やはり問題は言葉なのだと思う。たとえば「父親」と書く。それによって「父親」という言葉は共有できる。しかしその言葉から連想される映像、感情、考えは人それぞれだ。
震災以後、原発絡みの本を読むようにしている。東京に住むのであれば、原発の問題とはこれから数十年つき合っていくことになると思う。だとすれば少しは勉強しておかねばならない。まだ体系的な理解には至らないが、少しずつ知識は増えている。
新聞などの世論調査で原発の賛否を問うている。僕が目にしているかぎりでは、賛否はほぼ互角、わずかに反対の方が多いという感じだ。個人的には原発推進には無理があると思っているので、反対が増えることは悪くない、と思っている。
先日、仕事先での少人数研修で、受講者達に原発推進への賛否を問うてみた。参加者4人は全員「賛成」だ。理由を尋ねた。電力不足に陥る、というのが全員の答えだった。なるほど。みんなある根拠にもとづいて自分の意見を表明しているわけだ。
「では、自分が原発について知っていることを述べてください。それと、原発推進に対して賛否を述べるために知っていなければならないことは何だか言えますか」と質問した。誰もがほとんど何も説明できなかった。
研修の趣旨として伝えたかったのは、何かを評価するときに反射的に自分の意見を述べてはいけない。評価するために知らねばならないこと何かをまず自問しよう、ということだった。
学校教育や職場での「自分の意見をきちんと述べねばならない」という雰囲気と、消費者マインドのせいなのか、ものごとを簡単に評価できると思っている人が増えているようだ。小学校の子どもの教科書を見ていても、意見を述べることが重視されている。いわゆる「発表の仕方」である。入社して数週間の若者が、ミーティングで「仕事も少し分かってきたので、どんどんと自分の意見を出していきたい」などと発言するのを聞くと、擦り込まれているな、と思う。
学校や職場で、自分の意見を述べることの必要性、正当性を擦り込まれる。その一方で、消費者として主体性を立ち上げる時世となっている。消費者は、お金と引き換えにその商品の評価を好きにできる。その商品の背景や専門的な知識を知らなくても、自らの感覚、印象で好きなことを言える。(そこに幼児性や性格の悪さが加わればクレーマになる。)
結果、何かを評価するということは印象評価になる。印象評価をそれらしくデコレートすれば意見らしくなる。「電力不足に陥る可能性がある。そうなると日本の経済も成り立たなくなるので原発は推進すべきだ」と。しかしそれは、「原発」という言葉から知っている情報を連想して、感覚的な発言をしているに過ぎない。
ある言葉を聞いたときに、それについて知っていることを無意識的に探す。そしてなんとなく理解したつもりになる。誰もがそうするだろうし、それでよいことも多い。しかし場合によっては、何となく理解した上で、それについて自分が何を知らないのか、と問うことも必要だろう。とくに自分たちの生活に長いあいだ影響を及ぼすようなことについてはそうだ。
意見を述べたり、評価をする時もそうである。それを評価するために、自分は何を知らねばならないのか。そういう「問い」が心に浮かぶような人間を育てることこそ、まずもって学校がやらねばならないのではないか。(でもそれでは、従順やイエスマンは作れなくなる)。
マスコミが世論調査でまずやるべきことは、原発推進の賛否を問うことではない。賛否を述べられるために必要な情報を持っているか否かを問うべきなのだ。さらに原発について賛否を述べるためには、これと、これと、これと、これの観点があり、それぞれについてはこういう状況だと解説する。その上で、では、あなたは賛成しますか、反対ですか、と尋ねるべきなのだ。
「原発」という言葉を聞いたときに、「原発」という言葉は共有できる。しかしそこから連想される、映像、感情、考えは人それぞれ違う。その状態で「原発推進の賛否」を問い、それを数値で表し、国民の意見を云々することは、あまり丁寧な作業とは思えない。
原発絡みの本を読んできて、少しずつ知識が増えている。もう少したったら自分なりに「原発」について整理したいと思う。ちなみに「電力不足説」はけっこう疑わしい。それと賛否を述べるためには、核廃棄物処理についての現状理解くらいは必要だと思う。
震災以後、原発絡みの本を読むようにしている。東京に住むのであれば、原発の問題とはこれから数十年つき合っていくことになると思う。だとすれば少しは勉強しておかねばならない。まだ体系的な理解には至らないが、少しずつ知識は増えている。
新聞などの世論調査で原発の賛否を問うている。僕が目にしているかぎりでは、賛否はほぼ互角、わずかに反対の方が多いという感じだ。個人的には原発推進には無理があると思っているので、反対が増えることは悪くない、と思っている。
先日、仕事先での少人数研修で、受講者達に原発推進への賛否を問うてみた。参加者4人は全員「賛成」だ。理由を尋ねた。電力不足に陥る、というのが全員の答えだった。なるほど。みんなある根拠にもとづいて自分の意見を表明しているわけだ。
「では、自分が原発について知っていることを述べてください。それと、原発推進に対して賛否を述べるために知っていなければならないことは何だか言えますか」と質問した。誰もがほとんど何も説明できなかった。
研修の趣旨として伝えたかったのは、何かを評価するときに反射的に自分の意見を述べてはいけない。評価するために知らねばならないこと何かをまず自問しよう、ということだった。
学校教育や職場での「自分の意見をきちんと述べねばならない」という雰囲気と、消費者マインドのせいなのか、ものごとを簡単に評価できると思っている人が増えているようだ。小学校の子どもの教科書を見ていても、意見を述べることが重視されている。いわゆる「発表の仕方」である。入社して数週間の若者が、ミーティングで「仕事も少し分かってきたので、どんどんと自分の意見を出していきたい」などと発言するのを聞くと、擦り込まれているな、と思う。
学校や職場で、自分の意見を述べることの必要性、正当性を擦り込まれる。その一方で、消費者として主体性を立ち上げる時世となっている。消費者は、お金と引き換えにその商品の評価を好きにできる。その商品の背景や専門的な知識を知らなくても、自らの感覚、印象で好きなことを言える。(そこに幼児性や性格の悪さが加わればクレーマになる。)
結果、何かを評価するということは印象評価になる。印象評価をそれらしくデコレートすれば意見らしくなる。「電力不足に陥る可能性がある。そうなると日本の経済も成り立たなくなるので原発は推進すべきだ」と。しかしそれは、「原発」という言葉から知っている情報を連想して、感覚的な発言をしているに過ぎない。
ある言葉を聞いたときに、それについて知っていることを無意識的に探す。そしてなんとなく理解したつもりになる。誰もがそうするだろうし、それでよいことも多い。しかし場合によっては、何となく理解した上で、それについて自分が何を知らないのか、と問うことも必要だろう。とくに自分たちの生活に長いあいだ影響を及ぼすようなことについてはそうだ。
意見を述べたり、評価をする時もそうである。それを評価するために、自分は何を知らねばならないのか。そういう「問い」が心に浮かぶような人間を育てることこそ、まずもって学校がやらねばならないのではないか。(でもそれでは、従順やイエスマンは作れなくなる)。
マスコミが世論調査でまずやるべきことは、原発推進の賛否を問うことではない。賛否を述べられるために必要な情報を持っているか否かを問うべきなのだ。さらに原発について賛否を述べるためには、これと、これと、これと、これの観点があり、それぞれについてはこういう状況だと解説する。その上で、では、あなたは賛成しますか、反対ですか、と尋ねるべきなのだ。
「原発」という言葉を聞いたときに、「原発」という言葉は共有できる。しかしそこから連想される、映像、感情、考えは人それぞれ違う。その状態で「原発推進の賛否」を問い、それを数値で表し、国民の意見を云々することは、あまり丁寧な作業とは思えない。
原発絡みの本を読んできて、少しずつ知識が増えている。もう少したったら自分なりに「原発」について整理したいと思う。ちなみに「電力不足説」はけっこう疑わしい。それと賛否を述べるためには、核廃棄物処理についての現状理解くらいは必要だと思う。
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