市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

戦争 殺人 悲嘆 

2015-03-10 | 社会
朝ドラ「まっさん」はなにを主題にしているのか、まっさんの家族も仲間も戦争で、希望が破壊され、息子が召集される。戦争を知らぬ世代でも、その悲しみは、テレビの物語であろうと、悲劇を、痛切に再体験できるであろう。戦争の悲惨が、視聴者に伝わり、悲劇を二度と繰り返してはならないと、実感させる。こうなると、中島みゆきの主題歌、進軍らっぱのメロディーはまた戦争の虚無感を逆に訴えてくるのだ。あの歌を唱和しながら、まっさんのシーンを視てみよう。あほらしいスローガンが、うつろにくりかえされているに過ぎない空虚さが、感じられてこよう。

 そして、戦争は悲惨だ、戦争はいやだ、戦争は絶対、してはならないと、気持ちが湧き上がってくる。戦争の悲劇は、戦後70年、意識に刷り込まれて、すでに耳にたこが出来てしまっているように記憶にも積もり積もっているのだ。そしてまた、今朝も涙をながす。そして犠牲者への心痛と同情の涙が溢れてくる。しかし、いくら泣いても戦争は、それで起きぬわけではない。戦争をおこした国家権力、その当事者の犯罪を明確にし、そういう権力を生み出した社会の矛盾を明確にし、つまり戦争の原因を突き止め、この原因を探りだすことによって、再度、戦争権力が出現しないための具体的な政治の方向がしめされねばならない。だが、泣いたところで、先へ進めない。テレビもそこまでで、綺麗な涙を流すことで、終わりとなっている。

 さて、ドラマではなく、先月、母親一人、子一人の男子中学生が、同じ少年たちのグループから長期の暴力を振われ、あげくの果てに、川岸で殺された事件である。その川辺には、花束が草の生えた斜面にうずたかくなってきた。その前にしゃがみ泣きながら言葉をつまらせている老若男女があらわれている。助けてあげたかった、守ってあげたかった、なにもしてあげられなくって御免ねと、なくじゃくる一人一人が、放映される。かれらは真剣に泣いている。おどろくほど何人もの人たちが悲嘆のことばを発する。何日も何日もつづいている。 
 
 こうして山づみになった花が出現している。花たちは、自らの死を曇天に晒しながら訴えてくる。だが、しかし、死者は、おまえら生きている人間であると。花の命を受け継がなくてはならないとの思いがのしかかってくる。

 今朝また田舎で一家5人が、隣近所の男から殺害された。男はツイッターで、氏名、場所を挙げて、一家への殺人予告の投稿をくりかえしていたにもかかわらずである。

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