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「群山郡山歌会」火花飛び散る程、白熱した議論歌論。於:大槻公民館、R6年2024年7月13日土曜日午前十時~

2024年07月13日 15時38分11秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日、アララギ派の短歌の流れを汲む、「群山郡山歌会」が開催された。


 完了の助動詞「つ・ぬ」
 「ぬ」日の出、今、太陽が出た。今出て来た。頭出して海や山から。
 日出で「ぬ」。

 「つ」日が出た。完全に。日が昇った。もう出ちゃった。完全に出た。(を含む)。
 日出で「つ」。

 感覚的に覚える。
 
 こういうことを考えてゆくと、自分の歌風、その人なりの、真意がわかってくる。

(生徒さん作)
 正義ある判決の出たその夜は皿洗ふ手に力が入る

 口語と文語が入り混じって、いいのかな(作者の生徒さん)
 口語体ならば、この方が良い(先生)

 「写生」のこの歌の良い所。事実をそのまま詠んでいる。作者の気持ちが入っている。
 
 文語体ならば、「出た」が「出でし」。「力が」が「力の」へ。そのまま、「入る(はいる)」じゃなくて「入る(いる)」。(自然が大事)。

 私が余計な事を言い、「力を」ではどうなのか、と言うと、先生は、「を」だと、ちょっとニュアンスが変わる、という。

 今は口語文語混合でも良いと言われているので(生徒さん)
 短歌で大事なのは下の句、結句。(先生)

 (生徒さん)「いれし」にして。(先生)原文のまま、手を加えない方が良い、と判断。

数を作れば段々わかる。

 短歌結社『群山』、「写生論」・「写実論」=あるものをそのまま写し取る。

 正岡子規→斎藤茂吉→土屋文明、『アララギ派』を引き継ぎ→東北大学教授扇畑忠雄先生へ。扇畑先生は、アララギ派の土屋文明先生の直系、愛弟子。師弟関係を結んだ。

 (生徒さん作)
 びわ実り明日仏前にそなえんと思ひあさはかもずの大群

 昨日、びわをもいで置けば良かったのに、鳥にみんな持ってかれた。
 (あさはか)に対する思い。作者のこう思ったとか、一切ないのが良い歌。
 大群(たいぐん:口語体)→文語体(おおむれ・おおむら)。
 文語体、「群鳥」(むれどり)。「もず」を消せば、ダブらずに、出来るが。
 「そなえんと」を、「そなえんに」の、助詞を「に」に変えたら、そのままでも良い。
 (先生)思い立ったが吉日。
 「そなえん」の助詞「ん」。正岡子規は「ん」。群山の場合は「む」。

 私の歌。
 
 大石寺(たいせきじ)集まり散じて人はかはれど心は変はらず

 (女性生徒さん)わかります。
 (男性生徒さん)むずかしい。人は集まったが、色々歴史上、散り散りにいなくなったが、人の心は変わらないのかな。人は常に、前進し、不変で心は変わらないよ、と言う自分の決意。

 (私)ハッキリ言って。この歌は、早稲田大学の校歌の三番の本歌どり。

 (先生)本人の強い気持ち。私の強い気持ち。
 
 (先生)会津八一(京都奈良を研学した。仏教的な歌、仏像の歌なども発表した人)のような人もいるが…。実際そういう人もいたが…。

 (先生)宗教色はなくした方が良い。

 (先生)
 ex.)斎藤茂吉の論。
 「実相観入」・「実相」=ドイツ語からの翻訳。「観入」=仏教からとった意味をドイツ語からとった。「観入」=観心・観念。

 (先生)仏教にはない。「お寺名は出してもいいが最後の下の句、結句が通じない」

 (先生)もう少しわかるように作って下さい。下の句が大事な所で、真似ちゃうと、(大学校歌など)合わない。この学校関係者、その他、一般的に知られた大学の校歌だから(私wainaiの母も、かつて住み慣れた学生街の早稲田なればこそ)薄々知っている、勘づく人も出て来るから、本歌取りもどうかなと。

 「人」=参拝客(皆、そう考える)。中には生徒さんで、やめてく檀家さん、僧侶、と受け取った人もいた。

 「私」=創価、正信、顕正、の異流義の方々が変わったと捉える。

 私が、まあ、一般論的に、話を譲って、参拝客と一般化しても良いと答えると、先生は、一番大事な所ですよ、と私を捉えて離さない。私は戸田先生を引き合いに出し、戸田城聖第二代会長先生の時代の頃の総本山は、それは人だらけであり、それが三代池田会長の頃も続いていたと答えた。それが昭和時代だったと。

 (先生)
 「詠む人」歌材の真実。
 「読む人」歌の中のその人、作品の真実。
それぞれの立場。歌を読む人は読んでいない。読めない。
 「詠んだ人」と「読む人」の差。

 (私)
 私の立場では、読む人の事なんか初めから考えない。その人に解釈を任せる考え方。明治の短歌の改革者・創始者、歌人の正岡子規と同じ立場である。

 (先生)
 茂吉は何を表現するかで人一倍悩む=二番煎じ、人の使った言葉は使わない。
 「さかしらなみ」茂吉の造語。
 逆白浪。逆白波。白浪。白波。逆波。逆浪。

 (先生)
 私が思い余って、このままでこの歌はゆくんだ、との訴えに、まずは話を聞いてと先生の合いの手が入る。
 「心は(変わらず)」ここで、「心」としたが、心を「われ」としたとして、同じ「われ」でも、二つあり、
 「吾」=身・私。
 「我」=生命・「仏教」の経典では全部が漢字の「我」を使う、と先生はいう。

 (私)
 そこで私が繰り出した御経典の言葉。妙法蓮華経如来寿量品の一節、宗祖日蓮大聖人様の文底秘沈の大法、御悟りの、大事な場面の一節、「我本行菩薩道」をつまびらかに、この場で提言、奉出致したのである。

 今では5分間という短すぎる簡略勤行で五座も寿量品の長行すらも唱えなくなってしまった、創価に対する私からの痛切なる仕返し、お見舞いであった。

 明らかに、大事の法門を、この場にて現出せしめた訳である。破折と皮肉の意味でも。


場面は代わって。(先生)

 最上川さかしらなみの立つ〇〇〇(聞き逃し)ふぶくゆうべとなりにけるかも
 斎藤茂吉の歌。「かも」は「か」と「も」で二つとも詠嘆。
 ふぶくゆうべとなりにけらずや この「や」強い表現。

 茂吉。赤光。けらずや「や」一首ある。
 けり。詠嘆。(短歌の場合は全て)

 斎藤茂吉は命令形は使わない。「已然形」が多い。

「先生の歌」
 男孫十(とお)まり四歳を迎ふれば人生論など語りてみたり

 十(とお)まり=十(あ)まり(古典的省略法・用語)
 (生徒さん)カッコ良い表現。

 (先生)「男孫」・「など」・「みたり」つながっている。男は十三歳で元服。ちょっと人生論でも語ってみたい。ちょっと遠慮がちに。今現在は十五歳。中三。少し大人になって来て、教えて上げたいなあと、けれどもそこまでは入り込めないなあ。

 正岡子規に範を取ったが、最低二つ、二句まで、句を真似てもいいが、三つ、三句以上は盗作かも!

老いてなほ美しきものを吾は見む若かりし日に見えざりしもの

「扇畑忠雄先生(八十一歳)」の歌。
 扇畑先生は歌の意味は全然言っていない。弟子が言っている。実相観入。
(生徒さん・今日来た見学者さん)実相的な歌を歌う場合と、おばあちゃんが赤ちゃんを背負い、手のしわの一つ一つが実相。この歌は観念的ではないのか。

 (女性生徒さん)老境の境地なのかな。

 (先生)この歌、年を取ってからじゃないとわからない気持ち。
 扇畑先生の写実論を実際に読まないと判らないが、写実が基本で大事。
 その奥にあるもの、歌の材料として、作者が匂わす言葉が入ると、
 何を言いたい、入れたいのか。不思議なんだが、短歌は滲み出て来る。


紫陽花の紫色は母の色優しくもあり逞(たくま)しくもあり (女性生徒Kさん作)

(男性生徒さん)母がびわにしろ、柿にしろ、あじさいにしろ、植えて、私らは感謝などもせず、けれども怒らず接してくれて、我々を育てるたくましさ、この歌を読んで走馬灯のように思える。たくましさ生きるすべを我々に与えた。あじさいについて文句など一言も一切言わない母。ただ感動を与える。

(先生)Kさんのお母さんをとても個人的にも知っているので、その実直さが出ていて、良い歌。

(私)私も以前、同じあじさいの題で歌を作ったが、それがこの歌は、レベルが越えたのじゃないか。韻も踏んでいるし。

 (先生)この歌は写実論を述べていて、良い歌、素晴らしい歌。

(最後に先生)若さは力であり、弱さでもある。
 短歌は、数を沢山作れば感覚は磨かれてゆく!
(今日の結論。エピローグ。大団円。)

以上。よしなに。wainai

短歌、六月十六日、日曜に一首作歌す

2024年06月16日 09時38分14秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 朝の勤行の時にかつて起こった、二羽のつがいの鳩とのふれあいを描き短歌に一首としてまとめました。まあ、これが私の今日の限度、限界です。

 法華経を我唱へをる時鳩二羽の窓に寄るなり法を求むか
  
 今日はこれからお寺で五時間唱題会です。行って来ます。

以上。よしなに。wainai 

短歌五首作れり、六月十一日の夜半過ぎに出来上がる!

2024年06月11日 22時21分23秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 今日の夜十時過ぎ、短歌が五首、出来上がりました。
 またまた、私とした事が、スランプ、短歌の難産に遭い、凄く苦しみました。
 私の近況報告と、私の信条・心情、これからのゆく道を考えて作歌しました。
 では、はじまりはじまり。


 誰よりも世界平和を望むのは大石寺(おおいしでら)の富士の高峰

 母の居ぬホームに主(ぬし)は去りにけり今はショートに使われており

 大石寺(たいせきじ)人集まりて散じては人は替はれど心は変らず

 日蓮を大聖人と呼ぶ宗は日蓮正宗のみにこそあれ

 去年(こぞ)の夏カルガモ一家我が寺に巣を作りてしやがては去りぬ

 短歌を一首作るのも、大袈裟なようですが、非常に産みの苦しみ、大変です。これを理解できるのは、歌人なのか。世間の人、常人なのか。歌人は、作り慣れているので、さほど悩まない。私の苦しみを理解できる人は果たしているのでしょうか。
 まあ、趣味の世界なんだから、そんなに大仰にならなくても良い。却って、無粋となってしまう事、請け合いですから。

以上。よしなに。wainai

短歌の会、歌会。五月四日、二〇二四年R6年AM10時、於:大槻公民館、※長文失礼

2024年05月04日 14時58分23秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日も、おおつきふれあいセンター(大槻公民館)にて、月に一度の、短歌の会、歌会が催された。

 家にして結ひてし紐を解き放(と)けず思ふ心を誰(たれ)か知らむも(万葉集 大伴家持)

 にして、=「で」~において。
 家持が地方出張の時の歌。奥さんが下着の帯を結んでくれた。=浮気をしない決意。

 旅にして物思ふ時にほととぎすもとなな鳴きそ吾が恋まさる(万葉集 一、読み人知らず)

 にして=で、にあって。
 物思ふ=これも、奥さんを思う。

 もとなな、の、「もとな」=しきりに、やたらに。

 「な~そ」~してくれるな。

 ここにして蔵王の山は見えねども鳥海の山真白くもあるか(斎藤茂吉)

 大石田の蔵王の山を望みつつ。蔵王を前にすると、鳥海山は斜めうしろに見えるのではないだろうか?(先生)

 「にして」場所を表す時。~で、~にあって、~において。

 にして、は一言ではない。
 に・して=にて。

 にして、は非常に意味深。(大伴家持の歌も)
 ここまで、私の先月の問題の歌をモチーフにした、先生なりの解説。解釈。

 前例として、今回も私の前回の一首を挙げると。「にして」の言い出しっぺの、問いを立てた、私の一首。

 大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人我は知るなり

 車にて通ふクラブに自転車を漕ぐ人のありスーパーのとなり
 
 にて=にして、で、~において。場所「位置」。
 「通ふクラブに」現代語と同じ使い方。~で(これもある。余り使わないが)

 先生の歌。福島のスーパー、ベニマルのフィットネスクラブにて。
 現代の世相を表す。わざわざ車でクラブに行って、自転車を漕ぐという、矛盾。おかしみ。

 倒置する。フィットネスクラブは長すぎるので、「クラブ」とした。
 (「倶楽部」漢字もダメかも知れない)。
 短歌の場合は人それぞれ。これ、という答えはない。漢字で表したい人はそうしていい。
 締め方の問題。

 友はけふ右の乳房を全摘す癌告知より半年が経つ(生徒さんの作)

 経つよりも「経(へ)し」(古典・古語)が良いのでは(先生)。経しの「し」=強調の「し」。
 「半年」作者が最も強調したかった。

 格助詞「の」=主語になる体言につく。これが主語ですよと。
 「が」ー格下。親しい。親愛の情を感じる。
 「の」ー位が上。敬意の対象。心理的距離がある。
 「が」と「の」でこういう傾向、違いがある。

 (歌の感想)余りに重い感じで、言葉がない。何と言ったらいいのか、やさしさがなく、厳しい歌のような。(生徒さん)

 (先生)今は何でも告知しちゃうのか。私の母も告知された(片側全摘)ので。
 
 斎藤茂吉も口語で強調して作歌した事もある。(生徒さん)「半年が経つ」で出して下さい。(短歌雑誌「群山」に)。

 私の歌。

 大槻のひなびた町を行きければホーホケキョとうぐひす鳴くなり

 「単純化」=絶対にこれは入れとかないと困る=短歌は引き算=本当に必要なものだけを入れる。

 主題は一つ。主題を絞る。
 ひねらない方が良い=単純に。
 言葉自体の単純化。
 文の単純化。

 (生徒さんのアドヴァイス=お母さんの想い、イメージを出したらもっと良くなりそう)。

 古い言葉をこねくり回して使う⇒わかりづらい。余り良くない。

 「歌」の語源は「訴ふ」。歌とは訴える事!

 「答」は要らない。ない。

 形容詞・修飾語もない方が良い。
 ex)「ひなびた」=説明的である、それに過ぎる、本当に必要なのか。
 
 改作。私の自分なりの努力と、先生の御力を借りて。

 母の居るホームの帰りうぐひすの声をきくなり母の愛せし
 (この場合、母が二つでも構わない)。

 きく=「聞く」「聴く」漢字にしちゃうと限定されちゃう。平仮名の方が、やわらかく、想像できる。

 「愛せし」の「し」私は初め、過去の助動詞「き・し・しか」だと思ったが、その場合、過去の助動詞「き」の連体形であり、前に「し」連用形となる。
 あとの別の場合の「し」は、「す」動詞の連用形。
 そして、先生が目論見、ここで一番に提示したのが、強調(未然形)。強調の場合は何でも付いてくる。
 「愛す」サ行変格活用。
 愛せず・愛して・愛す・愛する(時・人)・愛すれ(ば)・愛せよ(命令)
 
 ex)「愛せる」の「る」を受け身の「る」がある。(受け身・可能・自発・尊敬、、)

 よもぎ摘む余命幾歳知らねども餅を供えて達者であれと(生徒さん作歌)

 餅を供えて=仏壇へ供えたという。
 「達者であれと」息災で有れと。今年もよもぎ餅を作った。自分でもあるし、他へでもある。家族皆を願った。
 「供えて」を「供ふる」で止めた方が良い。
 口語、文語、どちらでも良い歌。まとまっている歌。
 (先生)説明的じゃなくてもいい、と言ったが、説明があっても良い。
 (先生)倒置した方が良いだろう。その方がハッキリする。


 白梅(しらうめ)のにほひにさそはれ我が庭にはじめてききたりうぐひすの声(生徒さん作)

 おじいちゃんの育てた梅。老木。

 「白梅(はくばい)」よりも、この生徒さんの言う通り、「白梅(しらうめ)」の方が一般的で良い。

 (先生)「さそはれ」=誰が誘われたのかが判らない。うぐいすの説明になってしまう。作者の解釈、これ作者かな、と。(一般読者が)。

 感動をドーンと出す。自分がうぐいすだと思えばそれで良い。疑いを持たなくて良い(生徒さん自信なさげ)。
 (本人が要らなければ不要=「祖父」)
 推敲する前に、どう思ったか(本人、ない)。
 うぐいすの姿はなかった。本物だ。本当にここに居るんだ。

 改作。
 白梅(しらうめ)の花にほひたる我が庭にはじめてきけりうぐひすの声
 (生徒さん=「我が庭」が説明的だから「老木」にしたいと。先生は、「我が庭」は説明的ではない。感動が「老木」じゃ出ない。自分の家の「庭」で出る)
 自分の庭にうぐいすが鳴いたのが感動。

 今日は、午後十二時を大きく過ぎて、だいぶ時間をかけて、我々、歌会、短歌の会の学徒は、熱中して、研究に時間をかけて、一首一首に全魂を傾けて、一生懸命になって学んだ。この熱意は、次第に自分の血や肉となって、実生活上にも現れて来る事だろう。

 先生も言われる通り、自分だけで作っていると本質が判らない。
 研究会だから。来年の郡山市文学の森資料館でも、短歌の提出テーマがある。去年は先生が一人で出した。
 今年から、来年にかけて、「群山」からも出そうと。五、六人出すと言ったら、郡山市でも喜んでいたと。

 帰りに先生に、新たな生徒さんが、この歌会は、いつ頃から開いているのか?との質問に、先生は、やっと一年数か月が経つか、どうか、という所。今までは、先生のご両親が中心になって、特に近年は、先生のお母さんが執り行っていたという。

 とにかく、私は、来月は一日午前十時に、この歌会がまたあるので、私は又また、参戦参加致して、より歌の世界を学んでいきたいと考えに考え、思う。

 以上。よしなに。wainai、長時間(二時間余)にわたる私が取った授業のノートより。長文失礼。

短歌、二首、作歌。今回はこれだけです。

2024年04月28日 17時51分58秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 私は、短歌の作歌活動が、人並み以上の、隔日多産量産系だとはおもっていたのですが、今回は、思う程は、出来なかった、私です。
 何だか、拍子抜けしたような、情けない、こけおどしのような、ガッカリ感に包まれている私ですが、これを機会、機縁に、又、頑張って、作歌に取り組む決意です。
 以下、二首。

 大槻のひなびた町を行きければホーホケキョ―とうぐいすの鳴くなり

 ホーホケキョと鳴く鳥は死後硬直を免れると云う

 二〇二四年令和六年四月二十二日月曜日午後四時頃。作歌。於:大槻町JA旬の庭のそばにて。

 二首目は、ユーチューブ動画の、日蓮正宗の世界では伝道師?!折伏の第一人者として、かなり有名な、「樋田昌志」さんの、御言葉であり、ホーホケキョ―と鳴くうぐいすには、法華経の仏性が特別に宿り、見事な成仏の相を示し、死後硬直を免れるんだ、ホントかウソかは分かりませんが、そうなんだーと私は思い、仰っていた回を思い出して、私なりに作歌してみました。

 実際に、母の施設の帰り道で聞いた、本物自然の春のうぐいすの鳴き声でした。
以上。よしなに。wainai

歌会・短歌の会。二〇二四年R6年4月7日(日)AM10時・於:大槻公民館、その後のお寺の座談会場へ足を運ぶ

2024年04月07日 18時14分35秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 或る、私たちの歌会に属する男性の、公民館事務所に置いて行った、短歌の一首から。

 ホームから見送らる我感激に言葉たらずで手を振るのみか

 先生:時間軸を感じ取れるのか?
    「ホーム」?

 実際に作者に聞くと、中学を卒業して、集団就職した時の歌。(本人談)

 生徒さん:「感激に」と直接的具体的に過ぎる、そう述べてよいのか。

 「ホームから」「から」は格助詞(主語を表す)古典では「より」。通過点にも使う。「より」の方が多い。

 先生:「意味としては分かるが、言葉が足りない。」
 生徒さん:「言葉たらず」とは本当は言わない。
 『言葉にはならずに』「ず」助動詞。
 「で」この場合、現代語風。古語古典的には、活用語につくと、~しないで。
 活用の未然形につく。
 「で」接続助詞。格助詞の場合もある。すると、「言葉たらずにならないで」となる
 ex.おおつき公民館「で」歌会を催す。
 格助詞「で」(場所・事情・状態・手段・原因・理由)を示す。体言(名詞)に付けば(付く場合)「格助詞」。

 先生:「感激に」が嫌ならば「胸に来し」で切る方法。斎藤茂吉の場合。三句切れ。下の句を敢えて字余りにすると見映えが良くなる。

 「見送らる」の「る」。
 「る」は、「可能、~できる」「受け身」「尊敬語、~なさる」
 この歌は本来は、「見送らるる」が正しい。
 受け身の助動詞。送る+「る」。

 「手を振る」(四)、「のみか」(三)。「四三調」吾は行きたり⇒行きたり吾は。
 「斎藤茂吉式短歌」⇒(しまりが良くなる)


 小夜中に風寒けれや筆をもつ吾が身近くにストーブを寄す

 小夜中(さよなか)=真夜中。午前〇時前後。
 真冬。「風寒けれや」。「や」。二句切れ。係助詞。ここで切っちゃって、三句以降に、自分の感情をつづる。「寒かったなあ」という自分の状況を出す。

 「ば」にした場合、結句に施しが必要。

 「終句・結句」最後にもって来て有効なのは、「けり」「ぬ」。
 「寄す」を「寄せた」の場合は「寄せり」となる。
 せけり(詠嘆)。

 短歌で「けり」は100%詠嘆を表す。過去形は無いと思って下さい。(先生)
 「寄せけり」の場合、直前の「を」を省くこと。「ストーブ寄せけり」。

 先生:結句の終わり方。理屈で言えば、状態だけ歌っている。
 
 「風寒けれや」の「や」。「ば」という方法。「ば」=「ので」。
 斎藤茂吉「雪を照らせり」(結句)。


 やうやくに気付きてくれぬ餌台に名の知らぬ鳥コメを啄ばむ

 「やうやく」作者の気持ち、を表す。二句切れにしたのが、「やうやく」で、この歌、一首は「生きた」。『気付きてくれ「ぬ」』。「ぬ」完了・継続。「やうやく」が感動を表す「外的」自然に(そうなった)。

 固有名詞「コメ」と『具体的に』入れたのが良かった。
 この場合「ぬ」を、「つ」にすると、意識的に(何かをした)。という時に使われる。「内的」の場合。

 斎藤茂吉の一首。蔵王にて詠んだ歌。  
 雪降りて(途中の句、私が失念、済みません)光に今朝は照らされてゐる

 
 無心なる心いづこにわすれ来て欲が芽を出すキャンバスの中

 先生談:四句まで読むと、えっ?何だ?となる。
 最初は宝くじでも買ったのかな、となるが、最後の結句で、あっ!となる。
 「短歌」の世界も、絵の世界も、皆同じ。

 「欲が芽を出す」これを言わずに、そう思わせるのが大事。
 「絵」「短歌」の中に、それを感じさせるのが大事。
 歌の形としてはわかる。「短歌」も、最初には、数を多く作る事が大事。 

 先生・生徒さん:下手にいじったり、変えなくても良い。バラバラになってしまう。

 
 私の一首。

 大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人我は知るなり

 生徒さん:斬新である。
 先生:こういう新傾向の短歌も、これからは出て来るのだろう。

 生徒さんは、「風吹く強き町」の、ここは、文法的にもあっていいのか、と先生に質問すると、合っていいのだ、との答え。

 「風吹く強き町」は、桜咲く見ゆ(終止形、ここで止まっている)。
 文法的にあり。(多分、強めている)。

 「大槻は」の「は」主語を表さず、強調を表す。主語を説明する、接続詞。
 「我は」も強調。

 「町にして」=「に」「して」。二つ合わさった語句。『に』=「なり」。
 「に」は「なり」の連用形+「して」接続助詞。「ので」「時間」を表す言葉。
 ~の時に。~で。4才の時に。5才で。⇒現代語とは違う所。
 
 ※後でショートメールで先生と打ち合わせをして、「にして」を「旺文社古語辞典」で調べると、第一義に「場所」とあり、~にあって、~において、~で、とあり、その次の意味に時間が来る、と私が述べると、○○さん(私)の言う事は分かっていたので、短歌雑誌にはそのまま載せた。ただ、字余りだが「人」に「を」を入れさせてもらった、との返答を頂き、双方、了承し、次回もこの歌を議題にのせる風な事を承った。
 改めて。

 大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人を我は知るなり

 ※短歌の感動は、「一つに絞る」
 単純化。
 主題は一つ。
 「これだ!!」と。
 改作。これは採用はされない、一時的な歌。

 大槻町は吹く風強くして 屋根飛ばされし人を知る

 先生:古典はむつかしい。現代語とは違う性質を持つ。

結局、時間切れで、私の一首は、答えの出ないまま、ジ・エンドを迎えた。(これは解消解決した)。

 その後の私は、コンビニでおにぎり、飲み物を調達して、私の菩提寺、お寺の、日蓮正宗無量山寿海寺へと、一目散に向かったのである。

 それは、本日は、私は一地区在住だが、二・三地区の、お寺主催の、座談会があったからである。私は今年あたりから、数か月おきに開催されるその会合に、欠かさずに参詣していた関係上、今日も、末席を汚し、参加をさせて頂いたのである。

 本日のテーマは、「日蓮大聖人の信心と奇跡について」というもので、皆、思い思いで、自身の体験を語り合った。

 私は、何故か、キリスト教が、それら、「奇跡」の専売特許のような受け取り方をするキリスト教徒が多いが、何も、キリストだけが、「奇跡」がある訳じゃない。

 仏教、仏典にだって、奇跡は取り上げられ、何と言っても、大聖人様の、日本国相模の国での、「竜の口の法難」での、「発迹顕本」の基ともなった、江の島の西側方面からの、光り物による、大聖人様が、侍たちに、刀で斬られる瞬間、守護された事実から言っても、凄い守護にあらせられた宗教としての、実感ある、現実的な御利益、功徳から言っても、「奇跡」がその時、竜の口の首の座で起こった事を、正にクライマックスを、私は強調した。

 そうして、そんな凄い宗教が、日蓮正宗の持ち味、醍醐味なんだと。

 尚、今回の如くの、一人一人、体験談を話す座談会も良かったが、今度からは、「質問会」形式による、皆が疑問に思い、質問してみたい事を、聞いてみる会にしたらどうか、との貴重なる意見が多数、現場の今日の会合には、寄せられていた事をも、ここに附したい。

以上。よしなに。wainai

穂村弘著「はじめての短歌」を読了

2024年03月29日 16時37分32秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞

 今日の夕方までに、穂村弘さんの、電子書籍版「はじめての短歌」を読み終えた。
 この本は、最初に提示する歌は、見本作と言うか、お手本的な、本物の歌人の作った作品を掲げるが、その後に続く歌は「改悪作」として、わざと、その先に出した歌よりも、劣った歌を提示して、その見比べっこをする。
 そうして、その、歌論を、穂村さん独特の話術と言うか、短歌の世界へと、誰しも誘われて、夢中にさせる。
 あとがきで、短歌の別の歌人の方が、書いておられたが、この本は、元々、慶応の学舎で、ビジネスパーソンに向けての講座が元になったとある。ビジネスと短歌。その相違に誰しも驚くだろうが、意外に、ビジネスとの相性が良いらしく、ビジネスの根底には、これら、短歌が非常に役に立つらしい。(道理で、日本経済新聞の短歌欄が、歌人が目指す数少ない歌壇となっている訳だ。)
 どちらも自然や人間に目を向けて、人生を語り、私も共通性は有り得ると思う。
 その、優しく、手を取るように、歌人の穂村氏が、ベストコーチとして、短歌の手ほどきをしてくれる。こんなに良い環境の中で、ビジネスマンならば、その有為なる教えに、驚嘆の声を上げずにはいられないであろう。
 とにかく、この本には、古い、昔ながらの歌人、斎藤茂吉、与謝野晶子、石川啄木や、俵万智他、新しい歌人等々、多く出て来て、そのレクチャーを、穂村弘氏が買って出てくれる。
 これ以上の、短歌を学ぶ場としての、価値ある時間を過ごせるならば、言いようのない程の喜びを感ずる。
 とにかく、ビジネスマンにしろ、短歌初心者にしろ、何でも来いであり、この本は、五七五七七の三十一文字(みそひともじ)を習おうと言う気概がある者、冷やかし半分の者、どちらにも良作な短歌入門書となろう。
 私も、長い事かかって、この本を読んだが、読もうと思えば、この本に集中して読めれば、一日も掛からずに読めるのではないのか。元々、短歌の字数は、小説などの字数よりは少ないのだから。
 それプラス、その穂村氏による歌評、歌の解説が加わるが、そんなに長文でもなく、程よい長さの文章であり、エッセイ等よりも短文かも知れない。
 とにかく、読後感は良かった。この本は、実際ダウンロードして買って読んだが、図書館等で借りられたならば、アマゾンタブレットの記憶容量を心配する私にとり、本を借りた方が良かったかなあ、と少し、ケチっぽい私がいる。
 でも、短歌を教わった感は、確かにあるので、時間を掛けて読んだ努力は、私自身を褒めてあげたいと思う。読んで良かったと私は感じた。
以上。よしなに。wainai

短歌十九首、一気に出来上がる。隔日不定期多産系の我が作歌暮らし

2024年03月18日 20時34分26秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日、本当に長いスランプを乗り越えて、先日の三月度の歌会にも雪の為欠席してしまい、非常なる残念感を懐いた私ですが、何とか、今日、歌が紡がれ、出来上がりました。ここに恥を忍んで、紹介します。
二〇二四年令和六年三月十八日月曜日夜20時半、出来上がる。

電話忌み話したがらぬ人おりて声掛けられず気を使う日々

ピアノ弾く姿が滑稽なる外人歯をむき出して弾きて尚おり

大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人我は知るなり

兄弟も姉妹も居らず我一人これから盛んに生きんとぞ思ふ

淹れたてのコーヒー下さる御人(おひと)有り唯(ただ)有難く飲みにけるかな

強風の郡山市は望外の風の都と別に詠みたし

郡山の水の美味しさ図らずも猪苗代湖より流れ来るらし

正月と二月三月経ちにけり花の桜は今よ今よと

仏様釈尊のみが能じゃなし日蓮大聖人末法の本仏

命より大事に思ふ御本尊晴れて我が身も成仏遂げたし

中々に成仏までは叶わざり日々の信心勤行唱題

自行化他折伏行のその果てに霊山浄土はおはしますなり

御本尊様を懐(いだ)ける我が身にはこれ以上の幸ひはなし

正真の御本尊様戴(いただ)ける我が身の仏性開き顕る

人様に迷惑ばかり掛けどおし我を責めても得もなかりき

最初からわかりておる事何故辞めぬ原因結果の因果の法則

人を見てドロボウと思ひし創価時代されど日蓮正宗人を憎まず

信頼を失う時は一瞬で又初めから積み上げる苦

世の為に人の為にと二十歳(はたち)の日誓ひし願ひ破るべからず

以上。よしなに。wainai

令和六年二〇二四年二月度、東北アララギ・群山・短歌の会の模様。於:郡山市おおつきふれあいセンター

2024年02月10日 13時01分11秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日の午前十時~十二時正午まで、郡山市のおおつきふれあいセンターにて、短歌の会、短歌結社・群山主催の歌会が開かれた。
 講師のK分先生は、私は一番最初に誰よりも先に着いたが、椅子等を運ぶ手伝いをしている間に、今日は、新人の、短歌を学ぼうとする女性の方が来ると言った。
 そうして、私に、いつもの通り、先生から、今月・今日の宿題とも言える、作って来た短歌を一首若しくは数首用意された用紙に書き留めて欲しいと仰られた。
 私は、いつも普段は、作歌活動の私の基本としては、出来る時は、かなりの量が量産されて出来る時もたまにあるが、出来ない時は、全く出来ない、今回も、先月に思い出したように八首も出来たが、時間がある時に推敲しようと思ったが、時間が無くて、推敲は、末尾の言い回しで手直しした以外は、全くしていない、と言い訳っぽく言ったが、先生も、色々なタイプがあるし、そのどれもが、いい悪いはない、とは言っていた。

 そうして、ニューフェイスの、Wさんという、お年を召した方が入ってこられて、その後にもSさんという方が、遅れて入って来た。
 その、Wさんは、中々の短歌に手慣れた経験者として、かなり熟練していると私は見た。それは、その方は元々は、大正時代以来の、短歌の流派に属していたと言い、NHKの通信講座でも、その方は勉強をなさっておられたという。
 これは筋金入りの、短歌経験者だなと私などは思ったが、その方が仰るには、普通に短歌を作る事が出来る。それも、文語体には少しは慣れていて、普段から文語・古語で短歌を書き綴っているが、少し不安なのは、その、古文の文法に自信がないのだという。
 当、短歌の会、短歌結社・群山・東北アララギは、扇畑先生が創始してから、今年で昭和21年以来、79期、79年の歴史を誇るが、それよりも、その方の元居たその短歌の会は、大正では、歴史ではかなりの流派であると見受けられる。
 その方の短歌。

 二階より人の出で来て空中を歩がに見ゆ冬の昭和村

 昭和村とは、奥会津、田島町から、只見町に至る、400号線の貫く、からむし織りで有名な土地と言う。しかし、我が、K分先生の娘さんも、その、昭和村での「からむし織り」に応募したら、それは実態は、コネ、縁故がないとその研修、中には入れないと言っていて、残念ながら、コネが無いので娘さんは入れなかったという。
 短歌の場合、穏やかさよりも、強い思いが大事。
 短歌とは、一つの小説の如く、一つのテーマを突き詰めて行く事。
 アララギ=写実写生、ありのまま、何を見るかが大事。
 この短歌は最後の「昭和村」の、体言止めが強調されていて非常に良い。
 
 歌は味わい、感動の共有。
 この短歌は、このWさん、五十年前の体験、光景を元にした、五十年後の改めての作品。それだけ思い入れがある。

 説明を入れると、やかましくなる。分かる分からないは読者の勝手。
 分からない人は、自分で調べても分かろうとするもの。説明は要らない。

 (政治・社会問題、つまり、社会詠は強さ・強調が大事)

 これも生徒さんの作。

 それぞれに子等は世に出ていそがしく孫一人来ぬ令和正月

 「孫一人来ぬ」=作者が一番言いたい所。
 素直な作風で良い。今のままで進むと良い(先生)。
 意味は良くわかる。

 しかし、上の句が下の句の「説明」になっている。
 上の句を説明的ではなくて、どうにかしたい。
 全体的に印象が弱い。もっと具体的にしたい。
 「それぞれに」が抽象的。「誰か一人に」焦点を絞って、作った方が良い。
 
 世の中そうなって来ている。(私達の時代とは違って来ている)。
 (先生)孫と一緒に住んでいる「内孫」は、「群山」の短歌雑誌の投稿でも、ほとんどいない。ほとんどが、「外孫」。

 次は、私の作。

 政治家に沸々と湧き出づる怒り物見せてやれ次の選挙で

 (先生)政治家のどこが悪いのか書いてはいないが、今の時代性としては良く分かる。
 この歌の良い所は、「答えがない」ところ。「結果」が出ていない。
 「物見せてやれ」が、かなり激しいものの言い方。
 
 (先生談)私(wainai)の作風は、いつも強い感じ、強い印象を皆に与える、多分、思いが誰よりも激しく強いのだろう。

 短歌の作り方=答えを出さない。

 問題提起はするが、(答えは出しても良いが)、皆が考えさせる歌作り。

 晩年の扇畑先生の秀作は、何を意味しているのか、全くわからなかった。
 短歌中の言葉、「美しきもの」が何を指すのか全然分からない。
 全て読者の裁量、想像力にかかり、任されている。
 答えを敢えて提示しない。小説・映画「人間の証明」にしろ、皆同じ。

 この歌は、「政治家」が政治家全体を指しており、他の悪事を働かない、良い側と思われている政治家までをも、包み含んでいるのが問題。
 具体的に!!「岸田首相」「二階氏に」等々の具体的な用語が必要。
 誰を、どれを、何を、が、具体性が非常に大事。

 そこで先程も出て来た、今日デビューした新人の熟練した高齢女性生徒さんが、
 「裏金に」と入れてみたら、と言われて、先生も私も「うーん、成程」と賛意を示して、その強烈な語を採用する事にした。
 結果、

 裏金に沸々と湧き出づる怒り 物見せてやれ次の選挙で

 となった。そのベテラン高齢女性も、こういう積極的で前向きで、どんどん攻めてゆく短歌は私も好きですよ、と褒めて下さった。
 
 そのWさんのかなりの熟練振りに、先生から、誰か私淑する、現在生きている、存命中の人に限らず、歌人の方はいらっしゃいますか、問われて、Wさんは、「石川啄木」が一番わかりやすくて好き、という。

 先生も、それに賛同しつつ、先生は、やっぱり、斎藤茂吉が非常に大好きだと述べて、茂吉で言えば「赤光」の中で、母が亡くなる時に、ツバメの目線の歌を作る。あの目線が凄い、と言うと、その女性も、その歌を知っているらしく、賛同した。そして、その女性は、去年に、山形県にある(かみのやま市?)斎藤茂吉記念館に行って来た事を述べた。もう、ここまで来ると、先生と生徒との、短歌の話しが分かる人同士の、マニアックな、蘊蓄(うんちく)盛り沢山の、相当ディープな世界がこの場で現出した。
 私などは、ただ、あぜんとして、見て聴いているほかはなかったし、この大槻町の公民館に、これ程の、以前からか、この往年の文学少女、というか、文学婦人はいないのではないのか、凄い人が来て集まったものだと感心しきりであった。
 
 茂吉は、すぐさま作った歌もあるが、うんと推敲を重ねて作った歌も多い。

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも
 (昭和21年2月見た風景光景を、昭和22年2月に発表)。

 この、「波」の為に、一年間、発表を控えた。

 「なりにけるかも」結句のまとめに、全ての感動を詰め込んだ。

 茂吉含めて四人で見に行った。
 板垣かねおさんが、茂吉の面倒を見た。板垣さんが発した言葉に、この地方では聞かない言葉は使わない方が良いと諭した程の、言葉使いに敏感で、厳格だった茂吉。
 「ともしび」の歌集では、「白き逆浪立つも」と「なみ」を「浪」と一度使った言葉なので、二度と使いたくはなかった茂吉。
 歌人はこういう所に非常にこだわる。

 後の残りの時間は、今日始めて来た、Wさんが、文語体では、文法が自信がない、私(wainai)も、同じく自信がありませんと、同時に先生に訴えて、教えを乞うたので、先生は、即席の、しかし、非常に分かりやすく、四段活用、下二段活用等々を、私達に教えて下さった。四段活用は、現代では五段活用となっていると言い、古文・古典・古文法の面白さは、用法が、時代によって変わる事。
 「動詞」の難しさ。古典の場合は、一字一句調べて使わないといけない。
 普段から使い慣れている言葉の訳じゃないからむつかしい、と先生は仰った。

 ここでは、紙数・字数の関係から、実に惜しいですが、古文法の作法については、省略させて頂きます。

 ここまでの、今日・本日の午前中の二時間余りの「短歌」の時間、福島県郡山市大槻公民館での「歌会・短歌教室」の、全容の一分でも、読んで下さった皆様の方々には、ご理解いただけたら、幸甚に堪えず、心嬉しく思います。長文につき、失礼仕りました。これにて、PCの、キーを叩き終えたく存じ上げます。

 以上。よしなに。wainai

冬の時期に、今年初の短歌を作った、八首ばかり!

2024年01月29日 21時26分07秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 今年初めて、短歌を作りました。あんまり自信はありません。確定・決定稿ではありませんが、これ以上、来月の歌会があるまで、直す気もありません。
 直すならば、もっと、多くの作歌活動に励んでみたいです。それと、時間が勿体なくて、その、私の学ぶ、アララギ派や、万葉集などにも触れてみたいです。
 それが、短歌の神髄を軽く見ている、とは捉えて欲しくはありません。
 けれども、推敲も私なりに、加えていくべき、とも思っていて、全く作歌の推敲は否定してはいません。むしろ、今は、やる事が一杯あるので、忙しく、ハイ次、ハイ、と、これは趣味の機械的な運用の仕方ですが、時間が私には少ししかないのです。
 短歌にも、音楽にも、読書にも、ネットの運営等々や、その他の多くの趣味にも、やる事は大いにあり、それぞれに特別の時間は、大きくは割けないのです。
 何といっても、日蓮正宗の勤行唱題。自行化他行。これに打ち込む時間は、至福の時なので、これにも時間を経て、やり通す時間も持つ為に、考慮に入れなければならない。
 しかし、多忙なのは、私にとり、時間が有効に使えて、非常な喜びです。
 一応、八首ばかり出来ましたので、ここでそれらの短歌の発表です。
 

 猫の真似してみせる母と言ふ 職員語る米寿と一歳(ひととせ)

 我語る言葉に真面目な顔をして我が事の如く母は聞きにき

 母の為プリンをせっかく買いしより施設の職員に断られたり

 冬寒くあるはずの今年の大寒はあたたかなまま母の生誕迎ふ

 今年程今までの別れを振り返りその悲情さに憤る我

 この我を何者かへと育てしか ただ我が両親は健康であれと

 この時代2009年を思い出す 政治の世界に激震よ見舞へ

 政治家に沸々と湧き出づる怒り 物見せてやれ次の選挙で

 以上。よしなに。wainai

短歌教室・歌会、おおつきふれあいセンター、2024年1月度

2024年01月16日 20時27分12秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 短歌教室、歌会が、おおつきふれあいセンター(大槻公民館)にて、2024年令和六年1月14日、日曜日午前十時から昼まで行われた。
 
 トランプの破れをテープに繕へりひとりの部屋の卓上にして

 短歌は題材にしても何を歌っても良い。
 先生のお父さんの歌。
 几帳面な、孤独な感じがする(生徒さん談)
 昭和40年代に、大槻小学校校長を退職する。確かに退職後は孤独。今までの教職についていた時の誰もそれ以来、家を訪れる人は皆無。
 しかし、短歌会をこの頃主催する。
 昭和46年に大病(胃がん)。その後、会を辞め、妻(先生の母)が後を継ぐ。病の実際は歌には書かなかったが、その後の死生観を反映した歌を作っている。この作品は大病の前の作。

 私の作。
 郡山大郡山郡山 我が福島の中心部に在り

 まず、「郡山大郡山郡山」がくどい(本人は芭蕉の「松島やあゝ松島や松島や」を気取った積り)。人が読んでも分からない。「具体性」がない。奇をてらいすぎ、とこれはボツとして、私も認めざるを得なかった。

 先生のお話し。
 郡山に関連して、先生は、時々、開成山公園にも散策に出かける事があるという。季節季節で違った風景。桜(古木・ソメイヨシノ)百年が寿命。先生は、いけない事だがが、その桜の根っこには近づいて、踏んではいけない事に後で気づいた。しかし、それら桜には、タグが木の幹には付いていて、ちょうど先生が見たタグには、「1030」という、タグがあったという。もっとあるかも知れない。まさしく「開成山の千本桜」「開成山」の古木の桜。
 先生の観察。人が見ていないものをみる。古木。老い桜の中で新しい桜が生えていた。何か「孫」を「古木」が守っているような様子。
 あそこで凄いのが根っこ。隆起している。「荒根」(先生の表現)。
 桜の幹に空洞があり、そこに「竹」が生えていた。
 
 臥す母の龍がいるよといふ窓に梅の古木は冬芽(つぼみ)持ちたり
 
 先生の歌。(正月・春・冬の)歌。冬芽=つぼみ=花芽の事。花芽から冬芽に変えた。
 介護の歌。三句切れ。今年の正月に詠んだ。
 寝ているような、目線でしか分からない。実際先生がかがんで見ると、青空にその前年に剪定した梅の木に青空を背景にした、本物の龍に見えた。
 なんとなく明るい感じの歌。色々思い浮かべて自分が病気だという事を感じさせない歌。
 母「が」家(体言)=文語体では母「の」。母が持っている家(本)。
 (現代語)母「が」歩む。
 (文語体)母「の」歩む。
 主格を表す場合、古語では文語体「の」となる。
 文語体は、何回か作っている内に、わかってくる(先生談)。
 先生の母は97歳。

 現実にあるものを表すのが「写生・写実」。真実に迫ってゆく。
 短歌も俳句も同じ。

 母がこうだとか、「説明」も入れない。
 「具体的であれ!」
 「写実」とは説明ではない。
 作者の「解釈」ではない。
 本質を見る。
 答えは出さない。
 本質を見ていても安易にそれは出さない。盛り込まない。答えは要らない。
 
 自分が表したい事だけ表す。
 「単純化」=なるべく平易な言葉。難しい、言葉、漢字を使わない。

 ここで、私の作った別の歌がこの日再度登場。

 音楽に好き嫌いは全くなしベートーベンもビートルズも好き(!)

 ここで先生から、短歌はカギ括弧「」はあるが、ズバリマーク!はない、と指摘される。
 (先生)単純化という意味では単純で読みやすい。
 (生徒さん)五七五七七、にこだわる立場から、この作は、五六六七八(!を入れると九)であり、ちょっと気分が良くはない、と。
 (先生)流れとしては悪くない。推敲を重ねればもっと良くなるかも。
 私の歌は、上の句でもう答えを言っちゃっている。上・下、どっちかで、わかっちゃっている。下の句で「説明」に入ってしまっている。三句切れ。
 けれども、しょうがなく、今回、短歌結社機関雑誌「群山(むらやま)」にはこのままで、私の作は出す事となった。

 基本的に、短歌というのは、「叙情歌」『歌は強くつよく出る。前へ進み出る。』
 感動・共感・思いの強さ。「強さ」これが薄い歌は「成程」で終わってしまう。
 子規・茂吉の作風。当たり前に歌っても正岡子規の情景が浮かぶ。
 何に感動したのか?どういう思いをしたのか。
 「工夫」もっと歌を作る教えられたままじゃ成長しない。自分で作って初めて成長する。
 事実をそのまま詠むとそこに何があるのか、そこを詠み込めば、もっと良くなる。
 感じたまま、そのままで良い。
 作ろうとしたら、バツ、ダメ。
 作者が見たそのままで良い。

 (自分の見たままを自分の感じたままで作る、単純に。それが短歌の基本)。

 この日の短歌教室の概要を、私の短歌ノートから、かいつまんで、要録だけを抄出致しました。

以上。よしなに。長文につき了とせられたし。wainai

はじめての短歌、高田ほのか著、を読み終わる

2023年12月27日 22時47分58秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞

 「基礎からわかる、はじめての短歌、上達のポイント」高田ほのか監修、を本日お読みし終わった。
 この本は、実例付きで、初心者を、どうやったら短歌の作歌が上手くできるのかを、懇切丁寧に説いている。
 けれども、私の現在習っている短歌結社の「群山(むらやま)」という、大槻公民館で行っている短歌教室では、文語体が主流であり、この本は文語体の短歌も出て来たが、普通に口語体が主流の本であった。
 けれども、作歌の次第、その決まり、短歌の作り方等々が、これでもか、と簡単明瞭に、例えをもって、良くこれだけ、教えてくれるものだ、という、作者、監修者の先生の持つ、教えたい、教えて分かってもらいたい、という熱情が感じられた。
 私は、この本は電子書籍のアマゾンkindleアンリミテッドで借りて読んだが、本当に勉強になった本だった。
 これを借りた日は忘れたが、PCのAmazonの私のアカウントを見れば、一目瞭然で、この借りた日が判るのだが、そこまで私は未練がましくはない。だから、この本は素直に、読ませて頂いて有難う、として、返却した。
 他にも読む本は一杯ある。けれども、この何か月間、この本と過ごす事が出来て、私にとっては、とても幸せだった。その事を付記して、この文章を書き留(とど)めておきたい。
以上。よしなに。wainai

年末に出来た私の短歌、五首~「趣味・オタクが世界を救う」

2023年12月27日 16時22分25秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 年末の今頃になり、私の短歌が出来上がりました。
 しかし、あんまり、年末感、師走感はありません。
 一応、皆さん、見て、読んであげてください。

 今はもうレンタル業を辞めたといふ
 ツタヤにCD借りに行きし日々

 図書館でCD借りし日々過ごし
 PCに音楽240ギガバイト在り

 音楽に好き嫌いは全くなし
 ベートーヴェンもビートルズも好き

 音を聴き目で見し能力我は有り
 五体満足の心地良さよ

 郡山大郡山郡山
 我が福島の中心部に在り!

 こうやって詠めるようになるまで、何か月かかった事でしょうか?!私の大スランプはこれにて、ひとたび、脱することが出来ました。
 しかし、一方が良いと片方がへこみ、引っ込む。そういった法則があるようです。
 私の電子キーボードピアノの練習、進捗具合がよろしくはありません。電子キーボードは停滞し、進んでいません。
 でも、私は貪欲に、前に向かって歩いてゆきます。何事も、諦めはしません。今回の、短歌がそれを証明しているではありませんか。
 趣味にも、捨てる趣味あれば、拾う趣味あり、で、趣味は、いい時もあれば、上手くゆかない、行き詰まったと思う時期があるものです。
 そういう時は、そっとしておいて、別の趣味に打ち込む。これが多趣味な者に課せられた使命、命題です。
 そう、柱を、何本も立てて、自分の支えとするのです。自分の精神の支柱を、何本でも立てて置いて、自身の逃げ場としての、趣味活動です。
 そもそもがプロフェッショナルじゃなく、アマチュアの遊びなんですから、そんなに堅苦しく、気負わなくても良い訳です。
 今は、私は短歌は今回この通りですが、一応、読書には、自分なりに自信を持って、打ち込んでいる最中です。色んなジャンルの読書に試みて居ります。 
 とにかく、そもそもが「趣味」などと、大風呂敷を広げなくとも、その人その人にとり、指向性、嗜好性、好き嫌いが皆、それぞれにあり、誰しもが立派な趣味人であり得る、と私は信じております。どんなに忙しい人でも、テレビやラジオの視聴、聴取が趣味だ、と言ったとしても、私は立派な趣味だと思い認めて差し上げます。
 勿論、音楽を聴く事も趣味の一環。ゲームをしたって、時間厳守を守られる方ならば一向に別段、構わないでしょう。時間をキッチリ守れるならば。私はゲームに関してはやってる間が時間をもてあそんでいるようで、集中できず困っております。すぐ負けるし。
 これは私は、任天堂の初代ファミコンの時から同じです。私にはゲームの才能が全く無いのです。私とゲームとの相性も極めて悪い。ゲームは時間つぶしにはなるんだろうけれど、初心者の私にはその世界観が、ロールプレイングゲームなども余り得意じゃない。好きには好きだが。将棋は好きな方かな。
 古い人間なんですよ、私は。その時間に、本の活字を追う方が数倍面白い。元々が、頭が固いんですよ。私の得手不得手ですから、これは。
 映像も極めて苦手。中々、ブルーレイ、DVD等、見る時間がない。集中力は有る方だとは思うのだけれど。その時間も、何か落ち着かない。第一、目も耳も奪うそれら媒体が許せないと感ずる。目だけ、耳だけ、ならば有りなのだが…。
 むしろ、そんな時間があるなら、その間に、お題目を唱えた方が良い位。どっちが楽かと言えば、私は日蓮正宗のお題目の信心だな。
 とにかく、一つに捉われずに、おおらかに、何にでもトライする姿勢が大事。
 それに、新聞などの、その日の生きた活字を追うのも、立派な趣味です。
 とにかく、この世の中に於いて、何だって、誰だって、仕事だって勉強だって何だって、一生懸命に取り組んだものに、裏切られる事はなく、一生懸命さに於いては、誰にも負けない、と信ずるものには、全て還って来るもの、得られるものも、非常に多いと思うのです。
 私だけが多趣味の趣味人じゃない。この世には、(自分がそうとは気付こうが気付くまいが)趣味人が満ち溢れている。そういった観点からも、私はこの世の中に趣味に打ち込む趣味人が圧倒的に多くなればなる程、この世界は平和へと今、一歩ずつ近づいてゆく、と信ずるものです。
 「趣味・オタクが、世界を救う」と。
 それに、忘れてはならないのは、私の場合は、信心、日蓮正宗の信仰が最大一に自身の位置づけでは最高位に在り、まずはそこから手を付ける。まずは何を差し置いても、信心の勤行唱題行。自行化他にわたる信仰活動が、モノを言うのです。全ての根底には、この信心の結晶であり、その土台の上に、これら、趣味が成り立ち出来上がっているのだとの、万物への御報恩謝徳、感謝の念を常に持ち続ける事が非常に根本であり大切で大事なのであります。

以上。よしなに。長文失礼。wainai

斎藤茂吉全歌集(全18歌集収録)電子書籍を購入

2023年12月04日 11時43分59秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞

 斎藤茂吉の、電子書籍、全十八歌集収録の、ほとんど全生涯に亘る茂吉の歌集を購入した。
 昨日の、短歌の会での、先生の茂吉愛にこちらも打たれて、昨日の晩に、近所のコンビニで、アマゾンカードに二千円入金して、その他、元々、私のアカウントには数百円位残っていたので、それで合計して、2,136円、ポイントも使って、ポチる、購入したのである。
 それ程の、私が心を割いて捧げるに値する人が、斎藤茂吉だと言える。斎藤茂吉の文学観、世界観、短歌観に触れたい一心で、此の短歌文学全集を購入させて頂いた。
 私が昨日触れた、kindle unlimited 、電子書籍読み放題、には残念ながら入ってはいない作品であり、そうなんでもかんでも、Amazonでも、無料で読める訳でもない。
 特にこうした、文学全集・短歌集は、それなりの値段はするし、需要も見込める。この、一人の作家の、全生涯がこもった作品群にはそれなりのお金の投資も必要なのだ。
 私は、昨夜、雨の中、今日は打って変わって快晴だが、コンビニまでひとっ走りしてアマゾンカードを買って帰って来て、正解だったと思っている。
 風邪一つ引いていないし、これは、御本尊様に守られたな、諸天善神にも、護って頂いたな、との念慮を深くして、今日の日を迎えている私である。
以上。よしなに。wainai

2023年12月3日日曜日、短歌の会、歌会、於:おおつきふれあいセンターその2

2023年12月03日 16時10分17秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 先程の記事の続き。

 2023年12月3日日曜日午前中の、おおつきふれあいセンター・大槻公民館、での、短歌の会・歌会の模様。

 私の一首が読まれた。私は、作歌活動が停止状態であり、その事を先生に分かってもらえたとは思うが、その分、言い訳はしなかった感じ?、否、言い訳は大いにしたが、その事を、先生は分かって居られて、それで、私は、ストックしてあった、私の愛用のルーズリーフのノートブックから取りいだし、これ又、皆の前で開陳、言上、先生の用意したメモ用紙に書き上げ、申し上げた一首がこれである。

 心にも無き事言ひて別れたるそれが二人の最後となるかは

 これを披露した。

 先生は、この歌を、事実のみ歌い、説明がないので、良い歌。
 説明がないから、皆が考えちゃう作者の考えが入っている。
 想像力を掻き立てる。二人が別れたのは、恋人同士なのか、友人同士なのか、いずれか、または、どういう関係か、と。

 wainaiさん(私)は、いつも、前々回、もっと前も、お母さんの事を歌った、あぢさいの歌とか、早稲田の街と郡山の街の歌とか、考えさせられる歌、上手い歌を作っている、と先生からも生徒さんからも好評で褒められたが、私としては、今回も、今回こそはと特に、全然、歌が出来上がらなかったので、それが悔しくて、自身、厳しく受け止めていた。
 けれども、正直、そのお褒めの御言葉には感謝の想いも非常に有難く、勿論あった。

 注意するとすれば、「たる」と「それが」と「なるかは」の「かは」の点。

 必要かどうか。「短歌」というものは、いかに端折るか、いかに簡略化するか。
 キャッチコピーはありかなしか。
 わかっちゃったら詰まらない。自分なりの言葉を当てはめる。一年前に読んだらこう思った。一年後の自分が読んだらこう思う。気持ちのままに、素直さを出して下さい、と。

 短歌は、「真実」と「同苦・同感」。読者は同じ作者の気持ちに寄り添いそれらの気分を味わう。
 私の短歌は、御自分でも手直しして、次回まで訂正しても良いですよ、と言われつつ、先生に手直ししてもらった。

 心にも無き事言ひて別れたり二人の最後となりし電話に

 となった。

 この、「電話に」が、先生との間で、「の」とも迷ったが、「に」と、詠嘆の気持ちを暗に述べた方が良いとして、こう決めた。

 「それが」は、私が良く買いに行っている、「ローソン」(たしか)では、「これが唐揚げ弁当」「これが焼肉弁当」という商品名の、「キャッチコピー」にかなり毒されて、思わず、こんな表現となった。
 それから、「なるかは」の「かは」は、先生から、最後を決める言葉としては弱い、どうして、「かは」なんか使ったの?と問われて、
 自分は、古今和歌集などを独自で読んでいた時期があり、何となく、それも、自然と、貴族たちが詠んでいた、和歌などから、「かは」などと、使いたくなってしまったのだろう、おそらく、と私は申して言った。

 とにかく、先生は、『短歌』は「出だしが大事!!」今あるものが大事。根本(こんぽん)に何があるのか?!根本(こんぽん)=感動。確かに事実のみ書き歌うのでも、根本は感動!!

 とにかく、私の歌は、主観を入れないで、自分で作って行っている、これで良し、と言われて、なんとか、おさまる所に納まった。

 同じ生徒さんは、こう注意された。
 主観が入っている。要らないものは削る。
 あれもこれもは欲張り。
 思い切って捨てるモノは捨てる。
 何を重視するのか。
 モチーフが二つも三つも歌に盛り込んである時は、
 それを、歌として独立させて、二つや三つの歌にしなさい。

 『結句』でもって短歌は最後に決まる!

 文語体は助詞で迷っちゃうからご注意を。

 けれども、アララギ派は文語体で作歌する者が極めて多い。別段、口語体でも一向構わないが、連綿と歴史があり続いて来た、文語体の重厚さ、古風な伝統文化の持ち味、香り、こだわりを大事にしたい。

 扇畑先生=東北大学の教授。

 それよりかは、斎藤茂吉に範を執る。先生は、斎藤茂吉を最大限に称賛し、称揚した。茂吉から、学ぶ点は多々、多くあると。それ程すごい方が、斎藤茂吉先生。二足の草鞋(わらじ)を履く、精神科医でもある。息子の斎藤茂太、北杜夫、両氏も同じく精神科医で作家だ。

 「学ぶ」は「真似ぶ」から来ている。

 真似ていく事から始まる。何事でも模倣が大事、人は誰しも、最初も模倣で始まる。

 時間がだいぶ周り、次の教室利用者の人が使う時間の、十五分前の、昼十二時四十五分になんなんとして壁時計は指していて、私達短歌学習者、短歌の会・歌会の人々は、椅子、机等を急いで片付けて、掃除は先生が中心になって行い、我ら先生生徒共々は、意気揚々と、風を切るが如くに、表へと晴れがましく出でて、公民館を後にしたのであった。

以上。よしなに。wainai