市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車ぶらり 背広で、書き残したこと

2010-04-02 | 自転車

 先週月曜22日の連休日に節子を自転車ならず、自動車で野の中の雑貨店に連れて行ったことを書いたが、もう一箇所、山の中のコーヒー豆屋さんにも行った。ここにも迷わずにたどり着けたのは、ぼくにとっては稀なことである。とにかく宮崎市北の丘陵南面沿いの道路は一本しかないので、ここを行けばこの店の前に至るしかないわけであった。生垣の濃い古びた木造平屋で、その板壁に200号くらいの大きさの垢抜けした看板が打ち付けてあった。玄関はガラス引き戸で昭和40年代そのままの住宅であった。その半坪ほどの土間から奥へ向かって並べられていたのは、まさに駄菓子の類であった。誰も居なくて、ごめんくださいと奥へ向かって声をかけると、老女がゆったりと現れてきた。

 そう、ここはまさに駄菓子屋さんそのものであった。老女もこどもたちが可愛くて、店を開いているだけという。壁にはそのこどもたちの描いたいろんなマンガのキャラクターが何枚も貼ってあった。現在でもまだ宮崎市の商店街や住宅街には何軒かの駄菓子屋さんはあるので、それほど珍しいとも思わなかったし、ノスタルジーを感じるほどでもなかったが、ただ、コーヒー豆販売とのコンビネーションが不可思議である。聞くと、これはUCCから配送されてくる豆であり、僕が思った自家焙煎のコーヒ豆ではなかった。曇ったガラス壜に3種類くらいの豆があったが、いずれもやや古びている感じであった。

 山の麓の住宅の北壁に打ち付けられた、この看板の都市風と、UCCコーヒー豆と、駄菓子の取り合わせは、どこまでも異質の組み合わせである。聞けば理由もわかろうが、そのまま謎のままが、いいと思って、こういうご商売は楽しいでしょうねというと、はあ、生きがいでございますと返事された。後で家内が言うには、それでも庭は花がいっぱいできれいだった、テーブルが一つあってカレーを出したようだったわというのだ。庭といっても建物と生垣の間の幅2メートルくらいの通路であった。そこでカレーを食し、コーヒーを飲む粋人がいるということであろう。こどもを連れてきた若い母親がのむのだろうか。これが、楽しみのひとときとなるのであろうか。そこでコーヒーを飲む人の優雅さ、まさに人生捨てたものじゃないなと、感動できるのであった。

 この自転車ぶらりの週末に西都市に背広で行ったのだが、このときのもう一つの目的は、一月ほど前にその前を通り過ぎた、瀟洒なカフェに行くことだった。あの日、午後一時ごろで、このカフェを発見したときは、よろこんで軽い食事とコーヒーをと、花壇の前で自転車を止めた。そしてジャンバーのポケットに手を入れて、5000円札を引き出そうとしたら、無い!のだ。あわてて内ポケットもズボンのも探したが、影も形もなかった。多分、ハンカチや携帯、カメラを出し入れするときに、5000円札がいっしょに外にでてしまったらしかった。金よりも、このカフェに入れなかったことに腹が立ったのだった。その恨みをはらすべく、今回は、出かけたのだ。この前と同じように、背広の右ポケットに5000円札を納めていた。

 一ヶ月ぶりにこの店に向かうのだが、西都市市街の外れからすこし東の間道に入った場所というのを頼りに行ったのだが、国道10号線からサイトに向かう219号線沿いには、市街に近づけども、東への間道などありえないのだ。これじゃ、記憶違いか、となると再発見はむりかもなと、とうとう市街へたどり着いた。そのとたんに記憶がよみがえった。宮崎ー西都自転車道の西都から、走って帰っていったら1キロも行かぬうちに、自転車道はいきなり、舗装が剥ぎ取られ、鉄道跡だった土手の鉄道レール面が平坦に掘り崩され、むき出しの泥土となって消えていたのだ。途方に暮れると、右手に土手が盛られ、そこに道路があるようだった。そこにのぼると工事中で、その土手を越えて、普通の道路が伸びていた。そこを走ったときに、すぐ交番があって、その先の道路反対側ににカフェがあったのだ。この記憶を思い出して進んでいくと、花に囲まれてカフェの正面にたどり着けたのであった。確かに市街の東ではあった。ここからさらに東に219号線はありそこに突き当たっていた。カフェの入り口で、右のポケットに左手を差し込むと、5000円札は瞬間的に指に触れた。この明快さ、この出し入れに背広の機能性は見事に応えてくれた。

 かくして注文できたメニューのインドカレーとコーヒーは、しかし大きく期待はずれであった。が、しかしチラシをみて面白そうだと観劇したが、たいしたことは無かったということは何度も味わっており、それでべつにがっかりもしなかったのと同じことで、ひとときの夢を与えてくれた1050円也は高くは無い訳である。つり銭の5枚の500円と100円コインも3枚の千円札も背広の右ポケットに投げ入れ、安定感を感じるのであった。この土曜日は曇りで寒かったが、午後4時半になると、さすが、シャツ一枚背広一枚には寒気が染み込んでくるのであった。

 帰りは急がないと日が暮れる。幸いバイパスで佐土原工業団地の丘を越え、いっきに一つ葉有料道路の終点から国道10号線に入れる。ただし、坂がつづく。このバイパスに入るための側道の坂を上りきると、すぐに512メートルのトンネルがある。この側道は優に車が走れるほど広く、出口まで坂道、出てもさらに200メートルほどゆるい坂となり、ここから一挙に下り、すぐに一つ葉有料道路に接続する道路は、だらだらと2キロほど上り勾配となり、ふたたび下り、また上がると、いきなり車道となって、車といっしょに走行することになる。ここまで来ると、冷たさなどよりも体温で背広を脱ぎたくなってくる。そしてようやく10号線そいの側道を、走って北高校下のバイパス沿いの粗末な側道を登って下るとようやく宮崎北バイパスとなり、大型店舗群を見ながら、中心市街地に至というわけだ。その間、体力の消耗や、交通煩雑の緊張やで寒気もなにも感じず、背広を着用していることも感じていなかった。つまり、背広は自転車走行に十分適応していたのだ。

 あれから一週間になったが、2日前から右膝が痛み出した。指で圧すると、内側の骨が痛む。理由がわからない。この自転車走行しか原因を思いつかない。走る前まで、左足の小指と第4指に「魚の目」が出来て、ずーっと痛かった。ほっとけば治ると思っていたところ、治らず。そのまま走ったため左足をかばおうとして、右足に負担がかかったのかもしれない。ただ走るときは、そんなことには気づかない。快楽だけに気を奪われて、走るわけだからだ。

 この「魚の目」が生じたというのも38年ぶりだ、当時、山歩きにのめりこんである日、新品のきつい登山靴で高千穂を登って、魚の目を持った。それは何ヶ月も治らず、治りきれず、それで登山からサイクリングに快楽を変えた。足に幅の広い靴を履いたので、そのうち自然に沈静化していったのだ。あれから38年目の今年、布製の古くなって形の崩れたぼろ靴でチップの散歩をやっているうちに、その崩れた形状が足に無理をさせたのだろう。かくして、魚の目が復活した。そういうことである。これはやっかいなことになったようだ。治らなければ自転車に乗れない。しばらくは自転車には乗れないことになるだろう。背広を着ようが着まいが、それが人生となんの関係があるのか、世界にはもっと大事な関心をもたねばならぬ大きな物語があるではないかと、そんな戒めであるのだろうか。そうは思わないけど。はっきりそうではないはずと思うのだが、魚の目は歩くたびに痛み、なにかの警告を止めない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自転車ぶらり ポケットは垂... | トップ | 無縁社会の快楽 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

自転車」カテゴリの最新記事