市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車と事故について

2016-10-08 | 自転車
 家内も次男の嫁も、看護師も医者も、自転車に乗り出したら、こんど倒れたら終わりだよと、警告を告げる。かれらの不安と心配はわからぬではないけれど、ぼくにとって自転車は運動靴のようなものなのだ。運動靴を履いて倒れるという結果をかんがえられないのだ。倒れるのは靴のせいじゃないよというわけだ。昭和11年5歳で2輪車に乗りだしたが、戦時中の疎開や、戦後の貧困、学生時代と自転車は手元をはなれていったが
その後、職場への通勤に使用しだしてからは、凡そ半世紀、自転車は生活必需品としてありつづけた。長男が中学3年生となった1978年から、スポーツ用の自転車を彼のと、自分用のと2台購入、ドロップハンドルをつかいながら長距離のサイクリングもやるようになった。それから10年後の1988年、大学生になった長男の勧めでカリフォルニアで流行っているというマウンテンバイクを購入、種子島一周や鹿児島港から知覧町へ知覧峠を越えてのサイクリングを楽しんでいた。山道や砂利道、廃止された鉄道の枕木のならぶ真ん中でものれる機能を試すのがおもしろかった。だが、今にして思えば、マウンテンバイクの楽しみは、まだ体力があったからが大きな要因だったようだ。その後、100キロを越えるサイクリングには、クロスバイク、ドロップハンドルでなく水平ハンドルをもった高速長距離用の自転車が適しているのを知り、2005年に購入した。タイヤ幅2センチ、重さ10キロ片手でかるがるともてるクロスバイクは、まさに走るマシーンで、ドロップハンドルでなく操作がしやすく、街中でも峠越えでも衰えた膝や背筋をカバーするように快適に走っていける。このエスケープという名の自転車も11年目、おそらくこれからも愛用するだろう。これらのサイクリング車で倒れたことはないのだ。これは事実である。この体験から、ぼくは自転車は原則としては倒れることはないのだと、知っている。倒れないのが自転車である。運動靴で倒れない以上である。
 だが、日常で使用する普通の自転車では、ここ16年間に4回倒れたのである。今からそれを話そう。まず、最初は、宮崎駅の鉄道高架にそっている道路を走っていったときに生じた転倒である。雨が降り出した午後8時頃だった。本降りになりそうだったので、急ぎ出した。その最初の十字路で自動車が右からも左からも走ってこないのを一瞬みとどけて、真正面の道路へと走った。と、激しい衝撃で自転車は跳ね返され、ぼくは地面にほうりだされたのだ。なんと、十字路ではなくて、そこは前方の歩道の縁に高架沿いの道路はTの字に接触していたのだった。その歩道の縁に激突したのだ。その角には街灯があり、ぼんやりとした光をとぼしていて、どうみても道路は十字路に交錯しているとしか見えないのだ。昼間だったら向こうの歩道が確認できただろうが。雨模様の夜の暗がりのなかでは、見えようがなかった。しかも、この歩道は、なんのためか、幅3メートルほどの切れ目が、模様のように左右にひろがっており、たまたま切れ目は、正面になくて、その左右の横に合った。人をばかにしやがってと、猛烈に腹が立ったが、もんくのぶっつけようもなかったのであった。2度目の転倒事故は、宮崎中学校の校舎と運動場の間にぬけている道路公園という道路の入り口で起きた。ここは夕方でうすくらかった。入り口は広く幅10メートルほどの広場で運動場側に沿って、浄化された水がせせらぎとなって流れるのだ、道路には、桜並木もありまさに公園となっている。入り口では水路はまだ池のようであり、蓮の夢という気取った名前の石標が水面にある。ぼくはその池の縁にそって走り、運動場と校舎をつなぐ横断路をこえて進もうと、走っていった。だが、その横断路には縁があったのだ。これに衝突、転倒したわけである。縁が夜道でめにはいらなかった。照明もなく、樹木がじゃまして縁など目にはいらなかった。歩いていたのなら、まちがいなく気づけたろうが、きづけるはずがなかったのだ。
 3回目は、相手がいた。イオンモールのある山崎街道で起きた。中央分離帯に椰子の並木を植えた4車線道路の歩道をはしっていたら、農道が交差している場所に乗用車が舳先をだして停車していていた。ドライバーは中年の女性で、右から高速で走ってくる自動車の切れ目をうかがっていた。どうも左側の窓わきにいるぼくのほうは、みようともしない。そのうちやっと車のながれが隙がでて、そこでぼくはべるをならして、車の舳先を通り抜けようと踏み出した。そしたら、自動車もまえにでて、そのままおしたおされたのだ。その前に自転車からおりていたので、怪我はしなかったが、彼女はぼくの気配すら感じなかったと不満げであった。ベルの音でも右に顔をむけなかったようだ。最後の例は、宮崎駅構内に近いスーパー暮らし館の駐車場の道路に直接面した出口から道路に出て向かいの歩道に渡るとき、その先の十字路をまがってきた黒ヘルメット顔までもおおったオートバイを避けるため、自転車を飛び降りた事故だ。オートバイは自転車を引きずり、10メートルほどさきで転倒、ヘルメット男は死んだように横になっていたが、まもなく起きたので、おたがい怪我もしなかったとそのままわかれたのであった。以上である。

 ほかにまだ2回あったが、事故にならずに済んだ。事故っていたら、命を失うほどの重大事故になるところだった。一つは、住吉と宮崎駅東側の幹線道路を結ぶ道路がほぼ開通寸前になったときに遭遇した。この道路はまさに巨大な一本道で、昼間も夜も人一人、もちろん自動車もはしらぬので、ぼくはよく自転車で走っていた。ある満月の夜、このまっくらの道で水平線にみえる街の万華鏡のような光を満喫しながら左の歩道部分を走っていた。満月を仰ぎ、市街の明かりでつつまれた広野であった。そのとき、なにかの調子で、僕は下を見たのだ。と車輪の直前に堀抜いた穴があいていたのだ。なぜ、その警告もせずにほったままにしていたのかと、憤怒にかられてどくづいたのだが、走っているほうがまちがっていたのかな。もう一つの場合は、木花の運動公園前から青島を経て内海に越えるバイパスを走ったときだ。これ以前は、内海の峠に至る峠道は狭くカーブも多く、大変だったが、このバイパスは、歩道はひろく、直線をあっというまに頂上までいけて、そこにもうけられた公園から、雄大な太平洋を眼下に見張るかすことができた。その帰り坂を降りきったところで、バイパスから外にでて近くの温泉でもあびようとした。そこで、目に入った狭い出口から出たのだ。ふとバイパスでの緊張がゆるんで、筋肉をゆるめるように首をげ、この道路の先が目にはいった。なんと、そこから先は階段になっていたのだ。もし、下をむかずに、鼻歌まじりにまわりの景色ばかりを堪能していたら、この階段からまっさかさめに落下してしいたのだ。なんで先は階段と明示するか、自転車の通行禁止をするかをやらないかと、またもや憤激したのであった。
 以上が、自転車で転倒した事例である。自転車で走るには、道路は危なすぎるのだ。車道と歩道しかない一般道のなかで、どう安全に自転車走行をするのかが問題なのだ。自転車走行の危険とはこれなんだ。4年に一回、70歳すぎて遭遇してきている自転車走行の事故率は、一応覚悟しておく必要があろう。確率はどうすれば下がるのか、あるいは、さがらないのか。それは運命なのか、かんがえてしまうのである。

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