ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

日本のマチュピチュ・苗木城跡

2017-10-23 08:38:25 | 日記


​​
Googleで「日本のマチュピチュ」をキーワードに検索ところ、兵庫県朝来市の「天空の城
・竹田城跡」他の城たち、そして岐阜県揖斐川、静岡県葵区の「天空の茶畑」などが検
索された。更に「+苗木城跡」で検索したところヒット、やはり今回紹介する「苗木城跡」
はすでに日本のマチュピチュとして知られた場所でした。それでも、近年までは全国的
な知名度は低かったと思うのです。
話題沸騰となった雲海に浮かぶ「竹田城跡」が脚光を浴びたことで、自分のところにもあ
ると気づいた人たちが、日本のマチュピチュのお城をネット上で紹介してくれるようになり
ました。こんな背景もあって、岐阜県中津川市の苗木城跡の名前が、老夫婦の目に留
まることになりました。
早速出かけた老夫婦、苗木城跡の現地に立った時の第一印象は、「ここは日本のマチ
ュピチュじゃないか」という新鮮な驚きと感動でした。それだけこの城跡のインパクトは強
かったようです。



夫:朝早く着いたから駐車場に車がないね。城跡をゆっくりと散策しよう。

妻:資料館がまだ開館していないから、苗木城の資料が入手できないのが残念だな。
   まあ、下調べはできているから、見どころを逃すことはないと思いますけど・・・。

夫:あそこが城の中心へ向かう道だね。左右の石垣は低層で、これまでに知っている
  山城とはずいぶんと違う雰囲気だ。天守展望台までの道のりが楽しみだぞ。



苗木城跡の最初の見どころは、歩き始めて直ぐにある足軽屋敷跡から見る苗木城跡の
全景です。ここからは巨岩と石垣で構成された山頂の天守展望台が目の前の谷底を
挟んだ向かいに雄姿を見せてくれます。この谷が雲で埋まれば雲海に浮かぶお城にな
ります。
苗木城の特徴は自然の巨岩をそのままの位置で利用した石垣づくりの城であることで
す。二人は大小の巨岩を礎石に利用した石垣や巨岩に彫られた門柱跡を見つけながら、
城跡の中心部に向って歩き始めました。そして城の中心の入り口である大矢倉跡の前
に立ちました。



夫:この大矢倉跡の石垣の大きさは大迫力だな。まるでマチュピチュの遺跡に時空を超
  えて、ワープしたような錯覚を覚えるよ。ここには三層の館があったのだろうな。
   こんな整然 とした三層の石垣を有する山城は見たことがない。あの時代の人の技
   はすごい。

妻:ここまで来た道の脇にも巨石と石垣の組み合わせがあったけど、この大矢倉跡の巨
 石と石垣のコラボは一段と大きく目を見張る景観ね。そして、ここから見える天守展
 望台も 巨岩を抱えるようにして造られているのが分かるわ。この苗木城は全ての
  石垣が自然の巨岩を礎石として活用しているのね。よくぞこんな山を見つけて、ここ
  に城を造ろうと したわね。戦国時代から明治まで続いたお城だから、コツコツと長い
  年月をかけて築城してきたのでしょうね。この城跡が国指定史跡となっているのはう
  なずけるわ。

夫:お早うございます。お散歩ですか?

地元の方:お早うございます。私の趣味は北アルプスを歩くことなので、展望台までの登
  り道は良いトレーニングの場なのです。それにしても、歴史上有名でもないこの城に
  よくお越しくださいましたね。

夫:こんな景勝地にある苗木城の建物が明治の廃城令で破壊されたのは残念でしたね。

地元の方:全くです。この城は天守に登ると分かりますが、中津川の市内を流れる木曽川
  の右岸に高くそびえる標高差170mの山の上にあります。城主は遠山氏で、何と戦国
  時代から明治維新まで12代にわたりこの苗木領を治めていました。
  城持ち大名ではありましたが、1万石の小藩なので、お金がなくて天然の巨石を利用
  した石垣造りを考えたようです。探すと見つかりますが、岩に支柱を立てるための穴
  や、清水の舞台のような懸造り(がけづくり)を施すなど、山城ならではの建物の工
  夫が随所に見られます。残念なことに明治政府の廃城令によって、軍隊や役所として
  利用できない城だとして破壊されてしまいました。日本の風景を一変させたと言われ
  る廃仏毀釈も同じですが、政争の勝者の常とはいえ、「前政権時代のものは全て壊し
  てしまえ」はないでしょう。明治政府はもったいないことをしてくれたと怒っています。

夫:ここに復元図があります。これを見ると城の建物は土壁がむき出しだったようですね。
 お城の壁といえば白壁と思っていましたから珍しいなと思いました。それにしても、
  現在まで建造物が残っていたら、大きな観光資源になっていたのでしょうね。

地元の方:実は苗木城も白壁で塗られたことがあるんです。伝説によると、龍が出てき
  て全ての白壁が剥がされてしまった。それ以来、この城は土壁むき出しのままなの
  だそうです。外見から赤壁城という別称もあります。見ての通り、今に残されたもの
   は石垣だけです。貧乏藩ですから時間をかけて少しずつ石積みをしています。年代
  によって6種類ほどの石積みのタイプがありますから、時代検証のつもりで探してみ
  てください。

妻:ありがとうございました。ゆっくりと苗木城跡を堪能させていただきます。



二人は巨石と石垣の巧みな構成で築かれた道を天守展望台に向かって登り始めました。
そして、登頂した天守展望台には当時の館の基礎が復元されており、そこからは木曽川
・恵那山・笠置山・中津川市街地が360度で一望できました。まさに天空の城です。



夫:巨岩を抱くような展望台は清水の舞台のような形だけど、この土台の上に天守閣が
  作られていたのだな。こんな造り方の天守閣はめずらしい。全国的にもここだけだろう。

妻:復元図にあるような建物が全て残されていたら、その見事さに圧倒されたでしょうね。 
  きっと、これぞ山城の魅力!だとみんな思うわね。



歴史やお城そして石垣好きな方ならば、一度は訪れてみる価値があると思います。そし
て天守展望台から一望できる絶景は、やはり生で見る感動には到底及びません。ぜひ
お天気の良い日を選んで訪れてみるというのはいかがでしょうか。
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縄文人が太陽暦を使っていた証が「金山巨石群」にあった

2017-10-09 08:14:57 | 日記




暦の成立は古代のメソポタミア、エジプト、それに中国の殷などが最も古いと考えられて
います。メソポタミアではBC3000年紀に都市国家ごとにうるう年を加えた太陰太陽暦を
もっていました。エジプトではナイル川の氾濫やシリウスの星の出現を目安にした太陽暦
(シリウス暦)を使用し、BC2900年頃には1年を365日とする暦ができました。そのころの
日本はまだ縄文時代の真っただ中でした。あなたは「当時の縄文人が現在のグレゴリオ
暦に匹敵できる精度の高い太陽暦を使った生活習慣を取り入れていた」と言ったら驚き
ませんか?実はその証拠が飛騨金山の巨石群で見つかっています。
今年9月23日の秋分の日に、ここで太陽観測会が行われました。(シリウス暦はその後、
1582年にローマ法王グレゴリオの命で、より精度の高い現在のグレゴリオ暦に改暦され
ました)

老夫婦が手にしているパンフレットには、「日本における古代太陽観測の証~金山巨石
群と太陽暦~」と題し、金山巨石群は「岩屋岩陰遺跡巨石群」「線刻石のある巨石群」
「東の山巨石群」からなる巨石群(推定2500年前)の総称である。いずれも同じような観
測方法により太陽運行をとらえ、各節目の時期を知るための観測台の役目を持つ。
また、太陽高度と年間日数との誤差により、うるう年を知るための石組みも存在している。
「線刻石のある巨石群」には夏至の頃の太陽軌道の方位と高度が2本の線刻に刻され、
巨石群内に差し込むスポット光の形とサイズが3つの楕円の痕跡に刻された可能性が高
いとされている。こうした研究成果や、周辺地域(卯野原・乙原・八坂)に8000年前からの
住居跡や石鏃(せきぞく)、土器などが多数出土していることから、金山巨石群が太陽暦
として機能し、利用されていたと考えられている。」と書かれている。

夫: ここが金山巨石群の場所だね。案内員の方がいないけど、今は巨石の中かな?
   今日は話を聞きながら、このパンフレットの内容を検証して行こうじゃないか。それに
   しても、 この巨石群が縄文時代に人為的に作られたとは思えないね。どうやってここ
   まで動かし、そして組み上げたのだろうか。今は山奥だけど、当時のここの環境はど
   うなんだろう。

妻: これらの巨石群を見ていると、森の中に忽然と現れた大きなパワー・ストーンといっ
   た感じね。今日の観測場所は岩屋岩陰巨石の中だと思うからそこへ行ってみましょ
   う。

岩屋岩陰遺跡は1973年、岐阜県文化財に指定された縄文時代の史跡で、1976年ごろ
までは岩屋神社と呼ばれ信仰の場でした。遺跡は3つの巨石の組み合わせで構成され
ています。

案内員: ようこそ観測会に!ここの調査の始まりは1997年に、隣にある「線刻のある巨
      石」に刻まれた3つの楕円形の彫刻そして2本の線刻を見て何かの記号表現で
      はないかとの疑問から、謎解きが始まったのです。
      その後の調査で、「線刻石のある巨石群」では夏至・冬至の観測所、「岩屋岩
      陰巨石群」では春分、秋分そしてうるう年の観測所、「東の山巨石群」は冬の
      始まりと終わりの観測など季節を知る観測所としての機能を持っていることが
      分かりました。

妻: 今から20年前の話ね。それまでは信仰の場ではあったけど、ここが太陽カレンダーの
   機能を持っていることは全く忘れられていたのね。

案内員: 今日は秋分の日です。この日の「岩屋岩陰巨石」では、あそこに見える岩の隙間
   から射し込んだ太陽のスポット光の灯りが1日4㎝ずつ奥(北)へ移動します。理
   解してもらうために紐を4㎝間隔で置いてあります。今朝の9時半ごろに射し込ん
   できた小さなスポット光は円形となって、ここにある最初の測定石に当たりまし
   た。そして陽が登るにつれてこの線に沿って光の「形」や「大きさ」を変えながら、
   現在ここまで移動しています。そして明日には次の4㎝離れた紐の位置に移動し
   て、紐の線の上を移動します。これを観測することで、春分や秋分を読み取るこ
   とができるのです。春分の日は反対方向の光の移動になります。
   うるう年と平年の見分け方は10月と2月の年2回、太陽光がここで発見された石
   組みの3ヵ所へ射し込むスポット光の観測で読み取ることができます。太陽は365
   日+約6時間で地球を一周するからうるう年による調整が必要です。
   でも実際は6時間を11分14秒短いのです。この分を24時間にするには128年か
   かります。ここで1日引かなければ正確な暦になりません。この細かな計算もこ
   こで読み取ることができるんです。
   これから解説しますね。現在のグレゴリオ暦が使われる遥か昔の縄文時代に、
   今の暦と同じ精度の太陽観測が、ここで行われていたことを知ってほしいです。

老夫婦にはうるう年の話は1回聞いただけでは十分に理解できませんでしたが、それでも
何となくその場では納得できたのが不思議です。

夫: ところで夏至の観測など他の節目の観測もここで行われたのですか?

案内員: 違います。夏至の観測は隣にある「線刻石のある巨石群」で観測されました。
   夏の光がある一定の期間で同じ位置に戻ってくるのを知れば、それは季節と
   連動し、自然界の移り変わりの時期を知る目安になります。夏の昼頃、巨石の
   下の空間にスポット光が射し込みます。その光の形を写し取り、巨石に掘られ
   た3種類の楕円形に合わせると夏至の頃の光の形が一番大きな窪みの形とピ
   タリ一致、他の2つの窪みは陽の入り始めと終わりの形と一致したのです。2本
   の線刻は射し込む光を象徴したものと考えられます。
   是非「線刻石のある巨石」へ行って確認してください。なお「東の山巨石群」で
   すが、この時期はまだ山ヒルが出ますので、行くことはお勧めしません。
   太陽観測は3つの巨石群を目的別にも、そして連動した観測点としても使って
   います。

妻: パンフレットに北極星と北斗七星が記載されていますが・・・・。

案内員: この「岩屋岩陰巨石」の一つに北斗七星が大きく描かれています。そしてこの
   下にある巨石の傾斜に沿ってその延長上の夜空を眺めると北極星が観察で
   きます。

夫: この場所全体が大きな観測所として使われていたんだね。うるう年の話などはすぐに
   は理解できなかったし、疑問も出てきたから帰ってからゆっくり調べよう。

妻: 今、ここの「観測ガイド」の本を購入したから、これを読むといいわ。

二人は「岩屋岩陰巨石」を出ると、ガイド本を見ながら「線刻石のある巨石」や「北斗七星
観測石」など金山巨石群を見て歩き、縄文時代の生活に想いを巡らせました。
ここは二人にとって記憶に残る場所となったようです。



参考書:金山巨石群の「縄文」太陽観測ガイド 2016年9月28日発行  
      著者:小林由来 徳田紫穂
      発行所;株式会社 三五館  1200円
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南北朝時代の城跡に今年も彼岸花が咲いた

2017-10-02 08:04:52 | 日記






茨城県龍ヶ崎市には南北朝時代の攻防の歴史を語る史跡として「馴馬城跡」が茨城県指定史跡となっています。
だがこの史跡は残念ながら主郭跡が消滅しており、今では雑木林の中に空堀と土橋と言われる遺構だけがわず
かに面影を残すのみです。
そのため、この地に立っても往時に思いを馳せることは難しいのですが、今年も土橋を支える側面に彼岸花が
咲きました。私はこの時期になると散歩道として好んでここを通ります。お気に入りなのは土橋の側面に明る
い陽ざしを浴びて咲く、真っ赤なヒガンバナを見下ろしながら歩いていきますと、突然に城の入り口に繋がる
空堀状遺構と言われる、雑木林で覆われて一日中薄暗い細長い道に吸い込まれていくところです。この明と暗
の極端な変化は楽しめます。
今回、ここを歩きながら「そう言えば南北朝時代のことって知らないな」との思いがよぎりました。この時代
のことはなぜか最近のテレビや小説では話題になりませんね。日本の歴史の中ではそんなに影の薄い時代だっ
たのでしょうか?

<南北朝時代とは>

日本史の中では「鎌倉~室町~南北朝~応仁の乱~戦国」辺りの時代を中世史というのが一般的だと思います。
鎌倉時代の終わり頃(1246年)、天皇家は持明院統・大覚寺統という二つの系統に別れ、跡目争いを始めまし
た。大覚寺統の御醍醐天皇は皇位の保持と政治力奪回のため、鎌倉幕府打倒で挙兵します。
一度は敗れ幽閉された後醍醐天皇ですが、再度挙兵する機会を得ます。鎌倉幕府は足利尊氏に出動を命じます
が、尊氏は裏切って御醍醐天皇側について鎌倉幕府を倒してしまいます。戦いに勝利した尊氏は京都の室町に
室町幕府を開きます。
しかしながら、ここで御醍醐天皇との間に仲たがいが生じ、尊氏はなんと持明院統の光明天皇を即位させ、こ
ちらを正式な天皇だと言い張りました。
奈良の吉野に逃げた後醍醐天皇を南朝、そして尊氏の立てた京都の光明天皇を北朝といい、日本中の武士がそ
のどちらかに分かれて争いを続けました。
話はそこで終わりません。今度は室町幕府を掌握していた尊氏とその弟直義との間で争いが始まり,尊氏がこ
ともあろうに後醍醐没後の南朝後村上天皇を担ぎ出したことから南朝は再び息を吹き返します。
その南朝は後村上天皇が,これまた、あろうことか尊氏に反旗を翻し南朝の完全な回復をはかろうと画策しま
したが、結局は孫の足利義満の時代に抑えられ、ここに北朝を正式な朝廷とする形で南北朝が和解することに
なるのです。この南北朝の混乱はなんやかんやで約60年間続きました。これが南北朝時代です。
室町幕府は南北朝の並立を終息させた3代義満の時代が最も安定しました。義満は金閣寺を建立し、北山文化
を育みました。しかしながら、6代義教の時代になってその専制政治に多くの守護が危機感を抱き、その中の
一人赤松満祐に暗殺されてしまいます(嘉吉の乱)。
逆賊の赤松を追討する者もなく,ここに足利将軍の権威は失墜し、跡目相続から応仁の乱が勃発、その後戦国
時代に突入して、織田信長に追放された15代将軍義昭で室町幕府は終焉します。
義昭の時代まで室町幕府は約230年続きました。鎌倉幕府が約140年、徳川幕府が約260年ですから、室町幕
府の時代も長かったのです。 

<南北朝時代の城とは>

日本で戦いのための城が築かれるようになったのは、国内情勢が不安定になってきた平安時代後半からと言
われます。南北朝時代には後醍醐天皇側の南朝勢力が鎌倉幕府に対抗するために山城を築城していきます。
現在の大阪府にある楠木正成の「千早城」と「赤坂城」などが南北朝時代の遺構です。
当時の古代山城は急峻な山を利用し防御力の高い要塞としました。山が険しければ険しいほど防御力は増しま
すが、普段の生活の利便性は落ちていきます。時勢が落ち着いていくと、築城地の高度を下げていき平山城や
平城に変化していきます。

<龍ケ崎市にある馴馬城とはどんな城?>

歴史資料館のパンフレットによるとお城があったのは1300年代の頃の話で、現在はかつての姿をうかがい知
ることはできません。
馴馬城は、基本的には舌状台地の先端を掘切で区切るという当時の城の作り方をしていること。3ヵ所の曲輪
(くるわ)、虎口(こぐち)・空堀・土橋があることが記載されていました。現状は中心部が破壊されている
こともあって、一つ一つの遺構も明瞭ではありませんが、現存する部分を見るかぎり、南北朝の姿を留めてい
るといえると記載されています。
馴馬城は南北朝時代のかなり早い時期から南朝方の拠点として存在しており、城主は不明ですが小田氏(つく
ば市)東条氏(稲敷市)らと同じく南朝方の武士でした。この城は足利方により二度ほど攻略されていること
が分かっているそうです。ということは一度負けた南朝方が、再起して再びここに陣取ったが、再び敗れたと
いうことです。
そんなことがありましたが、その後の龍ケ崎の地ではこうした血なまぐさい戦場の舞台にはなっていないとの
ことです。

1. 曲輪:兵士を待機させたり、武器を備えて置く削平地のこと。多くの場合、土塁や、塀などで周囲を囲み、
      中の様子が分からなくなっています。郭ともいう。
2. 虎口:城郭や陣営などの最も要所にある出入り口。攻撃が集中するため、簡単には突破されないように
      小さな出入り口となっている。小口ともいう。
3. 空堀:水を引き込んでいない堀。中世の城の堀は大半が空堀でした。
4. 土橋:堀を横断する通路として設けられる土の堤。

<夏草や つわものどもが 夢のあと (松尾芭蕉)>

ここ数年、手入れが行き届かないため、ヒガンバナは雑草の中に埋もれており、昔の土橋の側面の美しさが
消えているのが残念ですが、それでも私の住む町にも「つわものどもが 夢のあと」の戦場がここにあったの
だということを再認識できたことは収穫でした。
こうして頭が整理された状態で、昨日ここを散歩していたら、何のためにここが茨城県指定史跡に指定されて
いるのか、理解に苦しむ保存環境であることに気が付きました。馴馬城跡がある場所はとても皮肉なことです
が、龍ケ崎市歴史民俗資料館の隣接地にあります。ここの駐車場に案内板があって、そこから城跡に行けるの
です。
歴史を大切にしている資料館の学芸員さんたちに言いたいです。小学生が遠足に来たくなる場所、大人たちが
この遺構に目を向けて歴史ツアーなどで行きたくなるような魅力的な場所にして頂けないでしょうかね。


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