ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

身近にあった「新四国八十八ヶ所霊場」の札所

2021-01-25 08:03:17 | 日記

 

「霊場巡りと言えば四国八十八ヶ所!」そんなイメージが湧いてくる四国八十八ヶ所霊場

巡りですが、今でもにぎわっている遍路のあり方は、弘法大師の影響力の大きさを窺い知

ることができます。巡礼者にとって、歴史の波に流されることなく続いている霊場巡りは、

多くの感銘を受けるのでしょう。帰ってきた巡礼者によって開創された地方霊場が「新四

国八十八ヶ所霊場」の名のもとに全国各地に広まりました。今回は茨城県龍ケ崎市内にも

四国八十八ヶ所地方霊場巡りがあった証である、札所石塔があることを散歩中に見つけた

ので、そこから話を掘り起こします。

 

<新四国八十八ヶ所霊場めぐりに関心を持つ理由>

私の現役時代の想い出の多くは岐阜県にあります。岐阜県内には新四国八十八ヶ所巡りの

霊場があちらこちらにあり、それもみんな大切に保存され参拝されています。私も旅先で

見つけると参拝をし、そこで不思議な体験もしてきましたが、関東の地に転居してからは

身近な存在として見聞きする機会がなく、故に関心も持つことができずに過ごしてきまし

た。今回の札所石塔の発見は新鮮な驚きで、岐阜県在住当時の霊場巡りのことを思い起こ

させてくれました。そして「そうか!我が家の身近にも霊場巡りのコースがあるのだ」と

いう思いに至ったのです。

「新四国八十八ヶ所霊場」の札所石塔は唐突に一つだけポツンとあるはずはありません。

必ず「霊場巡り」の形態として、開創されているはずです。ですから、この周辺に八十

八ヶ所全部とは言わないが、風雪に耐えて現存する札所石塔が希望的数値として十ヵ所

近くは残されているのではないかと推測しました。コロナ禍の自粛生活を続ける中で、

散歩することの意味付けに体力維持の目的+αを求めていた私は、この地域密着型の

「新四国八十八ヶ所霊場の札所石塔探し」を、この+αのテーマとすることにしました。

 

<「新四国八十八ヶ所霊場の札所石塔」探しに誘ってくれた最初の発見>

一番目の石塔の発見は昨年12月末のことです。散歩道の新規開拓を目指して郊外の旧市

街地住宅区域を散歩している時、あるお屋敷の塀の角で脚がとまりました。お屋敷を囲

うモダンなブロック塀の一部に組み込まれたお社を見つけたのです。ここは歴史を刻ん

だ古い集落です。足元には風雨で劣化し文字の判読が難しくなっている小さな石碑があ

りました。気になって何とか判読したいと、こびり付いている土とほこりを手で、こす

ると「四国八十八」の字らしきものが読めました。これは「新四国八十八ヶ所霊場巡り

の札所石塔」だとすぐに確信しました。ですから塀に組み込まれたお社は「弘法大師堂」

であることが推測されます。札所石塔の左横面には設置された大正時代の年月、右側面

には四国の二番札所である「極楽寺」が彫られていました。この表記からこの集落は大

正時代に開拓がおこなわれたもので、「新四国八十八ヶ所霊場」巡りの大師堂も札所石

塔も、この地に入植した四国巡礼の参拝者により設置されたのではないかと推測しまし

た。石塔を通して、大正時代にこの地に開墾のために入植した人たちに想いを馳せまし

た。身近な場所に新四国八十八ヶ所霊場巡りが開創されていたことを知った瞬間でした。

 

<龍ケ崎市内にある新四国八十八ヶ所霊場の札所石塔、存在場所の下調べ>

改めてネットで調べると確かに龍ケ崎市内に新四国八十八霊場があることの記述が見つ

かりました。1つは隣接する他市町村を加えた広域な地区に点在するものを紹介したも

の、そしてもう一つは、龍ケ崎市の西地域のコミュニティー誌にその地域内にある石塔

が紹介されていました。でも不思議なのです。今回見つけた札所石塔のある場所はその

どちらにも記載されていないのです。ですから、ここの集落という狭い範囲内に住む人

を対象にしているのかもしれません。それだと面白い歴史の発掘になるかもしれないの

です。俄然、探すことに力が入ってきた。

 

<散歩の範囲を広げて見つけた二番目の札所石塔>

これまでに毎日歩いてきた散歩道の中には新しい石塔が無いことは分かっています。そ

こで、二つ目の石塔探しは、散歩の歩数を伸ばして少し広域を歩いてみました。その結

果見つけたのが小学校に隣接した八幡神社の境内にある石塔でした。石塔には「新四国

76番」と刻まれ、大師堂と思われる社もありました。この石塔はネットでも紹介されて

いました。この石塔が一番目に見つけたものと紐づけされるのか、広域石塔に紐づけさ

れる一つなのか、はたまた共通で兼ねるものなのかは分かりません。これから時間をか

けて地元の歴史を勉強して、新四国八十八ヶ所霊場巡りがいかにしてこの地に根付いた

かを調べるのは面白いと思います。

 

四国八十八カ所霊場の地方霊場版として「新四国八十八霊場」がある。この地方霊場は

全国的な知名度をもたず、限られた地域で信仰されていることから、 非常に地域性が

強いという特徴を持ちます。例えば札所は必ずしも八十八カ所に定められておらず、そ

の地域の都合によって札所の数・位置はたやすく 変化することや、巡礼を行う期間が定

められてい たり、歩き方に規則があったりするなど、その地方にしかない独特の習慣を

持つことなどがあるのです。次の散歩の時に三番目の札所石塔が見つかったら、岐阜県

時代の霊場巡りでの私の不思議な体験を交えてご報告したいと思います。


日本には、観音菩薩霊場、地蔵菩薩霊場、薬師如来霊場、不動明王霊場、そして、今回

紹介した『四国八十八ヶ所』を代表とする弘法大師霊場などなど、さまざまな霊場が存

在しています。また、七福神めぐりや十三仏めぐりなどの名称となっているところもあ

ります。こうした霊場を歩いて巡り、礼拝することを巡礼と言いますが、平安時代の貴

族たちが、神仏に願いごとをするために神社やお寺にお参りに行ったことが巡礼の始ま

りとされ、その後、戦や天災などからの救いを求めるために一般の人々も巡礼を行うよ

うになりました。江戸時代になると平和な世の中を反映し、人々は、救いを求めるだけ

でなく、巡礼に出かけることでその土地を巡る楽しさを味わうようになります。こうし

た旅行の要素が加わって巡礼は、より一般大衆化し、身近なものとなっていきました。

 

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