市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎映画祭・ビフォア・ミッドナイトつづき

2014-07-11 | 社会
 2014年作米映画「ビフォア・ミッドナイ」をつつけよう。火曜日夜が明けた水曜午前6時台風はどこにいるの消えてしまった感じだった。中心は宮崎市上空を通ったようだが、気配もなく、終わった。あの2重眼台風のときと同じであった。 

 二人の修羅場もエネルギーが尽きたのか、ビフォア・ミッドナイトに終わるのだが、論争という二人の会話は、こと男女の愛憎が絡んでくると、どっちかが敗れるまで、ビフォア・ミッドナイトどころか、無限小数か、循環小数のようにつづくわけである。それが情痴の修羅場としてドラマとして楽しめるわけである。ただ、この映画の場合は、「会話」を主題として、前作につづくということであれば、こんどの「会話」の本質はなにをつたえるのかと、かんがえざるをえなくなったわけである。
 
 ここでしめされた会話の本質とは、ことばの無力という現実である。ことばは何の役にたたぬばかりか、悪意をもって解釈され、憎しみをもってなげかえされてくる。はじめは二人の妥協点を探そうとする言葉であり、愛情と自己犠牲でまぶされた会話はどちらが正しい答かという論理をお互いに投げかける応酬のなっていく。そしてまぶされた甘い皮は剥げ落ちて、妥協点への話合いどころか、相手を正義の名で屈服させようという論理と論理のガチンコになる。どんな論理も敗れない論理はないといったのは吉本隆明だったとおもうが、ここでどちらかの論理が勝利するということは起こりえないのだ。そのうち、かれらのつくりあげる論理は、自分の本心としだいに離れ、論理だけがかってに動き回るような、あせり、無力感に落ち込み、もはやことばを操作する意思が消尽してしまう。どちらかが、家を憤怒につつまれ夜の闇に出て行く。こうして、言葉の無力は、圧倒的になる。このように二人の会話は、克明に映画のシーンとなったとき、ぼくが受け取ったのは、ことばの無力こそ現代の政治であるということであった。政治的ことばは、なにも解決しないだけでなく、ことばが破滅を招き寄せているという今であった。

 こう受け取ったとき、1995年の「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離」は、夢の実現であた。この恋人の人生物語は、2004年「ビフォア・サンセット」をへて、今年2014年「ビフォア・ミッドナイト」で、夢は消え、絶望を忘れる幻想を見るしか生きていけぬ世界となったことを示している。中国問題も原発再開も、環境門題も、その対処は幻想としてしかない。汚水は完全にコントロールされていますである、まさに現代の問題、ことばの無力を、提示していると思えるのであった。

 たしかに二人の恋人の問題とその解決への論争を、電代社会の危機として解釈するのは深読みすぎるかもしれない。恋人あるいは夫婦で夫の浮気で二人の関係が修復不能になっていく小説で、すぐに思い出されるのは吉行準之助の「闇の中の祝祭」と島尾敏雄の「死の棘」である。妻とも別れられず、恋人とも離れられず、二人を満足させようと、追い込まれていく二人の作家の不倫を克明に描いた私小説の傑作であるが、読んでいてこちらがつかれるほどの苦痛の日常を、誠実に書いていくしか、解決がないという小説であるが、ごくろうさまとしかいいようがないし、吉行はまだ女遊びの気配があるものの、島尾敏雄にいたっては純文学そのもので、なんともまじめであるが、300ページにおよぶ内容は、どこまで本気なのか、ぼくは、しまいには喜劇作品としてしかうけとれなくなっていった。本人たちは、意外と喜劇でも書いているつもりなのかもしれないと、おもえるのだ。この三角関係の解決不能をかかえこみ、背を曲げて必死で美文をつづる文学者ではあるのだが、どうなんなのだろうか。

 ところが、おなじく、「波止場」「エデンの東」の映画監督エリア・カザンの小説「アレンジメント」を思い浮かべた。もう70年初期に読んだ小説で、アレンジメントは、夫婦にあるarrangementで、協定、取り決めと訳されているが、どうも日本語にはなりにくいと役者はいっている。もっと強い、義理とでもいう感じもするという。二人を結びつけた、絆の源泉がアレンジメントであるのだ。そこで原題のままにして、副題にアメリカの幻想とつけられいる。この小説はのちに映画化され「愛の旋律」というタイトルとなったが、まったく内容とそぐわない。二人の関係の重たい重力の存在をタイトルはつたえていない。知的で教養豊かな妻をすてて、かって情痴に酔いしれた恋人と再会へと、のめりこんでいく。弁護士にあるまじき非常識と社会の批判にさらされ、「ついには精神病者として病院に幽閉されるが、ここをでて、妻にすべてのを財産を与え、地位も名誉もいっさいをすてて、海岸のコンミューンでヒッピーになり、二人の生活を実現していく。この映画では、主人公が戦うのは、60年代のアメリカの価値観への反抗であったのだ。つまり社会性への告発として描かれていた。エリア・カザンと吉行、島尾の私小説の違いを思うのだ。 

 あれから40年あまり、今、県立図書館の目録を検索してみると、蔵書として保存されている。なんとも懐かしさをおぼえてしまった。書店とは違う図書館の機能を思うのである。余計な話になったけれども、この三作品、読んで面白く内容もあきれかえるほどめちゃくちゃ人生であり、それが開放感にもなるので暇な人読んでみてはいかがだろうか。

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