市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

弱い国、強い国 余計なお世話

2013-07-18 | 政治
 強い国、日本を取り戻そう、世界一の国にしますとくりかえされると、現在の日本は弱い国であり、不景気で閉塞し、豊かさを失ってしまった不幸な国ということになる。だが、考えてみると、弱い国も強い国も、その国民にとって具体的にどんな暮らしを保障してくれるのかは、なんにも語られていないのにきづかされるのだ。ただわかるのは、弱い国では駄目であるというメッセージだけがあるのだ。

 さて、ここ20年余、平成不況といわれ、消費は低迷、われわれは、不幸な生活を送ってきているという現実を、問われる。そこで、貧乏暮らしよ、さようならと、デフレ脱却、株も上がり、消費も旺盛な豊かな、強い日本を取り戻そうというのが、アベノミクスの目標であると、安陪首相は言ってるようだ。

 そこで、私は言いたいのだ。この20年間、日本での暮らしの水準が下がり続け、貧窮の毎日を繰り返す日々であるかどうかを問いたい。ここ数年、宮崎市の街で暮らして体験していることを述べてみたい。

 「しぇ・こぱん」のマスターが、7月8日、日南海岸の富土という海水浴場に泳ぎに行って驚いたと話してくれた。まったく人がきてないというのだ。昔は海の家も設けられ、夏は海水浴客でごったがえしていたのだが、ここ数年こんな光景はみられなくなったと、地元の人は話してくれたという。今は店もでてなく、ただ休憩場があるばかりであったというのだ。もう海で泳ぐというような遊びは、廃れたようだ。ぼくもかれの話をきいて、70年代、自家用車で一家そろっての海水浴などとは、昔の物語になってしまったのだと、あらためて知ったわけであった。海岸で遊ぶよりも、ほかに楽しみはいくらでもでてきているわけである。

 ぼくの事務長室から歩いて自転車で5分のところにデサキデポの文具・雑貨の店舗に併設された窯焼きパンのカフェがある。ここは、店でお好みのパンをえらんで、窓際のテーブルで食べることができる。コーヒも冷たい麦茶も何杯でも無料で飲めるので、パンのランチをすることも多い。コロッケとパセリ、キャベツを挟んだやわらかいコッペバンが140円で、あと一個100円くらいのパンを選んで、コーヒで食べるのだが、窓の外はまだまだ広々とした風景が広がり、アメリカの郊外を思わせる。樹木の緑が鮮やかで、光が強烈である。コーヒーは美味しい。なんか気の毒なくらいの安い料金で、楽しめるランチになる。このような快適なカフェは、ここばかりでなく、あちこちに何箇所がある。デフレ下で大資本が生み出した低料金の小売業のたどり着く岸辺なのである。

 100円ショップもそうだが、インターネット通信販売や価格の相互比較から商品を選ぶなどの、低価格制度の殺人的浸透が、ぼくらの生活をこの20年のデフレ下で起きてきているのだ。そしてこの経済状況は、それなりの安定でぼくらの生活を規定してきているのだ。いや、それなしには、もう合理的生活ができなくなってきている。もちろんこの快楽生活は、格差社会や若者の失業、定年制度の崩壊、年金や医療制度の崩壊の危機などを生み出している。

 つまり弱い国の快楽は、ものの貧困でなくて、格差社会の底辺の層の厚さを、やわらげるシステムとして生み出された快楽機構であるとわかるのだ。

 日本国民の3分の2以上は、デフレを楽しんでいるのだ。だれもデフレを不満として排斥しようとは思っていないのだ。アベノミクスはこれを変えるという。その変え方というのが、所得倍増であり、今以上にモノの豊かさを与えてというのだ。もうこれ以上、モノをあたえられてもどうしようもないのである。だから、この路線には、希望など見つからないのである。万が一、アベノミクスの成長戦略が、成功するとして、成功した瞬間に、快楽はむしろ失われる。かわりに現れるのは、精神の飢餓感であろう。それゆえに、アベノミクスの成功はあってはならぬことになる。弱い国であってどこが悪い。強い国の危険性よりもはるかにましではないかと思う。少なくとも、韓国や中国の経済状況よりも日本は、はるかに豊かであることを思い浮かべるのだ。これでいいではないか。これ以上何を望むのか

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