市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

兵庫県議 野々村竜太郎

2014-07-03 | 政治
 2014年7月5日今年の宮崎映画祭が始まった。午後3時20分上演の米国映画「ビフォア・ミッドナイト」から見始めることになる。願わくば、この作品がおもしろい作品でありますように、できればさすが映画祭とうならせるものであってほしい。このスタートで、がっくりするような、二度と見たくない、不愉快きわまる愚作の上演と、言葉を失うほどの傑作では、これからはじまる一週間が虹色か灰色かになってしまうのだ。これは現実の映画祭内容とは、関係ない期待感というバイアスでしかないのだが、人間の弱みだからしようがない。
 
 人間といえば、人間は犬・猫よりもはるかに劣悪な動物であると、また確認させられた報道を朝のワイドショー「トクダネ」で出勤直前にみせられて、昨日は一日中不快感が、シャツに反吐の汚物となって染み付いて仕事がはかどらなかった。兵庫県の野々村竜太郎という人間であったが、ワイドでは、案外、正直な人かもとか、まじめなのかなとか、言う言葉ももれたが、そうでもいわねば話題にもっていきようもない人間という動物であったせいかもしれない。いや、動物ではない、人間という生物とでもしたほうがいい、どんな動物であろうと、これほど下劣の意思を持って生きている動物など存在しないからである。

 かって哲学者アンナ・ハーレントは、同胞であるユダヤ人をナチ国家の命令のまま数百万人をアウシュビッツに輸送しつづけた「アイヒマン」の裁判をみつづけ、「考えない」人間の犯罪を生む体制の底知れぬ20世紀的犯罪を告発した。だが、今回のなきわめく人間は、その分類とは別の人間ということができる。この人間は、考えないのではなくて考えている。その卑劣さにぼくらは気づかねばならないと思うのだ。

 あの大泣きを法廷でやったとしたら、それは国家や現況への反抗として自分を賭した戦いとして、認めうる部分を感じたかもしれない。彼は決してそのような正義を問われる場では、やることはできなかったろうと思う。「大の男が子供のように」になってという評は、根はいがいと正直という評とおなじ間違いである。こどもでも、公の場では自制できる。とくに小学生以上になれば、学校で注意されたからといって、あんな泣きで自己主張することはしない。
 
 野々村議員は、自分が構築した会見の場が、正義を問うよりも市中引き回しの舞台であることを察知していたのだ。正義という名で、大衆の低劣の情欲を満足させる会見の本質部分に、訴えたのだ。つまり甘えたのである。そこは、かれにとっては、公の場ではなく、わがやのまさに
私的な場であり、甘えの十分に聞く、相手であったのだ。そしてかれは甘えた。泣いた、吠えた、身を捩った。ペットが、そういうことをすることがあったか、ほんと、チップ(シーズ犬14歳没モ、ムゲン(三毛猫 15歳没)もその生涯、一度もそのような甘えはしなかった。

 非動物的生物となった人間を、維新という名に釣られて一票をとうじて、県会議員にした選挙、その悲劇というか、喜劇というか、その避けがたい不備という現実をあらためて思わざるを得ない。ということで、この不浄感を映画祭に、清めてもらえたいものである。曇った蒸し暑い午後で、週末にむけて台風もちかづいてきている。

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