市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車ぶらり ポケットは垂直がいい

2010-03-30 | 自転車
 一昨日、土曜日〔三月二十七日)午後は、やや風が強かったが,これくらいなら自転車で走れると、帰宅するやすぐに出かける準備にかかった。自転車を部屋から運びだしていると、節子が、サイクリングなのかと訊くので、そうだと返事するやいなや、なんで背広なのねと、不審感を露にして、質すのだった。背広の機能性の実験するのよというと、なにを馬鹿な、こんな日こそダウンがあるんでしょうが、ダウンで行ったらとしつこい、ダウンなんかで走れるか(実は走れる)と断定し、そそくさと庭に出た。いよいよ実験だ。背広があればバッグ無しで行けるのだ、背広で自転車が快適に乗れるかどうか、これが問題。「ポケットは、垂直なのがいい・・」かくして冬のような寒冷な土曜午後の自転車走行となったのである。

 目的地ははっきりしていた。先週日曜日の野の中の雑貨屋さんの位置を確認し、そこから国道10号線から西都市へである。午後2時16分であった。風は北風で向かい風で、帰りは楽になる。気温は9度cくらいだろう。歩くだけなら冷えをかなり感じよう。アンダーシャツにアセテートと綿の混紡のシャツ、その上に背広で、首にスカーフを巻いてシャツの下に押し込んだ。これはかなり防寒効果がある。背広には文庫本、手帳、メモ用紙、財布とシャープペンを収める。左内ポケットについている小さなポケットには、携帯がぴたりと納まった。ジーパン、これは節子がくれた女性用のもので柔らかく腰が高いので背広での防寒効果を高める、ウオーキングシューズ、化繊の100円手袋をして腕にGショックの電波腕時計をした。万一転倒してもいいように。

 走り出すと風は冷たい、しかし、背広の防寒性は前が空いているにもかかわらず、かなり高いのだ。ボタンを三つともかけると、体に密着して、風も通らなくなる、またポケットに入れた本や手帳、財布、携帯などがポケットの位置で体に密着しているので、これらも防寒の働きをしだすのである。

 西都市街への往復道路は、佐土原町バイパスをとれば、1キロをこえる坂道もあり、500メートルのトンネル、歩道のない300メートルの橋、踏み切り、高速てすれすれに走る自動車群と同じ路面を走る場所もある。途中から自動車以外の走行路が消滅するのだ、なんとうでたらめな設計、花が島バイパス、砂土原バイパス、西都市街接続バイパスにと、こんな危険な自転車道が3ヵ所もある。そして、畑地と砂丘がひろがる田園地帯、繁華街なみの交通往来の沿道と、自転車にとってのあらゆる不愉快な条件がそろえられている。こういう道路を走ると、一瞬の判断、即座のブレーキ処理、ハンドルさばき、適切なギヤの切り替えと、秒単位の行動をしなければならない。そのことに背広が耐えられるかどうか、いや耐えられるというか、その行動中も快適を保てるか、ここが一番の実験目的であったのだ。ともあれ、このルートは、ときどき走っては自分の走りをチェックしてきている。ここが走れなくなったときが、僕が自転車をおさらばする日であろう。今でないと、もう背広の機能は試せない。

 さて結論から言えば、すべてオーケーであったのだ。ポケットはすべての収納品を安定させ、びくともさせなかったのである。それは垂直収納のおかげであったといえよう。ということで、酒は一人で飲むがいい、自転車は一人で走るのがいい、ポケットは垂直なのかいい・・・というような駄洒落を思いついだ次第でもあった。

 その他にも、このコースを取ったのは、先週の雑貨屋さんの場所を長男の嫁に教えねばならなくなったので、その位置をもう一度確かめたかったこともあった。再び走ってみると、思い違いもあったので今、ここに記しておきたい。この位置の入り口は、宮崎神宮苑の北に沿い、シーガイアのテニスコート正面に至る4車線道に、波島商店街が交差する。つまり商店街北外れ、ここにラーメン店がちょtっと4車線から見える。この十字路から北へ2車線の歩道つきの舗装道路が延びていく。先日は並木があると書いたが、歩道の間違いであった。ここは2キロでなく1キロで終わり、旧道になる。ここまでは、建設工場や家庭什器の製造所や倉庫、ネオン工事、電設工事、いろんな小さな工場や、その倉庫、殺風景なプレハブ事務所などが並んでいる。ここが終わると、昔ながらの野の道で、例の自動販売機、ここは5台であった。ここからはビニールハウスや新建材による建築になった農家の住宅などがところどころにある。
 
 シーガイヤの花の公園フローランテに宮崎市街10号線から通じる新品の舗装道路を横切り、つづけてフェニックスカントリークラブへの新品道路を同じように越えて、まだかまだかと走っていくと、凸凹の荒れてむき出しの地面並みの舗装が、もういちど改修されて、住宅がぼちぼちと立ちならんだ場所に、雑貨店は開いていたのだ。近くに「ひだまり2号館」というグループホームがあり、その向かいに今回初めて気づいたのだが、人気のない自動車もいない自動車教習所もあった。この道路の終わりは、フェニックス動物園から日豊本線住吉駅に至る道路であった。まさに、宮崎市街からは、かくも奥に所在していたのを、あらためて再確認できたのだった。

 ここから国道10号線にでて、一つ葉有料道路に接続したバイパスに上り、サドハラの工業団地脇から、平地にくだり、そのまま左折して昔の旧道を走っていく。ここは以前はナショナルの工場や本田ロックの工場だけが、畑地のなかの突出した風景としてあったが今はさまざまの建物で埋もれて見えなくなっている。そのうちに商店街のようなところを走る。これまで新道にそった商店街と、気にもかけなかったのだが、ここは、以前の佐土原商店街本通りの成れの果てであったのだ。すべの新建材商店はシャッターを下ろしている。ただ、一見の野菜店だけが生活必需のために生き残っているかのようだ。20年も前までは土蔵作りの味噌工場と、その販売店、佐土原の鯨饅頭の店など、その土地なりの商店街であったのだ。ここを新道が掘削され、道路が広がり、補償金で店舗が新築され、そして、シャッター通りに変じてしまった。いや新道廃墟街というべき結果になっていたのだ。あああ、あの佐土原商店街だったのかと驚愕したのだった。

 孤立した雑貨店は生き延び、集団で都市開発に乗った商店街は廃墟になった。これは凄いことだと、自転車で走りつつ、考え思いつづけるのだった。そのとき、背広はもう意識になく体になじんでいたのでもある。

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