市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

思考と食うこと 殺人事件

2015-03-07 | 生き方
先月26日の朝、もはや毎週、心理的に三日ごとに殺人事件が起きる現実を本ブログに投稿した。その殺人が、幼児、小・中学生・女性・高齢者に向けられている、無抵抗で安全で殺すことが可能だからである。3月に入って第一週に、殺す対象は、ついに赤ちゃんと癌患者もしくは肝臓病者へと、絶対無抵抗者に及んできているのが報道された。赤ちゃん、重篤な病人を殺すことが可能なのは、殺しているという意識が無いから可能なのである。無抵抗者に対する恣意的な殺人は、殺しているという意識がないということを、今回の殺人事件で象徴している。

 そして、さらに嘔吐感がするのは、この殺人事件に当事者がだれも止められなかったことである。経過についてテレビ番組では大衆を相手にして、ということは高視聴率をも期待して、しかも経済的に、ニュースはもちろんワイド番組で、具体的な殺人までの経過を執拗にまで、毎日、アキがくるまで、コメンテーターが分析し、意見をのべつづける。これも呆れた番組であるが、それはそれとしてそのプロセスは、テレビで知るかぎり、嘘八百とは思えない。だとすれば、なぜ、これほその予兆をだれもきづかなかったかということである。分かるのは、殺人が起きる後まで、だれも無関心であったという事実である。そして、無関心の巣は、考えない脳の中であるということである。従って、この殺人は「考えない」日本人の犯罪であるということである。

 今、われわれがやれることは、考えることと、飯を食うということは、同じことであるという自覚を実践することであろうと思う。生きているかぎり、考えることを停止してはならないということである。飯を食うこと、また同じである。しかし、考える行為も食事も、消費社会では、本質を遠ざける。消費行動は、快楽になって欲求を満足させ、快楽が目的となる。食事も生きるためでなく、ファッション化され、食事ではなくなる。考えることは、考えるを停止したときが、快楽の充実感を保障する。これが、今の日本である。従って、無抵抗者の殺人は、現況では、これからも三日置きにつづきつづけていく予感がする。そのうちにだれもが、もう取り上げない些細な事件となって、狎れて行くのであろう。その後にはどんな殺人行為が出現していくのであろうか。

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