昨日、久しぶりに軽くジョギングをした。2週間ぶりだ。自宅から荒川の土手に行き、そこで折り返して帰ってくる。ヒザの調子を試すための5kmほどの軽いジョギング。うちの奥さんと話しながら2人で走った。走り出すと、体が喜んでいるのがわかる。体がスピードを出そうとするのを頭で押さえ込む。
土手の手前では風速15メートルの表示。強い北風が吹いている。気温は低い。それでも季節が変わったのか、真冬の刺すような冷たさはない。太陽の力が少しずつ強くなっているのだろう。あっという間に走り終わる。物足りないくらいの距離だ。ただヒザには少しだけ痛みがある。ケガを治しながら、板橋市民マラソンに向けて走り込む。今回の目標はタイムとは違うところにありそうだ。
さて、『関西電力反原発町長暗殺指令』(齊藤真著、宝島社)という本を図書館で借りて読んだ。事故以来、原発絡みの本を読むようにしている。このもともと福島での原発事故とは別の流れで書かれたものだ。週刊現代に数年前に掲載された記事が、タイミング良く本になったというわけだ。
話しとしては簡単だ。関西電力が福井県の高浜町で原発事業(とくにプルサーマル)を推進しようとする。ところが町長はことごとく関電の方針と衝突する。現地には高浜の天皇と言われる関電社員の「K」という人物がいる。関電の方針を実現するためのキーパーソンだ。
関電(というかK)は、プルサーマル実施のためには施設の厳重な警備が必要だと考える。そして犬を使った警備を考える。どう猛な大型犬だ。Kの指示で現地に警備会社が作られる。(この本の中で実名で暗殺計画を暴露している矢竹と加藤という人物が中心になる)。そして犬を使った警備が始まる。Kは警備会社の事業展開をちらつかせ、2人を手足のように使う。
町長との対立が深まり、Kの思い通りにものごとが進まなくなる。そこでKは犬を使って町長を暗殺するという計画を立て、矢竹に実行を迫る。結局、暗殺計画は実行されず、プルサーマル計画も流れる。Kも現地を離れる。それによって警備会社の事業展開の話もなくなる。この仕事に人生を賭けていた2人は裏切られた思いで告発を考える。そして筆者に話しを持ってくる。
筆者は取材を重ね、週刊現代に発表する。しかし記事はほとんど黙殺される。マスコミも騒がず、関電からの抗議もなく、社会的な話題にもならない。唯一の反応といえば、矢竹と加藤という人物が未払いになっている犬の購入代金を取り立てに行った件が「恐喝容疑」となり、有罪判決を受ける。(なんとKに訴えられたのだ)。
正直、いまひとつ引っかかってこない本だった。話しに信憑性がないということではない。原発の利権を考えれば、殺人事件があってもおかしくはない。(岐阜県御嵩町では、96年に産廃処理場建設を巡って反対派の町長が襲われている)。おそらく「原発に反対する町長を犬によって暗殺する」という事件性に引っ張られすぎているのだろう。そこに関わる人たち(関電、K、高浜町民、町長、矢竹、加藤、そして取材してしまう筆者)のさまざまな事情のようなものが見えてこないのだ。
週刊誌の段階で大手マスコミが無視するというのは理解できる。関電も足並みを揃えて記事を黙殺するのもわかる。しかし週刊誌に報道されたのに話題にならないということは、一般の読者に今ひとつ届かなかったからだろう。福島の事故がなければ僕もこの本を手にすることはなかっただろうし、実際に読んでみても自分とはあまり関係があるように感じられない。
書いていてわかってきた。結局のところ社会的な意味では何ひとつ事件は起こっていないのだ。(皮肉なことに恐喝容疑だけが社会的な事件である)。関電が高浜町でプルサーマルを実施しようといろいろ現地対策を行なった。そのなかには怪しいものもあるかもしれない。でも、それ自体は別に事件ではない。町長が原発に反対するということもあるだろう。警備事業を巡っての不当な下請け切りもひどい話しだが原発に特有の問題ではない。そして何より、犬を使った暗殺というのは未遂であれ、実際に行われていない。
暗殺事件が起こっていれば、これらの話も一連の事件として読者に届いたかもしれない。しかし実際には事件は起こっていない。関電(というかK)との業務の契約や約束について不満を抱く2人の男がいろいろな話しをしているにすぎない。そう受け取られてしまう可能性がある。事件が起こらなかったからこそ、そういう事件が起こってもおかしくないという事情が描かれなければならない。
この本で僕がなるほどと思ったことがある。それは原発事業に関わっている人たちがそれを「誇り」と感じている部分があるということだ。実名で告白した2人も、原発の警備をやっているということを、子どもにも誇れる仕事だと胸を張っている。おそらく日本のエネルギーを支えているという気持ちなのだろう。
ほんとうは原発など嫌なのだが、ほかに産業もない。そんな地域が、原発にからむ雇用や電源三法交付金を念頭に誘致していると思っていた。中央が厄介なものを金で押し付けている、そういう図式で捉えていた。しかし、日本のために必要な原発を、ある程度のリスクも込みで引き受ける。それは誇りのある仕事だ。そんな風に思っている人たちが多くいても不思議ではない。(そもそも、原発はクリーンで安全なエネルギーということになっているのだから)。
考えてみると、そのあたりがよく分からない。原発に関して報道などで入ってくるのは推進派か反対派の声ばかりだ。多くの人たちは積極的に推進や反対を唱えたりはしないだろう。そこにある原発、あるいは原発誘致を、生活のための1つの条件として見ているのではないか。(あるいは見ていたのではないか)。
そう考えると、「原発を廃止すると電気代が上がる。産業界にも家計にも響く。だから云々……」というのは、中央の身勝手な言い分ということになる。原発で生活が成り立っている人たちがすでにいるかもしれない。(原発がなければ生活が成り立たない人かもしれない)。その人たちは、危険だが日本のためを思って原発を引き受け、その仕事に誇りを持ち、日々、額に汗して働いているかもしれない。
個人的には原発は反対である。だが原発で生活している人たちもたくさんいるだろう。そういうことを想像せずに反対を言ってみても「暗殺計画」のように何だか引っ掛かりの感じられない話しに聞こえてしまうだろう。この本を読んで、そんなことを考えることになった。
土手の手前では風速15メートルの表示。強い北風が吹いている。気温は低い。それでも季節が変わったのか、真冬の刺すような冷たさはない。太陽の力が少しずつ強くなっているのだろう。あっという間に走り終わる。物足りないくらいの距離だ。ただヒザには少しだけ痛みがある。ケガを治しながら、板橋市民マラソンに向けて走り込む。今回の目標はタイムとは違うところにありそうだ。
さて、『関西電力反原発町長暗殺指令』(齊藤真著、宝島社)という本を図書館で借りて読んだ。事故以来、原発絡みの本を読むようにしている。このもともと福島での原発事故とは別の流れで書かれたものだ。週刊現代に数年前に掲載された記事が、タイミング良く本になったというわけだ。
話しとしては簡単だ。関西電力が福井県の高浜町で原発事業(とくにプルサーマル)を推進しようとする。ところが町長はことごとく関電の方針と衝突する。現地には高浜の天皇と言われる関電社員の「K」という人物がいる。関電の方針を実現するためのキーパーソンだ。
関電(というかK)は、プルサーマル実施のためには施設の厳重な警備が必要だと考える。そして犬を使った警備を考える。どう猛な大型犬だ。Kの指示で現地に警備会社が作られる。(この本の中で実名で暗殺計画を暴露している矢竹と加藤という人物が中心になる)。そして犬を使った警備が始まる。Kは警備会社の事業展開をちらつかせ、2人を手足のように使う。
町長との対立が深まり、Kの思い通りにものごとが進まなくなる。そこでKは犬を使って町長を暗殺するという計画を立て、矢竹に実行を迫る。結局、暗殺計画は実行されず、プルサーマル計画も流れる。Kも現地を離れる。それによって警備会社の事業展開の話もなくなる。この仕事に人生を賭けていた2人は裏切られた思いで告発を考える。そして筆者に話しを持ってくる。
筆者は取材を重ね、週刊現代に発表する。しかし記事はほとんど黙殺される。マスコミも騒がず、関電からの抗議もなく、社会的な話題にもならない。唯一の反応といえば、矢竹と加藤という人物が未払いになっている犬の購入代金を取り立てに行った件が「恐喝容疑」となり、有罪判決を受ける。(なんとKに訴えられたのだ)。
正直、いまひとつ引っかかってこない本だった。話しに信憑性がないということではない。原発の利権を考えれば、殺人事件があってもおかしくはない。(岐阜県御嵩町では、96年に産廃処理場建設を巡って反対派の町長が襲われている)。おそらく「原発に反対する町長を犬によって暗殺する」という事件性に引っ張られすぎているのだろう。そこに関わる人たち(関電、K、高浜町民、町長、矢竹、加藤、そして取材してしまう筆者)のさまざまな事情のようなものが見えてこないのだ。
週刊誌の段階で大手マスコミが無視するというのは理解できる。関電も足並みを揃えて記事を黙殺するのもわかる。しかし週刊誌に報道されたのに話題にならないということは、一般の読者に今ひとつ届かなかったからだろう。福島の事故がなければ僕もこの本を手にすることはなかっただろうし、実際に読んでみても自分とはあまり関係があるように感じられない。
書いていてわかってきた。結局のところ社会的な意味では何ひとつ事件は起こっていないのだ。(皮肉なことに恐喝容疑だけが社会的な事件である)。関電が高浜町でプルサーマルを実施しようといろいろ現地対策を行なった。そのなかには怪しいものもあるかもしれない。でも、それ自体は別に事件ではない。町長が原発に反対するということもあるだろう。警備事業を巡っての不当な下請け切りもひどい話しだが原発に特有の問題ではない。そして何より、犬を使った暗殺というのは未遂であれ、実際に行われていない。
暗殺事件が起こっていれば、これらの話も一連の事件として読者に届いたかもしれない。しかし実際には事件は起こっていない。関電(というかK)との業務の契約や約束について不満を抱く2人の男がいろいろな話しをしているにすぎない。そう受け取られてしまう可能性がある。事件が起こらなかったからこそ、そういう事件が起こってもおかしくないという事情が描かれなければならない。
この本で僕がなるほどと思ったことがある。それは原発事業に関わっている人たちがそれを「誇り」と感じている部分があるということだ。実名で告白した2人も、原発の警備をやっているということを、子どもにも誇れる仕事だと胸を張っている。おそらく日本のエネルギーを支えているという気持ちなのだろう。
ほんとうは原発など嫌なのだが、ほかに産業もない。そんな地域が、原発にからむ雇用や電源三法交付金を念頭に誘致していると思っていた。中央が厄介なものを金で押し付けている、そういう図式で捉えていた。しかし、日本のために必要な原発を、ある程度のリスクも込みで引き受ける。それは誇りのある仕事だ。そんな風に思っている人たちが多くいても不思議ではない。(そもそも、原発はクリーンで安全なエネルギーということになっているのだから)。
考えてみると、そのあたりがよく分からない。原発に関して報道などで入ってくるのは推進派か反対派の声ばかりだ。多くの人たちは積極的に推進や反対を唱えたりはしないだろう。そこにある原発、あるいは原発誘致を、生活のための1つの条件として見ているのではないか。(あるいは見ていたのではないか)。
そう考えると、「原発を廃止すると電気代が上がる。産業界にも家計にも響く。だから云々……」というのは、中央の身勝手な言い分ということになる。原発で生活が成り立っている人たちがすでにいるかもしれない。(原発がなければ生活が成り立たない人かもしれない)。その人たちは、危険だが日本のためを思って原発を引き受け、その仕事に誇りを持ち、日々、額に汗して働いているかもしれない。
個人的には原発は反対である。だが原発で生活している人たちもたくさんいるだろう。そういうことを想像せずに反対を言ってみても「暗殺計画」のように何だか引っ掛かりの感じられない話しに聞こえてしまうだろう。この本を読んで、そんなことを考えることになった。
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