私も、機会があれば、この本を手に取って、読んでみたい位だ。

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PC関連の判りやすそうな本を買う。好きな朝のNHK第一ラジオについて

2022年11月19日 07時37分06秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
注文日、11月16日水曜日、
①世界一やさしいWindows11(528円)
②500円でわかるTwitter最新版(550円)
③大人気YouTuber方式Excel&Wordのスキルが見るだけで身につく本(1,540円)
以上、三点、販売、アマゾンジャパン合同会社
合計金額、2,618円。
これに、あと、「大人のためのline、Facebook、Twitter、Instagram、Zoomパーフェクトガイド」(価格:1,320円)という本も買ってしまった。Instagramがさっぱり分からず、悩んでいる。後は、この本のInstagram以外の項目は、付属品位に思っている。

残りのアマゾンギフトカードの残金残額も、
残り少なくなってきました。ふーっ。
帯は邪魔なので、外した。帯は、「しおり」として、使う。

今、現在、朝六時台から八時まで聴いているAM中波ラジオの、「NHK第一ラジオ」の至れり尽くせりの、音楽、天気気象、ニュース、特集、等々の、てんこ盛りの番組放送姿勢に、本当に頭が下がる。「ラジオとは、こうでなくちゃ。ラジオに本当にラジオリスナーが求めている放送番組って、こういうものなんだ、という、本質を見た聴いた」というこれは私の実感であり、非常なNHKラジオのサービス熱心さ、力の入れようにラジオ界の真実を見た(聴いた)のである。

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反田恭平のラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番、昨日のしばじゅん。しっかり、じっくり物を聴き、書く、読み込む、と言う事。

2022年11月17日 12時50分18秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 今、反田恭平さんの、「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番ハ短調 作品18」を聴いて、ホッと一息ついている。

 これだけじゃない。この(私のはダウンロード版だが、同じく、本来ならばCDの)アルバムには、「パガニーニの主題による狂詩曲」という、これは、短い時間の曲がいっぱい入っていて、これで全一曲とこのアルバムでは成っているらしい。この「パガニーニ……」というのも、どうやらラフマニノフ作曲らしい。

 これが、二つで、一時間くらいのものである。素晴らしい演奏力で反田恭平さんはピアノを演奏なさっている。本当に、良いのである。凄い出来だ。ブラボー、大拍手、である。

 この曲は、ロシアの作曲家のラフマニノフが作ったクラシック曲だが、とてもロシアっぽくて、土臭くて、私は同じロシアでは、チャイコフスキーと並んで、ラフマニノフが、私は大好きだ。今はロシアは、対ウクライナ戦争で、問題が大ありなんだが…。昔は、あの頃は、良かった、と言う事で…。

 反田恭平さんと、ロシアのアンドレア・バティストーニ指揮、RAI国立交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団のオーケストラとの、ピアノの丁々発止であり、ピアノと楽団が、互角に闘う、というか、協調する、というべきなのか、元々、協奏曲、というぐらいだから、共に手を取り合い、仲良くやろう、といった風なんだろう。

 反田さんも、極めて御謙遜な方であり、常にオーケストラの方々、指揮者の方には大変に気を使って居られる風である。その謙虚さが、又いい。

 とにかく、今日、朝、初めて通しで聴いて、今が、二度目である。何度でもイケそうな気がして来た。こんなに、一枚のアルバム、音楽を、一曲通して、何度も聴くなんて、自分には大変珍しい事だ。それだけ、素晴らしい。

 昨日届いた、しばじゅん、柴田淳さんのCDも、昨日全三枚聴いてから、今日、Disc1を通して聴いた。こちらも非常に良い。これもエクセレント、秀逸である。これも、この後、心して聴くつもり。

 私は、最近、ずっと音楽づいて来ている。音楽を趣味にする私は無敵だと思う。私に、音楽をとれば、なーんにも無くなってしまう事は、想像に難くはない。

 それと読書だ。昨日、早速、五木寛之先生の、「捨てない生きかた」(マガジンハウス新書)が届き、これを早くも、ページをめくりつつ、秋は終わってしまったが、「読書の冬」と、自分自身で銘打ち、頑張って読んでいる。と言っても、自分が気取って頑張らなくても、極めて気楽に通して読めてしまう、五木先生の優しい御本の語り口なのである。

 これと、二日前くらいにブログ記事に書いた、青春の門、竜馬がゆく、がばいばあちゃん、西郷隆盛、等々と、それと、忘れてはいけない、日蓮正宗の御本「妙法蓮華経並びに開結」「日蓮正宗聖典」の二冊、それから、今、手元にある、これも日蓮正宗の機関紙「大白法」(令和4年11月1日号と、11月16日号)、「慧妙」(令和4年11月1日号と、11月16日号、つまり両紙とも同じ日付)の新聞も読む。

 できれば、これに、先々日、先月位にここの、このブログ記事でも述べた、うちに来たヘルパーさんとの会話の中で出て来た、渡辺淳一著「遠き落日」(上下二巻)も福島県民としても、福島を代表する世界的医学者、医学的権威の、野口英世博士の全生涯の話をも、是非とも読みたい。

 他にも、読んでない本、積読状態、一杯有り!

 と言うと、これは、大変な事で、その他、うちでは、先月のと、今月今週日曜から月曜日の「断捨離」というか、本の整理にて、大量の本が出て来ているので、これも読む必要性があるのである。

 こんな、本を読む時には、絶対に歌や歌詞の無い、クラシックを聴くに限る。これにこんなのに、曲に、歌詞、詩が載せてついていたら、とてもじゃないが、やってられない。

 音楽か、本・書物・著作物、どっちか無視の、どちらも無視かの、とんでもない事になりそうだ。ラジオかけながら、読書、というのも有りだが、やはり、最後は、ラジオは消してしまう事が多い。
 ラジオでは、音楽特集が主でDJ(ディスクジョッキー)が少々、ならば聴けるが。その音楽も歌詞無しがベスト。と言う事は、自然、NHK-FMということになるか。それ以外は、英語などの外国歌ならばOK。

 それよか、最初から、ラジオなんかは聴かずに、無音の、部屋で一人、テレビもラジオもPCも音楽という、音の鳴るもの一切何もつけずに、本と孤独に無言に一対一の対話をしているのも大あり。その方がむしろ、自分は集中できる。当たり前田のクラッカーだ。(私も、古いなあ)。
 別の機会に、ラジオはラジオで集中して聴きたい。

 それだから、しばじゅん、柴田淳さんの曲などを聴く時は、特別に時間を作ってあげて、極めて集中力を高めて、私は耳を凝らして、聞き耳を立てて、ゆっくりじっくりしっかりと、これは、しばじゅんさんの曲を聴いて、聴き抜いて、知り尽くさねば、聴いた者じゃないと、その良さを知らないと、判り切った物、事ではないと、私は断言出来ます。その素晴らしさが…。

 反田恭平さんのダウンロードアルバムが、それを聴く回数が、とうとう、今、今日の段階で、三回目となっています。パソコンでキーを叩き、物書きをするには、クラシックも、歌詞付きの歌も、この場合は、どっちでもいいんですが、やはり、歌・歌詞無しのクラシック音楽の右に出る者はないでしょうね。

 以上。よしなに。wainai