ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

地元の有志が育てる「大平(だいへい)野生植物園」のヤマユリ

2019-07-29 07:23:46 | 日記


茨城県県南地域では今年のヤマユリの見ごろが過ぎようとしています。野生のヤマユリは私が歩く
散歩道でも見つけることができますが、数が多いわけではありません。発見すると嬉しくなってし
まいます。ヤマユリは減っているそうですね。ですから、咲いていること自体で、その場所が特別
な環境だからなのだろうと思います。昔はわが家の庭にも咲いたことがあったという普通に見られ
た花ですけどね。

「立てば芍薬,座れば牡丹,歩く姿は百合の花」の言葉は、花が大変美しいことから美人の例えと
したものですね。この様にユリは昔から身近な植物の一つとして親しまれていますが,最近,ヤマ
ユリが生育している草原などは,生態的な遷移からかなり減少していると報告されています。
そのために、各地で生育環境を保護しようという運動が行われているようです。県内でヤマユリが
有名なのは、県フラワーパークと行方市井上が有名でしたが、「井上山百合の里」は中止になって
しまいました。

そんな再生運動のひとつなのでしょうか、隣町の利根町では地元の退職者らでつくる二つの町民グ
ループが小さな山を覆う竹藪を整備して、散策路を作り約300株のヤマユリのほか、ヤブカンゾ
ウ、ガクアジサイなども咲く「大平野生植物園」を無料で開園させました。「やまゆり祭り」とし
ては今年で7回目だそうです。老夫婦で「やまゆり祭り」期間中の見ごろに行ってきました。

ヤマユリは本州以北に分布し,日当たりのよい山野に生育する日本特産種の多年生植物です。観賞
用にも栽培されています。茎の高さは1.5mに及び、茎の先に20㎝近い大きな花を10個近く咲かせ
るものもあり、満開時の姿はとても豪華である。強い香りがあります。ユリの仲間では最も大きな
種の一つです。果実は楕円状で,種子は翼があり薄い円盤状です。
「ユリの女王」と称される園芸品種のカサブランカは,ヤマユリの他,カノコユリなど数種のユリ
を交配させオランダで育種されたものです

大平野生植物園がある場所は米作りを主産業とする隣接の利根町です。利根町で唯一の山
(標高10mぐらい)の竹林を取り払い整備したもので、展望台からは富士山も遠望できます。園内は
よく整備されていて、散策路沿いに見ごろのヤマユリが目の前で咲き誇り、ユリの香りが山全体を
覆っていました。私が歩く散歩道では1本又は数本毎に場所を変えてまばらに咲いているだけです
から、こうして、間近で沢山のヤマユリに囲まれていると、大きな花輪と強い香りに圧倒されます。
お世話をされている方に聞いた話しでは、ヤマユリは手入れと植え付けをしなければ、いずれは無
くなってしまうそうです。そういえば、駐車場の一部に鉢植えのヤマユリが並んでいました。
きっと種とり用なのでしょう。「やまゆり祭り」期間中はテントが張られ世話人さんが派手な(?)
募金活動をしていました。
ここって無料だよね・・・? もちろん喜んで募金に応じました。

散策路の案内をして頂きましたので、とても良い時間を過ごさせていただきました。毎年訪れたい
と思います。春はカタクリの山になるそうです。今から春が楽しみです。

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環境破壊で甦った、大正時代の竹内農場西洋館

2019-07-22 07:42:56 | 日記


先日、「旧竹内農場西洋館がきれいになっている」との小さな囲み記事と写真が目に飛び込ん
できました。年に1回程度の頻度で歩く散歩道にある建物のことです。

10年近く前のことです。新しい散歩ルートを開拓中に偶然に廃屋となっていた赤レンガの西洋
館を見つけた時は、衝撃的な発見で今でも鮮明に覚えています。
一般の人は通らないうっそうとした広大な林の脇道を、探検のつもりでどこかにたどり着くの
だろうと、気楽な気持ちで奥に歩いていくと、網で囲われて中は樹木や雑草そして竹藪で覆わ
れた敷地に、しょうしゃな赤レンガ壁の西洋館の建物がチラチラと見えたのです。広い敷地を
囲う網に沿って歩きながら、全体像が見える場所を探しました。
見えたのは、おそらく1世紀近くの年月が流れ、昔はモダンだったはずの西洋館が、床が抜け
屋根は朽ち落ち見る影もなく、御影石の土台と赤レンガの壁面を残すだけの廃屋となった廃墟
でした。
古さを象徴するように空洞となった館の真ん中から、屋根が朽ちた後に育った樹木が太く、大
きく育っていました。古いだけ、ただの廃屋だけの廃墟ならここに書き記しませんが、目の前
の赤レンガ壁は一見して、当時の色彩がそのまま残されていると思いました。かなり高級なレ
ンガが使われていたのでしょう。そして、遠くから見ても意匠の素晴らしさが分かりました。
この西洋館の赤レンガ壁は関東大震災や東日本大震災に耐えて、今もここに建っています。こ
れは遺構として価値があると思いました。私は地元に住みながら、この廃墟の存在を発見当時
まで知らなかったのです。

私はその記事に触発されて、久し振りにこの西洋館の廃墟に行ってみることにしました。行っ
てみて驚きました。あのうっそうと広がった林が見事に伐採されて、広大な敷地を占有する太
陽光パネル畑(メガソーラー)となり、想像することもできなかった遠くの家並みが見通せた
のです。
林の環境は完全に破壊されました。衝撃的な悲しい気持ちを抑えて、太陽光パネルの脇道を通
り、更に前に進むと、見覚えのある西洋館の敷地を囲む網が見えてきて、「まだ残っている」
とホッとしました。
そこで再びの驚きです。近づくと西洋館の敷地内が本当にきれいに整備されていたのです。敷
地内は立ち入り禁止ですが、敷地内の雑草、樹木そして竹藪が刈り取られ、廃墟の中もきれい
になっています。瞬間に、1世紀前にここに住んでいた人たちの、日常の生活が目の前で繰り
広げられている姿が浮かびました。私はきれいに整備されたことで甦った西洋館の建物と敷地
をゆっくりと観察しました。

帰宅した私はこの何十年の間、全く手が付けられず、草ぼうぼうの廃屋が、なぜここに来て整
備されるようになったのかとその理由を調べました。すると、「平成26年(2015)の暮れに、
西洋館の敷地が、創設者の竹内家のものから、太陽光発電業者に名義が変わってしまいました。
それを受けて龍ケ崎市は急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約
で借り受けて、施設工事をストップさせています。市の調査のため、敷地の藪は刈り取られ、
廃屋となった西洋館は再び人々の前に姿を現し、俄かに注目を集めております。」との保存に
立ち上がったNPO法人の記事が見つかりました。そして、市の施設を使ったパネル展の開催や、
市とNPO法人が共同でこの西洋館の見学会も行われており、その見学会の様子の映像もありま
した。そうなのです、この建物の敷地はすでに太陽光施設の業者に買い取られており、慌てた
市が急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約で借り受けて、施設
工事をストップさせていたのです。見学会を行ったことで敷地内が整地され、きれいになって
いることが納得できました。

この西洋館は文化財の指定を受けているわけでもないので、民間の所有地にある廃墟の扱いな
のですね。借地権が切れたらここはどうなるのでしょうか。今のままなら間違いなく、潰され
て太陽光パネル畑になってしまうのでしょう。この建物に使われているレンガは東京駅に使わ
れたものと同じだそうです。そしてレンガ造りの西洋館は鉄筋コンクリート造りに変わった建
築方式への移行により、あの時代が最後であり、将来にわたっても赤レンガの西洋館が建造さ
れることはないでしょう。現在NPO団体が保存に動いているようだが、どうなるのであろうか。

私としてはこの建物の復元保存を願うと共に、史跡として、文化財としての価値を市民にアピ
ールし、保存運動の大きなネットワークを創生したいと考えているNPO法人に協力していきた
いと思っております。

<旧竹内農場西洋館とは>
大正時代、蛇沼の沼畔に小松製作所の創業者であり、日産(ダットサン)の創業者の一人でも
ある竹内明太郎(1860-1928)が経営していた竹内農場がありました。そして農場主の住居とし
て建てられたモダンな赤レンガの西洋館は竹内農場のシンボル的存在で東京から有力な政財界
人を招いたといいます。竹内明太郎の弟である吉田茂(戦後の総理大臣)も訪れたという記録
も残っています。この西洋館に、戦前から住まわれた家族は、昭和27年(1952)頃に家を購
入して引っ越しされたとのこと。おそらく西洋館にとって最後の居住者だと考えます。
しかし、手入れはされていたようで昭和60年頃まで、屋根があったという証言がありますので、
屋根が落下し、床が抜けた現在の姿になったのはそれ以降と考えられます。
そして、その敷地はまるで西洋館の存在を隠すがごとく藪が覆い、半世紀以上が経過し、人々
の記憶の中からも消えていきました。

<西洋館の構造>
西洋館は地下を有する一部2階建てで、周囲に約80ヘクタールの竹内農場を開設し、北茨城
市にあった無煙炭鉱の従業員の食糧を賄う付属農園として経営したそうです。
レンガというのは時間が経っても、鮮やか且つ美しさが褪せません。異なるサイズのレンガが
交互に積まれていることからイギリス積みと推測されており、意匠も凝っています。使用され
ているレンガは、渋沢栄一が埼玉県深谷市に設立した日本煉瓦製造で作られた、東京駅丸の内
駅舎にも使用されていた物と同様だそうです。
レンガ造りの建物は思わず見入ってしまう魅力がありますね。

あんな場所に農場だけでなく牧場もあったなんて驚きです。あの廃屋となった西洋館が単なる
大正時代の遺構としてだけでなく、市民に活用されて残されることを願っています。

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珍百景、登録なるか? 犬と猫が散歩する風景

2019-07-15 07:49:00 | 日記


犬と猫を連れて散歩している(運動させている?)お婆さんが、交差路の一方から出て
きて、神社の脇の散歩道に入り、今、私の前を歩いています。
おやっ!「猫が一緒に散歩?本当か?」疑りたくなる光景でした。
猫が散歩をするとは・・・、様子を見ていると犬と猫は仲が良さそうです。歩く方向が
同じだったので、暫く後ろについてゆっくりと歩くことにしました。

観察していると、犬は猫を無視して、我が道を行く歩き方をしていましたが、猫は時々、
犬の鼻先に体をすりよせては歩く先を邪魔して楽しんでいるように見えました。
犬は優しかったです。何回もすり寄る猫を嫌がらずに鼻先で押し返していました。歯を
むき出したり、うなり声で威嚇したり、前足で叩くことはしません。
お婆さんはこれがいつものことのように、無関心な様子で前を向いて黙って歩いています。
私はこの微笑ましい犬と猫の様子に見入ってしまいました。

この猫は野良猫なのか、飼い猫なのかどうかの真偽は、お婆さんのお宅まで見届けてい
ないので分かりませんが、何回も交差がある道を常に一緒に歩いており、とうとう私と
歩く方向が異なる交差路まで一緒でした。時間は確認していませんが、5分~10分間は
私の前を歩いていたような気がします。別れた後も目で追いましたが、角を曲がって見
えなくなるまで一緒に歩いていました。私には一緒に歩くことが日常の行動のように見
えました。

猫が犬と長い時間、仲良く散歩する光景を初めて見ました。
応募したら「珍百景、登録なるか?」
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 鞍馬寺から貴船神社までの古道ハイキング

2019-07-08 07:32:04 | 日記


前日の「高瀬川界隈の歴史・文学散歩」三人旅を終えたノブさんは、一人だけ京都に残り、
京の奥座敷、鞍馬・貴船エリアに向かいました。鞍馬天狗や義経伝説で知られるパワース
ポットの「鞍馬山」と和泉式部ゆかりの恋愛パワースポットの「貴船神社」を結ぶ2時間
ほどのハイキングを楽しむためです。

<京都市内から鞍馬寺の仁王門へ>
ホテルから京阪電車に乗って「出町柳」駅で下車、ここで叡山電車に乗り換えて「鞍馬」
駅に到着です。食料は出町柳駅前のおにぎり専門店で調達、展望列車「キララ号」に乗り
たかったが、時間が合わずに断念。鞍馬駅から歩いて数分で仁王門に到着しました。

「鞍馬駅前の巨大な天狗のオブジェがお出迎えしてくれた。鞍馬山のシンボルだな。」
「駅前は小規模ながらも門前町の雰囲気が感じられていいな。鞍馬の名物は何かな?
 (木の芽煮)、(牛若餅)が売られている。きっとこれだな。」

<仁王門から由岐神社へ>
仁王門で入山料300円を納めて美味しい空気、美しい自然を楽しむハイキングのスタート。
仁王門は俗界から浄域(鞍馬山)への結界。門にあるのは、狛犬ではなく、阿吽の虎。
鞍馬寺が「毘沙門天」をお祀りしているためで、虎は、毘沙門天のお使いなのです。

「さあ、歩くぞ!聖なるパワースポットの鞍馬寺。心なしか、門をくぐった瞬間に、空気
  が一変して凛とした雰囲気に包まれたような・・・」
「ここからケーブルに乗って多宝塔回りで行くか、歩いて九十九道を登るかの分岐点に出
  たぞ。迷わず九十九道を選択だ」
「右手に牛若丸に兵法を授けた鬼一法眼を祀る社が右手に見えてきた。早速、牛若丸だ!」
「見えて来た、由岐神社到着。ここに来たかったのだ。正面が中央に通路をとった割拝殿
  と呼ばれる拝殿だな。確かに珍しい建物だ。ここをくぐって由岐神社の境内に入ろう」
「(大杉さん)と呼ばれる杉の大木(高さ53m、樹齢800)が迎えてくれた。一心に願えば
  願いを叶えてくれる大杉だということだから(大杉さん)のお守りを購入していこう。」
「鞍馬の火祭りはここが舞台なんだな。鞍馬山へ遷宮した時の儀式の様子を再現している
  祭りとある、資料とポスターで理解できた。一度、鞍馬の火祭りを見てみたいものだ。」
「由岐神社の参拝を終えたし、いよいよ、ここから本格的な九十九道の登山が始まるぞ。」

<由岐神社から鞍馬寺金堂>
由岐神社からの九十九道は、清少納言が「枕草子」で「近うて遠きもの鞍馬の九十九折の道」
と詠んでいる道です。歩いていくと途中に「命の像」、「中門」そして休憩のできる「洗心
亭」などがある。到着した鞍馬寺金堂はさすがに立派な建物です。牛若丸が幼少の頃を過ご
した寺であり、現在は天のエネルギーが降臨するパワースポットの寺として有名です。特に、
金堂前の金剛床にある「六芒星」に立つと、エネルギーを感じることができるそうです。
本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊は秘仏で、60年に一度丙寅年の開帳です。

「九十九道はいい感じの山道だ。歩いていると息が上がってくるけれど、吸い込む空気がき
  れいなので気持ちいい。」
「お~、きれいな石段と朱色の灯篭が見えてきた。鞍馬寺が近くなっているのを実感できる。
  ふー。あと一息。」
「鞍馬寺に到着だ~! ここに来られて嬉しい。鞍馬寺の朱塗りの金堂もきれいだけど、ここ
  からの景色は絶景だ。特に山々と目線の高さが一緒なのがいいな。しっかり参拝して、
  有名なパワースポットの「六芒星」でパワーを授かろう。」

<鞍馬寺金堂から木の根道、僧正ガ谷不動堂>
奥の院へは更に山道を登ります。牛若丸伝説はここからが本番。歩き始めて与謝野晶子・寛
歌碑そして霊宝館(鞍馬山博物館)を過ぎると、牛若丸伝説の息継ぎの水、背比べ石があり、
修行の場とした木の根道に出ます。この付近がハイキングコースの最高地点です。そこから
下り坂となっていて最澄が刻んだ不動明王が安置されている僧正ガ谷不動堂にでます。

「木の根道は地面を木の根が張っている不思議な景観のエリアだ。このエリアは土が少ない
  から根を伸ばして張っているだけなんだけど、この景観ならここで牛若丸と鞍馬天狗が
  出会い、修行の場としたというお話が生まれたのが分かるよ。どんな修業をしたのかな。」
「僧正ガ谷不動堂に到着だ。ここにも六芒星があるじゃないか。向かいには義経堂がある。
  ここは凛とした雰囲気があって、かなりのパワースポットの場所だと思うぞ。」

<僧正ガ谷不動堂から奥の院魔王殿>
不動堂から鞍馬寺西門の出口までは最後まで下り道だ。「鞍馬寺」のご本尊のひとつ「護法
魔王尊」は、650万年前に金星からこの地に舞い降りたとされています。その降臨された場
所が奥の院魔王殿である。大きな灯籠一基が出迎えしてくれた。

「奥の院魔王殿に着いたけど、ここは他とは、空気が違うな~、鞍馬寺金堂とも、僧正ガ谷
  不動堂ともまた違った、ただならぬ雰囲気を醸す聖域だ。瞑想をしている人がいるけど
  わかるな。やっぱり(ここまで来て良かったな)と思わせる何かがある場所だ」

<奥の院魔王殿から西門出口へ、そして貴船神社へ>
奥の院から下って西門に近づくと、不思議にねじれた大きな樹木があちらこちらに見られる
場所があります。そして出口の西門を出ると貴船です。街中は川床料理の店が並び独特の景
観ですし、貴船神社は春日灯篭が連なる石段の参道が神社を代表する景色で、TVや雑誌など
でも取り上げられる場所です。貴船神社のご祭神は高龗神(たかおかみのかみ)という水の
神様。創建年代は古く、1300年前の社伝に御社殿造替の記録があるそうです。絵馬発祥の地
とも言われています。

「西門の出口までは長い下り階段が続いたから膝がガクガクになった。それにしてもあのね
  じれた樹木はすごかったな。磁場が乱れているためとの噂もあるが、どうなのだろう。」
「やっと鞍馬寺の西門出口に到着した!古道ハイキングの終了だ!お疲れ様!」
「貴船の街の風景は川床料理屋さんが並んでいて独特の雰囲気と景観だな」
「ハイキングの最終目的地、貴船神社に到着だ。ご神水に浮かべる「水占みくじ(1枚200円)」
  を楽しもう。ここは縁結びの神様。縁といっても色々な縁があるから、どんな縁と結ばれ
  るのかな。水占いのおみくじが教えてくれるだろうな!」

ノブさんは貴船で名物の川床料理を堪能し、再び鞍馬駅に戻って、鞍馬温泉まで足を延ばして
疲れを癒してから、帰途についたようです。

今回の古道ハイキングのルートには特に難所もなく、きつい登りも少ないです。そして、全体
的に森の中を歩くことになるので、日差しの心配はあまりないでしょう。しかし、山の中とは
いえ、やはり京都の夏は暑いため、飲み物はしっかり用意してくださいね。

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京都・高瀬川界隈の歴史、文学散歩

2019-07-01 07:39:00 | 日記


首都圏に住んでいる高校の同級生3人が古稀を迎えたことを契機に始めた歴史、文学の
探訪街歩き。今回は昨年度の「嵯峨野の文学散歩」の好評を受けて、再びの京都1泊2日
の旅です。初日は高瀬川(木屋町)界隈の歴史・文学散歩。昼に京都駅に集合した一行
は地下鉄二条駅で下車して地上に上がってきました。

ノブ:ここ木屋町界隈は幕末から明治維新の動乱期の表舞台であり、文豪たちが創作の
   舞台とした場所だ。特にこれから歩く木屋町は、今は花街先斗町に接した歓楽街
   だけど、たかだか150年前には新選組が尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件があっ
   て、桂小五郎や坂本龍馬が奔走した幕末の生々しい場所だった。文学史としては
   森鴎外の「高瀬舟」に因む舟入跡や司馬遼太郎の「龍馬がゆく」に出てくる藩邸
   があった場所なのだ。そして、今回はスペシャルとしてノーベル賞受賞者の田中
   耕一さんが所属する島津製作所の創業記念資料館に寄りたいと思っている。

ヒデ:時代劇フアンとしてはこの場所を実際に訪れることができて嬉しいよ。

ヤス:僕は現役時代に仕事で島津の分光器に世話になっていたから、資料館には寄りた
   いな。

一行は京都ホテルオークラ前にある桂小五郎像前からウォーキングを開始しました。

ノブ:この京都ホテルオークラは長州藩邸跡にある。その縁でここに桂小五郎像と長州
   藩邸跡の碑があるだね。ここが長州藩の京都での活動拠点だった。幕末の京都で
   の長州藩の活動は、桂小五郎を中心に行われていたから、彼は新撰組に何度も狙
   われていた。

ヒデ:会津藩士・山本覚馬と八重邸跡に来たぞ。NHKの大河ドラマ「八重の桜」で取
   り上げられた二人だ。兄の山本覚馬は京都の産業復興に貢献した人物で、妹の八
   重は同志社を創設した新島襄の妻となった、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれ
   た人だね。

ヤス:高瀬川に出たぞ。加賀藩邸跡や土佐藩邸跡の碑がある。藩邸が集まっていたんだね。

ヒデ:高瀬川ってこんなに浅いのかい。これでは底の平らな高瀬舟でも浮かばないだろう。

ノブ:高瀬川は江戸初期に角倉了以が私財で作った運河で、大正時代まで京都の中心部
   まで物資を運ぶ大動脈だった。残された写真を見ると、何隻もが行き交う今より
   もっと大きな運河だったようだ。森鴎外が「高瀬舟」という医師でもある鴎外だ
   からこそ書けた作品を残している。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」もここが舞台だ。
   龍馬が好きな人はこの本の影響を受けているだろうね。さあ~、夏目漱石の句碑
   まで歩いてきたぞ。ロマンティストな漱石が川向こうのお多佳さんを慕った句だ
   そうだ。その他に京都と深く関わった作家としては「金閣炎上」の水上勉を忘れ
   てはいけないね。ここからは坂本龍馬、桂小五郎、中岡慎太郎ら幕末の志士の寓
   居跡、 そして新選組襲撃の池田屋事件や龍馬暗殺の近江屋など、血なまぐさい
   事件の現場を示す碑を見て歩こう。

ヤス:ここが「禁門の変(蛤御門の変)」の引き金となった池田屋事件の場所だね。
   これで新選組は名をあげている。龍馬が襲撃された寺田屋事件と共に維新の史跡
   だね。でも「池田屋はなの舞」という飲食店になっていて、これでは印象に残ら
   ないな。

ヒデ:瑞泉寺に入るの?よく知らないな。豊臣秀次一族の菩提寺と書かれている。

ノブ:豊臣秀頼が誕生して、甥の秀次は疎んじられて自害。鴨川の河川に一族郎党39人
   ともども葬られた。運河を開削した角倉了以が荒れていた墓石を見かねて、ここ
   に弔ったそうだよ。

ヤス:材木商・酢屋にやって来たね。龍馬好きにはたまらない場所だろうね。

ノブ:そうだね、坂本龍馬が作った海援隊の駐屯地だ。解説してもらえるから入ってみ
   よう。

一行は今も材木商の酢屋2階に案内されて、龍馬に関する資料を解説してもらいました。

ヒデ:いや~!お婆ちゃん主人の熱き解説に聞き入ったよ。龍馬の時代から4代この場
   所で材木商を続けていること、だからここが唯一現存する「生存中の龍馬ゆかり
   の場所」だと自信を持って言えるのだという言葉には説得力があったね。

ノブ:次は醤油屋の近江屋跡地だね。ここも今ではかっぱ寿司になっているけど、坂本
   龍馬、中岡慎太郎が暗殺された場所だ。剣の達人だった坂本龍馬も暗殺当日、風
   邪気味で中岡慎太郎と鍋を囲んでいる無防備な状態だったようだ。

ヤス:土佐藩邸がすぐ近くにある。当時の龍馬は脱藩を許され自由に出入りできていた
   のだから、藩邸内にいれば襲撃されなかったのにね。

ノブ:次は高瀬川沿いに上っていくよ。ここが桂小五郎・幾松寓居跡だ。「幾松」は現
   在も旅館として営業しており、建物は国の登録有形文化財に登録されている。館
   内は当時に近い状態で保存されているそうだ。

ヒデ:どんどん歩みは進んでいるね。佐久間象山・大村益次郎遭難の地という立派な石
   碑が川向こうに並んでいる。

ノブ:象山は松代藩士で、開国論を唱え、勝海舟、吉田松陰ら多くの俊才を教育した人
   物だ。この路上で刺客に襲われ即死した。享年52才。大村益次郎は、長州藩の
   医師だが、西洋兵学を学び、戊辰戦争で活躍、近代日本の兵制を創始した。象山
   暗殺5年後にこの地の旅館で不平派士族に襲われた。享年47才だった。

ヤス:司馬遼太郎の「花神」には益次郎の人物像が詳しく描かれているよ。

ノブ:高瀬川界隈の案内の最後は「一之舟入」だ。高瀬川にはかつて荷物の上げ下ろし
   や船の方向転換をするための「船入」が二条から四条かけて9か所あったけど、
   現在は「一之船入」だけが史跡として残されている。モニュメントが残されてい
   るね。そして森鴎外の「高瀬舟」の舞台だ。

ヒデ:医師である鴎外が、弟殺しの罪で島流しにされてゆく男と、それを護送する同心
   との会話から安楽死の問題を提起した話だね。

高瀬川界隈の歴史・文学散歩を終えた一行は、「島津製作所創業記念資料館」に入って
行きました。そこでは創業者、2代目の島津源蔵の創業精神を学び、創業(明治8年)
以来製造されてきた理化学機器やX線装置を見学しました。

ヤス:遷都により衰退していく京都の産業を復興しようと仏具製造から一念発起して、
   理化学機器やX線装置製造へ転身して、今やノーベル賞受賞者を輩出する企業へ
   発展した島津製作所の100年の歴史をしっかり見られて良かった。現役時代に使
   っていた分光器なども展示されていて懐かしかったな。

ノブ:今回の歴史・文学散歩はこれでお終いとする。次回の再会を約束してお別れだ。

ヒデ:次回は僕が案内するよ。


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