市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第16回宮崎映画祭 これ以後、愛は発見可能か

2010-07-31 | 映画
 
 カフェー化された住宅、家の中でもお互いの連絡は携帯電話という生活環境は、メディアが与えてきた消費のキャッチコピーに疑問もなく従っていった結果である。その生活空間を実現したのは、自分という主体があったからではない。主体的思考を失った自己が他人を認識できるわけがないのだ。妻もまた夫を顧みていなかったのだ。それが自覚できない。つまり空虚となった人生が、かれらを追い詰めていったのだ。

 かれらには灯台がない。つまり自分を越える価値基準がない。はげたかの鷲津にも龍馬伝の龍馬にも、自分を越える、自分を生かしてくれる価値観があり、その価値観を抑圧するものとして、現実社会があった。それと、いかに戦うかが、つまりいかに現実を価値観に沿って改革するかに生き甲斐と、義務感を持ちえた。それが正義であり愛であった。しかしスウイートリトルライズの主人公には、戦い、改変すべき現実があたえられていない、いや奪われている。しかもそのことが、強制や抑圧からではなく、逆になんでもありの自由、ありあまったモノに囲まれた環境から発生している。鷲津や龍馬の苦悩は、愛を奪う敵への戦いのためであり、その戦いで自己を高められた。しかし、この夫の苦悩は、戦う相手がない、みつからない。それでいて苦悩、つまり空虚感だけが、ありつづけるという苦悩であるわけだ。灯台守の生活条件とはなり得ない生活であり、これこそ、2010年の現在であり、灯台守の生活に還ることは不可能なのである。

 だから不倫をやってみても、21世紀の空虚感が埋められるわけではなかったといえば、実も蓋もまたないわけであるが、こういう現在生活のふと開いた裂け目のような瞬間、その叙情的風景としてみれば、この不倫ワールドの甘さと穏やかさも捨てたものではないのだ。あの二人が、不倫をなんとか収め、相手に気付かれずに、夕べのマンション外壁にある螺旋階段でハグするシーンが心地よい。かれらは、しっかりと抱き合ってはいない。お互いの腕で相手のひじのあたりを触って、体は密着してなく、お互いの相手への想い、つまり愛は交流していくというエンディングだ。これがハリウッド映画であったら、べたべたキッス、キッスの雨嵐で、それゆえに空しく嘘にみえよう。しかし、この触ったか触らぬ距離感がいい。あなたは、わたしにとって大切、だから守りたい、だから嘘をつくのと、これこそ、仏陀の説いた東洋的英知「嘘は方便」の姿であるわけだ。(笑)

 しかし、この映画でいちばん人間らしく魅力を受けたのは、夫の不倫相手を演じた池脇千鶴の後輩であった。ワンピースがふくれるほどの肥った、7頭身の芋のような若さが、雑誌のモデルのようなスレンダーな妻、中谷美紀との違いは役柄といえ、気の毒なほどだ。しかし、ぼくはつきあうなら躊躇なく、この後輩を選ぶ。それほどの今を生き生きと生きている魅力があるからである。なにを考えているかわからぬ先輩の視線をあびながら、このレストランは、都内で一番美味しいとしゃべり、相手を沸かそうとする。海水欲で、短い足を惜しげもなく水着姿でさらして、はしゃぐ、その生活は、自分の愛を生かすために、生活環境を、選び取り、編集し、演出していく。この生活感覚に二人の夫婦が見失ったエネルギーがあるのだ。おもしろい、元気を与えられる。こういう女性が、たしかにまた出現しているのも現在であろう。

 モノより心の豊かさをと、言われだしたは、石油ショックの後、70年代半ばからであった。そして安定成長と80年代がつづき、なんと安定どころか、低金利の金が溢れかえり、土地バルブで、経済ははじけとんだ。そして90年代の不況、2000年代になって、心の豊かさどころか、中学生でさへ、将来は安定できる職業として公務員になりたいというモノの時代になっている。こころの豊かさへの志向はどうなったのか。その志向は確かにあったし、今もありえてはいるとおもわれる。その心の豊かさは、モノを離れるのではなくて、高度消費社会の欲望の飛翔感や、技術革新の絶え間ない成果によって、満たされていたのだ。パソコン、デジカメ、携帯、テレビ、ハイブリッド車と果てしない欲望を満たしうる製品が心を満たしてきた。スーパーからコンビニへ、メガショッピングモールによる郊外の開発、格安海外旅行、高速道の低料金化、学校の遊園地化などなどとである。

 2010年、0年代の10年が終わる。世界のグローバル化と情報化はだれでも、日常生活の中で実感できる時代となってきた。日本は、技術革新と消費の高度化なしには、生き延びられぬ現実に直面している。これからも息つくひまもなく、経済は技術革新と高度消費化が必須となってこよう。つまり「心の豊かさ」はこれまで以上にモノによって埋められていくはずだ。その結果が、生活のカフェ化でなくなにを生むのか、この回答が愛の問題となるのではないだろうか。では愛するとはなんだろうか。

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