市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第19回宮崎映画祭上演映画レビュー 「スカイラブ」

2013-09-03 | 映画
このフランス映画は、1979年のフランスブルターニュを舞台にしたとあるが、製作されたのは2011年と付記されている。この製作年にぼくは関心が引かれた。この年は、ユーロ圏の経済危機で、ギリシャの財政破綻が露になり、ギリシャ国債に莫大な投機をしていたフランス中央銀行などが、あっという間に紙切れになった国債をかかえて、経済不況に落ち込む災いを呼び込むことになった年であった。ユーロ諸国からの資金援助を受けるために、国家は緊縮財政を強制され、消費は停滞、賃金カット、社会保障費の減額、税金の増税が、フランス国民にゲリラ豪雨のどしゃぶりとなって襲い掛かってきだした。バカンス万歳、外遊も楽しめる破天荒のゆうゆうたる失業保険、早期退職での高額退職金、高額年金と、積年の労動ストライキで築き上げた労働者の天国は、崩壊しだした。若者の失業率は25パーセントを越え、就業者はリストラ、賃金カットが特権階級の公務員をはじめ全労働者をなぎ倒しだす。このフランス国民の憤懣は、問題解決をそっちのけに、暴力的な移民排斥となり、右翼国粋主義のナチズム賛美となっていく。フランスの代名詞ともなっている芸術・自由・人間万歳は、どうなっていくのか!経済不況の破壊力は、フランスをどう変革させるのか、このような現況を背景にしてみると、主演・脚本・監督をした女優ジュリー・デルビーは、どんなつもりで、このドタバタホームコメディを世に問うたのであろうか、いやそう言う問いは野暮であるのだろうか。ただ、ここで笑うにしても、わけがわからないのである。、

 この宴会があるブルターニュに人工衛星「スカイラブ」が落下する予報が出ているというのが、なんとなくフランスの経済危機を暗示しているようにもみえるが、一人の女の子のほかは、なんの関心もはらわれてない。スカイラブ自体も姿をみせるわけでもなかった。

 映画は故郷に帰った兄弟姉妹の家族たちが祖母の誕生日を祝うために帰郷して、再会をよろこび、会話が盛り上がり、宴会の準備がととのっていくのだが、ぼくにとっては、兄弟や姉妹それぞれの夫婦のどちらが祖母の息子か娘なのかもわからない。子供たちもどの家族の子供かもわからなくなる。それに家族の職業もわからない。ぼくは見知らぬ他人のにぎやかな宴会に偶然まぎれこんだ状態で、映画が流れていくのであった。谷川のせせらぎか、鳥のさえずりが、せわしい音響とナって鳴り響いている。この傍観の呆然状態は、ひとつの極限的シーンとなって、ここから映画はぼくにとってわかるように反転をしだしたのだ。

 そのシーンというのは、二人の兄弟が、山羊の首のない肉の胴体を串刺しにしたものを宴会の料理にと運んでいくシーンであった。肋骨のついた胴体に四肢が残り、山羊の姿をまだとどめているのを、丸焼きにするわけで、兄か弟は、この山羊ころされるかと泣き喚きやがんのと、おかしそうに話すのである。庭先でやしなわれている家畜の一匹である。これを殺して、笑い話をして、姿のまま焼いて食うという神経というのは、とてもぼくには耐えられない。おそらく日本人の大多数はそうであろう。魚は焼けるが、哺乳動物という人間と同類の感情移入・交換も可能な動物を魚同然に丸焼きにはできない。この境界線を越えているケルト人の子孫が、目の前にいるという違いは、俄然ぼくの意識をたたき起こしてきたのだ。

 監督の女優ジュリーさんが、山羊丸焼きを日本人との違いをあらわすためにしたわけではないだろうし、この山羊殺しを日常風景としてやれることが、民族の違い、文明・文化の違いをぼくに自覚させたのだ。それに、大家族の音響的会話や騒ぎは、このシーン後から、テーマとして、谷川の急流が、流れとしてゆったりとした下流にかわるように変わってくる。
 
 それは性の問題としてである。性こそ、人間共通の主題として関心をそそられ、共感を分かち合えるからである。この親類家族たちの食欲が山羊の丸焼きと地ビールやワインや酒でみたされると、エロ話や、性的ジョーク、こっけいな舞踏などとなって会場を沸かしだす。ここで一番たのしめたのが、一人の男の子が、ある貴婦人の性的行動を歌ったシャンソンを歌いながら、勃起したモノを貴婦人の尻に挿入するという歌と仕草を、じつに朗々と生気溌剌と歌い演じる場面だった。母親は、後でお仕置きするからねっと叫び、あとの大人たちはアンコール、アンコールの大拍手で、少年は大喜びで再演するというシーンであった。このおおらかさこそ、性の陰湿な隠蔽を吹き飛ばす生きるエネルギーを感じさせるのであった。もっとも、これも日本人ではかんがえられない異質性ではあったが。

 翌日は、海岸に一同は行き、楽しむのだが、小学生の姪を連れて、洞窟のつづく海岸を歩いていくと、ヌーディストたちの海水浴場があって、ヌードの若い女性と再会できる。少女は、ヌードの20歳くらいの従弟を正面にして戸惑いながらも、気持ちを惹かれる。その夜子供たちはつれだって、小学生から中学、高校生までまじりあって、ダンスパーティに行き、楽しむ。ここで少女は、従弟とダンスをして、スローダンスで性的な感じを覚えるが、従弟は同じ年頃に女性のもとに帰っていく。少女は、この恋が終わるのを自覚できる。ここにも健康な性の展開がエピソードをなしている。これなどは、ジュリーさんの思い出かも。

 しかし、もう一つ問題が描かれる。兄弟の一人、おそらく次男かが、夜、酒に酔って寝ている女性に襲い掛かり、強姦寸前にその兄によって阻止される。兄は医師で、弟の精神状態を以前から知り、相談を受けていた。二人ともかって、アルジェリアの独立運動を制圧するために派遣された軍人であった。とくに弟は当時のフランス軍最強の精鋭、パラシュート部隊の兵士であった。このパラシュート部隊は、アルジェリアの独立を阻止するために派遣され組織的拷問、虐殺を展開した。部隊は、サルトルやボーヴォワールにより徹底してその残虐行為が暴かれ批判された。戦後、かれらは世間の背後に隠れるような人生に追い込まれていった。弟は戦争で国のために尽くしたこと、戦争ではやりたい放題何でもできたが今は何もできないとこの抑圧感を語りながら泣き出すのである。兄は医師として、その治療を請合って慰める。

 この兄弟については、もう一つシーンがある。それは、左翼運動をやっている弟夫婦となにかで政治問題で口論が始まり、他方はナチの人殺しとか、こちらはテロリストとか、口だけでなく、取っ組み合いになりかかる、とくに一見インテリでおとなしく見える女性の激しさが度肝を抜く。思想の違い、信条の違いがあれば、ためらうことなく、武器をとって殺し合いになることを、一瞬にしてわからせる挿話で、ここだけでも見る価値があろう。

 こうして、なにごもなかったかのように再開も終わり、それぞれに家族たちは、仕事の場に帰っていくのだ。この映画を観終わったぼくに残ったのは、なにを語ろうとしたのかよりも、これほど日本人と異質な人種がフランス人にいるという現実であった。これは、まさに人類学としての、文化とは、文明とはの問題としてかんがえさせられる内容を持っているという思いが残った。その意味で、観た甲斐もあったし、十分にたのしめたのである。

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3 コメント

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どくんご (矢野)
2013-09-04 08:24:51
ブログを楽しく読ましてもらってます。
ところで、今年のどくんごの宮崎市内の公演の予定はありますか?
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Unknown (ぱふ)
2013-09-04 10:05:21
一見インテリでおとなしく見える女性を監督のジュリー・デルピー自身が演じているが、少女のモデルも彼女であろうことは想像できる。今年もう一本ジュリー・デルピー監督作品「ニューヨーク、恋人たちの2日間」が公開された。宮崎では残念ながら未公開である。彼女は「恋人たちの距離[ディスタンス]」というれない映画の大傑作に出演したのが監督になる契機になったようです。この映画は恋愛映画の教科書的作品です。必見ですよ。
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Unknown (ぱふ)
2013-09-04 10:25:07
先程のコメントに間違いがありました。

「恋人たちの距離[ディスタンス]」というれない映画 → 「恋人たちの距離[ディスタンス]」という恋愛映画

ところで、安倍首相がすべて安陪首相になっていますよ。
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