今日はいつもより少し早起きをし、家の中をほうきで掃除した。それから土手までジョギングに行った。土手の水たまりのような小さな池は、一部分、表面に氷が張っている。東から南に昇る太陽が少しずつその氷をとかすのが、きらめきぐあいで遠くからもわかる。
土手の上を高校生たちが自転車で学校に向かう。寒そうな制服姿で、身を縮めるようにして、自転車を漕いでいる。学校への登下校の3年間、春夏秋冬、自転車で土手を走る。そういう時間は積み重なっていく。いつか、いい思い出として、思い出されるかもしれないし、しないかもしれない。そんなことを考えながらゆるくジョギングをする。
話は変わる。このあいだ「自然との共生」という言葉を思い浮かべた。環境に優しくとか、地球に優しくなどの言葉はよく見聞きする。商品などでも「エコ」を掲げているものが多い。しかしちょっと考えてみればわかるが、「優しく」という言葉には人間の環境や地球にたいする優位性が現れている。
環境や地球を「自然」という言葉でとひと括りにしてみる。しかし自然には地震も津波もある。それらは、人間が優位にたった気分で「優しく」できる相手ではない。私たちは、その力を「畏れ」、サイクルをうまく合わねばならない相手なのかもしれない。
「自然と共に」というようなことを言うときに、人間を中心にした空間的な広がりだけを前提としている気がする。人口が集中する都会がある。その周りに郊外がある。さらに農村があり、人の住まない山野峡谷がある。人間はこれまで自然を開発し、都市を空間的に押し広げようとしてきた。あまりやり過ぎると自然という空間が減り、バランスが崩れる。だから、空間としての自然の領域を守るために、「共生」などを言うようになった。
そう考えると「優しく」という表現が出てくるのもわかる。しかし私たちが本当の意味で「自然と共に」ということを考えるなら、空間的な自然との共生のみでなく、時間的なサイクルの共有も必要になる。私たち人類は、何万年という単位で自然のサイクルに合わせて生きてきた。一年を通して、一日においてもそうであったろう。季節の変化、一日の太陽の巡り、それらに合わせて生活したいたはずだ。
それが大きく変わったのは電気が発明されてからだろう。エジソンが最初の発電所を造ったのはわずか130年前だ。電気のおかげで夜が明るくなり、多くの人たちが眠らなくてもいられるようになった。暑い夏にどうつき合い、寒い冬をどうやり過ごすのかでなく、夏には涼しすぎるくらいの冷房、冬には暖かすぎるくらいの暖房を使うようになった。それでいて日本には四季があっていいね、などと言っている。
そろそろ自然を空間的に捉えるのではなく、時間的なサイクルとして捉えて、それと歩調を合わせることを思い出した方がよい。可能であれば、朝起きて夜眠るようにしたほうがよい。不規則に夜勤などをしている人は、心臓病やうつ病になる可能性が高いとどこかで読んだ気がする。夏に汗を流しながらスーツを着るのも、自然のサイクルに逆らっている。
もっと大きな視野でみれば、地震のサイクルもある。今回の震災は未曾有だと言われた。故に福島原発の事故も想定範囲外とされた。しかし自然のサイクルという視点から見れば、それは違って見えたはずだ。実際、そのような過去の記録は存在したし、研究も行なわれていた。自然を時間的なサイクルとして見ようとしないから、それらを無視できたのだ。
前回に続く、受け売りの2つ目。『ザ・スクープスペシャル』の録画をみた。古文書と地震考古学で日本の過去の地震や津波などを検証し、今後にいかすという内容だった。番組を見てわかったのは、古文書をひも解けば、東北以外にも地震や津波の記述がけっこうあるということだ。問題は、それをどういう姿勢で読むかだ。(だいぶ前の新聞で、火山の危険性を感じた原発推進派の人が火山学者のところに行き「火山が原発に影響しない結果が出る計算方法を教えてください」と言った、という記事を読んだ)。また地層から過去の津波を調べる地震考古学の研究からも、東北などでは6000年に6回は巨大津波があったことがわかっている。ここにも自然のサイクルがきちんとあるのだ。(記憶をたよりに書いているので多少まちがっているかもしれないが、他にもいくつか具体的なことを書いておく。)
1つめ。巨大地震と火山噴火の連動について。今世紀(だった気がする)、マグニチュード9クラスの地震が起こったとき、数年以内に火山の噴火を伴わなかったケースはない。(古い地震はマグニチュードを計測できないから記録がないのだろうと想像する)。当然、今回の地震でも火山噴火の連動が予想される。そしていま、可能性が一番高い山は富士山である。富士山が騒がれているのは知っていたが、他のケースを出されると信憑が高くなる。ちなみに富士山が噴火して、溶岩が河口湖方面に流れると、河口湖は埋まるそうだ。
2つめ。今回の震災以後、貞観津波が話題になった。これは貞観の地震(869年)の津波である。9世紀後半、平安時代である。どうもいまの日本の状況はこの時期と似ているらしい。例えば、陸地で直下型のマグニチュード7クラスの地震が頻発し、そのあとマグニチュード9クラスの地震が起こった。これは貞観の時と今回では重なるらしい。
ところが話しはそれで終わらない。貞観のほぼ10年後、関東地方では直下型の巨大地震が起こった。さらに、そのほぼ10年後、南海連動方の超巨大地震が起こっているのだ。つまり、自然のサイクルでみれば、今回の東北を皮切りに、関東地方での巨大地震、南海での超巨大地震が10年単位で続いてもおかしくないのだ。そう考えると、95年の阪神淡路大震災は、その後の超巨大地震の前触れの直下型地震に過ぎないことになる。さらにそれだけ地震が続けば、火山活動も活発になるかもしれない。日本はもう大変である。
悲観的になったわけでもないし、人の不安を煽るつもりもない。ただ久しぶりに、う~ん、と唸るような感じになった。ちっぽけなことを言えば、こんな時期に家を建てローンを抱え込んだのは間違いじゃないかということがある。まあそれはよい。それよりも強く感じたのは、日本列島というのはそういうサイクルを抱えた場所なんだ、という事実の重たさだ。それが人々に与える影響はとても大きいんじゃないだろうか。
縄文時代からこの列島に住む人たちは、そういうサイクルとつき合いながら生きてきた。そして長い時間をかけて、それに合った自然観や精神性を培ってきたことだろう。一世代、個人が意識的に身につけるのではなく、何世代にもわたって集合的に身に付けてきたのだろう。そしてそれは日本人(列島に住む人たち)らしさとでも言えるものかもしれない。でも具体的には何を身に付けてきたのだろうか。よくわからない。そしていま何を失いつつあるのか。それもよく分からない。大きな問いにぶつかった気がする。
土手の上を高校生たちが自転車で学校に向かう。寒そうな制服姿で、身を縮めるようにして、自転車を漕いでいる。学校への登下校の3年間、春夏秋冬、自転車で土手を走る。そういう時間は積み重なっていく。いつか、いい思い出として、思い出されるかもしれないし、しないかもしれない。そんなことを考えながらゆるくジョギングをする。
話は変わる。このあいだ「自然との共生」という言葉を思い浮かべた。環境に優しくとか、地球に優しくなどの言葉はよく見聞きする。商品などでも「エコ」を掲げているものが多い。しかしちょっと考えてみればわかるが、「優しく」という言葉には人間の環境や地球にたいする優位性が現れている。
環境や地球を「自然」という言葉でとひと括りにしてみる。しかし自然には地震も津波もある。それらは、人間が優位にたった気分で「優しく」できる相手ではない。私たちは、その力を「畏れ」、サイクルをうまく合わねばならない相手なのかもしれない。
「自然と共に」というようなことを言うときに、人間を中心にした空間的な広がりだけを前提としている気がする。人口が集中する都会がある。その周りに郊外がある。さらに農村があり、人の住まない山野峡谷がある。人間はこれまで自然を開発し、都市を空間的に押し広げようとしてきた。あまりやり過ぎると自然という空間が減り、バランスが崩れる。だから、空間としての自然の領域を守るために、「共生」などを言うようになった。
そう考えると「優しく」という表現が出てくるのもわかる。しかし私たちが本当の意味で「自然と共に」ということを考えるなら、空間的な自然との共生のみでなく、時間的なサイクルの共有も必要になる。私たち人類は、何万年という単位で自然のサイクルに合わせて生きてきた。一年を通して、一日においてもそうであったろう。季節の変化、一日の太陽の巡り、それらに合わせて生活したいたはずだ。
それが大きく変わったのは電気が発明されてからだろう。エジソンが最初の発電所を造ったのはわずか130年前だ。電気のおかげで夜が明るくなり、多くの人たちが眠らなくてもいられるようになった。暑い夏にどうつき合い、寒い冬をどうやり過ごすのかでなく、夏には涼しすぎるくらいの冷房、冬には暖かすぎるくらいの暖房を使うようになった。それでいて日本には四季があっていいね、などと言っている。
そろそろ自然を空間的に捉えるのではなく、時間的なサイクルとして捉えて、それと歩調を合わせることを思い出した方がよい。可能であれば、朝起きて夜眠るようにしたほうがよい。不規則に夜勤などをしている人は、心臓病やうつ病になる可能性が高いとどこかで読んだ気がする。夏に汗を流しながらスーツを着るのも、自然のサイクルに逆らっている。
もっと大きな視野でみれば、地震のサイクルもある。今回の震災は未曾有だと言われた。故に福島原発の事故も想定範囲外とされた。しかし自然のサイクルという視点から見れば、それは違って見えたはずだ。実際、そのような過去の記録は存在したし、研究も行なわれていた。自然を時間的なサイクルとして見ようとしないから、それらを無視できたのだ。
前回に続く、受け売りの2つ目。『ザ・スクープスペシャル』の録画をみた。古文書と地震考古学で日本の過去の地震や津波などを検証し、今後にいかすという内容だった。番組を見てわかったのは、古文書をひも解けば、東北以外にも地震や津波の記述がけっこうあるということだ。問題は、それをどういう姿勢で読むかだ。(だいぶ前の新聞で、火山の危険性を感じた原発推進派の人が火山学者のところに行き「火山が原発に影響しない結果が出る計算方法を教えてください」と言った、という記事を読んだ)。また地層から過去の津波を調べる地震考古学の研究からも、東北などでは6000年に6回は巨大津波があったことがわかっている。ここにも自然のサイクルがきちんとあるのだ。(記憶をたよりに書いているので多少まちがっているかもしれないが、他にもいくつか具体的なことを書いておく。)
1つめ。巨大地震と火山噴火の連動について。今世紀(だった気がする)、マグニチュード9クラスの地震が起こったとき、数年以内に火山の噴火を伴わなかったケースはない。(古い地震はマグニチュードを計測できないから記録がないのだろうと想像する)。当然、今回の地震でも火山噴火の連動が予想される。そしていま、可能性が一番高い山は富士山である。富士山が騒がれているのは知っていたが、他のケースを出されると信憑が高くなる。ちなみに富士山が噴火して、溶岩が河口湖方面に流れると、河口湖は埋まるそうだ。
2つめ。今回の震災以後、貞観津波が話題になった。これは貞観の地震(869年)の津波である。9世紀後半、平安時代である。どうもいまの日本の状況はこの時期と似ているらしい。例えば、陸地で直下型のマグニチュード7クラスの地震が頻発し、そのあとマグニチュード9クラスの地震が起こった。これは貞観の時と今回では重なるらしい。
ところが話しはそれで終わらない。貞観のほぼ10年後、関東地方では直下型の巨大地震が起こった。さらに、そのほぼ10年後、南海連動方の超巨大地震が起こっているのだ。つまり、自然のサイクルでみれば、今回の東北を皮切りに、関東地方での巨大地震、南海での超巨大地震が10年単位で続いてもおかしくないのだ。そう考えると、95年の阪神淡路大震災は、その後の超巨大地震の前触れの直下型地震に過ぎないことになる。さらにそれだけ地震が続けば、火山活動も活発になるかもしれない。日本はもう大変である。
悲観的になったわけでもないし、人の不安を煽るつもりもない。ただ久しぶりに、う~ん、と唸るような感じになった。ちっぽけなことを言えば、こんな時期に家を建てローンを抱え込んだのは間違いじゃないかということがある。まあそれはよい。それよりも強く感じたのは、日本列島というのはそういうサイクルを抱えた場所なんだ、という事実の重たさだ。それが人々に与える影響はとても大きいんじゃないだろうか。
縄文時代からこの列島に住む人たちは、そういうサイクルとつき合いながら生きてきた。そして長い時間をかけて、それに合った自然観や精神性を培ってきたことだろう。一世代、個人が意識的に身につけるのではなく、何世代にもわたって集合的に身に付けてきたのだろう。そしてそれは日本人(列島に住む人たち)らしさとでも言えるものかもしれない。でも具体的には何を身に付けてきたのだろうか。よくわからない。そしていま何を失いつつあるのか。それもよく分からない。大きな問いにぶつかった気がする。